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2012年4月13日 (金)

狩猟民族は消費者か

特に裏付けなどはない単なる思いつきですが、ふとこんな事を考えました。

狩猟民族は本質的に生きるために自然の恵みを採取する者、すなわち消費者である
農耕民族は本質的に生きるために自然から恵みを生み出す者、すなわち生産者である

消費者は、消費こそが社会を動かすものだという価値観で生きている
生産者は、生産こそが社会を支えるものだという価値観で生きている

消費者主導の社会では、生産は消費者の都合にあわせて行われ、相対的に生産物の価値が低い
例えばそういった姿勢は、不良品の位置づけや返品の扱い、クレームへの対応に表れる
不良品があっても、交換できるのであれば消費の価値は変わらないので消費者は気にしない

生産者主導の社会では、消費は生産者の思惑にあわせて行われ、相対的に生産物の価値が高い
例えばそういった姿勢は、不良品の位置づけや返品の扱い、クレームへの対応に表れる
生産者は生産の価値を損ねるものとして不良品の発生を嫌い、クレームは発生させないようにするものと考える

これらは、実際には明確に白黒つけて分けて考えられるものではなく、様々に混じっているものでしょう。特に「狩猟」「農耕」なんて、単なるレッテルにすぎません。

ただ、ここで問題にしたいのは、本当の意味での「消費者主導」とはどういうものなのかです。
白黒をつけるのは難しいかもしれませんが、あえて言うならどちら寄りか、という事になるでしょうか。

消費者主導であるなら、バイコットボイコットは生産者に消費者の意図を伝えるための自然なやり方です。消費者にとっては、権利どころか義務や責任に位置付けられているかもしれません。
そうやって、消費という選択で社会を作っていくのが消費者の役割だからです。

一方生産者主導の場合はどうでしょうか。注意が必要なのは、生産者主導の社会というのは、消費者も「生産者がやる事だと考えている」社会である事です。そうやって、消費者の意図を汲み取った生産により社会を作っていくのが生産者の役割です。

同じように見えながら両者が違うのは、責任主体がどちらにあるかと考えるかです。

消費者が責任主体であると考える場合、その要望が社会のバランスを崩した場合の責任も消費者にある事になり、無責任で自分本位な要求はできなくなります。一方で生産者はあまり自らの責任は考えずに、要望のままに生産を行うかもしれません。その責任は消費者にあるからです。

生産者が責任主体であると考える場合は逆の構図になります。消費者は無責任に好きな要望を発し、生産者がその責任において取捨選択をするという形です。

まとまらなくなってしまいましたが、何となく感覚としては、欧米における消費者と、日本における消費者って、実は微妙に違うんじゃないかという気がするのです。

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