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2006年1月31日 (火)

安全と安心

米国産牛肉が再び輸入禁止になったと思ったら、あっさり解除されていたらしい。
ところがそれが大臣の判断により、閣議で決定された米国の処理設備の査察を行わずに再開されていたために昨日の委員会で問題になったと今朝のニュースでやっていた。
(と文章にしようとするとなんだかややこしいが・・・。)

そんな中、めざましテレビで「安全」と「安心」の関係について次のようなフリップで説明がされていた。

安全+信頼=安心

米国産牛肉でいうと、安全というのは「きちんと処理をすれば大丈夫という根拠」、信頼というのは「きちんと処理されているかどうかの確認」ということになるだろうか。その両者が足し合わされて安心につながるというものだ。(ちらっと見ただけなので掛け算かもしれない。その方が一方がゼロであれば一気に崩れ去るので理屈にはあう。)

しかし理屈はそうかもしれないが、そんな数式通りであれば苦労はしない、という気もする。
安全と安心はセットで語られることが多いが、実は両者には明確な因果関係はなく、安全をいくら積み重ねても安心は別次元のものとして存在するのではないか、とも思うのだ。

明確には安全ではなくても、なんとなく安心を感じてしまうというケースはないだろうか。
安全が客観的なもので、安心が主観的なものだとすれば、安全が安心を担保することはあっても、安心が安全を担保することは本来はないはずなのだが、安心は心の問題なのでそういったことが起こりうるのだ。

安心をどう提供するか・・・そもそも「提供する」ようなものではないかもしれないが、どうすれば安心と感じてもらえるかというのは、常に追いかけなければいけない大きなテーマなのだと思う。
現状できることは、ひたすら安全を積み重ねてそれに理解を求めるか、飾り立ててイメージとしての安心を抱いてもらうかの二択しかない。第三の解があれば良いのだが・・・。

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2006年1月30日 (月)

ブログのアクセスコントロール

イントラブログに限らないが、企業内の情報管理につきものなのが「機密情報へのアクセス管理」である。
ただ、通常の情報システムと違って、ブログの場合どこまでコントロールできるようにするか、というのは難しい。

ちなみに自分自身の意見はフルオープンである。少なくとも、ブログそのものにアクセスコントロールは行うべきではないと思う。

仮に権限管理を行うと考えると、おおよそ次のパターンが考えられるだろう。

1.投稿者が設定する
2.全社的なルールに基づき設定される

しかし、実は本質的に両者は変わらない。どちらにしても「投稿者の判断」で投稿されることに変わりはないからだ。

以前、読み手の感性で書いたが、ブログには書き手が考えもしない読み手の感性を引き出せる効果がある。それを活かそうと考えるのであれば、書き手の判断で読み手を制限するほど無意味なことはない。そして、そういった効果を期待しないのであれば、ブログというシステムを使う必要はなく、単なる掲示板や通達で十分だ。

もっとも、簡単ではないのは、その場合「書くか書かないか」の段階で投稿者による判断が入ってしまうことだ。
個人的にはブログは機密情報を記載するのにはそもそも向いていないと思うが、どこまで書くかという線引きは結局投稿者にあることになる。

その壁を乗り越えるような仕組みがあれば、企業内の情報流通のあり方が一変するかもしれない。

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2006年1月29日 (日)

モチベーションとシステム

※土日は内容を考える余裕がないので、気が向いたらこれまで社外には公開していない昔の「つぶやき」を転載していこうと思います。なお、書かれている内容は当時のもので、今は状況が変わってしまっている場合もあります。

2003/9/26のつぶやき
モチベーションとシステム

モチベーションをキーワードの一つとしてあげているKMの人間が口にするのもなんだが、昨今マネジメント手法でも良く叫ばれるこの「モチベーション」。
追求するのは、本当に必要なことなのだろうか。

などということを先日ふと考えた。

もちろんやる気は大切だ。自分が仕事をしていく上で、自分の仕事に対してなんらかのモチベーションを持ちたいと自分でも思っている。
ただし、これはあくまで自分が自分に対して抱くものだ。

疑問を感じているのはそれではなく、マネジメントがマネジメントとしてモチベーションを取り上げる考え方である。「部下のやる気はこうして引き出せ」といった見出しが雑誌に並ぶのを見ると、本当にマネジメントはそれで良いのか、という気がしなくもない。

「やる気」と「業績」には、実は明確な相関関係はない。やる気が高くても空回りしてしまうことはあるし、やる気がなくても高い業績をあげることはあるだろう。
要するにモチベーションというのは、業績とは無関係でないにしても、それを支配するほどのものではないのだ。

そんな不確かなものを向上させることがマネジメントといえるのだろうか。
厳しいことをいえばそういうことだ。モチベーションをあげたところで、それが業績につながるかは分からない。業績があがったとしても、両者の相関関係を証明できるかといえば、これも難しいのではないか。

マネジメントがマネジメントとして考えなくてはいけないのは、そういった個人のやる気や能力に関係なく業績をあげることができるシステム(仕組み)を作り上げることではないだろうか。正直な話、モチベーションというキーワードをマネジメントが口にするのは、そういったシステムを構築できないことの裏返し、もっと厳しいことをいえば口実のような気がするのだ。

携わる人間の能力や精神状態に左右されない仕事を構築することが、マネジメントの責任のような気がしなくもない。その上で、その仕事に対して自らモチベーションを高めることで、その想定を上回る業績を上げることが、部下に求められていることなのではないか。

その関係が逆転していないだろうか?
マネジメントはモチベーションを叫び、部下はシステムを追求するような・・・。

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2006年1月27日 (金)

筋肉と神経(とイントラブログ)

筋肉は使えば筋繊維が太くなり、力が強くなる。コミュニケーションも同様で、やりとりを繰り返すほど関係が強くなる。これはまぁ想像できることだし、誰しも意識しているだろう。

一方、体の柔軟性というのは筋肉の柔らかさといったものではなく、神経繊維の数で決まるそうだ。筋に接続されている神経が多いほど、伸縮の微調整が可能になり体は柔らかくなる。使わないでいると減ってしまい、微調整ができなくなって体は硬くなる。

こちらのコミュニケーションはどうだろうか。相手との関係の強さではなく、柔軟性を意識したコミュニケーションというのは、実はあまり意識されていない気がする。この場合必要なのは、相手とのチャネルを増やすということだ。具体的には様々な話題において接点を持つということである。

正直なところ、自分は普段ほとんどこういったことは意識していない。むしろ必要以上の接点は持たず、チャネルを絞り込んでしまう方だろう。
これは個人的な性格にもよるもので、ある程度は意識できるにしても根はそうそう変わらない。

そこでイントラブログに仕事以外の雑多な話題を盛り込むというのは、そういった意味もあるのではないだろうか。双方向とは言い難いが、書き手の雑多なエントリが読み手に伝わっていくというのは、それだけコミュニケーションにおける柔軟性が増すという効果があるかもしれない。

自分のパーソナリティの範囲内で(あまりかけ離れたペルソナは問題がある)、意識的に雑多なエントリをするというのも、実は隠れた効果があるような気がする。

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2006年1月26日 (木)

情報共有の目的

先日「なぜ情報共有が必要なのか」ということをふと思い立ち、迷宮に入り込んでしまった。
もっとも、ナレッジマネジメントを推進していた頃に何度も突き当たった壁でもある。

イントラブログとか、グループウェアとか、「情報共有」をうたえるツールは多いと思うのだが、実際の所そういったプラットフォームでわざわざ共有したい「情報」というのはどういうものなのか。情報を共有することでどんなメリットが生まれるのか。それがはっきりと落ちていない。

もちろん情報共有は単なる手段であり、課題はその先にある。しかし、課題解決のための情報は、自分が欲しいものであって、「共有」してどうこうというものではない。

なんというか「共有」というのがうさんくさいのだ。
自分が抱えている課題を解決するために、今自分が知らない情報が欲しい、というのは共有とは言わないのではないか。まして、一人ひとりが必要とする情報は大抵の場合異なる。そうやって考えると情報共有とは一体何なのか。

課題や問題意識、目的の共有、というのなら分かる。それぞれが行動のベクトルをあわせるためのものだからだ。しかし、同じ情報を共有することがどういう状態を生み出すのか、それがよく分からない。

同じベクトルを持っていても、持っている情報が微妙に違うからシナジー効果を生み出せるのではないか。

もちろん最低限の知識としての各人の情報量は一定である必要があるかもしれない。しかし、それはインフラを整えて大騒ぎしてやるようなことだろうか。新しい仕組みの導入までする必要のあるようなことだろうか。

実は「情報を共有したい」というのは、すでに何となく共有されているものを言葉にすることで安心したい、という程度のものではないだろうか。

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2006年1月25日 (水)

おもいやりゾーン

通勤に使っている京王線の車内で「おもいやりぞーん」という案内を見かけた。「優先席」を拡大したものなのだそうだ。

「優先席」という考え方は個人的には「禁煙」と同じで少し違和感がある。

「禁煙」で考えてみよう。最近は増えてきたが、個人的には禁煙場所を設置してその場所を禁煙とするのではなく、喫煙所を設置して「それ以外の」禁煙を当たり前にする方が良いと考えている。

変な話だが、喫煙者と嫌煙者がそれぞれ自分達に都合の良いようにしていこうと考えるのであれば、喫煙者は禁煙場所を、嫌煙者は喫煙所の設置を推進した方が良いのだ。「それ以外」が自分たちの領域になるからである。

「優先席」も同じような考え方はできないだろうか。

優先席があるから、それ以外は優先しなくなってしまうのだ。むしろ「早い者勝ち席~他人に席を譲る必要はありません」という趣旨のスペースを設置した方が良い。その方が、それ以外で席を譲らないことで確実に居心地が悪くなるからだ。

もしかしたら携帯電話も「禁止」「ご遠慮ください」よりも「解禁」のスペースを用意した方が良いのかもしれない。今の車内は原則的に使えないが、どんな場所でも使えるという携帯電話の性格を考えれば、少々理不尽ではある。だから「まぁいいんじゃないか」となし崩し的に使ってしまう。

むしろ積極的に使える場所を用意することで、そこでは心おきなく使えるようにした方が良い。通話もメールもOKにしてしまうのだ。
利用人口を考えるとあまり小さいスペースという訳にはいかないが、例えば奇数車両、偶数車両で分けるといった感じで乗るときに選べるようにすれば良いのではないだろうか。

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2006年1月24日 (火)

イントラブログの著作権

ちょーちょーちょーいい感じブログに著作権ってあるのかしら?というエントリがあり、ちょっと考えてしまった。

インターネットに開かれているブログならまだしも、イントラブログの場合、これが行われたら著作権者が盗用されたことを知ることはまず不可能に近い。といって、管理者がそういったことをすべてチェックするのも不可能に近い。

モラルといってしまえばそれまでだが、特に社内利用の場合書き手にも「まぁいいだろ」みたいな甘えがないとも言えない。しかし、読み手はそんなことは知らないから、その内容を何かの機会に引用して社外向けの資料に再利用してしまうかもしれない。

実はこの「社内での再利用」も、どう解釈すれば良いのか難しかったりする。

業務上の内容であれば特に問題はないだろう。ただ、イントラブログでは必ずしもそうではない内容も書かれたりする。むしろ自分が個人的に推奨しているのは、そうではない内容の方だ。
しかも、読み手が書かれた内容を「活かす」プロセスでは、言葉は悪いが盗用みたいな使い方もあるかもしれない。

例えばイントラブログに書かれていた内容を社外に紹介するときに「引用」という形をとるのも不自然だろう。(イントラブログそれ自体を紹介するような場合はともかくとして・・・。)

もちろん、会社の資源を使っているのだから、すべて会社のものと考えることもできる。そもそも社内での「情報の共有」とはそういった性格を持ったものだからだ。

しかし、一方でそれで果たしてどれだけ書き手のモチベーションが上がるか、という問題もある。
自分もその類だが、そうであればイントラブログになど書かずに、インターネットのブログで書くという人もいるだろう。

すでにイントラブログをオフィシャルに導入しているところでは、どういった形をとっているのだろうか。

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2006年1月23日 (月)

少年法の精神

先週1月17日の毎日新聞15面に毛利甚八さんによる「さかさメガネ子ども論」というコラムがあり、少年法の精神について触れていた。
なるほどと考えさせられたので、紹介したい。

「少年法は、大人が少年をどう裁くかという、つねに大人の態度を規定する法律です。」
「未成年に対して「こんな少年であれ」と命じる法律ではありません。」

確かに、参政権も持たない少年に対して、法律で「こうであれ」というのは、おまえには権利はないけど責任はあるよ、というようなものだろう。

規定に対するイメージには、どうしても「こうであれ」がつきまとうが、こういった視点で見つめ直してみるのも面白いかもしれない。
例えば会社の規定は社員に「こうであれ」と命じる性格のものが多いと思うが、これを少年法と同じように考えたらどうなるのだろう。

会社の規定は様々な状況で「社員が」どうするかを決めているものだが、そうではなく社員が何かをしたときに「会社が」どうするかを決めるもの、と考えるのだ。

そうすうると、例えば「副業の禁止」といった場合「社員は副業してはいけない」ではなく、「社員が副業したら会社はその社員を減給する」といった具合にする必要がある。後者は一見厳しそうだが、行動の選択権は社員にあるから、あとはその人の判断次第になるだろう。

何かを「してはいけない」という訳ではないが、「したら相応のリスクがある」ということだ。これが個々人に判断が委ねられている状態ということだろう。

実はこういった形の規定の方が、すっきりしているような気がする。

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2006年1月21日 (土)

ソニーの人事制度は「大人のつきあい」

※土日は内容を考える余裕がないので、気が向いたらこれまで社外には公開していない昔の「つぶやき」を転載していこうと思います。なお、書かれている内容は当時のもので、今は状況が変わってしまっている場合もあります。

2000/11/13のつぶやき
ソニーの人事制度は「大人のつきあい」

今日はベンチマーキングとしてソニーの人事制度の例と言うのをまとめた。

ソニーと言うと押しも押されぬ世界的大企業、弊社と比較になるかどうかは微妙な所だが、一般的に組織のフットワークは「大きく」なるほど鈍く硬直化するものと考えると、小さい企業よりも大きい企業を参考にした方が良い筈である。妙な理屈だが・・・。

とは言うものの、ソニーの人事制度の柔軟性は群を抜いていると言っていい。

KMにおいて同社を特徴付ける人事制度の柱は「社内公募制度」と「マイキャリア・サーチ」と呼ばれる制度である。

社内公募制度
文字通り社内部署が社員を「公募」する制度。各部門が欲しい人材をイントラネット上で公募し、社員はそれぞれ応募・面接・(マッチングすれば)異動となる。
応募の段階では応募者の担当マネージャーには知らされず、決定後に「イエローペーパー」と呼ばれる通知が届く。すでに20年以上の歴史を持ち(イントラネット化は最近)、年間500名程が応募、200~300名が実際に異動している。

マイキャリア・サーチ
社内公募の全く逆の制度で、社員の側が自らのキャリアと希望をネット上に公開し、役職者が見て希望に添えば異動できる制度。こちらは導入されたばかりで、実績はこの1年間で100人程が登録し、内10人が実際に異動した程度。

その他色々あるのだが、基本的な姿勢は「本人のやりたい事をやらせる文化作り」にあると言う。

しかし、これに対し単純に「自由に出来ていいな」と言うのは浅はかだ。また「各人が勝手にやりたい事をやりだしたらどうするんだ」と言うのも読みが足りない。いくらなんでもそんな甘い会社があそこまで大きくなれる訳がない。

考えてもみよう。いくらソニーで「やりたい事が」出来ると言ってもまさか食品の開発を明日からやらせてくれる訳がない。新製品企画室に行きたくても、はいそうですかとすんなり異動させてくれる訳ではない。やりたい事には会社に認められる「(ソニーとしての)方向性」や「説得力」が必要だし、社内公募で異動するにも公募部署の面接と言う「試験」をくぐり抜けなくてはならない。(実際社内公募の半分は不合格だ。)

ソニーのシステムが秀逸なのは、会社の方向性は基本として押さえつつも、社員のモチベーションを業務に吸い上げて活用している点だ。あるプロジェクトが立ち上がる際の出発点が1社員の「やりたい事」にあった場合、そのプロジェクトに取り組む会社としての「動機」や社員の「やる気」への配慮を会社側は行う必要がない。そこは「やる気のある」社員が考えることだ。会社はプロジェクトの妥当性を評価し、認めるだけ。後はその社員が自ら動いてくれる事になる。

とまぁこれは理想論だが、ここがポイントではないかと思う。本音は窺い知れないが、ソニーのスタンスは「本人のやりたい事をやらせる」と言いつつも「会社は会社のため」にこの制度を用意しているように見える。別に社員のために自由な人事制度を設けた訳ではなく、会社のために社員のやる気を「利用する」体制を整えただけなのだ。

一方で個人もそんな会社の制度を利用して「自分の」キャリアのため、やりたいことのために努力していると言う事になる。
そんな「大人のつきあい」がソニーの人事制度には見え隠れしている。

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2006年1月20日 (金)

人為的なBSE発症実験

昨日の日経産業新聞に、牛にプリオンを接種して人為的にBSEを発症させることに成功したという記事があった。
餌としてプリオンを投与して発症のプロセスを探るという実験も行われているそうだ。

BSE対策としてそれはそれとして必要なことなのだろうが、やはりこういった話を聞くと、牛に同情してしまうというか、やりきれなさを感じてしまう。

そもそもこういった実験を行うのは、それによりBSEに感染するメカニズムを探るとか、新たな検査法を作り上げることにある。しかし、例えば新たな検査法により検査精度が上がり、100%BSEへの感染牛が発見できるようになったとして、何が変わるのだろうか。

非常に疑問なのは、そういった検査で感染牛が特定できるようになれば、例えば餌として肉骨粉を使っても良いのか、ということなのだ。理屈でいえば、検査の時点で100%分かるのであれば、(牛の)感染リスクと餌のコストを天秤にかけてそうするといった話もありということになる。

しかし、出口の検査を強化すれば、入り口やプロセスはどうでも良い、とは言えないだろう。おそらく感覚としても、それは認められない気がする。

となると、こういった研究はどういった社会性があるのか、という気がしなくもない。科学の実験としては意味があるのかもしれないが、真実を追究するなら何をしても良いという訳でもないだろう

そもそも、牛に牛本来の自然な餌を与えていれば恐らく発生しない病気なのだ。であれば、そういった対策を突き詰める方向の方が良いような気がする。

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2006年1月19日 (木)

読み手の感性

イントラブログについてもう少し・・・。

イントラブログに何を書くかというのは、実はちょっと難しい。昨日は内容は何でも良い、と書いたが、仕事以外のことが書かれているとむかつくなんていう意見も少なくない。

それでも、書く内容は個人に任せて良い、というのが持論だ。仕事のことを書くか、プライベートなことを書くか、他人への情報提供よりも自分のためのトレーニングなのだから、続けられるものであることが一番だ。
(もっとも、一番続けやすいのは仕事の話だったりするが・・・。)

それにブログの場合、その情報が「有益かどうか」で書き手を評価するのではなく、どんな情報であれその情報を「活かせたか」どうかで読み手を評価する仕組みの方が適している気がする。

読む側に活かそうという気があれば、どんな内容でも案外ネタはころがっているものだ。
活かされた時点で、ある意味書き手にはインセンティブは発生しているのだから、むしろその内容を活かした読み手の感性を評価する仕組みこそ欲しい。

そして、内容は何でも良いのだが、書き手にはぜひやってほしいことはある。
それはトラックバックを行うことだ。トラックバックをするというのは、他人の意見に対し、自分の意見を書くということである。つまり、上で書いているような「読み手の感性」を表現するということでもある。

イントラブログでトラックバックがどれだけ活用されているのか分からないが、これが活発に行われることで次のステージが見えてくるような気がする。

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2006年1月18日 (水)

イントラブログという修練場

先日書いたイントラブログの導入目的が、事務局として参加しているiUGのブログにトラックバックされてしまったので、ちょっと続きを考察してみる。

前回の最後に「おそらく個人の能力も最大化するため」と書いているのだが、これはようするにインプットの最適化よりもアウトプットの方が個々の能力向上にはつながるという考え方だ。
インプットを最適化するというのは、情報を整理して共有をスムーズにするということ。
一方アウトプットというのは、ようするに情報を「発信する」ことだ。

その際、内容は問わない方がよい。決められた内容を発信するのは単なる情報の整理であり、インプットの延長だからだ。自分自身にインプットされた雑多な情報から自分自身が考えた内容を発信する、というのがアウトプットの基本であり、そのプロセスがないアウトプットはほとんど能力向上にはつながらない。

これは経験上の話でもある。
自分はナレッジマネジメント担当として、社内の様々な人の話を聞いて整理して紹介する、という仕事を過去数年やってきた。しかし、それが自分自身の能力の向上につながったか、というと、実はほとんどつながっていないのではないか、という感覚がある。

むしろ、様々なインプットを再構築して、自分としてアウトプットする、という「つぶやき」の経験の方が、自身の能力の向上には貢献しており、それが先の仕事のバックグラウンドとして活きているという感覚の方が強い。

イントラブログの役割というのは、そういった考え方もできるのではないか。
つまり、トレーニングの一環としてのブログということだ。

もちろん、こういった個人の能力向上というのは個人の範囲でやればよいという考え方もある。
しかし、今のインターネットの環境を考えれば、自らの人格(名前)を明らかにした上で、時に仕事にまで踏み込んだ話題をアウトプットするのは、個人にとっても会社にとってもリスクが大きすぎるだろう。
書かれたドキュメントを「あわよくば」再利用するという観点からも、社内でやった方がメリットが大きい。

イントラブログで情報を共有し、再活用するというのは副次的な役割でも良いのではないか。
会社側からの視点でいえば、むしろ社員を「鍛える」ための場として活用しても良いような気がする。

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2006年1月17日 (火)

日本人の人情

走れ!プロジェクトマネージャーに「人の優しさ、国民性の変貌」というエントリーがあったので、以前(つぶやきの頃に)書いた「子どもに席を譲る」というのを思い出してしまった。

ただ、個人的には日本人はむしろ昔と「変わっていない」のではないかと考えている。あまり「日本人」みたいな一般化はしない方が良いのだが、自分の感じる日本人の「人情」「礼儀」は、ある程度親密な関係をもったコミュニティの中で成り立つもので、「他人」との間には厳然たる壁があるように思うのだ。

もう少しいうなら、昔はそういった狭いコミュニティの中だけで済んでいたのが、現在はそうではないのだ。ある意味「他人」との距離感を昔とは変えていかなければ成り立たないのだが、それを「変われていない」のが今の姿ではないか、という気がする。

何で読んだかは忘れてしまったが、そういった「都市型」のコミュニケーションマナーが身に付いていないのだ。

宗教的な話にするのもなんだが、例えばキリスト教なら「汝の隣人を愛せよ」というものがあり、「神の前では平等」という価値観がある。だから知らない相手であってもそういった共通認識からコミュニケーションが成立するのだが、日本人は相手と直接やりとりをしなければそういったコミュニケーションを作れないのだ。

それに、そんなキリスト教にだって、異教徒は人間でさえない価値観を持っていた時代はあった。人間ではないから愛する必要はないし、平等でもないと「当たり前に」考えていたのだ。そしてそういった価値観を徐々に変えてきたことで今の価値観がある。

だから、日本人は昔ながらの「人情」「礼儀」という価値観をある程度は変えていかなければいけないのではないかと思う。ま、どう変えていかなければならないかは別の話なのだが・・・。

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2006年1月16日 (月)

イントラブログの導入目的

先週情報交換をした会社の方が、自社の抱えている課題として次の3つを挙げていた。

1.情報が多すぎて埋もれてしまう
2.(組織間の)横のつながりがない
3.情報の流れが良くも悪くも本社中心

ある程度大きくなった組織であれば、程度の差はあれどこでも抱えている問題だ。というよりも、大きな組織でなければ生まれてこない問題とも言える。そういった意味では贅沢な悩みでもあるだろう。

情報が多すぎるというのは、情報が少なすぎる状態に比べれば遥かに恵まれている。
横のつながりがないというのは、そういったことをしなくても仕事が進んでいく仕組みがすでにある程度できているということでもある。
本社中心というのは、組織のあり方としては当たり前で、小さな組織ではそんな余裕すらない。

ナレッジマネジメントや、最近のイントラブログの導入の話でよく言われているのが、2番目の問題の解決だと思うのだが、実は組織というのは本来そういったことを省いて効率を上げるために作られているのではないかという気がする。

つまり、組織というのは、横のつながりを必要なものだけに絞り込むことで全体の効率を上げるために作られているもののはずなのだ。

そのように考えると、イントラブログの導入にこのような目的を掲げるのは、実は矛盾している。こういった問題は組織構成や制度で何とかできるものだし、何とかしなければいけないものではないか。

ではイントラブログを何故導入するのか・・・おそらく会社だけではなく、個人の能力も最大化するため、というのが一つの答えだと思うのだが、さて、そのあたりの論理構築はどのようにすればよいだろう・・・。

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2006年1月13日 (金)

プレミアという捉え方

昨日の毎日新聞2面に「プレミア」というコラムがあった。
海外で「日本人であることにプレミアを感じる」という日本の若者の話で、マイノリティであることをプラスに受け止める価値観に触れたものだ。

マイノリティにマイナスイメージがあるかどうかはともかくとして、プレミアという言葉にプラスイメージがあるのは間違いない。少なくとも「マジョリティ」でかつ「プレミア」というのはないのだ。

なるほど、こういった捉え方は悪くない。

もっとも、確か「MASTERキートン」だったと思うが、その一コマで、あるイギリス人刑事が日本という国を評した言葉も思い出してしまった。

「外国で自分がイギリス人であることを感じさせられることは珍しくない。しかし、日本では違う。自分が日本人でないことを強く意識させられるんだ。」

セリフは一言一句その通りではない(記憶があいまいな)のだが、そういった趣旨の話だった。
実はこういったニュアンスは今回のコラムにもあって、異なるものを受け入れる価値観が(社会的な素地として)あって、はじめて「マイノリティ」が「プレミア」になるといったことも書かれている。

日本人が、というくくりはあまり意味がないのだが、文化的にそういった背景があるというのはあるのかもしれない。

少なくとも自分自身は(他人がどう受け取ろうと)「プレミア」を感じていたいものだ。

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2006年1月12日 (木)

現場の定義

合資会社オオタキカクの太田亮児さんという方が書いた「責任者の心得」という冊子を、昨年末から今年にかけて読んだ。
多くは「現場責任者の心得」というもので、「現場」「現場」が連呼されるために、「現場主義」嫌いの自分としてはなんだかなぁと思って読んでいたのだが、最後の方に非常に得心する記述があった。

「現場を考える」という項なのだが、「働く人みんな現場」とした上で、そのはずなのに現場ではない人がいるとこんなことが書いてあったのだ。

1.責任を取らない(取れない、取り方を知らない)
2.責任を投げる(責任を転嫁する)
3.自分の保身だけを考える

これを逆に考えれば、現場の定義は非常にシンプルなのではないか。
つまり、責任を取ることができる=現場という定義だ。

営業や生産という職種ではなく、管理職や一般職という職位でもない、そこに責任があってその責任を果たしているかどうかを現場の定義として考えれば、いわゆる「現場主義」が本当かどうかが分かる。

責任がない立場だったら、現場とはいえない。こういう考えは非常にシンプルだ。
逆に言えば、現場が大事といいながら、権限と責任を彼らに委譲していなければ、それを本当に現場とは考えていないということになる。

自分の仕事には責任があるか。自分にはその責任を果たす覚悟があるか。周囲はその責任を認めているか。
そういった条件が満たされて、はじめて自分の仕事は現場の仕事になる。

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2006年1月11日 (水)

親しみやすくユニークであること

昨日打ち合わせをしているときに、ブランドに対して「親しみやすさ」を感じてもらうにはどうしたらよいか、という議論があったのだが、この「親しみやすさ」というのは「ユニークさ」とはどこか相反するものがあるのではないか、とふと感じた。

親しみというのは、どこかに「同じである」という感覚がある時に生まれる感情だろう。ユニークであるというのは、むしろ「違う」ということだからその時点で大きく方向が異なる。

「ユニークだけど親しみやすい」というのは、言葉にするのは簡単なのだが、冷静に考えると単に両者を半端にミックスしたものとも言えるのだ。もっとも、そのバランスが良いのかもしれないが・・・。

その打ち合わせは今のコーポレートブランドを向上させるには、というフリーディスカッションだったのだが、ブランドとしての親しみやすさを維持しつつ、他と差別化するためのユニークさを求めるのはかなり難しいのではないか。

だとすれば、どのようにブランド価値を向上させていけばよいのだろう。

もっとも、今のブランドが持つ「親しみやすさ」自体、かなり他と比べてユニークだということもできる。つまり、「親しみやすい」という要素自体が突出して他と異なる場合は、それ自体がユニークであるといえるということだ。

なるほど、そうであれば「親しみやすさ」をさらに突き詰めることが、他のブランドとの差別化につながる、ということになる。

そういう方向性を求めるのが良いのかもしれない。

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2006年1月10日 (火)

組織の歯車

組織における個人の役割を歯車にたとえた話は、最近はそういえば聞かないような気がするが、少し前はずいぶんと耳にしたような気がする。

個人は組織の歯車なので、逸脱は許されない、という話。
いやいや、歯車は一つでも欠けると動かないが、組織は一人いなくなったぐらいでは止まらないので、個人は歯車ですらないという話・・・。

まぁそんな話が頭の中には残っていたのだが、先日上司から歯車の話が出たときに、また少し違うことを考えてしまった。

中央にトップという歯車、周辺に現場という歯車があると考えよう。
トップと現場という歯車が直接かみ合っていることはまずない(特に組織が大きくなれば)ので、当然間に別の歯車がかみ合わされる。中間管理職という層と考えても良い。

単純化するために、トップ-中間管理職-現場という三つの歯車の組み合わせを考えてみる。
すると、トップと現場が同じ向きに回転するには、中間管理職という歯車は逆回転をしなければならない。

もしトップの歯車の回転の向きが組織の方向性と考えた場合、組織全体にスムーズに動くためには中間管理職は逆回転をしなければ現場は同じ方向には回らないのだ。無理に同じ回転をしようとすれば、当たり前だがトップと中間管理職の間でさえ歯車は回転しなくなってしまう。

さらにこれが何階層にも及ぶ歯車の場合、それぞれの回転は複雑怪奇に組み合わされる。最終的に求めるべきが組織全体の方向性だとすると、それは「現場の方向性」のはずなので、トップでさえ場合によっては最終的な回転方向の逆回転をしなければならない場合があることになる。

組織が大きくなり、それが歯車のように強固にかみ合っていればいるほど、それぞれの回転方向は全く別になる可能性が高まるのだ。

言い換えれば、ある歯車が全く別の方向を向いているように見えても、実は全体としてみればスムーズな回転に寄与していたり、単独では一見トップと同じように回転しているように見えても、全体としてみれば回転を阻害している可能性があるということだ。

歯車でよいかどうかの議論はひとまず置いておくとして、自分が歯車だとしたら、さて回転方向はどんな方向だろう。

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2006年1月 6日 (金)

仕事の匿名性

ベンチャー企業ではたらく男のブログで、CSRと社内ブログの関係というエントリがあったので、早速問題の記事を読んでみた。

「よい社会をつくるCSR」という広告特集で同志社大学政策学部の太田肇教授による解説で、おおざっぱにまとめれば、

・日本企業の持つ「仕事は組織でするもの」という価値観が仕事の匿名性を生み出している
・その仕事の匿名性が社員の無責任を誘発し、不正行為につながっている
・そこで個性的な社員の顔が外から見えるようにすれば、社員は社会的責任を自覚するようになり、企業のCSRは軌道に乗るだろう

という感じだろうか。
内容的にはCSRの概念がコンプライアンスに偏りすぎている気もするが、CSRというキーワードを使うまでもなく、これから企業が考えなければならないことには違いない。

もちろん、条件もある。太田教授も書いているように「仕事に必要な権限を与える」ということだ。これがないままに名前だけが見えてしまうと、「権限はないけど責任はある」という状態になりかねない。
無論組織上の責任は相変わらずないのだが、社会的責任というより重い評価がのしかかるようになるからだ。

そのように解釈すれば、結局これは「見える見えない」というよりも、「権限と責任のバランス」という組織における根幹の問題なのだ。そしてその「責任」というのが、社内や組織内における狭い範囲での責任だけではなく、より広い社会的な責任にまで拡大しつつあるということなのだろう。

もっとも、CSRのRは最近は「責任」ではなく「信頼」とされることも多い。
責任を負う(負わせる)ために「見える化」をするのではなく、信頼を得るために「見える化」をすると考えた方が良いかもしれない。そうすればいわゆる「責任」に関しては別の軸で評価することも可能だからだ。

不正を防ぐためというマイナス方向ではなく、信頼を得るためというプラス方向で考えていきたいものだ。

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2006年1月 5日 (木)

プロフェッショナルとアマチュア

昨日は年末年始休暇の最終日だったが、六本木ヒルズに出かけた。
ヒルズアカデミーが開催する「知のライブハウス“2006年を読む”」を聞くためだ。

モデレーターは、ヒルズ都市塾塾長の米倉誠一郎氏。
第一部のゲストは、総務・郵政民営化担当大臣の竹中平蔵氏。
第二部のゲストは、デジタルハリウッド大学の杉山知之氏、ソフトブレーンの宋文州氏、イー・マーキュリーの笠原健治氏。

参加費一万円はちょっと手痛い出費だったが、十分に満足できる内容だった。
様々な気づきをもらったのだが、その中で特に印象に残っているのが、米倉氏が何度か語っていた「日本はアマチュアばかりの国になった」というものだ。

プロフェッショナルとは何か。

プロフェッショナルは「人より抜きん出る事」が必要だが、それは他人と同じ分野ではなく、「違う土俵で」目指すものだという。「自分にできないことはできる人にまかせ、自分は自分のできることを突き詰める」ことが、プロフェッショナルを目指すということなのだそうだ。

そうやって互いに違うベクトルを目指したうえで、互いの突き詰めた分野同士で競争するのがプロフェッショナル同士の競争なのだ。

ところが、今までの日本社会は偏差値に代表されるような「一律の基準」にしたがって「競争」をしてきた。その結果、内輪で競争するだけのアマチュアばかりの国になってしまった、というのが米倉氏の主張だった(と思う)。

こういった話を聞くのは、正直耳に痛い。自分自身の目指すプロフェッショナリズムとは何か、喉元に突きつけられているような気分になる。考えてみれば、自分も人と同じ分野での競争ばかり考えてしまっている。それでは、新しいナレッジは生まれないのだ。

同じ分野で人より秀でる「競争」ではなく、他の人が立ち入れない分野を切り開く「競争」ができるプロフェッショナルになりたいものだ。

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2006年1月 4日 (水)

スタートにあたり

このブログは、以前「ごろうのつぶやき」として書いていたブログの続編です。
なぜそちらで継続しなかったのか、と問われるとはっきりした理由があるわけではないのですが、ほぼ5年間続けてきた「ごろうのつぶやき」に区切りをつけて、別の形ではじめるためとでもいいましょうか。

「ごろうのつぶやき」は、2000年11月6日から社内で書いていた個人的な日記がベースになっています。
当初はなぜか社内のサーバに持っていた個人的なNotesデータベース上に掲載。その後、社内の一部へのメール配信、データベースの廃止に伴う社外のブログへの移行(2004/3/22より)という変遷をたどってきました。
(そのため、5年といってもその内容のほとんどは公開されていません。)

またブログへ移行したといっても、社内へのメール配信は継続していましたので、あくまでも社内むけのメッセージとしてこれまでは書いてきました。ですが、この契機に社内向けの配信はすっぱりやめ、名前も変えてブログ一本で書いていこうと考えています。
(もっとも、そうはいっても書く内容自体ががらりと変わるわけではないのですが・・・。)

ENIGMA VARIATIONS という名前は、特に大きなこだわりがあるわけではないのですが、新しいブログの名前を考えているときにふと思い浮かんだ言葉です。
Enigmaは「謎」という意味ですが、別にこのブログに謎が潜んでいるわけではなく、私の好きな曲の一つである、エルガーの「エニグマ変奏曲」(E.ELGAR:ENIGMA VARIATIONS,Op.36)を使わせていただきました。

ちなみにエルガーはこの曲の初演の際のプログラムに、
「全曲を通じて沈黙の伴奏の役割を果たしている隠された主題がある」
「各変奏曲の副題のイニシャルは私の友人たちをスケッチしたもの」
という二つのエニグマ(謎)を発表しており、イニシャルはすぐに解き明かされましたが、隠された主題については現在も謎とされているそうです。

そんな隠された主題があるかどうかは私にも分かりませんが、あまり一つの話題にはこだわらず、色々と変奏(笑)していければと考えています。

2006/1/4記す
ProjectK

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