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2006年2月27日 (月)

「安全」の捉え方

食の安全ということを考えたときに、メーカーにおけるある品質基準が「安全」のためか「差別化」のためかという切り分けをするのは難しい。

多くの食品には、法律上の安全基準がある。食品にかかわらず、人の安全にかかわるようなモノにはそういった品質基準はつきものだろう。

そこで例えば、そのメーカーが法律を上回る独自の高い品質基準を持っている場合、それは「安全」のためだろうか。「差別化」のためだろうか。

もし仮に安全のためだとすれば、法律上の基準では「安全ではない」と言外に言っていることになる。そしてそうだとすれば、食に携わる企業の責任として、そういった法律を変えるためのアクション(自社の基準にあわせていくアクション)をしていないことこそ、問題にされるべきだろう。

それが「安全」のためであれば、独自の基準そのものが、実は社会的責任として良いのか、というジレンマに直面してしまうのだ。

法律は最低基準であり、独自の基準は何ら問題ない、という考え方もあるかもしれない。しかし、それは本来安全ではなく差別化のための基準であると考えるべきではないだろうか。

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2006年2月24日 (金)

情報や感情を「共有」する

昨日のエントリの、どちらかというと脱線の方の続きになるのだが、情報を共有する、感情を共有するというのは、そもそもどういった状態なのだろう。

もう少し端的に言ってしまうと、情報を「伝達する」と「共有する」の違いは何だろうか。この際、両者は同じものとは考えずに、あえて違うものとして捉えてみる。

例えばA社がB社を買収するという「情報」を入手したとする。この情報を「伝達する」のではなく「共有する」というのはどういった状態なのだろうか。

考えられるのは、「伝達」の場合、伝達側の伝える意思と、伝える相手(その情報を知りたい相手)がいるということだ。一方、共有が伝達と違うとして、差を見いだすとすれば、どちらかもしくは両者がない状態と仮定できる。

伝えるつもりがないか、伝える相手がいない(分からない)、あるいは双方の条件が重なっている状態・・・こう考えると、「伝達する」に比べて「共有する」というのはかなりあいまいな状態ということになる。

一方で、こういった状況は決して珍しくない。他の人の役に立つと思わなければわざわざ発信しようとは思わないだろうし、そもそも伝える相手がいなければどうしようもない。だからこそ、そのような状態を解消しようとするために「情報の共有」が叫ばれるのだろう。

しかし、そうなると情報共有はそもそも誰のためなのだろう。少なくとも伝える気がない人のためではあり得ない。知る気がない人のためでもあり得ない。
すると「伝える気があるけど誰に知らせたらよいか分からない人」と「知りたいけれども誰が情報を持っているか分からない人」のためということになる。

情報共有というのは、一見するとその情報そのものが大事のような気がするが、実は「情報を持つ人」「情報を知りたい人」のマッチングこそが大事なのだ。

そうなると、ブログのようにパーソナル色が強く、しかも見る見ないもその人の判断に委ねられるようなツールで、どこまでその両者のマッチングをマネジメントできるかがポイントになってくることになる。

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2006年2月23日 (木)

情報の共有か、感情の共有か

社内ブログに求められるのは、情報の共有だろうか、感情の共有だろうか・・・なんて話題でiUGの事務局が盛り上がっているのだが、ちょっと考察してみる。
(ちなみに自分の場合、考察というのは、内容がまとまっていない状態でキーボードを叩くことだ笑)

なんとなく思いついていることはあって、情報の共有というのは、個人のレベルでは感情の共有と目的は大差ない気がするのだ。なぜ情報を共有したいかというと、相手と共通の話題を持ちたいからで、それは実は感情の共有とベクトルは同じである。

問題は、これが組織レベルの話になった場合、その場というかその仕組みをマネジメントするという立場で考えた場合だ。個人のレベルの話だったら、別に社内ブログである必要はない。あえて社内ブログというキーワードで考える場合に、情報の共有か、感情の共有か、という話になる。

両者とも、定量的な指標を持ちにくい。情報の共有というのは、新しい情報システムの導入の際などによく聞かれるキーワードだが、突き詰めると何が効果なのか分からない場合が多い。感情の共有に至っては、いってみれば雑談の効果を数字で表せみたいなもので、そもそも目的として成り立つかどうかさえあやふやだ。

実は「共有」というキーワードがそもそもあいまいなのかもしれない。例えば車を「共有」する場合、一人ひとりで「持つ」コストがはっきりしているから、共有するメリットは非常に明確だ。ところが情報や感情の場合、こういった「共有」概念は当てはまらない。となると、「情報共有」「感情共有」というのは果たして成り立つのか?

いかん、まとまらなくなってきた(時間もなくなってきた)。話を元に戻そう。

社内ブログであっても、「個人のためのツール」として捉えるのであれば、内容はどちらでもあまり関係ない。ただ、これを組織的にいかそうと考えた場合、情報共有にはそこに掲載された情報の再活用が視野にあるが、一方感情共有にはそういった要素はほとんどない、という違いがある気がする。

再活用、というのは、時間を飛び越えるということだ。蓄積された情報を一定期間経過後も再活用する意図があって、はじめて組織として社内ブログによる「情報共有」に意味が生まれてくる。もちろんリアルタイムに共有する価値はあるが、それだけであれば他に手段はいくらでもあるような気がする。

一方感情の共有の場合、リアルに接している誰か、がポイントだからこういった視点はほとんどない。1年前に何を考えていたか、というのは、正直な所あまり価値がなく、「今」何を考えているのか、感じているのかというのが、感情共有におけるポイントだ。

今、ではなく、過去の視点で見ると、両者の違いがもう少し見えてくるかもしれない。
時間がオーバーしたので、またの機会に続く。

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2006年2月22日 (水)

社会的関心とは何か

社会的関心を裏付けるものってなんだろうか。

メディアの露出が高いものだろうか。しかし、それはあくまでメディアの関心の高さのような気がしてならない。
消費者団体やNPO、NGOが意欲的に取り組んでいるものだろうか。しかし、それもやはり彼らの関心の高さであって、それを「社会的関心」と呼んでよいのか、疑問が残る。

実は使う側にとって都合がよく、そのくせ実体がない典型的な虚構がこの「社会的関心」という奴ではないだろうか。

「社会的関心が高い」というと、どこかに客観性があるように見える。「私の」関心ではなく、「社会の」関心なんですよ、と相手に突きつけ、それに答える必要がある、と要求すると、公平で公正に見えるし、相手もなんとなく反論しづらい。

しかし、そもそもこの突きつけ方はコミュニケーションとはいえない。相手に一方的に「社会的関心でしょ?」と考えを押しつけて、さも共通認識であるかのように見せかけているだけ、とも捉えられなくもない。

「私はこのような理由でその事柄に関心がある」という問いであれば、それに対して答えるのはコミュニケーションのあるべき姿だろう。しかし、「社会的関心がある(と思われる)」という問いに対して答えるのは、果たしてコミュニケーションと言えるのだろうか。

もちろん、コミュニケーションにおいて相手の関心を探り出していくことは必要だ。
しかしそれは「相手の関心」であって、決して「社会的関心」ではないような気がする。

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2006年2月21日 (火)

日報としてのブログ

今の仕事に日報はないのだが、半分日報のようなイメージで一部の人向けに社内メルマガを出している。といっても、別に特別な仕組みはなく、単なるメールだが。

それを書けなくなってきた。こういう状況に陥ってくると、果たしてイントラブログで日報、といったやり方が本当によいのか、疑問が頭をもたげてくる。ブログ、というより、日報そのものの問題かもしれないが、問題はそれが社内とはいえ不特定多数に公開されていることだ。

もちろん、仕事の情報は隠す必要はない。ないのだが・・・やはり書きにくいことはある。
上司といった特定の相手に報告するものと、ブログのような形で開示するものとには、やはり違いがあるということかもしれない。

また、コミュニケーション相手との関係が密接になってくると、やりとりされるメッセージは簡略化される傾向がある。あうんの呼吸とまでは言わないが、「すでに伝えたこと」などを省くようになるからだ。

これは書き手だけでなく、読み手側からも要求されることだ。同じことを何度も繰り返されては無駄が多い。

そこで、日報のように閉じた世界なら良いのだが、ブログのように開示されたものの場合、それでよいのか、という疑問が生まれてくる。新聞の連載をある日突然読んで理解できないのと同じ状況が生まれてしまうからだ。

また、日報の相手は多くの場合、リアルなコミュニケーションも維持されている関係であることが多い。
当然、すでに済ませたリアルなやりとりの内容については、詳細に記述しないのだが、これもブログを読んでいるその他大勢の読者には伝わらない。

そうなると不特定多数を対象にした内容に書き分ける必要が出てくるのだが、そうなると今度は何のための日報か、という問題に陥ってしまうのだ。

今自分が書いているのは、日報と言うよりは不特定多数向けのメッセージという色彩が強い。それでも、仕事という連続性、継続性のあるテーマを扱っている場合には、やはり書きにくさが出てきてしまうのだ。

もう少し割り切って「その日にやったこと」ぐらいにとどめておくと迷う必要はないのだろうが、それだと「何のために書いているか」というメッセージ性が薄れてしまうしなぁ・・・。

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2006年2月20日 (月)

編集者の意見

先週KMについての講演をした後の懇親会で、「自分が話した内容を他人にまとめてもらう」ことについて面白い話になった。
自社の事例として、事務局が担当者に話を聞いて社内報の記事にまとめるという話をしたことに関連しての話だ。

同じようにゲストで来ていた方が「自分は直されるのがいやなので、自分で書いた方が良い」と言い、先方の役員も「話した内容が全然違う形にまとめられてしまうことがある」という話をされていた。

なぜ、話した内容とまとめた内容が食い違うというようなことをが起こるのか。
社内報・・・はともかくとして、新聞やテレビでも時々聞かれる話のような気がする。

それは、編集者あるいは執筆者には彼なりの意見があるからではないだろうか。

しかし、編集者はその意見を直接記事に反映させることができない。できないから「編集」で自分の意見を反映させようとしてしまう。これは恐らく意図せずに起こっていることなのではないかと思う。

それに対し、自社の例では「書き手の感想は書き手の意見として載せなければいけない」ことを話した。つまり記事本文にヒアリングした相手の話をまとめ、それに対する意見を編集後記のような形で載せているのだ。

この場合、本文に自分の意見を反映させてしまうと、編集後記との区別がつかなくなってしまう。だから、極力話し手の意図を中心に構成し、自分の意見は自分の意見として添える必要がある。
その際、編集後記も含めて一つの読み物にするのではなく、編集後記を除いた上で一つの読み物として仕上げ、その上で、別に自分の意見を添えなくてはならない。

無論、聞いた話をそのまま生で伝えられるわけではないから、結局編集者の視点というのは入ってしまうのだが、こういう書き方をしていると、「自分として面白い点」と「客観的に見て面白いと思われる点」を無意識に切り分けるようになる気がする。

意外と、それがバランスをとる秘訣なのかもしれない、などと思ったのだった。

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2006年2月19日 (日)

経営会議での報告と知識流通

※土日は内容を考える余裕がないので、気が向いたらこれまで社外には公開していない昔の「つぶやき」を転載していこうと思います。なお、書かれている内容は当時のもので、今は状況が変わってしまっている場合もあります。

2000/12/11のつぶやき
経営会議での報告と知識流通

経営会議にて報告を行った。(注:もちろん報告者は私ではない。)

経営会議への出席は原則発表者のみなのだが、お願いすれば関係者が出席するのは構わないようで、せっかくの機会と言う事でチームで出席する。

内容としてはこれまでの検討事項の報告と社内報&匿名掲示板についてのご意見頂戴である。社内報に関しては可もなく不可もなくと言う感じだったが、匿名の掲示板に関してはいくつかの意見が出た。
「何故名前を隠す必要があるのか、建設的な意見を出すのに萎縮する必要はないのではないか」
「現実問題として書きにくい部分はある。社員の良識を信ずる上では、(やりたい事としては)理解できる」
と反対一色でなかった事は意外と言うか、やはり経営層まで登りつめる人たちのバランス感覚を実感する。(ずいぶん失礼な言い草だが。)

実際のところ、今回の内容は研究会の頃の説明とはかなり食い違っているため、戸惑いの声もあがった。
「ノウハウをドキュメント化して共有し、力の向上に役立てましょう」
これが今までの(大雑把な)イメージ。そこから考えれば、現在の
「自立」「可視化」「コミュニティ」
はかなり違和感を感じても仕方ない。(と言うか感じないのはおかしい。)

しかし、根っこではつながっているのではないかと自分では考えている。

(研究会からプロジェクトへの)一番大きな変化は、「知識管理」から「知識流通(もしくは循環)」へと重点をシフトしている事だろう。
知識を「管理」すると言うのは、何らかの形で保管し、これを生かすと言う事だ。ここでは知識の形式化というプロセスが非常に重要になり、これを支えるシステムとそのルールの適用が非常に大切になる。
一方知識を「流通」させると言うのは、それが伝わっていくプロセスに重きが置かれている。この場合、知識の媒体は必ずしも形式知である必要はない。極論すれば保管する必要すらない。ただひたすら伝達を繰り返すと言うのがポイントで、この体制を維持するために必要になってくるのが、可視化とコミュニティの考え方である。

この違いの理解には知識を「お金」に置き換えると良いかと思う。
知識管理とは、お金を貯蓄する事だ。いざと言う時に備えて蓄積しておき、後代のために残すと言う考え方である。しかし、貯蓄だけでは(個人はともかく)経済が上向かないのは現在の日本が証明している。
一方、知識流通は、お金を使う事である。金は天下のまわりもの、と考えて自らのお金を放出する事だ。無論散財ではないから、結果経済が上向きになれば、その影響が自分にもかえってくると言う発想である。経済が上向けば、規模の拡大にもつながるではないか。

あるいは、知識管理を銀行、知識流通を証券市場に例えても良い。

もちろん後者にはある種のリスクがあるように見える。
流通に依存する市場は流れが淀んだら終わりである。その停滞の打撃は計り知れない。
しかし、どんな巨額の貯蓄でも、運用する人間が無能なら結局食いつぶすだけではないだろうか。つまり、実際のところ、リスクはそう変わるものではない。どちらも関わる人間の問題なのだ。
岩の上にあぐらをかいた人間と流れにもまれる人間、どちらが前に進めるだろうか?

ノウハウの共有と言う考え方は変っていないと考えている。
共有のやり方を変えたのだ。だれでもお金を預ける事が出来る銀行を作るのではなく、主体的な意思を持って参加する市場を作ると言うやり方に変えたのである。
それがコミュニティだと考えている。

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2006年2月15日 (水)

知識の再利用

ベンチャー企業ではたらく男のブログで知の流通についてコメントしてみたのだが、それに対する丹野さんのコメントで知識に対する認識の話があったのでもう少し考察してみる。

> 例えば「自社製品のxxソフトを顧客企業のサーバーにインストールしようとしたところ、xxxというエラーが発生してしまいます。」といったトラブルの解決方法は時間が経過しても不変です。

再利用可能な知識と再利用しにくい知識というのがあるのは確かだろう。実際、特定のトラブルに対する特定の対処方法などは再利用可能な知識の最たるものかもしれない。

自分の所属する企業はIT系ではないが、一方でたまたま自分は社内でPCに詳しい人間と見られていたので、システム系のトラブルに関しての問い合わせは良くあった。そんな時には「あそこに書いてありますから~」と言いたくなるし、答える自分の時間が無駄と感じることもある。

ただ一方で、ではその回答が「たった一つの冴えたやり方」かどうか、という点にも疑問が残るのだ。
もしかしたら、自分が答えた相手は、その回答をベースにもっと良い方法を見つけているかもしれない。
実際、やりとりを重ねる中で自分の回答そのものがアップグレードしていくことも経験している。

単なる知識の「再利用」は、むしろそういった知識の進化を生みにくいような気がするのだ。

もっとも、それが本当に重要かという部分は考えなければいけないだろう。実際、今の自分の会社でPCに関するトラブルなんていうのは、再利用で十分な知識で、手間暇かけて進化させるぐらいなら他にリソースを振り分けた方が良い部類に入る。

もう一つ言えば、これはあくまでQ&Aによるやりとりをベースにしたモデルということだ。考えてみれば、ブログは他人の質問に対するリアクションではなく、自らの情報発信をベースにしている。つまり、進化のプロセスは自分自身の中に内包されているので、スパイラル自体も自分自身が生み出していけるのだ。

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2006年2月14日 (火)

内容のゆらぎ

昨日書かなかったのは、オリンピックの録画のためにPCが使えなかったからだが、それにしても日本選手が出ていない競技は地上波ではほとんど放送されないので、ちょっと寂しい・・・。

昨日の夜にiUGの事務局ミーティングがあった。
一応(第3回研究会の)ネタバレになると困るので、細かい内容には触れないとして、昨日のディスカッションの中で印象に残ったのは、ブログとグループウェアの比較におけるこんな言葉だ。

「グループウェアは内容にゆらぎがあると大変なので」

そこでブログが、グループウェアとは異なる補完的な立ち位置で使われる、という話である。

グループウェアにしてもブログにしても、どういった立ち位置で使うかは企業毎のカルチャーなので、グループウェアだからどうこうということはないのだが、この「内容のゆらぎ」という考え方は面白いのではないかと思った。

そもそも企業内の、特にオフィシャルな情報はゆらぎがあることを前提にしてはいけないのに、意外とゆらいでいることが多い。同じような公式情報であっても、伝える人間や語られる場によってかなりの違いがあるのだ。これは特にリアルなコミュニケーションにおいて顕著なものだろう。

グループウェアであれ、メールであれ、電子的な「通達」手段は、そういったゆらぎを低減させる効果を持つ。当たり前だが、こういった文書での通達というのは、すべての書き手と読み手の関係を均質にしていこうとする力が働くからだ。

これは、意外に人によっては気持ちが悪い状態なのかもしれない。コミュニケーションは、意外とこのゆらぎに支えられている部分が多いのではないか。

SNSも考えようによってはゆらぎを生むための仕組みだろう。何かこういう切り口で語れるバーチャルコミュニケーションのあり方ってないだろうか。

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2006年2月11日 (土)

FJBのソリューションに見るIT企業のKM(2000/12/21)

※土日は内容を考える余裕がないので、気が向いたらこれまで社外には公開していない昔の「つぶやき」を転載していこうと思います。なお、書かれている内容は当時のもので、今は状況が変わってしまっている場合もあります。

2000/12/21のつぶやき
FJBのソリューションに見るIT企業のKM

FJB(富士通ビジネスシステム)の人が、ナレッジソリューションのプレゼンスに来た。
正直なところ、どれだけ「ソリューション」を謳っていても、IT関連企業の売り込みは、どこも似たようなものだ。

KMを「システム」として捉えた場合、どうやってもポイントはインプットとアウトプットになるのだが、
●インプット:より簡易な入力
●アウトプット:より強力な検索
では、結局のところ、スペックの比較の問題になってしまう。

KMプロジェクトの方針が「ドキュメント管理」から、すこし外れて以降、IT関連のプレゼンスで目を引いたのは、日本オラクルの「Q&Aコミュニティ」の考え方ぐらいだ。

ふと思ったのだが、ITはもっとシステムに傾倒した方が良いのではないだろうか?
大体、KMで最も手間になる部分は、知識のインプットである。この部分を利用者の意識に委ねているようでは駄目なのだ。

例えば、会議や電話など、普通の会話を録音して、文字化してくれるようなシステム。

例えば、社内のあらゆる電子ドキュメントを巡回して収集・要約する(インターネットのロボット型検索エンジンのような)システム。

と言うような「技術バリバリ」のアプローチがあったらおもしろい気がするのだが・・・。(KM自体ではなくて、それを技術的に支えると言う補完的なアプローチ。そもそもITは道具にすぎないのだ。)

情報の整理や活用は、多少のテクノロジーの補助があっても、人間の占めるウェイトの方がはるかに大きいのである。この部分に対してアプローチされても、はっきり言ってしらけてしまう。もっと、人間がやらなくても良いような力技を補ってくれた方が、嬉しい気がする。

もっとも、上記のようなシステムは、今の技術の手には余るのかも知れない。正直なところ、突破できそうなアイデアは思いつかない。

さて、これまでに何度か日記でも触れてきた匿名問題について、多少まとめてみた。
匿名で進める場合のポイントは、これをネガティブな解決手段ではなく、ポジティブな解決手段として扱う事だと思うが、そこで、提供側への匿名効果ではなく、提供される側への匿名効果にポイントをおいている。

提供者の立場が分からない事で、利用側は情報の内容判断を自ら行う必要が生じる=情報感度が磨かれる、と言う考え方だ。
大体、目の前の情報を、全て正しいものとして、鵜呑みにしていては感度は絶対に磨かれないのである。それに、現代のように多様化が進んだ社会で「たった一つの」正解が提供されると考えるのも甘すぎる。

しかし、周囲を見ると「効率」の名のもとに、そのあたりの考えが薄れつつあるのではないかと言う気がしなくもない。情報の氾濫に対して、受け手の努力ではなく、出し手の自制が求められるのは、個人的には納得いかない部分ではある。

(出し手の努力が不要と言う訳ではない。もっとも、出し手に必要なのは、無数の情報に埋もれないような、より質の高い情報を提供する努力であって、情報をまとめて、提供量を減らすことではない。例えば、KMが提供する「社内報」と言う情報は、無数の情報を、整理することを目的とした、新たな「情報」であって、他の情報を肩代わりするものではないと思っている。)

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2006年2月10日 (金)

横型の成長モデル

昨日のCSRセミナーで面白い話を聞いた。
日本企業の競争のやり方は欧米とは違っていて、縦型ではなく横型の成長モデルをとることが多いというのだ。
そのためにテーマを変える変化のスピードが速いという。

個人的な感覚としては、むしろ日本企業は変化が遅い気がするのだが、そうではないらしい。

セミナーの本題の話ではなかったので(しかも最後のQ&Aの時に出た話だったので)それ以上つっこんだ話を聞くことはできなかったのだが、自分なりにその時のニュアンスから考えると、日本企業は一つに集中して成長を求める(縦型?)のではなく、事業の幅を広げる(横型?)という成長モデルだということになるだろうか。

そのためにCSRにおいて重要な要素である企業のミッションがぶれやすい。というよりも、実際にはそうなってもぶれないように、どうしても抽象的なミッションになりやすいという話だった。

こういった傾向はCSRレポートにも表れていて、一見短期に株主価値の追求を要求されているように見える欧米企業は、CSRという観点では10年ぐらいのスパンで取り組んで成果を出していくのに対し、日本企業は短いスパンでダメなら次という取り組み方をすることが多いそうだ。

おっと、CSRの話になってしまった。そうではなくて、面白かったのは「横型の成長モデル」という話だ。これは考えてみたら個人の能力開発などでも同じような発想があるような気がする。

ある一つの分野を突き詰めるのではなく、徐々に幅を広げることを成長と考える傾向が強いのではないか、ということだ。(ただし、器用貧乏のように何でも手を出す、ということではない。)

こういった傾向はある程度発想の根底にあるモノだから、そうそう変えられるものではない。であれば、そういったモデルを想定したやり方を考えるのも良いのかもしれない。イントラブログが個人の能力開発につながる、という自分の考えも、考えてみれば幅を広げるという発想に基づいている。

各人が何かにテーマを絞り込んだデータベースを構築してその情報を皆で共有する、というモデルよりも、それぞれが様々なテーマでブログを構築することで能力をのばすモデルの方が、意外と日本型なのかも、などと考えてしまった。

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2006年2月 9日 (木)

ナレッジマネジメント事例の紹介2

昨日に続いて、もう少し掘り下げてみる。

●会社・事業の紹介(一応)
・・・これは考えても仕方がないが、情報としては社名、設立年、資本金、売上高、売り上げ構成比、社員数といったところだろうか。でも全体の流れから考えると資本金や売上高って意味がないような気もする。社員数と事業構成(結構いろいろやっているということを示すため)ぐらいでも良いかもしれない。

●KM活動立ち上げの経緯とこれまで
1999年の経営陣への提言以降、研究会・プロジェクトの立ち上げ、組織化(経営企画、広報)という流れで良いだろうか。全部網羅するとかなり長いが、背景なので端折る。

●KMのコンセプト
これはいわゆる「三本柱」と呼んでいる柱があるので、これについて説明。資料もすでにある。

●(メインとなる)コミュニティポータル(と先方には言っている)の紹介
2001年の立ち上げで、その後徐々に機能を追加。当時のキーワードは人が自然に集まる「お台場」を目指すこと、イメージしたのはやわらかい情報を提供する「民放」。毎日更新を基本にして、目線は本社ではなく現場に置く。
記事には必ず作成者の個人的感想をつけ、単なる事実ではなく生きた意見を意識する。

●付随する機能の紹介(メルマガ、掲示板、アンケート、会議室)
毎週のメルマガ発信で更新情報をプッシュ。各記事には掲示板への投稿機能をつけて、記事に対して誰でも意見が書き込めるようにする。
一方で名前が出てしまうことへの心理的抵抗を下げるため、非公開のアンケートも実施。最近では誰でもアンケートが実施できるようになっており、仕事上の意見収集にも使われている。
また、メンバーを限定した会議室も用意。多くは仕事のプロジェクトだが、中には個人の呼びかけで集まったグループも利用。現在は空き室待ち状態。

●アクセス数
これはデータを出してみなければ分からないが、最新データが手元にない・・・。
おおざっぱにいって、ユニークアクセスが1日に300~700人、週に1200~2000人、月に2500人以上といった感じか。
残念ながらすべての人が見る、というところまではいっていない。

こんな感じだろうか。時間なくなってしまった・・・。

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2006年2月 8日 (水)

ナレッジマネジメント事例の紹介

来週とある会社の社内フォーラムで自社のKMの取り組み事例を紹介することになっている。
・・・全然準備していない。KMは今の仕事ではないだけに、日中は後回しになりがちだ。

少しプレゼンの構成だけでもこの時間に(笑)考えておくことにする。
時間は1時間だが、質疑応答もやりたいので、実質的なプレゼン時間は50分ぐらいだろうか。もっとも最後の時間だそうなので多少の延長は構わないと言っていたな・・・。

プレゼンシートを1ページ5分程度で考えれば10ページ。ただ、実際の画面を見てもらうので、その時間も考えると実質的には6ページ程度だろうか。思ったより少ない。

最低限紹介しておく必要があるのは・・・
●会社・事業の紹介(一応)
●KM活動立ち上げの経緯とこれまで
●KMのコンセプト
●(メインとなる)コミュニティポータル(と先方には言っている)の紹介
●付随する機能の紹介(メルマガ、掲示板、アンケート、会議室)
●アクセス数

・・・って、これだけで6ページになってしまうではないか。全体を紹介しようとすると、項目を並べるだけでも結構な量だ。

そして、この他に実際のコンテンツややりとりを見てもらわなければならない。

紹介したいコンテンツは・・・
●日々の情報発信と顧客の声
●リレーコラムと自己紹介(自ら発信)
●掲示板(個々の情報発信・Q&A)
●アンケート(改善につながる?事例)
●会議室(業務プロジェクトetc)

そうそう、効果というか評価にも触れておかなければならない。
●社内での評価(まだまだ・・・)
●社内の変化(そこそこ・・・)
数字的な評価は難しい(アクセス数ぐらいしかない)のだが、目指すコンセプトに対してどんな現状かはある程度触れておく必要があるだろう。

さて、これをプレゼンシートに落とし込まなくては・・・。

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2006年2月 7日 (火)

キーワードを絞り込む

散財.comというSNSを見つけた。

最初に見たときの感想はこんな感じだったのだが、しばらくしてこのようなことも考えてしまった。

イントラブログでも、案外こういったアプローチもありかもしれない。これまで書いていた「個人の能力向上」ではなく、いわゆる情報共有を目指す場合、なんらかの共通のキーワードで括ってしまうという方法はあるだろう。
というよりも、そうでなければなかなか情報の共有にはつながらないような気がする。

チームブログの場合も、どちらかというとチームSNSのように個人ではなくチームが結びつくような仕組みってできないだろうか。プロジェクトSNSでも良いが、特に仕事の情報共有は個人単位ではなくチーム単位でやった方が効果的なはずだ。

プロジェクトを進行させる上での必要なガイドラインを提示し、それにそって各プロジェクトが記入した内容をシェアしていくことで、互いのレベルのすりあわせもできるし、思わぬ発見もありそうな気がする。単なる日記では時系列に見ていく必要があるが、体系的に整理されキーワードでリンクされていれば単発でも参考になるエントリは多いはずだ。

時系列に記録していく要素を弱くして、トラックバックのようなネットワーキングの要素を強化すれば、また別の活用方法が出てくるような気がする。

営業だったら・・・得意先.comといったように、自分ではなく相手を中心に据えたSNSもありではないだろうか。

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2006年2月 6日 (月)

暮らしに関する意識比較アンケート調査

「暮らしに関する意識比較アンケート調査」のお願いという葉書が、数日前届いた。
無作為に選ばれた3000人強を対象にしたアンケート調査で、調査主体は「内閣国民生活局総務課調査室」、調査自体はアウトソースされて「サーベイリサーチセンター」という会社が行うと書いてある。

なんだか怪しげな気がしたので、調べてみた。

問い合わせ先として掲載されていた内閣府の電話番号は、当初「国民生活局総務課調査室」で調べてみたら(HPに掲載されていた)、番号が違っていた。ますます怪しいと思ったのだが、もう少し調べてみたら部署の番号ではなくて内閣府の大代表の番号だということが分かった。

一方サーベイリサーチセンターの方は、会社自体はもちろんあるのだが、問い合わせ先がフリーダイヤルで部署名とかがないので、それ以上調べられない。

念のため、内閣府のHPから、そういった調査を行っているのか問い合わせてみると、実施しているので協力お願いします、と返事があった。どうやら取り越し苦労だったようだ。

調査票が届いたので、今日にでも記入しようと思うのだが、こういった郵便物に何らかの担保をする方法はないのだろうか。本気で疑うのなら、調査が実際に行われていることと、自分がその対象に選ばれたこととはなんら因果関係はないと考えることもできる。

この調査の場合は、内容自体が別にたいしたことではなさそうなのでどうでも良いのだが、そうではない類の郵便物があった時に、どうしたものか、などと考えてしまった。

余談だが、この話を会社でしたときに「3000人に選ばれるなんてすごい」という反応がいくつかあった。
自分にはまったくそんな気持ちはなかったのだが、なるほどそういう受け取り方があるのであれば、その人には申し訳ないが「選ばれた」という表現に踊らされてしまう人はいるものなのだ、と感じてしまった。

勝手に選ばれても困るのだがな。

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2006年2月 3日 (金)

書く力を向上させるためのイントラブログ

このところイントラブログに否定的なことばかりエントリしてきた気がするのだが、別に導入に反対と言うことではないので、逆の視点から考えてみる。

以前書いたように、自分自身のイントラブログの捉え方は、本人にとってはまず自身の修練が目的であり、会社としては本人の成長のために導入するのが良いのではないか、と考えている。情報発信や情報共有がないとは言わないが、最初からある必要はない。

ただ、評価が難しいのは確かだろう。ここでの「本人の成長」というのは地力の話だから、即効性のある形で見えてはこないのだ。これは会社だけではなく、実は本人にとっても苦しかったりする。
しかし、きちんと目的を持って書いてさえいれば間違いなく書く力は向上する。

ポイントは「書く力の向上」なのだ。イントラブログの場合これが一番大切なことではないか。

ここでブログの持つ性格が生きてくる。

いわゆる業務レポートはつまり報告書だから、書く段階で本人の書く力が試される余地はほとんどない。最低限の書く力は必要だが、むしろ必要なのは「相手の読みたいことは何か」を把握する力だろう。
これはメールにも同じことが言える。メールにせよ報告書にせよ、書く相手(ターゲット)ははっきりしているから、実は書く力よりもコミュニケーション力の方が試されていると言える。それに大抵は「求められて」書くものだから、内容自体が限定されている。

一方、掲示板のような場で自分の意見を書く、というのはかなりハードルが高い。あっさり越えてしまう個性の持ち主もいるが、これはどちらかというと希なケースだろう。断っておくが「自分の意見」ということは匿名ではなく実名で書くと言うことだから、掲示板といってもインターネットの掲示板とは意味が違う。

そこでブログなのだが、最初は本当に「自分の考えをまとめるためだけに」スタートすることができる。スモールスタートができる、というのがまずポイントだ。そしてその後の展開も個々人の事情にあわせることができる。

自分の考えを書くということを続けていると、どこかで他の人にも読んでもらいたいと思うようになる。認知欲求という奴だ。すると読み手を意識して書くようになる。こういった経緯を経た場合、内容は自分の意見を維持したまま、表現を工夫するようになるはずだ。いきなり掲示板では、表現を工夫するつもりで、内容自体変容してしまう可能性が高い。

自分の意見は保持したまま、他の人に読んでもらえるように書く、というプロセスが、書く力を鍛えることにつながる。

・・・いやいや、それは別に「イントラ」ブログである必要はないんじゃないか、という指摘もあるだろう。
実は純粋に「個人的な」意見を書く場合はその通りである。そうではない内容、会社に対する意見、仕事に対する意見を書く場合に、イントラブログは意味を持ってくるのだ。

時間切れ。いつか続く。

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2006年2月 2日 (木)

情報が多すぎる

事務局として参加しているiUG(INTRA BLOG/SNS USERS GROUP)でも紹介されていた「ビジネスパーソンの社内ブログ利用状況」に関する調査なのだが、ちょっと読んで考え込んでしまった。

これによると・・・
・従来の電子メールやイントラネットでは、情報が多すぎて欲しい情報が探しにくいなどの理由で情報共有がうまくできていない
・社内ブログは情報共有に有効だと考えており、その活用条件は「使いやすく」「気軽に発信できること」

・・・矛盾していないか?
使いやすく気軽に発信できるブログというツールは、情報をより増やしこそすれ、減らすことなどあり得ない。
もし、「情報が多すぎて欲しい情報が探しにくい」というのが本当に問題点だと思っているのなら、気軽に情報発信できる手段など導入しない方が良いということではないだろうか。

それにそもそも「情報が多すぎて」「欲しい情報が探しにくい」というのは、本当に因果関係として成立するのだろうか。逆にいうと情報が少なければ、欲しい情報は探しやすくなるのだろうか。

例えばA~Cの3つの情報の中から、Aという情報を探すのと、A~Jの10の情報の中から、Aという情報を探す際の「探しやすさ」の比較なのだろうか。
しかし、すべての情報を閲覧してAという情報を探すのであれば、確かに後者の方が「探しにくい」が、システム的にはAという欲しい情報がきちんと定義されていれば検索はそれほど難しくないはずだ。仮に検索スピードに差があっても、それを「探しにくい」とは言わないような気がする。

それでは「欲しい情報」というのは、明確には定義できないが今の自分に役立つ情報、ということだろうか。
確かにそれでは検索しようがない。ある意味1から10まで閲覧しなければ見つからないものだろう。でも1から3までしか情報がなかった場合、5番目に自分の欲しい情報があるなら永遠にたどり着けないことになる。
つまり「情報が少なくても」探しにくさという点では変わらない。むしろ少ない方が可能性が失われる確立が高いということだ。

あるいは情報が多すぎて取捨選択ができない、ということだろうか。
しかし、少なくたって取捨選択の難しさは変わらない。むしろ与えられた情報が少ない方が、取捨選択は難しい。少ない中から簡単に選んで、なんとなく正しい選択をしたと思っても、実はその情報の外に正しい答えが隠れているかもしれない。それは情報が多かろうが少なかろうが等しく平等に存在する可能性だ。

思うに、「情報が多すぎて」というのは単なる口実なのだろうと思う。情報というのは、結局のところ現実の鏡だ。情報が増えるというのは、情報という実体のない虚構が増えるのではなく、接することのできる現実の幅が広がるということなのであって、それを受け入れて自らの幅を広げるか、受け入れずに狭い世界で生きるか、ということが問われているということなのではないだろうか。

いずれにしても、社内ブログを導入したって「情報が多すぎる」状態が解消されることは絶対にない。それは新しい情報(世界)に通じる窓を開くだけで、後はそれの覗く側の問題なのだ。

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2006年2月 1日 (水)

イントラブログで情報共有してはいけない

昨日上司にやんわり注意された。いや本人はその気はなかったかもしれないが・・・。
そして改めて思った。イントラブログは「情報共有」という意図でやってはいけない。
・・・難しいぐらいにしておこうかな(←弱気)。

一言で言うと、
「受信者が能動的に接する手段で、発信者が情報を伝達するのはリスクが大きい」
ということにでもなるだろうか。

昨日の注意というのはこんな内容だ。

一昨日、とある事業所を訪問して意見交換を行い、その様子を社内有志向けのメルマガ(読み手の希望で配信しているし、読む読まないは本人の判断だから、ある種ブログと同じと考えて良いだろう)に書いた。
それに対して上司(も読んでいる)から「仕事」としてはきちんとレポートにまとめて保存しておいた方が良いとリターンがあったのだ。

確かにその通りだが、毎日のように書いているとこういうミスをよくやる。オフィシャルな報告はきちんとするべきものだから問題外なのだが、もう少し些細なレベルで自分が伝えたいことを書けば必要な相手に「伝わっている」と無意識のうちに考えてしまうのだ。

これは日報などのオフィシャルな情報をイントラブログで共有するリスクではないかと思う。
ブログには本来「伝えたい相手にメッセージを送る」性質はない。自分が書くのは自分のブログであり、一方でそこにアクセスするかどうかは相手の判断に委ねられている。
書き手は「自分の庭に」書くから、無意識には相手(受け手)のことを意識しない。一方でやはり無意識に「相手には伝わっているはず」という幻想を抱きやすい。

これはイントラブログのように限定された世界ではさらに顕著になるはずだ。

「必ず読むように義務づける」という方法もイントラブログならある。
しかし、それではメールやグループウェアの掲示板と同じだ。整理や公開のやり方を工夫すれば、ブログでなくても十分可能だし、それ以上にブログを「見なければならない」というのは、単にアクセスしなければいけない情報を増やすだけで、読み手にとっては負担にしかならない。

実はこの「必ず読むようにする」という対策が一番怖いのだ。
メールや掲示板は、まがりなりにも自分のフィールドではないから、相手のことを意識してメッセージを送るブレーキがある程度働いている。しかし、ブログという自分の場にはそのブレーキがない。一方で仮にブレーキがあれば、自分の庭とすることで投稿しやすくするというメリットがなくなる。

これは大きな矛盾だろう。
この矛盾を解決する、あるいは回避できるやり方や目的が、イントラブログには必要なのではないかと思う。

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