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2006年2月24日 (金)

情報や感情を「共有」する

昨日のエントリの、どちらかというと脱線の方の続きになるのだが、情報を共有する、感情を共有するというのは、そもそもどういった状態なのだろう。

もう少し端的に言ってしまうと、情報を「伝達する」と「共有する」の違いは何だろうか。この際、両者は同じものとは考えずに、あえて違うものとして捉えてみる。

例えばA社がB社を買収するという「情報」を入手したとする。この情報を「伝達する」のではなく「共有する」というのはどういった状態なのだろうか。

考えられるのは、「伝達」の場合、伝達側の伝える意思と、伝える相手(その情報を知りたい相手)がいるということだ。一方、共有が伝達と違うとして、差を見いだすとすれば、どちらかもしくは両者がない状態と仮定できる。

伝えるつもりがないか、伝える相手がいない(分からない)、あるいは双方の条件が重なっている状態・・・こう考えると、「伝達する」に比べて「共有する」というのはかなりあいまいな状態ということになる。

一方で、こういった状況は決して珍しくない。他の人の役に立つと思わなければわざわざ発信しようとは思わないだろうし、そもそも伝える相手がいなければどうしようもない。だからこそ、そのような状態を解消しようとするために「情報の共有」が叫ばれるのだろう。

しかし、そうなると情報共有はそもそも誰のためなのだろう。少なくとも伝える気がない人のためではあり得ない。知る気がない人のためでもあり得ない。
すると「伝える気があるけど誰に知らせたらよいか分からない人」と「知りたいけれども誰が情報を持っているか分からない人」のためということになる。

情報共有というのは、一見するとその情報そのものが大事のような気がするが、実は「情報を持つ人」「情報を知りたい人」のマッチングこそが大事なのだ。

そうなると、ブログのようにパーソナル色が強く、しかも見る見ないもその人の判断に委ねられるようなツールで、どこまでその両者のマッチングをマネジメントできるかがポイントになってくることになる。

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