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2006年3月31日 (金)

匿名・実名とはどんな状態か~その1

昨日に引き続いて、大川さんのブログから・・・。
お会いしたときにも質問があったのだが、匿名と実名についてのエントリがある。

匿名か実名かというのは、結局のその場が何を目的としているかで決まってくるものなのだが、この議論は以前社内でも散々やっていて、個人的に色々考えていた時期がある。

で、昔の日記を検索してみたら、こんな文章が出てきた。(2002/9/26とあるが、それもコピーで実際に書いたのはさらに前だとメモが添えてある。)
非常に長いのだが、一部修正(自社名が書いてあったので)して掲載する。
ちなみに「ティーラウンジ」というのは当時議論の俎上に挙げられていた掲示板のことだ。

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※書きなぐりのメモです。お許しを・・・。

匿名のメリット?
●意見が言い易い。
 誰の意見という追求がないので、比較的気軽に意見が言い易い。
 →多様な意見が出やすい?
●コメントの正否の見極めを読んだ人間が行うようになる。
 誰の意見という責任を問えないので、コメントの正否は読んだ人が判断するようになる。
 →能動的に情報に接するようになる?

匿名のデメリット?
●(無責任な)意見が言い易い。
 誰の意見という追求がないので、比較的無責任な意見が出やすい。
 →放言、罵詈雑言?
●コメントの正否の見極めが難しい。
 誰の意見かわからないので、そのコメントの内容の保証がない。
 →誤情報による判断の誤り?

現実に匿名性を前提にしたインターネットの世界では?
誹謗中傷や荒らしのような目を覆いたくなるような惨状が見られる反面、秩序ある場を保っているケースもある。つまり非常にモラルが低下している場がある反面、現実世界よりもマナーの良いケースもある。
匿名というのはインモラルな人間はよりインモラルに、モラルのある人間はよりモラルに気をつけるようになる場なのではないか?
厳しいようだが、匿名の場で暴走するような人間は、もともと性根に問題があると指摘されてもやむをえない。記名で暴走する人間も同様の評価を受けるはずで、匿名の場合の暴走が「匿名だから」という環境による理由はあてはまらないとも言える。

匿名のデメリット?
しかし上記の場合、記名での暴走は周囲が直接諌めることも出来るし、それが正しい意見であればやがて「見識のある」という評価を受ける可能性もあるだろう。
匿名にはそういったリアルの評価は存在しない。正しい意見だとしても、言った人間を直接評価する術がない。もちろんその場での評価は可能だが・・・。

正しいことは誰が言っても正しい
この言葉どおりなら、匿名であれ記名であれ正しい意見は正しい。しかし、一方で意見の正しさだけでなく「やり方の正しさ」を求められるケースは往々にある。つまり必ずしも内容の正しさだけで意見は評価されず、その意見の出し方が正しかったか、という手段によるフィルターは間違いなく存在する。
そういった意味でも匿名は大きなリスクを背負っている。記名は正当な手段だが、匿名はかならずしもそうとは受け取られないケースが多い。

(例えば、ティーラウンジのような場ではなくなぜ職制に意見を上げないのかという意見、オンラインのやり取りと直接のやり取りを比較して「なぜ直接聞かないのか」という意識、はオンラインの意見の評価に一定のフィルターをかけている可能性がある。
同様に匿名・記名を論じて、記名のやり方が「正し」く、匿名が「正しくない」からと意見の評価に差がでてしまうとすれば、それは望ましい状態とはいえない。)

やり方という評価は、逆の見方をすれば、内容が多少正しくなくても、やり方さえ正しければ正しいとされてしまう場合もある。また、正しいとされるやり方自体が本当に正しいかどうかの判断は、非常に難しい。
フィルターのない分、匿名の方が、より公平にその内容を評価できる可能性はある。同時に内容だけで説得力をもたせる必要があるので、コメントはより慎重にする必要もあるだろう。記名はその時点でコメントに様々な情報を付加しているとも言える。

記名があるべき姿
これはティーラウンジ開設時の議論での最終的におちついた理屈だが、上記からあらためて考えると首肯し得ない部分もある。誰がどんな形で口にしても正しいことは正しいのであれば、そこに「記名があるべき姿」というフィルターをかけるのが本当に正しいことなのか、という疑問が発生する。記名だろうが匿名だろうが正しい意見がでるのが「あるべき姿」であって、記名だからどうこうというのはおかしい気もする。

「正しい意見ならなぜ記名で言えないのか」という議論には「正しい意見に記名匿名がどう関係あるのか」という反論が出来る。「正しくない意見が出たときは?」正しい意見で反論すればよい。意見と意見のぶつかり合いに記名匿名は関係ない。平社員の論理に、社長の名前ではなく社長の論理できちんと答えるのがむしろあるべき姿だろう。

ただし、匿名の場というのはモラルのない場の事ではない。当事者を名指しにして意見を言う、あるいは意見を求めるのであれば、自らも名乗るのが礼儀だろう。相手は明らかにしているのだから。
問題は匿名の場に対してそういった認識があるか、という点だ。ないのであれば、やはりリスクが高いことは否めない。互いに匿名が保てなければ匿名の場の意味はないからだ。

(つまり匿名の最大のリスクは、一方だけが匿名ではなくなってしまう可能性にあるとも言える。記名は匿名を選べないが、匿名は記名を選ぶ、あるいは要求することが出来てしまうからだ。これは不特定多数のインターネットには存在しない、会社という環境において成り立つリスクである。)

もちろん「ない」という現実があっても、記名が「あるべき姿」という理屈には結びつかない。せいぜい「記名にせざるを得ない」という程度だろう。ただし、では逆に匿名があるべき姿かというとそうではない。言うなれば「匿名記名は関係ない」というのがあるべき姿だろう。

同じ社内なのに匿名でしか意見が出ないなんて情けない
厳しい言い方をすれば、匿名でしか意見が出せない相手が情けないのではなく、匿名でしか意見を出してもらえない自分が情けないと思うべきだろう。だが、本当に情けないのか?匿名を理由に評価しない方がよほど情けないのではないか。

もっとも、意見を出す側が「評価しないのは情けない」意見を出してもらう側が「出せないのは情けない」では先には進めない。つまり、出してもらう会社側が「出せないのはなさけない」「あるべき姿ではない」といったり、出す社員の側が「評価しないのは情けない」と言っているようはダメなのだ。

当社は会社と従業員を必ずしも厳密に分けているのではないようだが、互いにそう言い合ってしまうようではお終いである。

匿名とはどんな状態か?
匿名というのは、その意見を出した人間が特定できない、個人の顔が見えない状態の事だ。では署名があれば匿名ではないかといえば、それは必ずしもそうではない。

「部署として」「立場として」言った意見は、個人の顔が見えているとは必ずしも言えない。本来はそういった部署や責任を背負っていても、その人だから出てくる意見が普通だと思うが、「誰が言っても同じ」意見だとしたら、それは匿名と同じだ。

つまり、匿名か匿名でないかというのは、署名のあるなしではなく、その人の意見であるかどうかで本来は決まるものなのだ。「部署としての」意見についている署名は、意見の内容を個人として保証するものではないのではないか。

(そりゃそうだ。保証するのは「部署」だとそういう意見を口にする人間は言うだろう。つまり、署名があっても、その内容が匿名と大差ないものは存在するのだ。)



(まだ続く・・・)

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・・・まだ続く、と書いてあるが、続きがない(笑)
さて、どのようなことを書こうとしていたのかはちょっと定かではないのだが、この最後にある「匿名とはどんな状態か」逆に「実名とはどんな状態か」というのは、一つ考えてみると面白い気がする。

気がする・・・のだが、今回はエントリがあまりに長くなったので、また別の機会にしよう。

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2006年3月30日 (木)

連想ゲームとしてのトラックバック

先日iUGでインタビューさせていただいた大川さんのブログディスカッションDBからの脱却~その1~を読んで「なるほどなぁ」と思ってしまった。

こんな一節があったのだ。

しかしトラックバックは、人間の連想ゲーム思考をうまく利用して、議論を深め、新たな気づきを得ることを推進します。

思わずコメントもしてしまったのだが、このトラックバック=連想ゲームというのが、実はトラックバックの本質なのかもしれない。

個人的に他の人のブログを読んでいて、コメントするかトラックバックするか、迷うことがある。
そのエントリに対する意見があるとして、それはコメントするべきだろうか、それともトラックバックするべきだろうか、と悩んでしまうのだ。

自分の場合、基本的に「自分の書くものは自分でコントロールしたい」という欲求が強いため、トラックバックをすることが多いのだが、それがエントリへの意見である場合に、本当にトラックバックで良いのかという疑問が頭をよぎる。

ビジネスブログにおけるトラックバックの効果として「自分の庭に落書きする奴はいない」つまり、荒れにくいというものがあるが、一方で「自分の庭だから自由に書ける」という側面もある。ところがあるブログのエントリに対する意見を書く場合に、果たしてそれがフェアなのか、とふと思ってしまうこともあるのだ。

これが、意見=コメント、連想=トラックバックとすると、かなりすっきりしてくるような気がする。

つまり、最初のエントリをテーマにした意見はあくまでコメントの形で交わし、そうではないのだが思わぬ着想を得たというような、ある意味「脱線」はトラックバックする、と考えると両者の使い分けがすっきりするし、ナレッジマネジメントのツールとしてのブログの位置づけ、特に掲示板との違いがはっきりしてくるのだ。

他人の意見を読んでいて、本人の意図とは全く違うところに反応したくなることは多々ある。
ただ、そういった部分をコメントしてしまうと、結果としてツリーが乱れてしまうことが多い。

そこで、意見の趣旨とは全然関係ないけれども引っかかった一言とか、ひらめいた思いつきはトラックバックする。そうすることによって、一見異質なエントリが思わぬ形で関連づけられる。それこそがブログにおけるトラックバックの最大の特徴ではないだろうか。

さて、そんな視点で見てみると、実は大川さんが悩みとして書いている「ディスカッションDB化」というのは、別にそれはそれで構わないのではないか、という気がしてくる。むしろ通常のブログの欠点は、そのテーマに対する深耕のためのコメント機能が弱い点とさえ思えてくるほどだ。

コメントの種類によって、それが連想的性格のものであればトラックバックに切り替えてもらえばよいし、そういったエントリも推奨していくことで両者の理想的な融合が図れるのではないか、という気がしなくもない。

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2006年3月29日 (水)

道具的な外来語

今日は外出先から直帰したので時間がある。なので、明日を待たずに今朝の続きを書いてみよう。

実は外国語教育のあり方というか考え方について、このようなブログを読んで、なるほどと思ってしまったのだ。
ヒラカワの見方:悪い兄たちが帰ってきた Tokyo Fighting Kids Return その18

後半にある「日本人はどうして英語ができないのか」という箇所に、このような一節がある。

植民地の宗主国が植民地の人間に語学教育をしますね。コミュニケーションができないと不便だから。

でも、そのときの語学教育の中心は必ずオーラルなんです。文法や修辞学はあまり教えようとしない。

理由は簡単です。

「読み書き」をきちんと教えると、植民地原住民の中から植民者人よりもリテラシーの高い人間が出現してしまうからです。原住民の秀才の中から、宗主国出身の教師を知的に凌駕するもが出てきかねない。

この後に、戦前までの英語教育が英語を「道具的」な発想で使っていたという話が出てくるのだが、外来語もこのように捉えてしまえば、実は何の問題もないような気がするのだ。逆にいえば話し言葉的な発想で受け入れてしまうことこそが、「侵略」と呼べるのかもしれない。

しかし、ということは置き換え語をきちんと考えていくというのは、そういった受け入れ方をするための1つの段階ということになる。外来語を日本語に置き換える過程で、その概念についての理解が進むのは間違いないからだ。置き換え語を単に「決める」のではなく「考え」ていくことこそが、外国語を外来語に、やがては日本語にしていくということなのかもなのかもしれない。

そういった意味では、安易に外来語を使う前に(そして外国語を「話す」前に)立ち止まって考えることも必要と言うことだ。
・・・あれ、今朝の内容とはちょっと違った結論になってしまった・・・。

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外来語と外国語

オルタナティブブログのシロクマ日報外来語の「侵略」が示すもう1つの問題というエントリーがあった。
氾濫する外来語の問題には、「外来語を受け入れるか受け入れないか」という議論とは別に「日本は新しいコンセプトを生み出してはいないのではないか」という懸念があるという話だ。

前者についてなのだが、そもそも「外来語」は何らかの形で変換された日本語であって、すでに外国語ではないのではないか、という気がしている。例えば日本語が当たり前に使っている「漢字」はそのような形で変換された中国語のなれの果てだ(言い方は悪いが)。

「英語を受け入れるか」というのと「外来語を受け入れるか」というのは、実はまるで違う議論ではないか。そういった意味で紹介されている日経の春秋は少し論点がずれているような気がしなくもない。日本語の文脈で使われている限り、どんなカタカナ語であっても、それは日本語だと思うのだ。

むしろ気をつけなければいけないのは、日本語の文脈が英語の文脈に取って代わられてしまうことだろう。そういった意味では、日本語教育を置き去りにした英語教育の方がむしろ問題になるべきだ。フランスのシラク大統領が懸念したのはむしろそういった側面ではないか。

そういった意味で言葉を無理に置き換える必要があるとは思えない。むしろ大切なのは、その言葉の文脈を日本語化させ、一致させていく議論のような気がする。

実はこの外国語の問題に関しては、以前面白いブログを読んだのだが、今手元にないので明日の話題にすることにする。

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2006年3月28日 (火)

言葉を使いこなす

昨日書いたメラビアンの法則だが、改めて考えるとこれは「伝える側」の事情にすぎなのではないか、という気がしてきた。

直接対話におけるコミュニケーションは、ノンバーバルな情報が大きく影響する。だから、伝える側はそういった点にも留意してコミュニケーションを行わなければならない。これは皮膚感覚としてはよく分かる話だ。

では、受け手から見た場合はどうだろうか。

ノンバーバルな情報がどういったものであれ、相手の意思は言葉にこそ込められているものだ。自信ありげに話そうが、不安げに話そうが、話す内容に差がないとすれば、ノンバーバルな情報に惑わされて伝える側の意図をミスリードするのは、実は大きなリスクということになる。

だからこそ「傾聴」という心がけが大事であるとよくいわれるのだが、これは実は「ノンバーバルな情報は排除して、その言葉のみに耳を傾けよ」ということとは考えられないだろうか。もっといってしまえば、言葉自体に含まれる微妙なニュアンスも排してしまえということがいえるかもしれない。

言葉だけではわずかしか「伝えられない」というのは、言葉だけではわずかしか「受け取れない」ということの裏返しだ。そこで伝える側は「言葉以外による」伝達を意識するわけだが、果たして受け手側も「言葉以外の」伝達を意識するべきなのだろうか。

しかし、伝わらない受け取れないというのは、言葉というツールの能力不足ではなく、言葉というツールを使いこなす能力の問題のはずだ。
少なくとも、言葉というツールを「使いこなす」ための努力が、今後は一層必要になってくるような気がする。

意外と受け手が心がけなくてはいけないのは、言葉から相手の意図を100%読み取るということなのかもしれない。

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2006年3月27日 (月)

言葉の進化

「言葉は真理や真実を認識する知的ツールであり、人と人とのコミュニケーションを可能にする唯一の社会的ツールです。」(東芝グループCSR報告書2005トップコミットメントより)

CSRではなく、KMの視点ではあるのだが、この「人と人とのコミュニケーションを可能にする唯一の社会的ツール」が言葉である、という捉え方はそうであって欲しいと思う反面、そうなのかと疑問が残るところである。
良くいわれる話だが、人と人とのコミュニケーションにおいて、言葉が占める割合は決して高くはない。

もっとも、これは感情的な理解において、という条件をつけることもできるだろう。この話の根拠として引き合いに出されるメラビアン博士の実験は、「言葉の内容と表情が矛盾するときに、人はどちらを受け入れるか」というもので、博士自身がこの実験の結果をコミュニケーション全体に拡大して考えるのは難しいと認めているそうだ。

そのように考えると「社会的ツール」という部分にそういった考え方が表れているのかもしれない。なんとなくの感覚ではあるが、単なるコミュニケーションツールであるというのと、社会的ツールであるというのは、少しニュアンスが違うような気もする。

言葉、というのは、恐らくまだまだ進化の余地があるのだろう。これまでは対面でのコミュニケーションにおけるツールとしての役割が大きかったから、それ以外の要素によって補完することができたが、ネットでのコミュニケーションとなると、純粋に言葉だけということになる。

そうなれば、言語自体の変革も避けられないのではないか。より言葉だけのコミュニケーションに適した言語というのが、どこかで必要になってくるような気がする。

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2006年3月24日 (金)

ダイバーシティとイントラブログ

CSRのテーマの一つにダイバーシティというものがある。一言で言ってしまえば「多様性」のことで、多くは労働におけるダイバーシティのことをさす。
さらにこれは性別、身体状況、人種・国籍、世代などの「属性」から見た場合と、雇用形態や働き方といった「価値観・生活スタイル」から見る場合に大別されるそうだ。

ビジネスリサーチNo.981で、ベネッセコーポレーションの桜木君枝氏がベネッセの「ファミリー・フレンド施策」について書いていたのだが、その中にダイバーシティについてそんな説明があった。
ビジネスの視点から見ても、社会の多様性に適応し、企業の競争力を高めるために、従業員自身の価値観が多様な形で組織内にあることが必要なのは想像に難くない。

そんなわけで、そういった視点でイントラブログを考えてみるのも面白いかもしれない。情報の共有、感情の共有にある「共有」と併存する形で、いわば価値観の「衝突」があることが、健全な組織、競争力のある組織ための基盤になるという考え方だ。

桜木氏の寄稿の中には企業不祥事の原因の一つとして、「単一的な価値観に基づく組織風土」というものが挙げられている。先日のKM学会の講演で「掲示板には組織の健康状態が表れる」という話があったが、これも似たような話かもしれない。

イントラブログは、ある種同質な企業の中で個人の価値観を顕在化させる効果を持つ。一昔前だとむしろそういったことが「組織に波風たてる」リスクとして認識されていたかもしれないが、今の社会環境ではむしろリスクマネジメントの一環という捉え方もできるかもしれない。

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2006年3月23日 (木)

書き手からスタートする社内ブログ

昨日触れた「オピニオン」だが、その存在を知る知人から「休止ですか」という質問をもらった。
休止ではなく、たまたま今回執筆陣全員が「お休み」してしまったというものだ。
だが、その時に話したのだが、基本的に書くことは強制ではないだけに、こういったリスクは常につきまとう。今までが良かっただけ、ということもできるだろう。

閑話休題。昨日はKM学会理論・企業調査研究部会に出席し、iUGの事務局二人の講演を聴いてきた。
取り組み内容については折に触れ聞いてはいるのだが、改めて聞くとやはり面白いと思う。
ただ、このままではいけないと思うのは、自分が傍観者になってしまっていることだ。

こういった形で得た情報・知識・気づきを実際に活かせなければ価値はない。
講演の中にあったが、「実際のアクションに結びつく」ことがなければ、こういった知見はすべて埋もれてしまう。

いかんいかん、朝からこういった「反省文」を書いていると一日が暗くなる。大切なのは決意だ。

一つ考えてみようと思ったのは、現在勝手メルマガの形で社内有志に配信しているCSR日記を、もう少しオフィシャルに公開していくことだ。これは、社内ブログを自らやる(事務局ではなく書き手としてやる)ということでもある。

そうなれば、あまりつぶやき的な内容だけというわけにもいかなくなってくる。バランスをとる意味で、ある程度公式発表に近いものと、従来の個人的私見に近いものとをうまく併用していく必要があるだろう。
・・・実はその「公式発表」の方が、意外と難しかったりするのだが(笑)

もう一つ課題を挙げるとすれば、自分がこうした発信をしても大丈夫なような、「風土づくり」のサポートをしてくれる「事務局」の存在をきちんと見つけることだろう。事務局が書き手を探すのではなく、書き手が事務局を探すというのも変な話だが、同じ仲間の書き手も探していかなければならない。

こう考えると、以前の仕事でやってきたことがどれだけ効果があったか、自ら実証するようなものかもしれない。

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2006年3月22日 (水)

ネタがないジレンマ

書くネタがないときに、無理にでも書くべきか、それとも無理せず休むべきか。

ブログを書いているとそんなジレンマにぶつかることがある。最初は気軽に始めたはずが、いつの間にか自分で自分を追いつめて、休めなくなってしまうのだ。

読者の顔はほとんど見えずに思ったことを書くだけの普通のブログでさえそうなのだから、読者がはっきりしてテーマを持ったイントラのブログとなるとなおのことこういったジレンマは厳しいだろう。最初から割り切って休んでいれば良いが、最初の頃に楽しかったりして調子に乗って書きまくったことが後で自分の首を絞めてしまうこともある。

そんなことを考えたのは、会社のリレーコラム「オピニオン」が今週は全員休載になるらしいという話を聞いたからだ。そう、割り切って休むということを続けていると、逆に更新されなくなるというリスクがある。
事務局だった場合、無理して書けとは言えないし、一方で休まれても困るというジレンマがあるのだ。

ちなみに無理してでも続けるということを考えた場合は、実は毎日書いた方が良いように思う。週に一度ぐらいだとそれなりのクオリティが要求されるが、毎日であれば中に一つや二つ手を抜いたエントリがあったとしても受け入れてもらえる可能性が高いからだ。

・・・ネタがないので、そんなことを考えてみた。最近少し「考える」ということがなくなって、書く内容が戯れ言になっているような気がする。

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2006年3月20日 (月)

インプットとアウトプット

先週の研修の最後に、インプットとアウトプットについての話があった。
何か新しいことをはじめる際に、何らかの新しいインプットをして、アウトプット(=仕事のやり方)を少しでも変えることを意識してはどうか、という話だ。

インプットの際に、アウトプットを「変える」ことを意識する。
振り返ってみると、あまりそういったことを考えたことがない。もちろんインプットはアウトプットにつながる要素ではあるのだが、どちらかというと自然に変わるという感じで、「意識的に」変えるというのは意外と難しい気がする。

自然に変わるのは単なる結果で、意識的に変えるのはプロセスだからだろう。

逆にいえば、インプットに対する意識が低いということなのかもしれない。最初からアウトプットのためにという意識でインプットをするのと、なにも考えずにインプットするのとでは大違いだ。本を読んでいるときに、気になった箇所に線を引く人は、そういったアウトプットを意識しているから引けるのかもしれない。

ちなみに自分は本に線を引けない。汚すことへの抵抗があるからだが、心の中でも弾いていないということを考えると、それは言い訳にすぎないかもしれない。

汚すのはいやだが、せめて線ぐらいは引けるようになろう。

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2006年3月16日 (木)

格差社会

昨日のメモ
ホリエモンがやったのは「今の」格差社会を壊すこと。それに対する反発が「格差社会」という批判ではないか。

格差というのは、単に収入の差というような見えやすいものだけではない。例えば、「二世議員」というのは、れっきとした格差の結果なのだが、意外と見えてこない。
「格差社会」を批判するときに、忘れてはいけないのは、格差があることではなくて、確かに格差はあるかもしれないが、それは本人次第でどうにかなるものかどうか、ということだ。

以前、竹中大臣が言っていたことだが、日本には見えない格差がある。家柄のように、本人の努力ではどうしようもない格差だ。それらは巧妙に隠されており、普段は目に見えることがない。そして、強固な体制により、ひっくり返ることもほとんどない。そもそも意識されないのだから、ひっくり返せるわけがない。

ホリエモンの行動にもし意味があるとするならば、その従来の格差社会をぶちこわそうとしたことかもしれない。
だからこそ、強い反発があるのだ。それは目に見えなかった格差を顕現させ、ホリエモンが提示する格差だけでなく、旧来の日本社会が持つ格差も明らかにしてしまう可能性があるからだ。

「格差」というのは「平等」とは相反するが、「公平」とは必ずしも対立しない。格差も平等も結果だが、公平はプロセスの問題であり、公平であることは、むしろ平等よりも格差を生むものだ。

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2006年3月15日 (水)

指令系統の統一

昨日の研修の一コマに「組織運営の4原則」というものが出てきた。

  • 統制の限界
  • 役割認識の統合
  • 指令系統の統一
  • 権限の委任

この中で、「指令系統の統一」というのは、所属メンバーへの指示系統は一つにするというものなのだが、実は本来の意味は「指令内容の統一」なのだという。

つまり、指令の内容が統一されていることが重要であり、その指示系統が何であるかは(厳密には)問題ではない、ということだ。
極端なことを言えば、指示する人間が誰であっても、その内容が同じであれば構わない、ということになる。

この手の話をするときに出てくるのが、他の上司からの指示や上の上の上司からの指示は「組織秩序が乱れる」というものなのだが、実は乱れているのは組織秩序ではなく、その指示内容の不統一こそ問題ということなのだろう。

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2006年3月14日 (火)

報・連・相

今週は一週間合宿形式の研修のため、外界(?)との接触がない。
そのため、基本的に内容が研修の内容になるのだが・・・。

昨日の話で印象に残ったのは、「報連相」は間違いだ、という話。
正確に言うと「相談」はする必要がないのだそうだ。上司には答えを持っていけという。
この場合の答えというのは、自分の考えのことだ。

じゃあ上司の役割ってなんなのさ、とも思ったのだが、上司にはその上司の部下としての役割もあるので、ようするに自分の責任範囲のことは自分の判断で行え、ということなのだろう。
概念的な話で普段の仕事とあまりリンクしないので、よく分からないのだが・・・。

もっとも、自分も「相談」をしているかと言われると、あまりしていない。これは意識的なものではなくて、自分のキャラクターによるものだろうが・・・。

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2006年3月13日 (月)

好き嫌いで評価する

昨日の「がっちりマンデー」で松井証券の松井社長が登場していた。
松井証券では、人事評価が360°評価なのだが、その際の基準は「好き嫌い」なのだそうだ。
(ちなみに唯一好き嫌いでは評価されず、数字だけで評価されるのが社長なのだそうだ。)

この「好き嫌い」というのは、ちょっと考えると非常に難しい。

例えばすでにある評価基準にそって評価していくというのは、実は年齢やキャリアに関係なくできるものだ。既存の人事評価に対する不満の一部には、本来「誰にでもできる」評価が、上司によってのみ一方的に行われる、ということに対してもあったはずだ。

ところが、好き嫌いとなると話は違ってくる。酒席での愚痴とは違うのだ。相手の人生にもかかわってくる場合に、その「好き嫌い」を表明するというのは、簡単ではない。仮に相手には伝わらないとしても、その意思決定はその後の接し方にも影響してくる。

「嫌い」と評価すれば、自身の心に影を落とす。一方で誰でも「好き」と評価すれば、さてそれで本当に適正な評価かという疑問が残る。

自分だったら、周囲の人間を「好き嫌い」で評価できるだろうか・・・そんなことを考えてしまった。
もっとも、シミュレーションという形で、時々そういった評価をこっそり行ってみても良いのかもしれない。

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2006年3月11日 (土)

やってみて発見すること

「NATURE INTERFACE」3月号で、茂木健一郎氏が連載している「クオリア・テクニカ」の第16回「イノベーションとセレンディピティ」というコラムを読んだ。

イノベーションつまり技術革新は、必ずしも科学的「知識」と等しいものではなく、セレンディピティ(偶然の幸運との出会い)と深く結びついている、という趣旨の話である。

最後の方にこんな一節がある。

「もともと、従来の世界観を覆すような発見が、単なる今までの知識の延長線上に存在するはずもない。ある意味ではわけがわからないままに、やみくもにやってみることによって、初めて出会うことができる偶然の幸運がある。そのような幸運に至る行動を積み重ね、出会いを逃さずにつかむことが、実はイノベーションの王道であるのだろう。」

実生活において、こういった実感は多々あるのではないか。理屈はともかくとしてやってみる中で新たな革新的発見を得るというケースだ。

ただし、これはいわゆる「やってみればわかる」というものとは次元が違う。

例えばOJTの場で「とにかくやってみろ」というのは、こういったセレンディピティにはあたらない。それは新たな新発見ではなく、すでにそうなると分かっていることを追体験させることが目的だからだ。

そのような追体験を目的とした「やってみる」は、本来きちんと理屈づけて説明しなければいけないものをさぼっているだけではないか。「やってみれば分かる」ことは、なぜそうなるかをきちんと追求していくことが必要だろう。

一方でまったく新しい試み、例えば「イントラブログをはじめる」といった場合には、不思議と「とにかくやってみる」という発想が出てこない気がする。だからやってみる前から色々理屈を考えるのだが、先に理屈を考えてしまっては、それ以上の発見が生まれる可能性は低い。

そう、イントラブログはまだまだ「やってみれば分かる」ことにはなっていない。やってみて発見していくものだ。

変な話だが、両者は本来目指すべき姿と実際の姿が食い違ってしまっているような気がする。
すでにそうなると分かっていることは「やってみれば分かる」と、その理屈の追求を怠っている。
やってみることで新たな発見をしていくべきものは、「何故やるのか」と様々な理屈を考えることで、その可能性を摘んでしまっている。

そんなことはないだろうか。

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2006年3月 9日 (木)

足跡のRSS配信

経営企画室 企画のもと「情報が多すぎる」と感じるときというエントリがあった。
先日のiUGでも情報爆発の話があったが、こういった情報洪水に関しては以前書いたとおり最終的に避けることができないものではないかと感じている。

世の中の本をすべて読むことができないのと同じようなものだ。情報というのは現実の鏡であり、アクセスのためのチャネルが増えれば、それだけ増えていき、恐らく限りがない。どこかで適当に折り合いをつけなければいけないのだが、ネットや「社内」の場合、なかなか感覚的に受け入れるのが難しいというのが現状だろう。

そうはいっても、何らかの整理は必要だろうということで、先のエントリでは例として次のような切り口での整理を挙げている。

  • トータルで閲覧回数の多い情報
  • 同じ人が繰り返し閲覧している情報
  • 更新頻度の高い情報
  • 多くの人が更新している情報
  • 被リンクの多い情報
  • 多くのリンク先を含んでいる情報
  • ○○さんが発信した情報
  • ○○さんが閲覧した情報

多くはすでに技術的にも確立されているもので、それをいかに上手に組み合わせるか、ということになると思うが、今後、特にイントラでの活用を考えたときに、最後の「○○さんが閲覧した情報」というのは非常に面白いのではないか、と思った。

言ってしまえば足跡をRSS配信するようなものだろうか。任意の何人かの足跡を集計し、どの情報に注目が集まっているかを通知してくれる仕組みというのは、特にコミュニケーションを目的とした場合に効果的な気がする。

自分に必要な情報とは何か?純粋に知識として必要とされる情報もあるだろうが、「情報共有」ということを考えた時に、必要な情報とは「相手と共通認識を持つための情報」だ。つまり「相手の見ている情報」なのだ。

情報共有ができていないというのは、要するに「関係している人と同じ情報を持っていない」というストレスのことだろう。無関係な人と同じ情報を持っていても、それは活かされない情報であり、それではやはり「共有」とは言えない。

そういったことを考えたときに、意外とイントラブログで重要になるのは「足跡情報のRSS配信」(そんなものがあるのかどうかは知らないが)ではないかと思った。
インターネットではほとんど意味がないと思うのだが・・・。

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2006年3月 8日 (水)

普通は書かないブログ

「走れ!プロジェクトマネージャー」社内ブログ導入のインセンティブというエントリがあり、その冒頭にあった「普通、書かないでしょ?」というコメントに思わずうなずいてしまった。

(念のために書いておくと、これはブログを書いている大木さんの意見ではなくて、先日の社内ブログ/SNS研究会で出た意見。)

きわめて個人的な意見を言わせてもらえば、普通は書かないからこそ、ブログは書き手にとって書く価値があるメディアなのではないかと思う。誰もが書いている日報には、報告以上の価値がないように、誰もがブログを書くようになったら、少なくとも今書いている人の多くは興味を失ってしまう可能性もあるのではないか。

意外と従来のhtmlによるページの人気が復活したりするとか・・・(笑)

そういった意味では「コメントがつく」というのは、普通に書くようになってもインセンティブとしての効果は大きいような気がする。

ちなみに大木さんが書かれているような「第三者評価」的なインセンティブは、ナレッジマネジメントで「知識を提供してもらう」際に似たようなやり方を考えたことがある。

簡単に言うと、部下のエントリに対して上司が褒めることで「上司に対して」インセンティブが発生するという仕組みである。無論、その褒め方が部下のエントリに対しての評価にもなるという仕掛けなので、単に「よくできました」というコメントを多発した場合、それによるインセンティブは発生しても、上司としての評価は下がってしまう(笑)ことになる。

結局それはアイデア倒れで終わってしまったのだが・・・。

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2006年3月 7日 (火)

企業の社会貢献と個人の社会貢献

CSRを考えるときに一つ重要なのが「社会貢献」というキーワードなのだが、そこでいつも考えてしまうのが「企業の社会貢献というのは事業活動そのものではないか」という疑問だ。

企業は社会に貢献することで、対価を得て発展するというのが基本的な社会の図式だろう。もちろんそれを逸脱してしまう企業があることは否めないが、それは本来の姿ではない。

だとすれば、良くいわれているような企業の社会貢献というのはどういったものなのか。
さらに最近は、従業員の社会貢献の支援ということも言われるようになっている。それは一体どのようなものなのか。

それで一つ思ったことがある。
こういった考え方が出てきた背景には、雇用形態というか、企業と個人の関係が変化してきたことが大きく影響しているのではないだろうか。

昔は、言ってしまえば従業員の生活はその大半が企業生活だった。仮に2/3が企業生活と考えよう。この状態だと、企業活動が社会貢献であれば、個人の生活も企業活動を通じた社会貢献ということになる。
そういった時代は、特に余計なことを考える必要はなかったのかもしれない。

対して、今は1/3が企業生活だとする。するとこれまで従業員が企業生活に注ぎ込んできた1/3の時間が浮くことになる。この時間を何に費やすか。そこで求められるのが、従業員個人による社会貢献であり、同様に事業活動に対する1/3のリソースを失った企業が別の形で行うのが、事業活動とは離れた社会貢献ではないか。

うまく言葉にならないのだが、そんな理屈を考えてみた。こう考えると、企業による従業員の社会貢献支援というのは、要するに残業を減らす(それでも業績や雇用は維持する)ことで、従業員が企業活動以外に自らのリソースを使えるようにすることこそ重要ということになる。

一方、個人はその時間を企業活動とは別の形の社会貢献に活かせば良いのだ。極端な話、副業によるビジネスだって、それが社会のための事業であれば社会貢献には違いない。

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2006年3月 6日 (月)

第3回社内ブログ/SNS研究会

事務局として参加しているiUG第3回社内ブログ/SNS研究会が土曜日にあり、翌日はミニクラシックコンサートと怒濤の週末だったので、少々体調を崩し気味だが、オフィシャルレポート(書かねば)とは別に研究会で思ったことなど。

ディスカッションの結果発表で、電話との連動という話があった。簡単に言えばブログのエントリを読んだ人が、コメントではなく電話をかける手段を用意するというもの。確かに手段はどうあれ、こういった形で新たなコミュニケーションが生まれるのであれば、さまざまな方法を用意しておくことは必要な気がする。

山崎秀夫さんによるゲスト講演の中にあったモジュール化の話ではないが、そういった意味ではブログも一つのモジュールなのだ。ブログだけで何ができるか、何をできるようにするか、よりも、今のブログの機能を一つのモジュールとして全体の仕組みの中にはめ込んでいき、トータルのシステムにつなげていくのが面白いのではないだろうか。

ちなみに直接電話がかけられるわけではないが、社内のコミュニティポータルの「自己紹介」のページには、内線簿を開く機能をつけていたのを思い出した。内線簿側のシステムをいじれないので、直接その人の電話番号を開くことはできない半端なものなのだが、意外と思いつきとしては良かったのかもしれない。

そういった他の仕組み、それもいわゆるイントラネットのものとは別の仕組みとの連携を自由にできるようにすると、社内ブログというのはまた別の進化ができるのかも。インターネットほど標準化を考えずに、社内の環境に特化できるという強みもあるわけだし・・・。

ともあれ、みなさんお疲れ様でした。第4回が楽しみです。

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2006年3月 3日 (金)

格差社会?

最近「格差社会」というキーワードをよく耳にする。

小泉構造改革が格差社会を生んだ、なんていうのはその最たるものだろう。だが、格差社会というのはどういう社会だろうか。本当に構造改革が格差社会を生んでいるのだろうか。

昨日の小泉内閣メールマガジンに、格差社会についての話があり、ふとそんなことを考えた。

格差というのは、一定の評価基準に基づいた格付けから生まれるものだ。
格差社会を生んでいるのは、そうやって一本の物差しですべてを比較しようとする社会のあり方から生まれているのではないだろうか。

もっと言ってしまえば、「格差社会」「社会に格差が広がった」と口にする人たちの画一的な物差しこそが「格差社会」を生んでいるのではないだろうか。そんな気がしなくもない。

むしろ豊かさというのは、各人各様の物差しがあって生まれるもののような気がする。そして、物差しがバラバラであれば、格差なんて発生しないのだ。

格差社会というのは、そうやって格差社会を批判する人たち自身の考え方から生まれているのだ。一方的に「格差がある」と格付けされる方こそ、実は迷惑な話なのかもしれない。

もっと自由な価値観や視点があっても良いと思うのだが・・・。

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2006年3月 2日 (木)

情報を巡るパワーゲーム

MYCOM PC WEBで、大阪市立大学の近勝彦氏が連載しているコラム「IT資本論」の第100回は「情報を巡るパワーゲーム」というものだった。

おおざっぱにまとめると、

  • 組織の構成員は(究極的には)自己の利得の拡大を目指して行動しており、各人がパワーゲームを展開している
  • この行動原理にもとづく戦略行動は情報や知識を巡っても見られ、組織内の情報や知識の流通は、パワーゲームの所産である
  • そのためパワーゲームに勝つという視点から、情報共有化ツールに「書く戦略」と共に「書かない戦略」が発生する

といった感じだろうか。
なんだか非常に納得させられると同時に、情報共有を生み出す仕組みのデザインの難しさを改めて感じさせられた。

近氏は、情報共有を否定しているわけではない。こういったパワーゲームを前提にしたうえで、情報共有ツールは構築・運用される必要がある、ということを言っているのだ。しかし、理屈では分かるのだが、実際にやろうとするとこれは大変なことである。

何しろ自分でも実感していることなのだ。自分の情報提供は、間違いなく自分自身のパワーゲームに基づいて提供されている、と自覚できる。自分の基本戦略は「積極的に書く戦略」だが、それは一方で「書かない情報を書いていないと感じさせない」戦略の一環でもあるのだ。情報を提供する相手も、同じなようで微妙に違っている。

オープンな形でイントラブログを行う際に、実は一番注意が必要なのはこの問題なのかもしれない。
まぁ本人が戦略的に伏せたい情報を無理に開示させたところで、どれだけ組織に良い影響があるのかは分からないのだが・・・。

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2006年3月 1日 (水)

経営トップのイントラブログ

2月27日付の日本経済新聞に「日本的組織のトップの役割 経営理念浸透に率先」という寄稿があった。
産業再生機構マネージングディレクターの小城武彦氏の寄稿なのだが、日本的経営には4つの特徴があるのだそうだ。

1.終身雇用と年功的要素を加味した人事評価体系
2.権限委譲による中間管理職層の裁量の大きさ
3.株主からの弱い規律
4.内部から昇格する経営者

2番目の特徴が面白い。
小城氏によると「中間管理層に大きな裁量がある日本的組織においては、大きな戦略変更がない限り、中間管理層のレベルで多くの事象に対応可能となる」のだそうだ。そのため、相対的に経営トップのやることが少なく見えてしまうのだという。

それでは大きな戦略転換などをしない時、経営トップは何をするべきか。小城氏は「会社の使命や社員が取るべき行動規範を社内に浸透させる活動を愚直に継続し、社員の視座を高い位置に引き上げる努力を行う」ことなのだそうだ。

ところが、意外とこういった役割が中間管理層に求められてしまったりしている気がする。経営トップが社員一人ひとりに語りかけるのは限界があるからだ。

さてそこでイントラブログの話になるのだが、こういった活動においてイントラブログは効果を持つのではないか。
社長ブログはどちらかというと社外向けのマーケティングやリクルーティングの一環であることが多いが、そうではなくあくまでも社内に対して行うという視点もあるはずだ。一種のリスクマネジメントでもある。

無論、ブログだけで何とかなるという話ではない。一番大切なのは直接語りかけることだ。が、実際問題として会社が大きくなれば、そういったことはそうそう容易ではない。そして会社が大きければ大きいほど、こういった語りかけは重要になってくる。

ブログの良いところは、イントラネットに挨拶をのせるといったことと違って「生の声」が反映されやすい点だ。だからこそトップ自身が書くことに意味がある。社員が書くのも重要だが、意外とトップこそイントラブログを書く必要があるのかもしれない。

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