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2006年4月28日 (金)

ベストプラクティスの登録

このブログを読んだ方から思わぬコンタクトがあり、そのやりとりの中で改めて考えたことがある。
一口に「情報共有」「知識共有」といっても、その方向性には大きく二つのベクトルがあるということだ。

手段としての「共有」に違いはないのだが、その目的によって大きく意識づけも運用も変わってくる。

一つは知識を整理するための共有。
一つは知識を生み出すための共有。

この両者は当たり前といえば当たり前だが、根本の部分で同時には両立しない。

前者は知識を整理し、ベストプラクティスを共有するためのものだ。整理、というベクトルは不要なモノをそぎ落とし、絞り込んでいくことで成り立っている。
一方、後者のように新しい知識を生み出したい場合、必要なのはむしろ多くの可能性による試行錯誤だ。そこでは、一見不要なものも含めて数多くのアイデアが提供されることが前提になる。

一般的なやり方としては、まず後者の形で数多くの知識を収集し、そこから前者のように絞り込むことで最終的に「価値のある知識」を生み出すという経緯をたどる。会議などではそういったやり方は当たり前だろう。

ところが、いわゆる「システム」ではそういったデザインがされているものは少ないような気がする。ベストプラクティスを共有するために、多くの知識をDBに登録してもらうという目的は、一見すると会議でのやり方と同じように見えるのだが、ステップとして切り分けられていないケースが多いのだ。

例えば「ベストプラクティスを登録しよう」という呼びかけなどは、根本的に勘違いがあるといっていいだろう。
ベストプラクティスは「選ぶ」もしくは「選ばれる」もので、意識して登録されるものではない。そもそもベストプラクティスが成り立つためには、ベストでないプラクティスとの比較が必要なのだ。登録されるべきは「プラクティス」であって、その登録とそこからの「ベスト」の選択は別のステップとして行わなければならない。

こういった誤解が発生するのは、何らかの形で登録公開される情報は「形の整った価値あるモノであるべき」という無意識の思い込みがあるからだろう。特に運用側はこういった思い込みを意識的に排除していく必要がある気がする。

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2006年4月27日 (木)

自らのノウハウを自覚する

日経のSAFETY JAPANで、森永卓郎氏が連載しているコラム「小泉改革解説」に面白い一節があった。

ただし、ボーとしていては何も身につかない。特に新人時代の数年間は学ぶための最大のチャンスだ。右も左もわからない新人が先輩や上司に「教えてください」といえば、日本ではほとんどの人が何の警戒もなく、ベラベラとしゃべってくれる。


ところが、欧米ではそうはいかない。社員には個室が割り当てられ、それぞれが守秘義務を負っているし、なにより、年下だろうと何だろうと同僚はライバルなのだ。ライバルに自分のノウハウや知識を喜んで教えるわけがない。

この日本と欧米の違い、最近のKMトレンドではかなり違ってきている(特に欧米)はずだが、一般的な捉え方としてはこのようなものだろう。

だが、そうであるがゆえに、特に日本企業におけるナレッジマネジメントは構造的な問題を抱えているともいえる。経験から言っても、この問題は特に知識共有という命題において大きな障害だ。

それは「教えてくださいといえば、何の警戒もなく、べらべらしゃべってくれる」というところにある。
これは一見良いことのように見えるが、実は本質的に大きな問題があるのだ。

まず、べらべらしゃべってくれるのは、感情の共有ができているという前提に基づいている。新人が聞くから答えるのであって、見知らぬ他人からいきなり聞かれても答えるわけではない。つまり、そういった前提がなければ、しゃべってはくれない。そして、いわゆる「知識データベース」は、多くの場合そういった前提ができていない。

これには「目の前の相手だから」という要素も絡んでくる。べらべらしゃべるのは、どこかに「ここだけの話」という意識があるからだ。公開の場で何の警戒感もなくべらべらしゃべるのは、日本であってもどこか「違う人」と見られるだろう。そういった意味で、知識データベースは二重の障害を持つことになる。

そしてさらに大きな問題もある。「何の警戒もなくべらべらしゃべる」のは、多くの場合、それをノウハウと自覚していないケースが多いからだ。企業秘密とか、そういったセキュリティ意識の問題だけでなく、自分自身の属人的な知識やノウハウを、形として認識していないケースが多いのだ。

だから「聞かれて」初めてそれを自覚し、伝えようとする。この構造を何とかしない限り、仮にイントラブログのような仕掛けがあっても、知識の表出化は行われないと考えてよい。

欧米との比較で考えれば、欧米の場合は「自分のノウハウを明確に自覚」することを個々人が行っているのに対し、日本では人から聞かれるという「受動的な自覚」に頼っているということになる。この差はかなり大きい。

自分のノウハウを形として自覚している場合は、適切なインセンティブさえ用意すれば、その表出化は容易だ。
一方、自分のノウハウを形として自覚していない場合、まずそれを自覚させるところから行わなければならない。

だからこそ、そういった「自覚させる」仕掛けが必要なのだが、実際のところ、こういったことはどれぐらい企業に認識されているだろうか。

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2006年4月25日 (火)

体調は書く内容に影響するのか

先週から体調を崩しているのだが、エントリも影響を受けたかのように不調なのは気のせいだろうか。
アウトプットとしてのコンテンツの質については、自分では評価のしようがないのだが、少なくとも毎朝ネタに詰まっているのは間違いない。

新聞などを読んでいても「これだ!」という感覚がない。
仕事方面ではそれでも若干センサーが働いているらしく、CSR日記の方ではそれなりに反応していると思うのだが、こちら用でピンとくるモノがない。

これではいけない、と自分を追い込むのが一番いけないような気もするが、そういった意味では体調も何らかの形で影響しているのかもしれない。倒れ込むほどひどいモノなら話は別だが、なんとなく体調がベストではないというのは、逆にたちが悪い。

ほぼ日手帳への思いつきメモも減っているし、CLIEにインプットしている新聞見出しメモも減っている・・・ような気がする。

さて、どうしたものか。とりあえずは、早く風邪を治すことかなぁ・・・。

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2006年4月24日 (月)

言葉のイメージ

先週参加したCSRの勉強会で、こんな話が出てきて、思わずうなずいてしまった。

「最近、企業不祥事が増えたとか騒がれているが、法律違反は犯罪であって、不祥事などというやさしい言い方をしてはいけない。」

意識したことはなかったが、確かにそうかもしれない。決められたルールである法律を守らないというのは、モラルの問題ではなく、犯罪なのだ。こういった意識というのは、普段使っている言葉によって変わってきてしまう気がする。

以前会社で話していて話題になったことがある。
「セクハラ」という言葉は、言葉自体がよく聞かれるようになってイメージがソフトになっている。横文字というのがあまり良くない。日本語の「性的嫌がらせ」を使った方が良いのではないか。
その言葉を聞いたある男性の感想は、「セクハラはともかく、娘に『それは性的嫌がらせ』とは言われたくない」だった(笑)

これまた以前(多分高校生ぐらいなので、もう20年ぐらい前だ)だが、ある漫画家の風刺コラムが今でも記憶に残っている。
ある市議会議員(男性)が、酔っぱらって女性市議の胸をさわったとかで、セクハラだと騒がれた事件を捉えたものなのだが、「それはセクハラではなく痴漢であろう」というものだった。

言葉というのは、どうしてもイメージで捉えやすいし、イメージで使ってしまうのだが、厳密に考えていくことも時には必要なのではないか、という話。

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2006年4月21日 (金)

モデル年齢

昨日の読売新聞に、シャープの賃上げの話があった。
「35歳500円」という賃上げの内容が、35歳だけ500円アップという限定された(見出しによれば「シャープな」)賃上げだったというものだ。他の年齢では賃上げゼロなのだそうだ。

通常は35歳をモデルに他の年代の賃上げ額を決めるのだそうで、35歳だけというのはバランスを欠くという批判的な見方だったのだが、さて、この「モデル年齢」というのは、どれぐらい意味があるのだろうか。

35歳の賃上げ額をモデルに他の年代の賃上げ額が決まってくる、というのは、年功序列の給与体系でしか成り立たない。

もっといえば、年功序列であってもよく分からない面はある。
それがモデルであるのならば、他はどのように決まっているのか、ということだ。実は以前から会社で発表があるたびに気になって仕方なかったのだが、モデル年齢の賃金の話が出ても、それが自分にどうかかわってくるかがさっぱり分からないのである。年齢層で違ってくるのに、自分の年代のモデルがないからだ。

労働組合も、どうせやるならば各年齢層の平均賃上げ額をすべて公開するようなやり方をすればよいのだ。
厳しい言い方かもしれないが、多分できない。なぜならば、それを公開すれば世代間の賃金格差を明らかにすることになってしまうからだ。

東大教授のコメントに「他の年齢層との賃金バランスを欠くことにもなる」とあるのだが、元々賃金バランスが年齢層で違っているから、モデルが必要なのではないか。そういった意味ではシャープの考え方は、その「年齢層とのバランス」へのアンチテーゼともいえる。

実際、20代モデルと50代モデルではどの程度の違いがあるのだろうか。企業毎の違いよりも、企業内のそういった違いの方が気になるのは自分だけだろうか。

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2006年4月20日 (木)

ネタがかぶりはじめた

※昨日同様、CSR日記用に書いたものなのだが、どちらかというとこちらでの話題に近い気がする。なんだかネタがかぶりはじめている。言い換えれば、続ければ続けるほどブログには個性が表れ、書き分けることができなくなってくるということかもしれない・・・。

モチベーションと品質

毎日新聞に考えさせられる記事があった。
欧米で原子力発電の復権が進んでいるという話だ。

紹介されていたのは、ガイア理論の創始者で環境科学者のジェームズ・ラブロック氏の話。環境保護運動の理論的支柱でもあった氏が、最近原子力発電を公然と支持する立場を表明したという。

しかも、その理由は「地球温暖化防止」のため。
これは、反原発・自然保護を唱える人には、かなり強烈なインパクトだったかもしれない。

といっても、どうやら原子力発電を積極的に支持するというよりは、現時点での現実的な選択肢として、ということらしい。
温暖化問題が原発で解決できるというわけではなく、原発がなければ電力に支えられる現在の文明は維持できない、というわけだ。

さて、その是非はともかくとして・・・実は気になったのはラブロック氏がしていたこのようなコメント。

「チェルノブイリ事故は管理のずさんさが原因。二度と起きない」

チェルノブイリの話ではなく、「管理のずさんさ」という部分だ。

なぜ管理がずさんになったのか。

システムの問題もあるが、多くの場合こういったことは働く人のモラルの低下、モチベーションの低下が引き金になっていることが多い。

ではなぜモチベーションが低下してしまったのか。

逆説的だが、原発反対運動こそが、従事する人間のモチベーションの低下を招いたということもできるのではないか。
社会的に評価されない。これほど仕事のモチベーションを下げるものは恐らくない。会社の上司にどんなに評価されていても、道行く人々に反対を唱えられて、モチベーションを維持することはできない。

もちろん、それをもって反対する人の責任とするのは乱暴なのだが、一方でまったく責任がないともいえないような気がしたのだ。

「原発が温暖化対策の希望の星」となることで、従事する人のやる気と責任意識が向上し、結果として(もちろんゼロリスクはありえない)事故が減少するのではないか・・・そんなことを考えてしまった。

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2006年4月19日 (水)

情報集約は何のためか

CSR日記用に書いたものなのだが、どちらかというとこちらでの話題に近いので、少し手直ししてこちらで掲載する。

情報の集約は何のためか

社内では、様々な部門を主幹とした研修や勉強会が行われている。
研修はそれなりの規模だから、ある程度周囲にも知られているが、ちょっとした勉強会となるとそうでもない。そのため、そういった種類の勉強会が個別にばらばらに行われていて、現場は混乱している、という話があった。

なぜ、このような事態に陥るのか。
単純に考えれば、勉強会が多く行われているためだ。

なぜ勉強会がたくさん行われるかというと、一つはそれだけ伝えなければいけないことがあるということだが、もう一つの理由として、そういった勉強会の情報が、特に実施側において共有されていない、ということを挙げることができる。

本社なのに・・・と言われてしまいそうだが、意外と知らないのも事実。
例えば、研修や勉強会を実施した際の「実施側の」フィードバックは、どれだけ統一された形で行われているだろうか。
フィードバックをしていないということではなく、それらすべてを並列に見ることができないということだ。

勉強会の例で言えば、従業員というステークホルダーに対して、どのような教育研修が行われているか、全社的に取りまとめられているデータがない、ということになる。
部署単位では取りまとめられていても、全社を一覧できなければ、こういった情報は意味がない。

ガバナンスという視点から、そういった情報の取りまとめを行う部署がどこか、といえば、人事部門になるだろう。
ただし、これは人事部門がすべての教育研修を仕切るという話ではなく、むしろ他部門がきちんと人事部門に届け出て、人事部門からのフィードバックが適切に行われているか、という問題になる。

一方で、担当部門だけが行動の責任を負うわけでもない。
実際に実行する部門は別でも良いのだ。ただし、情報だけは集約する。そしてなるべくなら、その集約された情報は必要な部門にフィードバックされるようにする。
そんな情報の流れが重要ではないか。

特に大切なのはフィードバックだ。透明性の確保という観点から考えると、情報集約部門の役割は情報の集約でも、ましてや管理でもなく、フィードバックにこそあると考えた方が良いかもしれない。

収集し管理するために情報集約を行うのではない。
集めた情報を適切に必要な相手にフィードバックするために、情報集約は行うものなのだ。

集めただけで終わってしまっているということはないだろうか。
あるいは、管理のための情報収集に終わってしまっていないだろうか。

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2006年4月18日 (火)

真似されないインセンティブ

携帯サイトのR25式にある「今日史」によると、今日は発明の日なのだそうだ。1985年に特許法が公布された日だという。
なんだかネタに詰まったかのような出だしで恐縮だが、特許というのはある新しいモノや方法を「公開をしてもらう代わりに一定期間の独占権を与える」ものだ。

要するにナレッジマネジメントでいうと、知識を提供する代わりに一定期間は「真似されない」権利ということになるのだが、もちろん社内でそんな考え方では意味がない。ベストプラクティスに類するナレッジは真似されて初めて意味がある。

ところが、以前情報交換をした企業の中に、このような「悩み」を抱えている企業があった。

「登録された事例を真似せずに、別の方法を考え出そうと躍起になるんです」

担当者としては事例の水平展開をしたいのだが、実際にその事例を目にした現場では「より新しいやり方」を探し求めて、その新しい事例を登録しようと躍起になるのだという。ちなみに営業での話だ。

端から見るとなんだか贅沢な悩みのようにも思えるが、こういった「真似されなかった」事例に何らかのインセンティブを付与する方法はないだろうか。実はある種の事例には「真似されないこと」が重要な場合がある。

いわゆる「失敗事例」だ。

同じ轍を踏まない、つまり意識的に「同じことをしない」ことが求められるこういった事例は、共有、特に投稿に対するインセンティブが薄いというか、ほとんどないという課題がある。「真似をする」のと違って、「真似をしない」ことは行動に表れないので、提供された情報の効果測定が難しいのだ。

しかし、事例の共有という視点から見ると、実は成功事例よりも失敗事例の方が重要だったりする。成功事例は同じ成功を生むものだが、失敗事例は別の成功を生み出すものだからだ。

成長ということを考えた場合、実は事例の「真似」ではなく、新しい事例が生まれていくことの方が望ましい。そういった意味では、成功であれ失敗であれ、同じことを「しなかった」「されなかった」ことに対するインセンティブシステムがあっても良いような気がする。

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2006年4月17日 (月)

知らぬが花

先週のR25、高橋秀実氏の「結論はまた来週」はちょっと考えさせられた。
「知っている人知らない人」というタイトルなのだが、こんな一節がある。

くれぐれも忘れてはいけない。「知らない人」がいるから「知っている人」がいる。(中略)知っている知らないという格差をきちんと表明し、お互いを尊重すべきなのである。

知識や情報を共有するというナレッジマネジメントを考えたときに、これは意外と重要なのではないかと思った。
ツールが何であれ、知識や情報の表出が求められるのは、そのことを知っている人と知らない人がいるからだ。

全員が知っていれば、無理に知識を表出する必要はない。
全員が知らなければ、誰も知識を表出できない。

こういった「格差」というのは意識したことがなかったのだが、個々の知識について様々な格差があるからこそ、ナレッジマネジメントというのは成り立つのだろう。その目的とすることが格差をなくすことというのは、なんだか皮肉である。

いや、そういった意味では、「格差をなくす=情報を共有する」という目的は持たない方が良いのかもしれない。
高橋氏はコラムの中で「松竹梅」という尺度を提示している。

「おれは梅だよ。いいな、お前は松で」という具合に。松ばかりでは味気ない松林。美しい花を咲かせるのは梅だけで、知らぬが花とも言うことだし。

最後はオチだが、全員が松を目指すのではなく、この「知らぬが花」をなんらかのパワーに転化することができるようになれば、ナレッジマネジメントは次のステージを獲得することができるかもしれない。

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2006年4月14日 (金)

匿名・実名とはどんな状態か~その4

なんだか話があらぬ方向に流れていっているような気もするが・・・前回のエントリで、自己紹介への登録の際に

「知らない人に見られるのは気にならないが、知っている人に見られたくない」

という心理的抵抗があることを書いたのだが、実は以前(偶然だがほぼ1年前に)このような考察をしていた。

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社内で進めている自己紹介の登録がなかなか進まない理由の一つとして、「知らない人に自分をさらす」ことではなく「知っている人に自分をさらす」事への抵抗感を挙げられたことがある。

「身近な人に知られるのが恥ずかしい」という理屈だ。自分が知らない相手に見られても、それはあまり気にならないが、身近にいる知り合いに内容を見られるのは恥ずかしい、そういうことだろう。

恥ずかしい、という感情はともかくとして、身近な人に見られている抵抗感というのは、こうした日記を書いていると感じることは多々ある。この場合の身近な人というのは、心理的な近さよりも物理的な近さだ。

物理的に近い人とは、体験も共有しているケースが多い。その体験について何か感じたことを書いたとする。それを読んだ人はこう思わないだろうか。「なんでその時、自分に言わずにここに書くかなぁ・・・。」

仕事の話題をネタにする時などは特にそうだろう。話している最中には何も言わず、後で書かれる。された方としては面白くない。自分としては、その時思いつかなかった事を書いているだけのつもりでも、読み手はそうは思わないこともある。
それは感覚として自分も分かるから、そういった話題をついつい避けるようになる。(実際なっている。)

自己紹介も同じだ。思わぬ一面を自己紹介で見つけた時に、「こんな一面もあったのか!」という驚きと共に「なんで今まで隠していたかなぁ」と身近だと思っていた人ほど思うだろう。もしかして自分はそこまで相手に近くなかったのだろうかという不安と、なぜ隠していたのかという不信感。これは表向きは否定しても、どこかに必ず生まれる感情だと思う。

もちろん実際には単にそんな機会がなかっただけで、人間関係においてはそういったことは良くあることだ。ただ、会話の中でそういった発見があるのと、自己紹介の中で見るのとではおのずと違う。会話による情報は両者のコラボと偶然によるものだが、自己紹介は明確に登録者の意思だからだ。

こうやってあらためて考えてみると、物理的に近い人と家族的な雰囲気を持って関係が良いほど、自己紹介の登録は進まない、と考えることもできる。もちろん、そういう関係がなければ自己紹介の登録が進む、ということはないだろうが、一つの障害として意識する必要があることかも知れない。

(「自己紹介への抵抗感」2005/4/13)
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この中に日記を書くことについての抵抗感に触れた部分がある。
イントラブログに個人的な経験や感想を語りにくいのは、意外とこういった心理が働いているような気がするのだ。

こうなってくると実名匿名とはまったく関係なくなってくるようにも思えるのだが、実名を「おおっぴらに」匿名を「こっそりと」という形に置き換えてみるとなんとなく分かるのではないかと思う。
実は書いた「内容」そのものよりも「見られたくない人」の存在が、意外な抵抗感につながっているのだ。

あとはこれを割り切ってしまえるかどうか、ということなのだが・・・。

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2006年4月13日 (木)

営業ナレッジとスタッフ改革

昨日今のボスで昔KMのチーフだった人から「また営業ナレッジでもやるかな」というつぶやきが出た。
で、自分なりに考えてみると、今の自分だったらまず営業スタッフのKMから手をつけるだろうとふと思った。

何故だろうか。

各拠点に散らばっている営業スタッフのナレッジ共有と生産性の改善こそが、現場の営業にとってもっとも大きなインパクトになると考えたからだろう。スタッフというのは基本的に前線をサポートする役割のため、前線の生産性向上については色々と考えるが、意外と足下がおろそかになっていることが多い。

これはスタッフが仕事ができていないとか、暇だとかいうことではない。前線のサポートを全力で行うために、まず足下を固めておく必要があるのではないかということだ。
特にいわゆるKMのような「知識・情報の共有」といった命題を考えた場合、動き回ることが多い前線よりも、スタッフ同士の連携がきちんとできていることの方がはるかに効率が良く、影響も大きい。

単純なアプローチとしては、まず各拠点で行われているスタッフ業務を棚卸しし、全体最適化を図ること。同時にスタッフ同士の交流を深めて、お互いがサポートしあえる関係を作ることから着手するのが良いだろう。それぞれの仕事が可視化され、アドバイスしあえる関係さえできれば、やることの8割方は終わったようなものだ。

残りの2割は、前線よりもむしろ本社向けのアウトプットの整理が重要になるはずだ。そのプロセスの中で、不要な報告や余計な決裁手順の整理を行えば、本社までを含めたスタッフ業務のスリム化が図れる。きちんと見極めて行えば、必要な情報を削ることなく、不要なものだけを削ることは可能だ。

とまぁ、実際には誰でも思いつきそうな内容を考えてみた。というか、実際にはまだこういったことが行われていなさそうなのが怖い。
やるんだったら一枚噛んでみたいが、今の仕事と並行してというのは無理だろうな・・・。

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2006年4月12日 (水)

KM日記~イントロ

去年の12月、会社のPCのハードディスクがクラッシュした時に、個人で溜め込んでいたデータの大半が吹き飛んでしまったのだが、その中に「今の仕事には影響しないが」個人的にダメージが大きかったデータがいくつかある。

そのうちの一つが、去年まで担当していたナレッジマネジメントの仕事を振り返るために書いていたテキストだ。原稿用紙で20枚ほどだから、それほどたいした量ではないといえばないのだが、途中までとはいえそれなりに気合いを入れてまとめていたものなので、なくなってしまったというのは(自分の過去の仕事も吹き飛んでしまったようで)なんとなく落ち着かない(笑)

いまさらその内容を思い出すことはもちろん無理なのだが(大体行き当たりばったりで書くので、プロットのメモすらない)、やはり自分がやってきたことをどこかで整理しておきたい、という欲求を最近少しずつ感じるようになってきた。

そこで、ちょっとずつ昔を思い出しながら、当時の経緯や今から思う感想などをまとめておこうと思う。
といっても、今日のエントリで続けて書いてしまうと大変なので、とりあえずカテゴリと各エントリにつけるイントロを考えてみる。

カテゴリ:
KM日記
イントロ:
※この「KM日記」は、2000年~2005年までの5年間、私が携わっていた、会社のナレッジマネジメントの取り組みをちょっとずつ思い出しながらまとめたものです。当然ながら会社として公式のものではなく、私の個人的見解がふんだんに含まれております。私の素性をご存じの方は、その旨ご理解の上お読みください。
ちなみに、KM日記とは、当時私が書いていた日記のタイトルです。

・・・こんな感じだろうか。ちなみに過去からきっちり書けるかどうかは自信がない。とりあえず取り組みの歴史に関するメモは残っているので、おおよそは大丈夫だと思うのだが・・・。

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2006年4月11日 (火)

ナレッジアクシデント

こちらのインタビューの時に聞いたのだが、ロータス社には「ナレッジアクシデント」という表現があるそうだ。新しい価値の創造を意味する表現だという。
語感はともかくとして「ナレッジマネジメント」として一般的に受け取られている概念と上手に対をなしている言葉だと思った。

ナレッジマネジメントを社内で推進していく中で、この「マネジメント」の語感がある種の固定観念を与えた感は否めない。一言で言ってしまえば知識の「管理」「交通整理」と受け取られてしまうのだ。既存の知識、埋もれた知識を整理し、見やすくして提示する・・・といった感じだろうか。
導入時の提案をそちらベースで行ったこともあるが、その後の方向転換を理解してもらうのにずいぶんと時間がかかった。(多分、社内にはいまだにそう思っている人もいると思う。)

しかし、整理は確かに重要かもしれないが、整理だけでは価値を生み出せない。むしろ、整理のための整理になってしまう可能性がある。そもそも、現実の情報、特に価値に結びつくようないわゆる「ナレッジ」は意外と整理できない範疇にあることも多い。
これは整理をした段階で、そのナレッジに一種のインデックスが貼られてしまい、利用の方向性が固定されてしまうことがあるからだが、本来はそういった「縛り」がない方が都合がよい。

そこで、この「ナレッジアクシデント」的な発想が必要になってくる。考えてみれば、最初からこのようなコンセプトをキーワードとして打ち出していれば受け取り方も、あるいは推進側の発想も違っていたかもしれない。

ナレッジアクシデント、なんだかいい響きだ・・・。

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2006年4月 7日 (金)

匿名・実名とはどんな状態か~その3

昨日に続いてもう少し考えてみる。

100人程度の組織を考えたとき、お互いに面識がありながら、匿名でブログを書くということは可能だろうか。

匿名の単発コメントならおそらく誰かは分からないだろう。しかし、ブログのような形で書き続けていて、自分を隠し通せる可能性はまずないと考えられる。
仮に内容が仕事とまったく関係のないものだったとしてもだ。仕事の内容であれば、およそ隠せるものではない。

では1,000人、10,000人といった場合はどうだろう。大半は面識がない。面識がない相手には恐らく誰だかは分からない。しかし、それでも社内の自分の知り合いが目にした場合に、自分だと分からないほどの別人格をブログ上で展開できるということはないのではないだろうか。

実はこのあたりに「実名匿名」に対する意識の本当の姿が潜んでいる気がする。

会社のイントラネットに任意で登録する自己紹介のコーナーがあるのだが、登録を呼びかけた時にこのような反応をもらったことがある。

「知らない人に見られるのは気にならないが、知っている人に見られたくない」

ブログを実名で書きたくない、という意識の根は実はこちらにあるのだと思う。
知らない人に知られることではなく、知っている人に知られることこそが「恥ずかしい」のだ。
「全員に見られてしまう」ことではなく「あの人に見られてしまう」ことに抵抗感があるのだ。

そしてそういった人たちは、意外と「知らない人には」見てもらいたいと思っているのではないだろうか。

・・・いやだからどうという解決策が思いつくわけではないのだが、この心理的な壁というのは簡単には崩せないような気がするし、システム的な解決もできないような気がする。
(もう少し続くかも)

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2006年4月 6日 (木)

匿名・実名とはどんな状態か~その2

先週のエントリで少し触れたのだが、匿名か実名かというのは、「匿名という状態」「実名という状態」がどんなものか、ということから考える必要があると思う。

もう少し厳密にいうと、ネットの場合、両者の中間のような状態があるような気がするのだ。

匿名・・・本人が誰であるか分からず、調べることもできない状態
実名・・・本人が誰であるか、分かっている状態
仮名?・・・本人が誰であるか、調べることはできるが、特に気にしない(されない)状態

匿名というのがリアルなコンタクトができない状態、実名というのがリアルなコンタクトがある状態だとすれば、仮名(という名前が良いかどうかは分からないが)は、バーチャルなコンタクトはあるが、リアルなコンタクトは特に望まない状態ともいえるだろうか。

SNSに参加しているような場合、そういった関係も多いと思うのだが、この状態では、本人が実名をさらしていようがいまいが、実はあまり関係ない。お互いにそういった情報は必要としていないからだ。
インターネットの場合、悪意の第三者の介入の可能性があるのでもちろんリアルにつながる情報を伏せることは多いと思うが、少なくとも互いの関係において、実名であるかそうでないかはあまり問題にならないような気がする。

・・・なんとなくドライすぎる考えかもしれないが(笑)

さらに、もう少し「匿名」という考え方を突き詰めると、実は「匿名のブログ」というのはあり得ないような気もする。匿名というのは、本来ある一連のエントリが同一人物のものかどうかも特定できない状態をさす。掲示板への匿名投稿などはそういった性格があるだろう。

しかし、ブログのような形で同一人物が一連のエントリを投稿していく場合、そこには書き手のパーソナリティが投影されてくる。

はたしてそのエントリを捉えて「匿名」と捉えても良いものだろうか。
仮想人格と匿名(人格)との間には、一見同じように見えて大きな隔たりがあるのではないだろうか。

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2006年4月 5日 (水)

弱者の腐敗

エリック・ホッファーという人によると、権力者だけでなく弱者もまた腐敗するのだそうだ。

「権力は腐敗するとしばしば言われる。しかし、弱さもまた腐敗することを知るのが、等しく重要であろう。権力は少数者を腐敗させるが、弱さは多数者を腐敗させる。」(「魂の錬金術」エリック・ホッファー/作品社)

腐敗の定義は難しいのだが、例えば立場に甘え、無責任に自分の好きに振る舞う、とでもしようか。
権力を握ることがそういった心理状態を作り出すことは想像に難くないが、弱さがそういった心理を作り出すというのは何となく分かったようでいまいち想像しにくい。

ただ、昨日のエントリで書いたような「強者と弱者の格差社会」を想像した場合、実は社会の両辺に位置している強者と弱者が、実はその格差社会の恩恵に一番あずかっているのかもしれない、という仮定はできるかもしれない。

乱暴かもしれないが、弱者は強者から「思いやり、共感、涙」をもって支えられているともいえるからだ。実は強者からは搾取され、弱者からは妬まれる「普通の人」こそが、一番の「弱者」である可能性もある。
もっとも、この場合の「弱者」は多数者とは言えないので、ホッファーの言うところの弱さとは異なる可能性もあるのだが。

「勝者と敗者の格差社会」になるということは、そういった従来の枠組みをぶち壊して一から組み立て直す、という要素と、両者の関係が相対化することで、常に競争を要求されるようになる、という厳しさがある。「今日の強者が明日の弱者」は考えにくいが、「今日の勝者が明日の敗者」は容易に起こりえるからだ。

こういった状態が、社会を荒廃させていく可能性もあるし、より発展させていく可能性もある。それは可能性の問題だからどちらがどういった結果を招くかは分からない。

ただ、ホッファーの言っていることを考えると、「人は等しく腐敗する」と考えることもできる。そういった意味では、何らかの形で安定してしまうよりも、変化していく方が、腐敗する可能性は低いかもしれない。

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2006年4月 4日 (火)

惻隠の情

藤原正彦氏の「国家の品格」は読んだことがないのだが、昨日の朝日新聞の「今日の論点」に氏の話が載っていた。
おおざっぱにその主張をまとめると、

現在の日本は経済的豊かさを追求するあまり勝者と敗者ばかりの競争社会になってしまった。そうではなく、武士道の精神を復活させよう。その中核をなすのは惻隠の情だ。

といった感じだろうか。色々書いてあるのだが、そんなニュアンスを感じる。
しかし、気になってしまったことがある。この「惻隠の情」について、藤原氏はこのような説明をしているのだ。

「つまり、弱者、敗者、虐げられた者への思いやりであり、共感と涙である。」

これはつまり、惻隠の情を中核とする武士道の世界は、実は「弱者、敗者、虐げられた者」が存在することが前提の社会ということではないか。そこに矛盾を感じてしまうのは自分だけだろうか。

言葉尻を捉えるようで申し訳ないのだが、「世の中は、勝者でも敗者でもないふつうの人々が大半を占めなければ安定しない」ともある。これも視点を変えれば、少数は勝者と敗者が必要ということだ。
そして、惻隠の情とはその「勝者」のための考え方である。

忘れてはいけないと思うのは、武士道というのは、武士というきわめて限定され、かつ経済的には農工商といった他者の存在に支えられた狭い社会の倫理観だったということだ。武家社会というのは階級社会であり、格差社会でもある。

そのように考えると惻隠の情というのは、ようするに「階級や格差が上の者は下の者を思いやれ」ということではないか。それは何故かというと、両者の立場を逆転させないための安全弁としてだ。

そもそも、「勝者と敗者」は公平な競争の結果だが、「強者と弱者」は固定化された相互の関係、つまり「格差」である。混同されて使われがちだが、実は違うものだ、という意識が、特に自分が強者の立場である場合はないのかもしれない。
(ない、なんて甘いものではなく、おそらく強者というのはそういったことを理解していて、意識的に混同しているのだろう。今の格差社会の枠組みが壊れることこそ、彼らが一番恐れるものだろうから。)

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2006年4月 3日 (月)

科学の定義

「99.9%は仮説」(竹内薫/光文社文庫)を読んでいたら、カール・ポパーという人が唱えたという科学の定義の話が出てきた。
科学の定義、それは「科学は、常に反証できるものである」というものなのだそうだ。おおざっぱにいえば、くつがえる可能性を常に持っている、ということにでもなるだろうか。

これは面白いと思う。ようするに「絶対に正しいとは言えない」ことこそが科学的であるということなのだ。もちろん、この「常に反証できる」ということ自体、反証できるものということも言えそうな気はするのだが、いずれにしても、「科学的」という言葉のイメージが変わった気がする。

しかし、これは仕事などでも同じことがいえるのではないだろうか。ある仕事、あるやり方が絶対に正しいとは言い切れない。もちろん、そう考えて行動する信念の強さは必要なのだが、そうではない考え方が出てきたときに、それを認め受け入れる潔さが必要だということだろう。

もう一つこの考え方で面白いと思ったのは、「反証できないものは科学ではない」という捉え方だ。これは何か物事を捉えて、科学的かどうかを見極める際の一つのヒントになる。

ちなみに、数学は科学とは違うらしい。概念の世界にある数学は、証明ができるからだ。そして、証明というのは、反証できないからこそ証明だろう。

とすると、いわゆる理系で数学と科学が一緒にされているというのは、実はおかしいのかもしれない。反証が可能で決定的な証明はあり得ない、という捉え方は、一般的には社会学系の文系的イメージがあるだろう。
さらに個人的なイメージでいえば、数学の考え方にはむしろ哲学が近いような気もする。

意外と、数学と理科を一緒くたに理系にしてしまっていることが、科学に対するイメージを誤解させている原因なのかもしれない。

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