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2006年5月31日 (水)

対立のないチーム

サッカーのワールドカップに向けて、ジーコジャパンに関するニュースが増えてきたが、なんだか対立を取り上げる記事が目立つような気がする。
やれ高原と守備陣が衝突だの、中田英と宮本が対立だの、ジーコと対立といった感じだ。

もちろん、それ自体は目をひくための見出しにすぎないと思うのだが、さて「対立のないチーム」というのは、本当の意味でチームワークが良いと言えるのだろうか。

(チーム内の)対立がないチームというのは、次の3つのパターンが考えられる。

一つは、目標に向かって一丸となって一致団結協力している状態。これは理想の状態だが、もう少し突き詰めるとあくまでもその時のチームの「状態」であって、「対立がないチーム」とは少し違う気もする。

二つめは、軍隊型のトップダウンのチーム。リーダーの指示には疑問をはさまず、ただ指示通りに行動するチームだ。こういったチームは、リーダーの資質にはよるが、特に緊急時に絶大な力を発揮することが多い。

三つめは、和気あいあいとしたチームの和を重視するチーム。雰囲気は悪くないし、平時であれば安定するかもしれないが、目標達成よりもチームの和を重視するようになると、ゆがみが生じてくる。

チームを組織として考えると、基本的には2番目のトップダウン型か、3番目の合議型しかあり得ない。1番目はどちらであっても「状態」としてはあり得るから、チームのスタイルとして考えることはできない。しかし、2番目や3番目で対立がないことが、本当にチームワークが良いと言えるのだろうか。

特に3番目の場合は少し気になる。トップダウン型の場合、対立があるというのはチームのパフォーマンスに影響する可能性があるから、これは極力ないようにすべきだし、ある場合は問題があるともいえるだろう。しかし、3番目の場合、チーム内の対立がないとチームが最高のパフォーマンスを必ずしも発揮できるかというと、少々疑問が残る。お互いなあなあの状態である可能性があるからだ。

対立があるというのは、目標達成に向けて適度な緊張感があるということでもある。
さて、日本代表はどうだろうか。

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2006年5月30日 (火)

ブックマークの整理

昨日は外出先から直帰したために時間があり、ブラウザのブックマークの整理をした。
以前からSleipnirを使っているのだが、よく使うものをFirefoxに移行してみたのだ。

みたのだが・・・タブで開いていったときに、ツリーで表示されるSleipnirの方が、使いやすいような気がする。ページ毎の関係が一目で分かるからだ。Firefoxの方は、まだ使い慣れていないのでよく分かっていないのかもしれないが、新しいタブでページを開いたときに、全然関係ないところに開くので、サイトによっては探しにくい。

さて、このブックマークだが、ソーシャルブックマークのようにネット上に持ってしまった方が良いのだろうか。ローカルに持っていると、移行だけでも手間がかかる。
実はRSSリーダーについても同じように感じていて、会社でも自宅でも同じブログをチェックしようと考えると、その方が都合が良い。
もちろんすべて共通にするということはないのだが・・・。

ただ、軽くないと困るし、常時接続を前提にしていても困る。
基本的にモバイル環境で使っている自分のPCの通信速度は、わずか128kbps。重いサイトは開いていられないし、一度開いたページはオフラインでも見ることができることが前提だ。

ブログに書いた内容をすべてローカルに保存しているのは、主としてこの通信環境による。その都度ネットに接続しないと、過去の内容を検索できないというのも、少々面倒だ。

なんだかおそろしくとりとめのない内容になってしまった・・・。

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2006年5月29日 (月)

事業価値ってなにさ

「事業価値を高める」という言葉が、会社ではまことしやかに語られるのだが、さてその「事業価値」ってなにさ、などとふと考えてしまった。

高めるべき「事業価値」というものがあるとして、それは一体何を高めるべきなのだろうか。売り上げをあげるとか、利益率を高めるというのは具体的だが、「事業価値」というのはわかりにくい。

ひっくるめた全部、という意味なのかもしれないが、それでは個々の戦術は立てられない。企業に戦略というものがあるとしたら、事業価値をなんと定義するかこそ、戦略の要だろう。「事業価値を高める」というのは、戦略とは呼べないのだ。

そういった意味では、持続性とか社会的責任という言葉もあいまいな言葉だろう。何を「社会的責任」と考えるのかを明らかにしないまま、「社会的責任を果たす」といわれても、何を果たすのかさっぱり分からない。

例えば1973~1977年にかけて(当時の)通産省が行った調査によると、消費者が企業が当然なすべきと考えている筆頭は「公害、事故などで地域社会に迷惑をかけない」だったのだそうだ。多いものをリストアップしていくと、

  • 公害、事故などで地域社会に迷惑をかけない
  • 自社製品の使用・消費で発生する廃棄物の処理に責任を持つ
  • 安全を確認したうえで商品・サービスを供給する
  • 商品の明確な品質表示など、積極的に情報提供に努める
  • 製品の修理などアフターサービスに力を入れる
  • 経営合理化に努め製品・サービスを安価で安定的に供給する
  • 買い占め、売り惜しみをしない

といったものが挙げられる。(通産省産業政策局「企業行動の現状と問題点」1977年)

こういったある程度具体的な定義があって、初めてそれに対する対策としての戦術が生まれてくるのだ。事業価値というのも、明確な定義に分解した方がいい。

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2006年5月26日 (金)

オープンアウトソース

昨日のエントリにコメントをもらったので、返答もかねて考察してみる。

「コストが限りなくゼロ」という特徴をうまく利用するために、どんなことをやればいいんだろう…と考えてみました。

例えば、各人が自分の味覚をデータベースとして公開することができていれば(Google Base など使うと、そのうちそんな時代が繰るかもしれませんが)、その人の味覚に合致した「食品づくりセット」なるものが作れるかもしれません。


「コストがゼロ」という条件は、ネット上の「情報」だからこそ可能になったともいえる。そういった意味では食品メーカーの抱える情報は、プログラムのソースコードにあたるレシピだろう。
一つの商品が出るまでには、様々な試作を繰り返され、「これ」という味が決められる。それはもちろん大多数をねらった味であり、一方日の目を見なかったレシピはロングテールをねらえる可能性がある。

個人の味の好みとマッチングさせるのはグーグルにお任せ(笑)するとして、企業が作ったレシピを何らかの形で再現する手段(ここでいう「食品づくりセット」)さえあれば、確かに可能だ。もっとも、企業の味づくりは一度に大量に作ることを前提に組み立てられているので、むしろ自分で味を作っている個人経営の飲食店向けの考え方かもしれない。

もっとも、レシピという情報で考えると、BtoCではなくBtoBの方が上手くマッチングする可能性もある。それぞれの企業が採用しなかったレシピを公開し、だれでも使えるようにすれば、味づくりの上手な企業と生産が得意な企業とが手を結ぶことができる。オープンアウトソーシングのようなものだが、オープンソースのような信頼の発想があれば、それは可能かもしれない。

あるいは、原料情報のオープン化というのもあるだろう。昨今の食の安全性を巡る問題で、大きなポイントの一つが「原料」だ。CSR調達という考え方も盛んだが、具体的な原料の情報を公開している企業は、今のところ存在しない。そういった安全性を一面で担保すると同時に、それまで存在を知らなかった新たな食材を発見できる可能性を広げることができる。

ただ、いずれにしても問題になるのは、こういった実体をもったモノの場合、情報を情報の世界だけで処理できるプログラムなどとは条件が異なることだろう。情報を実体化させなければ価値が生まれず、もっと都合の悪いことに、実体化させなければその情報が正しいかどうかの「検証」さえできないのだ。

そういった意味では、リアルなこちら側から完全には切り離せないものづくりは、どうやっても完全にあちら側にシフトすることはできないのかもしれない。逆にいえば、それがあちら側の限界ともいえるだろう。

あるいは、もっと画期的なパラダイムがこれからあるのだろうか。

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2006年5月25日 (木)

ものづくりのロングテール

「ウェブ進化論」を読んでいると、グーグルを使いたくなってくる(笑)

ただ、あちら側とこちら側というのはおおよそ分かったような気がするのだが、食品メーカーに身を置いて、しかもCSRなどという仕事をしていると、どこまであちら側を肯定して良いのか迷ってしまう。

あちら側では、稼ぐことはできるかもしれないが、食品を作ることはできないからだ。あちら側の世界だけでは、生きていくことはできない。当たり前のことだが、あちら側の住人であっても、生命活動はこちら側に依存しているのだ。

ではそういった「ものづくり」にとって、あちら側はどのように捉えればよいのか。ちょっと考えただけではどうしてもビジネス的、マーケティング的な話になってしまう。もう少し、社会的な要素で捉える視点を持つことはできないだろうか。

グーグルの「世界中の情報を組織化し、それをあまねく誰からでもアクセスできるようにすること」というミッションは明らかに単なる金儲けとは違う社会的価値がある。その上で動く仕組みで、同じような社会的価値を持つにはどうしたらよいだろうか。

良いモノをより安くより多くの人に、というのがものづくりの基本的な社会的使命だと考えると、このミッションはグーグルのそれに似ていると言えなくもない。一方で、現実には恐竜の首に頼り、富裕層マーケティングを行い、高付加価値商品を生み出す方向を目指しているのが、今のものづくりのビジネスだろう。

後者であれば、ロングテールを志向するあちら側とは相容れない。では、前者であればどうなのか。しかし、あちら側とこちら側ではコストの構造が違う。こちら側では「良いモノをより安くより多くの人に」を成立させることにはどうしても物理的な限界がある。

いやいや、そもそも「より多くの人に」という発想自体、恐竜の首と言えるかもしれない。グーグルの目的は「誰からでもアクセスできる」だが、これは「誰にでも同じモノを」という発想とは若干異なる。どちらかというと「必要な人に必要なモノを」という発想に近い気がする。

しかし、そうなってくると、単一のモノを大量に作ってコストを下げる大量生産のパラダイムは通用しなくなる。むしろシンプルに「10円のものを10円で」みたいな発想の方が良いのかもしれない。物量でコストを下げるのではなく、そのままコストを積み上げたモノを必要な人の手にあまねく行き渡るようにするということだ。

これまでは、必要な人を探すことにもコストがかかった。乱暴な言い方だが、本来必要ではない人にも「安さ」で売っていたという要素もあるかもしれない。そうしなければモノが売れず、作ったコストを回収できないからだ。

そこで「あちら側」のロジックを持ち込むとすれば、「このモノはこれだけコストがかかっていますから、これだけの価格になります。必要な人が買ってくだされば結構です」ということを、正直に開示するということになるだろうか。一つのモノにきっちりコストともうけが内包されていれば、何とかなるかもしれない。

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2006年5月24日 (水)

情報の盗用

遅ればせながら「ウェブ進化論」を読んでいる。
まだ途中なので、これから記述があるのかもしれないが、今後こういった世界に変化していった場合、知的所有権のような概念はどうなるのだろうか、などと考えてしまった。

もう少し生々しく、著作権といってもいい。たまたま昨日杉村太蔵議員がブログで盗用していたという事件があったが、こういったことは「あちら側」にとってどれだけ意味のあることなのだろうか。
むろん、「こちら側」としては大きな問題なのだろう。情報をモノとして扱うことで、そこに目に見える価値を見いだしてきたのが、これまでの考え方だからだ。

知的所有権の考え方は、情報や知識の価値を見えるようにすることで、その発展に大きく貢献した。一方で、現実的な「こちら側」の価値に換算するその行為が、情報や知識の本当の可能性をつぶしている、なんてことはないのだろうか。

盗用ということであれば、個人的には「される」ことに関してはあまり抵抗感がない。「する」のは、今のところ現実的なリスクがあるのでしないのだが、それも個人的な心理としてはあまり抵抗がない。

なぜかというと、盗用されるということは、自分の提供した情報の価値が認められたということでもあるからだ。それが自分の考えであるなら、その考えがさらに広く伝播していくプロセスの一つとも言える。生物の究極の本能が自らの遺伝子というコピーを残すことだとすれば、自らの考えや知識にも同じようなことが言えるはずだ。

一方、盗用するというのは、相手の考えを取り込む、ということで、これは雌雄の遺伝子により新たな遺伝子が生まれるプロセスに似ている。大体の所、100%盗用なんてことはなく、どこかに個性が残るものであり、その融合が新たな成長を生み出すのが自然のメカニズムだ。

知的「所有権」の考え方は、その本能にブレーキをかける考え方のような気がする。ま、必ずしも「本能」の命じるままが最善とは限らないのだが・・・。

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2006年5月23日 (火)

退屈な脳

そういえば、最近生活が固定化している。
毎朝同じ時間に起き、同じ時間に家を出て、同じ電車の同じ席に座り、同じ駅で降りて歩き、同じお店で同じ朝食を食べ、同じ時間に会社に向かう。
帰りの時間はさすがに毎日同じではないが、同じ道を通って同じ電車で帰ることに違いはない。

ある意味、刺激がないとも言えるのだが、さて、これは脳にとって「退屈」と言えるだろうか。

というのは、茂木健一郎氏によると、脳は退屈なときにその空白を埋めようと何か新しいことを「ひらめく」らしいからだ。
固定化された生活パターン、安定した生活リズムというのは、脳にとっては退屈だろうか。ひらめきを生むことができるだろうか。

なんとなく、感覚ではあるのだが、多分、できない。少なくとも、今の自分の脳はそんな状態ではない。

おそらく、脳の退屈状態というのは、必ずしも身体的な環境には左右されないのだろう。脳が退屈するというのは、脳にたいして何のミッションも与えられていない状態をさすはずだ。今の自分は(そして多くの人は)、常に何らかのミッションを脳に抱えている。

それが「(考える)余裕がない」状態だろう。厳密にいえば、「(常に何かを)考え続けているために、考えなくて良い状態(=脳の退屈)を持つことができない」ということだ。

おそらく、脳のそんな状態が、むしろ生活パターンの固定化を生み出しているような気がする。今の自分の脳は、別の生活パターンのひらめくような「退屈な」状態にないのだ。

・・・とまぁ、ちょっと愚痴っぽいことを書いて、さてさて、仕事のことを考える時間に戻ろうか。とりあえず一段落つかないと、逆に生活パターンが(身体的に)乱れかねない(笑)

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2006年5月19日 (金)

消費者問題の解決

さて、昨日、ではなく一昨日の続き。
消費者問題が発生しないためには、消費者が市場にある商品の情報を完全に知っていることが条件になる。

そんなことはあり得ない。そもそも現代は、企業でさえ「完全に」知ることはできない。インターネットによる情報流通は、ある商品の情報の一部において、企業よりも消費者が詳しいという状況を作り出してしまうことがある。

とはいえ、相対的に見れば、企業の方がはるかに多くの情報を抱えているのは間違いない。問題は格差だから、完全であるかどうかは実はあまり重要ではないのだ。

消費者問題を「発生させない」ための条件はクリアすることができない。つまり、消費者問題はどうあっても発生するのだ。そうなると必要なのは「発生させない」努力よりも「発生した問題を速やかに解決する」という点にこそ置かれるべきかもしれない。

もちろん、発生抑制は重要なのだが、いずれにせよ完全になくすことはできない。であれば、焦点はより「発生後」に置かれるべきだろう。もちろんモラルハザードを生むような救済措置では意味がないが。

難しいのは、発生抑制の多くは企業の責任(消費者による監視、というものはあるが、基本的に発生を抑制する対策は企業にしか行えないだろう)なのに対し、発生後の救済対策には、消費者の責任が伴うということだ。
これは救済を自ら行えということではない。

国際消費者機構が定めた「消費者の8つの権利と5つの責任」によれば、消費者には権利だけでなく責任がある。

  • 批判的意識
  • 自己主張と行動
  • 社会的関心
  • 環境への自覚
  • 連帯

多くの場合、企業は自覚的に消費者問題を発生させるわけではない。(自覚的に発生させたら犯罪である。)むろん、危険をまったく予見していないといえばウソになるが、それは物事にゼロリスクはない、ということと一緒だ。ようは、そのバランスをどこでとるか、ということなのだ。

そこで、消費者側には上記の5つの責任が求められる。消費者の権利の裏返しが企業の責任であるように、消費者の責任の裏返しは企業の権利だろう。お互いがお互いの責任を果たしてこそ、両者の権利は守られる。

消費者と企業が、リスクのバランスをどこにとるか、という対話を行うことこそが、消費者問題の発生を抑制し、発生した問題を解決するのだ。

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2006年5月17日 (水)

消費者問題のメカニズム

さて、昨日の続き。
消費者問題が発生するのは、消費者と企業の関係が対等ではないからだ。
おおよそ、次の4つが挙げられる。

  1. 情報について
  2. 技術操作について
  3. 負担の転嫁能力について
  4. 組織力と市場支配力について

上記の内、1と2はナレッジの分野の話だ。
そこで先に3と4について触れておくと、企業(組織)というものは、元々こういった力を獲得するために作られたものなので、ある程度は仕方ない。特に組織力と市場支配力についてはそうだろう。ただ、個人的にいえば負担の転嫁能力というのは、むしろ負担(リスク)の分散能力といった方がしっくりくるような気がする。
(消費者問題、という視点で見ると、転嫁能力になるのだろう。企業の存在意義という面から見ると、分散能力といった方が良い。これは見方の問題。)

さて、情報と技術操作というのは、企業に蓄えられているナレッジそのものでもある。
この両者については、企業内においても実は格差が存在している。大体において本部が多くの情報を握り、技術操作の能力も高い。元々、そのように役割分担を行うことで、効率を追求するのが企業のあり方なのだ。

消費者問題においてこの格差が問題になるのは、企業と違って「共同体」ではないからである。企業における役割分担は、あくまでも企業の目的に沿ったものだが、企業と消費者との関係は決して「役割分担」とはいえない。
だが、そこにそういった考え方を盛り込むことは本当に不可能なのだろうか。

CSRの分野では、最近「エンゲージメント」というキーワードがよく聞かれる。これは言い方を変えれば、社会を一つの組織として、企業と消費者(を含むステークホルダー)が、ある種の役割分担をしていこう、という動きと捉えることもできる。

その際には何が必要とされるだろうか。

消費者問題という捉え方において「消費者問題が発生しない状態」というのは、メカニズムとしては次の状態で達成される。

1.企業が公正で自由な価格競争を行っている
2.消費者が市場にある商品に関する情報を完全に知っている

むろんこれはあくまでも理屈の話だ。こういったことはあり得ない。価格競争はともかくとして、そもそも後者が物理的にあり得ないのだ。何しろ商品を提供している企業でさえ、内部でそういったことを実現できていない、というのが現状なのだ。そもそも市場に存在する情報は、人間が理解するには膨大すぎるのだ。

とすると、そもそもこのメカニズムを前提とする限り、問題は解決されないということになる。こういった考え方をベースに問題の解決を図っても、恐らくは無駄なのではないか、という気がしなくもない。

それではどのように考えていけばよいのか・・・続く。

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2006年5月16日 (火)

消費者問題とナレッジマネジメント

朝の時間の使い方を少々見直し、特別なネタのないときは勉強(とそれに関する話題を書く)時間にあてることにした。少し出社の時間を遅らせて、もう10分ほど余計に時間を確保することにする。

さて、今日の本題。
消費者問題というのは、「消費者が企業から購入する財・サービスから受ける、またはその取引に関連して受ける肉体的被害、経済的被害、または不利益」のことなのだそうだ。(財団法人日本産業協会「消費者問題2006版」)

言葉にするとややこしいのだが、ようは両者の取引を原点にして、消費者側に不利益が発生した場合に「消費者問題」というらしい。
企業側に不利益が発生した場合に何というのか、というつっこみはおいておいて、これは厳密には「消費者苦情(クレーム?)」とは違うのだそうだ。消費者苦情は、あくまでも消費者自身が主観的にとらえたもので、消費者側の(使用時の)問題などが含まれるから、というのがその理由。もっとも、問題発見のきっかけになることは間違いない。

また、「生活問題」というものとも違うらしい。なんだか問題の定義がたくさんあっていい加減にしろと言いたくなるが、生活問題というのは広く経済社会に問題がある場合のことをいい、消費者問題はあくまでも企業と消費者との二者間での場合をいうのだそうだ。仮に同じような現象であっても、その原因と対策がどこに求められるかによって異なるということだが、問題は問題であって、しかも現代はいずれにしても様々な要因が絡み合うのだから、厳密に使い分けることは難しい気がする。

さて、この消費者問題は、現代においては「構造的に」発生する。この理由がなかなか考えさせられるのだ。

昔は加工度の低い原材料を購入し、家庭内で加工して使うという消費生活のスタイルだった。食品で考えるとわかりやすいが、生鮮を買ってきて、家で料理することが大半だったということだ。
そのため、加工のプロセスを消費者自身が「体験的に」学ぶことができていた。ここがポイントになる。

一方、現在は企業で多くの加工が施されたものを消費者は購入し使っている。つまり、消費者はその「モノ」の加工のプロセスを学ぶことができない。さらに企業は企業で大量に安価に作るために様々な工夫をする。その結果、家での加工とはまったく異なる加工プロセスを経て作られるものも多い。

加工のプロセスを学ぶ機会を失った消費者と、独自の加工技術を磨く企業。その両者の非対称性が問題を生むのだ。

そして、この非対称性の多くは「情報」の分野で発生する。この構造は、企業内におけるナレッジマネジメントでも似たようなものと考えることができる。企業を本部、消費者を現場と考えれば良いだろうか。人数が少なく、少人数ですべてをやらなければならない中小企業は昔の消費生活のスタイルであり、組織の規模が大きくなって、役割分担が進んだ大企業が今の消費生活のスタイルということだ。

問題の構造は、よく似ている。

それでは、どのように解決していけば良いのか・・・続く。

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2006年5月15日 (月)

知識を持つ持たないという差別

土日はあまりネットワークに接続しないため、休み明けはなんだか忙しい。
メールのチェックとSNSなどの新着のチェック・・・にけっこう「追われている」感じになる。

本当は割り切ってしまえば良いのだが、なかなか気分的にそうならない。

・・・などと毎週考えるのだが、今週(といっても13日発行)のセクシー心理学を読んでいて「なるほど」などと思ってしまった。

最も身近で恐ろしい「差別」は何か。
それは「知識」なのだそうだ。

むろんこれは作者の主張であって、本当の意味での深刻な差別ということではないと思うのだが、「知識を持つ持たないという差別」というのは、なかなか考えさせられる。考えてみれば、新着のチェックに追われる心理というのは、ここからきているのかもしれない。

これを強引に展開して考えてみると、ナレッジマネジメントというか、知識共有が風土的に進まない企業というのは、こういった「差別意識」が強い企業とも言えるかもしれない。いやいや、逆にその差別意識がインセンティブになる可能性もあるだろうか。

とりあえず来週に続くようなので、どういった解決策が提示されるのか、注目してみることにする。

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2006年5月12日 (金)

話題の温度差

昨日は久しぶりに昔のナレッジマネジメントプロジェクトのメンバーと飲んだのだが、第一世代ともいえる初期のメンバーと、第二世代といえる今のメンバーとでは、微妙に話題の温度差を感じるのは何故だろう。

あえていうなら、立ち上げにかかわった初期のメンバーと、運営を引き継いだ今のメンバーとでは、少し「ナレッジマネジメント」というキーワードに対する感覚が違うような気がする。勉強と試行錯誤を繰り返した立ち上げた人間と、形を引き継いで発展させてきた人間との違いかもしれない。

そのことに善し悪しがあるわけではないが、なんとなくそんなことを感じながら、じゃあ自分はどうなのだろう、とか考えてしまった。自分はある意味どちらの世代にも「かぶって」いるのだ。

自分の言動を客観視できるわけではないので、なんとも評価のしようがないのだが、もしどっちとも言えない中途半端な立場だったら、(だからこそ双方にあわせられるという要素はおいておいて)なんとなく寂しく感じなくもない。

うーん、お酒が残っているせいか、なんだか訳の分からない内容になってしまった。

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2006年5月11日 (木)

技術は宝

昨日の毎日新聞に掲載されていた理系白書という特集記事はなかなか考えさせられることがあった。
海外に進出する日本の技術者を取り上げた記事なのだが、「技術の流出」という考え方について、特に印象的だったのは、次の2つだ。

ある業界団体の幹部は「技術は先輩たちが何十年もかけて築いてきたものだ。なのに『おれの技術だから好きにしていい』と言えるだろうか」と批判的だ。


日本の会長が「この研究所は日本人が会長、その下にアメリカ人、スタッフも10カ国から来ている。技術は宝なのに、こんなに多国籍では先端技術が流出するのでは」と尋ねた。リー氏は平然と「流出しますよ。でもそれ以上に入ってくる」と答えたのです。

業界団体の幹部や日本の会長の言葉の中にある「もの」「宝」という表現に、日本人の技術観が表れているような気がする。恐らく知識と読み替えても同じようなイメージだと思うのだが、彼らにとって技術とはあくまでも「モノ」なのだ。形がなくても、ある固定化された、完成された「モノ」なのである。

そうではなく、技術や知識というのは、固定化できない、完成されない「何か」なのではないだろうか。イノベーション(技術革新)という言葉があるが、その「変わっていくこと」こそが技術や知識の本質のような気がする。

そのように考えると、「ナレッジマネジメント」というのは、ナレッジという「モノ」をいかに管理活用するかということではなく、ナレッジという「革新」をいかに継続的に行っていくか、ということを目指す必要があるということになる。

ナレッジマネジメントの導入に失敗してしまう原因は、ナレッジをついついモノと捉えてしまう技術観、知識観にあるのかもしれない。形式知は確かに固定化されたモノだが、大切なのは、そのモノを管理することではなく、次のステップへの踏み台にすることのような気がするのだ。

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2006年5月10日 (水)

時間がないという理由

少し(一応少しとしておく)本業というか、仕事が忙しくなって、ネタに詰まるようになってきた。
書く時間・・・はあると思う。朝に時間を確保しているからだ。時間がないのではなく、ネタがないのである。

で、よくイントラブログなどで言われる「忙しくて書けない」という命題について考えてみることにする。
それは「書く時間」が確保できないのか、「考える時間」が確保できないのか。果たしてどちらだろうか。あまりつっこんだ話は聞いたことがないような気がする。

自分の場合はどちらかといえば後者なのだが、それでも「書く時間」に考えることはできる。なんのきっかけもなく「考える」のはかなり難しいので、再三ネタにはつまるのだが、それでも書く気さえあれば絞り出すことができる。

それに「考える時間」というのは、どちらかといえば気持ちの問題だ。ちょっとした空き時間というのは必ずあるし、考えるのに必要なのは物理的な条件ではないので、あるテーマについてきちんと意識をむけてさえいれば、自然と人のアタマは「考える」ように出来ている。

そういった意味では、「考える時間がない」というのは、実は真剣に考える気がない、と厳しく言うこともできる。イントラブログの場合、基本的にテーマは仕事のことになるのだから(もちろんそれ以外でも良いとは思うが、まぁ普通は仕事の話題が中心になるだろう)「考える時間がない」というのは「仕事について考えていない」と同義になってしまう(笑)
(ただ、このブログの場合は、あえて仕事からは若干ずらすようにしているので、少し事情が違う。仕事で考えたことはCSR日記の方に書くからだ・・・と言い訳してみる。)

すると、やはり問題は「書く時間」という物理的な時間の問題だろうか。
しかし、本当に忙しい(忙しいということを口で説明するまでもなく、周囲が「時間がない」と認知できる)人というのは、そうそういるものではない。「時間がない」と言っている間にも、一行ぐらいは書けてしまうからだ。

このブログを書くために確保している時間は、約20分。
自分ではスケジュールを調整できないエグゼクティブクラスの人間ならまだしも、これだけの時間を確保できない人が世の中たくさんいるようには思えないのだが・・・。

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2006年5月 9日 (火)

情報公開の細かな設定

SNSに求められる機能として「情報公開の細かな設定」というのがあるそうだ。
http://japan.internet.com/research/20060502/1.html

別にそれはそれで構わないし、気持ちは分かるのだが、SNSの目的からすればどうだろうか、という気もする。

もっとも、ユーザー数が増えることで、外部と変わらなくなってしまう、というのは、SNSが抱えている構造的な問題だろう。実際mixiなどは「気の合う仲間だけで」という規模はとうに越えてしまっている。

逆にいえば、mixiというツールには、そういった性格は望んでも仕方ないのだ。個人的には、情報公開の細かな設定といった機能ではなく、最初からそういった場であることを前提としたつきあい方というか、参加者の心構えこそ重要ではないかと思う。

SNSは(特に初期のSNSは)ネットワークを「広げる」ことを目的としており、ネットワークを「閉じる」こととはその性格を異にしている。その「ネットワークを広げる」最たる機能が「招待制」だ。一見すると閉じたコミュニティを作るかのような印象を与えるが、誰でも招待が可能な「招待制」は、本来縦横無尽にネットワークを広げていくためのもので、決して閉じるためのものではない。

ネットワークを閉じるために必要なのは、「招待制」ではなく、「会員制」である。
両者が混在すれば、混乱を招くような気がする。

それにしても、情報公開を細かく設定するということが強く求められてくると、そのうち、自分がSNSを主宰して、自分だけの仲間を招待するようなクローズのSNSサービスが出てくるんじゃないか、という気になってくる。
あるいはブログのようなエンジンに、共通の認証システムを設定して、インターネット全体をSNSとして使えるようなツールが出てくるのではないだろうか。

しかし、そうなったときに、インターネットのもつウェブとしての機能はむしろ分断されて、閉じたネットワークが増えていってしまうのではないか、なんて気がしなくもない。
検索エンジンでは検索されないコンテンツが増えていった時、次に仕掛けるべきサービスはなんだろうか。

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2006年5月 8日 (月)

4つでまとめる

最近、なんでも「4つでまとめる」ということを心がけている。
なんのことはない、パワーポイントで4枚のシートにまとめると、4分割で印刷したときに1枚に収まって座りがよいというだけの話だが。
(足りなくなって8シートということもある。両面印刷であればそれでも1枚で済む。)

別に印刷だけがすべてではないが、手軽に持ち歩くにはやはり1枚で済ませることがポイントだ。

その「4つでまとめる方法」についても「4つにまとめ」ようとしたのだが、これが意外にまとまっていない。

1つめのパターンは、「4つのステップ」
いわゆる「起承転結」ではないが、段階を踏んだ4つのステップに整理するやり方だ。Plan - Do - Check - ActionのPDCAでも良い。

2つめのパターンは、「4つのエリア」
これはパワーポイントの場合ちょっとまとめにくいのだが、2×2のマトリクスに整理して、それぞれの象限を1枚にまとめるというやり方だ。

3つめのパターンは、「4つのポイント」
これは段階を踏むわけでも、マトリクスでの整理が出来るわけでもないが、とにかくポイントを4つに絞り込むやり方だ。こういった形でポイントを絞り込む際は「3つ」というのが良くいわれる形だが、とにかく強引にでも4つにしてしまう。
最近思いついたKMのPDCA(Presentation - Documentation - Communication - Association)などがこれにあたる。

・・・と、この3つまでは良かったのだが、4つめが思いつかない(笑)
自分なりにまとめたシートの中では、4つめは「4つのページ」として、とにかく形はどうあれ4ページに収めるというやり方が書いてあるのだが、それはちょっと強引すぎるというか、「4つのポイント」のやり方との差異がない。

まぁ絞り込むならともかく、無理に4つを絞り出す必要はないようにも思うのだが、何となく落ち着かないのだ。

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2006年5月 2日 (火)

ボトムアップとトップダウン

ボトムアップというのは、現場の人間による発案で現場が動くこと・・・ではない。
一方、トップの人間が発令すれば、トップダウンかというと、そういうわけでもない。

そんなことを昨日ふと思ったらしく、メモが残っている。

ボトムアップというのは、ボトムラインでの動きではないから「アップ」という言葉が付属するのではないか。
つまり、ボトムの発案により、トップが動いてこそ、ボトムアップと言えるということだ。

しかし、ボトムアップを口にする経営者で、「自分が」現場に動かされると想像している人間がどれぐらいいるだろうか。「よきにはからえ」ぐらいの気持ちで現場を見守るのがボトムアップと勘違いしていないだろうか。

そうではなく、言葉は悪いが、現場の手足となってトップが動くような状況になってこそボトムアップだろう。現場が言い出して現場が動くのであれば、それはボトム-ボトムの動きだから、アップという流れがない。

一方、トップダウンというのは、上意下達(ちなみに「じょういかたつ」が正しいのだそうだ。初めて知った・・・。)のことだろうか。なんだか、これもそれだけではないような気がする。

ただ、こちらは基本的にトップが発令してボトムが動くのだから、指示の流れに関しては特に問題はない。
自分がどうしてこういったメモを書いたのか、良く分からないのだが、多分トップが発令しても現場がその通りに動かなければ、トップダウンではないというようなことを考えたのだろう。

もっとも、アップにせよダウンにせよ、なんだか一方的なような気がしなくもない。意外とこれから求められるのは、「トップとのコラボレーション」「ボトムとのコラボレーション」なのかもしれない。

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2006年5月 1日 (月)

製造部門と営業部門

製造部門と営業部門、ナレッジマネジメントをやろう!(これ自体かなりあいまいな目的だが)ということを考えた場合に、アプローチの違いはあるだろうか。

単純に「知識の共有」という目的を掲げて考えてみよう。
もちろん、先日のエントリの通り、「知識を整理する」「知識を生み出す」ではかなり性格が異なってくるのだが、それはさしおいても製造と営業とでは運用体制に大きな違いがあるのではないかと思う。
(ただし、企業毎に事情が異なる可能性もある。)

大体において製造部門というのは、営業部門に比べて、役割の細分化が進んでいないだろうか。逆にいうと、営業の仕事は個人に頼る部分が大きく、製造部門はより組織化がされているということだ。これは、仕事の性格による部分も大きい。

製造現場では、「製造の計画を立てる人」「(材料の用意など)製造の準備をする人」「実際の製造をする人」「その管理をする人」「出来たものの品質をチェックする人」「設備の調整をする人」などなど、様々な役割がおおむね細分化されている。一人で何役も兼ねる場合はもちろんあるだろうが「役割」として整理はされている。

一方、営業現場では、意外とそういった整理がされておらず、営業マン個人に集中している気がする。何役も兼ねるというものではなく、そもそも役割自体が細分化して整理されいないような気がするのだ。
(単なる偏見かもしれないが、少なくと第三者的にはそのように見える。)

さて、どんな目的であれ、KMの推進には「知識の登録」という作業が発生する。

役割が細分化されている製造現場では、その作業の目的に沿って、どの担当者が担うのが良いか検討され、場合によっては新たな役割が組織として追加される。
ところが、営業現場の場合、多くは営業マン自身にそのままその役割がおりていくことが多い。

この構図をなんとか出来ないだろうか。エンジニアリング的なアプローチにはなるが、営業部門の場合、KM以前の問題として、仕事上の役割の細分化と整理をまず進める必要があるような気がする。

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