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2006年6月30日 (金)

自分の過去のエントリにトラックバックする

iUGの公式SNS(興味のある方はこちら)の日記に、以前社内で書いていた過去の日記をエントリーしている。

そのままコピーして、コメントというか補足を加えていくのだが、これが意外と面白い。
このやり方は「続けられなくなった」ブログの活性化につながるのではないだろうか。特にイントラブログの場合に面白いと思うのだが、とにかく自分の過去のエントリーにトラックバックしていくという方法だ。

月に20本として3ヶ月60本程度では難しいかも知れないが、半年120本、1年240本ぐらいのストックがあれば、以前に書いた内容は忘れてしまっている可能性も高い。改めて読み直せば新たな発見があるかもしれないし、今の自分ならより高度なことが書けるというのがあるかもしれない。考えが変わっていて、全然別の方向に飛んでいける可能性もある。

そういった意味では、内容で判断せず、とにかく順番にトラックバックしたほうがいい。それが脳の活性化にもつながるような気がする。

ブログをナレッジマネジメントのツールとして考えた場合、書きっぱなしではなく見直しを繰り返すことで知恵を磨いていくことは必要不可欠だ。過去のエントリにトラックバックするというのは、そういった効果がある。
一方、コミュニケーションのツールとして考えた場合も、古くからの読者に考え方の変化を伝えたり、新しい読者に改めて自分の考えを伝えるきっかけにもなる。

昨日のエントリーとは正反対の主張にはなってしまうのだが、そうやって「モノローグを積み重ね」てみてもよいのではないだろうか。

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2006年6月29日 (木)

ブログやSNSはコミュニティツールになるのか

iUGの公式SNSの(興味のある方はこちら)コミュニティで、「新しいSNSに入ると友達を作るのが面倒くさい」という投げかけがあった。
そちらでもコメントしているのだが、さらに考えたことを書いてみる。

それは、SNSやブログはコミュニティツールになるのか、という疑問だ。SNSに限定して考えてもよい。
そもそもSNSはコミュニティを提供するサービスなので、ある意味捉え方から間違っているのかも知れないが、突然そんな疑問が頭をもたげた。

厳密にいえば、SNSは「ネットワーキング」のためのツールであって、「コミュニティ」のためのツールではない。
どういうことかといえば、SNSの「友達」はあくまで個人という点を線でつないだもの(ネットワーク)であって、複数の個人が面的につながるもの(コミュニティ)とは異なるような気がするのだ。

むろん、SNSが提供しているテーマ単位の個々のコミュニティに関しては、面的なつながりはあるだろう。逆に言えば、そこまで展開しておらず、日記と友達という機能だけでは、どうしても面的な広がりが弱いのではないか。

これはブログも同様だ。トラックバックは点と点を縦横無尽につなぐが、掲示板のような面的な広がりというか、厚みはない。

気になるのは、SNSの日記やブログといった「自分の庭」は、掲示板のようなダイアローグではなく、モノローグを生みやすいということだ。それゆえに敷居が下がって参加の裾野が広がったのだが、モノローグはどこまでいってもモノローグでしかない。1対1のダイアローグであれば、トラックバックやリンクによってもある程度機能するが、それ以上である多対多のやりとり(なんていえばいいんだ?)との間には大きな隔たりがある。

ブログはともかくとして、SNSをコミュニティツールとして使おうと思ったら、文字通りコミュニティの活用が大きな課題になるのではないだろうか。

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2006年6月28日 (水)

辞任の責任

村上ファンドに出資していたという福井日銀総裁について、辞任を求める声が67%という記事が昨日の朝日新聞にあった。

別に辞任を要求するのはかまわないと思うのだが、実際に辞任した場合、それによって発生した問題への対処の責任は誰が負うのだろう、などとふと考える。辞任してしまった場合、福井氏には対処の権限も責任もなくなってしまうような気がする。

辞任であれ、解任であれ、問題はそこは終着点ではなく出発点だということだ。気分的には納得しても、問題は解決されるわけではない。何か問題が発生するたびに、辞任辞任と辞任を求める声を聞いていると、そんな気分になることがある。

辞任は本人が決めるものだ。本人が決めたことだから、その後のことも本人に責任がある、と考えるのは簡単だが、であれば周囲が辞任を「求める」のは矛盾している。周囲がやるべきことは、自らの責任でその相手を解任することではないか。それが責任を負うということだ。

解任した場合、その責任は解任した人間にある。さらにその判断に対して影響を与えた、つまり解任を要求した人間にも同様に責任の一端がある。辞任の場合、そういった責任関係があいまいな気がする。さんざん辞任を求めて追い込んでも、最後は本人の責任というわけだ。

というわけで、福井総裁に問題があるというのであれば、辞任ではなく解任を要求するべきなのではないか、などと考えてしまう。本人の意思で辞めるなどというあいまいな形ではなく、事後の責任を負う者の責任において辞めさせることが必要なのではないだろうか。

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2006年6月27日 (火)

駐車代行

久しぶりのエントリであるが、先週は(かなり早い)夏休みを満喫していた。
休日(?)に書かないのはいつものことだが、これだけ間が空くのは初めてかもしれない。

さて、休み中に「ビズマガ」というフリーマガジンを読む機会があったのだが、その中に「駐車代行」の広告が掲載されていた。細かい内容ははっきり書いていないのだが、恐らく所有者の代わりに車に乗っていることで、駐車を「代行する」というものだろう。

路上駐車の取り締まりが民間委託されるようになったときに、そういったビジネスがありえることは職場でも話題になったのだが、こうして改めて広告の形で目にすると、非常に微妙なビジネスのような気がしてくる。

この駐車代行のコンセプトは、言ってしまえば路上駐車を幇助するものだからだ。取り締まる側は、その路上に車を止めて置かれると困るから取り締まる。一方、このビジネスは、その取り締まりを回避することで、その路上に車を止めておこうとするものだ。

現実問題として、やむを得ない理由での路上駐車の為にこういった需要があることは理解できる。それはそれで理解できるのだが、こういったビジネスは「そうではない」理由であってもお金さえあれば路上駐車を可能にしてしまう。

ちなみに料金は1時間で2000円とある。これはつまり「その場所に1時間駐車する(時に若干移動はするにしても)」ということを意味している。これは法的には路上駐車ではないかもしれないが、道義的にはどうなのだろうか・・・。

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2006年6月16日 (金)

思いつきを忘れる

書こうと思っていたネタを、きれいさっぱり忘れてしまうことがある。
思い出すきっかけを失うとでもいおうか。

そんなことにならないために、なるべくメモを取るようにはしているのだが、思いつきの多くは電車の中やトイレの中のように「メモがとりにくい」状況で生まれてくるので、これがなかなか難しい。

今日はそんな状態。困った・・・。

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2006年6月15日 (木)

目指せ「日の丸検索エンジン」?

昨日の毎日新聞に、日本独自のインターネット検索エンジンの開発に乗り出すという記事があった。
電気、情報通信大手など国内の約30社・機関が共同で取り組み、2年以内の実用化を目指すのだと言う。

2年って、そんなに時間をかけて大丈夫なのだろうか、という気もするが、それ以上に気になったのは、こんな記述があったことだ。

しかし、米国企業のグーグル、ヤフー、マイクロソフトの3者が市場をほぼ独占し、技術も公開していないため、ネット社会での情報の恣意的な管理や、日本企業の事業機会が失われることが懸念されていた。

開発メンバーがそのように発表したのか、記者が個人的にそのように考えたのかはわからないのだが、もし前者であれば、そんな動機で作られた検索エンジンは絶対に利用されないのではないだろうか。
こういった懸念に対抗するべく作られた検索エンジンということは、一方で開発に参加した企業の恣意的な管理や、日本企業の事業機会のための機能が盛り込まれる可能性が非常に高いということでもあるからだ。

もっと言ってしまえば、参加企業の思惑がぶつかりすぎて、結局完成すらしないんじゃないかという気もしてくる(笑)

もう一つ気になってしまうのは、はたして検索エンジンは「技術」なのだろうか、ということだ。ある検索条件に対して、最適な解を探し出すというのは、技術の問題ではないような気がする。考え方というか、情報の捉え方の問題であり、技術よりもそういった「概念」の研究が必要なのではないか、と思うのだ。

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2006年6月14日 (水)

あいさつできない人

6月12日の読売新聞に、人間関係に関する全国調査の結果が紹介されていた。
その中に「日頃、人と接していて気になること」という項目がある。

あいさつのできない人が増えている・・・53.0%
目上の人や初対面の人にていねいな言葉遣いのできない人が増えている・・・47.7%
自分のことばかり話して人の話を聞かない人が増えている・・・29.8%

以上が上位の回答で、調査の内容は総じてコミュニケーション不足の問題を示唆していたのだが・・・。
この「日頃、人と接していて気になること」という質問への回答に対して、こんな補足を考えてしまった自分はひねくれ者だろうか。

(自分に)あいさつのできない相手が増えている
目上の自分や初対面の自分にていねいな言葉遣いのできない相手が増えている
自分のことばかり話して自分(私)の話を聞かない人が増えている

「人」という単語を、互いの関係性を示す言葉に変換すると、この「気になること」自体がコミュニケーション不足の最たる原因のような気がしてくる。受け取る相手がこんなことを考えていたら、積極的にコミュニケーションしようとは思わないよな、普通。

大学の寮にいた頃、「なんであいさつしないんだ!」と怒る先輩に対して、「そりゃあんたがあいさつしないからだよ」と反発した(もちろん内心でだが)ことを思い出してしまった。
相手ができないことが気になるときは、自分がどうかをまず省みたほうがいい。

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2006年6月13日 (火)

毎日続けること

自分だけの特質かもしれないが、ブログを毎日書いていると、質が低下してくるような気がする。
正確には、自分の個性に同質化してくる、とでもいうべきだろうか。そういった意味では「低下」ではないかもしれない。

今自分は、朝にこのブログ、夕方に仕事に関連するブログをほぼ毎日(平日限定)書いているのだが、仕事に関連するブログでその傾向が顕著になってきた。簡単に言えば、エントリに自分の個性が強く出るようになってきたのだ。もっといえば、朝の内容あるいは過去の内容と違いがなくなってきたとでもいおうか。

朝のブログは、個性を出すためのものだからそれでも良いのだが、夕方のブログは曲がりなりにもテーマを決めてのものである。個人的にも、あまり個性は出さずに「ちょっときかせる」程度でよいと思っているのだが・・・。

毎日書いていると、それが難しくなってくる。単なる「ネタ」の段階でさえそうなのだから、内容的なクオリティは言わずもがなだろう。正直、「個人のブログ」としてはともかく「そのテーマのブログ」としてクオリティを維持できているとはとても思えない。

テーマに対する緊張感が足りないのだろうか。
ある一つのテーマについて書き続けようと思えば、どうやっても手持ちのネタだけでは続けられない。適度な緊張感と継続的な勉強が必要になる。確かにそういった勉強はできていない。これは反省しなければならない。

あるいは「毎日」という連続性がクオリティに対する緊張感を麻痺させてしまうのだろうか。
これはある程度は避けられない気もする。正直、毎日書いていればだめな日もあるさというある種のあきらめ(達観)はある。逆に言えば、それでも質を維持できるというのが、ブログの評価につながっていくのかも知れない。

一方で、ある一つの画期的なエントリは、無数の習作から生まれてくるという考え方もあるだろう。ブログは時系列だから流されていってしまうが、それでも過去に書いた中には、十分なクオリティのものもあったはずだ(と勝手に確信している)。毎日書いているがゆえに玉石混交になるのは、避けられない宿命と考えることもできる。

それにしても最近朝夕のブログの内容というか、発想が似てきてしまっているのが気になって仕方がない。こうなるとそもそも分ける必要がないわけで、何か考える必要がある。

・・・そうそう毎日「決まった時間に」書くというのも、あまり良くないかもしれない。とにかく時間が来れば書くということで、あまり「ひらめいたら書く」という感じにはなっておらず、ある意味「作業化」してしまっている。(環境的にひらめいたら書くというのは無理なので当たり前だが・・・。)

このあたり、他のブロガーの皆さんはどのようにしているんでしょうね・・・。

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2006年6月12日 (月)

iUGの会員登録がスタート

事務局に参加しているiUG(intra Blog/SNS Users Group)の正式な会員登録がスタートした。
関心を持つ人であれば誰でも無料で登録できる。
こちらから↓
http://iug.typepad.jp/blog/

なんというか、自分がなぜこの会に参加しているのか、時々疑問に思ったりもする。
昨年の今頃と違い、今の自分は社内に対してこういった(BlogやSNSといった)ものを提案・提供していく立場ではないし、少なくとも社内においては、かなり縁遠い立場になっている。

別にそれ自体はかまわないのだが、これまでにやってきたことや、当時考えたようなことは、今後は社会にも還元できるはずだ・・・などとも考える。そういったできることをできる限りやっていきたい。

とりあえず、会員向けのSNSもあることだし、昔の話などはそちらで公開していく予定。
どれぐらい他の人の役に立つのかは分からないが、この手の話は「切って覚える」外科医と同じで、様々なケーススタディが必ず参考になるはずだ。

役に立つかどうかはその人次第、といっては突き放したような感じだが、そのヒントになれるような情報を提供していきたいものだ。

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2006年6月 9日 (金)

リンク無しのトラックバック

先日のダ・ヴィンチ・コードのエントリに久しぶりにトラックバックがあったのだが、お礼のコメントでもしようかと見てみるとこちらへのリンクがなかった。なるほど、こんなやり方もあるのか、とちょっとこの「リンクはしないトラックバック」について考えてみる。

逆のパターンはまだ分かる。リンクはするがトラックバックはしないというやつだ。自分も、時々「こっそり」リンクだけさせてもらおうと思うことがある。大体において、自分の主張にそれほど自信がないか、相手のブログの影響力が大きすぎてちょっと・・・という場合なのだが、そういったものはなるべく避けるようにしている。

さて、今回のパターンはどうなのだろう。相手はこちらに何を望んでいるだろうか。ただ、自分のブログを読め、と一方的にトラックバックを送りつけているだけだろうか。さらにはこちらのブログを読んだ人に、自分のも読め、と。

でも、それだけならリンクをしない理由にはならない気がする。まぁ単に文中でリンクするのが面倒だから、というのもあるかもしれないが、少々釈然としない。
釈然としないのは、相手が自分に言いたいことがこちらにダイレクトに伝わってこないからだ。ブログというのが個人の考えを発信するためのものであり、トラックバックやリンクがその延長として他人とコミュニケーションを行うためのものであるなら、この種のトラックバックはそういった要件を満たしていないことになる。

例えていうなら、本人に聞こえるように、でも他人に対して批判をするようなものだろうか。面と向かっていわれているわけではないから、反論はしにくい。そうやって反論できない状況で、相手に聞かせている、みたいな。

丁重に無視し、トラックバックを外すという方法もあったのだが、せっかくなのでそんなことを考えてみた(笑)
こういう形のコミュニケーショントラブルも、ブログが普及してくれば当たり前に出てくるのかもしれない。
とりあえず、自分はこれから気をつけていくことにする。

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2006年6月 7日 (水)

本当の勝ち組

村上ファンドの村上世彰代表がインサイダー取引の容疑で逮捕された。
昨日は新聞各紙が社説でも取り上げていたのだが、その中で毎日新聞の社説を読んで、少し引っかかるものがあった。

最後にこんな一節がある。

市場による監視は、企業の経営規律を保つうえで重要な役割を果たしている。

この文章が示している、監視の対象と監視者は誰だろうか。証券市場が監視者で、対象が企業だろうか。それだけでなく、投資家が監視者で、投資ファンドも監視の対象だろうか。

前者は当たり前の機能なのだが、後者についてはどれだけ問題になっているのだろう。
言い換えれば、村上ファンドに投資していた投資家は、どれだけ監視の機能を果たしていたのだろうか。

今回の事件は、そういった監視機能が働いていなかったからこそ起きたとも言える。

社説によれば、村上ファンドの手法には数々の疑問点が指摘されていたそうだ。村上ファンドに投資する投資家が、そのことを知らないわけがない。というか「知らなかった」で済まされるわけがない。

村上氏は「めちゃくちゃ儲けたから嫌われた」と言っていた。
麻生大臣は「めちゃくちゃ儲けたからではなく、儲けた手法に問題があったから嫌われた」と言っていた。

個人的な感覚では、堀江氏のケースと違って、村上ファンドの投資で一番儲けたのは、村上氏自身ではなく、彼のファンドに投資していた投資家だと思うのだが、どうなのだろう。
彼らに責任(法的責任ではなく、社会的・道義的責任だ)はないのだろうか。

村上ファンドへの投資は、6割近くがアメリカの学校法人だという報道もあったが、外国からの投資はこの際問題ではない。恐らく彼らは村上ファンドの具体的な活動は知らず、数字だけで判断しているのだろう。
問題は、残り4割の中に、日本の投資家はどれぐらいいて、彼らは間近に村上ファンドの活動を知りながら、なぜ投資を続けていたのか、ということなのだ。

村上ファンドが一般の投資家から吸い上げた資金は、結局彼らの懐に入っている。
決して表に出ることなく、村上ファンドで儲けた彼らこそ、本当の勝ち組なのではないかと思う。

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2006年6月 6日 (火)

日本人の平均像

昨日(6/5)の朝日新聞の「時流自論」で、フリーライターの金子達仁氏が「国民性出るW杯サッカー」というコラムを書いていた。
なぜ日本サッカーには、第二の釜本が現れないのか、という疑問からスタートし、現時点で次のように考えていると書いている。

  • 釜本がサッカーを始めたのは、日本ではサッカーがマイナーな時代だった。
  • つまり当時サッカーをやっている人間は、日本人の平均像にあてはまらなかった。
  • 一方、今の日本ではサッカーは当たり前に国民になじんでいる。
  • そのため、日本人の国民性や気質が明確に表れるようになった。

その「日本人の国民性や気質」「日本人の平均像」について、明確に掘り下げた考察はないのだが、この考え方はよく言われるキャズムの問題に重ね合わせてみると面白い。

ある新技術が浸透するためには、その技術を使う人によって、大きく3つの段階がある。

  • とにかく新しいものが好きでなんでも試してみる物好きな「イノベーター」
  • メリットをきちんと見極めたうえで使う賢明な「アーリーアダプター」
  • 周囲が使うようになって使う大多数の「マジョリティ」

アーリーアダプターとマジョリティの間には、規模的にも大きな格差があり、この間にある壁がキャズムと呼ばれる。キャズムを越えなければ技術は広く普及しないが、キャズムを超えるためにはある程度の技術の普及が必要というのが、ここにあるジレンマだろう。

国民性や気質、平均像が現れるのは、マジョリティの段階である。そして、その段階に到達すると、その特性ゆえにイノベーターやアーリーアダプターの頃に活躍したような「天才」は登場しなくなる。いや、天才はどの段階でも登場するだろうが、それはマジョリティ以前の天才とは違った天才ということになる。

このような考えをブログやイントラブログにあてはめると、どうなるだろうか。イントラブログが普及するというのは、初期の頃に登場したような「書き手」「読み手」とは違う特性が表面化するということにならないだろうか。
それはイノベーターやアーリーアダプターが考えるブログの活用像とはまったく異なる世界かもしれない。

・・・もっとも、釜本をイノベーターと考えれば、アーリーアダプターはマジョリティの姿を反映していると考えることもできる。その場合は、アーリーアダプターとマジョリティの間では、大きな違いは発生しないことになる。

ただ、キャズムという壁が現実のものであるのなら、違いはむしろここにあると考えるべきだろう。その壁をどう乗り越えるのか、いやそもそも、壁を越えるというよりは姿そのものを変えないと、マジョリティとしての普及は望めないかもしれないのだ。

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2006年6月 5日 (月)

駄目だ・・・

何も出てこない・・・。

仕事が忙しいということもあるのだろうが、最近急激に自分の頭から「ナレッジ」や「イントラブログ」というキーワードが抜け落ちるようになってきた。以前にも書いたような気がするが、ナレッジがストックを活用するものではなくイノベーションを生むものだとすれば、これはかなり危機的な状態ではある。

どこかで新しい刺激を入れる必要があるのかもしれない。

しかし、刺激を受け取るためには、こちらからも刺激を与えるものがなければならない。それはなんだろうか、と考えると恐ろしくなってくる。

・・・そういえば「KM日記」ってカテゴリだけ作って書いてないな。

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2006年6月 2日 (金)

ダ・ヴィンチ・コード

昨日の毎日新聞に「キリスト教国揺らすダ・ヴィンチ・コード」という記事があった。
たまたまというか、ちょうど読んでいる最中だったので、興味深く読んだのだが、一つ驚いたことがある。

民間調査機関が5月に実施した世論調査では、小説を読んだ英国人の60%が「キリストは結婚して子供がいた」という設定を真実だと思い込んでいるという。

原典にあたったわけではないので、この文章から推測するしかないのだが、「真実だと思い込んでいる」というのがすごい。小説を読んだ限り、そこまで説得力があるとは思えないからだ。

もちろん、この説そのものには様々な文献がある。聖杯伝説で有名なのは、解説で荒俣宏氏も書いていたような、レンヌ・ル・シャトーの話などだろう。そういった文献も知った上で「真実」と捉えるのはまだありだと思うのだが、明らかな小説を読んで、それだけで「思い込んで」しまうのはいかがなものか。

いくらなんでも「幸せすぎる」気がする。失礼な話だが・・・。

そもそも「科学的に」この説を実証できるものはなにもない。それはもう一方の聖書の記述にしても同様で、いずれにしても「真実」ではなく一つの可能性にすぎないのだが、そう捉えることができていない、ということになる。

これは、実はちょっと恐ろしいことで、そこから考えなくてはいけないことは二つある。
一つは人はかくも「信じやすい」存在であり、だからこそ情報というのは爆弾にもなりうるということ。
もう一つは固定化された価値観しか持っていないところに、突然異なる価値観を持ち込まれた時には、こういった過剰ともいえる反応がありうることだ。

後者に関しては、あるいは「真実」か「虚構」しかないという価値観こそが、こういった回答を生んだのかもしれない。60%がダ・ヴィンチ・コードを信じたとして、残りの40%が聖書を信じているのであれば、正直な話どっちもどっちという気がしなくもない。

一方で、この話は自分にとって客観的に捉えられる話だからこのように受け止めることができるという考え方もできる。自分自身にも気付かぬうちに同じように「信じている」ことがあるかもしれない。それは別の価値観を持った第三者からは滑稽な「真実」かもしれないのだ。

余談だが、この作品中で重要なのは、ダ・ヴィンチの暗号ではなく、むしろソニエールの暗号だと思う。結局この作品はスリラーであり、知的欲求を満たすような内容ではないと思うのだが、どうなのだろう。

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2006年6月 1日 (木)

つながる信頼感

村上龍と伊藤穰一による対談集「「個」を見つめるダイアローグ」(村上龍・伊藤穰一/ダイヤモンド社)を読んでいるのだが、最近ウェブ進化論を読んだせいか、似たような視点でインターネットを捉えながら、価値観が若干違っていて、それが面白い。

ものづくりの世界とネットの世界の対比については、こちらの表現の方が直接的というか、判りやすい気がする。

「ものづくりの世界で儲かるケースというのは、いいものを作るかもしくは安く作るか、この二つしかなかった。それはとてもシンプルな世界だから、トヨタにせよソニーにせよ、あまりヘンな人たちは出てこなかった。」
「つまり、ソフトは一度出来上がってしまえば、コピーそのものには、ほとんどコストがかからない。だから、大量生産で低価格化をはかることによって市場価値を生み出すという従来の製造業のような考え方は、本来的になじまないはずなんだよ。」

このように違いを提示した上で、ネットにおける価値のあり方を「信頼関係」と「つながる感覚」においている。
乱暴な受け止め方かもしれないが、ウェブ進化論がある種の「儲ける」話だったとすれば、この対談は「つながる」話なのだ。

インターネットの価値観は、信頼が蜘蛛の巣のように(WWWだな)つながっていくこと、それによりハッピーに感じることにあるのであり、儲けるあるいは価値を生み出すといった価値観は、それ自体がそれ以前のパラダイムだと言っているようにも見える。

ただ、面白いのは、その「つながる」価値観は、むしろ農耕以前の狩猟時代の価値観だとも言っていることだ。そういった意味では進化とも言えないのかもしれない。退化というわけではないだろうが・・・。

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