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2006年7月31日 (月)

ブログは「情報発信」のツールなのか

先日のエントリから続くのだが、ブログを「簡単にウェブページを更新できる」ツールではなく「個人のスペースを提供する」ツールであると捉えるのであれば、そもそも「情報発信」とは別の次元で捉えることはできないだろうか。

いやいや、そもそもブログは情報発信のためのツールだろうか。もちろんその機能は持っている。が、情報発信という機能において「個人のスペース」であることはあまり意味がない。大体、それでは非効率だ。「敷居の低さ」なんてメリットは吹き飛んでしまうぐらい、「組織内の」情報発信ツールとしては非効率である。
(だからブログポータルという話が出るのだ。しかし、ポータルに表示されるというのは、そもそも個人のスペースであることには意味がないと言っているのと同じではないか。)

ブログを、特にイントラブログを、「個人のスペース」として捉えるのであれば、これは「情報発信のツール」とは捉えない方がいい。そしてそれは同時に「情報発信の敷居の低さ」にも、何ら関係ないということだ。

むしろ、個人のスペースであることを強調するのであれば、ブログは「個人の記録(ログ)」であると割り切った方が良いのではないか。ようするに日記である。公開はされ、読まれることは前提となっているが、他人へのメッセージではない記録。情報発信というのは、他者へのメッセージということだが、個人のスペースがその機能を持つことは、逆に「無責任なメッセージ発信」につながりやすい。

そうでなく、情報発信を目的にするのであれば、それは個人ではなく組織のブログであるべきだ。結果として書き手が1人しかいなくても、「個人」なのか「組織」なのかははっきり峻別した方がいい。

で、組織のブログのあり方はこれは当たり前なので置いておくとして、それでは個人のブログとはどういった価値を持つだろうか。

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2006年7月28日 (金)

ブログが「自分の場所」であること

先のエントリに引き続き、先日参加したiUG研究会の中で考えたことなどに触れてみる。
ブログが「自分の場所」であることは、どのような「敷居の低さ」を書き手に与えるのだろうか。

自分自身の経験からいえば、それは「対象読者の狭さ」という感覚に集約される。情報発信する上でなんだか矛盾するようだが、読者が少ないという「感覚」が書く際の心理的抵抗を下げるということはあるのではないかと思う。

だが、その「感覚」は意外と個人的な思い込みである場合が多い。掲示板への投稿であれ、ブログへの投稿であれ、他者の目に触れる可能性はそう変わらない。こっそりやっているつもりでも、意外とブログは見られているものだし、全社向けの掲示板であっても、意外と見られていないということはあるものだ。

そもそも「敷居が低くなりなんでも書きやすい」心理状態とはどんなものだろうか。
情報発信に伴うある種の「責任意識」が低減されるということではないか。

・自分の場所だから、他人にとやかくいわれるようなことではない
・自分の場所だから、書いた内容は自分の責任を超えて問われることはない

掲示板に書けば「公の場だから」他人がとやかく言う(コメントする)こともあるだろうし、時に自分が考えた以上の責任を(部署の代表として)問われることもある。ブログという自分の場所であれば、そういったプレッシャーからある程度解放されるというわけだ。

しかし、そういった感覚の裏返しとして「自分の場所であるが故の敷居の低さ」があるのだとしたら、それは本当によいことなのか、という疑問を感じなくもないのだが、どうなのだろう。

では、「自分の場所」「個人のスペース」であることをポジティブに捉えるとしたら、どんな考え方があるだろうか。

(まだもう少し続きます。)

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2006年7月26日 (水)

ブログのインターフェースと敷居の低さ

先日参加したiUG研究会の中で考えたことなどにちょっとずつ触れてみる。
(事例紹介については公式ブログ用のレポートを書かなければいけないので、それ以外の内容で・・・。)

ブログに期待されるもの、あるいは効果のあるものとして必ずといって良いほど挙げられるのが「敷居の低さ」だ。インタフェースの良さと同時に「自分の場所」であることで、情報発信が容易になるというものだ。

うん、多分そうなのだろうし、頭ではわかっているのだが、実は個人的には違和感がある。

古くから(パイロット導入がR3からだから結構古いだろう)のNotesユーザーとしては、実はブログのインターフェースは決して使いやすいように感じていない。もちろんこれは個人的なもので、多くの人は違うのだろうが、同時にブログのインターフェースが本当に「敷居を下げる」ほどの効果を持つのだろうか、という疑問を感じる。

HTMLで書くような難しさがないのは分かる。しかし、個人でホームページを立ち上げるといった場合ならともかくとして、イントラで考えた場合、最初から個々人にHTMLで書くことなど要求しないのだから、これは比較の対象になり得ない。

イントラにおける比較対象は、従来のグループウェアやメールソフト、Office系のソフトのインターフェースだ。はたしてこれらに比べて、ブログのインターフェースは「敷居を下げる」ほどの優位性を持っているだろうか。

インターフェースというのはある種の直感に基づくものだから、比較というのは難しい。自分の場合Notesの使いすぎ(個人でも使う)で、Office系でさえ「使いにくい」と感じている。そういったことを考えると、ブログのインタフェースが情報発信の敷居を下げる要因になっているとはちょっと考えにくいのだが、どうなのだろう。

「自分の場所」であることについては、別に考えてみることにする。
(しばらく続きます・・・笑)

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2006年7月25日 (火)

若年層の所得・賃金格差

少し前の記事になるのだが、7月19日の毎日新聞に2006年の経済白書について取り上げた小さな記事があり、ニートの増加について触れていた。
白書は、ニートの増加が若年層の所得・賃金格差の拡大につながっていると指摘しているという。

一次情報にあたったわけではないので、あくまでそのフレーズを読んで感じただけのことなのだが、職に就いていないニートと、職に就いている就労者を比べたら所得の格差はあって当たり前ではないのか。数字上は所得・賃金格差だが、それは結局母集団として若年層にあまりにもばらつきがあるということのような気がする。

実はその時気になってしまったのは、ニートを支えている親世代と働いている若年層とではどれだけの所得・賃金格差があるのだろうか、ということだ。あるいはニートを抱えている親世代と、抱えていない親世代でも良い。

1人の人間の生活を支えるというのは大変なことだ。もちろん苦しい生活にあえいでいる親がいることは否定しないし、そういった家庭が多いかもしれないことも否定しない。が、一方で平然と支えている親もいるだろう。

乱暴な話だが、そういった親がニートである子どもを支えるために負担している支出を、子どもの賃金として計上したら、違った格差が見えてくるような気がしなくもない。見かけ上親の収入が減り、働いてはいないけれどもみかけ上は就労している若年人口が増えるわけだ。

逆にいえば、ニートの子どもを平然と支えられる親こそ、格差社会の上層にいるともいえる。そういった見えない格差の積み重ねを考えれば、一部の若年層の突出した所得なんて実は問題にならないのかもしれない。

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2006年7月24日 (月)

怒濤の週末

金曜日にKEN研という異業種交流会。
土曜日にiUGというやはり異業種交流会。
日曜日はオーケストラで「親子のためのコンサート」本番。

・・・疲れた。なんというか、飲み疲れ(笑)
一方で、色々と考えることの多い、充実した週末だったことも確かだ。

ゆっくり振り返る時間が取れていなかったので、これから受け取ったInputを整理していかなければならない。
とりあえずKEN研のレポートは会社にも出さないといけないし、iUGは事例紹介のレポートを書かなければならない。

ま、とりあえずブログでのOutputはおあずけ・・・。

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2006年7月21日 (金)

日々の予定と日々の記録

基本的にスケジュール管理はCLIeを使っているのだが、併用してほぼ日手帳も使って半年以上が経つ。

ほぼ日手帳の方には予定ではなく、日々思いついたことなどを書くメモとして使っているのだが、月間のページもあるので先々月・先月とその日にやったことを簡単にメモするということをやっていた。
(いつの間にか続かなくなってしまった・・・。)

それを読み返してふっと思ったことがある。
「もうこんなに(月日が)経ったのか・・・。」

不思議なのだが、PDAで昔のスケジュールを眺めても、そんな気持ちにはならない。少し極端な言い方をすれば、「時間の経過を意識すること」があまりない気がする。それが、紙の手帳では発生する?

「何故だ?」とその日のメモに書いてある(笑)

PDAだから長期の予定を俯瞰できないとか、そう言ったことではない。
実はその時にはPDAと紙の手帳の違いがそこにあるのかもしれないと思ったのだが、冷静に考えると「予定」か「記録」かの違いではないか、という気がしてきた。

予定は発生するタイミングがバラバラだから、予定を入力したという行為が時間の経過と一致しない。そのため「予定を記入した」と行為は時間の記憶と一致しない。
一方、記録は基本的に時系列で積み重ねられていくものだ。だから、日々の入力がそのまま日々の記憶と連動している。

それが「時間の経過」を意識するきっかけになるのかもしれない。

さて、「こんなに経ってしまったのか・・・」というのは、その間何をしていたんだ?という自問を含めた反省でもある。そういった感覚を得るために、行動の記録は一見なんでもないように見えて重要ということだ。

しばらく怠っていたのだが、復活させよう。

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2006年7月20日 (木)

ユーザー同士のやりとりへの「保証」

パロマ工業製の瞬間湯沸かし器の事故が大きな騒ぎになっている。
その中で「不正改造」について気になるコメントがあった。「パロマの講習会で習った」というものだ。

改造の内容は、知らずにできるものではないという。

この件で考えてしまったのは、講習会のようなオフィシャルな場で提供した技術や知識は別物として、それがユーザー同士の互助だった場合、メーカーはどうなるだろうということだ。特にその情報のやりとりが、メーカーの提供するユーザーコミュニティで行われていたとしたら?

囲い込みを意図したSNSというケースもあるだろう。もちろんすべて内容をチェックしておくのが理想だが、担当者の手にはあまる場合もあるし、場の雰囲気を維持するためには管理者はなるべく介入しない方がよいという原則もある。

さらに言えば、そこで書かれている内容について、担当者がすべて理解できるか、という問題もある。今回の「不正改造」は、トラブルを回避するための応急処置だったが、コミュニティ上で「応急処置」として紹介され、一方で社内ではその不正改造の問題が担当者まで伝わっていなかった場合(何しろ社長にさえ伝わっていない)、単なるユーザーの工夫として見過ごしてしまう可能性もある。
(コミュニティ管理者としては、そういった動きを称賛してしまう場合もあるだろう。)

また仮にコミュニティ上では「危険」「応急処置」とされていても、コミュニティから「危険」という注意書きがないまま流出する可能性もある。情報の一人歩きは、ナレッジマネジメント「システム」にとっては大きな課題の一つだ。情報共有を進めながら、その変容を完全に防ぐという手法は確立されていないし、そもそも人を介在する情報伝達にそれを求めるのは不可能だ。

そんなことを考えてしまった。利用規約などで回避するしかないのだろうが、実際に問題が発生すればそんなものは脇に追いやられてしまう(少なくともメディアでは)ことを考えると、どのように対応するかは難しい問題だろう。

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2006年7月19日 (水)

サクラの研修参加者

昨日ちょっと聞こえてきた会話のやりとり・・・。

「この間の(外部の)研修どうだった?」(研修担当者のようだ)
「よかったですよ。年上の方が多くて勉強になりました。」(参加者のようだ)
「そうか~。前に参加した奴は周りが若くていまいちだったって言ってたんだよ。」
「そういうのはありますね~。」

いや、確かにそういった面はあるのだが、それは逆にいえば今回ウチからの参加者は周囲にとって物足りなかった、ということにならないか?

レベルの高い集団にもまれるというのは、もまれる本人にとっては良いことなのだが、もむ周囲にとってはどうなのだろう。レベルが低い人間がいれば、全体はどうしてもそのレベルにあわせざるを得ない。

なんてことをふと思ったのだが、そういえばシニアによるビジネスで文字通り若手を「鍛え上げる」研修ビジネスなんてどうなんだろうか。一見同じような形で研修に参加していながら、実は本当に研修を受けているのは若い1人だけで、残りの年配はすべてサクラの研修者として、講師と一緒になって鍛え上げる、なんて(笑)

一見「一緒に研修を受ける立場」なのだが、本物の受講者よりレベルが高いサクラを配置することで、研修効果をより高めるなんて仕掛けがあっても面白いかもしれない。

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2006年7月18日 (火)

休日の過ごし方

休日はすっかりネットからご無沙汰なのだが、この三連休の過ごし方は次の通り。

土曜日:
昼ぐらいから起き出し、スーツをクリーニングに出した後、弓の修理を依頼するために調布へ向かう。
(弓は二つ所持しているのだが、その一方がしばらく前から修理が必要な状態だった。)
渋滞(車で行った)の上、途中ものすごい土砂降りに遭遇する。なんだかやたらと疲れる。

日曜日:
朝から練習する。来週は親子のためのコンサートがあるので一日練習。
プログラムの中に楽器紹介があり、とりあえず適当にリベルタンゴ(の一部)などを弾いてみたのだが、考えてみたら子どもには通じないかも。しかし、アンパンマンとか弾いてもなぁ・・・。
楽器を弾くと大体そうなるのだが、シャツに塩が噴き出すぐらいの汗をかく。やはりやたらと疲れる。

月曜日:
朝からぐったり(笑)
今週末に「ハウルの動く城」がTVで放映されるというので、その前に買ってあったDVDを見る。いまいち話の流れが見えないというか、ノーカット(当たり前)なのに、どこかカットされているのではないか、という気分になる。
英語吹き替え、フランス語吹き替えもあるので、ちょっと見てみたがさっぱりわからない(笑)
その後、FFⅩⅡなどをやったりし、夕方クリーニングを受け取って1日を終わる。

で、今朝はあまり疲れが抜けていない。もともと、休日の疲れを平日にゆっくり回復させるパターンが多いのだが、今週はどこまで回復できるだろうか。なんだか以前より疲れが激しい気がする(←それは年だという天の声)。

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2006年7月14日 (金)

リアルブロガー?

毎朝のエントリは、朝食を兼ねて立ち寄る渋谷マークシティのエクセルシオールカフェで書いているのだが、先日のエントリを書いているときに、リアルブロガーを見た。
いや、リアル「な」ブロガーとでもいうべきだろうか。

その男は、新聞を読みながら、自分の考えたことをただただつぶやいていた。
自分の考えを周囲に垂れ流すように。

とにかく切れ目なく続くので、内容を把握することができないのだが、それを傍目に捉えながら(さすがに凝視はできない・・・笑)、ブログというのをリアルな世界に置き換えたらこうなるのではないか、とふと考えてしまったのだ。

もちろんこれは内容の問題ではない。「自分の考えを相手を特定せずに発信する」という行為の問題だ。
そして、ブログというものをあまり好意的に見ない人の視点というのは、つまるところ彼を見つめる今の自分の視点と同じなのではないか・・・そんなことを感じた。

相手を特定しない情報発信が「コミュニケーション」につながるための条件は何だろうか。
ブログやSNSの日記を書いていて思うのは、その境界線がどこにあるかということだ。SNSはまだ「友達」という概念があるが、ブログにはそういった概念はない。

仮にブログをコミュニケーションの手段とするのであれば(個人的な意識としてはそうでない部分も多々あるのだが)、何を持って「コミュニケーション」とするのか、その意味をきちんと定義する必要があるのかもしれない。

「イントラブログ」と「感情の共有」を結びつけようとするのであれば、その点の論理構築が最終的には必要になってくる気がする。

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2006年7月11日 (火)

仕事の知的満足

現在使用している「ほぼ日手帳2006」には、各ページに様々な言葉が紹介されているのだが、7月8日の言葉は考えさせられた。

大企業病としてよくあるんですが、仕事が働いている人の知的満足になってしまうんです。

知的満足は、お客さんの満足ではありません。

頭のいい人は、みんなとにかく知りたがりますけど、原点はやはり「お客さんに何ができるか」ですから。

<TUTAYA社長・増田宗昭さんが『社長に学べ』の中で>

確かにそういった傾向があることは否定できない。が、大企業に所属する(と思う)身から考えると、実はこれには構造的な原因があり、厳しい言い方をすれば、経営者がこのようなことを言っていてはダメなのだ。

大企業で働く人が仕事を知的満足にしてしまうのはなぜか。
それは、それでしか仕事のモチベーションを得られないからだ。
もっとつっこむのであれば、「お客さんの満足」を感じることができないからだ。

想像力とか、個人の問題にするのは簡単だが、大組織に身を置いて仕事をするというのはそう言うことではない。
目の前の仕事に対して、お客さんからどのようなフィードバックが得られるか。フィードバックが得られれば、それがモチベーションとなり、自然とお客さんの満足を追求するようになるが、フィードバックがなければ、個人は何か別のものにモチベーションを求めざるを得ない。

社長がお客さんを肌で感じられるのは、本人の想像力ではなく、社長という立場によるものだ。それを忘れてはいけない。現場の人間、特にお客様対応の現場から遠い人間は、想像以上にそういったことを知ることができない。

つまり、社長がやらなければいけないのは、そういったお客さんからのフィードバックを、きちんと組織の隅々まで伝える(情報として伝えるのではない)仕組みを整備することだ。そういった構造的な問題に踏み込んで、初めてこのようなことが言えると考えた方が良い。

ナレッジマネジメントの一環で社内報を立ち上げた頃、もっとも支持を集めたコンテンツが、消費者対応窓口に寄せられる生の声の紹介だった。現実には、それだけ「お客さんの満足」に触れる機会が少ないということなのだ。

お客さんの満足を、想像ではなく生で知るというのは、お客さんとコミュニケーションするのと同じような満足を得ることになる。そして知的満足は、どんなに逆立ちしてもコミュニケーションによる満足にかなわない。

会社全体で顧客満足を追求するのであれば、それは顧客と担当者ではなく、顧客と「会社全体」でコミュニケーションができるような仕掛けを考えるのが、経営者の役割なのではないだろうか。

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2006年7月10日 (月)

社内コミュニティはどこまで開いた世界になれるか

最近昔の日記を読み直しているのだが、日本と欧米の比較でこのようなことが書いてあった。

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それによると、アメリカ企業では(少なくとも以前のアメリカ企業では)会社内での部門間あるいは他者との交流が極端に制限されていて(これは転職社会における情報の流出を恐れたため)社内でコミュニティを作ろうにも個人としてリスクが大きい。であれば社外の方が簡単だし楽しい。と言うのだ。
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一方、日本ではこういった「制限」は少ない。社内コミュニティを「作ろう」という動きがあるぐらいだから、むしろ活発といっても良いだろう。
しかし、それはある種の「閉じた世界」にまとまってしまうリスクもある。

本来であれば、「社外のコミュニティ」も必要なのだが、社内にコミュニティがあるために特に必要性を感じなくなってしまう、というものだ。
そもそも、人が参加できるコミュニティの数には限界がある。社内だけでその数を超えてしまったら、社外とはまったく接点のないままなんてことにもなりかねない。

どこまでを社内に持ち、どこからを社外とするかは難しいところだ。企業規模が大きくなれば、大抵のコミュニティは社内だけでまかなえてしまう。しかし、それでは集団の同質化を避けられない。

まぁ個人の問題といってしまえばそれまでなのだが・・・中途採用などはそういった同質化を防ぐためのある種の安全弁だと思うのだが、社内コミュニティにも同じような仕掛けってできないだろうか。

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2006年7月 7日 (金)

マルチポストはいけないことか?

たまたまmixiのコミュで見かけた意味不明のアンケート(簡単に言うと、「質問の内容は私の日記を見てね」という感じの設問)があり、たどってみたらなんとその人は21もの同系コミュニティ(ちなみにクラシック)に同じ質問を投げるというマルチポストをやっていたとのことだった。

日記に対してマルチポストを批判するコメントが寄せられているのを読みながら、さて、マルチポストってマルチポストというだけで「いけないこと」と言えるのだろうか、という疑問が頭をもたげてきた。
(ただし断っておくと、個人的にはその方のコメント内容そのものは気にいらない。つまり、読者の実質的な不快感はマルチポストそのものよりもその主張にある、ということも想像できる。)

調べてみると、マルチポストには次のような問題点があるようだ。

  • あちこちで同じ書き込みを見せられるとうんざりさせられる
  • ある場所で解決していた場合に、回答が無駄になってしまう
  • この場だけでは解決しないのではないか、という不信感を感じられる

ようは読み手の気持ちになった時にあまり気持ちよくないよね、ということなのだが・・・。
ナレッジマネジメント的な見方をすると、こんな反論も考えられる。

  • ある場所でしかその書き込みを見ないユーザーもいる
  • 全く別の解決方法が提示される可能性がある
  • 場の性格毎に、様々な回答を得たいという気持ちがあるかもしれない

これだけ「場」が多様化してくると、ユーザーは重なっていない可能性も高い。そして、複数の場に参加しているヘビーユーザーよりも、そこにしか参加していないライトユーザーにこそ「その一連のやりとり」を見て欲しいというケースが、特に知識共有のような命題の場合はあるのだ。

マルチポストに「気付く」ようなヘビーユーザーは、そういったライトユーザーの事情も考慮して、多少大目に見ても良いのではないか。
場毎に雰囲気や参加ユーザーは微妙に異なるのだから、それぞれの回答や回答者の違いを楽しむぐらいの余裕を持っても良いのではないだろうか。

ナローバンドで、料金を気にしながらアクセスしていた時代であれば、マルチポストは確かに「いやなもの」だったかもしれない。しかし、そういった面の環境は劇的に変化している。個人的には、それほど目くじらを立てる必要はなくなっているのではないか、という気がしなくもない。

・・・・もちろん、書き込みの内容自体が不愉快な場合はまた別だろう。結局問題は「書き込み内容」の問題であって、マルチポストではないような気がするのだ。

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2006年7月 5日 (水)

知識のリサイクル

iUGの公式SNS(興味のある方はこちら)に参加している他の方の日記で、知識のライフサイクルの話題になったので、ちょっと考えてみる。

大抵の「モノ」には、賞味期限や耐用年数といった「時間的限界」があり、「モノづくり」には常にその時間がつきまとう。おおざっぱに言えば、

企画-開発-生産-流通-販売-消費(利用)-廃棄

という流れだろうか。消費財であれば消費で終わるが、廃棄が必要なモノもある。

一方、知識や情報といった無形のモノの場合はどうだろうか。意外と「廃棄」という段階が意識されていないような気がする。

・・・と、ここまで書いて気がついたのだが、最近は「モノ」でもリユースやリサイクルといった形で、廃棄をしないあるいは先延ばしする例が多い。知識や情報は、むしろその先駆けではないか。

3Rでいうリデュースはともかくとして、リユースとリサイクルを知識にあてはめてみると、リユース(そのまま再利用)はナレッジマネジメントの世界では散々言われているのだが、リサイクル(一旦原料に戻し再利用)はどうだろうか。

一旦形となって「登録」された知識を分解し、別の知識に再構成して活用する。
現状では、このプロセスは人の中に内包されている。一旦暗黙知として取り込まれた知識が、その人の中で再構成され活用される、という形だ。リユースと違うのは、別の形で活用されている、という点だ。

個人的には、ナレッジマネジメントは「それでよい」という気もしているのだが、ここに何らかのテクノロジーを介在させることは可能だろうか。テキストマイニングなどはそういった要素に近いと思うのだが・・・。

そして「廃棄」というライフサイクルの終点を考えた場合、再構成される前の知識はどうするべきか、という問題が残る。「モノ」の場合は、そのモノは分解され消えてしまうが、知識の場合も同様に消えた方が良いのだろうか。そのあたりの判断が難しい。

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2006年7月 4日 (火)

SNSの信頼性

SNSは従来のオンラインコミュニティに比べて信頼性が高いと言われている。
しかし、ネットにおける「信頼性」ってなんだろうか。もうすこしつっこむと、あるページの情報が「正しい」ことはどのように証明され、それを見る人はどういった根拠で信頼しているのだろうか。

冷めた見方ではあるのだが、ネットに限らず、間接情報に「信頼性」を求めること自体、間違っているのではないか、という気がしなくもない。もちろん信頼しても構わないのだが、それは当人の勝手であって、発信者に「求める」ものではない。

その情報が信頼できるかどうか、決めるのは情報の発信側ではなく、受信側にある。大手マスメディアが発信しているとか、著名人が発信しているとか、そういった発信者の情報が信頼性を担保すると考えるのは甘いのではないか・・・そんな気がしてならないのだ。

実は社内でQ&Aコミュニティを立ち上げる際に、そういった話題になったことがあるのだ。回答の「正しさ」はだれが保証するのか、と。
回答の正しさなど、だれも保証しない。1+1=2であることは、自分の考えでその正しさを判断するべきものであって、他人に正しさを保証してもらうものではない・・・そんな意見を出した気がする。
(乱暴な意見であることは承知していたので、却下されても特に気にならなかったが・・・笑)

ある情報を受けて、判断し行動するのは本人である。それは本人の判断と責任によるものだ。

そうやって考えたときに、「SNSは信頼性が高い」というのは、そのまま鵜呑みにしても良い概念だろうか、という疑問が頭をもたげてくる。もちろん、その判断のための材料は、従来のオンラインコミュニティよりも格段に多い。発信者のコンテキストを追跡することができるからだ。

しかし、それができることと「信頼性が高い」ということには、大きな隔たりがあり、安易に「信頼性が高い」なんて売り文句は使わない方が良いのではないか、という気がしてくる。

信頼性の高さを「客観的に」保証するというのは、受け手の責任をあいまいにし、結果として受け手の無責任を招くのではないか、と危惧してしまうのだ。

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2006年7月 3日 (月)

モノローグをモノローグにしない方法

先週のエントリで、「自分の庭」であるブログは、ダイアローグではなくモノローグになりやすいということを書いたのだが、モノローグにはモノローグの意味があるとして、これをダイアローグにする方法はあるのだろうか。

それは結局コメントかトラックバックしかない。そしてコメントもトラックバックも、実行するのは読み手だ。つまり、あるブログをモノローグにしないための鍵は、実は書き手よりも読み手が担っているともいえる。
インターネット上のブログは読者が不特定多数だからある程度やむを得ないとして、イントラブログの場合、この「読者のアクション」をいかに作り上げていくかがポイントになるだろう。

考えてみれば、これは通常の会話と同じだ。

一方が一方的に話している状態では、対話とは言えない。対話を成立させるためには、聞き手側にも何らかのリアクションが必要となる。その両者の行動が組み合わされて対話が成り立つのだ。相づち程度では寂しいかもしれないが、それでも両者の間に何らかの意思疎通が行われていることの表れにはなる。

オンラインとオフラインの最大の違いは、受け手の反応が見えないことだ。受け手の反応が見えない限り、それはモノローグでしかない。受け手の反応が見えるようになってくると、それはモノローグから脱却していくことになる。

しかし、そうなるとモノローグにしないには、書き手の努力だけでは難しいということになる。リテラシーと言ってしまえばそれまでだが、意外と読み手のリテラシーの向上こそが、ブログを単なるモノローグにさせない方法なのかもしれない。

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