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2006年8月31日 (木)

匿名と実名の境界線

日本版オーマイニュースがスタートした。
炎上などの話も聞くのだが、実は以前から気になっていることがある。匿名か実名かという考え方だ。

匿名とは何だろうか。いや、そもそもそれ以前に実名とはなんだろうか。
正直な話、市民記者が「実名」で書いているという、その「実名」の意味は何だろう。

自分は記者の顔は知らない。名前ももちろん聞いたことがない。その彼の実名は、記号としての名前でしかない。そこに匿名との違いはあるのだろうか。

名前だけ出しても実名としてはほとんど意味がない。その人のプロフィール、具体的には何を生業とし、どこで生活し、どういうことに興味があるといった情報が付随し、さらにそのプロフィールについての認識が一致していて、初めてその名前はリアルな輪郭を持つことができる。
逆にそういった輪郭さえ持っていれば、名前は単なる記号にすぎず、実名か匿名かという表面上の違いはなんら意味を持たないことになるのではないか。

そう思ってオーマイニュースのサイトを見てみたのだが、結局市民記者の情報は名前だけで、一部インタビューが紹介されているだけだ。それは本当の意味で実名と言えるのだろうか。ブログ道の久米さんが、以前「名前と立場を明らかにしてブログを書く」ことを薦めていたのを思い出す。市民記者の「実名」は、その足下にも及ばない。

いやいや、別にオーマイニュースを批判するのが目的ではないのだ。気になるのは「ネットにおける実名」とは、はたして単に本名をさらけ出すことなのだろうか、と言うことなのである。

以前(といっても5年以上前だが)、社内で匿名論議を盛んにしたことがあり、その頃の自分は実はこんなことを考えていた。「リアルで知らない人は、どんなに本名を晒していても、自分にとっては匿名でしょ。」

プロフィールも分からず、会ったことのない人の「名前」・・・それが実名かどうかなんていうのはどうでもいい気がするのだ。ようは一連のコメントの文脈が統一されていて、同一人物であることが確認できることこそが重要なのであって、記号としてのネット上の名前が本名かどうかはあまり意味がないのではないか。

むろん「同一人物である」という担保は必要であり、そのための仕組みがあるオーマイニュースと、そのための仕組みがない2ちゃんねるでは、同じ記号でも意味合いはまったく違うのだが、それと「実名」ということとはまったく違うのではないかという気がする。

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2006年8月30日 (水)

ごみの減量のための社会的圧力

オーマイニュースのことを書こうと思ったのだが、モバイル環境で全然つながらないので裏を取ることができない。会社でこっそり調べることにして、今日は別の話を。

市から配られたゴミに関する広報誌を何気なく読んでいたら、ペットボトルのリサイクルについて拡大生産者責任に関わる記事があった。
販売店の店頭回収と市によるゴミ収集を比較している。

販売店に返すと・・・
あなたが ラベルをはずして キャップを分けて 洗って、分別して お店に返すことで企業に 「リサイクル費用」をまかせることができるのです。すると・・・

メリット1:企業による商品への工夫や廃棄の抑制が進み、ごみの減量が期待できる。
メリット2:市町村が税金をかけて処理する必要がなくなり、多額の費用が有効利用できる。

市町村の回収に出すと・・・
一見、リサイクルされ、ごみが減量されたと満足しがち・・・しかし!多額の費用と手間がかかってしまうのです!!

一見するとなるほどと思う人もいるのだろうが、本当にそうなのだろうか。
実は拡大生産者責任によるごみ減量の理屈にはもう1ステップあるのだが、それがこの話では抜け落ちている。

それは、企業による回収の場合「企業による商品へのリサイクル費用の上乗せにより商品価格が上がり、結果として無駄なものを買う消費が押さえられ、ごみが減量される」というものだ。

実は、拡大生産者責任によるごみ減量を訴える人は、もともとここまでをセットで「少なくとも企業に対しては」訴えており、商品の価格を上げろと言っているのである。
なぜかというと、企業が自助努力として価格を上げずにコストを吸収してしまった場合、社会に対してごみを減らす圧力にはならないからだ。

このパンフレットは、その部分がすっぽりと抜け落ちている。ようするに、「あなたに損はありませんよ」と綺麗事を言って、読む人をその方向に誘導しているだけにすぎない。

実際の所、これを読んでそうかと思う人は頭が悪いのではないかと失礼なことを考えてしまうのだが、現在市町村が回収に3000億円、リサイクルに400億円かけている費用については、自治体が負担しようが企業が負担しようがそれほどかわるものではないはずなのだ。それは誰かが負担しなければならない。

仮に企業の方が効率よく処理できるのであれば、それは単に自治体が企業並みの努力をしておらず、余計なコストをかけているということで、その怠惰こそ責められるべきだろう。

そもそも、ごみを減らそうと考えた場合、最終的には消費に対するブレーキをある程度かけざるを得ない。それがごみ処理費用のための税金か、商品価格の上乗せかという違いはあるにせよ、本当に必要なのはその点をきちんと消費者に知らせていくことではないかと思う。

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2006年8月29日 (火)

ゆとり教育と大学の求める学生

ローカルな話だが、昨日の朝日新聞の東京版「内山一美助教授のキャンパスブログ」で、昨今の教育事情についての話があった。

アジア地域では、特に物理や化学の分野では日本が多くのノーベル賞受賞者を出しているそうだ。彼らは「詰め込み教育」を受けた世代だが独創的な研究をし、一方で「ゆとり教育」を受けている現在の大学生には、たった一つの「正解」を求める態度が見られるという。

それを不思議な現象と言っているのは、ようは皮肉だと思うのだが、もちろんこれは不思議でも何でもなく、ゆとりというのが「時間」のゆとりをさすのであれば、時間を節約するために一つの解を求めるようになるものなのだ。一方「精神」のゆとりという視点で考えると、無駄かもしれない知識まで「詰め込む」のはある種の気持ちのゆとりがあってこそできるものだろう・・・本来なら。

ただ、これは別に現在の大学生の責任ではない。結局ゆとり教育を推進したのは彼らの親の世代であり、彼らはその結果こうなったにすぎないからだ。

一方、内山助教授はこんなことを書いている。

「高校生までは、いかに早く「一つの正解」に到達できるかの競争が行われています。」

本当にそうだろうか。いや、実態はもちろんそうだと思うのだが、内山助教授のこの書き方には「高校まではそれでも良いが、大学は違う」というニュアンスがある。個人的には、そこには疑問がある。

むしろ、高校までこそそういったやり方はするべきではないのではないだろうか。もっと若い時分での、いわばインプリンティングが効率優先になっているから、大学生になってもその刷り込まれたプログラムを変えられないということはないだろうか。

それに、もし高校での勉強が大学へ入るためのものだとしたら、素早く一つの正解に到達できる能力を求めているのは実は大学自身ということになる。これも矛盾している。

もし、大学がそういった学生を求めていないのであれば、最初からそういった学生は入学させなければ良いのだ。いやもう少し違ったやり方もある。誰でも入学させて、ふるいにかけていけばよいのだ。

そう考えると、結局原因は大学自身にあるとも言えるかもしれない。大学は、本当はどういった学生を求めているのだろうか。

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2006年8月28日 (月)

生活の固定化

先週は、やたらとばたばたしていたというか、夜の予定の多い週だった。

火曜日はプロジェクトの打ち上げ。
水曜日は環境NPOとの協働を考えるという会。
木曜日は業界のCSR研究会。
金曜日は異業種間のCSR担当者の会。

・・・そして土日は市民オーケストラの合宿(笑)

さすがにこれだけ続いてしまうと、生活がガタガタになってしまい、洗濯がしきれていないとか、部屋が片付いていないとか、そういったプライベートに支障が出てしまうのだが、一方で、やはり週に1~2度はこういった人と会う機会を作った方が良いとも感じた。
(しかしそれ以上だと本当に支障が出る。)

最近、生活が固定化というか、「日々変わらない」感じになってしまっている。

朝は、同じ時間に同じエクセルシオールカフェで同じメニューを同じ席食べながら、毎日同じようにブログを書いている。
昼は、大抵会社の食堂で食事をすませ、残りの時間は新聞を読みながら週末に書く「気になる出来事」(という社内向けのコラムコーナー)のネタを考えている。
夜は、特に寄り道をすることもなく、同じ道を通って駅まで歩き、帰り道のコンビニかスーパーで夕食を買って帰る。

こんな生活は、安定して心地よくもあるのだが、やはりなんとなくいけない気がする。特に、朝と昼は致命的なぐらい固定化されてしまっている。夜はまだ「何を食べるか」考えているが、朝昼はほとんどそんなことがないからだ。

うーむ、なんとかしなければ。

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2006年8月25日 (金)

信頼とは何か

信頼とはなんだろうか。CSRなどをやっていると、やたらとこのキーワードに触れる機会が多い。ステークホルダーに信頼されるために、何を実行し、何を伝えるか。CSRを一言で言ってしまえばそういうことだろう。

そして、それはCSRというキーワードだけでなく、あらゆる企業活動あるいは個人の行動にも関わってくる。でもそれが叫ばれるほど、改めて考えてしまうのだ。「信頼」とは何か。

我々は、本当に「信頼」されてしまって良いのだろうか。どこかに疑問を残す緊張感が必要ということはないだろうか。信頼というキーワードを到達点にしてしまうと、どうもそのあたりがよく分からなくなってくる気がする。

例えば、ある発信された情報が「信頼できる」という判断はどこから来るのか。大手マスコミが発信した、国のエライ人が発言したといった発信者の属性によるだろうか。あるいは、決められた手順に従った内容である、第三者が評価しているといった客観性によるのだろうか。

気になるのは、それでは受け手である「あなたの」判断はどうなのですか?ということだ。自分自身の判断によらず、何かに頼って「信頼」するというのは、「信じて頼りにする」ではなく「頼りにして信じる」ではないか。

信じる根拠は自分にしかない。その上で頼るのが信頼ということだ。つまり、信頼というのは自分自身の責任で行われてこそ意味がある。誰かに評価してもらって、それを頼りに信じることが信頼ではないはずだ。

相手に「信頼される」上で本当に重要なのは、実はその点ではないだろうか。相手が何かに「頼って」信じてしまうことのないようにすることが、実は一番重要なのかもしれない。厳しいようだが、「信頼を裏切られた」という相手に「信じたのはあなたの責任」と言い切れるようなドライな関係があって、初めて信頼関係は成り立つのかもしれない。

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2006年8月24日 (木)

イントラブログにおける記事クオリティのアップ

iUG研究会Vol.4のレポートをようやくあげたのだが、その中にある課題としての「記事クオリティのアップ」について考えてみる。研究会でのディスカッションテーマでもあったのだが、事務局ということもあって、なかなか会話に参加できていないからだ。

これはiUG公式SNS(興味のある方はこちら)である人の日記へのコメントとしても書いたのだが、個人的には質のアップにはまず量が必要という考えが自分にはある。継続的な量の蓄積が、質を作るのだ。そういった意味では、質を上げるためには、一方でそれに数倍する「クオリティの低い」記事の量産も容認する必要がある。

100のアイデアの内、使えるアイデアが1つか2つであるとするなら、どんなアイデアであっても100出さなければ1は生まれないのだ。1の使えるアイデアだけのエントリを求めていたら、恐らくいつまでたっても良いアイデアは生まれてこない。

というのが、書く側として考えておかなければいけない(とにかく書き続ける)ことなのだが、もう一つ、周囲からアプローチするという方法がある。それはフィードバックを行うことだ。これは事務局だけに限らない。

クオリティの高い記事というのは、どういった記事か。きわめて主観的に考えれば、それは「読み手である自分の役に立つ記事」に他ならない。記事のクオリティに対して、評価の主導権を握っているのは、実は書き手ではなく読み手の方なのだ。

そして、自分が良いと思った記事に投票したり、コメントしたり、あるいはトラックバックをするというのは、単にその記事を評価するというだけではなく、「同じような記事を書いて欲しい」というさらなる要求をだすということでもある。

以前、社内から送られてくる無味乾燥な業務報告メールを「面白くない」と酷評したボスに対して、「それは受け手であるあなたが『こういった内容を読みたい』というフィードバックをしていないからだ。」と指摘したことがある。
大体において、そういった報告のクオリティが下がるのは、受け手側が当たり前に受け取るだけで反応を示さないため、書き手が「この程度で良い」と思ってしまうからだ。

例えば自分が関心のある部分について、質問を投げる。毎回ある箇所について質問が寄せられていれば、当然書き手はその部分を最初から盛り込んで書くようになる。その積み重ねがクオリティを上げていくのだ。

書き手というのは、意外と書いた内容のクオリティを自覚できないものだ。記事のクオリティを上げていくには、実は書き手ではなく、読み手のリテラシーを上げていくことが重要な気がする。

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2006年8月22日 (火)

ネットにおける匿名性

ネットにおける匿名性の問題を論じるときによく焦点になるのは「発信者」の匿名性だ。
匿名であるが故に、無責任でいい加減な発言、誹謗中傷など悪意のある発言が飛び交う。だからネットは恐ろしい。やっぱり顔の見える関係がいい・・・。

しかし、顔が見える関係を成り立たせるためには、発信者だけでは片手落ちではないだろうか。情報の発信には発信者だけでなく、実は受信者が必要だ。しかし、受信者の匿名性が問題になることは、あまりないような気がする。

ネットにおける匿名性の問題点は、実は発信者ではなく、受信者の匿名性にあるとは考えられないだろうか。

有害情報サイトというのがある。売春と同じようなものだが、あれは詰まるところ受け手(買い手)がいるから成り立つものだ。それを支えているのは、匿名という蓑をまとった受け手の存在と言える。
もちろん、発信者は当然あの手この手で受信者の情報を得ようとする(それが目的だからだ)のだが、それ以前に匿名というバリアがなかった場合、現在アクセスしている人間の何割が変わらずアクセスするだろうか。

そう考えると、発信者が匿名かどうかなどと言うのはたいしたことではないように思えてくる。それを見ている人の顔がお互いに見えていれば、誰が発信しているかなど、どうでも良いということはないだろうか。

発信者の立場からすれば、顔の見えない受信者ほど怖いモノはないのだ。だから、自らも顔を隠そうとするのではないか。受信者が最初から見えていれば、自ずと受信者にあわせた情報を発信する。相手が分かっていて、なお無責任で悪意のあるような発言を重ねていくのは容易ではない。

そんな訳で、発信に対してうんぬんではなく、受信に対してうんぬん議論をしてみるのも面白いのではないかと思った。ネットを批判する人も、多くは匿名の受信者なのだ。それを自らはぎ取るような議論が、彼らにできるだろうか。

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2006年8月21日 (月)

ネットと文明

POLAR BEAR BLOGの「答えがググれる世界」の教育で紹介されていた日経の記事を改めて読んだのだが、なんというか、ツッコミがいのある記事で笑えてしまった。

取り上げられていた箇所についてはコメントさせてもらっただが、それ以外に関連するところから拾っていくと、例えばこんな一節。

「ネットで情報を集めただけで「理解した」と錯覚する子供が「最近、大増殖している」という。」

ネットに限らず、情報を集めただけで「理解した」と錯覚してしまうことは、珍しくない。ネットがない時代、本を読んだだけで、新聞を読んだだけで「理解した」と錯覚してしまった人はどれだけいるだろう。情報の収集と理解はまったく別物だが、それはネットだけの特徴ではないはずだ。

例えばこの記事の書き手にとって、検索術と速読術とはどう違うのだろうか。あるいは、辞書で調べる行為とググる行為との間には、きわめて大きな差があると言いたいのだろうか。そのあたりがよく分からない。

もう一つ、いかにも既存のメディアらしい捉え方が記事の前半にあった。RSSリーダーを利用した情報収集のくだりだ。

「「新聞もテレビも見ないなんて。普通の人とズレてない?私にはマネできない」。意外な情報に思わず触れ視野を広げる。従来の常識とは距離を置く「彼の日常」は異質に映る。」

そうだったのか。新聞やテレビで「意外な情報に触れ視野を広げる」のが従来の常識なのか。せめてもう少しリアルな世界と対比して欲しかったのだが、新聞やテレビがネットより「広い」というのが記者の捉え方なのだろうか。少なくとも新聞やテレビでは完全数は教えてくれないと思うのだが。

RSSリーダーは、確かに書かれているように「興味のある分野に限られがち」だ。しかし、それはむしろ毎週決まった番組を視聴し、新聞を定期購読するスタイルと同じである。誤解を恐れずにいうなら、既存のメディアとの接し方と「同じようにネットと接する」ための技術とも言える。

これを従来の常識と違うと捉えてしまうのは、いかがなものか。

結局の所、今のところ「考える葦」はネットに対してもそれほど目新しい接し方はしていないのだ。辞書を調べるようにネットを検索し、新聞やテレビ番組をチェックするようにRSSリーダーを活用しているにすぎないのではないだろうか。

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2006年8月18日 (金)

社内ブログでCSR その2

先日に引き続き、CSRにおける社内ブログの活用方法を考えてみる。
前回のエントリはそもそも「担当者である自分が書くブログ」という視点でしか見ていなかった。
そうではなく、「書いてもらう」形ではどうだろうか。

これまたなかなか難しい(おいおい・・・)。

CSRは広いようで狭く、狭いようで広いテーマだ。内容は会社の活動全般にわたるから、広いといえば広いが、そもそも誰かに集中するということがなく、一人ひとりに分散しているので、個々の単位でみると非常に狭いのだ。個々の単位でみれば小さな分野に集中しているが、それを企業全体から拾い集めて構築するから、結果として大きなテーマになってしまう。

ただ、テーマありきではなく、ブログありきであれば、活用方法が思いつかないわけではない。

CSRで重要なのは、ステークホルダーの声をいかに拾い上げ、対話をしていくか、ということだ。社内というフィールドで考えれば、従業員がそれにあたる。その対話の手段としてブログは使えるだろう。担当者が自分のブログで投げたテーマにコメントをもらっても良いし、トラックバックをもらっても良い。あるいは、その逆の発展の仕方もある。

CSRでどうしてもおざなりにされがちなのが、そういったコミュニケーションだ。そこを何とかするためにダイアログなどを実施するわけだが、ブログというネットワークが「できていれば」それは巨大なダイアログのフィールドになる。

・・・しかし、それは「CSR」のためのブログネットワークでは意味がないのだ。社内のコミュニケーションインフラとしてのブログネットワークがあった場合に、CSRであればこういった使い方ができそうだというモデルにすぎない。ダイアログのためにわざわざブログネットワークを構築する理由は正直なところ見あたらない。

そもそも、ブログというツールの性格は、何か特定のテーマでの導入というやり方が適しているのだろうか。そんな気もしてきた。「それを言っちゃあおしまい」ではあるのだが、電子メールと同じような位置づけでの導入というのが、実は一番良いのかもしれない。

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2006年8月17日 (木)

高齢者の交通事故

高齢者が道路を横断中に車にはねられる事故の話は良く聞くが、さてその原因は彼らの体力と判断力の衰えによるものだろうか。
いわく、渡りきれると判断して渡り始めたが、車との距離を短く見積もってしまい、さらに自分の歩く速度が遅くなっていることに気付いていないので、間に合わずにはねられてしまうというものだ。

本当にそうなのだろうか、ということを、ふと考えた。

そもそも、「信号もない道路」を「自分の勝手な判断」で「横断する」という行為こそが、本来の原因のはずだ。
そういったことをしなければ、そもそも判断力や体力の低下など関係ないからだ。

彼らの「道路横断率」という尺度から調べたデータというのはあるのだろうか。普通に考えればないだろう。データになるのは「はねられた」件数であって、「はねられなかった」件数はカウントしようがないからだ。

しかし、なぜかそんなことを考えてしまった。もしかしたら、これは「高齢者」の特徴ではなく「彼らの世代」の特徴なのではないだろうか、と。つまり、元々信号などを無視して道路を横断する人の比率が高いのではないかということだ。

調べたわけではないが、彼らの世代はまだまだ交通戦争と呼ばれるものがあった時代で、信号などはそれほど多くなかったはずだ。幼い頃から信号に対するルールをたたき込まれている今の世代とは大きく異なる。信号がなく、「車が来なければ渡って良い」と考えることが普通の世代であり、それが結果として事故に結びついているのではないか。

一方で車を運転しているその下の世代は、「信号がある時代の交通ルール」をすり込まれている。ない時代のドライバーが持っていた「どこでも歩行者が渡ってくる」という感覚は、もちろん教習所で注意されると言っても上の世代より薄いのは間違いない。

お互いの注意を喚起するのと、信号というルールを守るのは、はたしてどちらの方法が良いのだろうか。

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2006年8月11日 (金)

透明性への誤解

昨日の日経新聞に、前東大学長の佐々木毅氏のインタビューが掲載されており、その中に日本では「透明性」が誤解されている、という話があった。

「ある意味で、日本は透明性がありすぎる」
「本当の政策論議は思い切った議論をしなければならないのに、外に出すことを前提にすると議論に深みがなくなる」

ようは、透明性を追求するあまり、逆にその公開性が足かせになって、思い切った議論ができなくなっているということだ。

これは言っていることはもっともだし、確かにそういった傾向はあると思うのだが・・・一方で疑問も残る。
日本人に必要なのは、その「思い切った議論」をあくまで議論として受け入れ、人格や発言者の属性に結びつけないような受け止め方ではないかと思うからだ。

これが難しいことは分かる。正直、自分でも何かの発言を目にしたときに、まず考えてしまうのはそれがその人の性格に起因した発言ではないか、ということだ。しかし、論理的に議論を進めたいときに、論理で説明できない相手の性格に発言の真意を求めていては、議論は進まなくなってしまう。

もう一つの考え方もある。そもそも対話というのが互いのコンテキストのぶつけ合いだと考えれば、内と外で使い分けてしまってはそもそも意味がないのだ。

佐々木氏のコメントは、本音と建て前の使い分けを認めた上で、なおかつ本音のやりとりの重要性を訴えるものだと思うが、表に出せない本音にはそもそも意味がない。確かに自分にも本音と建て前はあるだろうが、仮に建前であっても表に出した以上、相手にとってはそれが本音である。「本音は違う」というのは、自分自身に対する言い訳にすぎない。

「本音は違う」というのは、他人に向かって言うべきではないし、外に出せない本音はそれこそ本音ではなく自分に対する建て前にすぎないのではないかという気がする。

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2006年8月10日 (木)

社内ブログでCSR

ふとしたことから、表題のようなテーマについて考えてみることになった。
さて、汎用性がありかつ効果を実感しやすく、さらにテーマに沿った社内ブログの使い方はあるだろうか。

CSR日記のような情報発信はほとんど意味がない。いや意味はあるのだが、これは「CSRだからこそ」という点がない。担当者の日記(あるいは日報)は、社内のあらゆる業務に適用できる利用方法だ。それではあまりおもしろみがないし、そもそも改めて考えてみる必要がない。

(もっとも、元々が汎用的なツールであるブログで「特化した」使い方を考えるということ自体間違っているのかもしれないが・・・。)

実は「社外向け」の方が考えやすい。これについては実際にCSR日記に所感を書いたことがある(しまった、これ公開していないんだった・・・)。年に一度の報告書の形ではなく、普段からの情報発信を行うことで企業の信頼感を上げる。これはそもそものブログの効果としても十分考えられるものだ。

というか、本来の企業ブログの使い方だろう。ただCSRの場合、マーケティングなどと違って取り上げる話題自体がかなり企業にとっては「取り上げにくい」ことがある。だから実際には実例がないのだが、今後CSRレポートなどがウェブに移行するにつれて、こういった形が出てくることは想像に難くない。

閑話休題。問題はイントラブログでそういった情報発信に意味があるのか、という点だ。ただ、情報発信ということを考えたときに、日記スタイルということを逆手にとって、裏ではカテゴリで体系的に整理しながら、日々はバラバラの話題を小出しにすることで関心を誘うというやり方はできるかもしれない。

あるいはキャッチした事例を備忘録的に蓄積するといったやり方だろうか。うーん、いまいち「CSRならでは」「ブログならでは」の使い方というのが見えてこない。

というか、Notesユーザーである自分にとって、ブログというツールは必ずしも使いやすくないし、情報の整理も簡単ではないのだ。上記であげたような内容は、Notesでも十分に実現できるし、むしろNotesの方に(特に構造化と整理の部分で)強みがある。

いやいやそれはそもそも自分が「Notes的発想」に凝り固まっているから、そういった発想しか出てこない、ということかもしれない。うーん、もう少し考えてみなければ・・・。

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2006年8月 9日 (水)

時間厳守の文化の崩壊

日経ビジネスの2006年7月31日号に、アルビン・トフラー教授のスペシャルインタビューが掲載されていた。
その中で考えさせられたのが、「時間厳守の文化」が崩れるというものだ。

様々なものが週7日間24時間休みのないオペレーションに移行する中で、逆にこれまで多くの人が集中していた時間帯から、別の様々な時間帯へのシフトが起き始めている、というものだ。

工業化の時代には、多くの人が一斉に同じ作業をする必要があり、それ故に時間は貴重で時間厳守が重要だったのだが、今では在宅勤務含め、時間と空間をシフトするということが普通に行われるようになっているという。

ただ、それは「工業」がそうなったということではなくて、むしろ「サービス業」が持っている特質と考えるべきだろう。工業をビジネスのコアに据えるのなら相変わらず時間は重要だし、逆にサービス業にシフトするなら時間に縛られていたら競争力を維持できないということになる。

さて、面白いのはそれが人との関係にも影響を及ぼしているという点だ。
トフラー教授はこう指摘している。

「例えば、以前は工業都市で暮らしていれば近所の人のスケジュールなんて聞かなくても分かりました。なぜなら同じ工場で働いている自分と一緒だから。しかし、今では、もし友達と食事を共にしようとするなら、彼や彼女がいつどこで働いているかから確認しなければなりませんよね。」

そしてこれが人間関係の希薄化を招いているのかもしれない、としているのだ。

なるほどそうかもしれない。時間と空間を共有する「場」が減ったことは、確かに人間関係に影響するだろう。だからこそ社内でさえブログやSNSといった、時間と空間を超越する「場」が必要だという議論が起こるのだ。

でもまてよ?実際にそれが必要なほど「時間厳守の文化」が壊れているビジネスの現場はどれぐらいあるのだろう。社内にSNSを導入したいと考える会社では、本当にお互いが顔を合わせる機会がないほど時間がシフトされているのだろうか。

メーカー勤務の感覚からいうと、実は時間のシフトにより顔をあわせられなくなっているのは、工場の現場こそのような気がしなくもない。交代制でラインに付く彼らは、同じラインで仕事をしながら1ヶ月も顔をあわせないこともあると話していた。

オフィスの現場で顔をあわせられないというのは、意外と本人たちの甘えにすぎないのではないだろうか。

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2006年8月 8日 (火)

親しき仲の礼儀

そう言えば最近は耳にしないような気がするのだが、少し前にオフィスなどのカジュアルで良く言われていたのが「ジーンズは元々作業着だから似つかわしくない」という意見だった。学生の着用を禁じた大学教授の話なんかもあった。

でもよくよく考えてみると、仕事というのは「作業」ではないだろうか。少なくともパーティーではない。なぜ我々は作業をするためにフォーマルな格好をするのだろう。
もちろん、人と会う仕事の場合はまた違うかもしれない。しかし、仕事にはそうではない時も存在する。

厳密にいえば、オフィスフォーマルとパーティーフォーマルは違うかもしれない。しかし、ワーキングフォーマルというのは作業着こそそう呼べるのではないか。

もう一つ。

日本企業は良く「家族的」とも言われる。社員同士の人間関係と家族的なつながりを重視し、会社は一つの家みたいなことを標榜するケースさえある。

でも、なんで我々はその「家族」の前でびしっとよそゆきの格好であることを求められるのだろう。
どちらかというと最近は他人の前では(化粧を電車の中でするとか、傍若無人に振る舞うとか)素をさらけ出して、家族という建前の会社ではびしっと固めている人の方が多いのではなかろうか。

「親しき仲にも礼儀あり」というが、「親しき仲にしか礼儀なし」になっているのかもしれない。

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2006年8月 7日 (月)

倫理観と能力

先日のエントリ<倫理観を指摘する心理>にコメントをいただいたのだが、その返答を書いているうちに、そもそも何か不祥事が起きたときに「倫理観」という考え方を持ち出すこと自体に問題があるのではないかという気がしてきた。

倫理観とはそもそも何だろうか。それは問題の原因として論じることができるほど、明確に定義がされているだろうか。何となく各人が分かったような気になってしまう幻想の言葉にすぎないのではないか。

先のエントリで取り上げたエレベーター事故で考えてみよう。事故が起きた原因が保守点検の不備だったとして、それは作業者の倫理の問題なのだろうか。能力と技術の問題ではないのか?

「いや、保守作業に技術や能力はそれほど高度なモノは必要なく、誰でもできる。大切なのはコツコツと決められたことを行う心の問題だ。」

そんな意見があるかもしれない。しかし、コツコツと決められたことをやれるというのは、誰にでもやれることではなく、立派な才能である。「努力は誰にでもできる」という綺麗事があるが、本当にそう思っている人がどれだけいるだろう。

努力は、かのエジソンがひらめきの99倍も重要だとした才能だ。たいして努力ができない自分にはそれがよく分かる。

メーカーにいて現場の作業者を見ていると、その「決められたことをコツコツとミスなく続ける」ことのすごさというのがよく分かる。これが気持ちなんてあやふやなものであって良いはずがないのだ。それは能力としてきちんと評価できるものだし、評価しなくてはいけないのではないかと思う。

倫理観という言葉には、倫理観さえあれば問題はなかったかのような幻想がついて回る。そうではなく、能力のない不適格者が行っていたという厳しさが必要なのではないだろうか。失敗は気持ちではなく能力について回るという考え方をしなければ、いつまでも解決はできないような気がする。

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2006年8月 4日 (金)

倫理観を指摘する心理

昨日は退社後にアカデミーヒルズに行ってきた。「エレベーター事故の問題を通して考える独占禁止法」というセミナーを聞くためだ。以前講演者の郷原信郎氏の書いたコンプライアンスに関するコラムを読んだことがあり、どんな人なのか(笑)という個人的興味からの参加である。

内容は意外と仕事ともリンクしていて、これはネタ的にはCSR日記の方かなぁと思うのだが、会場からの質問であれ?と思ったものがあったので、それについて考えてみる。

郷原氏の講演の内容は、独占禁止法の持つ日本的な歪みとそれに基づく公共調達のあり方が、安全性という品質に対する評価を歪めることになり、結果としてシンドラー社のような事故につながった、というシステムの問題を指摘するものだった。

それに対して、最初に会場から発せられた質問はこんな内容だ。

「(そうは言っても)独立系業者にも安全に対する倫理観はあってしかるべきで、それがないのが問題ではないか?」

いや、それは確かにそうかもしれないし、事故についてろくに知りもしない自分があれこれ言うことではないのだが、構造的な問題を論じているときに倫理のような問題を持ち出しても仕方ないんじゃないの?というのが率直な感想。
ちなみに郷原氏は最初そういう質問者の意図を読み取れなかったらしく、受け答えが食い違っていた。それはそうだろう、彼は法律の歪みとそこからくる構造的な問題を論じているのに「いや、問題は当事者の倫理観だ」という意見を投げかけられたのだから。

もちろん、当事者の倫理観を軽視するわけではない。しかし、それはとやかく言ってもなんの解決にもつながらないのだ。せいぜい指摘する人間のカタルシスにつながる程度でしかない。

個人的にこういった「倫理」のような問題が指摘されている場合に感じるのは、指摘する側の「自分は違う」という感情であることが多い。社会的な構造上の問題を認めるということは、自分にも責任の一端があるし、自分も同じような問題を起こす可能性があるということを認めることでもある。「倫理観」の追求には「それは当事者のみの特質が引き起こしたもので、自分は無関係」といっているように、少なくとも聞こえてしまうのだ。

(政治家の「倫理観」を追求することで、選んだ国民の責任に目をつむる、みたいな・・・笑)

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2006年8月 3日 (木)

情報発信は何のためか

先日のエントリにコメントをいただいた。
その中で、あるBlogにコメントしたらこんなレスをいただいたことがある、と紹介されていた。

> 「Blogは個人の情報発信ツールなのですから、どちらの意見が
>  正しいという論議をする場所ではありません。
>  したがって、貴方の意見を言うのであれば、貴方のスペースで
>  主張すればいいじゃないですか」

これを読んで少し考えてしまった。以前にも書いたことがあるような気がするのだが、「個人のツール」であることが、おおいなる独り言、もっといえばひきこもりを引き起こす可能性を改めて感じたからだ。

確かにブログは個人の情報発信ツールでもあるかもしれないが、では情報発信は何のためかというと、それは受信者から何らかのレスポンスをもらうためではないか。「情報発信のツール」であれば、である。
(前回のエントリで書いたように「個人のログ」であれば、これは文字通り独り言の単なる可視化だから話は別である。)

気になってしまうのは「情報発信」に対する考え方が変容しているのではないかということだ。さらに言えば、その情報発信をきっかけとするコミュニケーションの定義さえ、変容しつつあるのではないだろうか。

もちろん、自分の書いたエントリに反論や疑問を投げかけられるのは苦しいこともある。しかし、それを「ツールの性格」のような内容とはまったく関係ない理由で否定して良いのか、そんな疑問を感じた。

もっとも、インターネットが提供するロングテールは、究極的にはこういった「同じ考えを持った者同士」のひきこもりを生んでいくのかもしれない。リアルな交友範囲では得られない賛同者を得ることができるのがロングテールの効果とすれば、「疑問を感じるような意見はそもそも見ないようにする」という付き合い方も、ネットだけのことと限定して考えれば、あながち悪いことではないのかもしれない。

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2006年8月 1日 (火)

一休み

なんだか最近のエントリは内容がまとまっていない。たぶんろくに考えをまとめもせずにばたばたと書いているからだろう。

なので、今日はこれだけにする。ちょっとは落ち着け、自分。
少し投稿スタイルを考え直した方が良いのかもしれない。

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