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2006年9月29日 (金)

日本の産業の基本

9月27日の日経産業新聞に、ある製造系のIT会社の副社長のコメントとしてこんな言葉が紹介されていた。

「何と言っても日本の産業の基本はモノづくり。ITで支えようという若者が増えてくれれば。」

実は以前ホンダの社長が語ったこんな言葉にも反応してしまったのだが・・・。

「ものづくりの原点を大事にする風土を大切にしないと、若者も製造業に興味を失い、日本が得意としてきたものづくりの文化は衰退してしまう。」(読売新聞2005.8.17)

日本の産業の基本というのは、何なのか。もっといえば、日本の産業の基本がモノづくりにあるという根拠はどこにあるのか。じつは、それが分からなかったりする。

この二人は、そこに対しては論理的な答えを示してくれていない。空気のようにそれが当たり前だと語っているだけだ。だが、本当に日本の産業の基本はモノづくりで良いのだろうか。国土が狭く、モノを作るにも原料を輸入し、それを輸出しなければなければならないという、ある意味不利な条件を抱えたこの国の産業の基盤は「モノづくり」で良いのだろうか。

世界中が市場になる中で、確かにモノづくりのセクターというのはどこかに必要だろう。だが、人材や情報が流れ始めると、モノづくりのセクターは原料の産地か、市場かのどちらかに近い所にあった方が良いに違いない。コスト的にも、環境的にもだ。

少なくとも、どちらの要件も満たさない極東の島国が、モノづくりのセクターとしての適した立地とは思えない。
(いや、市場に関しては要件を満たしているかもしれない。しかし、より重要なのは市場ではなく原料の方だ。)

日本という国の衰退の原因は、実は「日本の産業の基本はモノづくり」という思い込みにあるのではないだろうか。

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2006年9月28日 (木)

個人的なメールの時間

ほぼ毎朝ブログを書いているくせに、個人的なメールを処理する時間が取れていない。返信やら連絡しなければいけないことやらが滞ってしまっている。
会社では時間を確保できるのに、プライベートで時間を確保できないというのも変な話だ。

というわけで、今日はブログをそこそこにしてメールタイム。

そういえば、演奏会プログラムの原稿おこしの宿題もあるのだった・・・。

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2006年9月27日 (水)

ファシリテーションに必要な技術?

ファシリテーションと呼んでよいのか分からないのだが、今年の報告書について消費者の会に意見を聞く会の司会をした。

自分が報告書の作成に関わっているということもあるのかもしれないが、ついつい意見を興味深く聞き入ってしまったり、作成者としての返答を考えてしまったりして、スムーズな進行だけに集中することができなかった。何度か話がとぎれてしまい、回答者として同席してもらった上司に助け船を出してもらったりした。

何が求められているのか、自分でもはっきりしていない(そんな状態で望んだのがそもそも間違いかもしれないが)ので、そんな状態に陥るのかもしれない。はっきりしていない、というより、はっきりさせていないのだろう。

反省点は何だろうか。

一つは、「意見を聞く会」なのに、具体的にどんな意見を聞くかが不明瞭だったことだ。もう少ししっかり下準備をして、少なくともこちらとしては何を聞き出そうとしているのか、明確にしておかなければならない。一種のヒアリングと考えれば、ヒアリングシートのようなものを用意しておくのも手だろう。
そのあたりの準備不足はいなめない。

相手の関心についての事前の下調べも不十分だったかもしれない。実際には調べるには限界はあるが、もう少しどういった意見が出そうなのか、予想をしておいても良かったかもしれない。(もっとも、ある程度は予想していて、それは見事に外されたのだけれど・・・。)

実際の進行方法はどうだろう。技術的なことかもしれないが、多分自分に欠けているのは、いわゆる傾聴と呼ばれるような心構えだ。さらにいえば、その聞いた内容をその場で「要約する」技術がない。相手の言いたいことのポイントを掴むのが苦手なのだ。

これは、普段講演会などで、スピーカーの話をひたすらPCで記録していくような聞き方をしていることが影響しているかもしれない。ようするにその場では何も考えずにひたすら記録し、後からその内容を見て振り返りながら要約し、対する自分の意見を考える、というスタイルが自分の場合かなり定着してしまっている。

そんなところを見直してみると良いかもしれない。

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2006年9月25日 (月)

残業禁止法

先週のR25の石田衣良のコラム「空は、今日も、青いか?」のタイトルは「残業禁止法、制定」だった。
日本人の長時間労働に対して、残業を禁止する法律を作ったらどうかという話だ。

発想自体は良いと思うのだが、個人的にそれではなかなか企業は動かないような気がする。今でも総労働時間に対する法律の規制はあるのだ。そういった禁止は、サービス残業の横行など、残業時間に関する問題を潜在化させる傾向を強めてしまうのではないだろうか。

なので少し逆の方向で考えてみる。ようは残業、もっといえば従業員の労働時間を減らした方が、企業にとって有利な方向にシフトさせればよいのだ。そこで勝手に注目したのが、同号のランキンレビューでも取り上げられている「日本版SOX法」だ。

内部統制に絡めても良いと思うのだが、会計書類の中に、従業員の総労働時間の記載を義務化するというのはどうだろうか。この数字が出ると、従業員の時間あたりの生産性を算出することができるようになる。これを企業評価の指標の一つにしてしまうのだ。

会計書類に記載する内容になれば、当然監査が必要になるから、監視の目も働くようになる。時間あたりの生産性を比較されるとなれば、企業は同じ時間で生産性を高める努力をいやでもせざるを得ない。

「そうはいっても、生産性というのは業種によっても大きく異なるし、企業の業績指標として適当なのか?」

そんな疑問もあるかもしれない。確かに、労働生産性というのは業種毎に違うだろう。が、それも実は大きなポイントだったりする。

この指標は、投資家に対して「その業種に対する知識」を要求する。つまり会計上の数字の判断だけではなく、その事業の特性などに対する理解が必要になるはずだ。それはとりもなおさず、数字上のマネーゲームに陥っている現在の株式市場を、より企業価値に即した判断へとシフトさせることにつながるのではないだろうか。
それは企業にとって決して悪いことではない。

さらにいえば、この指標は究極的には他社との比較にはあまり役に立たない(笑)この指標は同じ企業を時系列で評価するときに意味を持つものだ。そういった評価につながるというのも、特に真剣に事業を展開しようという企業にとってはありがたい話だろう。どこぞのバブルに踊ったような企業にとっては別かもしれないが。

CSRなどでは、従業員の労働時間なども報告内容に入ってくるのだが、これはあくまでも任意での話。法律による報告の義務化をしてしまえば、企業は横並び意識からもそういったことは争ってやるだろうし、虚偽記載は大変なことになるから、サービス残業のようなこともできなくなる。

もっとも、これは従業員にも厳しい生産性向上を求めることになるので、評価そのものは分かれるところだろう。

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2006年9月22日 (金)

信頼の定義

最近、というと語弊があるが、今日はブログのネタに悩む。
ないわけではないのだが、内容的にCSR日記のような気がしなくもない。2本以上のブログを並行して書いている人は、どうやって書き分けているのだろうかと思ってしまうのだが、結局普段の関心の幅がそう広いわけではないので、どうしてもかぶりがちなのだ。気にせず両方に書けばよいのだけどね。

まだ読み始めたばかりなのだが、「安心社会から信頼社会へ」(山岸俊男/中公新書)という本を読み始めた。日本型社会と信頼社会のあり方についての考察な(のだと思う)のだが、これがなかなか考えさせられる。

とりあえず読み終えたのはまだ一章だけで、信頼の定義についての話なのだが、この信頼は大きく二つの要素に分けることができる。「能力に対する信頼」と「意図に対する信頼」だ。

能力に対する信頼・・・それをやる能力があるか
意図に対する信頼・・・それをやる気があるか

あまり考えたことはなかったのだが、確かに両者は大きく異なる。両者を併せ持って初めて「信頼」に値すると言うのは簡単だが、信頼「される」ことを考える側にとって、相手が求めていること、自分が果たさなければならないことがどちらであるのかは明確に意識する必要があるからだ。

さらに、意図についても大きく二つに分けている。筆者は「安心」と表現しているのだが、「だれでもそうする(しない)」と考え方と、本来の意味としての信頼「あの人はそうする(しない)」という考え方だ。

おおざっぱな捉え方で自分も理解できているか怪しいのだが、前者は「普通ならそうする(そうしない)」という感覚のことだ。この「普通なら」というのがくせ者で、筆者はそういった感覚は社会的不確実性が少ない「安心社会」によるものと捉えている。そしてこれは本質的には「信頼社会」とは異なるとしているのだ。

もう少し読み進めてみないと分からないのだが、これが何らかのデータで裏付けされるのであれば、CSRのような活動の方向性に大きなインパクトを与える可能性があるだろう。

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2006年9月21日 (木)

忠誠心

昨日(9/20)の日経産業新聞の「ビズテク塾」で野村総合研究所の従業員アンケートの結果が取り上げられていた。
会社への忠誠心について取り上げた項目なのだが、全体として以前に比べて低くなったと答える社員が増えているのだそうだ。

ただ、個人的にこの「忠誠心」という言葉の捉え方にはばらつきがあるのではないかと考えている。
以前(5月だから相当以前だが)朝日新聞で、米国の世論調査会社の調査結果として、会社への忠誠心は日本人が最低という記事を読んだことがある。

その時の調査会社のコメントは「米国は不満があれば転職する。日本は長期雇用の傾向が強いこともあって、相当我慢しているのではないか」というものだ。

自分自身その時あっと思ったのだが、日本人は「多少の不満があっても会社第一」を忠誠心と捉えているのではないか。ところが、この調査では「職場や仕事の満足感こそが忠誠心」と捉えているのだ。
だからその間は全力を尽くすが、それが感じられなくなれば他に乗り換えることが当たり前になる。一方で日本の「忠誠心」は、感じようが感じまいが「乗り換えない」ことこそ忠誠と捉えているような気がする。
(多分ロイヤリティという英語と忠誠心という日本語の整合性がとれていないのだろう。)

そこで今回の調査だが、ここでいう「忠誠心」は前者だろうか後者だろうか。
実は日本人の価値観が後者にシフトしつつあり、結果として従来の「忠誠心」が低下しているということではないだろうか。

それはそれで良いことのようにも思えるのだが、なんとなく「会社への忠誠低く」などと書かれるとネガティブなイメージになってしまう。そのあたりの捉え方は何とかならないのだろうか。

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2006年9月20日 (水)

スケジュールとToDoの共有

昨日とある人と話している中で、KnowWhoを考えたときに必要なのは、専用のKnowWhoデータベースやブログではなく、ただスケジュールとToDoが共有されていれば良いのではないかと思った。

吉川さんのブログに全社員のスケジュールを公開して風通しを良くするというエントリがあるのだが、これにはもう一つ効果がある。数年に渡ってスケジュール情報が蓄積されたときに、その人のやってきた仕事が一覧できることだ。

これに日々のToDoが加われば、後は横断的な検索エンジンさえあれば十分ではないかという気がする。

考えてみれば、KnowWhoで重要なのは、その人に「できること」ではなく、その人が「やったこと」であることが多い。「できること」はマネージャーや人事が知っていれば良いことだ。他部署の人間が、ある命題にそって人を探すときに必要なのは、その命題に対する経験であり実績ではないだろうか。

もちろん、ある程度の登録のためのルールは必要だろう。また、従業員が1,000人、5,000人、10,000人といった規模の企業となると、やはりある程度特化したものが必要になるかもしれない。それでも、ブログやKnowWhoデータベースの構築という前に、スケジューラーとタスクリストの共有でできることを考えてみてもよいのではないかという気がする。

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2006年9月19日 (火)

市民団体は誰のものか?

先週末に参加したシンポジウムで、21世紀は市民の時代、という話があり、なんというか微妙な疑問を感じた。
「愛・地球博閉幕一周年記念東京シンポジウム」というのだが、その中で市民参加をテーマにしたセッションでの話だ。

19世紀は国家の時代
20世紀は企業の時代
21世紀は市民の時代

CSR日記のネタに近いのだが、あちらは基本的に社内向けで、あまりこういった話はなじまないのでこちらで考察してみる。

疑問というのは「市民団体は誰のものか」というものだ。これは「会社は誰のものか」と比較してみるとわかりやすいかもしれない。

会社は誰のものか。日本ではよく「従業員のもの」「社会のもの」ということが言われている。従業員とはその組織の構成員のことだ。ということは、市民団体が「構成員」のものだとしたら、日本社会においては、企業と市民団体にはほとんど違いがないことになる。

「会社は株主のもの」であれば、両者の違いは明確なのだ。
(余談だが、この「株主のもの」というのは、資本主義の捉え方としては本来の意味からかけ離れてしまう気がする。本当は「資本家のもの」と捉えるのが正しいのではないだろうか。)

日本で「市民団体」というのが欧米ほど盛んではないのは、実は「企業」の捉え方が市民団体に近いからではないだろうか。逆に欧米でパワーのある市民団体が生まれるのは、企業が資本家のものであり、それに対するカウンターパートとして「市民のもの」である組織が必要だからだろう。

さて、しかし、そこで改めて考えてみると「構成員のもの」という市民団体のあり方は、国家や企業に変わる新しいものだろうか、という疑問が生まれてしまうのだ。これは組織としてはきわめて初期的・原始的なあり方ではないだろうか。

むしろ、もともと「構成員のもの」だった組織が、大きくなるにつれて「国家」や「企業」といったガバナンスを手にしていったのではないかとも思えてしまう。

だとすれば、市民の時代とはどういった時代なのだろう。
断っておくが、自分は市民の時代という考え方を否定するつもりはない。ただ、単なる流行ではなく時代を定義するほどのものであるためには、もっと厳密な特徴の捉えが必要ではないかと思ったのだ。

市民団体を特徴づける、国家や企業との違いははたしてなんだろうか。

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2006年9月15日 (金)

イメージするための知識

昨日参加したセミナーで印象に残っているのは、「イメージするには知識が必要」というものだ。

何かをしたい、何かを作りたいと思ったときに、その具体的イメージを頭に思い浮かべる。
その時にあいまいな知識では具体的なイメージを作ることができない。

それを聞いて思い出したのは、昔読んだSF小説(タイトルや作者は忘れてしまった)。
イメージしたものをその通りに物質化する機械を巡る話だ。

その機械は確かにイメージしたものを物質化することができる。
ドラえもんの世界と違うのは、そのためには「何となくこんなもの」という漠然としたイメージではなく、細部の様子から材質にいたるまでを「イメージ」できなければならないことだ。
(結局の所、それは人間には不可能という話だった。)

あるいは個人的に一番好きなM.Z.ブラッドリーの「ダーコーヴァ年代記」に出てくる、超能力によるけがの治療。
これは知識とは違うが、出血を止めるために出血箇所の細胞の分子に働きかけるという場面がある。「出血を止める」という漠然とした行為ではなく、ミクロな視点で「止血する」という行為を描いた場面なのだが、これも似たようなものかもしれない。

何となく「イメージとしては」何かのイメージを思い浮かべるというのは漠然とした姿を想像する、ぐらいに考えてしまっていたのだが、それではいけないのだ。

料理を作るときのイメージは、個々の食材についての知識をもとに、この量でこのように組み合わせたらこの味になる、ということまでを「思い浮かべる」ことができなければ、イメージしているとは言えない。
仕事をするときのイメージは、完成したアウトプットの詳細だけでなく、それを作るプロセスまでを明確にできなければ、イメージしているとは言えないのだ。

そのためには、個々の要素についての知識が必要になる。イメージしたくても、知らないものはイメージできないからだ。そういう知識を得る努力を、自分はしているだろうか。

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2006年9月14日 (木)

ネットファシリテーション

昨日iUGの事務局ミーティング(の後の飲み会)で話していて思ったこと・・・。
ネットにおけるコミュニケーション、ディスカッションにおけるファシリテーション技術というのは、何か一定の確立されたメソッドはあるのだろうか。

もう少し限定して、例えばアイスブレイクのような手法でもいい。

そんなことを考えたのは、先日社内のとある部署でフリップを使ったミーティングをやってもらい、それが思いの
ほか好評だったと聞いたからだ。ちなみに自分はそのやり方をガイドラインの形で提示しただけで、その場には同席しておらず、参加者はそういったやり方のミーティングは初体験だった。

それでも、一定の評価や効果を上げることができる。メソッドというのはそういうものだろう。社内ブログにしても、電子会議にしても、何かネットであることを効果的に活かせるようなメソッドは確立できないだろうか。
(むろん、万能のメソッドは難しいから、条件毎に違っていて良い。)
それが言ってみれば運営ノウハウにあたるのだろう。

チャットでの会議についていえば、以前社内で要望があったときに、次のような条件で簡単な仕組みを提供したことがある。

  • 何かを決めるのではなく、情報共有などを目的にする
  • 会議中邪魔が入らないようにする
  • 議長が必ず発言者と発言して欲しい内容を指定する

遠隔地の営業所の担当者同士のミーティング(大体5~6名が参加)だったのだが、何度かやって効果を上げたという話を聞いた。結局はシステムがついていけず(何しろNotesで作ったので、いわゆる普通のチャットの機能にさえ追いついていなかった)、最終的には消えてしまったのだが、システムはともかくとしてやり方のメソッドとしては活かせる部分もあるだろう。

そういった事例を収集して、パターン毎のやり方を考えてみるのもよいかもしれない。

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2006年9月13日 (水)

おばあちゃん仮説

POLAR BEAR BLOGの「おばあちゃん仮説」の意義を読んで、昔この仮説に触れたときに書いた文章を思い出した。
(ちなみにその時は「おばあさん仮説」まぁあまり違いはないか・・・。)

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「おばあさん仮説」という仮説があると聞きました。

自然界では、生殖年齢がすぎたメスは長生きできませんが、現生人類だけは長生きなのだそうです。この「生殖年齢をすぎて長生きするメス」が「おばあさん」というわけですが、自然界には存在しない「おばあさん」が人類の発展に与えた影響というのがすごいのです。

・おばあさんが存在すると、その経験が生かされるため、次世代における出産がより安全になる。
・さらに子育てを一部肩代わりしてもらえるため、次の出産までの期間が短くなり、出産回数が増える。
・その結果、人口が増加し、発展する。

このように、おばあさんの存在が人類の発展に大きく付与したというのが「おばあさん仮説」なのだそうです。

こういった考え方、企業にも生かすことが出来ないでしょうか。特に歴史のある企業の場合、「おばあさん」になれる人はかなり多そうです。

ただし、「おじいさん」ではいけません。

なぜ「おじいさん」ではだめかというと、おじいさんにはいわゆる生殖年齢の限界がないからです。
つまり、「おばあさん」にとって、若い世代は見守り助ける対象ですが、「おじいさん」にとっては排除すべきライバルだということになります。

「おじいさん」が多い企業では、若い世代に権限の委譲などが進まなくなります。企業は「おばあさん」(女性という意味ではもちろんありません)をもっともっと増やしていく必要があるのではないでしょうか。
(2005/7/2)
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これはその時参加していた(今も参加しているが)グループのメルマガに書いた文章なのだが、この時自分が考えたビジネスに活かす教訓というのは「おじいさんではなく、おばあさんたれ」というもので、アキヒトさんが書いているメンター型の考え方に近い。

となると、スタープレーヤー型というのは、「おじいさん」が多い会社になるだろうか・・・。

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2006年9月12日 (火)

芽が出るきっかけ

ダメだ・・・ネタがない・・・。

ネタがないという状況は微妙で、本当に何も書くことがないかというとそう言うわけでもない。ネタはタネにすぎず、そこから芽を出さないと文章にならないのだ。ネタとしてストックしているものはあるのだが、芽を出していないのだ。

だから、厳密にいえば、今の状態は「ネタがない」のではなく「芽が出ない」状態だ。よくブログなどでは「書くネタがない」という話を聞くが、恐らく多くの人はそうではなくて「芽が出ない」状態なのだろう。
その証拠に、会話をすればいくらでも話題が出てくることが多い。

ネタというのは蓄積された情報であり、言語化されていないもやもやしたものだ。暗黙知といってもよいかもしれない。芽が出るというのは、なんらかのきっかけを掴むことで、その情報が言語化されること。つまり形式知化されることだ。会話の場合はふんだんにきっかけがあるが、ブログのように1人で向き合っている場合は、なかなか芽が出てこないことも多い。

そう考えると、ブログのようなツールが暗黙知を表出化するナレッジマネジメントのツールとして活用されるには、何かもう一つ仕掛けが必要ということになる。「書きやすさ」「手軽さ」というのは、芽が出た時に土の上に頭を出しやすい「土壌の柔らかさ」であって、芽が出るきっかけそのものではない。

ナレッジマネジメントを本当の意味で「マネジメント」として捉えるのであれば、そのきっかけを偶然に頼らない形にしなければならない。いや、そもそも偶然にしか頼れないものだとすれば(その可能性はある)、その偶然の機会が増えるような仕掛けを考える必要がある。

今のところ、そのきっかけがもっとも多く生まれるのが人との会話だ。その「会話」を上回ることのできる機会にはどんなものが考えられるだろうか。

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2006年9月11日 (月)

ごみ拾い

先週末に会社のイベントで富士山にごみ拾いに行った。「ごみ拾い」といっても、目に付くごみを拾うような生やさしいものではない。廃棄された後、土の中に埋まっってしまったごみを掘り出すハードなものだ。
場所も人目に付かないところで、美観を整えるためというよりは土壌の汚染などを食い止めるための環境保全活動に近い。

大体5×10メートル程度の広さの土地なのだが、出るわ出るわ、40人近い人間が1時間ほどでトラック一杯ほどのごみを掘り出した。ほとんどは確信犯的に捨てられた不法投棄ごみなのだという。自転車のような大物から、注射針などの医療廃棄物まで出てきた。

こういったごみはどうしたらよいのか。

正直な話、放っておけ、と感じたのも事実だ。ごみを廃棄して自然を破壊するのが人間の性であるなら、その結果滅びても仕方ない。そんな突き放した考えも頭をよぎるのだが、今我々が廃棄したごみによって困るのは、結局我々の世代ではなく、ずっと後の世代なのだ。そう考えると、なんだか無責任なようにも感じる。

となると、ちょっとずつでも気の付いた人たちが拾っていくしかないのだろう。今は焼け石に水のような状態かもしれないが(現地のNPOの方によると、1ヶ月もすればまた誰かが廃棄していくのだという)、いつかは石も冷えると考えるしかない。

それにしても、ホリエモンや村上ファンドの所業に憤ったりする人たちの半分でも、こちらにエネルギーを振り向けてくれれば、大分状況は変わるのではないか、という気もするのだが・・・。

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2006年9月 8日 (金)

ほぼ日手帳2007

ほぼ日手帳2007が発売されているという情報をキャッチしたので、早速ロフトで買ってきた。
2007年版(2007/1~2007/12)なので、使えるのはまだ相当先だが、直前になると入手が困難になる可能性がある。

http://www.1101.com/store/techo/index.html

同じ手帳を続けて購入したというのは、自分としてはかなり珍しい。大体において、紙の手帳は同じものを続けて購入したことがないどころか、1年通じて使い切れたこともほとんどない。
そういった意味でほぼ日手帳はかなり希有な存在だ。使い始めて9ヶ月ということになるが、今のところ手放す気はない。

ただし、スケジュール管理には使っていないから、という事情もある。基本的にスケジュール管理はCLIEにまかせ、ほぼ日手帳はもっぱらメモ帳である。そのメモとしての使い方もころころ変化しており、まだ使い方が定まっているとは言い難い。

これまで購入した手帳は、基本的にはスケジュール管理を目的としており、最終的にCLIEの利便性の前に消えていった。ところがほぼ日手帳は、CLIEと役割がぶつかっていないのだ。これが使い続けている理由かもしれない。

ただし、最近は少し迷いが生じている。CLIEはどこかで限界がくる。確か2003年の購入だから、3年間使っているわけだ。もちろんこの程度で壊れるとは思わないが、電子デバイスは常にリスクを抱えている。(まぁ紙の手帳も同じだけれども。)

そこで最近考えているのは、Yahoo!カレンダーやGoogleカレンダーなどのWebのカレンダーなのだった。ただ、結局持ち歩きの便利さで今のところCLIEに勝るデバイスはないんだよね・・・。

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2006年9月 7日 (木)

電卓の左手打ち

昨日の日経産業新聞にこんな記事があった。

身近な活動 社内を融和 意思疎通が成果生む(日経産業新聞2006.9.6)

挨拶の励行や机の上の整頓、あるいは少人数による業務改善運動が、社員同士のコミュニケーションを生み、社内の活性化につながっているという記事だ。
この内容はこの内容で非常に興味深いのだが、ちょっとびっくりしてしまったのはその中で紹介されていた実際の業務改善活動の一つで、「電卓の左手打ち」の練習。

「会計士などの『本当のプロは左手で計算機を扱う』(橋爪さん)からだ。」

そ、そうだったのか!とどうでもいいことに反応してしまった。

以前比較的数字を打つことが多い仕事をしていたときに(といっても本格的な数字打ちではないのだが)、テンキーを右手側に置くとマウスと同じ位置になって鬱陶しいので、マウスを左手側に持ってきて、左手でマウス操作をしていたことがある。

逆だったのか、そうかテンキーを左にすればよかったのか、などとくだらないことを考えながら後輩に話したら、「それは右手に筆記用具を持つからではないですか?」とばっさり。確かに左手でペンを握るよりは、左手でキーを打つ方が楽に決まっている。

どうもそれ以外に左手で打つことに業務スピードにつながるような根拠はなさそうなのだが、となると筆記用具を握る機会が少なくなった今では少し事情が異なってくるかもしれない。

他にも「左手電卓」に何か効果はあるのだろうか。

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2006年9月 6日 (水)

ピラミッド型組織についての考察その2

その1より続く

「ピラミッド型の組織は、プロイセンのモルトケが考案した組織形態」なのだそうだ。
この話は当時の自分にかなりの衝撃だった。というのは、それまでの自分はピラミッド型の組織は組織が大きくなっていく上で自然と形作られてしまうものと考えていたからだ。

自然とできてしまうものと、人為的に作られたもの。この両者の差は大きくないだろうか。

モルトケが考えていたのは、司令部(参謀本部)に情報を集中させ、そこで大局を見通して作戦を立案し、その指示に従って全体が行動する組織(軍隊)だった。彼はこの組織を作るのにかなりの尽力をしている。つまり、ピラミッド型組織は決して自然にできるものではなく、何らかの意思と努力があって初めて成り立つ組織形態なのだ。

この頃から自分自身の考えは、いわゆる21世紀型とされたネットワーク型への傾倒から、「別にピラミッド型でもよいのではないか」という考えに変化していくのだが、しかし一方で忘れてはいけないことがある。

人為的で決して自然ではないピラミッド型組織は、自然にできたヒエラルキー型組織とは一線を画すべきだ、ということだ。当時は思いつかなかったが、今から考えるとやはりモルトケ以前の軍隊にそういった階層がなかったとは考えにくい。

モルトケが考えたのは、自然と作られてしまって機能しないヒエラルキー型組織を動かしていくための、別の指示系統としてのピラミッドではなかっただろうか。

ヒエラルキーの基本は、構成員同士の「上下」関係によって発生する階層ピラミッドだ。対してモルトケの考案したピラミッドは、役割分担とネットワーク構造によるピラミッドで、構成員同士の相対的な上下はあまり関係がない。実は両者は意識的に分けて考える必要があるのではないか、という気がしている。

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2006年9月 5日 (火)

ピラミッド型組織についての考察

前の仕事の縁で、某ナレッジマネジメント関連企業(ぶっちゃけていうとリアルコムだが)の発行する冊子を今でも読む機会があるのだが、その中にピラミッド型の組織の話があった。
あらかじめ断っておくと、この冊子に書かれていることにはまったく同感ではあるのだが、この「ピラミッド型組織」の捉え方については、昔全く別のことを考えたことがあるので、改めて考えてみることにする。

以前NHKスペシャルで「変革の世紀」というシリーズがあり、そこで20世紀のピラミッド型組織と21世紀のネットワーク型組織について取り上げられたことがある。冊子の中でも取り上げられているアメリカ陸軍の話も紹介されていた。

ちょっとだけ紹介すると、アメリカ陸軍の話というのはこういう話だ。
「ブラックホークダウン」という映画で取り上げられたソマリアでの対ゲリラ市街戦で、アメリカ陸軍が甚大な被害を出したのは、ピラミッド型の組織による情報伝達の弊害が原因とされている。その反省から、アメリカ陸軍ではランドウォーリアーと呼ばれる情報武装化された兵士による新しい軍隊への組織変革に着手する。

両者を比較するとこういうことになる。

ピラミッド型組織では・・・
・情報は一旦司令部に集中し、そこから再び現場に指令として伝達される
・末端の兵士には、横の情報伝達は認められず、独自の判断で動く権限はない

ネットワーク型組織では・・・
・情報はすべての兵士の間で共有され、司令部がそのバックアップをする
・末端の兵士同士の連携が推奨され、独自の判断も認められている

このように比較して一見すると、ピラミッド型組織には問題ばかりありそうだが、実は当時疑問を抱いた。
それは同じく「変革の世紀」の中で取り上げられた一コマからだ。

それは「ピラミッド型の中央集権型組織は、モルトケという人物が創出した組織形態」だという話だ。

(つづく)

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2006年9月 4日 (月)

リソースの問題か?

先週の土曜日に、日経MJが主催するセミナーで小坂裕司さんの話をお聞きした。「人の感性を軸にした新たなマーケティングの方法」というタイトルだが、なかなか刺激的な内容だった。

その内容はおいおい整理するとして、さて、どうしようかと考えていることがある。

このセミナーは個人で参加したものだ。もともと自分の仕事はマーケティングではないので、直接的に仕事に結びついてはいないからだが、しかし、得た知識を社内に伝えることで、担当者がヒントを得ることができるかもしれない。そこで今回の内容をレポートとして社内に伝えるか、というのが一つ。

(ちなみに、担当者の感度に引っかかるかはその人次第だが、おおっぴらにレポートを社内に発信する方法はある。)

もう一つは、この得た知識を今の仕事で活かす方法はないか、探ることだ。セミナーの内容はマーケティングという商売の話なので、そのまま応用するのは難しいかもしれないが、一方で手法そのものは今の仕事で目指している方向と極めて似ている。そこで、考え方を整理し、社内に伝えていく際に役に立つかもしれない。

メモの整理をしてみないと何とも言えないが、本当はどちらも行うのが理想だろう。後者はともかくとして、前者は後は自分のリソースの問題だ。

・・・リソースの問題だ、としたいのだが、さて、自分自身がコストを払って得た知識をこういった形で提供していくことにまったく抵抗がないかといえばそんなことはない。このあたりはナレッジマネジメントでも一番問題になる点だ。

さてさて、どうしますかね。

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2006年9月 1日 (金)

自己紹介への抵抗感

「走れ!プロジェクトマネージャー!」の大木さんのエントリを読んで、昔似たようなことを立場ではなく心理的な面から考察したことがあったのを思い出しました。
ブログに書いたかと思いましたが、見つからなかったので、ローカルのアーカイブより引っ張り出しました。でも何故ブログに載せていないんだろう・・・。

以下、そのまま載せます。

2005/04/13 自己紹介への抵抗感
社内で進めている自己紹介の登録がなかなか進まない理由の一つとして、「知らない人に自分をさらす」ことではなく「知っている人に自分をさらす」事への抵抗感を挙げられたことがある。

「身近な人に知られるのが恥ずかしい」という理屈だ。自分が知らない相手に見られても、それはあまり気にならないが、身近にいる知り合いに内容を見られるのは恥ずかしい、そういうことだろう。

恥ずかしい、という感情はともかくとして、身近な人に見られている抵抗感というのは、こうした日記を書いていると感じることは多々ある。この場合の身近な人というのは、心理的な近さよりも物理的な近さだ。

物理的に近い人とは、体験も共有しているケースが多い。その体験について何か感じたことを書いたとする。それを読んだ人はこう思わないだろうか。「なんでその時、自分に言わずにここに書くかなぁ・・・。」

仕事の話題をネタにする時などは特にそうだろう。話している最中には何も言わず、後で書かれる。された方としては面白くない。自分としては、その時思いつかなかった事を書いているだけのつもりでも、読み手はそうは思わないこともある。
それは感覚として自分も分かるから、そういった話題をついつい避けるようになる。(実際なっている。)

自己紹介も同じだ。思わぬ一面を自己紹介で見つけた時に、「こんな一面もあったのか!」という驚きと共に「なんで今まで隠していたかなぁ」と身近だと思っていた人ほど思うだろう。もしかして自分はそこまで相手に近くなかったのだろうかという不安と、なぜ隠していたのかという不信感。これは表向きは否定しても、どこかに必ず生まれる感情だと思う。

もちろん実際には単にそんな機会がなかっただけで、人間関係においてはそういったことは良くあることだ。ただ、会話の中でそういった発見があるのと、自己紹介の中で見るのとではおのずと違う。会話による情報は両者のコラボと偶然によるものだが、自己紹介は明確に登録者の意思だからだ。

こうやってあらためて考えてみると、物理的に近い人と家族的な雰囲気を持って関係が良いほど、自己紹介の登録は進まない、と考えることもできる。もちろん、そういう関係がなければ自己紹介の登録が進む、ということはないだろうが、一つの障害として意識する必要があることかも知れない。

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ソーシャルカレンダーよりパーソナルカレンダー

ソーシャルカレンダーが話題になってきた。というか、先日日経産業新聞で話題になっていた。
ネットからイベント情報などを取り込んだり、他人に公開してスケジュールを共有するという、企業内でいえばグループウェアのスケジューラーなのだが、イベント情報など広告やマーケティングに使えるというところがミソなのだろう。

さて、自分もスケジュールを共有したいと常々思っている。ただし、他人とではない。いくつかのプラットフォームにまたがるスケジューラーのデータを共有したいのだ。具体的に言ってしまえば、持ち歩くためのPalmと携帯、会社で使うNotes、自宅のパソコンととにかく「スケジュール」と目に付くモノすべてである。

一番の理想は、「紙の」手帳と同期することだ。

無茶言うなと言われそうだが、自分にとっては他人とのスケジュール共有よりもずっとニーズが高い。他人と共有したいスケジュールなんていうのは、「自分と関わりのある」つまり自分のスケジュールにすぎない。それよりも、多少のタイムラグはあっても(さすがにリアルタイムとは言わない)あらゆるプラットフォームで共通するスケジュールを確認できた方がよほど便利だ。

Yahoo!カレンダーなどのWebのスケジュールというのが一番現実的(携帯でも共有できる)なのだが、そこが人間贅沢というか、自分が一番メインに使っているスケジューラはCLIEつまりPalmなので、これで管理できることが望ましい。パソコンではどこにでも持ち歩くわけにはいかず、携帯では入力が手間だ。何より、都度Webにアクセスするのでは、レスポンスが悪すぎる。

まぁそうなるとようするにPalmとYahoo!カレンダーの同期を考えれば良いということになり、別にそれはそれで方法はない訳ではないのだが(PalmDesktopではなく、Outlookと同期した上で、そのデータをYahoo!カレンダーに流し込む、という方法がある)、これは「とりあえずやろうと思えばできる」という程度のもので、ストレス無しで使うには少々手間が大きい。

もっとも、では今の自分のスケジュールがそこまでしなければならないほどのものかというと、これはまた別の話(笑)。

ちなみにWebのカレンダーの中では、個人的にはGoogleカレンダーが使いやすいと感じている。もっともYahoo!とGoogleぐらいしか試していないのだが・・・。

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