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2007年4月27日 (金)

野菜の産地廃棄

昨日のR25に、野菜の産地廃棄についての記事があったのだが、その記述を読んでちょっと考えてしまった。
産地廃棄について、このように説明されていたからだ。

「産地廃棄とは好天で野菜が採れすぎた場合、価格の低下を防ぐため、育った野菜をそのままトラクターなどで踏み潰し、出荷量を調整するという乱暴な施策のこと。」

自分もそのように理解していたのだが、実はこの説明と理解こそが産地廃棄の最大の問題ではないか、という気がした。というのは、先日機会があって実際に生産する農家と仲介する業者の方に話を聞いたのだが、「売れるモノなら売るが、結局売れない(から廃棄せざるを得ない)」という話だったからだ。

「価格の低下を防ぐため」「出荷量を調整する」ための廃棄と、「売れない」からやむなく廃棄するというのでは、イメージがまるで違う。前者はいかにもその施策によって価格のつり上げを図っているように受け取れるが、実態は「どんなに安くしても買ってもらえない」から、かかったコストを少しでも回収するには、廃棄により補助金をもらう以外にない、ということなのだ。

(ちなみになぜトラクターなどで潰すかと言えば、これは補助金をもらった後に出荷をしてしまうとか、農家側の問題で廃棄した野菜にまで補助金を出すわけにはいかないからだろう。あくまでも市場の相場の問題で売れなかった野菜に対し補填をするのが目的なのだから、補助金を出すためのいわば条件が「潰す」ということなのだと思う。)

あえて言ってしまえば、お店が買うのであれば産地も廃棄などしないのである。しかし、お店の方でも売れないモノを仕入れても仕方ない。結局これは記事にもあるのだが「野菜を食べない」消費者の問題を、産地の問題にすり替えているだけということでもある。
(もっとも、日々の野菜の需要が生産量にあわせてそうそう変動する訳がないので、突き詰めれば天候などに左右されやすい農作物の宿命にすぎない、という捉え方もできる。意外と問題は、報道するマスメディアの伝え方にあるのかもしれない。)

ちなみに農産物というのは面白いもので、出来の良さと量が比例する。出来が良いほど大量に収穫でき、結果として需給のバランスから価格が下がる。一方で出来が悪い時は収穫量も少ないので、価格が上がる。品質が良い時ほど安く、品質が悪い時ほど高くなるという、一見すると奇妙な価格変動があるのだ。

もったいない、と思うのは確かだが、ではその野菜が目の前にあったときに「自分が」余計に食べるか、他の人(海外でも良い)に提供するために「自分が」お金を出すか、といわれると首をかしげざるを得ない。国の政策として国のお金でそういった施策をとるということも考えられるが、そのコストは結局税金なのだ。

むろん、上手くビジネスに載せることができれば状況は変わるかもしれない。最近農水省が進めている輸出政策などもその一環だ。ただし、それが進むということは、国際的な市場の影響で野菜の価格も変わってくるということであり、我々の手に届く野菜の価格にも影響してくる、ということはきちんと考えておかなければならないだろう。

余ったときだけもったいないから分けてあげます、なんて理屈は通じるわけがない。

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2007年4月26日 (木)

塩鮭から考える保存料の問題

目の前に鮭の切り身があったとする。
旬に現地に行きでもしない限り、この鮭を自分たちが食べるには何らかの保存技術が必要になる。旬ではない時期に食べようと思ったらなおさらだ。

まず一番考えられる手段が、冷凍だ。
食品の冷凍技術というのは、解凍技術がセットになったもので、元々はプロの厨房のための技術だったらしい。現在では電子レンジも含めて家庭でもかなり高度な解凍が出来るようになっているので、冷凍による保存を行えば、ほぼ1年中鮭を食べることができる。

ただし、問題がないわけではない。それは冷凍・解凍に伴うエネルギーの利用、すなわち環境負荷だ。運送も含めて、冷凍にはそれなりのエネルギーが必要になる。

次に考えられるのは、昔ながらの方法、塩漬けだろうか。塩鮭というのは、元々は保存のための技術である。そもそも食品の加工技術は保存のための試行錯誤から生まれたものが大半だ。缶詰のように密封して殺菌することで保存性を高めたり、鮭とばのように乾燥させたり、そうした加工によって新たな味わいが生まれることは珍しくない。

その延長として保存料を使うという手もあるだろう。と、そこで考える。塩漬けされた鮭と何らかの保存料で処理された鮭の違いは何だろうか。

ここにイメージの問題が潜んでいる。どちらも基本的なメカニズムは同じで、腐敗を進める菌の繁殖を抑えることで長期の保存を可能にしている。違うのは、塩は日常的なもので、保存料はなじみのないものだということだ。しかし、摂取による人体への影響が科学的にきちんと評価されているのは、おそらく塩ではなく保存料の方だろう。

菌を殺してしまうような保存料の、人体への影響が心配という話がある。その可能性はもちろん否定しない。そういったリスクは自覚するべきだ。だが、同じように菌が繁殖できないような濃度に調整された塩による、人体への影響は心配ではないのだろうか。そのあたりがどうも釈然としない。(塩分の大量摂取には、高血圧などのリスクがある。)

例えば、酢にも殺菌作用がある。だが、そんな殺菌力を持つ酢の人体への影響が心配、という話は聞いたことがない。目的とする効果は同じなのに、一方の効果は評価され、一方の効果は危険視される。これはイメージの問題にすぎないように思える。

天然か、人工か、という捉え方もあるかもしれない。しかし、フグ毒などに代表されるように、天然由来で人体に危険な物質はいくらでもある。天然だから安全というのは、これまたイメージの問題にすぎない。長い食経験が安全を担保するという話もあるが、それは結果にすぎず、言い換えれば長期にわたる人体実験の結果という捉え方もできる。

塩だって、初めて口にするときは未知の物質なのだ。大昔に塩を口にした人と、いま保存料を口にする人は、未知のものを口にするという点でなにが違うのだろうか。

昔の人の方が安全に無頓着だったということは、少なくともないはずだ。

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2007年4月25日 (水)

シニアの社会貢献活動

そういった活動に水を差すわけではないのだが、昨日ふと「会社をリタイアしたシニアが、従来の仕事の延長ではなく、ボランティアなどのいわゆる社会貢献活動に走ることが多いのは何故だろう」と思った。

そういった活動に関心がありながら、
1.これまでやってこなかったのは何故か
2.これからやっていこうとするのは何故か
そんなことが気になってしまったのだ。

少し極端な捉え方かもしれないが、例えば「社会への恩返し」と考えているとしたら、それはすなわち自分がこれまでやってきて、しかも後代に託した仕事が、実は「社会への負担」だったと認めることになってしまわないだろうか。

これはうがった見方かもしれない。しかし、自分たちがやってきた仕事が、社会に貢献するものであったと心底考えているのであれば、「これからは社会に面倒を見てもらう」ならまだしも「これから社会に恩返しする」という発想にはならないのではないか。

いや、それ自体は謙遜というか、社会あっての自分という捉え方として納得できるかもしれない。それにしても、その「恩返し」が、これまでの仕事とはかなりベクトルの違う方向だったりするのが気になるのだ。

シニアはなぜ引退してから社会貢献をしようとするのだろう。彼らの考える社会貢献は、どんな動機に基づいているのだろうか。

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2007年4月24日 (火)

CSRレポートと履歴書

昨日のエントリーを書いていて思ったのだが、企業のCSRレポートなどを履歴書に喩えるのは、意外と分かりやすいかもしれない。
ただし、当然考えなければいけない問題もある。それはネガティブ情報をどう記載するかだ。

読んだことはないのだが、おそらく、履歴書の書き方マニュアルの中に「ネガティブ情報の記載」などという項目は皆無だろう。基本的には履歴書は自己アピールのための書類だから、自分から不利な情報を開示する必要はない、というのが一般的な考え方だ。

しかし、企業のCSRレポートではネガティブ情報の開示が求められる。普通の履歴書のような書き方をすれば、まず間違いなく「良いことばかり書いてあって、信頼できない」と評価されてしまうのがオチだ。なぜ個人の履歴書ではそういったことがないのに、企業の履歴書とも言えるCSRレポートではそういった視点で見られてしまうのか。

一つ考えられるのは、評価側の持っている情報というか、経験の問題がある。昨日のエントリーでも書いたが、企業の人事担当者は履歴書はあくまで一つの参考情報として評価を下す。良いことばかり書いてあっても、それ以外の面は担当者の眼で見つけ出すのだ。
一方企業に関しては、評価側にはそこまでの覚悟と経験がない。さらにCSRレポートが唯一の参考情報なんてケースもあるだろう。

だから一概に同列に比較は出来ない・・・と言うのは簡単なのだが、やはり釈然としない。

最近は、CSR関連の部門を希望する学生もいるようだ。何をCSRと捉えるかはあいまいではあるが、一つ思ったのは、そういった学生には自分自身の「SRレポート」の提出を求めてみるのはどうだろうか。

そう考えると、まがりなりにもCSRを担う(少なくともCSRレポートの発行を担う)自分も、そういった視点で自分自身のSRレポートを書いてみる、という経験が必要なのかもしれない。
今は(企業の方のレポート作成で)ちょっとそれどころではないのだが、そういったことを考えてみても良いかもしれない。

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2007年4月23日 (月)

信頼できる情報とは何か

エコロジーシンフォニーというサイトが発行している「エコシンめーるニュース」というメルマガがあるのだが、そのVo.133に、「CSRレポートより2チャンネルの情報を参考にする学生たち」というトピックがあった。

> 一人の学生が、「企業の発行するものは、いいことばかり書いてあっ
> て宣伝くさい。これって、プロパガンダじゃないの?と思う」と語っ
> てくれました。また、「その企業のネガティブなことも知りたいから
> 2チャンネルをのぞきに行って本音の社員の不平や不満を読む」とも。

筆者はこの発言に「担当者が汗水流して作っている会社案内やCSRレポートよりも、怪しいサイトの情報を信じているなんて!?」とショックを受けているのだが、自分としてはこの発言と筆者のショックに別の危惧を感じた。

企業の発行したものであれ、2ちゃんねるの情報であれ、「信頼する」というのは、受け手自身の判断である必要がある。企業の発信する情報に、ある種の宣伝的な情報が入るのは避けられない。開き直るわけではないが、では学生が企業に提出する履歴書に、まったく宣伝(自己PR)的要素がないなんてことがあるだろうか。

大切なのは、その情報を受け取った上で、自分がどう判断するかである。企業の人事担当者は、履歴書に書かれた情報を参考にした上で、その相手を自らの眼で評価する。CSRレポートに対する評価も、そういったものであって良いはずだ。

そもそも、CSRレポートにネガティブ情報の掲載が進んだのは、それを読む人たちが、その内容を100%信頼せず、批判的な精神で企業に対してアプローチをしてきた結果である。その緊張感こそが健全な「信頼関係」なのであって、企業がどんなにパーフェクトなCSRレポートを作成したとしても、その結果100%信頼されてしまったら、逆に両者の関係は崩れてしまうのではないだろうか。

一方、企業の発行するものを「プロパガンダ」と切り捨て、2チャンネルで「本音の不平や不満を読む」学生に対しても危惧がある。彼は、自らの判断で情報の信頼性を評価しているようには思えないからだ。プロパガンダに見えるものであっても、本音の不平不満に見えるものであっても、それはただの主観的な感想にすぎない。それだけでは何ら信頼性を担保しない情報に対して、彼はどのような「判断」を下しているのだろうか。

良いことばかりが書いてある(ように見える)から信頼できないとか、本音の不平や不満が書いてある(ように見える)から信頼できるとか、そんな判断で良いのだろうか。大切なのは、個々の情報に対して自分がどのような評価・判断を下すかだろう。

それに対してこういった切り捨て方をしてしまう姿勢自体に危惧を覚えてしまうのだ。

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2007年4月19日 (木)

ローマの松のパート練習

・・・のメモ。

<ボルケーゼ荘の松>
この曲は夕暮れ時に子どもが遊ぶ情景を描いたもの。チェロにとっては音域が高いが、ベースがないことを考えると、意識的に音域を高く設定して、子どもの歓声を表現しているのかもしれない・・・という話をする。何の慰めにもならないが(笑)

高音域では親指を多用する。参考までにフィンガリングの例は次の通り。
・練習番号1からの旋律・・・A線のAを親指で押さえる。最初の音から指番号と弦を書くと次のようになる。
 (Ⅱ)2-(Ⅰ)1--1-3--3-2-3-2-1-0-(Ⅱ)3-2--2-(Ⅰ)1--1-3--3-2-1
・練習番号2と3の間のピチカート・・・A線のH、D線のEを親指で押さえる。
 (Ⅲ)1-(Ⅱ)0-3-(Ⅰ)0-3--(Ⅲ)1-(Ⅱ)0-3-(Ⅰ)0-3--(Ⅲ)1-(Ⅱ)0--0-3--(Ⅰ)0-1--0-3
・練習番号4の後のダブルバー以降のピチカート・・・A線のGis、D線のCisを親指で押さえる。
 (Ⅰ)0-3-1-(Ⅱ)3-(Ⅰ)0-3-1-(Ⅱ)3-(Ⅰ)0-3-1-0-(Ⅱ)3-(Ⅰ)0-1-(Ⅱ)3-0
 ※string.で3-1に切り替える。
・練習番号5・・・最初のA(3)からスライドさせてHを1で押さえ、3-2-1-2 と押さえる。
・練習番号6・・・前の小節のD(3)を1で押さえ直し、A線のCを親指で押さえる。
 (Ⅰ)1-(Ⅱ)2-(Ⅰ)1-(Ⅱ)2-1-2-(Ⅰ)1-2-0-2-0-(Ⅱ)2-(Ⅰ)0-2

ただ、正直なところ、どこまで力を入れてさらうかは微妙なところではある。まったくあきらめるのはダメとしても、<カタコンブ付近の松><ジャニコロの松>により力を注いだ方が良いのは確かだろう。

<カタコンブ付近の松>
カタコンブは地下墓地のこと。夜とは書いていないのだが、多分夜の墓地を描いた音楽だから、暗くておどろおどろしいのだが、日本のようなじっとりした感じはなく、乾いた冷たさがある・・・ような気がする。

この曲は弓の使い方がポイントになる。事前に計算しておかないと足りなくなってしまうのだ。例えば、冒頭はあまり先弓からはじめると、後で弓が足りなくなる。各自が自分の弓の使い方を良く研究しておく必要がある。(これは各自がやるしかない。)

位置について注意するとすれば、Ancora piu mossoからは、最初は先弓で始める。練習番号11の直前に cresc.があるが、全体を見回すとそれほど大きくなるわけではない。練習番号11から加わる 1stVnは pからスタートしているからだ。
むしろ 6/4直前の<で一気に ffまで持っていく方が盛り上がりが大きくなる。

練習番号12の ffは長めに維持して、pまでにじっくり音量を落としていくようにする。そのあとも dimがあるので、pで落としすぎないような注意も必要だ。あわせて、徐々に先弓にしていく。小節が変わるときの弓の戻しを小さくすれば、自然に先弓になっていくはずだ。

<ジャニコロの松>
ジャニコロの丘というのはローマを一望できる見晴らしの良い丘で、情景としては満月の光の下にたたずむ松なのだそうだ。最後の鳥の鳴き声はナイチンゲールなのだが、この鳥は確か夜も鳴く鳥だったと思う。

この曲はリズム(拍の捉え方)がポイントになる。特に練習番号14以降の8分音符、16分音符、3連符の組み合わせは何度か自分で手を叩きながら歌ってみた方が良い。3連符は、テヌートがあるので、少したっぷりめに弾くことを意識する(音を切ってしまうと歌にならない)。

全曲を通じて唯一と言える「おいしい」旋律が練習番号14の直前にある。弓の都合でスラーを切っているのだが、これはあくまでも弓の都合なので、音が切れないように特別注意をする必要がある。

練習番号15の後、トレモロは al Pont.とある。pや ppなので難しいが、金属音を意識したかすれた音と理解すれば良いだろう。

<アッピア街道の松>
霧深い夜明けのアッピア街道を進軍する軍隊を見守る松だが、後半は霧が晴れて夜も明ける。管楽器中心の曲なので、弦楽器にはこれといったポイントはない。あえていえば、数えるのが大変なので、要所要所の他パートの動きを把握しておくと良いだろう。

練習番号19の前は、1stVnの入りを憶えておくと良い。
練習番号20の前はこれといったポイントがないのだが、裏の人はC線のチューニングなどがあるので数えている余裕がない。表の人と相談をしておくと良いだろう。練習番号20で調が変わるので、入ればすぐに分かる。

ボルケーゼ荘の松を除くと、合奏の前に一度さらって思い出しておくだけで随分と違う。譜面がそれほど難しいわけではないので、ついつい「忘れてしまう」のだ。これを意識するだけで、随分と違ってくるはずだ。

この曲はパートの楽譜だけを追っかけていては楽しくも何ともない曲になってしまう。オーケストラ全体の響きを楽しむようにすると、色々と楽しむことができるので、余裕を持って弾けるようにしておくとそれだけ面白くなるはずだ。

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2007年4月18日 (水)

記者クラブ主催の定例会見

宮崎県の東国原知事が、県政記者クラブ主催で月に2回開催されている定例会見について、「重要な発表事項がない時は、必要ないのではないか」という意見を述べて、記者達と一悶着あったようだ。

全紙を確認したわけではないのだが、毎日新聞と朝日新聞を読み比べると、東国原知事の意見をどう受け止めているかの違いが感じられて面白い。同時に、メディアが報じる側面は、気をつけて受け取る必要があるということも浮かび上がってくる。

朝日新聞の論調は、東国原知事の意見に否定的である。というか、東国原知事の意見を否定的意見として受け取ったというべきだろうか。
最後にマスメディア論に詳しいという元立正大学教授のコメントとして「都合の良い時だけ会見するというのは、メディアを利用して宣伝効果だけを得ようとする、ずるいやり方だ。定例会見をなくすることは権力監視の低下につながる。」と締めくくっている。

一方、毎日新聞はもう少し冷静な感じがあるが、これは朝日と読み比べてしまったからかもしれない。

気になったことは2点あった。

冒頭の意見の理由の一つとして、知事は「統一地方選には飽き飽きするぐらい答えた。」と発言している。これは両紙が同じような趣旨の発言を取り上げているので、そうなのだろう。実はこの理由は、「重要な発表事項がない」というよりも「記者の質問が定例会見に見合った内容になっていない」と知事が感じているということではないか。

個人的には、定例会見には確かに重要な権力監視の機能があると考える。ただ、それは監視する側の質があってのものだ。記者達は一体知事に何を聞きたいのか。紹介されている知事の意見からは、質問が厳しいからそこから逃げるためにではなく、質問が同じようなものでくだらないから無駄な時間として不要ではないか、と感じていることが垣間見える。

知事を批判する前に、記者クラブの記者達にはやることがあるのではないだろうか。

もう一つは、記者側から「県民が聞きたいことを代弁する役割もある」との意見に「私は県民から直接聞きたい。それが県民の本音だ。県民に意見を聞いてみたい。」と答えたと毎日新聞は報じているのに対し、朝日新聞では同じニュアンスの回答として「あなたたちが聞きたいことが、必ずしも県民の聞きたいこととイコールだとは思わない。」と伝えていることだ。

あるいは発言のタイミングは別だったのかもしれないが、それにしても両者のニュアンスは随分違う。毎日の報道が知事は対話を広げようとしているように感じられるのに対し、朝日の方は知事が対話を閉じようとしているような印象になるからだ。

定例会見が県庁の主催で行われているのであれば、重要であろうがなかろうが、定例会見に見合った内容を準備する責任が知事側にはあると思う。そのように対話の場を用意したのだから。

一方、定例会見が記者クラブの主催で行われているのであれば、その趣旨に従って知事に対して突っ込んだ質問をしていく責任はむしろ記者側にあるはずだ。知事側の発表を口を開けて待っているようであれば、それは不要ではないか、と思われても仕方ない。

知事は思いきって、県の主催で月2回、タウンミーティングをやったら良いのではないだろうか。記者だけを対象にする必要もない。記者クラブでの定例会見にこだわる必要もない。記者を対象にするような県からの発表なんて、あるわけない(県の発表というのは、記者ではなく県民を対象とするものだ)のだから、そうやってもっと多くの人に開かれた「定例会見」を行った方が良いのではないだろうか。

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2007年4月17日 (火)

遺産分割調停

身内の恥のような話ではあるのだが、母方の兄弟の遺産分割調停のため、裁判所に呼ばれた。
母は死んでいるが、その代襲相続人という形だ。

調停の内容はともかく、裁判所というのははじめて訪問する。呼ばれたのは家庭裁判所だったのだが、最初間違えて地方裁判所に入ってしてしまい、手荷物検査で時間がかかった。(家裁ではそういったものはなかった。)

調停というのは裁判とは違って、あくまでも当事者同士の話し合いを手助けするものだそうだ。一つの調停事案には裁判官1名と調停員2名がつくそうだが、大半は調停員と話を進めることになる。調停で決まったことには調停調書が作成され、判決と同じ効力がある。

待合室は申立方(調停を訴える方)と相手方(調停を訴えられる方)に分かれている。これは感情面のもつれがあった場合に顔をあわせるのを避けるためだろう。10時に来いという話だったが、すぐには呼ばれなかった。
今回自分たちは相手方だったのだが、多分申立方から話を聞いていたのだろう。話を聞くのも一度に聞くわけではないようだ。

調停室(普通の会議室という感じだが)に入って最初にやったのは、署名。それから今回の調停に関して、関係者と相続する遺産が他にないかということを聞かれる。(事前にアンケートという形で答えていたのだが、まぁ確認というところだろう。)

それから、調停について説明。最初に書いたような内容と、感情的なことはおさえ、法定相続を頭に入れて進めるようにという話があった。(そんなこといったって、感情的にもつれたから調停に持ち込まれたのだと思うのだが・・・。)

そして一旦退室。再び申立人から今度は調停にあたっての言い分を聞くのだという。その後また呼ばれて、今度はこちらが言い分を聞かれる。

正直なところ、言い分といわれても、母が死んでから母方の一族とはほとんど付き合いがなく、今回の話も寝耳に水だったというのが本当のところである。今回の調停は母の姉妹間での争いに「巻き込まれた」というのが実情で、言い分といわれても法定以上に何かを要求するようなつもりもない、という話をする。

その後、両者が顔をあわせて、次回の日時を決めた。1回で終わると勝手に思っていたのだが、そう簡単でもないようだ。毎回仕事を休むわけにも行かないし、次回以降は家族の誰かが代表して出席することになるだろう。

余談だが、その後裁判所の地下の食堂で食事をする。こういってはなんだが、もっと良い食事を出した方が良いと思った。
何が驚いたって、あの食事に驚いたといえば驚いたかもしれない。

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2007年4月16日 (月)

スピード違反

スピード違反でキップをきられてしまった・・・。
見通しの良い河川敷の直線道路で、40km/hのところを61km/h。20km/hオーバーだそうだ。

ああああああ~と思ってしまったのだが、やってしまったことは仕方ないとして、ふと考えてしまったのはなぜそのように感じてしまったのか、ということだ。スピード違反の取り締まりというのが事故を防ぐものだと考えれば、取り締まられた警察官に対して「事故を未然に防いでくれてありがとう」ぐらいの気持ちがあってもよいものだが、なぜそのような気にならないのだろうか。

仕事のミスを上司に叱責されるのとは、明らかに感覚が違うような気がするのだ。正直(申し訳ないが)「ちくしょー!」とか「運が悪かった」とか感じてしまう。これはお互いにとって不幸ではないだろうか。

(取り締まられたときにきちんと警察官に感謝している方はごめんなさい。)

冷静に考えれば、感謝してもおかしくない。

実は走っているとき、自分には60km/hという自覚がなかった。改めて振り返ると、最近はスピードメーターよりもエンジン音と体感速度に頼っていて、あまりスピードを意識していなかった。その感覚をアジャストするきっかけになったと考えれば、これはありがたいと考えることはできる。

とはいえ、こうやってブログに書くからそんなことを考えるのであって、実際取り締まられた瞬間はそんなことは考えない。
それをなんとか、あの瞬間に良好な関係を築くことは出来ないだろうか。

いやいやそもそもあれは罰則なのだから、そんな関係を気にしても仕方ないし、そうなるべきではない、という意見もあるかもしれない。ただ、理屈では自分が悪いと分かっていても、感覚ではついそうはならないことを考えると、そこで自然と悪いということを自覚し、反省を促せるような仕掛けはあっても良いような気がする。

余談だが、カーナビとかで走っている道路の制限速度をオーバーしていたら警告してくれるような機能ってないんだろうか。画面は別にどうでも良いので、音声で「現在走っている道路」「次に横切る道路」「現在の地点」「制限速度」などを案内してくれるようなナビがあったら、個人的には便利なような気がするのだが。
(以前ナビ付きの車に乗ったとき、ついつい画面を見入ってしまうので、これは自分には危険だと考えて自分の車にはつけていない。でも音声だけの現在地案内だったら、意外と重宝する気がする。)

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2007年4月13日 (金)

CSRについて語る

少し前に参加したセミナーの縁で、(どういう訳か)CSRに関する講演の依頼があった。大学院の講義の一コマとして、企業の事例を紹介して欲しいのだという。

話があったこと自体は光栄なのだが、受けられるのかどうか、話す内容があるのかどうか、検証しなければならない。

要望としては次のようなものだ。

1.CSRとは?という概念を企業の現場から話して欲しい
2.取り組みに行き着くまでのプロセスの紹介
3.(サブテーマとして)ソーシャルマーケティングについて

1について言うと、現在社内では「CSR」という言葉を使わない形で進めているため、このキーワード自体を説明することは難しい。ただ、世間的にCSRと呼ばれている概念にそって、社内の考え方を整理して伝えることはできるかもしれない。
あえていうなら、講義全体の流れで説明されているCSRの概念にそっても良いのだ。

そのあたりはテーマ自体があいまいではあるので、いかようにも話すことはできるだろう。

2については少し難しい。何と言っても「行き着いて」いないからだ。今出来ているのは、CSRの考え方にそって社内の活動を整理しようとするところまでで、しかも具体的にはその整理の枠組みがなんとか形になった段階だからだ。
(もっともレポートなどはすでに作成しているわけで、走りながら考えている側面はある。)

ただ、その枠組みに関しては、多少ユニークさを打ち出せるかもしれない。実は現在のレポートの枠組みともかなり違うものだからだ。今後はそういった方向に持っていきたい、という思惑はある。

3はもっとも難しい。大体この手のポリシーが明文化されて社内に存在していれば、レポート作成ももう少し楽なのだ。
ただ、具体的な内容として要望されている「商品の情報をどう消費者とコミュニケートしているか」「誤った使い方などに対するリスクコミュニケーション」については、ある程度なら話が出来るかもしれない。

商品の情報に関するコミュニケーションは、多くは商品そのもの(ラベルや中身)と店頭で行われている。CMなどの要素はあるが、当社の場合あまり直接的な商品PRは積極的ではないからだ。
また、リスクコミュニケーションに関していえば、そもそもそういったリスクを生じさせないのが大前提だが、顧客対応の形でアフターフォローをすることが、それにあたるだろう。

もちろんこれはこちらの解釈にすぎないので、先方が望んでいる内容と必ずしも一致しているとは限らない。ただ、いずれにしても「これでよいか」という形でこの先に話を進めていくには、原則として「引き受ける」という前提が必要になる。

あと問題は、自分自身のプレゼン能力かもしれない。さらに、当日は質疑に多くの時間を割くということなので、そのあたりの対応が取れるかどうか・・・。

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2007年4月12日 (木)

ほぼ日手帳の月間ページ

昨日はパソコンを持って歩かなかったのだが、鞄が軽かった。楽だった・・・。

最近、CLIEを開くことが少なくなっている。転送したメールを朝チェックするときには開いているのだが、それっきりということも少なくない。以前は何かと開いている機会が多かった(何をするというわけでもないのだが)気がするのだが、それが減っているのだ。

考えられる原因は3つある。

一つは、たまたま今の時期は報告書の作成に追われているため、他のスケジュールが入ることが少ない、ということだ。CLIEは基本的にはスケジュール管理用に使っているので、入力・確認するスケジュールが少なければ、開く機会が少なくなるのは容易に想像できる。

二つめは、最近仕事とプライベートを意識的に切り替えるようにしているため、仕事以外の空いた時間に「仕事の」スケジュールやタスクを考えなくなっているということだ。そして仕事中のスケジュール管理は周囲との共有も考えてNotesのカレンダーで優先的に組み立てるようにしている。確認する場合も、可能であればそこで確認するため、CLIEは後回しになっている。

三つ目は、これが一番大きいのではないかと思うのだが、ほぼ日手帳へのシフトが進んでいることだ。もともとたいしてスケジュールがない自分の場合、見開き1ヶ月のページで、予定のある時間を色分けして枠組みする今の書き方が意外と使いやすい。1日せいぜい1つか2つの予定であればこれで十分だし、埋まっている時間が直感的に掴みやすい。

この「直感的な掴みやすさ」が、CLIEでは難しいのだ。予定が入っているのは分かるが、それがどれぐらいのボリュームで空いている時間がどれぐらい確保できるか、というのは、CLIEの画面ではさすがに掴めない。厳密には、週単位ではある程度掴めるのだが、月単位でというのが難しく、そして今の自分には月単位ぐらいの方があっているのだ。

とはいうものの、ほぼ日手帳の月間スケジュールでは、実は時間までを入れるスペースはない。予定の詳細(きちんとした名称や場所)を入れることも出来ない。大枠で掴めるだけだ。そこで詳細をCLIEでフォローする必要が出てくる。
例えばこれを1日ページに入れるようにした場合はどうなるだろうか。今は1日ページは「その日に」開くページにしているので、先の予定を書き込むことは避けている。が、1日ページであれば十分なスペースはある。

もっとも、個人的には月間ページと1日ページを同時に開きたいことが多いので、実はほぼ日手帳以外で月間スケジュールを管理できるようにした方が都合が良かったりする。持ち歩くユニットが増えるとやっかいなので、手製のカードのようなものを用意するのが良いのかもしれない。

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2007年4月10日 (火)

食糧自給率

食糧自給率というのは、本当に自給率なのだろうか。
先週のメモに残っているのだが、ふとそんな疑問を感じた。

単純に言ってしまえば、現在の自給率が現在の食生活レベルを前提にしていた場合、その数値には自給率としての意味が本当にあるのだろうか、という疑問を感じたのだ。

もう少し厳密に言うと、自給率の向上を訴える人が考えているのは、現在の食生活を維持する前提での自給率の向上なのか、食生活を変える前提での自給率の向上なのか、という疑問だ。

前者であれば、今の「自給」率という数字の捉え方は意味があるかもしれない。しかし、後者であるなら、「自給」率ではなく「飽食」率のような形で数字を捉えた方が良いのではないだろうか。日本は贅沢であるがゆえにより自給率が低く算出されているということはないか。

国民全体の生活を最低限まかなえるカロリーを100とした時に、現在我々はどれぐらいのカロリーを消費しているだろうか。

もっとも、日本の国土が支えられる人口は本来3000万人程度だそうなので、いずれにしても自給率が100%というのは難しいだろう。自給率改善の最大の対応策は、実は人口減少なのではないか、という気がしなくもない。そう考えると、「食料自給生産に対する余剰人口率」なんて数字を出した方が良いのかも・・・。

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2007年4月 9日 (月)

パート練習の内容を組み立てる

最近左手首が痛い。想像するに、キーボードを打つときに、左手首を不自然に曲げているからだ。
クセだと思うのだが、右手は浮かせてキーを打っているのに対し、左手はパームレストに置いてキーを打っていることが多い。Let's Note R3は小さいパソコンなので、パームレストに手を置いて使おうとすると、どうしても手首を不自然に曲げることになってしまう。少し気をつけなければ・・・。

それはさておき、パート練習の予定が決まったので、練習の内容を組み立てなければならない。考えてみれば、今までのパート練習ではそういったことをやった記憶がない。予習無しで指導に臨んでも、その場の行き当たりばったりではたいしたことが出来るわけがない。反省して、改めることにする。

曲毎の内容は楽譜を見ながらでないと考えられないので、どこかで時間を取らなければならない。とりあえず、基本的にやらなければいけないことは何だろうか。

パート練習の目的は大きく二つあるだろう。

一つは技術的な問題、練度の問題をクリアすることだ。アマチュアなので、普段それほど練習時間が取れるわけではない。補習みたいなもので、出来ない箇所を弾けるようにする、というのがまずは大きな目的になるだろう。
そこで必要になってくるのは、技術的な指導だ。運指運弓に関して、ベターな方法を提示し、反復練習を行う。準備として必要なのは、問題となる箇所のピックアップと、問題解決のための手段の提示だ。

もう一つは技術にかぶってくる部分もあるのだが、気持ち的な意思統一も含めた楽譜上の指示の再確認だ。これは指揮者の指示も含まれる。これを改めて再確認しなければならないが、理解しているかという点と、実行できているか、という点がポイントになる。

これを、パート練習で取り上げる曲について、事前におさえておかなければならない。
問題は時間が確保できるかだろう。理想は自分が弾きながらチェックしていくことなのだが、正直今週もその余裕はなさそうな気がする。

とりあえず、次の日曜日のローマの松のための準備をしなければならない。楽譜を鞄の中に忍ばせておかなければ・・・(今日は持ってくるのを忘れてしまった)。

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2007年4月 6日 (金)

携帯電話のバッテリーがへたってきた

2台所持している携帯電話の、メインではない方のバッテリーがもたなくなってきた。

どれぐらいかというと・・・朝フル充電して待ち受け状態で1日過ごし、帰りの電車の中でmixiにつないで日記を書いて、2つ3つ閲覧したら切れるぐらい、だろうか。

さすがにこれぐらいになると、ほとんど使えないと言って良いだろう。幸い通話に使うのはもう一方の携帯なので、こちらで通話をすることはないが、話したらすぐに切れてしまうに違いない。

そんなわけで、鞄の中の置物と化してしまっている。

バッテリーを交換すれば良いのだが、実は解約しようかとも考えている。付帯しているサービスでこちらの携帯に付いているものとか、一年契約などの都合もあってずるずるとこれまできてしまった。もったいないことこの上ないが、あまりこういったことを気にしないたちなのだ。

仮に解約する場合、この携帯はどうしたらよいだろうか。カメラとして使うという手段はもちろんある。ボイスレコーダーや、テレビ番組の録画(ワンセグではない)もできるので、使い道がないわけではない。
ないのだが、実際に使うかとなると、また別問題だろう。

使わないのであれば、リサイクルに回して資源化した方がよい。確か、携帯には貴重なレアメタルが使われていて、貴重な資源でもあったはずだ。実は以前の携帯も使わないまま手元にあるのだが、これも処分した方が良いのかもしれない。

となると、バッテリーはいよいよ交換の必要がなくなってくるな・・・。

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2007年4月 5日 (木)

CSRレポートに記載する「ポリシー」

CSRレポートに「掲載したくない」情報というのがあるとする。
どうしても掲載したくないのであれば、それはそれでやむを得ないとも思うが、問題はその理由だ。

昨日少しチームで話したのは、「そもそもあまりやりたくない、お付き合いでの活動だったから」取り上げたくない、という理由を受け入れるべきか、というものだ。部署としてあまりおおっぴらにしたくない気持ちは分かるが、結果としての活動がある時に、「実はやりたくなかった」というのは、報告書掲載以前に意思決定としてどうなのか、という話になる。

それに厳密にいえば、お付き合いの活動であっても、「依頼があっての活動」には違いない。実は報告書上では動機はあまり関係ないのだ。これは、例えば寄付の理由が税金対策であっても、寄付という行為には違いがないからである。

むろん、行動自体に裏(隠れて脱税とか)があってはいけないが、動機は何であれ、寄付は寄付として評価されるべきだろう。そうでなければ、寄付した側だけでなく、寄付された側も貶めることになってしまうからである。

そのように考えると、CSRレポートに掲載する「ポリシー」というのは、実は企業の活動における「動機」を示すためではなく、「決意」を示すものなのかもしれない。動機は「こうしたい」気持ちだが、決意は「こうしていく」行動表明である。「こうしていく」ことに、理由は関係ない。もちろん、動機はあっても良いが、それは別に表明する必要がない。

結局、今回の取り組み事例については、「実はやりたくなかったから」という動機にもとづく理由ではなく、「以降継続していく気がないから」という決意にもとづく理由で掲載を見合わせるということにした方が良いということで落ち着いた。

掲載したくない理由はさまざまだ。ただ、活動の実態としてはあるのに掲載しない場合には、それ相応の理由がなければ、その活動は企業活動としてやましいということになってしまう可能性もある。

扱いが難しいのは「内々の話で、ことさらに言うようなことではない」といった話だ。控えめな日本人の気質にもあうので、心情的に納得してしまいやすい。

が、企業のリソースを使って行っていることであれば、その活動にはすべからく説明責任がつきまとう。公開企業であればなおさらだ。そう考えると「ことさら明かすようなことではない」というのは「隠している」と受け取られてしまう可能性もある。

これは、肝に命じておいた方が良いのかもしれない。企業の活動は、個人の活動とは違うのだ。個人の気持ちの延長や、美意識にもとづく判断が、実は企業を窮地に追い込むなんてことがあるかもしれないのだ。

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2007年4月 4日 (水)

プルトを決める

先日の練習で、今週中にプルトを決めると宣言した。今日は仕事を早めに(といっても8時だったが、まぁ早いよね)あがって、カフェにこもる。(その後マックに移動。)

今回は曲毎に結構な変動がある。以下検討のプロセス。

1.各人の希望を整理する。
これは以前まとめた通り。2名ほど希望を出していない人がいるが、仕方ない。
Aさん・・・古風な舞曲、イタリア、ローマ、マスカーニ
Bさん・・・イタリア、マスカーニ(のみ)
Cさん・・・古風な舞曲、イタリア、ローマ、マスカーニ
Dさん・・・古風な舞曲、イタリア、ローマ、マスカーニ
Eさん・・・イタリア、ローマ、マスカーニ、古風な舞曲
Fさん・・・全曲
Gさん・・・古風な舞曲、イタリア、ローマ、マスカーニ
Hさん・・・特になし
Iさん・・・古風な舞曲(特になし)
Jさん・・・ローマ、マスカーニ
Kさん・・・イタリア、古風な舞曲、ローマ
Lさん・・・希望なし
Mさん・・・希望なし
自分・・・希望なし?

2.各人の出席状況を確認する。
単純な出席回数ではなく、指揮者が来た日とそれ以外では若干ウェイトを変えてある。

21P・・・自分 Cさん Fさん Bさん
19P・・・Aさん Eさん Jさん
16P・・・Kさん Lさん
15P・・・Gさん
14P・・・Dさん Mさん
13P・・・Hさん
 7P・・・Iさん

ちなみに曲毎の出席状況はカウントしない。それを認めてしまうと、「自分の弾きたい曲だけ」練習に出るということが発生するからだ。そのため場合によってはほとんど練習に出ていない曲にあたるということも可能性としてはあるのだが、基本は希望に沿う形で決めるのだから、「練習にでていない」という言い訳が通じるわけがない。

3.その上で、ポイントの多い人から「全乗り」「「3曲」「2曲」と決める。
「全乗り」を減らして全員3曲以上、ということも考えたが、今回はそれでは入れ替えが複雑すぎて手に負えないと判断した。もっとも、すでに今の時点でも相当複雑ではある。なお、本人の希望で2曲という場合もある。

21P・・・自分(4) Cさん(4) Fさん(4) Bさん(本人の希望により2)
19P・・・Aさん(4) Eさん(4) Jさん(本人の希望により2)
16P・・・Kさん(3) Lさん(3)
15P・・・Gさん(3)
14P・・・Dさん(2+別の楽器の予定1) Mさん(3)
13P・・・Hさん(2)
 7P・・・Iさん(2)

こういった決め方は不公平だろうか。しかし一方で毎回出席している人とそうではない人を同じように扱うのも違うような気がする。単純に技術や年の差だけでは決められないのが難しい所だ。

あと、当然ながら以降の出席状況を加味することは出来ない。実は以前、同じように決めたとたんに出席状況が逆転するという事態が発生したこともある。もちろん不可抗力だが、こればかりはどうしようもない。

4.各曲の中でプルトを決める。
各曲の人員配置が決まったら、プルトを決める。なるべく席の変更がないようにしたいが、こればかりはなんともしがたい面もある。それでも、前半後半それぞれの中での席替えはなるべく避けるように配置してみた。

マスカーニ(6プルト12人)
自分 Cさん
Fさん Gさん
Bさん Aさん
Kさん Dさん
Eさん Mさん
Hさん Jさん

イタリア(5プルト10人)
自分 Cさん
Fさん Lさん
Bさん Aさん
Kさん Dさん
Eさん Mさん

古風な舞曲とアリア(4プルト8人)
自分 Cさん
Fさん Aさん
Eさん Lさん
Iさん Gさん

ローマの松(6プルト12人)
自分 Cさん
Fさん Aさん
Eさん Lさん
Iさん Gさん
Jさん Hさん
Kさん Mさん

なんというか、とても憶えきれない気がする。各人の責任で座る位置を憶えてもらわないと、当日聞かれたりしても答えられない。

それにしても、他のパートやオーケストラではどのようにプルトを決めているのだろうか。

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人間この弱き者

上司の勧めがあって、山本七平氏の「日本はなぜ敗れるのか-敗因21ヵ条」(角川oneテーマ21)を読んでいる。トヨタの奥田氏が幹部に「ぜひ読むように」と勧めたという本だ。
小松真一氏の「虜人日記」をベースに、日本が太平洋戦争に何故敗れたのか、日本人はどんな民族かを論じている。

なんというかハードな本で、何度か読み返さないとコメントするのが難しい。読んだままにその通りだと首肯しても、いやそうではないと反論しても、山本氏の批判する日本人像の典型になってしまうのような気がして落ち着かないのだ。普段こういった本を読み直すことはないのだが、一度整理して考え直すだけの価値はあると思う。

それはさておき、今日読んでいた箇所で考えさせられるフレーズがあった。第九章「生物としての人間」にあるこんな一節だ。

「あらゆる生物が、環境の激変で死滅するように、人間という生物も、ちょっとした変化であるいは死に、あるいは狂いだし、飢えれば「ともぐい」をはじめる。そして、「人間この弱き者」を常に自覚し、自らをその環境に落とさないため不断の努力をしつづける者だけが、人間として存在しうるのである。」

これはとても深い話のように思う。安直にそうだと認める程度にしか、自分も深く考えていないのだが、もし今の日本におけて、食に対する考え方に問題があるとすれば、この視点が欠けていることではないか。それも日本という規模ではなく、全世界という規模での視点だ。

今の我々は「強き者」の視点で食を語っていないだろうか。食の安全安心という言葉、こだわりという言葉、品質という言葉は、「弱き者」の考えだろうか、「強き者」の考えだろうか。

まとまらないのだが、メモとして残しておくことにする。

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2007年4月 2日 (月)

季節の変わり目に鞄を変える

暖かくなってスーツのみとなったので、鞄を変えた。新しい鞄ではなく、以前使っていた鞄ではあるが・・・。

スーツの上からコートを羽織る冬場は、背負うタイプの鞄にしている。これが一番楽だし、背中が暖かいからだ。ただ、コートを脱ぐような季節になってくると、逆に熱くなり汗をかいてしまう。さらにスーツの脇がすれてしまうため、普通に肩にかける鞄に変更する。

昨日の夜に中身の詰め替えをしたのだが、困ったのは鞄の容量が違っていて、新しい鞄にはモノがあまり入らないことだ。
少なくとも、これまでなんとなく鞄に入れっぱなしだった紙の束(資料類)は持ち歩かないようにしなければならない。まぁ整理のための良い機会とでも考えよう。

季節が変わったので(気分の中では、4月からは寒かろうが暑かろうが、季節が変わる)色々とやらなければならないことがある。

まず、スキーの道具を手入れして片付けなければならない。結局今シーズンは4回しか行けなかった。ブランシュたかうやま、白樺高原国際、かたしな高原、信州野麦峠だが、ピークの頃に比べると随分と回数が減った気がする。気持ちが薄れてきているのかもしれない。

あわせて車のタイヤを履き替える。洗車も一度きちっとやった方が良いだろう。

冬のコート類も手入れをしてしまう必要がある。秋冬物のスーツはまだしばらくお世話になるが、プライベートの冬服類は少しずつ切り替えていかなければならない。

このあたりの季節の切り替えは、毎年以外とおざなりにしていたのだが、できればきちんとしたいものだ。思い切って保管場所を部屋から実家に移してしまっても良いのかもしれない。先日のモノを処分するではないが、スペース的な余裕も出来るかもしれないし・・・。

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