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2007年5月31日 (木)

松岡氏の自殺をどう評価するか

松岡農水相が自殺したことは、どう評価されるべきなのだろうか。
死者についてとやかくいうのは、日本ではあまり良いことではない。でも疑惑云々ではなく、教育改革に力を入れている安倍政権だからこそ、とても気になるのだ。

松岡氏の自殺は、子どもへの教育上どんな影響があると考えるべきだろうか。
いじめで自殺をしてはいけないというメッセージを発している大人として、彼の死をどう捉えればよいだろう。

まず気になるのは、彼が「いじめられていたか」どうかだ。もちろんこれは大人のロジックで考えてはいけない。

理由はどうあれ、彼が周囲から注目され、追いつめられていたことは確かであり、そもそもマスコミの論調もそういったことを苦にしての自殺といったニュアンスがある。これは、外面的にはいじめの構造に似ている。

これが自殺の引き金になったのだとすれば、大人の「いじめられても自殺してはいけない」というメッセージは説得力を失う。
さらにいえば、「いじめは絶対にいけない」というメッセージさえ力を失うことになる。大人は「いじめていた」ことになるからだ。

次に気になるのが、彼に自殺以外の「立ち向かう」「逃げる」といった選択肢があったかどうかだ。

これは今回の事件の今後の評価による。もし死ぬ以外の道がなかったといったニュアンスで評価されるのだとすれば、これまた子どもにたいしての「自殺以外の選択肢がある」というメッセージが力を失うことになるからだ。

思うに、松岡氏の自殺については、これ以上注目せずに、言葉は悪いが「黙殺」するしかないのではないか。

淡々と自殺は自殺として扱い、彼が抱えていた疑惑とはきっぱりと切り離し、疑惑は疑惑として追及する。自殺したことで追求がうやむやになるのであれば、「死がすべてを解決する」なんてメッセージになりかねないし、そもそも疑惑の追及というのは「個人を責めること」で成り立つのではなく、「問題の構造を明らかにする」ことが目的のはずなのだ。

林道談合ではもう一人キーマンとされる人物が自殺している。
なんというか、大人がこんな状態なのに子どもにたいして「自殺はいけない」なんて、どんな顔をしていうのだろうか。

教育再生会議のメンバーは、そういった見地から今回の自殺に対して、何らかの評価とメッセージを出すべきではないだろうか。

子どもに「自殺をしてはいけない」という前に、まず大人が自殺をしてはいけない。これは本人の意思や判断の問題ではなく、社会としてそういう構造を作り上げなければいけないのだ。

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2007年5月30日 (水)

大学生の会話

昨日の夜おはちで食事をしていたときに、隣に陣取った5人の大学生らしきグループ(男2名、女3名)から聞こえてきた言葉。

  • コミュニティ・オブ・プラクティス
  • 学習する組織
  • リッツカールトン
  • ソーシャルキャピタル
  • イノベーションする組織
  • EQマネジメント
  • グラミンバンク
  • ウェブ2.0

メモに取れたのは以上だが、これは自分の耳に届いた、つまりまがりなりにも知っていたキーワードだからであって、聞き取れないキーワードもあった。

会話の様子から察するに、ゼミでの研究テーマなどを話し合っているのだろう。時間は午後10時ぐらいだからなかなか熱心である。(お酒を飲んでいる訳でもないしね。)

さて、こういった言葉一つ一つに分かりやすい解説を加え、対する自らの考えを述べることが、ビジネスマンとしてできるだろうか。彼らの学生らしい語り口には、まだビジネスの現場を知らない若者らしい熱意があるが、彼らにきちんと答えられるだけの勉強を自分はしているだろうか。

そんなことが気になった。

「コミュニティ・オブ・プラクティス」なんて、自分が5年も担当していた分野での書籍だが、恥ずかしながら読破していない。ある程度内容は把握しているつもりだが、彼らのうち一人は少なくともこの本を読んでおり、その内容を仲間内に語れる程度には理解しているのだ。

もちろんこうした学問的な話が、実際の仕事の現場でどれだけ通じるかというと、それはまた別の話だ。ただ、それをもって「現実は違う」と彼らを突き放すのではなく、そういった理屈を理解した上で、現実をきちんと「理屈として」説明できることが必要だろう。

そういった努力を自分はしているだろうか。

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2007年5月29日 (火)

iPodってどうよ

Macに関してはすっぱりあきらめるとして(やはり重すぎる)・・・。
そうなるとCDを整理するための次の選択肢は、デジタル音楽プレーヤーである。

今使っているのは、SONYのネットワークウォークマン。20GBのハードディスクモデルだが、もちろんこれでは手持ちのCDをある程度の音質で全部入れるには足りない。(元々はそこが出発点だ。)
今手持ちのパソコンに入れるということも考えたが、現在使っているLet's noteの40GBをフルに使っても、多分足りない。

60GB以上の容量を持つデジタル音楽プレーヤーは、コンポ型のものをのぞけばほとんど選択肢がない。

  • iPodの80GB
  • gigabeatの60GB
  • ZENの60GB

ぐらいだ。

gigabeatなどはワンセグを受信できるモデルもあるが、今のところそういった機能は必要ない。(というか、他の用途にも使うのであれば、60GBではなくやはり80~100GBぐらいは欲しい。)
そんなわけで余裕を見るのであれば、iPodの80GBモデルということになるだろうか。80GBとなるとこれぐらいしかない。

ただし、問題もある。パソコンを新調しない以上、外付けのハードディスクを使うか、プレーヤーに転送したはしからパソコン側から消していくしかない。しかしiPodの場合、パソコン側の音楽が消されてしまうと、同期の際にiPod側の音楽も消えてしまうのだ。(ちなみに今使っているSONYのモデルは消えない。)

調べてみると、手動でシンクするというやり方であれば(手間はかかるにせよ)そういった問題は起こらないようなのだが、一方で何か障害が発生した際に「復元」という処理をすると、初期化される形でiPod内の音楽が消えてしまうため、再度録音し直す必要があるようだ。

それはそれで面倒なので、そうなると外付けのハードディスクを使うしかない。いずれにせよ録音するには外部機器を接続しなければならないし、まぁそれが妥当なところだろう。あとは、現在のSONYをどう使うか・・・iPodをクラシック専用にして、それ以外をSONYにするという方法はあるかもしれない。クラシック以外であれば、まぁそれほど高音質が必要というわけでもないだろうし・・・。

そういえばiPodの音飛び問題ってどうなったんだろうか。以前購入を断念したのは結局それが大きな問題だったのだが、やはりファイルサイズが大きくなると飛んでしまうのだろうか。気になるのはそれぐらいだろう。

それにしても、最近やたらと物欲ネタが多い。真面目な(?)ことを考えている余裕が日中ないためではあるのだが・・・。

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2007年5月28日 (月)

スケジュールの管理

最近スケジュールの管理がぐちゃぐちゃに混乱している。そもそもスケジュールを管理するためのツールがバラバラになってしまっているのだ。

  • CLIE
  • ほぼ日手帳
  • 会社のスケジューラ(Notes)

このあたりまででも十分多すぎて混乱しているのに、

  • Googleカレンダー
  • Yahoo!カレンダー

まで意味もなく追加されていて、どれが何やら分からなくなっている。入力内容も少しずつ異なったりしている。

理由はCLIEからの脱却を図ろうとしていることにあるのだが、どうにもしっくりこない。ほぼ日手帳はスケジュール管理以外では役に立つのだが、スケジュール管理だけはどうしても紙になじめないのだ。理由は比較的シンプルで、スケジュールは量が一定ではない(時間は一定だが、入る予定はそうではない)ので、紙の手帳の画一的なスペースではどうしても不都合が生じてしまうのと、変更が面倒というものがある。

結構長期というか、先の予定を入れておくことも多いのだが、直前の変更やらが発生して混乱するのだ。一般的にはそういった場合は前の予定も記録として残しておくことが良いと言われているが、個人的にはそれには特に有意義な効果は感じられない。

結局はCLIEが一番向いているということになるのだろうか。
怖いのは、すでに後継機がなく、今使っているものが壊れたらどうなるのか、ということだ。すでにバッテリーは大分へたってきており、電源OFFのスイッチが作動しなかったり、寿命を感じさせる傾向は出てきつつある。

目の前のことだけを考えればCLIEにしておけば良いのだが・・・まぁ、壊れたらその時はその時ということで使い続けるという方法はある(笑)

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2007年5月25日 (金)

Macっていい・・・かも?

先日「Macっていいかも」と書いたのだが、どうにもMacが頭を離れない。いやいや冷静に考えろ、という気もするのだが・・・。

冷静というと語弊があるかもしれないが、少し整理してみる。
もっとも、正直に言えば、Macのことはほとんど分からないと言っていい。だから、カタログのスペックとかを見ても、どう判断してよいのか分からないのは確かだ。

ただ、はっきりしているのは、重量が一番軽いMacbookでも2.3kgを超えること。これは今のLet's Noteを2台持ち歩くに等しい。いや、個人用と会社用の2台と考えた方が良いかもしれない。

これは持ち歩きを考えると相当にきついはずだ。それが一つ。

二つめはバッテリーの持続時間。ホームページでチェックした限りでは6時間とある。これを額面通りに受け取って良いのか、それともWindowsのように少々さっぴいて考えた方が良いのか、それが分からない。正直に言えば、どう使っても5時間なら合格なのだが、これが使い方によっては3時間となると話が違ってくる。

三つめは通信関係。調べていないので分からないのだが、LAN/無線LANだけではモバイルとしては心許ない。せめてFOMAかPHSが使えなければ、今のスタイルで使うことが出来ない。少なくともFOMAの方は(マニュアルを見ると)Windowsでしか使えそうにない。
PHSの方は調べていないが、今のPHSカードが使える可能性は低いような気がする。(そもそもMacにはPCカードスロットがあるのだろうか・・・。)

四つめは周辺機器。当たり前だが今のPC周りはWindowsの環境をベースにしている。Macの場合、オールインワンで使える機能が多いようなので、それほど必要というわけではないが、といって使えなくなるのももったいない。

そもそも自分のPC周りのガジェットはソニーファミリーが多いのだ。デジタルカメラ、携帯音楽プレーヤー、PDAから携帯ゲーム機まで、およそPCにつながって独立して使える小物はソニーばかりという問題もある(PCにつながないと使えない物はソニー製ではない)。
こうした小物との連携がとれなくなってしまうのは少々つらい。(まぁ今のPCを捨てるわけではないだろうから、そちらと連携すれば良いという話ではあるのだが・・・。)

五つめは・・・そもそもMacがどれぐらい自分にとって「使える」のかが分からないことだ。当然これまでのソフトを使うのは難しい(特にNotesが使えなくなるのは痛いかも)のだが、同じようなことができるのか、そのあたりがまったく分からない。起動時間とかレスポンスとか、使ってみなければ分からないことが多いというのは、ぽんと踏み込むには勇気が要る。

・・・そこまで迷うなら、おとなしくvaioにしておけという気もするが(新しいvaio-Tなんて悪くない)、どうにもMacのデザインが頭から離れないのだ。ああどうしよう・・・。

そうそう、それと安いんだよね。MacbookにiPodを買っても、vaioよりも安い。これまた迷ってしまう理由ではある。

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2007年5月24日 (木)

練習時のプルトの調整

プルトの希望は、案の定というか幻想に集中してしまった。これでは参考にも何もならない・・・。
とりあえずは過去のプルトなどを参考に決めていくしかない。あと問題はその時間を今日取れるかということか・・・このところ仕事が忙しくてなかなか夜の時間が確保できないのだ。

それはさておき、プルトを決めたといっても、アマチュアには「練習に参加する権利」もあるというのが自分のポリシーである。プロは演奏して金をもらうが、アマチュアは金を払って(団費を払って)演奏する。本番に制限があるのは仕方ないとしても、練習に参加して音楽に触れる、あるいは指導者の音楽性に触れる機会まで奪うわけにはいかない。

一方で、オーケストラのパートとしてのバランスもある。もともとアマチュアにしては人数が格段に多い今のチェロパートがフルに出席すると、明らかに全体のバランスが崩れてしまう。それは指揮者にとっても失礼だ、というのも、今回プルトを早急に決めた理由になっている。

(前回は直前まで自由に練習に参加させていたのであまりの多さに苦笑されたことがある。バランスを考えなければいけない指揮者としては、やはり本番の編成ではどうなるのかを知りたいところではあるだろう。)

両者を満たすにはどうすれば良いだろうか。
事前に出席状況を把握して調整するしかない。実際管楽器はそういったことが要求されている(もっとも元々の人数が少ないので結局無理なことも多いが)。

前の週の段階で欠席者を把握し、空いている席で練習したい人を募って次の練習までに割り当てる。そういった流れをきちっと確立できれば、人数的なバランスを崩さずに練習に参加できる機会を増やすことができるだろう。もちろん、そこまでしなくてはいけないのは本番の指揮者が来る時ぐらいで、それ以外の練習は制限無しでも良いのだが。

ただ、実際にやるとなると手間も多い。自分にそれが運営していけるかどうかというのは、とても不安だ。
こういうのを誰かにお願いすることって、できるだろうか・・・。

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2007年5月23日 (水)

環境問題はなぜウソがまかり通るのか

昨日は仕事で遅くなってしまったので、楽譜の製本が出来なかった。今日こそやらなければ・・・。

職場で回覧されてきたので、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」(竹田邦彦/洋泉社)を読んだ。詳しい数値の検証はさておき、ざっと読んだのだが・・・。

「環境問題は」なぜウソがまかり通るのか、というよりも、「この世の中は」なぜウソがまかり通るのか、という感じの内容というのがその印象だ。たまたま環境問題を取り上げただけで、基本的に本書で描かれているウソの構図は、環境問題に特有の問題という感じではない。
一番大きな主張は、メディアによる故意の誤報と、業界に潜む利権の構造の問題なのだが、これは環境問題だけに存在する話ではないからだ。

そういった視点で読むのであれば、この本で書かれている内容が「故意の誤報」と同じ構造を備えているかもしれないということは頭の隅に入れておいた方が良いだろう。

例えば最初の章にはペットボトルのリサイクルについて書かれている。ペットボトルのリサイクルが進むことによって、逆に大量消費に拍車がかかったということが主張されている。実際データで見ても、リサイクルのための回収量がふくらむにつれて消費量も伸びていることが提示されている。

だが、ペットボトルの消費量が伸びることで回収量が増えるという関係ならまだしも、回収量が増えることで消費量が増えるという関係があるというのは少々無理があるだろう。リサイクルがペットボトルを使うことの「免罪符」になる側面はあるにしても、本質的な原因はペットボトルが便利だから消費量が伸びたのであって、リサイクルされたから伸びたなんてことはないはずだ。

そういった部分が、巧妙にすり替えられている、という印象は否めない。

ただ、だからこの本に問題がある、というのは少々早計で、特に環境問題のような「右向け右」に流れているようなテーマには、こういった異論はむしろ必要だろう。科学的なモノの見方というのは、絶対の真理があると考えるのではなくて、常に反証の可能性があると考えることだそうだが、環境問題を宗教の問題ではなく科学の問題にするためには、こうした反論もなければ成り立たない。

ちなみに個人的に気になってしまったのが、環境問題について科学的に論じていたはずが、最後の最後で「日本人の美点を取り戻せ」という情緒的な主張になってしまっていることだ。環境問題の是非を論じながら、日本人のあり方を問う。そう思って読むとまた少し違った見方ができるかもしれない。

「日本ではなぜウソがまかり通るようになってしまったのか」ということが、本来の主張かもしれないのだ。
日本人が昔はそうではなかった、というのは、個人的には「本当かなぁ」とも思うのだが・・・。

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2007年5月22日 (火)

次回演奏会に向けての今週の作業

最近、「Macっていいかも」などと感じるようになった。考えてみれば、自宅のPCがWindowsでなければいけない理由というのは意外とないのだ。しかし問題は2kgを超えるMacBookの重量。倍以上の重さは正直キツイ・・・。

それはさておき、次回の演奏会に向けて今週やっておかなければいけないことは多い。
昨日ちょっとだけ思いついたものをリストアップしてみたのだが・・・、

  • プルトを決める
  • 楽譜を製本する
  • ボーイングを仮決めする
  • 譜読みをする
  • 練習計画を作成する
  • CDを作る

といったところだろうか。このうちCDの作成と練習計画はまぁ今週でなくても良いのだが、やっておかないとずるずるとやらないで過ぎていってしまうので、できればやってしまった方がいい。

プルトを決めるのはすでにパート内に希望を聞く通知を出した。水曜日までで一旦締めるので木曜日に決めてパート内(とコンサートマスター)に知らせなければならない。今週やらなければならないことの中では、一番気が重い作業だ。

楽譜の製本は、個人練習用のコピー譜の製本(オケ用には購入した物がある)のことだが、昨日で大半の作業は終了している。今日仕上げができるだろう。

練習計画はとりあえずパート内の譜読み用の時間と場所を確保しなければならない。オケ全体の譜読みは5/27、6/3、6/10で行うので、その中の1日の午後をあてる必要があるだろう。
内容はゆっくりとボーイングとフィンガリングの確認をすることになるが、そこで問題になるのが、

  • ボーイングを仮決めする
  • 譜読みをする

だ。結局、自分の練習時間をどう確保するかがポイントになる。練習計画の作成というのは、自分自身の練習も含んでいるのだ。

もっとも、パート練習をするにしても実際には27日は無理(確保と調整が間に合わない)なので、3日か、10日かということになる。オケの練習上は、3日は双方の曲をやる予定なので、この日が良いかもしれない。とりあえず場所が確保できるか、打診をしておくことにする。

自分の練習は・・・26日はタイヤの交換もあって実家に行くので、この日の午前中は出来そうだ。土曜日の午前中はついつい寝てしまうことが多いのだが、この間同じように練習を入れてみたらすこぶる良かったので、時々は考えてみることにしている。

その時に、少なくともラロ(スペイン交響曲)のボーイングの仮決めをしておく。ベルリオーズ(幻想交響曲)は、1stVnのボーイングが指揮者から指示されているそうなので、それを元に決めた方が良いだろう。

ちなみに次の演奏会は次のようなプログラム。

モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」序曲

ラロ:スペイン交響曲

ベルリオーズ:幻想交響曲

9月30日が本番なので、実はほとんど時間がない。
そういえば、問い合わせ先への連絡やら、アンケートの手配などもやらなければならないな・・・。

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2007年5月21日 (月)

演奏会終了

昨日の演奏会は無事終了した。途中ひやりとするところはあったのだが、まぁなんとかまとまったという感じだろうか。
4曲プロというのは結構疲れる。

で、終わったということで次の演奏会のことを考えなければいけない。
コンサートマスターからの厳命は、早急にプルトを決めること。今回の演奏会では決めるまで時間をかけたのだが、そういったことは言っていられない。

理由はプルトを決めることで、「自分の楽譜」として書き込みを徹底してもらうことだ。

確かに、自分が使わないかもしれない楽譜への書き込みというのは、当たり前だがなかなか行われない傾向がある。
コンサートマスターがこだわるのは、それだけ次回の曲は書き込みが多い(細かい指示を書き込む必要がある)曲と考えていると言うことだろう。

そんなわけで、早急に決めなければいけないのだ・・・。

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2007年5月18日 (金)

信頼というスキル

ITproの加速するネットの進化と、その果てにある“もう一つの地球”を読んでいたら、「信頼というスキル」という言葉が出てきた。

「こういうのって、阿吽の呼吸と似たところがあるよな~」と感じたのだが、もう少し考えてみると違う部分もある。

肝心なのは「スキル」という捉え方だ。阿吽の呼吸はお互いを分かり合う「関係」から生まれるものだが、「スキル」には自己完結しているような響きがある。阿吽の呼吸は相手がいて成り立つものだが、信頼のスキルは自分だけで成り立つのだ。
(だから、「知らない他人を信頼」できるのだ。阿吽の呼吸ではそうはいかない。)

自分だけで「信頼」を成り立たせるためにはどうすればよいだろうか。そのためには、まず自分自身の考えというか、自己を確立していなければならない。阿吽の関係というのは、互いに寄り添う形で成り立っている。自身を確立していないというのは言い過ぎだが、相手がいて初めて自分自身の価値基準が成り立っているという側面があるのは間違いない。

乱暴な捉え方かもしれないが、信頼のスキルというのは、そういった他人が介在する要素がないのではないか。相手がどうであれ、自分自身が確立しているから、逆に相手を信頼できる・・・そういうことではないだろうか。
自分が確立しておらず、他人に寄って立っているのであれば、自分の一部を預けることになるから、おいそれとは信頼できない。相手に預ける部分がないから、逆に信頼できるということはないだろうか。

などと考えていたら、そういえばこれは音楽のアンサンブルと似たようなものではないかと思いついた。アンサンブルのハーモニーは、究極的には相手の音を聞き、感じ取りながらではだめな部分がある。完璧(という表現が適当かどうかは分からないが)なハーモニーは、それぞれがそれぞれの出すべき音を出すという信頼に基づいて、自分の音を完璧に出したときに、結果として成り立つのだ。その時、互いに寄りかかる要素は全くない。

もちろん、現実にはそれではアンサンブルは成り立たないことも多く、実際にはお互いを聞きあうということが必要になってしまうのだが、おそらく本当のハーモニーが生まれる瞬間というのは、そういった「他にあわせる」ことなく互いが寄り添った瞬間になのだろう。

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2007年5月17日 (木)

セカンドライフの歩き方

昨日iUGで知り合った人とセカンドライフで人を集める方法を話し合ったときに思いついたアイデア。

・ジブリ美術館や旭山動物園のように、関心は強くても簡単には足を運べないような場を、高い臨場感のある3Dの場として用意し、バーチャル見学できるようにする。ただし、ただ個々が見るだけでは意味がないので、来訪者同士がその場でコミュニケーション出来るようにする。

・さらにリアルに訪問したことのある人や、隠れた魅力を知っているような人がツアーコンダクターとしてナビゲートする。ファシリテーターの役割も兼ねて、参加者同士がコミュニケーション出来るようにする。

・場の提供者は、リアルほどではないにせよ入場料を取る。ツアーコンダクターも、案内料を取って良い。

考えてみたら、この「ツアーコンダクター」というのはビジネスになるのではないだろうか。マニアがボランティア的に魅力を語るのではなく、ビジネスとして案内するのだ。

ポイントは「リアルでしか知り得ない情報」「バーチャルでしか知り得ない情報」を提供することだ。

上記のようなジブリ美術館や旭山動物園であれば、バーチャルの場だけでなく、リアルでしか知り得ない(それも関係者に話を聞かなければ分からない)ような話をする。オリジナルのコンテンツであれば、クリエイターから聞いたこだわりなどを紹介する。一方でバーチャルでしか知り得ない情報も提供すれば、リアルを知っている人にも関心を持ってもらえるだろう。

単に自分の知識を披露するのではなく、あくまでも来訪者の視点にそった「案内」をすると考えれば、これはそういったサービスのプロフェッショナルが活躍できる領域になる。リアルとバーチャルの橋渡しをする水先案内人というわけだ。

ツアーの参加者は、ツアーコンダクターに対価を払う。ツアーコンダクターはその一部を場の提供者に払う。あるいは来訪者を集めたい場の場合は、逆にツアーコンダクターに紹介料を払う。
セカンドライフの「歩き方」を伝えるハブのような存在になれれば、それなりに稼げるのではないかという気がする。
(ただし、楽しては稼げない。セカンドライフ内のコンテンツに精通するだけでなく、リアルな世界にも通じていなければならないからだ。ただ、楽して稼げるビジネスというのは誰でもできるボランティアの延長であって、それでは意味がない。)

さらに一方的に紹介するのではなく、参加者同士のコミュニケーションを活性化するような仕掛けがあるといい。参加者同士が世間話を出来るようになればたいしたものだ。

セカンドライフのような場の敷居が高い理由の一つに、「何をしたらよいか分からない」というのがあるだろう。世界が広大になってくれば、魅力に気がつかないまま終わってしまう場合もある。そういった人の参加の入り口として、こうしたツアーコンダクタービジネスというのは意味がある気がする。

もっとも、最終的にはパソコンに頼っている間は、こういった需要を喚起するのは難しいかもしれない。入り口のインタフェース部分をWiiやPS3のような家庭用ゲーム機や、それこそテレビで気軽にアクセスできるようになって、初めてそういったサービスが必要になってくるような気もする。

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2007年5月16日 (水)

赤ちゃんポストへの批判

熊本の病院に設置された赤ちゃんポストに、新生児ではなく3歳児が預けられたとかで、保守系の政治家がそれみたことかと批判を強めているそうだ。

・・・批判されるべきなのは彼らだと思うのだが。

今回の問題は、現実に今目の前にある問題が表面化しただけだ。厳しい言い方をすれば、赤ちゃんポストへの批判というのは、その現実を見つめたくないという逃避行為にすぎない。臭い物にふたをして見えなくすれば、それがなくなったものとしてしまう幼稚な精神構造があるような気がしてならない。

今回の3歳児が投げかけた問題は次のようなものだろう。

・新生児に限らず、親から手放されてしまう子どもがいる
・それに対して、社会にそれを受け入れる基盤がなく、家庭や個人の倫理をうたうばかりで行政は何もできていない

大切なのは、家庭の崩壊を防ぐとかそういった問題ではない。現実に親から見放される子どもをどう救い育てるかだろう。親を批判するのは簡単だが、それだけで終わってしまえば、それは現実に親に見放された子どもを、社会として見捨てるということだ。そういう自覚があるのだろうか。

本来親を批判することと、子どもを受け入れることとは別問題だろう。親を批判することとは別に、子どもをどうするかを考えなくてはならない。これを一緒くたにして考えるというのは、実は子どもは子供という親の供であり所有物にすぎないという意識の表れではないか。

子どもにしてみれば、親に虐待されたあげく殺されるよりも、ずっとましなことかもしれないのだ。
国の考える家庭のあり方や倫理のために犠牲になるなんて、まっぴらごめんだろう。

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2007年5月15日 (火)

企業が得るのは利益か、対価か

昨日は部署内で勉強会があったのだが、その中で最近行政がNPOと協働する事例が増えているという話があった。そのためのガイドラインなども整備されているという。

そういった動きは決して悪いものではないと思うのだが、一方で少し気になったことがある。
なぜ、そのサービスをNPOではなく、企業に依頼するのではいけないのか、という点だ。両者には目に見える大きな違いがある。それはコストの違いだ。

そういったことは想定されているらしく、用意された担当者向けのQ&Aでは、NPOとの協働においてそういったコストダウンの視点を前面に考えてはいけない、という戒めがあるようだ。あくまでもNPOの持つ専門性を活かすのが目的であって、コストのかからないアウトソースではない、と。

・・・だったら、NPOに対しても企業並みの対価を払うようにすれば良いと思うのだが。

企業は良くサービスや製品の提供に対して「利益を得る」というが、これは間違いだ。企業がステークホルダーとの取引で得ているのは、そのサービスや製品に対する「対価」である。その対価の中でやりくりして、企業が内部的に生み出すのが利益であって、取引の中で生まれるのは決して利益ではない。

(もう一つ重要なのが、対価というのは決してコストの積み上げではないという点だろう。対価は提供されるサービスとそれに対する評価で決まるもので、その裏にあるコストは、サービスの質に関係はしていても、決して対価と相関関係にあるわけではない。)

NPOやボランティアという存在で気になるのは、彼らは自らの提供するサービスに対して「対価」を得る気があるのか、ということだ。利益は内部的な問題だから、別に利益がいらないというのならそれでも良いだろう。でも、対価もいらない、ということになると、そもそも取引において不当に安い対価を提示するダンピング行為と同じになってしまわないか。

NPOやボランティアの名のもとにそういった行為が行われたら、社会の経済活動そのものが立ち行かなくなるということにならないだろうか。企業が取引拡大のために行おうが、ボランティアが善意で行おうが、サービスに見合った対価を下げてしまうのは、ダンピングということにはならないだろうか。

寄付や補助金、税制面の優遇などがあるからといって、提供するサービスの対価を下げるというのは、やはりおかしいし、サービスの提供を受ける側は、そういったものに飛びつくべきではないと思うのだ。

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2007年5月14日 (月)

いまさらのような気もしますが、演奏会の案内など

今週末なので、いまさらのような気もしますが、最後のあがきということで演奏会の案内など。

府中市民交響楽団第55回定期演奏会
日時:5月20日(日) 13:30開場 14:00開演
場所:府中の森芸術劇場どりーむホール(京王線東府中駅徒歩7分)

曲目(曲順):
マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」前奏曲
メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」
レスピーギ:リュートのための古風な舞曲とアリア 第3組曲
レスピーギ:交響詩「ローマの松」

指揮:森口真司
演奏:府中市民交響楽団

前売り1000円 当日1200円 全席自由

今回は「イタリアを想う」と題してのイタリアプログラム。
イタリア人の作曲家(レスピーギ&マスカーニ)とメンデルスゾーンの「イタリア」を取り上げました。

昨日は最後の練習(後はゲネプロとステリハのみ)でしたが、ようやくまとまってきたように思います。まだ少々不安な箇所もありますが、いつものことながら最後の追い込みでなんとか仕上がりそうです。

マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、間奏曲が有名ですが、今回取り上げるのは前奏曲。この歌劇はシチリア島を舞台にした三角関係から起こる決闘と殺人を描いたものですが、間奏曲ような美しさだけでなく、イタリアらしい情熱的な激しさも備えた曲です。(でもイタリアらしい情熱ってなんだ?)

メンデルスゾーンはドイツ人ですが、イタリア旅行で着想を得たといわれるのがこの「イタリア」。明るさと軽快さを兼ね備えた第1楽章の冒頭は、おそらく誰もが一度は聞いたことがあるはずです。

後半はレスピーギ。「リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲」は、ルネッサンス・バロック期の音楽を編曲した弦楽合奏曲で、映画音楽やCMで使われることも多く、これまたどこかで聞いたことのある曲が多いと思います。

最後のローマの松は、オーケストレーションの巧みさで知られるレスピーギの代表的な作品の一つ。ハープ、ピアノ、チェレスタや多彩な打楽器群に加え、ステージ裏でのソロ演奏やバンダなど、さまざまな音色を楽しむことが出来ます。

チケットはぴあでも購入できますが、ご希望の方は私にご連絡いただければご用意したいと思います。mixiを経由された方はメッセージで、ブログをご覧になった方はコメントでご連絡ください。(ブログのコメントの場合は、折り返しでメールを差し上げます。)

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2007年5月11日 (金)

土づくりより土えらび

昨日、報告書作成の関係で農家を訪問して話を聞いたのだが、よくいわれる「土づくり」についてふと感じたことがあった。

「土づくりにそこまで力を入れなくても良いような土地ってあるんじゃないだろうか。」

農業では土づくりが重要といわれる。そういった話で良く聞くのが、有機肥料などを使った土づくりの話や、化学肥料を使うと土地がやせるといった話だ。

科学的な話はさておき、感覚的なことをいえば、こういった話には二つ欠けている視点があるように思う。

一つは肥料を使おうが使うまいが、その土地の地力には絶対に何らかの限界があるだろうということだ。そして自然の状態を100とするなら、人の手で農作物を作るという行為が、その100を下回っていることは絶対にないはずだ。つまりどうやったって農業を営むということは地力に対してダメージを与えることであり、土づくりはそれを補う手段にすぎない。
そもそも人のための農作物生産自体が土地にダメージであることを前提に土づくりを考えるのと、何らかの方法が土地に対してプラスの効果を与える前提で考えるのとでは、気の持ち方が違うのではないか。

そしてもう一つは、そもそも農業に適した土地というのがあり、そういった土地を意識的に選べば、ダメージを最小限にすることも可能ではないかということだ。
農業に適した土地とはどういった土地だろうか。シンプルに考えれば昔から農業が行われていた土地は、そもそも適していたから選ばれたと考えることができる。この「昔から」というのは、まだ人口が少ない時代に人が住んでいた土地ということだ。つまり、今は畑ではなく住宅となっている所・・・それは我々の足下に眠っている土地ではないか。

もちろん、すべてがそうということはないだろう。しかし、自然発生的に集落が生まれたような土地は、もともと農業に適していた可能性が高い。そして、そういった土地は、今はアスファルトの下に眠っているのではないだろうか。我々のすみかとするために。
現在の農地は、元々は適していなかった土地へと農作物をおいやった土地なのかもしれないのだ。

関東平野が、今のような人のための土地ではなく、農業のための土地だったら・・・人間なんてどこでも生活できるし、土壌の豊かさなんて関係ないのだから、そういった土地に住んでいれば良かったのかもしれない。

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2007年5月10日 (木)

企業の利益とは何か

先日の企業の社会的責任とは責任逃れのための方便ではないのかへのコメントを読んでいて、ふと思いついたことがある。

企業の利益とは何か、というものだ。

企業は利益をあげることが求められる。これがいきすぎると色々と批判されたりもするのだが、この「利益」とは企業にとって何だろうか。企業と顧客との関係においては利益かもしれないが、この利益が株主に配分されるものだとすれば、企業と株主との関係においてはコストということにならないか。

そもそも、企業という存在そのものは利益を使うことが出来ない。再生産や拡大のためのそれは、利益とは呼びにくい。利益は、株主、経営者、従業員に配分されて、配分された側にとっては利益だが、企業にとってはそうではないはずだ。

つまり、厳密には企業自身は利益をあげたりしないのだ。企業を通じた顧客との取引で、最終的に利益を得ているのは、株主、経営者、従業員であり、相対的に考えれば顧客自身もその製品なりサービスを得ることで利益を得ているともいえる。

それぞれのステークホルダーが、企業を通じてお互いのコストとメリットを交換しているという捉え方もできるだろう。企業はそのための装置であって、そこに企業としての意思は実は存在していないのではないか。

社会的責任もそうなのだが、利益というのも、実はもっと突き詰めて考えて、細分化をしてみることも必要なのではないか、そんな気がした。企業の利益至上主義とか安易に語る前に、その実体が何なのかを考えることも大切なのではないだろうか。

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2007年5月 9日 (水)

XOOPSでCSRレポートを作成する

今日は時間がないので、アイデアのみ手短に。
XOOPSを使ってCSRレポートサイトを作成できないだろうかと考えている。

コンテンツの作成、更新、整理から、フィードバック、コミュニケーションまでをカバーするレポートサイトシステムの構築だ。詳しい機能は分かっていないのだが、それぐらいはできるのではないか。

正直に言えば、今年のレポートの作成時点で同じような構想は持っていて、制作会社にはそれとなく「アイデアが欲しい」ということは伝えていた。XOOPSというツールを提示したわけではないが、要望として、来年以降も外枠はそのまま使っていけるような仕組みを構築できないか、と。
が、残念ながら現時点でのできあがりの様子を見る限り、コンテンツの構築はしていてもコンテンツのマネジメントまでは視野に入っていないようだ。

というわけで、まずは自分で勉強してみることにする。大切なのはデザインではなく、全体の構成と使いやすさだ。レポートサイトとして考える場合の必要な機能と、その後の拡張性をまずは整理しなければならない。

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2007年5月 8日 (火)

再び頭をもたげる物欲

連休中に普段あまり使わないものを「実家」の方に運び、少し身の回りを整理した。実家に運ぶといっても、大半は単に物置として運んだのではなく、一応あちらでも使えるものとして持っていった。
(ちなみにこの「実家」は、父親が引っ越した後、今人は住んでいない。時々親族が使う、いわば「別荘」のような位置づけではある。)

  • 古いゲーム機と、ソフト(PCエンジンとPS)
  • 炊飯器
  • スタンド型のCDプレーヤー
  • コミック類
  • (これは置くだけだが)スキーとスキー靴

コミックに関しては、もう少し運び込んで整理をしたいところだ。兄弟のコミックをあわせると結構な冊数になるのだが、整理すればちょっとしたライブラリになる(笑)
ゲーム類は、ソフトがセットなのでまぁ遊べるといえば遊べる。セッティングしていないので置いてきただけだが、来客用といえば来客用だ。

出来れば、もう少し運んで身軽になりたい。大物はCDとLD。ただ、これはそのまま持って行くにはちょっと寂しい。

少なくともCDに関しては、PCに取り込んでソースは手元に置いておきたい(というか、手元においておかないと聴けないし、それでは困る)。その上で実家に置いておけば、(あちらは戸建てなので)大きな音で聴きたいときはあちらで聴くということができる。手放すには惜しいCDステレオも運んでしまえる。

ただし、手持ちの音楽をPCに取り込む環境がない。取り込めないわけではなく、音質をある程度維持して所持する枚数を取り込むには、いささか今のPCではディスクの容量が小さいのだ。(音質を落として取り込んでいるところなのだが、やはりこの音質はちょっと寂しい。)

というわけで、再び物欲が持ち上がっているのだった。音楽用に最低でも60GBを確保でき、なおかつ持ち運べることが理想だ。AV周りが充実しているとなお良いのだが、VAIOのTかGか・・・。

LDに関してはどうしようか。映像を取り込むのは(時間的に)半端な作業ではないのだが、PSPで視聴できるようになっていると嬉しいことは嬉しい。まぁでも、実家の方で観ることが出来るようにしておけば、それはそれで良いのかもしれない。(実際最近ほとんど観てないし・・・。)

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2007年5月 7日 (月)

企業の社会的責任とは責任逃れのための方便ではないか

企業のCSRをまがりなりにも担うものでありながら、最近「企業の社会的責任」という言葉がどうもうさんくさく思えて仕方がない。そもそも、企業という組織は、社会的な「責任」とやらを担える主体たり得るのだろうか。

企業というのは、便宜上法人格を与えられていたりするが、それ自体は実体を持たず、意思決定の主体でもない。意思決定をするのは、経営者であり、従業員であり、投資家であり、消費者といった一人ひとりだ。その総体が企業という組織の行動に表れるだけで、企業それ自体が意思を持っているように見えるのは錯覚にすぎない。

「企業の社会的責任」という言葉は、その錯覚を現実のものとして、かかわる一人ひとりの責任をあやふやにしてしまう魔のキーワードではないか。そんなことを考えてしまった。

ただ、だから責任を問うなとか、そういったことではない。何か問題があるのであれば、責任は問うべきだ。しかしそれはその責任を担える一人ひとりにきちっと細分化し落とし込んで初めて意味があるのではないか。一人ひとりが持っている責任を明らかにすることが大切なことではないだろうか。

CSRレポートは、多くの場合、ステークホルダーに対する「企業の責任」を記述する。消費者に対する責任、従業員に対する責任、投資家に対する責任、取引先に対する責任、地域社会に対する責任・・・責任を負い、果たすのが企業の役割で、それを受け取るのがステークホルダーという構図がそこにはある。

でもおかしくないだろうか。ステークホルダーこそ、企業に対する責任を担っているのではないだろうか。もちろんそれは企業の存続のためではなく、その企業を通じて社会に供される価値に対してだ。その価値に対して、一人ひとりのステークホルダーが担っている責任を記述するのが、CSRレポートの役割ということはないだろうか。

もっとも、ではこれをどうやって記述するのか、と問われれば、正直今は沈黙するしかない。一部ではそういった記述はある。社会に提供される価値を消費者に提供する価値と置き換えれば、消費者以外のステークホルダーの(消費者に対する)責任は、記述されていることが多いからだ。

でも例えば、人権問題に対して、企業の責任は記述されていても、消費者の関わりと責任まで記述されているケースは少ないだろう。フェアトレードに取り組む企業の姿勢は記述されていても、それを購入する消費者の姿勢の評価や、逆にそれを購入しない消費者の責任を問うような記述はないはずだ。

実際にはそこまで踏み込もうとすると、企業の立場だけでは発行することが難しい。そもそもCSRレポートは何を伝えるものなのだろうか。

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2007年5月 2日 (水)

イタリアのパート練習

・・・のメモ。

全体を通して注意したのは、音程の他に音符の長さと強弱。基本といえば基本なのだが、音符の長さでいえば四分音符と八分音符の違いや、その時の強弱記号に対する意識で実は注意点がいくつかあるのだ。

<第1楽章>
特に八分音符と四分音符の長さの違いに注意が必要な曲。意図はともかくとして細かい違いがある。見落としがちで気付けば出来るものと、かなり意識していないと難しいものがある。
・12小節目の1拍目。八分音符であることは意識しているのだが、開放弦で弾くと響きが残って長く聞こえてしまう。
・35小節目、39小節目の1拍目。これは四分音符であることを忘れやすい。ただし注意が必要なのは、特にC線で弾く場合に意識しすぎると音が強くなりすぎること。1stVnにつなぐ音なので、音色はやさしい方が良い。
・77小節目の1拍目。これは次の音への弓の動きと連動しているので、音が長くなる傾向がある。
・132小節はppからスタート。1stVnにあわせて音量を上げていく必要がある。また、音をのばした後の八分音符の動き出しが、どうしても乗り遅れやすい。
・150小節目の付点二分音符は、pということもあり音の長さが足りなくなって聞こえることが多い。
・237小節以降の四分音符は、フレーズの頭の四分音符が短くなる傾向がある。ここから256小節目までは、四分音符の長さにばらつきが出てしまうことが多い。これは弓や弾き方の都合が出ているので、意識だけでなく練習が必要だ。
・273~275小節の4拍目の四分音符。これは意識から抜け落ちがちな四分音符。同じような音形が490~493小節にもあるのだが、こちらは八分音符で違いを意識する必要がある。
・287小節の1拍目の四分音符。長さは大丈夫なのだが、Gの開放弦で弾くにしても、C線で弾くにしても、乱暴になりがちで爆弾を落としたような音に聞こえてしまう。
・397小節以降も四分音符の長さに注意が必要な箇所で、気を抜くとどうしてもフレーズの頭が八分音符のような長さ(中途半端な長さ)になってしまう。
・330小節からのffは、334小節の2拍目まで維持する必要がある。どうしてもdimがあるように聞こえてしまう。
・378小節目の1拍目は四分音符。他とパターンが異なるので、注意が必要だが、むしろその後の380小節目の八分音符をきちっと八分音符にすることで両者の違いが際だつ。387小節からも違いを際だたせるような意識が必要だろう。
・405小節目からのフレーズは、フレーズの最後の四分音符がどうしても短くなりがちになる。また、アクセントが2小節目の頭ではなく、アウフタクトに入ってしまいやすい。
・476小節からのパターンは、それまでの同じフレーズのパターンと違って、頭が八分音符になる。これも違いを意識することが必要。堅めに弾くと考えれば良いだろう。
・494小節にあるfは、fに上がるのではなく、ffから下がって若干落ち着くところ。そこからまた音量を上げていく。(パート譜には指示はないが、496~497にかけてはCresc.とstringがかかっている。)
・500小節からのパターンは、四分音符は長めにたっぷりという指示があった。華やかさを出すためだろう。
・534小節のアウフタクトは、mfではなくmpからスタートしてsempre cresc.の効果を出す。特に付点二分音符と四分音符のタイの音で音量を持ち上げていく必要があるので、かなりつらい。

<第2楽章>
・冒頭は弓を浮かせ気味(軽く飛ばし気味)で、中弓から先で弾く。元弓の方だと音に芯がありすぎるからだ。淡々と弾くことが重要だが、気を抜くと走るので、裏打ちになるアップボウでリズムを刻むように意識すると良い。
・27小節の1拍目は四分音符。ただ、これもC線で音を出すため、野太く乱暴な音になりやすいので注意が必要だ。
・46小節からは弓の使い方に注意が必要。例えば、最初をpだからと先弓で始めてしまうと、元に持っていこうとして音量が上がるか、sfが出せなくなる。中弓ぐらいから始めた方が良い。
・55~56小節のcresc.では、付点四分音符で減衰しないことが重要。
・58小節のsfはかなり思い切って入る必要がある。
・97小節のpは少し大きめに入らないと、その後のdim.の効果が得られない。

<第3楽章>
・この曲に限らず注意が必要なのだが、C線の音がフレーズの中に出てきたときに、どうしても音が太くなり浮きがちになる。難しいのだがこれは意識して練習するしかない。
・24小節の<は思い切ってやって良い。ダウンボウなので、思ったほど大きくならない。
・49小節のpは、その前はfである。その前にdim.しがちなのだが、少し意識して音量を維持しておかないと、エコーの効果が薄れてしまう。
・63小節の3拍目からの八分音符だが、最初のE→Aの時にAの音が強くなり浮いてしまう。これは指が絡まったりする要素もあるので、実は練習が必要な部分。
・70小節からの<>は1stVnの旋律をかき消さない程度の盛り上がりが必要。聞こえなくなったら問題なので、耳を澄ます必要がある。196小節からも同様。
・パート譜では、93小節の位置が間違っているので注意。
・その93小節からのパターンだが、フレーズ最後の二分音符は、二分音符分きっちりとのばし、減衰のない箱形の音にするという指示があった。
・124小節のダブルバーの後の旋律については言わずもがな。ベースも一緒だが、チェロが音色を担っているのはいうまでもない。

<第4楽章>
・最初はf、2小節目の3連符からはff。両者の違いが明確になるとかなり格好いい。
・44小節からはpp。21小節の頭はsfだが、以降はppに戻る。26小節でベースが加わるとpだが、むしろその後のcresc.で、30小節目までにffに持っていくことが重要。
・34小節、38小節の1拍目の四分音符は、フレーズの頭ではなく、その前からの終わりの音と考えた方が良い。2拍目からがフレーズのスタートと思って弾かないと少し間抜けに聞こえる。
・44小節のfは、全曲を通じてもっとも忘れがちな音量の変化。fに上がるのではなく、fに下がる、つまり少し落ち着きを取り戻す所である。大体において、弾きやすさも手伝ってここでボルテージが上がってしまっていることが多い。
・50小節は、パート譜にはないが<の指示があった。51小節のffに向かって持ち上げていく。
・91小節、96小節の1拍目の付点四分音符は長めの音を維持する。決して抜かない。
・115小節からは、走らないように注意が必要。当団の1stVnの前に座っている3人は、どんなに速くても弾いてしまうし、彼らだけでもパートとしての音を維持してしまうパワーがある。その結果走って困るのは、後で同じようなフレーズを弾かなければならない我々である(笑)
・175小節からの3連符のフレーズは、実は完全な先弓ではなく、少し余らせてスタートすると良い。6拍分をひと弓で弾く弓の使い方で、最初だけ4拍分だからだ。
・最後はfまでしか音量は上がらない。つまり、cresc.はするが、若干落ち着いた形で終わるということ。

イタリアは最終的にどれぐらいのテンポで弾けるかが、曲の持つ軽快感につながってくる。難しいのは、「必死さ」が見えてしまうと、どんなに速くても苦しげに見えてしまって意味がないということだ。余裕を持って弾くために、一度限界の速度に挑戦してみるということがあっても良いのかもしれない。

また、先日の分奏で気付いたのだが、やはりチェロが5プルト(今回は5プルトで構成)というのは、この曲には重いようだ。今からプルトを減らすのは難しいので、各人が周囲に耳を澄ませて弾く必要がある。(当たり前といえば当たり前だが。)
特に難しいパッセージは適度に間引きされる(笑)のだが、簡単なところほど気がゆるんで大きくなりやすい。これは注意が必要だろう。

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2007年5月 1日 (火)

俺は、君のためにこそ死ににいく

「特攻隊員から母のように慕われた鳥濱トメさん。彼女に聞かせてもらった隊員たちの真実の声。過酷な時代を生きた、美しい日本人の姿を残しておきたい。石原慎太郎」

最初に断っておくと、自分はこの映画を観ていない。ただ、冒頭の石原氏のメッセージを読んだだけなのだが、そこでふと考えてしまった。

「確かに彼らは美しいかもしれない。でもそれを美しいと感じる自分は美しいと言えるだろうか。」

あるいは、彼らを讃えつつ、一方でそんな状況に追い込んだ当時の為政者たちは「美しい日本人」と言えるのだろうか。

過酷な状況下での悲愴な決意や行動は、涙を誘い、一種の美しささえ感じさせる。そのことは否定しないし、そういった決意や行動をする人は讃えられて良いとも思う。美しいと感じることも否定しない。

でも、そういった行為を美しいと感じる自分自身は、多分美しくないだろう。他人を美しいと感じることと、自分が美しいというのはまったく別問題だからだ。

一方で、自分が美しいと思って行動していたら、それは他人には醜く見えるに違いない。

はたして彼らを「美しい日本人」と呼ぶのは、どういった意味なのだろうか。そう呼ぶ自分自身を、石原氏はどのように感じているのだろうか。

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