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2007年6月28日 (木)

自衛のための武力行使

3日ほどエントリーを休んでしまったのは、仕事を優先してしまっていたからだが、朝7時に出社して夜の10時過ぎまで仕事をするというのは、普段残業を極力避けている身としては、テンションが上がる一方で疲れるのは確かだ。ま、佳境なので仕方ない。(昨日は早めに上がり、今日はいつものように出社。そろそろ労務に目をつけられていそうな気がする・・・。)

休日も挟んでいるのでその間のネタはいくつかあるのだが、とりあえず新聞ネタから。月曜日(25日)の朝日新聞に憲法改正、特に9条に関するコメントがあったのだが、その中で映画監督で作家の森達也氏のこんな発言があった。

「改憲論者は、自衛権を放棄するのかと言うが、自然権である自衛権を放棄などできない。自衛の手段としての武力行使を否定するのが9条だ。」

なるほど、これはいじめに対抗する手段の議論に似ているのではないか、と思った。いじめられた子どもに対し、「やられたらやり返せ」「やられる前にやれ」と教える大人はまずいないだろう。いじめから身を守るために、いじめる相手と同じことをやる(つまり同じような手段で相手をいじめる)ことを正面切って正当化できる大人がいるだろうか。

しかし、一方で現実のいじめにどう立ち向かうか、と考えたときに、それをはねのける力が必要なのも確かだろう。大人の世界であれば、物理的な実力行使というのはなかなか考えにくいが、子どもの世界ではそういえない面もある。その延長で考えるのであれば、つまり、戦争という物理的な実力行使を伴う問題解決が行われる国際社会というのは、子どもの社会と同じで、大人の社会ほど成熟していない、ということが前提と言うことになる。

(もっとも、大人の社会だって、結局最後にものを言うのは実力行使だったりするので、それが人間の本性と言えば本性なのかもしれないが。)

個人的には改憲の議論と9条の議論と戦争放棄の議論は別々にした方が良いと思うのだが、それは理屈の問題であって現実的ではないのだろう。ただ、議論のやり方として、「実際に戦争を行う条件」というのを詳細に詰めてみると良いのではないか、という気がする。漠然と「自衛のため」とかいうのではなく、どういったケースであれば9条では対応できない武力行使になるのか、それは(9条というルールに関係なく)社会的感覚として受け入れられる武力行使なのか、という議論をするのだ。

9条ありきの議論ではなく、ようは「自衛のための武力(実力)行使」とはどういった武力行使なのかを詳細に突き詰め、その必要性を議論することが、結果として9条の要不要につながっていくのではないか、という気がする。

(でも多分日本ではそういった議論は出来ないだろう。言霊の国である日本では、ネガティブな想定を口にするのは非常に抵抗感が強いからだ。何故かというと、言ったことが現実になることを恐れているからだが、で、そういう国だからこそ、うっかり「自衛のための戦争」なんて言葉を口に出さないように9条という縛りが必要なんじゃないか、という気がする。)

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2007年6月22日 (金)

新聞が伝えるもの

先週メモに残すというエントリーで、見出しと新聞名をほぼ日手帳にメモしておくということを書いたのだが、その通りに(なんとか)やったところ、今週はネタを思い出せないということはなさそうだ。

ちなみにメモに残っているのはこのような感じ。

月曜日
・理不尽な親 学校苦慮(読売1面)
・日航パイロット給与下げ焦点(読売7面)
・「小売業アジア進出を」(読売7面)
・駄々、かんしゃく 成長・信頼の証拠(読売13面)
・赤ちゃんポストに3人目(読売38面)
・チェーン協 レジ袋削減キャンペーン(MJ4面)
・米産牛肉じわり再開 脂身人気根強く(MJ18面)

火曜日
・混乱年金 確認冷静に(朝日9面)

水曜日
・コロッケに偽ミンチ(朝日1面)
・教育3法きょう成立(毎日1面)
・「全国民が調査対象」(毎日5面)

木曜日
・教員免許更新09年度導入 教育3法成立(読売1面)
・「君が代」教員に強制 合憲(読売1面)
・全農畜産飼料値上げ(読売8面)
・漢字学習少しずつ確実に(読売18面)
・豚肉混入は意図的(読売39面)

毎日複数の新聞をチェックしているのではなく、3紙のローテーションとたまたま目に付いたもの、という感じなのだが、実は経験上読売新聞の記事に引っかかることが多い。(それと、月曜日は気になる件数が多い。)

これは自分の価値観が読売の論調とは若干ずれているためで、朝日や毎日だとあまりそういったことにならない。「なるほど!」よりも「ん?」の方が気になる記事だと言うことだ。産経だと読売以上に価値観がずれているので、気になる記事ばっかりになることが多いのだが、それだと逆に疲れるので最近はチェックしていない。ちなみに日経はほとんど読まず、MJを時々読むぐらいだ。

「気になる」というのは、何らかの意見が提示された時に、それにたいして自分の価値観が違和感を唱える、ということだろう。マスコミというのは、多くは事実を伝えるものだが、その事実も切り取り方、伝え方で変わってくるもので、そこに読み比べるというか、複数のマスコミが存在する価値がある。

で、変な話だが、なぜマスコミというは、それを「自分たちの意見を伝える」というのではなく「事実を伝える」というのだろう。それが実は気になって仕方がない。受け手側も、マスコミは「事実をありのままに伝えている」と思っている。そうではなく「事実を価値観にそって伝えている」ということだと思うのだが。

その回答のヒントが、昨日(一昨日?)配信されてきたセクシー心理学GOLDに掲載されていた。人が相手を信頼する際にもっとも重視するのは相手の正直さだが、それは客観的な正直さではなく、自分にとって都合の良いことを言ってくれる正直さだ、といった趣旨の話だ。

マスコミが報道している「事実」も、この「自分に都合の良い正直さ」に似ているような気がする。読者が記事を事実だと思うのは、それが自分にとって都合のよい事実だからなのだ。

そこまで言っては言い過ぎかもしれないが、そういった要素はあるのではないだろうか。

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2007年6月21日 (木)

予定がない!?

吉川さんのナレッジ!?情報共有・・・永遠の課題への挑戦にエントリーされていたSEには予定がない!?を読んで、なるほどと思ってしまった。確かに、自分にもあまり「予定」がない。厳密にいえば、スケジュールとして登録するような「予定」が、実はあまりないのだ。

そこで改めて考えてみたのだが、少なくとも自分の場合、スケジュールとして管理したい「予定」というのは大きく3つに分類できる。

一つめは、会議や打ち合わせ、人と会うといった、自分の都合では動かせない文字通りの「予定」だ。コンサルタントである吉川さんがスケジューラで管理されている予定はこれが中心だと思うのだが、この種の予定は自分の場合そうそう多くない。SEの場合もそうなのだろう。

二つめは、いつまでにこれをやらなくてはいけない、という「締め切り」だ。タスクやTODOと言っても良いかもしれない。今の自分の仕事では、どちらかというとこの種のスケジュールが多い。期限管理が必要なのでスケジューラで十分管理ができる。TODOリストと連動していればもっと良いかもしれないが、日時が決まっていて基本的に動かせないという意味では、人と会う「予定」とそう変わるものではない。

問題は三つめで、「予定」や「締め切り」までの自分の行動の予定、いわば「(作業)計画」というのがある。これの管理が難しい。自分の裁量でコントロールできるし、周囲の状況にも左右されやすい。ようするに事前にスケジュールとして登録しておくのが難しいのだが、でも管理したいという予定だ。

三つめの「計画」は、そもそもスケジューラで管理するものか?という気もするのだが、例えばマネージャーというのは部下の「計画」もある程度管理把握することが求められている(特に現場責任者のような立場はそうだろう)ことを考えれば、それをマネージャーがいなくても自分自身で管理する、というのはそれほど違和感のあることではない。

難しいのは、マネージャーによる管理は、当人には動かせない「予定」なのだが、自分による管理は、動かせてしまう「計画」だということだ。結局それは管理の問題というより実行の問題なのかもしれないが、この計画を管理する方法というのはないものだろうか。

そもそも行動の問題だとすれば、スケジュールを考えている時間があったら行動した方が早いという考え方もできる。マネージャーによる行動管理は、スケジュールを考える人と実際に行動する人を分けることで効率化を図っているのだが、それを一人でやろうとすると、そもそも計画を立てている時間が「もったいない」ような気もするのだ。

しかし一方で、計画もなく行き当たりばったりで実行してしまえば、結局最終的な目的を遂行できなくなってしまうという可能性もある。そのあたりのさじ加減が難しいということになるのだが・・・。

そのあたりの「計画立案」をサポートしてくれるようなスケジューラ、個人用「秘書」ならぬ個人用「管理職」となるような機能があると、個人的には嬉しい気がする。

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2007年6月20日 (水)

コメントが切り取られるタイミング

昨日爆発事故が起きた松濤温泉シエスパというのは、実は通勤ルート(会社最寄り駅の一駅手前からの徒歩ルート)にあって、毎朝その前を通っていた。裏手にあのような建物があるのは知らなかったが、実は女性専用だというのも知らなかった・・・。

今朝も同じ道を通ってきたのだが、立ち入り禁止のロープの前にマスコミ関係らしい人たちが数名、いつもは見ない路駐の車がタクシーを含めて数台の他、これはマスコミじゃないだろ、というハイヤーが数台止まっていた。ドライバーが乗っていてエンジンかけっぱなしで環境に悪いことこの上ないのだが、近くにコインパーキングがあるんだからそっちに止めておけ、と思うのは自分だけだろうか。

事件についてとやかく言えるようなことはないのだが、昨日の午後、会社からもヘリコプターが飛ぶ音が聞こえていて、何があったのかという話にはなっていた。これだけ身近であのような事故が起こると、普段そういったことには考えが及んでいないというのは、リスクに鈍感なのか、と心配にならなくもない。

ちょっと考えてしまったのは、今朝のテレビで、被害者の遺族の方が会社の対応が遅いことへの怒りをあらわにしていたのだが、それがいつ時点のことかがニュースからは分からないので、リアルタイムでまだ連絡がないように感じられ、随分とイメージが悪くなったことだ。

仮に昨日のうちに連絡をしていたにしても(連絡はしていると思うのだが)マスコミに先を越された時点で、「いつまでたっても連絡しない誠意のない会社」という形にコメントは切り取られてしまうわけで、こうした対応の迅速さというのは、何よりも気をつけなければいけないことなのかもしれない。

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2007年6月19日 (火)

理不尽な親

37歳になってしまいました。

この「なってしまいました」というのは、年齢に問題があるような言い方なのでよろしくないのだが、感覚的にはそんな感じというか、37歳にもなって大丈夫なのか(いろいろと)ということではある。

それはさておき、昨日の読売新聞1面で取り上げられていた「理不尽な親 学校苦慮」という記事は、最初は本当かよと苦笑してしまったのだが、実はあまり笑い事ではなかった。実感としては遠い話なのだが、一般的にこの記事で取り上げられている親の世代というのは、自分と同じぐらいか、少なくとも自分ぐらいを中心に上下に広がっている世代ということに気付いたからだ。

彼ら理不尽な親たちが、彼らだけの個人的な特質としてそうなのか、世代的な特質としてそうなのかは、考える必要があるかもしれない。さらにいえば、それが子どもと学校だけに向けられているのか、職場においても実は同じようなことが起きているのか、ということもだ。

個人的に一つ思ったのは、彼らは学校における教師の(子どもに対する)絶対性は認めているということだ。さらにいうと、その教師の絶対性は、少々社会的には間違っていても「教師がそうといえばそう」という絶対性である。だから「掃除をしない」「転校させる」という判断を「教師がすれば」その通りになると思っている。

実際は教師だってそこまでの絶対性は持っていない。教師が黒といえば白いものも黒、なんてことは本来ありえない(むしろそうではないことを教えるのが教師の役目だ)のだが、彼らはそう思い込んでいるらしい。だから彼らの学校への要求は、教師あるいは学校がそういえばそうなるという前提に基づいて、「外部からの要求で」そう言わせようとしているということに他ならない。

そこでもう一つ浮き彫りになってくるのが、学校において教師は絶対だが、親である自分は(学校との関係において)それ以上の存在と思っていることだ。これはそういった立場的な階層性を無意識に持っていることになる。少なくとも、自分が教師と対等、あるいは教師の方が上と思っていれば、こうした要求はでないに違いない。

こういった価値観はどのように育まれたのだろうか。

この考え方は、実は時折会社生活でもささやかれる「上司の言うことは絶対」という価値観に似ている。正しいことが正しいのではなく、上位の者が言うことが正しい。それは上司だったり教師だったり親だったりするのだが、そういった立場的な階層を作って、社会的通念とか常識よりも、階層が上の者の意思が絶対、という価値観が潜んでいるということはないだろうか。

理不尽な親と、理不尽な上司や理不尽な客というのは根っこは同じものかもしれないのだ。

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2007年6月18日 (月)

食農3級

昨日から頭痛に襲われている。今日は大分楽になったが、まだ疼くような感覚が頭の芯にある。原因は不明。熱は・・・微熱というところだろうか。普通の人から見れば何でもない体温なのだが、平熱が低い自分からすると熱が全くない、とは言えない状態だ。

それはさておき、昨日はオーケストラの練習を早退して、食農3級の検定を受けてきた。食の検定協会というところが主催している、食と農に関する検定だ。受けた動機は・・・まぁ好奇心といったところで、正直にいえばほとんど勉強していない。
食農3級は、食と農に関する一般的な知識を問うもので、実際ほとんどの問題は一般常識に近い形で答えられる。

ただし、くせのある問題もある。正直にいえば、その知識が実生活にどう役に立つか分からないような知識だ。

例えばフードマイレージについての問題は、日本のフードマイレージは、日本における食品輸送の何倍にあたるかという問題だった(と思う)のだが、これを知ることが何につながるのか、というのはいまいち分からない。それが何故か、という問題であれば、フードマイレージを考えるきっかけになると思うのだが、何倍か?ではただの暗記問題でしかない。
(もっとも、まずはフードマイレージについて「知ってもらう」ということが大きな目的なのだろう。でもそれならフードマイレージがどのように算出されているか、ということを聞いても良かったのではないか、と思う。)

もう一つ、ちょっとこれはどうかと思ってしまったのは、最後に地域ごとの問題として地域の農産物に関する質問が10問あるのだが(全体では100問)、ここで地域のブランド農産物に関する質問が多く出てきたことだ。

いやいやそれは違うだろ、と思ってしまったのは、地域の特産物を知るのと地域の農産物ブランドを知っているのはまったく意味が違うと思うからだ。千葉県だけでなく茨城県でも落花生が多く生産されていることを知っているのと、その茨城の落花生が「筑波落花生」というブランド名をつけられていることを知っているのはまったく別のことだろう。

あるいは、東京で品種名に「高尾」の名前を付けられた果物が何かを考えるのと、東京で品種改良された巨峰系のブドウにつけられた山の名前が何かを考えるのとではまったく意味合いが違ってくる。

答えられなかった負け惜しみと言ってしまえばそれまでかもしれないが、そんな感じでいくつか釈然としない部分があったのは確かだ。

自己採点では合格点には届かないようなのだが、あとは勘と想像で答えた問題がどれだけ的中するかにかかっている。

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2007年6月15日 (金)

メモに残す

ネタが(記憶に)ない。

今日は会社で「気になる出来事」なるコラムを書かなければならない日だ。毎週金曜日に、その週にあった出来事(というか記事)をピックアップして自分の視点でコメントする。先々週一度穴をあけてしまったのだが、ほぼ毎週続けている。
(ちなみにその内容はもう一つのブログにアップしている。)

そのためになるべく新聞をチェックするようにしているのだが、あまり印象が残っていない。先々週は本当に新聞を読む時間が取れなかったのだが、今週はそれなりに目を通していたし、その時は何か印象に残っていた気がする。

結局、それを何らかの形で記録に残しておかないと、記憶として保持するのは無理と言うことなのだ。基本的には気になった記事をコピーしておくのだが、今週はそれをやっていなかった。そのため、後からの記憶が前の印象を押し流してしまい、結果として残らないことになる。

せめてメモだけでも取っておけばよかったのだが、それさえもやっていない。これは痛い。見出しと新聞名だけでもほぼ日手帳にメモしていれば・・・。

まぁそれは来週から考えるとして、とりあえず今週のネタはこれから新聞をチェックしなければならないのだった。

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2007年6月14日 (木)

再びMacBookを考えてみる

先日あきらめたMacだが、ようは持ち歩きを考えなければ良いわけで、いざとなれば持ち歩きも可能な音楽サーバー、みたいな位置づけで考えたらどうだろうか、などと再び考え始めてしまった。

持ち歩くPCは今の通りLet's Noteにすればよいのだ。そもそも、Let's Noteに不満があるわけではないから、これを買い換えようというわけではない。必要なのは、手持ちのCDを溜め込む機械である。(ただし、HDDコンポのようなものが必要なわけではない。)基本的に自宅で使うと考えれば、無線LANが使えればネットワークにつなぐこともできる。

そう考えると、別にMacである必要はなく、ノートパソコンなら何でも良いことになるのだが・・・価格と、HDDのサイズと、デザインを考えると、なんとなくMacに軍配があがりそうな感じではある。

後は音楽の圧縮フォーマットの問題だろうか。先日からちょこちょこと調べてはいるのだが、上限周波数というものから考えると、CD並の音質と言えるのは、ATRAC3plusの256kbps以上、MP3の192kbps以上なのだそうだ。AACの場合は、256kbpsでも、若干上限周波数が落ちる。

そのレベルを聞き分けられるのか?と言われれば心許ないが、現在ネットワークウォークマンに入っているATRAC3plusの64kbpsでは、明らかに音質は落ちているのは分かるので、これは可能な限り良い音質にしておきたいのが人情だ。
(いずれにしても圧縮されている以上避けられない問題ではあるが、ま、気分の問題として。)

調べたサイトでおすすめとなっていたのは、音質重視ならMP3の192kbps、ファイルサイズ重視ならAACの128kbpsだそうだ。
となると、MP3の192kbpsもしくは256kbpsあたりを選択することになりそうだが・・・。

・・・Mac&iPodって、MP3でもそのまま聴けるんだっけか?どうもAACの印象が強いのだが、MP3も再生できたような気はするのだが。

まぁそれはこれからゆっくり調べることにしよう。いずれにしても今月一杯は仕事に迫られているので、それが終わったご褒美と言うことで購入しても良いのだし(笑)

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2007年6月13日 (水)

1日47万件を処理するコスト

年金問題が大騒ぎである。
今朝のテレビで報道されていたが、1日に47万件もの問い合わせがあったにもかかわらず、実際につながったのは3%ぐらいだそうで、その対応体制の甘さが問題として盛んに指摘されていた。

確かに3%というのは何となく対応体制として弱い気がする。でも実数に直したらどうだろうか。47万件の3%は14,100件。これを単純に時間で割ると1分間に約10件。もちろん電話の相談が1分ということはないだろうから、10分間対応するとして約100件対応したということは、100人は対応者がいたことになる。実際には24時間に均等に割り振られるわけではないから、もっと多かっただろう。

社会保険庁に何人の職員がいるかは知らないが、3%という割合よりも、47万件というボリュームをもう少し勘案した方が良いのではないか。マスコミにしても、何やら社会保険庁に乗り込んでパフォーマンスをやらかした国会議員にしても(その対応にあたった人も電話相談に出ていれば、もう少し応答率も上がっただろうに)、問題を指摘するのではなく、問題を解決する方向に向かって何かアプローチは出来ないのだろうか。

気になっているのは、今回の大騒ぎが結局しぼんだ時に(大体マスコミが騒ぐような事件はしばらくしたらあっさりしぼんでしまう)、これまで本当に困って社会保険庁と対峙していた人たちまで一緒になって忘れ去れてしまうのではないか、ということだ。厳しいようだが、47万件の相談者の内、今回のパニックに「乗せられてしまった」人はどれだけいるだろう。

実際の所、マスコミの報道を見ていると、今声をあげておかないと年金を取りっぱぐれてしまう、ぐらいの気分になってくるのだ。

相談したい気持ちは良く分かるし、社会保険庁に怒る気持ちも良く分かる。でも実際には、今パニックになってしまった方が、結果として取りっぱぐれることにつながるのではなってしまうのではないか。こうした騒ぎになってくると、必ず便乗者の問題や自己管理の問題が取り沙汰されてくる。問題はそこにはないのだが、そういった問題が本来の問題を覆い隠してしまうのだ。

そんな事態に陥らないか、と心配しているのだが・・・。

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2007年6月11日 (月)

パート練習での準備不足

昨日は通常のオーケストラの練習の後に幻想交響曲のパート練習をしたのだが、準備不足のためあまりたいしたことが出来なかった。

準備不足の要素は大きく二つある。

一つは自分自身がまだ弾けていないこと。ようするに練習不足だが、自分が満足に弾けていないのに、他人にアドバイスをするのは難しい。弾き方を伝えようにも、自分でもどう弾いたらよいかがまだよく分かっていないのだ。

もう一つは予習の問題だ。仮に弾けなくても、事前の予習でカバーできる範囲は多い。楽譜の読み込みは、楽器を弾かなくても出来ることがあるからだ。もっとも、それも自分がある程度弾き方をイメージできる場合の話ではある。

そう考えると、結局は自分自身の練習不足の問題なのだが、そう嘆いてみても練習時間が確保できるわけではない。本気で確保する気があるのならば、嘆く前に出来ること、やらなければいけないことはいくらでもある。

変な話だが、まずは部屋を片付けなければならない。実は最近忙しさにかまけて部屋が片付いておらず。サイレントチェロを出すスペースすらない。音を出さなくても、楽器を構えていればフィンガリングやらイメージトレーニングできることはあるのだが、それもままならない状態にある。

遅れに遅れている仕事の方が佳境のため、そのための時間を確保するのも難しいのが現状ではあるのだが、そういったことをなんとか一つ一つ片付けていかないと、結局ずるずると練習できないままに進んでいってしまうだろう。

正直な話、今回の曲はかなり難しい。大抵の曲は本番の頃までにはある程度弾けるようになっているのが自分の場合のパターンなのだが、今回はしっかり練習しないと難しそうだ。

それにパート練習を再度やったときに、今回のような状態ではパートのメンバーにも迷惑をかけてしまう。このあたりを何とかしていきたいところではある。

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2007年6月 8日 (金)

ネガティブだけど明るいキラーコンテンツが社内で生まれない理由

昨日ボスと雑談になったのは、当社の電子掲示板では、例えば「自社のここがヘン」みたいな話題が盛り上がらないだろうという話題だった。CSRというよりは、KMの話題だ。

最近情報交換をさせていただいた某大手企業が社内に導入したSNSにはそういったコミュニティがあり、キラーコンテンツとして盛り上がっているという話を聞いている。ただ、ボスも自分も、そういったコンテンツが自社で盛り上がるとは思えないという考えで一致している。

これは荒れるといったリスクの問題ではない。荒れるのも一種の盛り上がりと捉えた上で、そういった投稿がほとんどなされないだろうという予測だ。

その時に出てきた考えられる原因は二つある。

自分が考えたのは、社内における互いの距離感の問題だ。実はお互いの距離感が半端に近いと、すくんでしまって言えないという状況に陥ることがある。ほとんど知らない相手やよく知った間柄であれば、ネガティブな話題は笑いのネタにできるが、ギリギリの距離感にあると逆に話題にしにくいというものだ。
最近?言われる「mixi疲れ」などは、そういった距離感も関係しているはずだ。

つまり社内の距離感がそうなっているということで、これは例えばもっと大きな企業でお互いの距離感が遠くなっている(がゆえに冒頭のような話題が盛り上がる)状況に比べて決して悪い状況という訳ではない。すくなくとも、そういった大きな企業がめざしているような「お互いの距離を縮める」ということはある程度実現できていると言うことで、そのためのコンテンツは不要ということだからだ。

これは比較的ポジティブな捉え方なのだが、もう一つボスが指摘していたのは、いわゆる終身雇用の中でお互いの印象が悪くなるようなことをことさらに言わないカルチャーがあるというものだ。確かに、人材の流動性のある環境と違い、その後ずっと付き合っていく、ということを前提とした場合、お互いの関係を悪くするようなことは言いにくいだろう。

もちろんさらに一歩踏み込んでしまえば言い合えるのだが、それは「会社」という枠組みだけで築けるような絆ではなく、個人対個人の関係の中で育むものであって、会社の用意した電子掲示板やブログ/SNSといった仕組みの中でマネジメントできるようなものではない。

そう考えると、例えば「感情の共有」というキーワード一つとっても、組織ごとにさまざまな捉え方があるということだろう。今のところ、自社にそういったものをさらに促すような仕組みが必要かと言えば、やはりちょっと違うのかもしれない。

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2007年6月 7日 (木)

レジ袋の有料化ならぬゴミ袋化

今朝ふと思いついたのだが、レジ袋を有料化する代わりに、自治体の認めるゴミ袋として使えるようにするというのはどうだろうか。もっと言ってしまえば、自治体の出している有料のゴミ袋をレジ袋として使うということだ。
(もちろん、自治体によってはゴミ袋を指定していない場合もあるだろうが。)

こんなことは誰かが考えていそうな気もするのだが・・・。

買い物客が払うレジ袋の代金は、そのままゴミ袋の代金として自治体のゴミ処理に回されるようにする。小売店がお店のマークなどを印刷した袋を使いたい場合は、その分も上乗せして自治体に払う。枚数と金額は毎月集計して店頭に貼りだし、それによって処理されるゴミの量も明らかにして可視化する。

買い物客はゴミ袋としてのレジ袋が余っているのであれば、マイバッグを使う。ゴミ袋がなくなったらレジ袋を買って、ゴミ袋にする。ゴミとして捨てるのではなく、ゴミ袋として使えば無駄が少ないはずだし、ゴミ袋としても買った袋をそのままゴミとして捨てるというのは抵抗感があるから、そのまま捨てられてしまうことも少なくなるはずだ。

さらに分別用に色分けされたレジ袋、という方法もある。こうするとレジでは必ず袋の色を聞くことになるから、袋がいらない人も断りやすいし、常に分別を意識することになる。

お店は現在すでにコストのかかるレジ袋を無料で配布している(最終的にはお客の負担だが)から、有料化して得たお金を自治体に払うことにしても負担が増える(手間は増えるが)訳ではない。自治体から袋を買う、ということになると余計な利権が絡んできそうなので、多少手間はかかっても一定の規格にそったものをお店側で用意して、買われた枚数から納めるようにする方が良いだろう。

ごまかして過少申告する輩もあるかもしれないが、それ自体は別にたいした問題ではない。目的はゴミ袋とレジ袋の利用を二重化することによって無駄な袋の利用を減らすことであって、有料化はその手段に過ぎないからだ。もともとレジ袋はお客がどこかで負担しているコストであって、有料化はそれが見える化されるだけのことだ。ゴミ処理とは分けて考えてしまっても良いのだ。

極端な話、有料化がいやなら無料でも良いのである。それがゴミではなくゴミ袋としてもう一度利用されるようにすることが大事なのだ。
(大体、ゴミを捨てるためだけの袋ほど無駄なゴミはないのだ。ゴミ袋は最低でもリユースされたものにするべきだろう。)

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2007年6月 6日 (水)

企業市民活動と企業活動

今日は会社で地域清掃活動があるため、時間がないので手短に昨日の続きを。
企業市民活動というのはそもそも何なのか、調べてみた。

CSRアーカイブスによれば、

「企業は従業員を通じて、また企業活動そのものを通じて、地域社会と深い関わりを持っており、地域社会は企業の存立基盤である」

「製品やサービスの提供、納税、雇用など企業が果している社会的役割も、地域社会等、社会の健全な発展があって初めて可能となる」

そういった考え方に立って、

社会を構成する様々な主体とバランスよく連携を図り、「社会の一員として社会に役立つ事業活動を行う」という姿勢

をさすのだという。
http://www.csrjapan.jp/wording/ki.html

・・・よく分からないというか、これは「企業活動」とは何が違うのだろうか。
そもそも「社会の一員として社会に役立つ事業活動」を行わない企業なんてあるのだろうか。

それは企業ではなく、犯罪組織とでも呼んでおけ、という気もする。
(もっとも、犯罪組織だって社会上何らかの利益を得る集団がいるから成り立つもので、それを「役に立つ」ということもできる。どんな活動であれ万人に役に立つというのは考えにくいので、そもそも「社会の役に立つ」という捉え方にフィルターがかかってしまっているということかもしれない。)

ただし、これには枕詞があって、上記のような考えが生まれたのは、1970年代の企業批判の台頭に呼応してのものなのだそうだ。結局はそういった批判を招いた企業の活動に問題があったということか。

しかし気になるのは、なぜその時に「企業活動はそうあるべきではない」と、企業活動そのもののあり方を見直すのではなく、「企業市民活動」という別の概念を生み出してしまったのだろう。結局そうやって「分けてしまった」ことが、二律背反を生んでしまっているということはないだろうか。

それが企業活動には制約を受けたくない企業側のもくろみだったのだろうか。「企業活動」と「企業市民活動」を分けて考えるのは何故なのだろうか。

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2007年6月 5日 (火)

社会的利益への企業としてのアプローチ

実は今月、とあるところで自社のCSRについて話をする機会がある。
本当は報告書の作成も終わってからゆっくりその準備を・・・と考えていたのだが、結局並行して考えていかなければならない羽目になってしまった。

要望としてはCSRとは?という概念について企業の現場から話して欲しいということなのだが、内容自体はケーススタディの一種ということであまり具体的な制約がない。一度打ち合わせた時の感触では、

・社会的利益への企業としてのアプローチ
・事業と企業市民活動の関係
・事業として抱える固有の課題

といったことをテーマにすると良いようなのだが、正直なところ漠然としていてつかみ所がないという気もする。
そこで少し自分自身がどう考えるかを整理してみよう。

まず、食品という事業は、事業自体が持っている社会的利益へのアプローチの要素がきわめて強い。そうではない要素を考えるのが難しいくらいだ。しかし、一方で食品業界はさまざまな不祥事に揺れている業界でもある。

これは、事業が社会的利益と密接に結びついているからこそ、不正が非常に大きな問題になる、ということだろう。食品の場合、ポジティブな社会的利益へのアプローチよりも、まず事業自体が持っている社会的利益を「損なわない」姿勢が、企業に要求される、と考えることができそうだ。

一言でいってしまえば「安全な食の提供」に関する部分だ。

コンプライアンスとも違うとは思うのだが、まずは「事業の持つ社会的利益への影響を理解し、その利益を損なわない」ことが求められる事業としての性格はバックグラウンドとして持っておくと良いだろう。その点に対する企業としてのアプローチは、ものづくり(食品の製造)に対する考え方(安全に対する考え方)を提示することで説明できる。

ただ、CSRとして考えると、もう少しポジティブというか、アクティブな要素が欲しい。そこで積極的な社会的利益への貢献という要素で考えると、「豊かな食生活(食文化)の提供」という側面をあげることができるだろう。これも企業のものづくり(食品の開発)に対する考え方から説明できそうだ。

この両輪は、作成中の報告書でもバックグラウンドとして意識している部分でもある。

「社会的利益へのアプローチ」に関しては、食品事業と社会的利益の関係を提示した上で、自社のものづくりの姿勢を示すことで企業としてのアプローチを説明することができそうだ。

では、企業市民活動との関係についてはどうだろうか。これは明日にでも考えてみることにする。
でもそもそも「企業市民活動」って何なのだろうか。

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2007年6月 4日 (月)

とりとめのない週末

月曜の朝から電車の中で熟睡してしまうのもどうかとは思うのだが・・・この週末は少しばかり盛りだくさんであまりのんびりと休む時間がなかった。

金曜日の夜は・・・帰るのが遅かっただけか。

土曜日は早朝から実家に行き、ラロのスペイン交響曲とベルリオーズの幻想交響曲のボーイングを考える。練習も兼ねるつもりだったが、結局楽譜に書き込むだけで結構な時間がかかってしまって、フィンガリングまで考える余裕がなかった。来週はパート練習があるので、フィンガリングについても考えておかなければならないのだが、これは平日に(頭の中で)やっておくしかないだろう。

昼過ぎに帰ってきて、洗濯をしてから買い物へ。何を血迷ったか、秋葉原のヨドバシカメラへ車で行き、しばらく前から検討していた無線LANのルーターを購入する。有線ではやはり面倒だからだ。夜に帰ってきてその設定をしたのだが、使っているパソコンに加え、PSPやWii、はては昔のパソコンまで持ち出して設定をしていたら深夜になってしまった。
3年ぶり(5年ぶり?)ぐらいにネットに接続したThinkPadのWin2000のアップデートに時間がかかってしまったのだ。ちなみにセキュリティソフトは入っていないので、買ってこなければならない。

余談だが、帰り道、新宿の駅前でVIPの乗った車の行列と遭遇する。白バイに先導された黒塗りの高級車が数台。信号は青のままでルミネ前を悠然と通り過ぎていった。後から考えると多分皇太子殿下のご一行だったのではないかと思うのだが、車の中の姿を見ることは出来なかった。

日曜日の午前中はいつものようにオーケストラの練習。スペイン交響曲を部分的に抜粋した練習と、幻想交響曲の1、2楽章の譜読みだったのだが、前日にあまりさらえていないため、幻想交響曲はほとんど弾けなかった。これではいけない。
コンサートマスターからは、今回は本番まで時間がないため、練習のスピードを上げていくという話がある。後回しにするのではなく、1回1回を大切に弾けということだが、弾けないからどうしても後回しになってしまうのだ。

午後はこれまた何を血迷ったか、狭山のカルフール(今はイオン)に行く。炭酸水が安いので買い込むためだが、ついでにバラちらしを買って帰って、夕食にする。

その後、iPodを購入するかどうかを検討するために、iTunesをインストールしてみたのだが・・・ざっとみていまいち気に入らないためにあっさり削除してしまった。SonicStageを乗り換えようと思うほどの魅力は感じなかったし、乗り換えるのも面倒くさい。

で、iPodへの熱も冷めてしまい、では音楽CDのライブラリ化計画はどうしようかというのを考えながら、SonicStageの最新バージョンをダウンロードしていたら、なぜか通信速度が上がらず、終わらないままにタイムアウトして寝てしまったのだった・・・。

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2007年6月 1日 (金)

未明まで続いた国会

そういえば大学の寮の総会も深夜(というか朝)まで続いたこともあったな、などということを思い出した。だから何という訳でもないのだが・・・。

大学の寮は自治の形だったので、寮生の中から(多くは2~3年生)執行委員が選出され、活動方針を決めて総会に提出する。活動方針を決める段階の議論も朝まで続くことがあったのだが、最大の難関は過去執行委員を経験した4年生(以上)も参加する総会で、基本的な考え方からレジュメの不備まで、徹底的に叩かれることも少なくない。

夕方6時にスタートし、朝4時までやったあげく、終わらずに持ち越したこともあった。考えてみたらその後講義に出席していたのか定かではないのだが、休日にやっていた訳ではないので、思い返すとよくやったものだと思う。
(もっとも新入生の歓迎会なども朝までやっていたし、まぁ大学生なんてそんなものなのだろう。)

今となってはどんな議論が紛糾していたかも思い出せないのだが、ただ、今の国会と明らかに違うと思うのは、対立するのが目的ではなくて、結局は共通の目的を作り出すための議論だったことだ。むろん、個々のレベルでは対立する意見はあるが、少なくともそれをただ阻止するとか、議論の中身とは別のところで引き延ばしをはかるとか、最後は数で押し切ってしまうとか、そういったことはなく、ただお互いが納得いくまで(疲れ果てるまで?)話し合っていたという気はする。

国会が悪いのか、報道が悪いのか、結局年金についての議論はどんな風につくされたのさ・・・。

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