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2007年7月31日 (火)

パソコンを手放すことはできるのか

普段持ち歩いている個人のパソコン。これを持ち歩かないということは可能だろうか。
イー・モバイルやウィルコムの携帯端末が欲しいと思いつつ手を出していないのは、パソコンを持ち歩いているからだ。いざとなればパソコンを取り出せばよいのに、イー・モバイルのような端末を持ち歩く気にはなれない。

といって、パソコンを持ち歩くというのが、足かせになるのも事実だ。本当は、パソコンではなく、ポケットに入る端末でもろもろを済ませられる方が良い。

実際問題として、クリアしなければいけない問題は実は一つだけだったりする。それは現在書いているこの朝のブログをどうやって更新するかだ。結局の所、パソコンを毎日鞄に入れて出勤するのは、このためだけと言っていい。昔はセミナーなどでメモに使うこともあったが、その機会もめっきり減ってしまっている。

なんとも無駄な話であるが、朝のこの時間のためだけに重い思いをしてパソコンを持ち歩いているという現実は否めない。
(実際文字にしてみるとなんだか本当に間抜けに感じてくるが・・・。)

いくつか考えられる方法はある。一つは、メモだけまとめておき、会社に出社してから会社のパソコンで(こっそり)書くというものだ。

ただ、これは業務上よりも心理上のリスクが大きい。今自分のパソコンで出社前にブログの更新を行っているのは、これが一番集中できるスタイルだからだ。自分の場合、自宅でも会社でもなく朝のカフェというシチュエーションが、特に定期的な更新をしていく上では欠かせない。

多分、会社で書こうとしても書けないだろう。今のスタイルはそうやって作り上げられたものだ。

では、携帯端末でブログの更新は可能だろうか。以前はSigmarionでブログを書いていたこともある。ウェブアクセスがプアで更新が面倒になりやめてしまったが、最近のモバイルのブラウザであればそういったストレスは少ないだろう。問題はキーボードだ。

ウィルコムの[es]を使って、今と同じようなブログの更新が可能だろうか、と考えると少々心許ない。ディスプレイは百歩譲るにしても、あのキーボードで親指を使って書いていくのは、かなりしんどいと想像できる。これはイー・モバイルでも同様だ。

あるいは、イー・モバイルであれば、コンパクトな外付けキーボードを持ち歩く、という選択もあるかもしれない。実際そういうディスプレイを店頭で見たことはある。それでも、パソコンを持ち歩くのに比べれば大分楽だろう。ちょっと大げさな気もするが・・・。

そうやって考えていくと、やはりパソコンを持ち歩くしかないのか、という気になってくる。自分の場合、ブログを含めた個人的な文書管理にNotes(しかもR4.6)を使っているので、それが使えて便利という側面もある。

正直、軽いと言っても1kg弱のパソコンを、仕事で使うでもなく毎日持ち歩くというのは馬鹿らしい気もするのだが・・・何とかならないのだろうか。

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2007年7月30日 (月)

選挙の「勝敗」

参議院選挙が終了した。今回は選挙区が違うとはいえ知り合いが出馬していたので、いつもよりは多少注目していたのだが、投票そのものは何事もなく、結果は民主党の大勝、自民党の大敗で終わったようだ。

昨日の夜は選挙特番一色だったのだが、その報道を見ながらふと考えてしまった。選挙というのは「勝敗」で語られるようなものなのだろうか。表面的には確かに勝負として勝ち負けで考えるのが分かりやすいのだが、では例えば、当選した候補者に投票した人間は勝ち組で、落選した候補者に投票した人間は「負け組」なんだろうか。

当選した結果、支持者だけに利益が分配されるのであれば、それはまさに「勝ち組」といえるだろう。そういう利益誘導のことを示しているのだろうか。

まぁそれは冗談としても、この「勝ち負け」という結果で語るのが、選挙において本当に良いことなのかということが気になった。代表者である議員を選ぶ選挙は、今後数年の政治のスタートであって、過去数年の政治のゴールではない。それを勝ち負けという結果で考えるのは、なんとなく「選んで終わり」みたいな感じがしてしまうのだ。

選挙がゲームであればそれでも良いのだが、もちろんそうではないと多くの人が言うだろう。であれば、他に何かうまい言い回しはないものだろうか。

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2007年7月27日 (金)

数字で判断する感覚

自分にはコスト意識がない。会社員として致命的かもしれないが、少なくとも今のところそれがない。これはしばらく意識しなければいけない課題だ。(今頃、という話もあるが。)

そもそもプライベートにおいて、あまりそういったことを考えないということがある。例えば、買い物の時に高い安いという判断基準がない。基本的には必要か不必要かで判断し、後は買えるか買えないかの二者択一である。買える場合に、安いものを探すとか、コストパフォーマンスを考えることはあまりない。

多分、数字で考えるのが苦手なのだろう。0か1か、ONかOFFかというデジタルな考え方をしていて、相対的に比較をするためにある種アナログに段階的な数字で考えると言うことが苦手なのだ。

そもそも「高い安い」という判断のやり方があいまいなのではないかと思うこともある。損益分岐点のようなものを考えるのであれば、それはONとOFFの二者択一とあまり変わらないので、分かるのだが、多くの場合「高い安い」の判断は主観的なもので、説明されないことが多いような気がする。その「高い」「安い」の「感覚」を自分は相手と共有することができないのだ。

ある案件にかかる費用の見積もりがいくらとして、それを高いか安いかを判断する基準はどこにあるのだろうか。それは経験で培うもの、というのであれば、個人的にはそれは数字による判断とは言えない気がする。

これは自分自身の判断にとっても言えることで、判断の透明性を高める上で、数字は欠かせないと思うのだが、根拠となるデータにすぎない数字をどう判断に結びつけたかを理屈で説明できる必要があると感じている。

・・・何を書いているのだか、分からない内容になってしまった・・・。

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2007年7月26日 (木)

情報共有と情報伝達は違うもの?

何ができたら情報共有?(走れ!プロジェクトマネージャー!)や、「情報共有」・・・あらためて初歩から考える(1)(抱き込め!ユーザー、巻き込め!デベロッパー)を読んで、たまたまここ最近「情報共有」について考える機会が多かったので、改めて考えてみた。

個人的にはお二人の意見には同感なのだが、天の邪鬼なので少し違う方向から考えてみる。というのは、大木さんが書かれている「コミュニケーションスキル」や、妹尾さんが書かれている「誰かが持っている情報が誰かに伝わって」というのは、情報「伝達」といってしまっても良いのではないか、と思ったからだ。
仮に「伝えたい(伝えるべき)情報を伝える」情報伝達と、「ある情報を共有する」情報共有が違うものだと考えたら、その違いはなんだろうか。

情報共有というのは、もう少しゆるく考えても良いのではないか、そんな気がする。例えば会話の中でふと飛び出した話題に戸惑うことなくついていけるのは、その話題(=情報)を共有していたから、といったレベルの捉え方はできないだろうか。双方に明確な目的のある情報の「伝達」ではなく、コミュニケーションの周辺部分でのやりとりをもうちょっとだけスムーズにするための情報の「共有」が、情報共有の本質と考えるのだ。

情報共有ができていないと感じるのは、伝わっている伝わっていないよりも、そういった「やりとりの中でのちょっとした齟齬」に気付いた時ではないだろうか。

このように考えると、世間で言う「情報共有ができていない」というのは、実は責任回避的な使われ方をしているのではないか、という気もしてくる。伝えることを目的とした情報が伝わっていないのは、情報共有の問題というよりは、当人間のコミュニケーションの問題なのだが、これを情報共有の問題にすり替えてしまっているのではないか、という疑問だ。

「伝わっていない」に比べて「共有できていない」というのは、なんとなく責任の所在が不明瞭で、分かったようで分からないあいまいさがある。伝わっていない理由は、伝えようとした情報そのものの問題や当人の伝え方、受け取り方などに細分化して問題点を考えていけるが、共有できていない理由というのは、そのあたりが難しく、なんとなく問題点や責任の所在がぼやけてしまうということがないだろうか。

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2007年7月24日 (火)

来年春の定期演奏会の選曲

日曜日に来年春の定期演奏会に向けた選曲会議があったのだが、メインは何とか決まったのだが、サブメインが決まらなかった。選曲はどうにも盛り上がらないというか、毎回決めるのに難航する。

何でだろうか。大学オーケストラの時の選曲はかなり熱がこもっていたように思うのだが・・・。

多分理由はシンプルで、大学オーケストラの場合は毎年代替わりしていくので、自由に選曲できる機会というのが非常に限られているからだろう。自分たちが決められるその1回(あるいは2回)の演奏会に何を演奏するかというのは、非常に盛り上がるに違いない。

一方、今はどうだろうか。そもそも選曲を担っている演奏委員会の面々は、すでに長年務めた人間が大半で、そういった気分がない。ある意味末期的症状とも言えるかもしれない。

そもそも、やりたい曲だけで年2回の定期演奏会のプログラムを何年も構成していくことは難しい。どこかで「やりたい」という気持ちとは別の選曲基準を部分的にでも持ち込まないと、いつかは萎えてしまうのかもしれない。

もっとも、勉強不足という要素もある。正直「やりたい曲」「好きな曲」以外の曲でもどれだけ論じることができるかで、選曲に口が出せるかどうかと言うのは決まってくる。自分の場合、もう少し作曲家なり曲というのを勉強した方が良いのかもしれない。

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2007年7月23日 (月)

公務員という仕事

車内吊りの広告で見たのだが、プレジデントファミリーの9月号の特集の一つに、「親が就かせたい職業No.1公務員という仕事」というのがあるらしい。

確かに子どもを公務員にしたいという親の話は良く聞くのだが・・・何か矛盾していないだろうか。特に最近、盛んに報道されている公務員の不祥事に、この親たちはどういった視線を向けているのだろう。公務員の怠慢や天下りを憤りながら、子どもを公務員に就かせたい親の心理というのは、どういったものなのだろうか。

我が子ならその状況を打破してくれるとでも考えているのだろうか?

謝罪の記者会見で頭を下げるシーンしか見ていない子どもが、「社長になりたくない」と考えているという話がある。公務員を取り巻く状況は意外と似ているような気がするのだが、子ども達は公務員に対してはどのようなイメージを抱いているのだろう。親が就かせたいのは結構だが、子どもがなりたい職業として捉えているようには思えないのだが・・・。

子どもを公務員に就かせたいと考える親に、現在の公務員をどう考えているのかを聞いてみたいものだ。

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2007年7月20日 (金)

日本人のマナー観

走れ!プロジェクトマネージャー!通勤電車が、日本人のマナーを悪くした、という仮説というエントリーがあったので、少し考えてみた。

個人的には、マナーが「悪くなった」のではなく、「元々悪かった」のではないか、と感じることがある。いや「悪い」という捉え方は良くないかもしれない。日本人にとって、通勤電車に乗りあわせているような「他人」は、元々マナーに気を使う対象ではないのではないか、ということだ。

海外の人の事情は知らないので、「日本人が」と言ってしまうと語弊があるかもしれないが、傾向としてマナーを「相手に対する礼儀」と捉えているということはないだろうか。つまりマナーを相手があって成り立つものと考えているから、周囲の人間を相手として認識していなければ、当然マナーに気を使うことがない。

例えば「あいつは礼儀がなってない!」と言う時、その言葉の裏には「自分に対する」とか「お客に対する」といった礼儀を払うべき対象が無意識に存在しているように思う。「相手がいようがいまいが、人の態度として礼儀がなっていない」というニュアンスはあまり感じられないのだ。

善し悪しではなく、相手との関係によって細やかに態度を変化させることでコミュニケーションを円滑にしている、と言うことなのだろう。誰に対しても毅然として同じ態度を取ることが常に最良とは(特に人間関係においては)限らない。

それに日本に限らず、例えば異教徒は人ですらない、という捉え方をしていた時代のヨーロッパの礼儀作法は、あくまでも「人」に対するものだっただろうと思うのだ。この「人」と「それ以外」の境界線がどこにあるのか、という問題なのではないだろうか。

もっとも、通勤電車にもみくちゃにされていると、それを人と思っていたらやってられない、という側面はあるかもしれない(笑)

(ただ、以前何かで読んだのだが、礼儀作法というのは元々見知らぬ他人に対して敵意のないことを示すための所作として発達したという話がある。そう考えるとつまり礼儀がなっていない、というのは「他人と思っていない」「ごく親しい身内で気を許している」と言うことなのかもしれないのだが・・・。)

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2007年7月19日 (木)

安全・安心に労を惜しむな

昨日(7/18)の毎日新聞の社説に、中越沖地震で火災を起こした柏崎刈羽原発を取り上げて、「地震原発 安全・安心に労を惜しむな」というものがあった。

内容も主張も至極もっともではあるのだが、実は本当にそれでよいのか、という疑問も感じている。この「労を惜しまない」というのはどう捉えたらよいだろうか。コストは考えずにやると言うことだろうか。

安全・安心というのはコストを考えた上でバランスをとるべきではないか、と思う。乱暴な言い方かもしれないが、日本ではこの感覚が薄く、むしろ安全・安心にコストを考えるなんてとんでもない、という意識がないだろうか。

コストを無視した安全・安心の追求の方が実ははるかに危険な気がするのだ。現実にはコストという軸があるにもかかわらず、それを安全・安心と同じ軸の上で論じるのではなく、別の軸にしてしまうからだ。それは結果として両者の関係をあいまいにし、安全・安心の中身を不透明にしてしまうような気がする。

少なくともマスコミは、「労を惜しむな」という情緒的なことを言うのではなく、安全・安心の確保のためにかけられていたコストと、実際に確保されていた体制を同軸線上で比較し、そのバランスが適切であったか、という議論をするべきではないか。
「ずさんな安全管理」という時も、ではそのためのコストはどれだけで、求める安全管理のためにはどれぐらいのコストを適正とするか、という議論がなければ、ただ「ずさん」というだけで終わってしまい、次につながらない。

安全・安心は当たり前、というが、仮に当たり前であってもただではない。当たり前というのはただのことではないのだ。安全・安心を支えるコストが明確になり、そのコストは適切なのか、本当に負担してでもその安全を確保するのか、という議論があることが、安全・安心への取り組みの強化につながるのではないだろうか。

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2007年7月18日 (水)

グループウェアとは何か

グループウェアとは何だろうか。そんなことを考えてしまうのは、人と話していて時々その認識の違いを感じることがあるからだ。例えば自社には巷でグループウェアと呼ばれている Lotus Notesが入っているが、このソフトウェアをグループウェアたらしめている要素は一体何なのだろう。

そもそもグループウェアというのを「グループワークを行うためのソフトウェア」と位置づけるのであれば、企業内にグループウェアでないソフトウェアなんて存在しないのである。オフィスソフトだって、個人のためだけのワークウェアと考えるのであれば、本来統一する必要がないはずだ。共有できるようにソフトウェアを統一するのは、グループワークをスムーズにするためであり、それはつまりグループウェアと言えなくもない。

とまあ広義で捉えてしまうとなんでもグループウェアになってしまうのだが、その中で一般的にグループウェアとして求められる要件を限定していくとどうなるだろう。

Wikipediaで調べてみると、次のような機能が挙げられている。

  • 電子メール
  • 電子掲示板
  • ライブラリ
  • スケジューラー
  • ワークフローシステム

ではこれらを「統合した」ものがグループウェアなのだろうか。しかし、別にプラットフォームがバラバラでも、企業内にその機能が点在する可能性もある。その場合はグループウェアとは呼べないのだろうか。そうとは言えまい。

では統合されていることによるメリットはどれだけあるだろうか。極端な話だが、ソフトウェアは違っても、同一パソコン上で使えるという時点で、すでにある程度統合されているとは言えるのだ。

実は企業に必要なのは、グループウェアではなく、グループワークのスタイルをどうデザインするか、という議論のような気がする。当たり前と言えば当たり前なのだが・・・。

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2007年7月17日 (火)

エコバッグ狂想曲

アニヤ・ハインドマーチ製のエコバッグが大騒ぎだったらしい。ニュースで見ただけだが、本当にエコバッグとして使うのは殺到した人たちの何割(何%?)だろうかと思いながら、こういった仕掛けを環境NPOなどはもっと考えても良いのではないか、という気もした。
(いやいやパニックを演出しろ、という訳ではもちろんない。)

一つはエコバッグに「使いたい」という気持ちを持たせることだ。無料で配布されたバッグをどれだけ使う気になるか、というのは、じつはかなり微妙なところで、仮に無料でもプレミア感(希少価値だけでなく、希少でかつ広く知られていなくてはならない)を持たせることができなければ、使うモチベーションにはならない。

環境に優しい、だけではそうそう便利さには勝てないのだ。使わない人たちの意識を嘆くのは簡単だが、それは使わせようと思っている人たちの言い訳にすぎない。

もう一つは、今回の騒ぎは行きすぎだが、うまくプレミア感を演出できれば、企業がこれを「商売」に出来るということだ。エコのためのエコバッグの配布ではなく、ビジネスとしてのエコバッグの販売という流れは作れないか。レジ袋を有料販売するよりは、商品としてエコバッグを買ってもらった方が、企業にとっては良いに決まっている。

ユニクロのコラボTシャツではないが、そういった各企業のブランドとコラボレーションしたエコバッグを作って(数量限定で)販売してみたらどうなのだろう。イオンぐらいであれば、自社ブランドよりも取引先ブランドでエコバッグを作って販売した方が、実は面白いような気もする。

そんなことを考えながらスーパーに買い物に行き、ふと周囲を見回したら意外とエコバッグ(というか、買い物袋)持参の比率が高いことに気付いた。周りが使うようになれば、追随したくなるのが人の常だから、そういった様子を見せるのも良いかもしれない。

ちなみにレジ袋に関しては、「要りません」と言わせるのではなく、必要な人は自分で買い物かごの中に入れるような仕組みにすれば良いと思う。ついでに言えば、レジ袋を有料にするのではなく、レジ袋を使わない人は○円引き、みたいな形で実質有料にするという方法ではどうだろうか。

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2007年7月13日 (金)

個人の倫理観と社会システムの限界

昨日から今日にかけて報道されていたが、北京の露天で肉まんに段ボールが混入されていたというのは、なんともすごい話である。ミートホープの偽装がかわいく見えさえする。

(もっとも、両者の根本的な違いは、北京の事件は個人の倫理観だが、ミートホープは組織の倫理観が問われているということだ。ミートホープの事件で「社長の指示」が大きな要素を占めるのは確かだが、それを個人の問題だけに帰属するのは少々問題がある気がしている。)

さて、この事件だが、「個人の倫理観」と言ってしまうのは簡単なのだが、もう少し大きな社会システムの問題に踏み込む勇気が我々にはあるだろうか。それは、市場主義、資本主義という社会システムにそもそも限界があるのではないか、という切り口だ。

具体的には、「コスト削減」のために段ボールを混入した彼らが、それは市場経済の問題で、以前の社会主義経済、統制経済体制だったらこんなことはなかった、と主張した場合に、我々はどう反論すべきだろうか、ということだ。断っておくが、この場合、統制経済でも同じことはあっただろう、というのは(実際あったのではないかと思うのだが)あまり意味がない。

個人の倫理観に頼らざるを得ない現在の経済システムの限界にどう向き合うか、ということだからだ。

ちょっと答えはないのだが、個人的には「倫理」という言葉自体が、人間の本性に枠をはめるものというニュアンスがあって、「倫理観を求める」というのはそもそも抑制を求めるものだから、結局それが破られてしまうのではないかということだ。言葉の遊びのようで恐縮だが、ちょっとまとまっていない。

そうではなく、本性そのものをポジティブに活かせていくような社会システムはできないのだろうか。弱肉強食になってしまうかな・・・。

(でも弱肉強食というのは、「強い者は弱い者を(好き放題に)犠牲にしてよい」という格差社会の理屈ではなく、「より強い者がより弱い者を淘汰する(ことでより強靱な社会をめざす)」という競争社会の理屈で成り立つシステムのことを指しているとも思うんだよね。あ、でも自然社会の仕組みは違うか・・・。)

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2007年7月12日 (木)

安全確認による遅延

今朝地震があり、通勤に使っている京王線のダイヤが乱れた。安全確認のため速度制限をかけていたのだが、おかげで普段座れる電車に乗ることもできず、久しぶりに満員電車に揺られる羽目になった。

・・・疲れた。

それはさておき、ホームに着いたときに「今朝方地震があった関係で安全確認のため電車が遅れ申し訳ありません」といった趣旨のアナウンスが流れていた。地震は天災だし、安全確認無しで通常通り走らせて事故が起こったときのことを考えれば、謝るような筋合いではない気もするが、乗客としては誰かに謝ってもらって不満のはけ口を見いだしたいわけで、それを受け止めるためには結局しょうがないのだろう・・・なんてことを考えた。

実際、安全確認のための徐行は、褒められこそすれ非難されるようなものではない。本当は「素晴らしい判断だった」「さすが安全第一の精神が徹底されている」と褒めればよいものだが、何も起きなければ「遅れやがって」となってしまうのが、悲しいところだ。

こういった部分にプラスの評価をしていけるような仕掛けってないのだろうか。「安全」と叫んでも、そのサービスを享受する側がプラスのフィードバックができない(しにくい)ようでは、より高い安全にはつながっていかない気がする。

京王のホームページに、今日の判断を褒めるようなコメントでも入れてみようかな・・・。

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2007年7月11日 (水)

仕事と生活との調和

今週号(2007.7.9)の日経ビジネスの第2特集は「残業の減らし方、教えます」だった。書かれている内容の中で、机や書類の整理を組織的に行うというのは、「個人で」はなかなか出来ない自分としてはあると嬉しいかもと思ったのだが、それ以前の問題としてふと気になったことがある。

「残業」はそもそもそれ自体で問題なのだろうか?

ワークライフバランスという言葉が最近は良く聞かれる。仕事と生活の調和を大切にしようというものだ。が、改めて考えたときに「ワーク」と「ライフ」は「バランス」を考えなければいけないほど対立するような概念なのだろうか。

そんなことが気になってしまった。

両者をトレードオフな関係で捉えてバランスを取ろうと考えている限り、実は根本的な問題の解決にはつながらないのではないか、そんな気がするのだ。

記事の冒頭に、今年1月から原則7時以降の残業を禁止した無印良品の社長のコメントが載っている。

「夜の7時くらいには仕事を終えないと話題のスポットは閉まってしまう。11時まで会社に残っているようでは視野の狭い人間になるし、家族のニーズもつかめない。そんな企業戦士はいらない」。

一見なるほどと思うのだが、うがった見方をすれば、プライベートの時間も仕事に活かせるようにしろ、というように聞こえなくもない。話題のスポットで感性を磨くのが仕事に役立つと考えるのであれば、仕事時間内に業務として行かせるべきではないのか。プライベートも仕事に活かせるように考えて行動しろ、と言っているようなものとも受け取れるのだ。

企業が考えるべき「ワークライフバランス」は、仕事以外の私生活の充実を図れるようにすることではなく、仕事を通じて(人生が)豊かになれるようにすることではないだろうか。それが「調和を大切にする」ということではないか。

11時まで会社に残っている結果、視野の狭い人間になってしまうような「仕事」にこそ問題があるのであって、11時まで残ることに問題があるのではない気がするのだが、どうなのだろう。

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2007年7月10日 (火)

コミュニケーションの問題

「なぜ、エグゼクティブはゴルフをするのか?」(パコ・ムーロ/板東智子訳/ゴマブックス)を読んでいて、こんな一節があった。

「うちの会社はコミュニケーションに問題があるんです」
こんな声を私たちはよく耳にする。
(中略)
ほとんどの場合、コミュニケーションの問題は、「熱がある」という症状にすぎない。

つまり、コミュニケーションの問題というのはあくまで結果としての症状であって、本当の問題は別にあるということだ。本書の中ではリーダーシップの問題だとしている。

「コミュニケーションの問題」というのは幅が広い。何となく分かったような気になってしまうが、そもそもコミュニケーションされるべき(情報が伝達されるべき)内容が明確でなかったり、対象があいまいだったりする。さらにそういった手段的な部分をクリアしても、そもそも求められるコミュニケーションとは何か、それがスムーズになることで何をしたいのか、という点が抜け落ちたりもする。

社内ブログやSNSにも、そういった陥穽がある。社内ブログやSNSが解決するのは、多くは「コミュニケーションの問題」だが、組織毎に抱える症状の原因が違うと考えれば、処方も変わってくると考えるのが妥当だ。

・・・で、この先を考察したいのだが、ちょっと思いつかない。ヒントとして少しメモしておくと、組織としてのコミュニケーションの問題もあるのだが、もう少し小さな「個人としてのコミュニケーション」の視点で考えるとどうなるだろうか。そもそも自分自身にとって求めるコミュニケーションとは何か、解決したいコミュニケーションの問題とは何だろうか。

自分の問題も解決できない仕組みが、組織の問題を解決できるわけがない。
手段にかかわらず、自分にとって「コミュニケーションの問題」とは何だろうか。

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2007年7月 9日 (月)

私は信用していません

土曜日のWBS土曜版で、最近問題になることの多い中国産食品の特集をやっていた。
そのVTRの中で、長年中国の食品を輸入してきた中国食品問屋の社長が出てきたのだが、こんなテロップで紹介されていた。

「私は信用していません。」(言葉が一字一句同じかどうかは少々あやふやだが。)

この発言の取り上げ方というか、この社長やWBSの真意がどこにあるのかが気になった。

自分は信用していないけれども、そう知っていて消費者に売りつけている、ということなのか。
自分は信用していないので、必ず自分達でも確認をしているということなのか。

この発言だけを切り取られてしまうと、どちらかが判別できず、あいまいになってしまうのだ。そして、そこまでのVTRの流れを見る限り、視聴者は前者のように受け取るだろう。

実際前者であれば問題はない。が、後者だった場合、この社長や会社にとっては迷惑な話だ。長年中国と付き合ってきて、今も取引をしていることを考えれば後者である可能性もあるのだが、なんとなく業界体質を告発するような発言になってしまっているからだ。

この社長の真意はどっちだったのだろうか。

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2007年7月 6日 (金)

他人に仕事を振る

・・・どういうわけか、今日は何も浮かんでこない。というか、出社後にやらなければいけないことしか浮かんでこない。
出社前のこの時間は、色々なことを考えるための、自分にとって多様性を(少しでも)維持していくための貴重な時間なのだが。

CSR報告書の制作は、最後の追い込みで、もうすぐ決着がつく。今回の制作は反省点が多かった。一番の問題点は発行が遅れに遅れたことだが、それ以外にも問題が見えてきている。しかし、来年挽回できるかどうかは分からない。

そもそも遅れたのは何故だろうか。
根本的な理由として、後回しにする自分自身の体質というのがある。実際今も、報告書の制作を優先して後回しにしていることがある。優先度をつけると言えば聞こえがいいが、結果は後回しに過ぎない。これは自分の「他人に仕事を振れない」ことに起因している。

それではいけない。

とりあえず、今日関係部署に依頼できる案件は依頼してしまおう。後にすればそれだけその部署に迷惑がかかる。自分がもう少しきちんと関わりたいというのは、依頼する以上礼儀だと思う反面、実際には多分エゴなのだろう。

で、これがどうしても後回しになりやすい。一度に出来ることは一つしかないのだが、その順番がなかなか回ってこなかったりするのだ。依頼内容や指示内容をまとめる、そのための考える時間をどう確保するのか。

考えるまでもなく行動してしまえば良いのだろうが、それがなかなか出来なかったりする。人との会話が苦手なのも、そういったある種の脊髄反射的な思考が出来ないからなのだ・・・。

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2007年7月 5日 (木)

CSR日記の再開

ゆるゆるとだが、CSR日記を再開することにした。ただし、中身はそっくり移したが、こちらの別のサイトでの再開になる。

このENIGMAというブログは、言ってみれば日記なので雑多な話題を扱うが、もう少しテーマを絞るというか、内容に統一感のあるブログにも関心はあって、今のところそういったテーマで書けそうなのはCSRぐらいなのだ。

もっともこの日記は元々は社内の希望者へのメールをベースにしていて、昨年1年ぐらい続けていたものだ。3月に報告書の作成が佳境に入り、中断していた。(今まで佳境だったのかと言われると、どうにも恥ずかしい限りだが。)

さてさて、どこまで書いていけるだろうか。

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2007年7月 4日 (水)

来年の選曲に向けて

現在オーケストラで練習しているのは、今年の秋の定期演奏会に向けての曲で、今年はさらにその後に第九が控えているのだが、それはそれとして来年の選曲をしなければならない。少なくとも来春については遅いぐらいではある。

先日団員にアンケートをとった結果が出たのだが、実際の所その結果だけで決めることは出来ないので、この結果を参考にして演奏委員会(各パートパートリーダーによる委員会)で決めていくことになる。再来週に話し合うことになっているので、少し自分の考えもまとめておかなければならない。

その前に・・・アンケートで寄せられた曲の内、知らない曲というのを聞いてみたい。
例えば、シューマンのマンフレッド序曲は、のだめカンタービレで話題になったと思うが多分聴いたことがない。また個人的な傾向としてフランスの作曲家の曲というのはあまりなじみがない。現代に近い作曲家の作品も同様だ。

もっとも、アンケートで挙げられた曲の中で知らないものを片っ端から聴くというのもあまり現実味がない。
正直、クラシックの曲というのは数が多い。こういう機会でもなければ、なかなか聴かないというのが本音だが、それでも短期間に一気に聴くのはきつい。

ちなみに今回のアンケートでは、やってみたい曲の他に、プログラムについても意見を聞いていた。単純に希望の曲を組み合わせてもプログラムにはならないため、演奏会には何らかのテーマが必要だ。そこでそういった意見も聞いてみたのだ。

個人的には、今年が春にイタリア、秋にフランスなので、続けてドイツ、ロシアと追いかけてみるのが良いような気がする。大体2年で一回りと考えれば、以降はまた新しい切り口で、ということもできるだろう。

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2007年7月 3日 (火)

幻想交響曲への指示(の一部)

先日の日曜日は、次回の定期演奏会で指揮をしてくださる先生がきた。先生と言っても実は自分より年下だったのだが、現在マケドニアの旧ユーゴスラビア国立歌劇場で首席指揮者を務めている柳澤寿男氏だ(柳は厳密には違う字なのだが表示できない)。バルカン半島を中心に活躍しているそうだが、今はオフで日本に戻ってきている。

で、幻想の合奏1回目。印象としては、細かい指示を積み重ねていく形で、演奏中にもかなり声を張り上げている。こうした指示を上手く受け止められるかどうかが今回の課題になるだろう。
というわけで、時間の許す範囲で指示された内容を整理しておくことにする。(ちなみに全曲通したのだが、細かくやったのは1楽章のほんの最初だけだった。全曲を通じて一番難しい箇所ではある。)

<第1楽章>

  • 3小節目は、CDなどで聞き慣れているとつい遅くなってしまうのだが、in Tempoで演奏する。印象としては前へ行くような感じがある。2ndバイオリン以下の弦楽器は、nonビブラートで、ハーモニーで響きを出す。シンプルな和音ではなく、複雑な和音の場合、1音に気持ちを込めるのではなく、全体として響きを作ることが大切なのだそうだ。
  • 5小節目の1拍目、3拍目は軽いアクセントで、3拍目からのドもdim.する。続く6小節目のシはアクセント無しのpp。
  • 7小節目のピチカートは、あまり情感は込めない冷たい音にする。その後はチェロは休みだが、8~9小節にかけて若干アップテンポになる。
  • 9小節目の<は大きめの<で、10小節目の頭の音にはアクセントをつけてかなり強めに出す。
  • 15小節目は、2回目(3拍目裏)のラはエコーになる。16小節目は大きくクレッシェンドで、4拍目のmfでf、17小節目のfはffぐらいの気持ちが必要。16小節目の4拍目と17小節目の頭は、ビオラ以下で気持ちをあわせる。
  • 17小節目の>は3拍目までにppにする。また、18小節目の入りはきちんと数えてあわせる。
  • 23小節目は気持ちゆっくりで、バイオリンを追い越さないようにする。4拍目は3つに分けて振るので、かなりテンポはダウンする。24小節目の入りは注意が必要。
  • 27小節目の後半はテンポがゆるむ。(休みだけど。)
  • 28小節目の<は大きく。29小節目の3~4拍目は、管楽器が三連符なので、惑わされないようにきちっと16分音符を刻む。
  • 30小節目の<はかなり大きく盛り上げる。弓の量に注意が必要。31小節目からはトレモロでよい。
  • 37小節目の><>も、かなり大きめ。

(このあたりまでが細かくやった範囲なのだが、後は全曲を通しながら気付いた点や指示された点など。)

  • 112小節目のpoco rit.は行わず、in Tempoで演奏する。1stバイオリンの三連符と他の弦楽器のシンコペーションがあわなくなってしまうためだが、気をつけないと乗り遅れる。
  • 150小節目はかなり大きめ。チェロだけで他のパートの音を支えなければいけないため。
  • 繰り返しはなし。
  • 166小節目からのメロディーは、他のパートも同様だが、<の頂点になる音(2小節目の2拍目と4拍裏)にアクセントをつけるつもりでかなりオーバーに演奏する。
  • 197小節目からの音階はsul pontiで演奏する。(ただしどこで戻るかは不明なので、明確に指示されるのを待つ必要がある。)
  • 268小節目のa tempoは、1小節ずらして269小節目で行う。フランス式だそうだ。
  • 275小節目からのチェロはエスプレッシーボとのことだが、どういった形かはまだ不明。
  • 285小節目からの三連符の音は短めではっきり。
  • 最後の音は長くするので、弓はゆっくりと使う。

まだ他の楽章があるのだが、今日の所は時間切れ。印象に残ったのは、ノンビブラートで弾く指示が多かったことだ。ビブラートするな、ではなく、必要ない、ということだが、あまり個別の音に思いを込めるのではなく、全体の響きを出すのにビブラートが余計になるということもあるのだろう。

しかし、それはそれだけ音程がシビアになり、周囲の音に耳を傾けろ、ということでもある。そのあたりが大きな課題になってくるかもしれない。

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2007年7月 2日 (月)

非公開のプロフィール情報の活用

土曜日にiUGの第6回の研究会があった。
ここしばらくグループディスカッションに参加していなかったのだが、今回はどっぷりと参加。言葉は変だが「堪能」した。
社内ブログや社内SNSを使う立場でも運営する立場でもないが、やはりそういったテーマでディスカッションするのは楽しい。

盛り上がったのは、SNSのプロフィールについて、
・自分で登録する情報
・他人が評価する情報
・システムが解析する情報
というのを組み合わせることが出来ないか、というものだ。

事例紹介の中で、他人にタグ付けするという機能が紹介されて、それに触発されたのだが、自分ではいかんとも評価できない部分を多面的に評価するために、自分で登録する以外の情報を増やしていくアプローチはできないか、と考えた。

他人のタグ付けや投票による評価、コメントによる評価の他、さらにシステムが解析する情報として、過去の経歴やエントリーの内容、コメントや足あとなどを「活かす」ことが出来れば、その人自身をより正確に把握することができる。

ただし、それがすべて公開されては意味がない。ここでのプロフィールは、相手に知ってもらうという要素以上に、必要とされる人同士をマッチングするための元データという要素が強い。

例えばあるエントリーをしたときに、関連が深いと思われる人物を自動的にリンクする。
あるいは、Q&Aなどで、最適な回答者を見つけ出す。

ただし、こうしたプロフィール情報は、そういった際のデータには使われても、公開はされない。他人の評価や行動解析の結果まで公開されるというのは、さすがに抵抗感が強いと考えられるからだ。

こうした非公開レベルのプロフィールをバックグラウンドで活用するような仕組みが出てくると、SNSの最後のSを「サービス」ではなく、文字通り「システム」として成り立たせることができるのではないだろうか。

そういえば、ナレッジマネジメントの話をしていた頃に、こうした話題ってなかった気がする。技術的な問題が大きかったのだろうが、今であればそういったマッチングシステムを備えたKnowWhoシステムが出来ても良いような気がする。

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