« WALKMAN-S | トップページ | メールチェックはなぜ生産性を下げるのか »

2007年8月23日 (木)

「阿吽の呼吸」を支えるもの

日本人におけるコミュニケーションの独特な特質の一つに「阿吽の呼吸」というものがある。実感としてそういったものがあると思う一方で、なぜそんなコミュニケーション風土が生まれたのか、そもそも阿吽の呼吸を生み出しているのは何なのか、ということを考えていたのだが、なんとなくそのヒントになるようなエントリーがあった。

「企業の透過性」を昔の日本に学ぶ-代替案のある生活
http://blogs.itmedia.co.jp/daitaian/2007/08/post_2fd0.html

この中で紹介されている宮本氏の文章。そこに描かれている日本人の仕事風景というのが、日本人のコミュニケーションの風土の基礎になっているのではないか・・・そんな気がする。

このエントリーの中で高橋さんが書かれている「見られる・見るといった行為から芽生える信頼感」こそが「阿吽の呼吸」の正体ではないだろうか。

そう考えるとその昔、大部屋で仕事をしていた日本人が持っていた「阿吽の呼吸」は、お互いの行動がオープンになっていて「見られる・見る」という環境が生み出していたのだろう。大部屋に入りきらない組織規模になったり、細分化されて個々に仕事をするようになるにつれて、その環境が薄れたことが、暗黙の了解が通じなくなった原因と考えればすっきりするのだ。

ここで考えなくてはいけないのは、この「見られる・見る」という行為に対し、イギリス人が驚きを表明している点だ。言い換えれば、これは人類にとって普遍的なあり方ではなく、独自のものということになる。

そもそも昔の日本人というのは、自然と「言葉に頼らなくても伝わった」のではなく、お互いの行動を見られる・見る関係を意識的に作ることで「言葉以外で伝える」努力をしていたのではないか。だとすると今「阿吽の呼吸が通じなくなった」と嘆く人は、そもそもその努力をしているだろうか。

例えば、イントラブログや社内SNSで、「自分の日記を公開するなんて信じられない」「自分のメモを公開するなんて考えられない」と考える人というのは、そもそも「見られる・見る」関係に自らの身を置くことを拒否しているともとれないか。実はそういった「自分の行動や考えを公開する」ことへの抵抗感が、実は「阿吽の呼吸」や「暗黙の了解」を原因ではないだろうか。

もちろん、イントラブログや社内SNSに頼る必要はないのだ。普段の行動で「見せる」ことを意識しているのでれば。だが、直接的に見せられる範囲には限りがある。特に多くの人数を統括しなければいけない立場の人間こそ、そういった「見せる」相手をどう広げていくか、ということが課題になるはずだ。

結局、社長ブログというのも、「見られる」関係を作るための努力の一環なのだろう。逆にいえば役員室にこもらず、毎日現場に足を運ぶことのできる社長であれば、必要ないものではあるのだ。

|

« WALKMAN-S | トップページ | メールチェックはなぜ生産性を下げるのか »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/22760/16209336

この記事へのトラックバック一覧です: 「阿吽の呼吸」を支えるもの:

« WALKMAN-S | トップページ | メールチェックはなぜ生産性を下げるのか »