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2007年11月30日 (金)

父親は良いのか

昨日の医龍を見ていてちょっと驚いたことがある。

ストーリーを再現して紹介するのが苦手なので、どれだけ伝わるのか微妙なのだが、昨日は主要登場人物の一人である麻酔医(女医)が中心の話だった。

彼女は以前結婚していて子どもがいたが、その子の誕生日に7時に帰ると約束していながら、緊急のオペに入ったために遅くなってしまう。その間に家にいた子どもが発作を起こし、11時頃に帰ってきた弁護士の父親に発見されて病院に運ばれるが、麻酔医のミスで障害を負ってしまう。それが原因で離婚をしているという過去があるのだが、その子どもの再手術で再会する、という話だ。

この話の中で、父親は帰らなかった彼女を激しく非難している。そのあたりの感情なども物語の軸にあるのだが・・・。

いくら帰ると約束をしていたからといって、共働きの家庭で、子どもの誕生日に11時に帰ってきた父親に、緊急の手術で帰れなかった母親をなじる権利はあるのだろうか。彼の話を聞いていると、自分にはまったく責任がなく、一切の責任は彼女にあるかのような物言いなのだ。

ストーリーとしてそうしないと盛り上がらないという要素はあるのかもしれないが、ちょっと考えさせられる父親像だった。

しかも7時に帰るというのはヘルパー(ベビーシッター?)との約束という話らしく、その話を彼は直接は聞いていなかったことも推測された。朝は早く夜は遅い、家庭を顧みていない父親が、子どもが倒れたときには激しく母親を非難する。しかもその母親も働いており、命を預かる仕事に携わっているということも知っている。

なんというか、めちゃくちゃ違和感というか後味の悪さを憶えたのは自分だけだろうか。なんだかな~。

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2007年11月29日 (木)

賞味期限を鑑査する

まだ使えるお札をより分ける作業を「鑑査」というのだそうだ。昨日の毎日新聞の「余録」で紹介されていた。元々の意味は美術品の価値や優劣を審査することだという。

食品についても同じような発想の仕組みはできないだろうか。期限が過ぎていても、まだ食べられるものをより分ける。きちんと保証できる部分と、あくまで自己責任に移行する部分みたいな線引きがさらにあっても良いような気がするが、そういったものをあいまいにするのではなく、はっきりと仕組み化するのだ。

賞味期限の問題は、それを可変的に運用する手段がないことだ。可変的に運用するルールがないから、可変的に運用しようとすると偽装をするしかない。昨日も書いたとおり、食品に限らずモノの状態というのは置かれた環境によっても大きく変わってくる。そこを柔軟に対応するルールがあれば、状況は変わってくるのではないか。

多くの場合、賞味期限というのは「美味しく食べることができる期間」にさらに保存環境による違いというマージンを見て設定されている。そのため「安全に食べることができる期間」というのはずっと長いことが多い。つまり賞味期限は実は「安全」のデッドラインではないのだが、実際には安全のデッドラインとして使われてしまっているのだ。

この安全のデッドラインを、改めて設定し直す仕組みはできないか。できれば、製造段階ではなく、保存状態などを鑑みながら改めて設定できる方が良い。線引きは難しいのだが、そこに製造者ではなく販売者としての「目利き」の要素を入れることで、逆にそれを強みにすることはできないだろうか。

製造者は「美味しい状態」で食べて欲しいから、賞味期限までを責任範囲とする考え方で間違っていない。しかし、流通販売の現場では、そこに価格とのバランスを持ち込むことができる。商品の状態にあわせた価格設定を行い、自らの目利きで品質を「保証」する制度を鑑査として入れることができれば、賞味期限はデッドラインではなく、参考値として活用できるようになる。

そういう二重化を行う行うことはできないだろうか。

日本の食における最大の問題は、安全とか偽装とかいう話ではない、と思う。まだ食べられる食品を、捨ててしまうこと。この食品廃棄の問題こそ、陰に隠れて見えないだけに、大きくて深刻な最大の問題なのだ。本当はその解決を図るために、どう賞味期限などの表示を「生かしていくか」を考えなければいけないと思うのだが・・・。

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2007年11月28日 (水)

賞味期限を変更する

ある食品について、まだ大丈夫そうだから、賞味期限を変更する。これは悪いことだろうか。

「もうダメだと思うけど、売るために変更する。」これはダメだろう。
「(プロとして大丈夫と判断し)もったいないから、変更する。」これはどうだろうか。

どちらも改ざんには違いない。だが、そのあたりの線引きは難しい。
そもそも「製造日」はともかく「賞味期限」に絶対変更してはいけないようなイメージは本来はないはずだ。食品に限らず、保存環境でモノの状態が変わってくるのは珍しいことではない。本来は「短く」なる場合もあるが、それを変更しても改ざんは改ざんだ。

マクドナルドの調理日時の改ざんでそんなことを考えてしまった。もちろんあれは「調理日時」だから、変えてしまうことには問題がある。しかし「まだ大丈夫」という判断には、本当に問題があったのだろうか。

あった可能性もないとは言い切れない。だから難しいのだが・・・。

食品の安全には自己責任がつきまとう。この自己責任というのは、調理した主体にたいするもので、家庭で調理したものであれば家庭にあるし、企業で調理したものであれば企業にあると考えることができる。
(だから昔に比べて企業による加工品が増えた現代では、「企業の」責任領域が拡大しているのだ。これはおかしなことではない。)

家庭での調理では、その責任において「食べても大丈夫」なラインが変動している。
では、企業での調理の場合に、その責任において「食べても大丈夫」なラインは変動してはいけないのか。

もちろん、家庭で調理する場合と企業が調理する場合では、責任主体とリスクを負う主体が異なるという事情がある。だから安易に同列にしてはいけないのだが、「食べても大丈夫」なラインの判断をどこまでガチガチにするかというのは、今一度考えてみる必要のあることなのではないか、という気がする。

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2007年11月27日 (火)

CSRとは何か?

自分では担当を名乗っているくせに、いざ他人から聞かれるととっさに説明できないのは、深く考えていないか、CSRという言葉が結局は言葉にすぎないと考えているからだろう。そこで、考えをまとめる意味も兼ねて、少し整理してみる。

CSRとは何だろうか。日本語では「企業の社会的責任」と訳される。「責任」ではなく「信頼」と解釈されることもあるが、まぁ一般的には責任と考えるべきだろう。

では、企業の社会的責任とは何か。企業が「果たすべき」責任とは何か。社会(世界)の持続的な発展に寄与することだ。そのためには経済活動だけでなく、社会や環境に配慮しなければならない。これがトリプルボトムラインと呼ばれる考え方だ。

また、活動全般において、不正を行ったり、ウソをついたりなど、ステークホルダーを害して自分だけを利するような行為は許されない。このあたりがコンプライアンスなどと関係してくる話なのだが、コンプライアンスそのものはCSRの一部に過ぎない。というか、そもそも企業活動の一部に過ぎないだろう。

ではなぜ企業が社会や環境に配慮しなければならないのか。企業を個人に置き換えてしまえば、そういった配慮は当然と言ってしまえば当然なのかもしれないが、企業が大きくクローズアップされるのは、その規模が大きくなり、時に一国を上回るような影響力を世界に対して持つようになったからだ。

そう考えると、地域に密着し、地域の動向に影響されるような企業の場合は、実はあまり関係がないとも言える。地域の動向に影響を与えるような規模になって初めて、CSRという考え方が重要になってくるのは確かだ。(もっとも、どんなに小さな企業であっても、何らかの影響を周囲に与えるのは間違いないため、まったく無視できるかというとそうではない。)

企業が(特に)問題視されたことにはそういった背景(経済規模の大きさと社会や環境への配慮のバランス)があるからだが、CSRの考え方そのものは企業に限らず、あらゆる組織へと拡大しつつある。現在策定中のISOで「SR」と呼ばれているのはそのためで、どんな組織であっても、社会の一員としてこうしたことを考えましょう、ということが求められつつある。

で、問題は、こうした考え方と、自分の仕事がどうリンクしているかだ。CSRは企業活動全般に関わる話だが、自分の仕事はもちろんそうではない。このあたりが説明が難しかったりする。

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2007年11月26日 (月)

情報共有で共有されるもの

先週、グループウェアと情報共有をテーマにした、とある座談会に参加した際に、ほぼ日手帳にメモしていた一言。

「情報共有は境目があるから成り立つ」(多分これは座談会では発言していない。)

どういうことかというと、情報共有ができている、あるいは情報共有をしている実感は、その情報を知らない人が外部にいて初めて成り立つのではないか、ということだ。全員が知っていることに対して、我々は「情報を共有している」とは感じないのではないか。

社員全員が知っていることでも、世間のすべての人が知っているわけではない。社員という限られた範囲だけが知っているという感覚が、情報共有をしているという実感に結びつくということはないだろうか。

そうすると、会社内においても、特定の人間しか「知らない」情報ほど、それを知る人たちにとっては情報共有を「している」ことにつながらないか。

情報共有ができていないと感じることがあるのは何故だろうか。

それは、共有の境界線の内側にいると思っていた自分や相手が、実は外側だったと知ることによる落胆ではないか。意外と、情報そのものはたいした問題ではないということはないだろうか。

そう考えると、情報共有の目的は、「情報」にあるのではなく「共有」にあるような気がしてくる。心理的な共有感、一体感を持つための媒体の一つとして情報が使われるということだ。腹を割っての飲み会の目的が、「酒を飲む」でも「腹を割る」でもなく、一体感を持つためであるのと同じことだ。

であれば、テーマにはこだわらず、何でも良いから情報を共有できる機会を持つのが良いのかもしれない。もっとも、情報には質の問題があるから、質の低い情報のやりとりの場合、一体感は薄れ共有感はなくなってしまうから、その点には注意が必要だろうが・・・。

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2007年11月22日 (木)

社会貢献とは何か

今日はパソコンを家に置いてきたので、まっすぐ会社に行ったのだが、朝7時半のフロアには、役員と秘書と経営企画室長だけが・・・この人たちが早く来るから会社がやっていけるのか、それとも長時間労働が当たり前になってしまうのか・・・。

それはさておき、そんなわけで今日はブログを書かないという選択肢もあったのだが、ちょっと思いついたことがあって、メモとして残しておく。

「社会貢献」とはなんだろうか。企業の社会貢献に絞っても良い。

利益の一部を、社会活動などに提供すること、と考えてみよう。ビジネスとは無関係(本来まったく無関係というのはありえないが)で、儲けといったことは考えずに資金やリソースを拠出する。それが社会貢献だろうか。

改めて考えてしまったのは、そこには企業側の事情しかないことだ。余剰かどうかはともかくとして、企業が自分のビジネスとは関係ない分野に拠出するリソースは、それだけで社会貢献と呼べるものだろうか。

ボランティア、にも言えるかもしれない。冷たい言い方だが、無償で何かをすればボランティアと呼べるだろうか。

多分そうではないだろう。社会的に解決しなければならない課題があり、そこに対して何らかのアクションを行うことが、社会貢献だ。そしてそう考えると、それがビジネスかどうかは関係ない。企業として対価を得る、あるいは利益を得る営利活動であっても、社会貢献活動としての本質は変わらないのではないだろうか。

どうもそのあたりが混同されているような気がしてならない。

実際には、そんな理屈は考えないほうが気持ちよく活動できるのかもしれないが、どうにも気持ち悪いのだ。営利か非営利かという軸と、社会貢献かどうかの軸は、別に持つ必要があるのではないだろうか。

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2007年11月21日 (水)

本能の脳、理性の脳

昨日のセミナーは、メインテーマは食の安全・安心に関わる話で、それに関しては後日CSR日記に譲ろうと思うのだが、その中でとてもおもしろい話を聞くことができた。

人間は二つの脳を持っているという話だ。

一つは辺縁系を中心とした本能の脳。生まれながらに持っている脳の機能で、恐怖感を根底に物事を白黒に分けて判断する。生き残るために危険と利益に敏感に、直感的に反応するようになっている。

もう一つは前頭連合野を中心とした理性の脳。経験と教育で育つ脳の機能で、リスクを計算して、白と黒の間のグレーゾーンで物事を判断する。人間の行動の9割は本能によるものだが、その一部を理性が押さえ込むことで人間の社会的な行動は成り立っている。

まずおもしろかったのは、「グレーゾーン」の捉え方だ。なんとなく理屈では割り切れないそのあいまいさが、どうにも理性とは遠いところにあるもののように感じていたのだが、実はグレーゾーンというのは理性の産物らしい。スパッと割り切ってしまうのは、実は理屈ではなく本能の領域なのだ。

そして、この理性の脳は「経験と教育」で育つもので、おおよそ高校生ぐらいでそういった脳が育ってくるのだという。もちろん、脳の機能上に表れるような話ではないので、あくまでも観察で得られるも結果だと思うのだが、子どものうちは物事を白黒でしか考えられないのが、高校生ぐらいになるとグレーゾーンを理解できるようになるのだそうだ。

この話で考えさせられたのが、最近は何事も白黒つけるというか、グレーゾーンがない考え方をすること(人?)が増えていないか、ということだった。デジタル的な判断というか、安全でないものはすべて危険として排除し、境界線の線引きが厳密で、何事も決めつけるような傾向が、社会的にもあるような気がするのは気のせいだろうか。

もちろん、なぁなぁにしろということではない。ただ、聞いた上で自らの判断をするのは理性だが、聞く耳持たずに他者に盲従するというのは本能の働きなのだそうだ。そこに対話と自ら考えるというステップを置くか置かないかでは、大きな違いがあるように感じている。

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2007年11月20日 (火)

自分にとっての三つ星

ミシュランの東京版が発表された。発売はまだなので見てはいないが、個人的にはその内容よりも、それを読んだ人がどう動くかということに興味があったりする。

ミシュランの三つ星というのは、旅行してでも食べに行く価値がある料理、というものなのだそうだ。じゃあ三つ星をありがたがる人間はまずフランスに旅行して食べてこいよ、なんてことも思ってしまったが、それはさておきこの比喩はけっこう分かりやすい。

自分だったらどうだろう。自分にとっての三つ星は何だろうか。別に高級である必要なんてない。

ぱっと思いつくのは盛岡のぴょんぴょん舎の冷麺で、最近は銀座でも食べることができるが、実際に仙台からの帰りに盛岡まで足を伸ばして食べに行ったこともある。もっとも、「遠回りしてでも食べる価値がある」というのは二つ星だそうなので、そうなると三つ星とは言えないかもしれない。

そもそも、結構一期一会的で、同じ店に繰り返して行くということがあまりない。「美味しかった」という記憶はそのままにしておいた方が良いこともあるからだ。そういった意味では、「別の意味で二度とは行きたくない」お店という評価があっても良いのかもしれない。

それにしても、散漫な内容になってしまった。寂しいのはぴょんぴょん舎以外のお店の名前が浮かび上がってこなかったことだ。実はお店のイメージは浮かび上がってきたものがいくつかあるのだが、名前が出てこなかった。

やっぱり食べたらちゃんと記録しておかなければいけない。カテゴリーに「食」も作ろうかなぁ・・・。
(というか、そもそももう少し考えてからエントリーを書け。)

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2007年11月19日 (月)

自転車が欲しい

土曜日に「サイクル・モード」なるイベントに行ってきた。色々な自転車に試乗ができて、前から気になっていたBD-1などにも乗ったのだが、改めて、ああ自転車欲しいなぁ~などと思ってしまった。ただでさえ時間がないのに、いつ乗るんだ、という話はあるのだが(笑)

スキーのトレーニングということを考えると、自転車というのはスピード感覚としてもバランス感覚としてもかなり具合がよい。そういった意味では、あくまでも自転車そのものはオマケであるのだが、久しぶりに乗った自転車の感覚はなんとなく頼りなげで、もちろん乗れないことはないのだが、昔に比べて「鈍っている」と感じさせるものだった。

別にスキーのために鍛えなければいけないというものでもないのだが、もともと身体を動かす機会が少ないので、こういったモノでそういった動機付けをするという考え方はある。

うん、すでにモノが溢れている(?)デジタル系のツールをさらに買い足すよりも、自転車の方が良いかもしれない。iPodよりは高いが、VAIOよりは安いぞ(笑)

問題は、そういったある程度しっかりした自転車を買うか、割り切って安い自転車にするかなのだが・・・。

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2007年11月16日 (金)

記憶にない?記録にない?

政治家が宴席に同席していたかどうか、記憶にあるかどうかはたいした問題ではない。問題は記録にあるかどうかだろう。

なぜ「記憶にない」というかというと、人間は忘れる生き物で、こういう言い方なら後から訂正がきくからだ。記録にないと言ってしまったら、そうでなかった場合は虚偽に問われてしまう。

以前、NHKの番組への政治家の圧力が問題になったときにも気になったのだが、いやしくも一国の政治を担う政治家が、自分の行動の記録が残っていないなんてことがあるだろうか。間違いなくその行動はスケジュールとして残っているはずだし、仮に記録が残っていないだとすれば、それこそ後ろ暗いところがあるから「記録に残していない」ということになるのではないか。(偽名でチェックインしたみたいにだ。)

「記録では同席したことになっているが、残念ながら内容は記憶にない。」というのであれば、それはそれで仕方ないような気もするのだ。自分だって、何年も前のある会合の内容なんて思い出せない。思い出せないから重要なことはメモに残すのだ。記録とはそういうことだろう。

福田首相ではないが、そういった会合に出ることは政治家にはよくあることだろう。しかし、それが記録に残っておらず、記憶に頼るというのであれば、そっちのほうがよほど問題ではないだろうか。国家の重要な機密に触れ得る人間が、「記録にも記憶にもない」なんて情報管理で良いと思っているのだろうか。

記憶にないなんて、そんな甘い情報管理で済むような立場か?何年何月何日何時何分はどこにいた、といえるぐらいきちんと管理できるぐらいの人でなければ、国政を任せるなんてできない気がするのだが、どうなのだろう。

最近の食関連の企業の不祥事では、記録としての表示が改ざんされていることへの問題が大きくクローズアップされている。そういった記録管理ができていない企業は叩きに叩かれるのだが、不思議と政治家などは記録より記憶が重要らしい。

国会も、証言させるぐらいなら証拠を出させればよいのだ。スケジュールを提出させ、検証すればよい。記者達も、記憶にあるかなんてあいまいなことではなく、日時を特定した上でその日どこにいたのか、それこそ記録としてのアリバイを聞けば良いと思うのだが、なぜそういった追求をしないのだろうか。

名もない一般市民が犯した犯罪なんかでは、生い立ちまで含めて根掘り葉掘り調べだし、その日の行動のシミュレーションまでやってのける彼らが、どうしてその日彼らが何をしていたかなんて些細なことが調べ出せないのだろうか。

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2007年11月15日 (木)

万年筆

最近万年筆に興味がある。

いきなり高い万年筆を買うというのは、すぐに使わなくなったときにもったいないので、とりあえずオフィスデポでpreppyという200円ぐらいの万年筆を買ってみた。

これが、なかなかよい。字が上手くなった・・・ような気がする。

もちろん冷静に考えれば筆記具を変えたぐらいで字が上手くなるわけがない。違うのは若干ていねいに書くようになったことだ。書いてみるとわかるのだが、ボールペンやシャープペンシルと違って、乱暴な書き方ができない。

急いで書こうとするとかすれてしまうし、筆圧にも注意しないといけない。自然とゆっくりと気にしながら書くようになる。
これは自分のように「乱暴に書いて結局悪筆」みたいな人間には、書き方の矯正用として良いかもしれない。

書いた字を見ると、悪筆は変わらないのだが、ボールペンなどと違ってどことなく柔らかさがある。微妙な濃淡の違いや太さの違いが、その時の心境を表わしているようでおもしろい。ボールペンと違って裏に筆圧による凸凹ができることもない。

元々ほぼ日手帳での書き物用には4色+シャープのClip-on maltiと、2色+シャープのシャーボXを差しているのだが、実はあまり色を使い分けられていない。そもそも使い分けるようなメモをしていないのだ。そういった意味では、万年筆の単色でもあまり困らない気がする。

もうしばらく使ってみて、具合が良さそうなら、少し高めの万年筆を買ってみる予定。といっても5,000円ぐらいでよいのだが(○万円というのはちょっと・・・)。

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2007年11月13日 (火)

スケジュールを何に入力するか

さて、Outlookを入れたということで、いよいよGoogleカレンダーとの同期が(原理上は)できるようになったのだが・・・根本的なジレンマにも直面してしまった。

会社ではほぼパソコンを立ち上げっぱなしなので、Googleカレンダーも開きっぱなし。当然、新しい予定が発生したら、それはGoogleカレンダーに入力する。一方Googleカレンダーに入力した後、持ち歩くためのCLIEにその情報が反映されるのは・・・自宅に帰ってからだ。

いやいや、これは思った以上にストレスだった。iPodのように、最初から入力ができないと割り切れていれば良かったのかもしれないが(多分それでもストレスは感じただろう)、その場で入力可能なCLIEが手元にあるのに、同期のためにその場では手をつけない。これは精神的には相当よろしくない。

たまたま昨日発生したスケジュールが今日の予定、つまり翌日のスケジュールだったことも関係しているかもしれない。同期が済む頃にはあまり意味がなくなっている予定といえば予定だ。Googleカレンダーを使うようになってから、直近の予定をちょこちょこと変更するようなこともするようになっているのだが、これまた対応が難しい。

いきなり同期計画の挫折である。

さらに家に帰ってからGoogleカレンダーの予定をOutlookに流し込む作業をやってみたのだが、同期ではなく追加になってしまうため、どうもその都度前の予定を削除する必要があるような気配が・・・。これはもう少し調べてみたいと思うが、その他にもプライベートの予定で設定されてCLIEではマスクされてしまう(そういう設定にしている)とか、やってみると色々な問題が分かってきた。

ただいずれにしても、根本的な部分で入力の一元化をどうするか、という問題が横たわっているのは間違いない。ここをなんとか割り切る方法を考えないと、両者のスケジュールを同期させていくというのは難しいだろう。

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2007年11月12日 (月)

Outlook2003

今更のような選択だが、Outlook2003を購入して自宅のPCに導入した。2007ではなく2003にしたのは、CLIEと同期をするためで、手元にある同期用のIntellisyncでは、2003までが限界だからだ。
そろそろこのあたりでPC側のソフト(のデータ)ぐらいは切り替えておかないと、気付いたらCLIEに蓄積されたデータは吸い出せなくなるかもしれないと、重い腰を上げることにした。

とはいえ、色々と混乱もあった。

今のPCには以前Outlook2000を入れていて、やはりCLIEと同期していたことがある。ソフトはきれいさっぱり消したつもりだったのだが、今回2003をインストールしたら、当時のデータがすでに入っている状態だった。どうもデータに関しては消去できていなかったらしい。

Intellisyncについても、一旦右往左往しながら苦労して消去したのだが、今回はOutlookとだけ同期ができればよいので、CLIEに付属していたIntellisyc Lite for CLIE(Outlook2003用のパッチはHPで公開されている)を入れようとしたら、上手く同期ができない。さては、と思いついて、Intellisyncを引っ張り出してきて入れてみたら、とりあえず同期できるようになった。

意外とこういったソフトは、消したようで何らかの情報が残っているものだ、と妙な納得をしたのだが、Outlook側に以前のデータが残っていることもあり、同期をするのはドキドキだった。重複による競合を避けるために、以前PC側のデータを消去してCLIEのデータを流し込もうとしたら、CLIE側も消えてしまうという失敗してしまったことがある。(その時は確かバックアップから復活。)

今回はとりあえずどちらも生かす形で同期をとる。過去のデータは重複してしまっているかもしれないが、ようは分かれば良いのだ、と割り切ることにした。

次はGoogleカレンダーとの同期が課題だが、それはまだ未着手なので、ぼちぼち進めていくことにする。

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2007年11月 9日 (金)

第九のスコア

どうしようか迷っていたのだが、結局ベーレンライター版のスコアを買ってしまった。
パート譜が切り替えになったということもあり、思った以上に従来のスコアとは違っているところがあると分かってきたからだ。

迷ったときに戻れるスコアがないのは結構つらい。実際の所はそれほど使用頻度が高いわけではないのだが、半分は自分を安心させるためのようなものだ。ちょっとばかし値は張るのだが・・・。

昨日スコアを買った後、帰りの電車の中で音楽を聴いていたら、たまたま第九が流れ出した。早速スコアを取り出して眺めながら聴いていたら、涙が出そうになった。

やっぱり第九はいい。

だからというわけでもないが、ご案内。

府中「第九」2007

日時:07/12/16(日) 13:30開場 14:00開演
場所:府中の森芸術劇場 どりーむホール
曲目:ベートーベン
    歌劇「シュテファン王」序曲作品117
    交響曲第9番 ニ短調作品125 「合唱付」
指揮:森口真司
ソプラノ:半田 美和子
メゾソプラノ:加納 悦子
テノール:大槻 孝志
バリトン:青山 貴
合唱:府中「第九」2007合唱団
演奏:府中市民交響楽団

入場料:2,000円(全席自由)

主催:府中「第九」2007実行委員会
協賛:(財)府中文化振興財団
後援:府中市

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2007年11月 8日 (木)

本物の味

少し前に車内吊りで見かけて、なんの雑誌だったか忘れてしまったのだが、こんな見出しがあった。

食の安全は“本物の味”を知ることから

記事も読まずに批判するのか、と言われそうだが、この車内吊りの見出ししか見ていない人もいるはずだから、この見出しについて考えてしまったことを書いておく。この見出しからどんな印象を受け、どんなことを感じたか、ということで、記事の趣旨とはまったく関係ない。

“本物の味”とはどんな味だろうか。

こうした主張を目にすると、ついついそんなことを考えてしまう。顆粒状の即席だしではなく、きちんと昆布や煮干しからとっただしといったものが“本物の味”ということだろうか。インスタントではなく、自分でひいてドリップしたのが本物のコーヒーということだろうか。

もう少し突き詰めると、「本物」と言っているときに対比されている「偽物」とはなんだろうか、ということだ。「贋物」でもいい。それを明確に自覚した上で言っているのか、それがよく分からないから、どことなく胡散臭さを感じてしまうのだ。

本物と偽物はだれがどのような基準で決めていて、その決め方には問題はないのか。

それだったら、まだ「本来の味」の方が良い気がする。これは時間軸のある言い方で、「昔ながら」とか「従来のやり方で」といったニュアンスもあるからだ。さらにいえば、どちらが良いという無意識の決め付けの要素が薄い(まったくないとはいえないが・・・)。

食の安全(ここでは衛生面品質面での安全に限っておく)を考える際に、「本物」ではなく「本来」のやり方を知り、「現在の」やり方と比較するのは意味があると思う。そしてそれは多くの場合、まったく逆の認識の変化を招くだろう。少なくとも科学的には、現在のやり方のほうが優れていることが多いからだ。

ただし、「情緒的には」そうではない場合が多い。そして多くの場合、人が安心を感じるのは科学的ではなく情緒的な視点からなのだ。

「本物の味」にしても、情緒的な意味合いが強いような気がしてならない。

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2007年11月 7日 (水)

帯グラフ人間

結構前のエントリー(といっても先週)なのだが、POLAR BEAR BLOG「帯グラフ人間」より「TO DOリスト人間」にというエントリーがあって、あらためて考えてしまった。

というのも、最近Googleカレンダーで1日のTO DOを含めたスケジュールを組み立てることが多くなっているからだ。

こうして私たちは、無意識のうちに「今日はこうしよう」という帯グラフを作成し、それを守ることに執着する姿勢が強化されているのかもしれません。

Googleカレンダーのバーチカルタイプの週間スケジュールを眺めながら、「本当に帯のようになっているなぁ」と少々気が重くなってしまった。帯というよりまさに時間割に近い。

正直なところ、最初のうちは良かったのだが、これが最近だんだんと重荷になってきているような気がする。

無論空き時間を一目で把握できたり、どういった作業にウェイトをおいているか(テーマによって色分けをしている)が簡単に分かるという利点はあるのだが、予定した枠内に終わらなかったり、「ああ、あれに手をつけていない」ということも分かったりして、結構ストレスがたまるのだ。

個人的には、帯グラフではなく「To Do リスト」をメインにして行動することで対処できるんじゃないか、と思います。つまり「9時に会社に到着して、12時までに書類作成、13時まで食事休憩とし、その後15時まで資料収集……」というような方法で計画を立てるのではなく、「今日やらなければいけないことは、優先度の高い順番に1.書類作成 2.資料収集……」のように行動する、と。

そんなわけで「TO DO人間」になるということは大きなポイントではあると思うのだが・・・昔からこの「TO DO」というのがうまく使えたためしがない。実際のところ、Googleカレンダーの「帯」も、半分はその日のTO DOを管理するためのものなのだ。

そういった意味ではどっぷりと「帯グラフ」が染み付いてしまっているということなのかもしれない。なんだかうまい方法ってないんだろうか。

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2007年11月 6日 (火)

昨日のメモの(一部)まとめ

昨日挙げたメモのうち、取り急ぎパッとまとめられるものはまとめておくことにする。(じっくり一つのエントリーに仕上げられないともいう。)

「企業の成長」と「事業の成長」・・・成長の限界はどちらに生じるのか。
これは、成長というのが無限に続けられるものではないとしたら、企業はどうしていくべきか、という話だ。ある商品をあまねく世界に広める、という事業を手がける場合でも、絶対に市場の限界はくる。その時に企業はどうするべきなのか。

そこで良く行われているのが、別の事業に転換することで、企業の成長を維持することなのだが、それにしたってどこかで限界はありそうなので、何か別の視点はないのか・・・ということでメモをしたのだと思うのだが、それ以上は進んでいない。

CSRという言葉・・・調達における「CSRの要求」、従業員への「CSR教育」とは何か。
これは、CSR日記のほうで、いつか書くことにする。(というか、今週中には書きたい。)

「そうは言っても」を逆に使う
理想はわかる。言っていることはわかる。でも「そうは言っても」現実にはそうは言っていられないだろう。

・・・ではなくて、

現実は確かにそうなっている。でも「そうは言っても」理想はこうあるべきだし、こうありたいよね。

という言葉の使い方をすることで、もう少しポジティブにならないかな~という思いつき。

フットワークの軽さ
先日「話を聞かせて欲しい」と来社された他社の方のフットワークの軽さを見習いたい。最近、机の前に座っていることが多すぎる気がする。

会社のパソコンがデスクトップになったというのは・・・関係ないか。

残りの二つは、他のブログへのトラックバックにもなるので、改めて整理することにする。

  • タバコ部屋はコミュニティにつながるのか。
  • 帯管理よりTODO管理。

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2007年11月 5日 (月)

パソコンとブログ復活

先週はとある検定試験の勉強に朝の時間を与えるため、ブログを書かなかった。当然パソコンを持ち歩くこともなく、かわりに検定用のテキストを鞄に入れての通勤だったのだが、重さにはかなりの違いがある。今日は久しぶりにパソコンが鞄の中に復活し、改めて肩にその重さを感じた。

なんとかしたいと思いつつ、この朝の時間は貴重だから、持ち歩くのをやめるわけにもいかない。

1週間もブログを書かないと、どうなることかと思ったが、特に生活が変わることもなかった。もっとも、いくつか書きたいネタは生まれたので、それを書いていくことにする。

ざっとメモを挙げておくと・・・

  • 「企業の成長」と「事業の成長」・・・成長の限界はどちらに生じるのか。
  • CSRという言葉・・・調達における「CSRの要求」、従業員への「CSR教育」とは何か。
  • 「そうは言っても」を逆に使う。
  • フットワークの軽さ。
  • タバコ部屋はコミュニティにつながるのか。
  • 帯管理よりTODO管理。

といったところだろうか。何となく着想した物や、他のブログを読んでのものなど、毎日書いている時には意外と浮かんでこないのだが、書かないでいると俄然気になったりして、メモをとっていたりする。

それから、今回の勉強でちょっとだけ生まれた本を読む生活パターンをなんとか維持していけるようにしたいところだ。まずは1冊鞄の中に入れてきたのだが、おかげで鞄がさらに重くなってしまった・・・。

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