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2008年2月29日 (金)

食品の偽装

食品の偽装はなぜ許されないのか。

そんなことを改めて考えてしまったのは、日本テレビの「ACTION 日本を動かすプロジェクト」のブログ(?)でこんな記事を読んだからだ。

うな重171万個分!!ウナギの産地偽装発覚(第4回)
※ちなみに「第4回」というのは、このウナギに関する第4回目の情報というわけではない。ちょっとわかりにくい。

最後にこんな一節がある。

> 「食品偽装は絶対に許さない」という声をもっともっと大きくしていかないと事態は変わりません。

もちろん、偽装は擁護されるものではないし、許されるものでもない。しかし、なぜ「許されない」のかはもう少し突き詰めて考える必要があるだろう。

気になってしまうのは、無意識に「偽装=危険」というリンクができてしまっているのではないかということだ。無論危険に結びつく可能性はあるが、食品による危害は偽装には関係なく起こりうることだし、偽装されているから必ずしも危害があるという訳でもない。

偽装と安全で考える場合、むしろ多くの偽装は「安全と判断されるから」行われるとは言えないだろうか。危険を偽るのではなく、これぐらいは安全だから偽っても大丈夫という判断に基づいて行われてしまっているのではないか。

だとすると、偽装が許されない理由はなんだろうか。

個人的な答えはある。それは偽装による信頼の崩壊は、食文化の崩壊に結びつくというものだ。

食文化というのは、「他人の作ったものを食べる」「作ったものを他人に食べてもらう」という関係があって成り立っている。そのベースにあるのは「作った他人は原則として信頼できる」という共通認識だ。この信頼がなければ、食文化は成り立たない。
(この考えは脳科学者の茂木健一郎氏が「食のクオリア」という本で提示していたものだ・・・自分は読んでないが。)

偽装というのは、その信頼に対して決定的なダメージを与えてしまう。だから許されないのだ。

・・・と思うのだが、そういうことはどこまで自覚されているのだろう。

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2008年2月28日 (木)

今日の仕事の成果

「今日の仕事の成果は何だったろうか」昨日の帰り道、そんなことをふと考えた。
・・・出てこない。

やったことが出てこないわけではない。だが、それは成果だろうかと考え込んでしまったのだ。
レポートの台割を作成し、事業所へのアンケートの集計をして未回答の事業所へ返答を促し、レポートサイトのための打ち合わせをし、社内向けメルマガのための原稿を書いた・・・それらは成果だろうか。

それを成果として自覚できない自分の感覚の根拠はどこにあるのだろう。そもそも、自分は「成果」の定義をきちんと持っているのだろうか。

成果・・・あることをなし遂げて得たよい結果(明鏡国語辞典)

なるほど、自分は昨日確かに先に挙げたような仕事をこなしたが、継続的な内容のためにある意味「なし遂げて」はいない。その「終わっていない感覚」が、成果感(という言葉があるのかは知らないが)につながらない理由と考えると、なんとなくつじつまはあう気がする。

ようはゴールを明確にしているかということなのかもしれない。

その日の成果を朝イメージして仕事に臨め、と言われるが、それは単に「これをやろう」ではなく「ここまでやろう」を明確にする必要があるのだろう。「ここまで」がはっきりしていれば、なし遂げたかどうかがはっきりする。さらにいえば、それが「よい結果」である必要がある。

さて、今日の仕事の成果は・・・。

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2008年2月27日 (水)

信頼性を確保するには

昨日は業界内のCSR勉強会に参加。ISOの動向などについて話を聞いた。

今、勉強会の中で大きな話題になっているのは、第三者認証の動向だ。SRに関する規格(ISO26000)は、あくまでもガイダンスで、そういった第三者認証は求めないとしているが、ガイダンスの思惑と実際に参考にする社会の思惑は必ずしも一致しない。ISOが求めていないといくら言っても、社会が認証を求めるようになれば、現実には応じざるを得ない。

仮にそれを突っぱねたとしても(ビジネス上はかなりのリスクだが)、ISOが求めている「信頼性の確保」という点での課題は残したままになる。レポート一つとってもどう信頼性を確保するかというのは大きな課題だが、組織のSR全般に対して信頼性を確保するには、どうしたらよいのだろう。

ただ、疑問もある。そもそも「信頼」とは客観的に評価できるものだろうか。相手を信頼するのは、自分自身の判断でしかあり得ない。他人がどんなに「この人は信頼できます」と言っても、それでその人を信頼するかどうかは自分次第だ。

信頼は主観的な評価でしかあり得ないのではないか。ついついそう考えてしまうのだが、そうなるといよいよその信頼性をどう確保するかというのは難題になってくる。

それでは、信頼というのをもう少し分解したらどうだろうか。例えば「正確性」であればかなり客観的に評価ができる。
意外と、「信頼」という言葉を使ってしまうのがいけないのかもしれない。他に客観的に評価が可能な尺度というのは何があるだろうか。

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2008年2月26日 (火)

週末の充実感

日曜日のミニクラシックコンサートは、とりあえず無事終了。
なんとか破綻せずに済んだが、録音を聞直してみると一部の方々から指摘されたとおり、リーダーシップがないということは言えるかもしれない。メンバーがそれぞれお互いを窺いながら演奏していて、「可もなく不可もなく」という感じのアンサンブルになっており、少々物足りない。

誰か一人が強烈に個性を発揮して、それに残りがあわせていくという形だと、良くも悪くももう少し色の付いた演奏になったのだろう。今後も同じメンバーでやるのであれば、このあたりは課題になってくる。(メンバーが変わっても課題は同じか・・・。)

そのコンサートの打ち上げは抑え気味にして、翌日は休みを取っていたのでスキーに行く。

久しぶりに「これでもか」というぐらいに滑る。やはりゲレンデに人が少ないというのは大きい。

個人的なターンの好みとして深い弧を描くロングターンが好きなので、人口密度が高いとそういったことができず非常につらいのだ。土日に無理して何度も行くよりも、回数を減らしても、休みを取れる範囲で平日に行く方がシーズンの充実度も高くなるような気がしてきた。

そんなわけで週末(+1日)はかなり充実していたのだが、後はもう少し仕事の充実度を上げたいところだ・・・。

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2008年2月21日 (木)

捨てる技術

縁があって、辰巳渚さんの『「捨てる!」技術(新装・増補版)』(宝島社新書)を読んだ。1日で読んでしまったのだが、さらっと読める本というのは、多分自分の考えに近いからだろうなと思う。読むのに苦労する本というのは、そうではないということだろう(笑)

それはさておき、この本に書かれている主張は個人的には非常に納得のいくものだった。
「捨てる」というから言葉のインパクトが強いが、この本が訴えているのは、ようするに「使う」技術なのだと思う。使うということを、最終的に手放す(捨てる)ところまで含めた概念と考えれば、「捨てる」という言葉に抵抗のある人も理解できるのではないか。

この本は「捨てたくない」モノまで捨てることは勧めていない。そこまで想いが強くはない「捨てられない」モノは捨ててしまおうと勧めているのだ。そういう視点で自分の身の回りを見回すと、「捨てたくない」モノもあるが、なんとなく「捨てられない」程度のモノも確かにある。

ようは一つ一つのモノときちんと向き合って使おう、使わない(使えない)のであれば処分しよう。それがそのモノのためだということなのだ。この処分というのは、必ずしも廃棄だけを意味しないが、自分が手にしたモノへの責任として、きちんと廃棄するというのも大切だということを考えさせてくれた。

捨てる痛みをきちんと感じることが、不要なモノを買わないことにもつながると考えれば、リサイクルされるからと使い捨てたり、捨てないけれどもどんどん買って溜めていくだけという状況を抜け出すことにもつながる。(使わないモノをただ手元に置いておくというのは、つまり自分の懐に「捨てる」ということだ。)

とはいえ、実際にやろうと考えると、一気に捨てるというのは正直しんどい。

今は続編である『もう一度「捨てる!」技術』(宝島社文庫)を読んでいるのだが、そこに書かれている「メンテナンス」の考え方で、ちょっとずつやっていくのがよいのかもしれない。

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2008年2月20日 (水)

気候変動リスクの評価

昨日職場の勉強会があって、ボスがリスクマネジメントについての話をした。
リスクを洗い出し、優先順位をつけて対応する。リスクの低いものは発生しても仕方ないと腹をくくることが大事なのだそうだ。

その際の優先順位の付け方は、影響度と発生可能性。影響が大きくても発生可能性が低ければリスクは低いし、発生可能性が高くとも影響度が低ければやはりリスクは低い。これはよく分かる話だ。

そこで質問してみた。「気候変動リスクについてはどう評価するのか。」

気候変動は、手をこまねいていれば確実に発生すると言われている。一方で今発生する訳ではない。影響度はともかくとして、その発生可能性をどう評価すればよいのか。

個人的には、そうした評価軸が現状のリスク評価システムにないことが、気候変動への対応を鈍らせているのではないかと思ったのだ。

対するボスの答えは、「気候変動では大きすぎるため、具体的に発生するリスクを別個に洗い出して評価する必要がある。」

なるほど、そう考えると、気候変動リスクに関する話は、大きいレベルの話ばかりで、具体的なリスクの評価がされていない(されているのかもしれないが、伝わっていない)ということなのかもしれない。そのために、具体的にどう対応するかという評価ができず、何でもかんでもやるという「足きりができない」状態に陥ってしまっているのではないだろうか。

リスク評価の視点で見たときに、今市民レベルで行われている意識としての「エコ」はどれだけ重要なのか。チームマイナス6%などでうたわれているアクションは、どういったリスクに対してどういった効果をもたらすのか。それがきちんと見えてくると、漠然と「やろう」ではないかけ声になってくるのではないか。

そういった評価は専門家の間ではされているのだろうか。そうした評価を伝える努力はしているのだろうか。

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2008年2月19日 (火)

卓上カレンダーよりGoogleカレンダー

以前卓上カレンダーの活用について書いたのだが、いまだに上手く活用できていない。ほぼ日手帳の月間スケジュールページもそうだ。しかし、よく考えてみると、CLIE(&Outlook)にGoogleカレンダー、会社のNotesカレンダーに予定を入力するだけでもすでに手間なのに、さらに卓上カレンダーやほぼ日手帳なんて考える方が間違っていたかもしれない。

実際の所、最近はそれぞれのカレンダー間で齟齬が生まれつつある。

自分の中で、基本となるスケジュール管理はCLIE&Outlookだ。プライベートの他、訪問や打ち合わせなど、相手があって外してはいけない予定を入力する。

その予定はGoogleカレンダーに定期的にインポートする。毎日だとしんどいので週に一度程度なのだが、当然それまでの間はGoogleカレンダーにも仮入力をしている。

Googleカレンダーには、その他個人的な作業予定や、把握しておく必要のある他の人の予定なども可能な限り別のカレンダーとして書き込む。仕事中はほぼ立ち上げっぱなしなので、日中の管理はGoogleカレンダーで行っていると考えて良いだろう。

Notesのカレンダーは職場内での共有のためで、基本はCLIEと同じような予定(プライベートは除く)を入力する。これは抜けがちなのだが、まぁあくまでも共有用だし、実際には「空いていればどんどん予定を入れても良い」みたいなスケジューラの文化は自社にはないため、どの程度他の人がチェックしているかも怪しかったりする。

こう考えると、さらにカレンダーを追加するなんて無理というか無駄だろう。基本的にはGoogleカレンダーをきちんと使うようにするというのが、一番効率が良い気がする。実際のところ、日中ほぼパソコンの前にいることを考えると、CLIEよりも利用頻度は高いのだ。

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2008年2月18日 (月)

ようやくスキーに行く

土曜日にようやくスキーに行ったので、その感想など。

前週が三連休だったためか、翌日に東京マラソンを控えていたためか、理由は定かではないが、とにかく空いていた。もちろん平日ほどではないが、レッスンなどの集団に巻き込まれない限りはほとんど待つことがなく、昼食の時間帯にはスルーでリフトに乗れるほどだった。

晴天だったのだが、気温は低く、寒かった。おかげで雪がだれることもなく、夕方まで快適に滑ることができた。そこで、少しじっくりと自分の滑りをチェックしてみる。

左右のターンを比較すると、軸足である左足に比べ、右足に過重する場合(左ターン)のバランスが安定しない。若干内倒気味で、しっかり外足に乗り切れていないのだ。ただ、左足に過重する時も、なんとなく遠心力でバランスをとっているようで、スピードが落ちてくると安定しない。そういった意味では、左右の違いというのは遠心力に耐える脚力の問題かもしれない。

滑りながら、そういえば正月のスキーの時に、夜見せてもらったビデオで低速でのトレーニングをチェックしたのを思い出した。思い出したが、トレーニングの内容を思い出せない。メモをしておいたのに、チェックしてこなかったのを後悔する。

そんなわけで、家に帰ってからメモを読み返してみたのだが、いくつかどういうことだったかイメージできないメモがある。すっかり忘れてしまったらしい・・・。

いずれにしても、次の課題は内足の使い方かなとも考えた。外足に乗るのはもちろんだが、最近は内足をいかに使うか、言い換えるとどう両足をフルに活用するか、ということが問われているらしい。長年染みついた外足過重から内足も使うようにするのは結構難しいのだが、少しずつ意識していきたい。

といわけで、来週も行くようにしよう。

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2008年2月15日 (金)

そういえば練習していない

そういえば今週は楽器の練習をしていない・・・ということに気付いたのが木曜日。月曜日が休みだったせいか、曜日の感覚がずれてしまっていた。

急遽サイレントでちょっとだけさらう。ほんの短時間だが、もう大体弾けるようにはなってきているので、後は指に定着させて忘れないように強化していくことが中心になる。やらないよりはちょっとでもやった方が良い。

今回は、かなりやばいのだ。オーケストラの中にいるときは少々間違えても(笑)周りにカバーしてもらえるが、弦楽四重奏ではそうはいかない。怖いのは落ちてしまった時で、本番でとっさにリカバリーして復活できるほどには弾き込んでいない自覚がある。練習では大体復帰できるようにはなっているが、本番の雰囲気はまた違うからだ。

とはいえ、今週末は(明日は?)スキーには行きたい。モチベーションが下がっているとはいえ、こちらもだからといって滑らないでいたらどんどん感覚は鈍っていく。行けばそれなりにモチベーションは上がる。ようは行くための一歩を踏み出すのがおっくうになっているのだ。

大体、前もって計画するのではなく、いまだに「今週も行こう」「明日行こう」とか、行き当たりばったりな行き方をしているから、その気にならないのかもしれない。

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2008年2月14日 (木)

最近メルマガをあまり読んでいない

いやそれだけではなく、そもそも何かを読んで「考える」ということ自体の機会が減っている気がする。
ネット上のコラム、ブログ、本、雑誌、新聞・・・はまぁ目は通しているか。

そういったインプットは、意識してでも時間を作って行っていく必要があるのだろう。ブログなども、自分の考えと思いつきだけで書くようになってくると、インプットを意識することがあまりなくなってくる。(まあもともとあまり意識したことはないのだが。)

内面世界をこねくり回すだけのアウトプットは、一度慣れてしまえば際限なく続けていけてしまうのだ。そうではなく、何らかの情報を自らにインプットして処理し、適切にアウトプットする、というサイクルを作るようにしないと、ナレッジマネジメントでいうような知のスパイラルは生まれてこない。

もっとも、メルマガを読まなくなったのは、その刺激というか、インプットとしてのインパクトが薄れているからかもしれない。少しじっくり腰を据えるような読み物を探してみようかな・・・。

(・・・と、こんなアウトプットは、なんのインプットもなくてもできてしまうのだ。こうしたブログのエントリーも、時々ならともかく、続いてくると単なる自慰行為になってしまうわけで、発信する以上そこに何らかの価値を付加していけるようなスパイラルを作り上げる必要があるのかもしれない。)

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2008年2月13日 (水)

モンスターを生み出したもの

昨日は諸事情によりブログは休んだのだが、休みも含めて4日も書いていないと、ずいぶん長い間書いていなかった気になる。
直前に書いたものを読んでも、ずいぶん前に書いたように感じるのは気のせいだろうか。

さておき、休み中に読んだ読売ウイークリーで、「モンスター」が特集されていた。(というか、それを読むために買った。)職場、学校、病院、近所と、モンスターと呼ばれる、他者に対して身勝手な要求を繰り返す大人が増えているという記事だ。

記事を読むとなるほど、と思ってしまうのだが、まてよ、と考え直した。『モンスター「タイプ別」攻略法』という記事の中にこんな一節があったからだ。(この攻略法というのはモンスターペアレンツ向けの内容。)

「保護者が子どもの様子を客観的にとらえており、苦情内容が正当で理解できるタイプだ。苦情の圧倒的多数はこのタイプに属する。学校側の不適切な対応が原因で引き起こされる。」

この記事ではモンスターのタイプを「現実正当型」「理解歪曲型」「過剰要求型」「解決困難型」の4つに分類しているのだが、その「現実正当型」の説明が上記の一節だ。

書いてあるとおり、本来苦情は圧倒的多数が「現実正当型」にあてはまるはずだ。そして、今に限らずその他のタイプはどこにでもいたのではないか。いや、「どこにでも」という捉え方は適当でないかもしれない。その他のタイプも「いなかった訳ではない」のではないか。

それが「どこにでも」いるように感じるのは、こうした記事を通して感じているだけではないだろうか。こうした情報を持たずに接していた場合に、「ああ、こういう人もいるんだ・・・」ぐらいで終わるものが、こうした情報を持っているが故に「こういう人が増えた」と感じてしまうのではないだろうか。

モンスターを生み出しているのは、モンスター自身ではなく、彼らをモンスターと評する自分たちかもしれないのだ。

・・・もっとも、だからといってそうした情報を遮断しろとか、そういったことが現実にできるわけではない。ただ、こうした情報に接したときに、一旦立ち止まって考える必要もあるのではないか、という、ある意味当たり前のことを感じたのだった。

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2008年2月 8日 (金)

スキーへのモチベーション

自分にとってはかなり由々しき事態なのだが、正月以来スキーに行っていない。去年もそうだったが、以前はシーズンに10日以上行っていたことを考えると、激減してると言っていい。

指の怪我とか、通院などいくつかの事情があったのは確かだ。今の仕事になってからこの時期は忙しい(本当のピークはもう少し先だが、この時期は色々と考えることが多くて精神的に余裕がなくなる)ということもあるし、オーケストラとかKM学会とか、色々とやることが満載ということもあるだろう。
しかし、それ以上に、スキーに行くこと自体のモチベーションが自覚できないレベルで下がっているのではないかという危惧がある。

一つ考えられる理由が、スキー板を変えたことだ。今のスキー板にしたのは確か2年前のシーズンからだが、ちょうどその頃から回数が減っているような気がする。これはどういうことか。

今使っている165cmのカービングスキーは、確かにおもしろいほどに操作しやすい。踏み込みに対してきちっと反応し、きれいに弧を描くことができるターンは爽快だ。爽快だが・・・そこで止まっている。シャープなターンができるのは確かだが、おおむね弧が一定で、大きくなったり、小さくなったりというぶれがない。

それはサイドカーブにあわせて気持ちよく回ることのできるターン弧が決まってしまっているからだが、一方で、そこを外すとシャープさが失われてしまい、どうもおもしろくない。

そのため、多分スキーに「乗せられてしまっている」と感じているのだろう。スキーが気持ちよく回れるターンを決めて、自分はそれに乗っかっているだけ。自分にそういった性質があるとは思わないのだが、上手く扱えないスキー板を克服していく、という感覚がそこにはない。

あるいはこれは、次のステップに上がるための壁が来たと捉えることもできる。今は確かにスキーに乗せられているだけだ。ここからさらに踏み込んで一段上のコントロールを身につけなければいけない時期が来たのだが、その壁の前で立ち往生してしまっている、ということかもしれない。

いずれにしても、これだけ行っていなくて、それでもそれほど飢餓感がないということは、モチベーションが下がっているのは間違いない。

正直な話、スキーへのモチベーションが「下がった」のではなく、モチベーションの構造自体が「変わって」しまったのではないか、というもっと別の危惧もあるのだが、それはまた別の機会に考えることにする。

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2008年2月 7日 (木)

はてなのサービス

会社で週に1回「気になる出来事」なるコラムを書いている。週末に、その週にあった気になる記事を取り上げて個人的意見を書くものだが、そのネタ集めのために新聞を読むというのが、意外としんどい。
正確に言うと、読む時間の確保と、読んだときに思ったことをメモしておくのがしんどい。

今は昼休みを利用して新聞を読む。昼食をシリアルバーなどで簡単に済ませるようになったので、食べながら読み、思いついたことはメモをしておくようにする。(時々は外食するので、そういったときはできない。)

メモは、手帳に書き込んだり、面倒なのでコピーをとるなどしていたのだが、最近ははてなダイアリーを使うようになった。
これが結構重宝したりする。もちろん、「会社の机の上だから」という条件ではあるのだが。

はてなの使い方はよく分かっておらず、使うのは今のところブックマークとダイアリーだけなのだが、他にも便利なサービスがあるのだろうか。ちょっと調べてみようかな・・・。

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2008年2月 6日 (水)

準備不足

昨日上司からそれとなく(だと思うのだが)諭されたのだが、どうも自分は物事に対する準備が足りないらしい。

(具体的にはどんな話だったかというと、最近読んでいるという「甲子園からの遺言」という本の紹介で、その中に「できる人の7つの条件」というのがあり、その一つとして「きちんと準備ができること」が、意外であると同時になるほどと思った、という話だった。)

準備が足りないというのは、実際にその通りには違いない。心構えもそうだが、そもそも準備に時間をあまりかけておらず、結局、準備不足のまま臨むことも少なくない。

この「準備」というのは、ようするに計画性だ。中長期での計画性が、自分の場合ほとんどない。かなり行き当たりばったりで考え、行動してしまっている。

もちろん、計画を立てればよいというものではなくて、自分の場合は多分に計画の実行力が足りないために、悪循環として次のステップの準備が不足する、ということはあるかもしれない。

だから何ということはこのブログでは表現しようがないし、今この場で思いついたことを書いても変わったりはしないのだが、まぁそのようなことを言われたということで、日記として書いておくことにする。

もっとも、当面準備が必要な案件はいくつかあるので、今日はそのリストアップを改めてきちんとしておくことにしよう。

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2008年2月 5日 (火)

個人の不寛容と社会の寛容

昨日の帰り道、井の頭線にて。
途中から乗ってきたその男は、茶色の縁に耳にかけるところが青い眼鏡をかけ、茶色のロングコートに黒いマフラー、手袋をしてルイ・ヴィトンのような茶色のバックをたすきがけにして、まだ人の多い車内で周りを寄せ付けないように仁王立ちになった。身の丈は自分ぐらいで、どちらかというとインテリ風だ。

たまたま自分の目の前で、体の前に抱えた鞄が触れていたのだが、どうやらそれが気に入らなかったらしく、罵りとともに軽く突き飛ばしてきた。(音楽を聴いていたので、何を言ったかは不明。)多少スペースはあったので、君子危うきに近寄らずということで、ちょっと距離をとり、観察していた。

次の駅で乗客が何人か降りたのだが、動くまいと立ちふさがっていた男を先頭の客が押しのけるような形になり、男はよろめいた。それがよほど気に入らなかったのか、男は体制を立て直しざまに目の前を降りようとしていた女性の脇腹を小突いた。
ふんとばかりに軽いガッツポーズ。

驚くべきは、多分男をよろめかせたのは別の客で、小突かれた女性はその列の最後にたまたま居ただけにすぎないことだ。ペイ・フォワードのまったく逆の精神と言うところだろうか。女性は気付かなかったのか、降りることを優先したのか、特に騒ぐこともなく降りていった。

男はその後、シートの前に移動した。その際に、先にいた男と接触する。卑屈そうな笑みを浮かべながら、すみませんというように片手を挙げる。随分態度が違うのは、相手が一回りほど大柄な男だからだろうか。

とまぁ(一部記憶に基づく脚色は交えたが)そんな人物に遭遇したのだが、その男に腹を立てているうちに、個人としてはこの男のように不寛容を周囲にばらまく人間がいる一方で、社会としてはそんな不寛容な人間を受け入れてしまっている寛容さがあるのではないか、と考えてしまった。

おそらく昔であれば(太古の昔でも良いが)こうした不寛容な人間は社会から排除されてしまい、生きていけなかったのではないか。それは言い換えれば、社会としての不寛容に人間があわせていたと捉えることもできる。社会(コミュニティ)の範囲が広がるにつれて、社会自体の寛容さは増し、一方で人間の方が不寛容になっている。そんな構図はないだろうか。

他人に対して不寛容な人間が増えた増えたというが、一方でそんな不寛容な人間をそういう人もいるということで受け入れるのは寛容だよな、などと堂々巡りをしながら、不寛容な人間と不寛容な社会のどっちが良いだろうか、などと考えてしまった。

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2008年2月 4日 (月)

意見をもらう目的

先週、とあるNGO団体と意見交換をした。報告書に対する意見を聞かせて欲しいということで頼み込んで機会を設けたのだが、準備不足というか、初めての経験でよく分かっていなかったこともあり、いまいちな内容になってしまった。

議論の投げかけ方に失敗したということだと思うのだが、具体的に自社の報告書や活動に対する意見でなく、一般概念や総論としての報告書のあり方や企業のCSRのあり方のような話になってしまったのだ。

自分がそういった議論を嫌いではないということもあり、その場では盛り上がったし、個人的には刺激にもなったのだが、後でメモを読み返すと、自社の報告書にとってはほとんど役に立たない内容しか残っていない。総論でどうあるべきかという話では、報告書に対してはほとんどインパクトにならないのだ。

反省しなければいけないのは、自分自身がどんな目的でどんな意見をもらおうと考えているのか、明確にしていなかったことだろう。ただ、言い訳をすれば、そもそも具体的に意見が欲しいという目的は、今回の会の結果として自分の中で明確になった、ということがある。事前の「聞きたいこと」リストでは、概念的な話ばかりをメモしているからだ。

そういった意味で、今後同じような機会を得た場合には、注意深く意見を聞いていく必要があるだろう。

・報告書に書いている内容で、より具体的に知りたいこと(=報告書の記載では不足していること)は何か。
・報告書には書いていない内容で、具体的に知りたいことは何か。
・それが記載されている、あるいは記載されていないことが、自社に対する評価にどんな影響を与えているか。

それに対して実際の取り組み内容や、意図的に書いていないとしたらその理由などを説明した上で、どうしていくのが最善かを考える。そういった形にして、あいまいな概念論に陥らないように注意深く議論をコントロールしていかないと、報告書に対して具体的なインパクトのある意見を抽出することはできない気がする。

これは一方で、他社の報告書を読んで意見をする際にも意識しなければいけないだろう。多少なりともこの分野をかじれば、「企業としてこうあるべき」みたいな話は簡単にできるのだ。だが、それは机上の理屈であったり、研究室の中の議論に過ぎない場合が多い。

実際の企業活動に対してインパクトを与えていくには、具体的なポイントを絞り込んだ意見に落とし込む必要がある。概念で一般論を話すのは楽しいかもしれないが、それでは現実にはなんら影響を与えないままに終わってしまうのだ。

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2008年2月 1日 (金)

電車で席を譲ってもらう

昨日同様シニカルな見方ではあるのだが、電車に乗っているときのマナーを問うマナー川柳などを読んでいると、この応募をする人たちが、その思いを川柳ではなく行動に込めたらもう少し車内のマナーも改善されるのではなかろうか・・・などと考えるのは失礼だろうか。

どの程度の応募数があるかは分からないが、応募者は結構な人数ではないか。その数の人間が実際にマナーを改善する行動を起こせば、それなりに乗車マナーなども改善されるような気もするのだが。
(というのは、もちろん皮肉として書いているのである。もっとも、実際に行動している人もいるには違いない。)

さて、その時に目にしていた川柳のテーマは優先席で席を譲るというものだったのだが、ちょっとこんなことを考えた。

譲る側のマナーに期待して待つのではなく、譲って欲しい側が働きかけるということはできないだろうか。
正確に言うと、そういったアクションを受け入れるような雰囲気を作ることはできないだろうか。

頼まれたら、そうそういやとは言いにくい。特定の誰かではなくても、「どなたか席を譲っていただけませんか」という呼びかけがあれば、意外と譲る人間はいるのではないかという気がするのだ。それを譲ってくれるのをただ待ちながら、譲らないのはマナーが悪い、というのは、少々考え方としてはどうなのか、という気もしている。

もちろん、そんなことはお願いしにくいことは分かっている。でも譲る側も自分からは譲りにくいのも確かなのだ。絶対に譲るまい、という人もいるだろうが、大抵は一歩が踏み出せないということが多いだろう。「譲る勇気」が求められるのであれば、「譲ってくれと頼む勇気」があっても良い気がする。

個人的に思うのは、ただ見た感じでの弱者の立場を勘案して譲り合いを期待するのではなく、困っているという意思表明とそれに応えるという関係を作るようにした方が、意外と譲り合いがスムーズになるのではないか、ということなのだが・・・。

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