« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月30日 (金)

CSRレポートをブログで構築する

ウェブ上で公開するCSRレポートをブログで構築する準備を進めてきたのだが、ようやく形になってきた。あとはテンプレートを微調整してもらいながら、コンテンツを作成していくことになる。おおよそは出来ているか、昨年のものを使うが、システムの完成を待っていたためまだ未着手のコンテンツもある。

それにしてもずいぶんと時間がかかってしまった。現在の段階でも、実現したいことの多くが実際に実現されているとは言い難いだろう。一番難しいのは、コンテンツを作成する我々ユーザー側の要望が完全には固まっていないことだ。Officeソフトなどと同じように、機能的に出来るかどうかを探りながら進めているため、要望自体が二転三転する。

テンプレートを制作しているベンダー側としてはやりにくいに違いない。それは分かるのだがこちらにも言い分はある。

ブログの機能をフル活用したら、どういったレポート制作が可能になるのか。ブログの機能をどう活かしたらよいのか。そういった提案がまったく見えてこないのだ。こちらのやりたいことにどう応えるかを考えてくれるのは嬉しいのだが(というか当然だとは思うのだが)、正直にいえばもう一歩踏み込んだ提案が欲しいのは間違いない。

そういった提案がないと、そもそもブログというシステムをどう捉えているのか、ということが気になってしまう。ブログの可能性を広げ、機能を拡大していく気持ちがあるのかないのかという点だ。ついでに言えば今回ブログで作成したい「CSRレポート」というものについても、どういったものかを特に考えることなく受け止めているのではないか、という気がしてしまうのだ。

自分のこうした考え方は異端だろうか、と思うことがないわけではない。多くの場合、業務のシステム化というのは、まず業務の枠組みがあってそれにシステムをあわせる形で構築される。対して自分の発想は、まずシステムがあって、その枠組みに業務をあてはめて考えている。CSRレポートがあってそのためにブログを使うのではなく、ブログというシステムがあって、そこにCSRレポートをあてはめる発想なのだ。

ただこれは、CSRレポートをブログというシステム的な枠に「押し込める」という捉え方ではなく、CSRレポートをブログというシステム的な枠まで「拡大する」という捉え方でもある。従来と同じものを実現するだけではまったく意味がなく、そこにはブログならではの機能拡大がなければならない。同じものを作るのであれば、従来のやり方で進めればよい。

今のところ、ブログを導入することで「ユーザー側での編集」が容易になり、「ページではなく個々の項目単位での編集」が容易になり、「日常的な更新」が容易になり、「デザインとコンテンツを別々に修正」が可能になっている。会社としての稟議はここまでで通してはいるが、個人的にはまだ物足りない。

それが何かは分からない。ここから先は「何がしたいか」ではなく「何が出来るか」という発想で見ていかなければ「ブログの枠に拡大する」ということはできないからだ。そもそも、したいことはここまでで大体実現できているわけで、その先の自覚していないニーズをどこまで引き出せるかは、ブログというシステムに出来ることをどこまで理解できるか、にかかっているとも言える。

そう考えると、やはり個人でももう少し勉強が必要なのだろう。やっぱり個人で構築しようかな・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年5月28日 (水)

ステークホルダーとのエンゲージメント

昨日は業界での勉強会があったのだが、その中で紹介されていた企業に対する社会の目の変化がおもしろかった。

その昔、社会は企業を信頼していた。特に根拠があるという話ではないかもしれない。

やがて、話を聞かせてくれなければ信頼しない、という姿勢になった。理由として考えられるのは、企業活動が不透明になって、その内容について説明を聞かなければ評価が出来なくなった、というところだろうか。

さらに、見せてくれなければ信頼しない、という姿勢になった。話だけではなく、実際にどのように活動しているのかを自らの目で確認しなければ信頼できない、というわけだ。これも企業活動が不透明であることと、さらに企業による(言葉での)説明が十分ではなかった、という理由が考えられる。

そして今は、中に入れてくれなければ信頼しない、という姿勢だという。自らもその活動の一部にならなければ、信頼できないというわけだ。それ以前の段階とはかなり違うが、見るだけではまだ分からない領域があるということかも知れない。

最後のステップであるeneageは、かなり難しいステップだ。そうした要求を招いた原因は、見せることを徹底できなかった企業の側にあるのかも知れないが、自らの活動を説明し見せるのと、ともに活動しその内容を変えていくというのとでは、まったく次元が異なる。

もっとも、「意見を受け入れる」というレベルでの話かも知れない。ただ、意見を受け入れるということはそれまでもやってきたはずなのだ。そのあたりがどうも釈然としなかったりする。

例えば同じ企業の中で、従業員の意見を求め企業活動に反映させるというのは、従業員の企業活動への参画意識を高める上で効果がある。これは自らの所属する企業への信頼感の向上と同じようなものだと考えることはできるだろう。その他のステークホルダーに対しても、同じような考えをするということになるだろうか。

しかし、企業に対して一律のかかわり方では、ステークホルダーとして「異なる」意味がないのではないか、という気もする。

何か別の、共通の社会的な課題を解決するために「手を結ぶ」ということなら分からなくはないのだが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月27日 (火)

CLIEのバッテリー

CLIEのバッテリーの残量表示が狂ってしまい、100%しか表示されなくなってしまった。原因は不明だが、先日落としたショックかもしれない。

CLIEのバッテリーは最近では消耗が激しく毎日充電しないと持たない状態だったのだが、そろそろ買い換え時かな~などと考える。もっとも実際にはバッテリーを使い切るほど使うことはないし、切れてしまったこともないので、単なる買い換えの言い訳ではある(笑)

ただ、バッテリーを交換してまだ使い続けるか、他の電子機器に替えるか、そろそろ真剣に検討した方が良いと言うことかもしれない。

今使っているSJ-33はバッテリーの持ち以外に機能的に不備があるわけではない。むしろサイズといい使い勝手は良い部類に入る。バッテリーがへたってから使っていないが、その気になれば音楽も聴けるし、写真を持ち歩くのにも使える。通信機能こそないが、これはあまり重要ではなく、自宅でパソコンと同期ができてそのメールが見られれば十分だ。
(そもそもパソコンを持ち歩いているのに、モバイルデバイスでの通信にこだわっても仕方がない。)

もっと言えば、使いこなしきれていないという言い方も出来るだろう。こうした電子機器は機能をフルに使う必要はまったくなくて、使える機能だけ使えばよいものではあるが、それでももったいない、と思う機能がない訳ではない。

一方、新しい電子機器を購入するとすれば、iPod touchが最有力だろうか。イーモバイルやウィルコムという選択肢がないわけではないが、正直な話SJ-33と置き換えるということを考えた場合、サイズが大きくなってしまうのは避けたい。また、いくら小さいからといっても、iPod nanoなどでは、(機能的にまったくダメということはないが)やはり力不足を感じるだろう。

iPod touchの場合、魅力的な機能はあるのだが、どれだけ使えるかは未知数ということがある。そういった新しいモノは刺激的ではあるが、別に刺激を感じる必要はないという考え方もある。(そういったことを機能として求めるような使い方ではないからだ。)

それにiPodと組み合わせるなら、やっぱりMacが欲しいな~などという物欲も・・・。

CLIEのバッテリーの交換は、銀座のソニービルのカスタマーサービスで依頼できる(実は一度行って確認した)。バックアップなどの準備が必要なのだが、まずは交換を考えてみるのが良いのかも知れない。

それと、この機会に一度スケジュールや個人データなどを初期化してしまうという考え方もあるな・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月26日 (月)

クローズ・リスト

ようやくというか、最近やっと「クローズ・リスト」を使い出した。「マニャーナの法則 明日できることを今日やるな」(マーク・フォスター著/青木高夫訳/ディスカヴァー・トゥエンティワン)という本で読んだやり方だが、そのことをこのブログに書いたのは去年の12月4日だから、実際に使うまでずいぶんと時間がかかったことになる。

もっとも、それもせいぜい始めて一週間というところだし、きちんと出来ているかというと心許ない。

最近あまり使わなくなってしまったほぼ日手帳の活用法の一つとして始めたものだが、ざっくりと書くスタイルが意外に気楽で、それなりに使い心地は良い気がする。ただ、しっかりとクローズ・リストに出来ているかというと、これはまだいいかげんで、もう少し慣れていく必要はあるだろう。
(結局当日書いてしまうリストもかなりあって、まだまだタスク管理が出来ているとは思えない。)

タスクの管理だけならCLIEなどでも出来るのだが、どうも意識に働きかける力が弱いというか、先送りにされやすいようで、これまでうまくいったためしがない。こうして手帳などに書いた方が、自分自身への縛りになって実行に結びつくというのは間違いない気がする。

ただ、ほぼ日手帳をそういったリストに使う場合、その日にあった打ち合わせのメモなどをどうするか、という問題はある。これはまた別の使い方を考えていく必要があるだろう。付箋とかを活用してしまうのも良いかも知れないのだが、書き込んだ方がその日の情報として定着するという側面はある。

まぁもうしばらく様子を見ることにはなるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月23日 (金)

生物多様性をどう捉えるのか

昨日5月22日は国際生物多様性の日ということで、国連大学で行われたシンポジウムに参加してきた。

会場がやたらと冷えていたのが気になったが、それはさておき、少し情緒的な捉え方で話が進んでいたのが物足りなかった。ロジカルな結論として生物多様性の必要性が説明できなければ、結局企業が取り組む上では「気持ちが重要」というあいまいな結論になってしまうからだ。

ちなみにこれまで明確な定義を調べたことがなかったのだが、生物多様性というのは、すべての生物の間に違いがあることであり、その違いは大きく「生態系」「種」「遺伝子」の3つなのだそうだ。多様性というと「いろいろある」という意味で考えていたのだが、むしろ「違いがある」と捉える方が良いと感じた。「いろいろある」というのは、全体として混沌としていてとらえどころがないイメージがあるのだが、「違いがある」だと個々を比較して分析をしていけるように感じられるからだ。

違いがある、と捉えるのであれば、それは組織における人的多様性にも通じる話として理解していくことができる・・・はずなのだが、問題はその先だ。

基調講演をした千葉県の堂本知事は、生物多様性を一言で何と言い表すかと問われて、「(日本においては)文化だ」と答えた。日本の豊かな自然環境からくる「感覚」なのだろうが、感覚では意味がない。「文化だから守ろう」ではまったくロジカルではなく、ようはその価値観に賛同するかどうかになってしまう。

価値観で捉えるのであれば、違う価値観も受容するのが多様性の考え方だろう。多様性が重要という価値観を第一にするのでは、多様性の考え方と矛盾してしまう。多様性の重要性を訴えるには、そうした違いが生じない論理の世界で理屈を積み上げていかなければいけないのではないか。そのあたりがどうも釈然としないのだ。

余談だが、生態系というと思い出す話がある。以前SF小説で読んだアフリカツメガエル(ツノガエルだったか?)の話だ。彼らの生態系は、池の中に藻と彼らしかいない関係で成り立っている。しかし肉食の彼らは藻は食べられない。ではどうやって成り立っているかというと、彼らが生んだ卵から孵ったオタマジャクシが藻を食べ、そのオタマジャクシを彼らが食べるというのだ。

もちろん、この生態系ではいわゆる微生物は考慮されていない。実際には目に見えない多様な生物により成り立つ生態系なのだろうが、このきわめて「シンプルな」生態系を袋小路に追い込まれた多様性がない世界と評価するべきなのか、他とは「違った」ユニークな生態系として多様性のある世界の一つとして評価するべきなのか、はたしてどちらだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月22日 (木)

メディアのパーソナル化

先日夕食を食べているときに、店内に流れていたラジオで聞いた話。

最近の若者というのは洋楽に接する機会というのが減っていて、日本語の歌ばかり流行っているそうだ。
実感としてどうかはともかくとして、なぜそうなのか、もう少しつっこむと昔はなぜ洋楽に接する機会があったのか、その話がなるほど、と考えさせられた。

TVやステレオが一家に一台しかなかった時代、ソースも限られていた時代というのは、自分の聴いたことのない、あるいはその時の自分が好みではない映像や音楽に触れる機会が自然に生まれていたという。

ラジオの中で、洋楽は「少し敷居が高い音楽」として捉えられていたのだが、その敷居を越えるのに一役買ったのが、「お父さん」や「お兄さん」が聴いていて、それを耳にすることがきっかけになったというもの。なるほどそういわれれば、自分がクラシックを聴き始めたのも、元々は「家にレコードがあった」のがきっかけであって、少なくとも自分から発見したわけではない。

ところが、今はそうした映像・音楽機器がパーソナル化しているため、あまり「自分の知らない世界」に接する機会がない。もちろん自ら飛び込んでいくことは可能だが、「好むと好まざるとに限らず」ある種問答無用に接する機会をきっかけとすることはほとんどないだろう。

(例えば自分の場合、クラシックに接する機会はあったが、一方で現在のポップスなどに接する機会はほとんどなかった。今でも避けている傾向があるし、それほど機会があるわけでもない。)

ちなみに初期のウォークマンというのは、ヘッドフォンのジャックが二つあって、聴いている音楽を共有できたそうだ。最近は、他の人が音楽を聴いていても、何を聴いているのか(尋ねることぐらいはあっても)関心を持つことは少なく、自分の好む音楽を人に勧めることも少ないのではないか。(ブログなどで不特定多数に紹介するのではなく、知人に直接聴くことを促すという意味だ。)

そういった環境の変化を音楽の流行廃りに関連づけて嘆いても意味はないとは思うが、こうした理屈自体はなるほどというか、新しい何かに触れるきっかけを考える上でおもしろい話だと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月21日 (水)

大人の知らないケータイの世界

昨日の続きのような内容になってしまうが、たまたま家に帰ってテレビをつけたときに、子ども向けのケータイサイトの「闇」の話題が取り上げられて、そこで一字一句同じではないと思うがタイトルのような見出しが躍っていた。

なんとなく違和感を感じたのだが、その時はそのまま見過ごしてしまったので、メモなどはとっていない。
ちなみに番組はガイアの夜明けだったような気がする。

違和感を感じたのは、大人が知らないなんてことがあるだろうかと思ったからだ。少なくとも一部の大人は間違いなく知っているはずだ。仮に子どもが中心に動いている場があるとしても、大人が関わっていなければその場は絶対に成り立たない。なぜなら、どんな場であれその維持にはお金がかかり、その仕組みは大人が作ったものだからだ。

(ほんの一部に天才的な子どもが仕掛けている場合があるとしても、その収益を支える社会システムはやはり大人が作ったものであり、接点がないということはあり得ない。)

大人たちは、「知らない」のではなく「知らないふり」をしているのではないか。少なくとも、知った上でそこから利益を得ている一部の大人がいるはずなのだ。

ようするに「大人が知らないケータイの世界」があるのではなく、「一部の大人しか知らないケータイの世界」があるということであり、最近騒がれている携帯の規制の問題は彼らとの直接対決を避けて、子どもをだしにしているだけということではないのか。

例えば出会い系と称して援助交際というものがあったとする。援助交際をする子どもや、その情報交換に使われるネットが話題になることは多いが、不思議と「援助」する大人がクローズアップされることは少ない気がする。彼らがいなければ、援助交際などあり得ないのだが、彼らを放置した上で、子どもやネットを何とかしようとするのは、どこか滑稽と言わざるを得ない。

そういった大人がいるのは「仕方ない」とでも思っているのだろうか。

番組の中で(だんだん思い出してきた)プロフに勝手に個人情報を公開された結果、家の周りを不審な人にうろつかれたという被害者のエピソードが紹介されていた。

個人的にびっくりしたのは、そうやって「家の周りをうろつく」大人がいるということだったのだが、番組ではもちろんプロフサイトでのなりすましが問題にされていて、そういったうろつく「大人」については言及はなかった。

本当にそんな捉え方でよいのか・・・そんな気がするのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月20日 (火)

提供側をなんとかしようという視点

シロクマ日報に「大人に携帯を持たせるな」というエントリーがあり、教育再生懇談会への反論としてはなるほどと思う反面、制限をかけて市場性が薄れれば、有害情報も(少なくとも子どもをターゲットにするようなものは)減るのではないか、などとも思った。

ただ、ロングテールを持ったネットの世界で、こうした規制で「防ぐ」というのは少々心許ない。情報を提供して引っかける側も、情報を目にして引っかかる側も、きわめて巨大な母集団の中ではそれなりに「残って」しまうし、それだけで成り立ってしまうからだ。

結局の所、親(保護者)の動向で決まってしまうのではないかとも思うのだが、総体的な社会システムで何とかなるものではなく、個々に対応していくしかないのではないかという気がするのだ。

ネットで広がるいじめに関していえば、先日はてなブックマークで見かけた「Twitterに「ぶっ殺す」とか書き込ませない情報リテラシー教育」で書かれていたように、「子どもがいじめに遭わない」ための規制よりも「子どもにいじめをさせない」教育という視点が必要なのではないか。

いわゆるネットの有害情報の「規制派」には、そうした視点が弱いような気がするのだ。自分の子どもにいじめを「させない」ために携帯電話の所持を制限しようという発想が、どれだけの親にあるだろうか。(世の子どもにではないよ。)

もちろん今いじめられている子どもを救うことは大切だが、それは目前の問題への対処であって、長期的な対策ではない。シロクマ日報に書かれているように、「情報を提供する側」「いじめる側」をどうするかという議論はもっとあっても良い気がする。

ちなみに、少々乱暴ではあるが、ネットが広告モデルによって無料化されていることが、こうした有害情報を野放しにした一因なんて議論はないのだろうか。コンテンツがすべて有料で提供されていれば、子どもに自由にネットへのアクセスを許す親はそうそういないような気もするのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年5月16日 (金)

リーダーズ・ハイ

「クライマーズ・ハイ」(横山秀夫/文春文庫)を読んでいる。

本当なら日替わりで読む本を変えていくつもりだったのだが、昨日から読み始め、やめることが出来ない。あとちょっとなのだが、会社に遅れても読んでいたい。

というわけで、今日はここまで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月15日 (木)

サイレントチェロで練習する

昨日は久しぶりに楽器の練習をした。移動の時間がなかったので、サイレントでの練習だったが・・・。
サイレントチェロは、本来の楽器が持つ響きが薄い。その分音程などがシビアに出るので、弾いていてつらい部分もある。音色もかなり違う。あくまでも「練習用」だ。

・・・ああ弾けてない、などと落ち込む。

普通の楽器と違うのは、音自体は簡単に出る(ヘッドホンで聴くのだが)ことだ。普通の楽器の場合、思ったような音色が出ないことにまずストレスを感じるので、その部分をどうにかしようという気持ちが働く。そしてあまり弾けていなくても、そういった音が出ると気持ちがよいからそれなりにストレスは和らぐのだが、サイレントの場合はただただシビアに弾けない現実だけがたたきつけられる。

ああ自分はこんなにも弾けていなかったのか・・・などと感じさせられてしまうのだ。
この場合の「弾ける」というのは、きちんと音程が取れて指が回ることで、きれいな音色で弾くことではない。

先日聴いた3月のミニクラシックコンサートの録音で「意外と弾けてるじゃん」とテンションが上がった直後だっただけに少々ショックではあった。あの時並みに練習することが求められるのだろう。

たまたまというか、昨日はしばらく音信のなかった知り合いからエキストラの誘いが来た。
以前何度か声をかけられたことはあったのだが、現代曲を中心に取り上げるということもあって、尻込みしていたオーケストラだ。

練習スケジュール的には、今のオケと重なることはないが、かけもちすれば週末が埋まってしまうのは間違いない。せっかくの誘いだから今回は引き受けてみようとは思うのだが、一方でこんな状態で大丈夫かよ・・・などとも思ってしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月14日 (水)

本をどれぐらい読めるか

成毛眞氏の「本は10冊同時に読め!」(三笠書房)を読んだ。
場所毎に本を変えながら、10冊を同時に読む「超並列」読書術を勧めたものだ。感化されたというほどではないが、ちょっと立ち読みしてなるほどと思い、同時に数冊の本を購入したので、10冊は無理にしても少し並列読書ということをしてみようと考える。

とりあえず「本は10冊同時に読め!」は読み終わったのだが、本当に自分にとって重要な情報であれば記憶に残るからメモをしたり線を引いたりする必要はないとか、ちょっとなるほどと思ってしまった。言葉が結構乱暴なのが気になるし、一部論理が破綻(多分書いていないことがあるのだろう)しているような部分もあるのだが、刺激的な内容だったのは確かだ。

ただ、現実問題としては、行く先々に別々の本を置いて、それぞれの場所で読む、というのは物理的には難しい。成毛氏はトイレにまで置いているそうだが、そんなスペースは今の家にはない(笑)

結局、読む時間だけを考えれば通勤時間しかないので、基本的には日替わりで読む本を変えていくというのが、自分の選べるオプションになるだろうか。もっとも、行き帰りだとそれなりに時間があるので、この「本は10冊同時に読め!」のように、1日で読み終わったりしてしまうものもあるに違いない。

また、電車の中で本を読むというのは、個人的には視力へのリスクがあるので、どこまでやるかという問題もあったりする。まぁしばらくやってみて、視力へのダメージを感じなければ適度な範囲で読んでいけばよいだろう。
(乗っている時間丸々を読む時間にあてるのは目を酷使しすぎなのかもしれない。)

ちなみにこの本の最後の方に年代別に「こんな本を読め」という一節があるのだが、20代30代の若い世代には仕事に活かせる「仮説力を鍛える壮大な本」を勧めているのに対し、35歳以降には仕事は諦め「遊びのための本」を勧め、40代50代には今さら何を読んでも無駄だとばっさり切り捨てている(笑)

この勧めにそうのであれば、すでに自分が読むのは「遊びの本」ということになるのだが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年5月13日 (火)

そういえば最近ほぼ日手帳を使っていない

・・・というメモが、最近使っているモレスキンのメモ帳に書いてある。日付は5月9日だ。内容は次のようなもの。

最近、ほぼ日手帳を使っていない。
モレスキンの手帳をメモ帳として使っているからだが、自由にメモが出来るようになった反面、日というものをあまり意識しなくなった気がする。モレスキンには日付がないからだろうか。
必ず日付は書くようにしているのだが・・・。

実際、ほぼ日手帳を開く機会は減った気がする。ここしばらくを見返しても、何も書いていないページが多い。打ち合わせなどがあったときにそのメモがある程度だろうか。(月曜日は朝礼もあるので、それなりに書いてある。)

考えたことを吐き出すのにモレスキンを使うようになったからだが、ではこれでよいのか、という疑問も感じている。一元化が出来ていないからだ。理想をいえばどちらかに統一した方がよいのだろう。

ほぼ日手帳では、日単位という縛りがある。記録として考える場合は日付という厳然とした縛りがある方が良いのだが、もちろんそれではスペースが足りないということがある。モレスキンのメモでは、日によって数ページに渡ってメモを書き殴っているときがあり、そういった使い方が出来ない。

一方、モレスキンでそのように書いていると、いつ頃書いたのかという意識が薄くなる。もちろん日付は記入しているからデジタルには分かるのだが、感覚的に「この頃」とか「これぐらい前」といった感覚は生まれにくい。ほぼ日手帳だと、後でぱらぱらめくったときに「ああこの頃はこんなことを考えたのか」とか「これを考えてからもうこんなに経ったのか」といったことが、なんとなく感覚的につかみやすいのだ。

これはある意味どうしようもないジレンマではあるのだが・・・。

もう一つの問題としてサイズがあり、文庫サイズのほぼ日手帳より一回り小さいモレスキンは携帯がしやすい。胸のポケットに入るというのは、思いついたときに取り出しやすいのだ。ペンについて別に持ち歩く(胸ポケットにさす)ようになり、書きたいときに書けるようになったのだが、ほぼ日手帳では手に持つか鞄の中になるので、なかなかこうはいかない。

もっとも、モレスキンでも1日1ページのダイアリーでは厚すぎて胸ポケットという訳にはいかないだろう。そう考えると「1日1ページによる管理」と「持ち歩き」を両立するのはなかなか難しいということになる。

そう考えると、四半期(3ヶ月)単位の「1日1ページ」のダイアリーというのはどうだろうか。基本的にはスケジューラではなく日記のようなものだから、意外とその程度の厚みでも良いような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年5月12日 (月)

楽器の練習をしたい

このところオーケストラ関係のエントリーをしていなかった。正直に言えば、まとまって考えるための時間を確保できておらず、エントリーできるだけのネタがなかったのだ。
とはいうものの、演奏会も近づいてきたので、宣伝がてら書いてみることにする。

今回の選曲は、ワーグナーの「タンホイザー」序曲、芥川也寸志の「交響管弦楽のための音楽」、シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」の3曲なのだが、特にタンホイザーの譜読みと、グレートの速さに手こずっている。

タンホイザーは、細かい楽譜の読み込みが実はまだ終了していない。とりあえず適当に弾いてしまっているのだが、一度しっかり譜読みをしないとこのまま終わってしまうという危惧がある。実際の所は、譜読みをしたから弾けるようになるとは限らない、ある意味苦手とする楽譜ではあるのだが、それでも頭では理解しておきたい。

グレートは・・・単純に速さについていけるほど弾き込めていない。音符の並び方自体は比較的シンプルで弾きやすいのだが、ただただ「速い」のだ。もっとも、これも練度の問題で、考えなくても指が回るような弾き込みをしていないからだろう。

3月のミニクラシックコンサートでラズモフスキーをやったときには、これでもかというぐらい練習したのだが、その反動があったということなのか、それ以降平日に練習をしていないのだ。仕事がちょうど佳境に入ってきているということもあるのだが、それはそれとして割り切れるぐらいでないと、オーケストラのような活動は続けていけないだろう。

そんなわけで、今週はなんとか練習したいところ。このところパートリーダーとしてのパート内への連絡もおろそかになっていて、プルトの決定も遅れるなど、なんでも後手後手なので、せめてその状態だけでも改善していきたいものだ。

ちなみに今回の演奏会の内容は次の通り。
-------------------------------------------
府中市民交響楽団第57回定期演奏会
日時:2008年6月8日(日) 13:30開場 14:00開演
場所:府中の森芸術劇場どりーむホール
曲目:
 ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲
 芥川也寸志:交響管弦楽のための音楽
 シューベルト:交響曲第8番ハ長調「ザ・グレート」
指揮:久保田悠太香
演奏:府中市民交響楽団
前売り1000円 当日1200円 全席自由
-------------------------------------------
※ご来場いただける方はご招待したいと思いますので、コメント欄などでご連絡ください。

それにしても、もう1ヶ月をきっているのに、そんな状態で大丈夫なのか・・・?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 8日 (木)

パソコンを何に使うのか

物欲というのは際限がないもので、連休中にも改めてMacBookが欲しくなったり、DellのXPS1330が欲しくなったりした。

MacBookについては、銀座のアップルストアに行ったときに触っていて再燃したのだが、一方で改めて文字の入力などをしてみると、Windowsとの違いにとまどってしまうことも少なくなかった。そういった意味では、買わない方が良いのだろう。会社のPCがMacになるわけもなく、両者を使い分けていくのは結構大変そうな気がする。
(ソフトの問題は頭の中で解決できそうなのだが、意外とハードの違いに体がとまどってしまいそうなのだ。)

XPS1330を欲しいと思ったのは、これまたたまたまだが、では今のパソコンを切り替えて何をするかを考えてみると、意外とたいしたことがない。

  1. 音楽
  2. 映像
  3. インターネット
  4. メール
  5. ノーツ

だろうか。今のパソコンと変わっていないし、特に切り替えなければいけないような事情はない。

あえていえば、今のパソコンではスペック的に映像処理は難しいということはある。ただ、今のパソコンではできないような映像処理をそもそも必要としているか?といわれると、多分そんなことはなくて、出来るからといってもやらないというのが実際の所だろう。

そんなわけで、あまり意味のない物欲だったのだが、それにしても自分はパソコンをあまり能動的に使っていないなぁなどと感じてしまった。結局ノートの延長のようなもので、パソコンならではの使い方というのはあまりしていないのだ。

ノーツなんて、使っているバージョンは4.6で、リリースは1998年だから、すでに10年になろうとしているのだ。そして、基本的にはこれだけ使えれば、パソコンとしての用は足りているという状態ではある。

使いこなす、という目的で使うのは本末転倒だが、本当に自分はパソコンで何をやりたいと思っているのだろう。どうも半端に使い方を身につけてしまっていて、半端に使いたい意欲はあるのだが、案外、たいしたことは必要としていない気がする。

ちなみに、仕事でもあまり高度な使い方(操作スキルとして、という意味だが)というのは必要とされていなくて、そういった意味でもノートとペンの延長ぐらいの役割しか持っていなかったりする。いや、実際にはそこまでは自由に使えないから、本当にその補助程度の役割なのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 7日 (水)

見せたい相手

連休明けはスタートダッシュを早くしたいということなのか、今朝の電車はいつも以上に混雑していた気がする。7時30分前には新宿に着く電車なのだが・・・。
それにしても、座れてしまうせいか、電車の中でかなり「ぐっすり」眠る習慣が身についてしまった。二度寝になるので、渋谷に着いた後も寝起きのようにぼーっとしてしまい、頭がすっきりしない。この習慣は見直した方が良いかも知れない。

さて・・・

しばらく前に、mxixの日記に「見せたい相手に日記が書ける新機能」が追加されて、これはようするにアクセス権の設定が細かくできるようになったということなのだが、「見せたい相手」が必ずしも見てくれるとは限らないよな、ということを思いついてちょっと考えてしまった。

このままいくとメールのように、

「あなただけが見られるように日記を書いたのに、それを見ていないなんて!」

・・・などという、指定された相手が見ることを強制される奇妙な「日記」ができてしまうのではないだろうか。

すでに「コメントしないで立ち去るのはマナー違反」などという珍妙な話も飛び交っていることだし、コミュニケーションは「相手に選ばれる(ために自分が努力する)」ことで成り立つのではなく「自分が選ぶ(選んだ相手が自分のために努力する)」ことで成り立つ関係だという認識が一般的になりつつあるのかも知れない。

そもそもアクセス制御は、基本的には「見せたい相手に見せる」ためではなく「見せたくない相手に見せない」ための機能だと思うのだが・・・。

もし「見せたい相手」に日記を書きたいなら、メッセージを使えばよい、と思ってしまうのは自分だけだろうか。mixiのこの説明(機能は別にたいしたことではないが、その説明の文言)には、どうにも違和感を感じてしまうのだが、どうなのだろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月 2日 (金)

鞄を替えてみた

通勤に使う鞄を替えてみた。

新調したものではなく以前使っていたもので、デザイン的には気に入っているのだが、機能的にはかなり不便で収納ポケットも少ない。

そこでこの機会に鞄の中身を整理はしてみたのだが、ちょっとパソコンまで入れるのが難しく(詰めれば入らないわけではないが・・・)、今日はパソコンは持ってきていない。

再三書いているが、パソコンがないと鞄は軽くなるのだが、ブログを書くには会社のパソコンを使わねばならず、少々億劫だ。環境的にも異なるし、何より普段下書き(というか記録)に使っているNotesが使えないのが面倒で、帰宅してからバックアップをしなければならない。

使っているのはかなり前のバージョンなので、実はUSBメモリに入れて持ち歩くことはできる。先日購入したUSBメモリには、そのほかにもいくつかのソフトを入れていて、ある程度それで環境を持ち歩くことはできるのだが、「ソフト」ではなく「データ」となると、さてこの両者を同期するのがしんどかったりする。

この際だから思い切ってNotesでの記録はやめるという選択肢も無いわけではないのだが、どうにもここまで溜め込んでしまうと(以前会社で書いていた日記からこのブログ、mixiの日記まで、ざっと1000件ほどはあるだろうか)いまさらその蓄積をやめるというのも、なかなか踏み切れないのが心情なのだ。

それらすべてを横断して検索できるのはこれしかなく、そういった意味では過去8年ほどの自分の考えが溜め込まれたデータベースでもある。(どれだけ価値があるかはともかく・・・。)

まぁそうは言うものの、そろそろ決別しても良いのかもしれない。何か良い方法がないか考えてみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 1日 (木)

それはモラルの問題なのか

昨日の読売新聞に、公立高校の授業料の滞納が増えているという記事があった。

高校授業料滞納6億円 進むモラル低下 都道府県立、増加傾向
(読売新聞 5/1)

YOMIURI ONLINEの記事によると、全国の都道府県立高校の授業料の滞納は2007年3月末時点で約5億8952万円(ずいぶん具体的な数字だが)になるそうだ。「保護者の経済的な理由」が6割だが、「納入意識が低いなどのモラル低下」が4割で、滞納額の急増の原因としてこのモラル低下を指摘する声もあるらしい。

これは本当に「モラルの低下」という言葉で片付けた方が良いのだろうか。なんだか少し気になる。何もその人の「払いたくない」という意思をわざわざ尊重してあげる必要はなく、まとめて「経済的理由」としてしまっても良いのではないか。

大体、漫画やドラマなどで良くあるのは「内実は火の車だけど見栄を張って、払えないのではなく払わないふりをする」というパターンだ。実態はどうあれ、払っていない事実は、すべて「払えない」と定義して対処はできないのだろうか。

何故このようなことを考えるかというと、こうした「払わない」人たちが、自らの価値観に基づいて払っていないのだとすれば、その価値観と議論してもはじまらないからだ。むしろこうした人たちは、「払えない」と決めつけられる方が耐えられないのではないだろうか。「払えるけれども自分の意思で払わない」というのが、いわば彼らの「美学」だとすれば、「あの人はそもそも払えない」と周囲から見られることには耐えられないだろう。

だから「払えない」「払わない」というその家庭の事情を斟酌する必要はなく、ただ「払っていない」という事実だけを問題にして、払っていない家庭に対しては奨学金や生活保護といった「経済的支援」をどんどん進めた方が良いのではないかという気がする。恐らく「自ら払わない」などという考えの持ち主には、そうした対応をする方がショックが大きいはずだ。

もちろん、そうしたことをすれば、それに乗じて社会に自らの意思で「ぶら下がる」人が増える、という意見もあるかも知れない。しかし、そうした人たちは恐らくすでにぶら下がっているのではないだろうか。問題は、実際はぶら下がっている(滞納ということはそういうことだ)にもかかわらず、その実感がなく、自分の価値観に酔っている人たちに、冷や水を浴びせてその実感を持たせることにある。

モラルというのは、響きはよいのだが、解決不能な綺麗事のようなニュアンスもある。モラル向上を叫んで何もできないよりも、経済的理由と決めつけて粛々と対応を進める方が、現実的な対応のような気がする。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »