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2008年9月29日 (月)

ケータイは高いのか

先週はちょっと遅い夏休みで更新を休んでいたので、少し前のネタなのだが・・・。

電車内の吊広告で見ただけなのだが、こんな見出しを見て少し考えてしまった。

通信2強の欺瞞ケータイは高すぎる!
(WEDGE10月号車内吊広告)

高いと思うのであれば使わなければ良いと思うのだが、その気もないのに高いと値下げを要求するのは、消費という行為を通じて企業に相対する消費者の態度としてどうなのだろうか。

もちろん駆け引きとしての値下げ交渉は当然の権利だとは思うのだが、そこに社会責任的な要素が混じってくるのは、微妙に嫌なにおいを感じてしまう。

結局使うくせに・・・と思ってしまうのだ。
(使わない理由として「高い」というのは分かる理屈なのだが、使っているのに「高い」というのは、では何故使っているのか、という気がするのだ。もちろん使わざるを得ないライフラインに直結するようなものは別だが、ケータイがそうだとはちょっと思えない。)


少し違うかもしれないが、こうした見方というのは、「価格に見あったサービスを求める」という意識を持っているのか、「サービスに見あった対価を支払う」という意識を持っているのか、で変わってくるのではないかという気がしている。

前者は価格を軸にした評価で、後者はサービスを軸にした評価だ。

価格を軸にしている場合、同じ価格でより良いサービスを受けられるというのは、相手にとって自分のプライオリティが高く、特別に扱われているということになる。一方でサービスが悪いと感じる時には、自分自身がそう評価されているという意識につながってくるだろう。

価格が一律で、サービスが変化する、という考え方だからだ。

一方、サービスを軸にした場合、そのサービスを自分がどう評価するかが問題になり、ドライなようだが、サービスが悪ければ自分が評価しないだけ、という心の持ちようにつながるのではないか。逆に自分が満足した時に、対価をけちったら、自分自身がいやしいように感じてしまうかもしれない。

サービスが一律で、価格が(評価により)変わってくるという場合に、「高い」「安い」といった評価は出てこないのではないか。


現実には価格を変えられるわけではなく、指定された価格に対して「高い」「安い」と感じてしまうのは仕方のないことではあるのだが、それでもそのサービスを「受け取らない」という選択はあるのだから、そういった「買わない」選択をしっかりすることの方が、さも社会正義であるかのように「高い」と批判するよりも必要なことなのではないか・・・という気がする。

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コメント

団体旅行で、海外や温泉に行くおじさんやおばさんたち。
そこで買ったお土産のことを、必ず「買わされた」と言う人が混じっています。
自分で立ち寄り、自分で選び、自分で財布を開けて支払ったにも関わらず。
もちろん店員の薦めはあったでしょうが、財布を取り上げられたわけでもないのですから「買わされた」はおかしいと、昔から思っています。
日本人は、どこかに「被害者意識でもの申す」ほうが良いと思いこんでいる文化があるのでしょうか。
文句を言うけど使う、ということに、ふと思い出しました。

投稿: ooki | 2008年9月29日 (月) 09時11分

そうですね・・・「買う」という行為に主体性を持っていないのかもしれません。広告などに踊らされたりするのも、同じようなことではないでしょうか。

「失敗した」買い物はたくさんありますが、「失敗させられた」とは思いたくないですね。

投稿: ProjectK | 2008年9月30日 (火) 21時04分

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