« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年10月30日 (金)

頭の中で原稿化する

以前受けたことを紹介したインタビューですが、無事公開されました。名前を明かしていないこのブログでは紹介できませんが、私をご存じの方はよろしければ探してみてください・・・まだ検索等では引っ掛からないとは思いますが、会社のブログでは近々紹介します(笑)

さて、改めて「伝わるように話す」「文章化できるように話す」というのは難しいと感じたインタビューでした。いつもは人の話を聞いてまとめる側が多いので、好き放題喋りやがって、などと思う事もあるのですが、話した内容がそのまま文章化できるような話ができるというのは、とてつもない高等技術なのだと思います。しかも、話している段階でも相手に通じなければいけないわけですからね。

原稿を作って「書いた言葉を話す」ならともかく、アドリブで話しながらも、「書き言葉としてもまとまっている」というのはすごいことなのでしょう。あるいは、そうした人は思い付いた考えを一旦頭の中で原稿化して話すことができるのかもしれません。

あまり何かを人に話す機会があるわけではありませんが、話すときにはそんなことを意識しても良いのかも、などと思いました。若干冷たい話し方になりそうですが、頭の回転を早くする訓練にもなりそうです。

もっとも、その「原稿」自体がたいして整っている訳ではないんですけどね・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月29日 (木)

ワークライフバランスは自分よりも他人に気を使う

ワークライフバランスを推進していく時に、少々厄介なのが、「そうは言っても自分は今、仕事をしている時が一番充実しているんだ」といった意見が出ることでしょう。

人生の一時期においては確かにそういった時があるかもしれませんし、特に若い時はがむしゃらに働けといった自己啓発書も少なくありません。それに突き詰めればその人の人生の問題なので、その時間の使い方にどこまで干渉するのか、という問題もあります。

そこで、ワークライフバランスを考えるときには、自分のことではなく、他人のことを考えるように仕向けるのが実は良いのではないか・・・そんなことを考えました。

自分のことは自分で決めれば良いことなので、そこには干渉せず、他人のワークライフバランスに気を使うように意識付けるわけです。どんなに「がむしゃらに働け」という人でも、そのために「他人を犠牲にしろ」とか、「他人のことなんか構うな」とまではさすがに言わないはず。
(いや、言う人もいるかな・・・個人的には時間管理術などで、「他人のリソースを積極的に活用する」といった事をさもそれが素晴らしいことであるかのように言う人には、多分こういった傾向があるんだろうな、と感じることがあります。)

相手のワークライフバランスに配慮するとはどういうことか。

まず、会議や打ち合わせを時間外に組むことはやらないということになります。「相手が合意すればいいじゃないか」って、それは配慮ではありません。ここで言う配慮というのは、そうしたことをしなくても仕事が進められるようにスケジュールを組み立てることを言うのです。

当然、相手の時間を拘束する電話なども時間外は厳禁です。もちろん、「緊急事態」というのは別ですが、それが自分にとっての緊急事態か、相手にとっての緊急事態かは考える必要があります。自分にとっての緊急事態であれば、それは相手への配慮ではなく自分への配慮。相手の緊急事態であれば、もちろんそれは相手への配慮として連絡をする必要があります。

定時直前に「明日の朝まで」といった依頼もダメです。相手の時間に配慮するというのは、相手の仕事時間の中で片付けられるかどうかを考えるということです。緊急事態?それはもちろん自分にとってか相手にとってかを考える必要があります。自分が残って明日の朝まで仕事をすることは、別に否定されるものではありません。

メール・・・はかなり微妙ですが、相手が時間外に目にすることがないような配慮は必要になるかもしれません。個人的には、最近は時間外にメールを出すことをなるべく控えるようにしていて、翌日でよければ、翌日の朝配信するようにしています。タイムスタンプが定時外であれば、相手に無言のプレッシャーを与えることになるかもしれないからです。
(昔、「メールは思いついた時にどんどん指示が出せるから便利だ」と真夜中でもメールを出す管理職がいましたが、それを受け取った部下にどのようなプレッシャーを与えるかについてはまったく配慮がない、ということですね。)

もちろん、文書を作成するとか、自分の中だけで完結する仕事は遠慮なくやれば良いのです。メールも、ドラフトにしておいて翌日配信するだけで、内容の作成まで翌日に持ち越す必要はありません。

このようにしてくると、定時以降にできることというのが限られてきます。周囲とのコミュニケーションをしないことになるので、自ずとできることに限りができてしまうからです。
そんなわけで、自分はいくら犠牲にしても構わないけれども、周囲を犠牲にしない、巻き込まない、という配慮を徹底するだけで、意外と当人のワークライフバランスも改善されていくのではないか、などと思った次第です。

もっとも、そうした個人的作業がすべて残業時間にしわ寄せされる、というリスクはありますが・・・あとはそうした仕事のウェイトがどの程度高いかによるでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月28日 (水)

フードバンクという挑戦

昨日は会社帰りに図書館へ。先日は休館日でしたが、今回は大丈夫でした。

特に目的としていた本があるわけではなく、漠然と読書のために立ち寄ったのですが、昨日は「フードバンクという挑戦」(大原悦子/岩波書店)をチョイス。
実は会社が支援していることもあり、読まなければ・・・と思っていた本ではあります。

日本よりも何年も先行しているアメリカのフードバンク事情も紹介されていましたが、その中にちょっと気になることがありました。以前に比べて食品が集まらなくなっているという話です。

不況で寄付する企業が減った、といった話ではありません。もちろん不況が原因という部分はありますが、大きな理由は物流の見直しや品質の向上によって、「無駄に廃棄される」商品が減りつつあるためだという話なのです。

フードバンクは、元々流通過程などで、品質上は問題がないけれども外見の問題などで売り物にならない、いわば「無駄に捨てられる食品」を生活困窮者に提供する活動です。ここでのポイントは「無駄」が前提の仕組みであること。つまり無駄がなくなれば、提供される食品は減ってしまうのです。

そして企業はそうした無駄を少しでもなくそうと動きます。あるいは、以前はその無駄をなくすコストの方が大きくて放置されていたのかもしれませんが、そうした見直しを行うようになったということかもしれません。

むろんこうした無駄(ロス)は完全になくなるものではないでしょうが、それをミニマムにしようという動きがあるなかで、そのロスに頼っていたフードバンクが岐路に立たされている、というわけです。
すでにアメリカでは一部の食品はPBの形で企業から購入するということもされているようですが、「食品廃棄を減らす」「食料を提供する」という両輪で動いていた活動が、後者を中心に回さざるを得ない状況になりつつあるということですね。
とはいえ、「無駄を出せ」というのは本末転倒です。元々アメリカには教会を中心に困窮者に食料を提供するということが行われていたので、後者だけでもなんとか回していけるのかもしれません。

そこで日本の状況です。日本におけるフードバンクは「もったいない」をキーワードにして、「捨てられてしまう食品を活かす」という点で注目されています。実際の活動はもちろん両輪があってのもので、特に実際に活動している人たちは後者の動機付けで動いていることが多いのですが、社会的な注目、企業の関心は前者にあることが多い。

それはつまり、前者がしぼむ(=無駄がなくなる)ことによって、アメリカ以上に活動が縮小されてしまうリスクが高いということになります。「もったいない」は前者の状態が解消されれば解決されるわけで、前者だけが社会的課題として認知されている状態では、後者の維持は極めて難しくなるでしょう。

そう考えると、なるべく早いうちに、後者への意識転換を図っていく必要があるか、あるいは別のモデルを模索する必要があります。もちろん、そうそう日本人の無駄を出す体質が消えるとも思いませんが・・・。

(なぜかというと、アメリカのにおける無駄な廃棄は、その方が安上がりというある種の経済合理性から生じていたもので、同様に経済合理性によって解消されますが、日本の過剰品質要求による無駄は心理的な要素が強く、元々あまり経済合理性があって成り立っている訳ではないからです。その心理状態が変化すれば一気に切り替わる可能性もありますが、そうそうそういったことは起こらないような気がします。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月27日 (火)

全員で同じ音量を出す

府中市民響では年末に向けて第九の練習中ですが、前回の練習の後にコンサートマスターを通じて伝えられた指示が、

「パート内の全員が同じ音量で弾くこと」

です。そんなの当たり前だと言われてしまいそうですが、技量のばらつきが大きいアマチュアではなかなかシビアな課題です。

気になっているのは前席と後席での違いのようで、練習中にも指摘されていましたが、どうしても後ろの方は弾けない傾向があります。プルトの配置などである程度配慮は前席で後ろからの音を背負って音を出すのと、そうした支えなしに音を出すのとでは、気持ちの上でもどうしても違ってしまうのです。

(ちなみに最近他のオケにも顔を出すようにしているのは、府中では前に座らざるを得ないため、後ろの席で弾く感覚を忘れないようにする、という意味合いもあったりします。指揮者に近いか、遠いかだけでも、気の使い方が変わってくるんですよね。)

もちろん、レベル的な差も大きいのですが、チェロの場合その辺りはプルトの構成である程度配慮をするようにしていて、前だけに弾ける人が集中しないようにしています。(もう一つは出席率の高い人と低い人を組み合わせて、なるべく楽譜への書き込みがされないことがないように、とか。)

地の音量で差が出てきてしまうのは避けられない部分もありますが、ある程度合わせようと考えると、まずは弓を使う量を合わせる必要があるでしょうか。どの場所でどれだけ使って弾く、ということをそろえることができれば、ある程度はそろってくるはずです。特に高弦は弓の使い方のばらつきが一目瞭然となるため、ステージ上の見映えという点でもそろえる必要があるでしょう。チェロは見た目に目立つというほどではありませんが、それでもある人は全弓を使っていて、ある人はちょっとだけとなると、どうやっても同じ音量にはなりませんし、見ていてあれ?ということになります。

とはいえ、この弓の量をそろえる、というのも一苦労です。そもそも弓を必要な量だけ使えていない人は、使いたくても使えない=弾けない状態にあるわけです。結局のところ「弾けるようにする」しかないのかもしれませんが、それは一朝一夕にできることではありません。オーケストラでやる曲の場合、結局最後まで弾けないこともしばしばあります。

さて、どうしたら良いでしょうかね・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月26日 (月)

良い意味での初々しさ

この週末も練習三昧。土曜はともかく、日曜日の府中市民響の後に別団体の練習は少々ハード(移動も含めて)ですが、これからしばらくは11月22日の星の調べの本番に向けてそういった練習が増えてきそうです。(オレイユのアンサンブルの練習もあるし・・・。)

とはいえ星の調べの練習は府中市民響とは違った楽しさがあります。なぜそのように思うのだろうかと考えてみたのですが、曲も全然違うということもありますが、たぶんオーケストラとして良い意味での初々しさというか、参加しているメンバーにオケをやる喜びがあふれているからではないか・・・そんな気がしました。

メンバーのどの程度がどれぐらいのオーケストラ経験を持っているかまでは分からないのですが、大好きな曲を弾くことと同じぐらい、アンサンブルの楽しさを感じているのではないか、という気がするのです。言葉は悪いかもしれませんが「すれていない」感じがします。

自分で言えば、初めてオーケストラを経験した大学時代のようのもので、楽器をただ弾くだけではないアンサンブルの楽しさを覚えた頃を思い出してしまうのです。
(思い出すという感傷に年齢を感じてしまいますが・・・。)

と、こんな書き方をすると府中市民響はすれてしまっているみたい(笑)ですが、ある程度成熟した集団でのアンサンブルと、多少粗削りでも熱意の高い集団でのアンサンブルの違いということはあるかもしれません。

星の調べであえて残念な点を挙げるとすれば、メンバーがなかなかそろわないことでまさに「安定感がない」という点でしょうか。正直、いまだに曲全体の響きが見えていない部分もあります。ただ、そうした安定感を強く求めてしまっては、逆に魅力が失われる可能性もあるわけで、個人的にはその少々危なっかしいところにも心地好さを感じているような気がします。

とはいえ、危なっかしいままで本番に臨むわけにもいきません。どういった仕上げをしていくかは指揮者次第ですが、今後はより細かいところの詰めが必要になってくる気がします。曲自体はほぼ全員の耳に馴染んでいるのに、楽譜は誰にとっても初めての曲、というのがこのオケの特徴で、だからこそ思い込みで演奏してしまいやすいからです。

楽譜上のdim.を、単に音量を小さくしていくものとして弾くか、他のパートとクロスフェードしていくものとして弾くかでも、意識の上ではずいぶん変わってきます。そうした楽譜上の細かい工夫は、耳の記憶だけでなく、頭でも理解しておく必要があるわけで、そうした意識付けは一般的なクラシックの曲を演奏する時以上に配慮が必要になってくる気がします。

・・・やっぱりスコアを印刷しておこうかな・・・自分も甘く見すぎかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月23日 (金)

天下りか否か

日本郵政の社長に元大蔵省事務次官の斎藤氏が指名されて、「天下り」「脱・官僚からの後退」などと騒がれていますが、当人たちはそうは思っておらず、いたって平然としているようです。

それでは「天下り」とはどういうものでしょうか。

まず、官僚時代のコネを活かして職を得たかどうか、ということがあるでしょう。これは、当人がどう思っていても周囲がそう捉えてしまえば同じです。特に職を提供する側に選択の余地がなかったり、断る権利がない場合などは間違いなく天下りということになります。
ただ、それがコネなのか、スキルが正当に評価されてのものなのか、明確に切り分けるのは難しそうです。

次に職を得た後ですが、現職の官僚に対して、「昔のよしみで」何か便宜を求める、あるいは求められる、という関係が発生すれば、それは天下りと判断できるかもしれません。当人同士がどう考えていても、そこに他とは異なる公平ではない関係があれば同じことです。
ただ、それもキャリアを評価したと言われてしまえば、明確に切り分けるのは難しい気がします。特に事務次官まで登り詰めたような大物の場合、当然その分野において能力はあるわけで、そうした能力のある人間に依頼するのはビジネスとしてはまっとうな判断だからです。

そうしたことを考えると、今回の人事を天下り、と呼べるかどうかは少々微妙な気がします。日本郵政が斎藤氏を社長に迎えた結果、官僚から便宜を図ってもらえてビジネス上有利になる・・・というのがあまり成り立たないからです。むしろこの人事の結果、日本郵政に便宜を図ってもらえるようになるのが官僚の方でしょう。民営化によって彼らの手を離れてしまっていた国債の引き受け先が戻ってくることになるからです。

もっとも、それも天下りの一つということはできます。結局のところ、まっとうとは言えない取引関係が発生すれば、それは何らかの馴れ合いがあったということであり、おかしな人事だったということになるのです。
ただ、彼ら自身はそれらをまっとうでない取引とは考えない可能性はありますが・・・。

それにしても知らなかったのですが、日本郵政って株式会社といっても、非上場でしかも財務省が100%株主だったんですね。

しかしそうなると、株主である財務省ではなく、総務大臣が人事に介入しようとしたり、郵政担当大臣とやらが次期社長を指名したりするのは、株式会社のガバナンスとしてはどうなんでしょうか。

株式会社としての日本郵政に対して、どのような権限があって今回の人事が行われているのか、ちょっと気になってしまいました。

CSRレポートとか作ってくれないかしらん。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月21日 (水)

居酒屋談義はツールでは作れない

Keynotesインターネットの実名化問題というエントリーに居酒屋談義についての箇所があり、なるほどと考えてしまいました。

居酒屋談義のタブーは「いいアイデアだからやってみれば」である。コミットメントがないのが居酒屋談義であり、こうした言論活動が許されてきたのが日本の言論空間の特徴だ。

これが非常に示唆的なのは、社内ブログや社内SNS、ひいては社内Twitterまで、社員のナレッジや気付きを引き出すための様々なツールは、「敷居の低さ」を訴えて、それが活用につながるとしていますが、実はツールでは越えられない壁が厳然としてあることを示しているからです。

それが「コミットメントがない」言論空間である、ということ。

居酒屋談義でアイデアが出やすい理由が、立場を気にしなくて良いとか、見知った相手で気安いから、といったものではなく、場の約束ごととしてコミットメントがないから、という点にあるのだとすれば、その実現を社内ブログなどでめざすのは極めて難しいことになります。

なぜなら、そうしたツールが社内に導入される目的自体が、まさに「居酒屋談義にコミットメントを持ち込む」ためのものだからです。

社員の自由な意見やアイデアを引き出そうとするのは、それを実現に結びつけるために他なりません。仮に当人にそのコミットメントが跳ね返ることがないにしても、場が求めているのがコミットメントであることは違いないのです。そうした目的がなければ社内への導入自体が成り立たないからです。

そしてそうしたコミットメントを求める場の雰囲気が敷居を産み出しているのだとすれば、それをツールの工夫で乗り越えるのには自ずと限界があることになります。「投稿のしやすさ」「閲覧者の限定」「短文」といった要素がどれだけ敷居を下げたとしても、結局は場の目的自体が持っている敷居が最大の課題ということになるからです。

今更ながらにナレッジマネジメントにおいて、「アイデアの創出」「気軽な意見の交換」が難しい理由についてぶち当たってしまった気分です。今ごろ気づくな、という気もしますが(笑)

さて、そうなるとどう考えていけば良いでしょうか。目的自体から見直さなければ、「(そのために)敷居を下げる」という手段も成り立ちません。そもそも目的自体が矛盾をはらんでいるわけで、そういった点から見直しをする必要があるのかもしれませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月20日 (火)

府中市中央図書館

今日は図書館に行こうと思い、久しぶりに府中で下車して中央図書館に向かったのですが・・・。

・・・お休み・・・。

相性が悪いということなのか、どういうわけか行こうと思った日は休みのことが多いのです。別に思い込みでも何でもなく、これまで会社帰りに中央図書館で本を読んだのは10日に満たない程度ですが、一方行ったら休みだったのは最低限記憶にあるだけでも3回あります。

そんなに休みが多いとも思えないのに、この確率は少々相性が悪すぎでしょう・・・。

さておき、憂さ晴らしということでスタバでブログを更新。読みかけの本はここで読むことにします。座れたのでよしとしましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

勉強場所

時々流行り病のように「勉強しなくちゃ」と考えるのですが、そこでいつも突き当たってしまうのが、「何時何処で」するのか、という問題です。

やる気があれば何時でも何処でも、というのが理想なのでしょうが、そこまでやる気と切迫感があるわけではありません。このブログのように、できれば空気のように当たり前にできるのがよいので、そうなると無理のない範囲で環境を整える必要があるのです。

家に帰るとどうしても雑念が増えてしまいます。色々とやることを思いついてしまい、どうしてもそちらの方が優先順位が高くなってしまうのです。

お金をかけるならカフェなどに行くのが良いのですが、特に帰宅途中に寄るのは結構大変で、席が確保できるとは限りません。帰り道に寄る場所として考えるのであれば、やはり図書館でしょうか。府中市の中央図書館はちょっと駅から歩きますが、夜10時まで開いているので、静かに本を読むには適しています。
(ただ、これまで何度か通っているのですが、なかなか習慣として定着しないんですよね・・・。)

昼は大抵ランチを外に食べに行きますが、ここで定食屋などではなく、カフェに入ってゆっくり本を読む、という方法はあるかもしれません。その場合、お昼はそれほどしっかり食べられるわけではなくなるので、朝食を社員食堂でしっかり食べると良さそうです。
(食費も安く済むし・・・。)

朝しっかり食べるのであれば、昼は軽くか、あるいは食べなくても良いぐらいなので、この季節であれば公園や会社の屋上などで読書、という方法もありそうです。
(ただ、基本的に勉強内容が読書といっても、できればメモなどをとれる環境は残しておきたい気もします・・・。)

今日はとりあえず朝は社員食堂にして、昼は屋上にしてみましょうかね。BGM用にRollyを久しぶりに引っ張り出したことですし(笑)

後は何を読んで何を勉強するかですね・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月19日 (月)

小さい音をいかに実現するか

この週末は珍しく練習が少なく、日曜日午前中の第九の練習のみでした。このところほぼ毎週土日に練習が入っていることが多かったので、それがなくなるとずいぶんとすっぽり時間が空いてしまったような気になります。

そういった時に何か別のことができればとも思いますが、ついついだらだらと過ごしてしまいました。「何かをしよう!」というよりも、「一息つこう!」という気分が強いのかもしれません。なんとなく気が引けるのですが、まぁそういったこともあるでしょうし、心と体のサインだと考えることにします。

とはいえ、現実にはそんなことを言っていられない状況にあるのも事実。

昨日の第九練習は、指揮者との顔合わせということで、様々な指示が出されました。こうした内容も一つひとつ消化していかなければなりません。課題はいくつもありますが、まずは弱音の処理でしょうか。毎回の課題ではありますが・・・。

発音がはっきりしていないということで、昨日の練習では大きめに弾くことを指示されましたが、もちろん最終的には本来の音量まで小さくしなければなりません。発音がはっきりしないのは一人ひとりが(小さくても)しっかりした音を出せていないからで、音量をあげればはっきりするのは、一部の人間の音量でそれらをかき消してカバーすることができるようになるからです。

しかし、それではいつまでも大きい音にしかなりません。つまり、一人ひとりがきちんと小さい音を出せるようになることが、結果として全体の音量を下げることにつながる・・・はずなのですが・・・。

これが結構難しい。オケの中で小さい音を出すというのは、自分の出す音を耳で確認できずに狙った音を出す(音程としても、発音としても)ことが要求されます。人数の少ないオケ、例えばチェロが2プルトのオレイユであれば、自分の音は1/4あるいは時に1/2のため、どんなに小さくしても自分の音は聴こえますが、府中の規模だと1/11(現在は5.5プルト)となるため、その中で自分の音を聴きつつ小さい音を出すのは、ずっと難しくなるのです。現実問題としては「聴こえない」のが実情でしょう。聴こえたらそれは「大きすぎる」ことになります。

しかも実際には、オレイユでも小さい音はさらに小さく(自分の音さえ聴こえないような)弾くことを求められるのです。それでやっとオケ全体のバランスが整うわけです。

練習場の響きの中で弾くのと、ホールの音響の中で弾くのとではまた違いがありますが、実際には周囲の音を聴きながら、自分の音はイメージで出すことが求められます。バイオリンやビオラであれば、音はより自分の近いところから出ているので聴こえるかもしれませんが、チェロやコントラバスでは自分の音が聴こえるレベルでppの音を出すのはまず無理と考えた方が良いでしょう。

さてさて、それをどうやってパートとして実現していけば良いでしょうか。個人の自覚だけではなかなか難しい領域だと思うのですが、何か有効な練習方法などはあるのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月16日 (金)

命日

普段意識することはないのですが、カレンダーを見たら今日は弟の命日でした。

大学生の時なので、鮮明に覚えているとは言えませんが、朝、電話を受けた時のことはまだ覚えています。当時は岩手大学の学生でしたが、ちょうど青森の楽団(学生だったか市民だったかは忘れました)の演奏会にエキストラで出演するために、現地へ行く日の朝でした。(その日がゲネプロ、翌日本番の予定でした。)

寮の電話に呼び出され、電話の向こうで「深呼吸をして聞いてくれ」と震える声で言った父。
最初は宝くじでもあたったのかと思いました。

「○○(弟の名前)が死んだよ」

どういうやり取りをしたのかは覚えていませんが、エキストラはもちろん取り止め。何人かでまとまって行く予定だったのですが、すでに集合時間が迫っていたので、まずはそこに行き、集まっていたメンバーに事情を話してそのまま駅から新幹線で東京へ。着いたのは昼前だったと思います。

弟の姿を見て、はじめてその死を実感して涙が出たのを覚えています。

弟は事故死でした。犬の散歩の途中で、滝壺に転落したようです。滝の上で犬が吠えていたそうですが、彼の転落が一瞬のことだったのか、それともどこかに掴まって死の恐怖と格闘する時間があったのか、そういった状況は分かりません。

その滝は散歩のコースとしては自宅からかなり遠いのですが、何度か家族や友達と遊びに行った場所です。もう行き方も忘れてしまいましたが・・・。

そしてその時エキストラで演奏する予定だったのが、ブルックナーの交響曲第7番。数年前に府中でも演奏しましたが、そういった意味でも強く印象に残っている曲です。その後、4番を演奏し、来年は8番。ブルックナーというとどうしても思い出してしまうことではありますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月15日 (木)

地力では追いつかない部分

昨日は大雨が降る中、実家に練習に行ってきました。(実家と言っても親が引っ越してしまったので今は人は住んでいない空き家ですが・・・。)
第九でもシューベルトでもなく、星の調べで演奏する「交響曲FFT」の練習です。

基本的には地力でなんとかなる(数多の作曲家と違ってあまり嫌らしいことはしていない)のですが、とはいえ何ヵ所かはさらわなければいけないところがあります。練習が断片的(出席が安定していないため)なので、「忘れてしまう」という要素もあります。そこで、再確認のための練習です。

改めてさらってみると、1曲1曲はそれほど長くないのですが、曲数が多いため、かなりボリュームです。実際、一通り確認するのは無理で、さらえずに残してしまった曲もありました。これだけのボリュームだと本番こなすのはけっこう大変そうです。

「交響曲」といっても、実際にはゲームで使われた曲を組み合わせた「組曲」に近いため、府中の定期演奏会で演奏した「道化師」のように、曲間の切り替えがかなり難しそうです。しかもメドレーのように複数の曲が組み合わされた曲もあり、転調も頻繁なため、次がどうなるかをしっかり頭に入れておかないとあっさり崩れてしまいます。

ただ、このあたりは個人で練習していても限界があって、合奏で確認していく必要がありますが・・・。

少し前から通しの練習もやるようになっているので、都度確認しながらそういった「切り替え」を細かく確認していくことが今後は大切になりそうです。
(とはいえ、通しで3時間かかる曲を組曲として演奏するってどうなのよ・・・。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月14日 (水)

ほぼ日手帳とモレスキン

そういえばもうそんな時期だということで、来年のほぼ日手帳を買いました。どの程度使うのか、いまだに迷いはありますが、使いやすい手帳であることに変わりはなく、とりあえずは「定番」としておさえておく、という感じです。

毎年それ以外にもいくつか手帳を購入するのですが、今年はモレスキンのプロジェクトプランナーを購入してみました。ジャバラ型の1年間が見渡せる手帳で、スケジュールを管理するというよりは、ガントチャートを作成して長期プロジェクトの予定と進捗を管理するためのものです。

もともとスケジュール管理はGoogleカレンダーとiPhoneでやっているので、実は手帳には「スケジュール管理機能」は不要なのです。ほぼ日手帳のような「メモ機能」を重視するか、今回のモレスキンのような「プロジェクト進捗管理」を重視するか、いずれにしても日々の予定とは違った側面で情報整理をするためのツールが欲しいと考えています。

しかし、そういった機能もデジタルデバイスでいけるのでは?という気もして、そのあたり、アナログツールである手帳をどのように活用していくか、というのは毎年色々と悩んでいます。
(単にあれこれ悩むのが好きという可能性も・・・。)

ほぼ日手帳は使いやすいのですが、鞄に入れておくならともかく、手ぶらで持ち歩こうとすると、どうしても手持ちになるためちょっと辛い。なるべくならポケットにすっぽり(ぎりぎりではなく)入るサイズが理想で、そうなるとモレスキンぐらいのサイズが適当なのです。ただ一方で、メモ用と考えるとやはり小さすぎて使い勝手が悪いというのが正直なところ(しかもプロジェクトプランナーにはメモ欄はなく、拡張ポケットにノートを入れるか、付箋などを使う必要があります)です。

そのあたりはトレードオフになってしまうのはやむを得ないので、どちらを優先する必要があるのか、よく考える必要がありそうです。

・・・しかし、買ってはみたものの、プロジェクトプランナーなんて使いこなせるのでしょうか。使いこなした方が、自分の仕事の効率はあきらかに上がりそうなのですが、あまり馴染みがなくてどのようにしたら良いものか・・・。

とりあえず11段に分かれているので、それぞれを何に振り分けるかをしばらく考えてみたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月13日 (火)

シューベルトの弦楽五重奏

昨日はアンサンブルオレイユの年末アンサンブル大会に向けた練習がありました。昨年はお断りしたのですが、今年は断りきれず参加。ただ、普段はやることが少ない小編成のアンサンブルは色々勉強になりそうな気がします。

いつもは聞いたことのないような新しい作曲家の曲を演奏するオレイユですが、今回のアンサンブル大会のエントリーは、シューベルトの弦楽五重奏曲。Vn2本、Va1本、Vc2本という編成で、一応1stVcを拝命。昨日は初練習でした。

シューベルトの弦楽五重奏は、最晩年の曲だそうで、旋律も響きもとても美しいのですが、これが弾いてみると、とても難しいというか、「弾きにくい」感じです。交響曲をやったときもそうでしたが、音の飛び方などが、弦楽器では取りにくいのです。楽譜を一見して、音源を聴いた限りではいけそうな気がするのに、聴くと弾くとでは大違いの難曲でした。

とはいえ、事前に練習がほとんどできませんでしたが、とりあえず最後まで通すことはできました。
オレイユのすごいところは、弦のメンバーの多くが、どこか別のオケでパートリーダーなり、コンサートマスターをやっている人間であること。昨日のメンバーも知る限りにおいてそういった面々で、そういった面で多少落ちようが全員で固まるといったことはなく、最後まで持っていけるのは流石という気がします。

自分はといえば、何ヵ所かやばいところはありますが、あとは練習次第でしょうか。ただ、地力でできる部分はすでに大体弾けているので、あとは単純に「さらう」というよりも、練習により技術を「向上」させなければなりません。大人数のオーケストラと違って、互いに助け合うごまかしがきかないというのもシビアです。

しかし楽しかった。まったく弾けないと辛いばかりですが、多少は弾けて、しかもとても美味しい曲だからということはあるかもしれません。年末にむけてしっかり練習していきたいところです。

ちなみに、まともに全楽章をやると1時間近い大曲なんですが、時間制限もあって第1楽章だけを演奏することになりました。正直第3楽章などは、(楽しい曲ですが)弾けるようになれる気がしなかったのでそれも助かっていたりします・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 9日 (金)

水が足りない‐バーチャルウォーターの話

最近どうもネタにつまることが多いのですが、どうもインプットが不足しがちなのかもしれません。インターネット上で接する情報はそれほど少なくないとは思っていますが、それも表層的らしく、響いていないため、ブログで書くアウトプットまで持っていけないことが多いようなのです。

厳密に言えば、インプットをきちんと消化していない、ということかもしれませんが・・・。

さて、会社の掲示板で書いてしまったこともあって、いまいち気分が乗らないのですが、今日は先日の「水が足りない」の続きを少々。

バーチャルウォーターの話でちょっと考えさせられてしまったのは、日本は本当に「モノ作りの国」として身をたてるべきだったのか、という話です。

バーチャルウォーターは、元々は中東の様な水の少ない地域において、水に起因する争いが起きないのはなぜか、という研究の中で編み出された考え方だそうです。こうした地域では、食料などを輸入することによって、その生産に必要な水を仮想的に輸入しており、結果自地域での水不足を補っている、というのが基本的な考え方で、水自体を直接移動させることは難しくても、そうしたバーチャルウォーターとして流通をさせることで、地域間の水をやり取りし、世界的な水供給のバランスを図ることができるのではないか、というものです。

水の問題がグローバルでありながらローカルな問題なのは、地域ごとにまったく状況が異なる上、そのバランスをとるために移動させることが物理的に難しいためなのですが、バーチャルウォーターの考え方であれば、そうした水の流通が可能になるというわけです。

そこで大量の食料を輸入している日本ですが、元々それほど水ストレスが高くなく、むしろ豊富と言われながら、食料輸入を通じて水を輸入しているわけですから、そこにはかなりのアンバランスがあることになります。
(もっとも、人口一人あたりで考えると、東京の水ストレスはなどは中東並み、という話も聞いたことがありますが・・・。)

そんな話を聞いて考えてしまったのが、実は日本はそうした自然環境を生かした農業国として身を立てた方が、世界にとっては役に立つのではないか、ということです。日本は林業資源についても、世界的に見るとかなり豊富な国という話を聞いたこともあるのですが、そういった自然環境とはまったく関係ない工業国として生きる道が、本当に世界にとって意味があるのか・・・そんなことを考えてしまったのです。

モノ作りといったって、せいぜい明治維新以降の話ですし、日本人が「古来」モノ作りに長けた民族だったという根拠が特にあるわけでもないでしょう。むろん伝統工芸品などには目を見張るものがありますが、そういった「伝統工芸品」は、きわめて自然に密着している、ということを考えれば、むしろ「自然と共に生きる」ことに長けた民族としての選択があってもよいのではないか・・・そんな気がするのです。

「モノ作り」といっても、高品質で安価なものを大量に作る「モノ作り」と、社会や環境のニーズにあわせた技術とデザインを提供する「モノ作り」とでは若干意味合いが異なります。実は前者で邁進するよりも、後者を突き詰めることを考えるべきだった(もちろんこれからはそれを目指さざるを得ないので、むしろこれまでの社会が目指してきた方向に対する反省として)のではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 7日 (水)

まだよく分からないTwitterのつぶやき

先日はじめていくつか呟いてもみたのですが、いまだにTwitterの使い道が見えてきません。

そもそもこのツールは「呟く」ためのツールなんでしょうか。メインの画面には、自分も含めてフォローしている人の呟きが表示されるのですが、それを眺めていると、とてもその「場」への投稿が、自分にとっての「呟き」とは思えないのです。

例えば、ブログのように、「自分の投稿だけが表示される画面」がメインにあった上で、フォローも含めたみんなのつぶやきも見られる、というインターフェースであれば、それは「呟き」とその集合体という捉え方ができると思うのです。

ところが、メインとなる画面に流れているのは、自分の呟きというよりは、雑踏のざわめきです。それもフォローしている人が多くなるほど脈絡がなくなり、しかも現実の雑踏とは違って、その先の相手の呟きまでは一気に俯瞰できなかったりします。

呟きというマイクロブログを集めた「場」ではなく、ネット上の雑踏のざわめきを集めたもの・・・そういった性格のものだとすれば、どのように使っていくべきか。

雑踏には本来コンテキストはありません。電車の中で聞こえてくる様々な会話と同じで、個々にはコンテキストが存在しても全体としては存在せず、しかもTwitterの場合、基本はつぶやきのため個々の投稿自体にも厳密にはコンテキストが存在しないのです。

その中で意味のある(自分にとって意味のある)コンテキストを見つけ出し、引き出し、吸収するのは簡単ではないように思います。

であれば、別の使い方をするというか、そういったコンテキストベースの考え方ではない使い方、接し方を考える必要があるわけですが・・・うーむ、難しい。

まぁ、もうしばらく様子を見ることにします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 6日 (火)

水が足りない

このところ朝の電車の混雑がひどくて、今日も遅れて運行していました。自分は座れるから良いのですが、こうも混雑がひどいと、近郊で朝ゆっくり起きられるよりも、朝早くても郊外から始発に乗れる方が実は楽かもしれません。

それはさておき、昨日はアカデミーヒルズのセミナーに行ってきました。実は申し込みをしたのをすっかり忘れていて、いつもは持ってくるスタバのタンブラーも忘れていく始末。他にも漏れていた予定があって、今週はスケジュールの登録漏れが多いです。

セミナーの内容はというと、朝日新聞GLOBE創刊一周年記念の企画で、「水が足りない‐ビジネス戦略と地球環境」というタイトル。特別ゲストに前原誠司国土交通相を招いていたためか、会場は大盛況でした。

前原大臣は基調講演だけでなく、パネルディスカッションにも参加するサービスぶり。ただ、コーディネーターが冒頭、水とはあまり関係ない大臣の近況を聞いていたのは興ざめでした。朝日新聞GLOBEの記者だったのですが、元は政治部だったようで、余計な関心を抱いていたのかもしれません。

メンバーは政(前原大臣)、官(望月晴文経済産業事務次官)、民(桑原洋日立製作所特別顧問)、学(竹村真一京都造形芸術大学教授)とそうそうたる顔ぶれだったのですが、正直なところ、ディスカッションはディスカッションらしくなかった気がします。

個人的に印象に残ったのは、民代表の桑原氏が、「日本の技術を生かすための水ビジネス」という視点だったのに対し、学代表の竹村教授が「水環境を生かすための水ビジネス」という視点であったこと。このあたりをもう少し戦わせてみると面白かったような気がしますが、なかなかそこまでのバトルはできないのかもしれません。
(竹村教授は他の話の流れとは無関係に持論を展開する傾向があったので、そもそもかみ合わせに無理があったのかもしれませんが・・・。)

その他、印象に残ったのは、

「水の問題はグローバルでありながらローカルな問題で、その点が気候変動対策と異なる」
「バーチャルウォーターは本来ポジティブな発想によるもので、日本だけが状況が異なる」

といったことでしょうか。今日は時間とスペースがないので後日書ければ書きたいと思います。

それと、これは余談ですが、望月事務次官の用意していたプレゼンテーションの資料がとてもスッキリしていて、分かりやすく感じました。社内で見かけるごちゃごちゃしたプレゼンテーションとは違ってスッキリした印象で、さすがこうした資料を作るのには慣れているなぁ(望月次官がではなく経済産業省が、ですが)等と感じました。

ああいった資料作りは見習いたいところです。何が上手いのかはいまいち言葉にできないんですけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 5日 (月)

Podcastを聴かなくなってきた

一時期よく聴いていたのですが、最近Podcastを聴かなくなってきました。聴けなくなってきたとでも言いましょうか・・・。

iTunesのライブラリに手持ちのCDの大半が取り込めてきたため、聴きたい曲が増えて、Podcastまで聴いている余裕がなくなってきたのです。特に最近は練習の録音なども取り込んで聴くようにしているため、通勤電車ではそういったものを聴いていることが多い気がします。

そうなると更新するのも面倒になってきて、MacBookを立ち上げる機会も減ってきています。結局iTunes用と割りきった使い方(もったいないので、もちろん今後音楽と映像を中心に用途は拡げていきたいと思いますが)をしているので、今のところはそれほど使う機会もありません。
(ネット関係は結局HP-Miniを使用。)

さて、音楽を聴くとなるとやはり気になってくるのがヘッドホン。やはり電車内で聴くにはノイズキャンセリング機能が欲しいところです。DENONのノイズキャンセリングヘッドホンはかさばるのと、着けていると暑いのであまり使わずにしまい込んでいましたが、そろそろ涼しくなってきたので復活しても良いかもしれません。カナル型のSONYの方を使う方法もありますが、個人的には耳の中に何か入っているような気になるインナーイヤータイプはあまり好きではないんですよね。(かさばらないのは嬉しいですが・・・。)

今日は先日の定期演奏会の録音を聴いていましたが、細かい部分はさておき、結構聴くことができます。特に一ヶ所、大きく崩れたところがあって、これはなんとも悔しい限りですが、全体として見れば、そこそこの出来だったかもしれません。過去の演奏会の録音も引っ張り出して、聴き比べてみたい気分になりました。

そういえば、過去の演奏会のビデオもそろそろ整理をしておきたいんですよね・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 2日 (金)

何をつぶやくか

ようやくというか、いまさらというか、Twitterのアカウントを取得しまして、昨日辺りからぼちぼちつぶやき始めています。

・・・が、今のところはあまり利用イメージがわいてきていないというのが正直なところです。手帳に書き込むメモの代わりにつぶやいてみても、それは自分にとってのつぶやきの用途であって、他の人と繋がるようなものではないでしょう。

とはいえ、こうやって短くつぶやくシステムというのは、はてなブックマークなどと同じで手軽なのは間違いありません。今はiPhoneから書き込んでいますが、環境次第ではかなり便利に使うことができるでしょう。

あとは結局「どのように使うか」なのです。

個人的にははてなブックマークは、ウェブコンテンツへのつぶやきやメモとして使っているので、Twitterについては、そうしたものによらないメモ用途として使うのが良いのかもしれません。

ただ、フロー的なインターフェースなので、アーカイブ的なメモとして使うのが難しいのではないかという気もしますが・・・。

いずれにしてもそうした使い方は、誰かをフォローするとかフォローされるといった使い方とはかなり趣が異なりますので、あまり本来の使い方ではないようにも思います。

あるツールをどのように使うかというのは、まったく個人的なツールであれば、手帳と同じで自分次第です。別に本来の使い方や他人の使い方を気にする必要はないですし、他人に強要するようなものでもありませんが、ことコミュニケーションの手段として考えた場合は、ある程度のすりあわせも必要になってくるわけで、そのあたりが難しいですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 1日 (木)

多様性を受け入れ、信頼する社会

演奏会を挟んでしまいましたが、先週お受けしたインタビューの話など。以前エントリーした「理想的な社会」の続きです。

結局、「理想的な社会」については、

・多様性を受け入れる社会
・信頼する社会

という2点を挙げました。どちらにも共通するのは、「相手が」ではなく「自分が」であることです。

多様性を「受け入れてもらう」のではなく「受け入れる」。「認めてもらう」のではなく「認める」。
最近は「Only One」がもてはやされていますが、それは自分以外の多様性を拒否し、認めないことで成り立っているのではないか・・・そんな話をしました。

ただ、次の質問で「その理想的な社会を実現するにはどうしたら良いか」という質問があって、これには少々困りました。多様な価値観を受け入れる社会というのは、究極的にはある統一された理想像を持ち得ない社会でもあるからです。様々な価値観を受け入れるがゆえに、実現のための特定の方向性を持ち得ないとでも言えるでしょうか。

ただ、「多様性を受け入れる」というのは、様々な価値観を受け入れるだけでなく、それを拒否する価値観をも受け入れることを示しています。「そういう考え方もある」と認めることと、「その考え方を(自分は)是と思う」はまったく違うことなので、そこの部分を調整するために社会のルールがある、という話をしました。

ある価値観に基づいた合意で動く社会、ではなく、多様な価値観のぶつかり合いの中から生まれた一定の妥協から生まれるルールに基づいて動く社会、ということです。

社会あるいは集団というのは、どこかで多様性を拒否しなければ成り立たない側面も持っています。それを価値観の統一でむりやり成り立たせるのではなく、ルールや契約によって成り立たせることが必要ではないか・・・そういった意味では昨今のCSRの議論は倫理という価値観ベースで進められているのが多少気になる、なんて話もしたように思います。

もう一つは信頼する社会。
これは単純に言えば、「相手の行動に頼って信頼させられる」のではなく、「自分が信頼するという覚悟を決める」という感じでしょうか。

そもそも、「信頼を裏切られた」という考え自体、信頼の基準が自分ではなく相手にあった証拠ではないか。そんな相手に左右される考えを「信頼」と表現して良いのか・・・そんな話です。
「多様性を受け入れる」とリンクして考えるのであれば、「相手の離反」という考えの相違も想定してこそ「信頼」でしょう。そして、想定しているのであれば、それは「裏切り」ではなく、自分の信頼の範囲内での行動に過ぎません。

「信頼を裏切られた」というのは、そもそも相手を信頼していなかったからこそ出てくる感想ではないか、という気もするわけです。まぁ別にだからといってショックを受けるなとは言いませんが・・・。

こちらの考えは「企業はステークホルダーに信頼されようと躍起になっているが、そもそも自分の方ではステークホルダーを信頼していないのではないか」という話をすると、なんとなく分かってもらえたようです。企業に必要なのは、ステークホルダーに信頼される自分ではなく、ステークホルダーを信頼する自分であり、その信頼に基づいて何をするべきか、という考え方ではないか、という気がするのです。

ちなみにこの考え方、以前自社の社訓とうまくリンクさせることができて、個人的に悦に入ったことがあったのですが、インタビューの時にはすっかり忘れてしまっていて、話すことができませんでした。
ああ、もったいない・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »