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2010年1月29日 (金)

遅い出勤

昨日は、いつもよりも2時間近く寝坊してしまいました。会社には間に合ったのですが、さすがにブログを書く時間は無し。とはいえ、間に合ったということは普段は2時間ぐらいの余裕を持って出社していることになります。

そんな訳でいつもとはまったく違う時間帯の電車に乗ることになったのですが・・・。

最近、というかここ1年ぐらいですが、自分が普段乗っている電車が混み合うようになってきて、「朝早く出社する人が増えているのでは」と感じていました。不況のために残業が厳しく制限されるようになり、早出残業(厳密にはこれも残業ですが、比較的なし崩し的運用がなされているような・・・)が増えているのではないか、ということを以前書いたことがあります。

そんな訳で、逆に遅い時間は減っているのかなと思いきや・・・。

ひどい目に遭いました。早い時間と変わらないか、それ以上の混雑。座れずに立っていたということもありますが、実際に体験してみるとピーク時の混雑はやっぱりピークの名にふさわしい混雑でした。

ということは、(あくまでそれらの実感からの判断では)特に早朝への「シフト」が進んでいるという訳ではなく、単に混雑する電車だっただけということのようです。

さて、寝坊した翌日の今日は、実は会社を休んでいます。実家の地勢調査というのに立ち会わなければならないため、今は帰る前に近くのスタバで朝食中。

こんな時間なので人はまばらですが、正面(といっても店の反対側)に座った4人の年配の男女が、「何でこいつはこんな時間にここにいるんだ」という目つきでちらちらこちらを見てくるのが気になったりします・・・よけいなお世話だ!

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2010年1月27日 (水)

ブログとツイッターの使い分け

twitterを始めたといっても、せいぜい朝昼晩に一言二言ツイートするだけなのですが、そういった形で思ったことを発散していると、ではブログでは何を書くのか、という気になってきます。特に呟き系の内容は、書く量こそ違えど基本的な内容は同じなので、とりあえずツイートしてしまえば、ブログに改めて書こうという気にはなりません。これははてなブックマークでも同じです。

もちろんメモ的な要素もあるので、時にはブログでさらに考えを膨らませるということはありますが、そうした「呟き」はほとんどないと言ってよいでしょう。

そうなると、ブログには何を書くのか。もともと、考えを手軽に書くためのツールであったブログですが、より手軽なtwitterという手段が登場したことで、むしろ書く際のハードルは上がっているような気がします。自分の場合、メールでの更新なので、リンクを色々貼ったりとか、写真をたくさん入れたりとか、「twitterではできないこと」をブログでやる、という差別化もあまり図れません。

ただ、一方で、瞬間風速的なtwitterだけで呟いていては、より考えを深めるというか、考えをまとめることは難しいだろうという気もします。そういった意味でも、ブログを書くのは、より「思索のための」時間にシフトしていく必要があるのかもしれません。

正直なところ、最近あまり頭を使っていないんですよね・・・ブログのエントリーが、日々の呟き系に、あえて言うなら「堕して」から、書く際にしっかり考えて書くということをあまりしなくなっていたのは確かです。

もっとも、長文を書き連ねるよりも、短い言葉でまとめる方が大変であることを考えると、わずか140文字のツイートの方がずっとしんどい作業ということも言えるわけですが・・・。

・・・ああ、なんてダラダラした内容なんだ。まずはこのあたりの「惰性で書いている」的な部分を是正していかないと、このブログは自分にとってなんら生産性のないものになってしまうかもしれません。気を付けなければ・・・。

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2010年1月26日 (火)

1年間で52の課題に挑む

新年最初のエントリーで紹介したアソシエの手帳が出てきました。

1年間で52の課題に挑む
CULTIVATION PROGRAM

という手帳で、

「ビジネスパーソンとして恥ずかしくない教養を身につけるのに役立つ52の課題を掲載しました。どんな順番でも構いません。すべての課題に挑んでください。2010年の1年間(52週)で、すべてをクリアするのが目標です。」

というものです。

パラパラめくってみると、

・懐石料理の店で食べる
・歌舞伎を観に行く
・着物を着て街に出る

といった課題が並んでいます。もっとも、多いのは「○○の本を読む」というもので、

・ハムレットを読む
・古事記を読む
・プロフェッショナルの条件を読む

といった形で多くの本が紹介されています。

さてそうした課題の中で、これはなかなか難しそうだ、と思えたのが次の3つ。

・友人とシェークスピアの演劇を観に行く
・中国人の知人を作る
・人をもてなし「今日は楽しかった、ありがとう」と言わせる

他の課題が基本的に自分だけで解決するのに対して、この3つだけは相手のある課題になっています。すでに日常的にそうしている人の場合はともかく、そうではない場合は、案外高いハードルかもしれません。

そもそも、課題をクリアするためだけにこうしたことをする、では本末転倒な気もします。その後も続いていけるような関係を作れるか、1回きりで終わらない形にできるかという問題もあるでしょう。

人をもてなすのは1回でもそれほど不自然ではないかもしれませんが、友人と演劇を見に行って、その後内容について語り合うというのは、友人の方が面食らってしまうかもしれません(笑)

とはいえ、自分で決めるのではなく、あえて他人が決めた課題に挑戦するというのは、自分の枠を広げることにつながります。以前何かの本で、服装のコーディネートを知り合いに頼むと自分では気付かない面が引き出されるといった話があったのですが、そうした意味ではこうした課題へのチャレンジは、自分が普段はやらないようなものこそ果敢に挑戦することが必要なのかもしれません。

このCULTIVATION PROGRAM、Googleのタスクリストにでも入れておくとよいのかも・・・。

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2010年1月25日 (月)

顔の見える消費者

iUGで知り合った在賀さんがやられている農場、GOLDEN GREENのサイトのブログで、キャッチコピーというエントリーがあり、その最後に、こんな一節がありました。

「顔の見える野菜ということで、スーパーには生産者の顔写真が貼ってあるものもありますが、本当に見えるべきなのは、消費者の顔なのではないでしょうか。」

農場に見学に来られるお客様の顔を見ていると、本当に安全な野菜を作ろうと思う、という話なのですが、確かにその通りなのだろうと思います。

企業側の立場でいえば、消費者の顔が見えない状態というのは「消費者不在」ということになるかと思います。顔が見えて良く知っている間柄であれば、何か問題があった時に自制が働くのは容易に想像できることでしょう。

そういった意味では、企業による不祥事の多くは、消費者(あるいは生活者)の顔が見えていなかったことに起因しているのかもしれません。大きな企業や、サプライチェーンの上流で問題が起こることが多い(ように見える)のは、そうした、消費者との距離感のようなものもあるのでしょう。

そう考えると、こうした不祥事を防ぐために、「企業倫理」のような考え方だけで十分だろうか、という気もしてきます。むしろ必要なのは顔が見えるようにするためのコミュニケーションなのではないでしょうか。

まぁ、実際問題としてどのようにコミュニケーションをとれば良いのかという問題はありますが・・・物理的にも。

また、企業としてどうするかというのはもちろんですが、消費者としてはどのように企業に顔を見せていくか、という課題もあります。twitterの企業アカウントをフォローして、色々なメッセージを投げていくといったやり方も今後はあるかもしれません。
(もっとも、そこでクレームなどのやり取りをしていたら、逆の意味で顔が見えてしまうという側面もあるので、良好な関係を作っていくにはどうしたら良いのかといったことは、お互いに考えた方が良いような気がします。)

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2010年1月22日 (金)

ソーシャル・アライアンス

昨日に引き続き、経済同友会の主催するシンポジウム&NPO・社会起業見本市「21世紀の社会変革-新しい市民社会の構築に向けて、"Everyone A Changemaker"」での田坂広志氏の講演から。

マネタリー経済とボランタリー経済が融合し、ハイブリッド経済化していく中で、今後重要になっていくと言われていたのが、「ソーシャル・アライアンス(社会的提携)」です。具体的には、企業とNPO/NGOとの協働ということになるでしょうか。企業が一方的に支援するのではなく、双方向性を持った取り組みです。

それ自体は異論のある話ではありませんが、そこで気になってしまったことが一つ。

アライアンスを成立させていくには、互いに提供するものが必要です。そこで重要なのが、「目に見えない資本」。

田坂氏は企業側が提供できる資本として、「ブランドキャピタル」や「ネットワークキャピタル」を挙げ、一方NPO/NGOが提供できるものとして「従業員満足」や「人間力の向上」などを挙げていました。

そこで気になってしまったのが、昨日紹介した「日本型CSR」の3点目のポイント。

3.企業が本業を通じて社会に貢献しているのであれば、社員は「働き甲斐」を感じている。

これはつまり、日本型CSRを実現する企業には、NPO/NGOとのアライアンスは必要ないということにならないでしょうか。少なくとも、そうした企業は、NPO/NGOとのアライアンスによる「従業員満足」は、不可欠な要素ではないということになります。

さらに5番目の、

5.究極の社会貢献は、社会に貢献し、変革する人材を育てることである。

も、「人間力の向上」ということなので、これも自己完結ができてしまうことになります。

もちろん、そうした部分をNPO/NGOとのアライアンスでさらに強化していくという考え方はありますが、どうしても必要なほど強い動機付けにはならないのではないか・・・そんな気がするのです。

では、どのようにアライアンスを成立させていけば良いのか。

NPOやNGOの社会的評価が高く、一方で企業に「日本型CSR」ほどの役割が求められていない欧米においては、こうしたアライアンスは大きな意味を持つかもしれません。

ブランドキャピタルもネットワークキャピタルも、企業と同等かそれ以上である欧米のNPO/NGOであれば、両者のアライアンスが更なる力になることは容易に想像されます。

しかし、日本ではそうではないような気がするのです。これはNPO/NGOに問題があるといった話ではなく、社会的な構造の問題です。

そういった意味では、「日本型CSR」同様に、「日本型
NSR」が必要になるのかもしれません。日本企業が日本社会をベースにした独自の役割や価値観を育て上げてきた様に、NPO/NGOも、欧米型の追随ではない日本独自の立ち位置を確立しなければ、「日本型のソーシャル・アライアンス」は成り立たないような気がします。

さて、どのような道が考えられるでしょうか。悩ましいといえば悩ましい話ですが・・・。

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2010年1月21日 (木)

日本型CSR

昨日は経済同友会の主催するシンポジウム&NPO・社会起業見本市「21世紀の社会変革-新しい市民社会の構築に向けて、"Everyone A Changemaker"」に出席し、ソフィアバンクの田坂広志氏の講演を聞いてきました。

「これから資本主義はいかなる進化を遂げるのか」と題した講演では、ヘーゲルの弁証法にある事物の螺旋的発展の話や、マネタリー経済とボランタリー経済の融合したハイブリッド経済といった話が出たのですが、最後に「日本型CSR」の考え方をお話しされました。

1.「起業の社会的責任」とは、社会に悪いことをしないということではなく、社会に良いことをするということであり、社会的責任と社会貢献は本来同義である。

2.「起業の社会貢献」とは、利益の一部を使うことではなく、本業を通じて社会に貢献することである。

3.企業が本業を通じて社会に貢献しているのであれば、社員は「働き甲斐」を感じている。

4.社会に貢献をしていくには、社会の変革に取り組まなければならない。

5.究極の社会貢献は、社会に貢献し、変革する人材を育てることである。

そういった考え方が日本起業には根付いており、それこそが日本型CSRのあり方だ、というお話でした。

こうした話は、企業に身を置く立場であれば、得心できるものですし、同意したくなるものだと思います。恐らく、あの場にいた企業人は同じように感じたのではないでしょうか。

・・・が、そこで思いました。こうした視点は、企業だけが持っていても意味がないのではないか、と。

問題は、企業の内部にいる人間がどのように考えるか以上に、企業の外の人間がどのように思うかではないでしょうか。

NPO、行政、学識者、メディア、市民など、企業を取り巻くステークホルダーは「起業の社会的責任」をどのように捉えているのか。企業が社会に悪いことをしている(だからしないようにしなければいけない)という考え方は、少なくとも企業の中からは生まれにくい発想です。自分達のやっていることを最初から悪いと思っていたら、そもそもやらないものでしょう。

「企業の社会的責任」という価値観を今の形にしてきたのは、企業自身ではなく、企業を取り巻くステークホルダーではないかという気がするのです。

そういった意味では、田坂氏のメッセージは、企業人以上に、社会に対して投げかけられるべきものではないかと思いました。

「企業のみなさん、あなた方は自分達をこのように考えるべきだ」

ではなく、

「ステークホルダーのみなさん、あなた方は企業をこのように捉えるべきだ」

というメッセージである必要があるのではないか、ということです。

そうした考えで社会が企業を捉えれば、自ずと企業の姿はそうなっていくのではないでしょうか。

松下幸之助は、このような言葉を残しているそうです。

「多くの利益が与えられたということは、その利益を用いてさらに社会貢献をせよとの、世の声である」

これは松下幸之助の経営者としての独自の価値観を述べたものなのではなく、当時の社会の当たり前の考え方を言葉にしたもののような気がするのです。
(そうやって言葉にしたということが「神様」と呼ばれるゆえんなのだと思いますが・・・。)

そんなことを考えさせられた講演でした。

その後のパネルディスカッションでも、様々な気付きをいただいたのですが、それは後日にしたいと思います。

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2010年1月20日 (水)

twitterはつぶやきではない

昨日職場でtwitterについて話題になりました。上司に聞かれる側でしたが、自分が理解している(と思っている)範囲で説明しつつも、たぶん自分も良く分かっていないというのが正直なところです。

それで、その後に、ほぼ日手帳にメモをした内容が、このようなもの。

「twitterというのは、見るものを特定しない単なる「つぶやき」ではなく、フォロワーという支持者とその周囲の聴衆に対する「呼びかけ」と考えるべきだろう。」

「メディアによらずに、自らの姿を幅広く伝えるための手段でもある。」

「ただ、日本のような社会で、そうしたツールがどれだけ有効かについては若干疑問もある。」

「タイムラインの中でのツイートは、雑踏の中での演説に似ている。」

「電車の中の会話のように、無視する事も、聞き耳をたてる事もできる。その範囲がとてつもなく広いだけだ。」

そのまま書き写したので脈絡のない部分もありますが、単に「思ったことをつぶやく」とは考えない方が良いような気がしてきました。どれだけフォローされているか、そのフォロワーがどれだけフォローしているかにもよりますが、雑踏のようなツイートの奔流の中で、いかに自分という存在の価値を伝え、自分へのアテンションを高めるか、というゲームのように捉えると良いのかもしれません。

もちろんそうしたゲームに参加するには、膨大な数のフォロワーが必要になりますが・・・。

限られた範囲でのコミュニケーションのツールとして考えた場合も、相手のフォローしている数によっては、その中で存在感を伝えるためには、それなりの質と量が必要になります。

直接メッセージを伝えれば良いではないか、と言われればその通りですが、twitterは「誰々さん」ではなく「みなさん」と呼びかけるものなので、そういった意味では交流パーティーなどで自分のプレゼンスをいかに高め、多くの人と話ができるようになるか、といった状況に似ているような気がします。

そんなわけで、昨日少しフォローする相手を増やしてみました。まずは聞き耳をたてる側でパーティーに参加しながら、徐々に聞いてくれる人を増やしていくことに挑戦してみたいと思います。

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2010年1月19日 (火)

食へのこだわりと偏食

先週のことですが、お昼を食べていると隣の席からこんな会話が聞こえてきました。

「(あなたは)食べ物にこだわりがあるように見える」
「(私は)好きな物しか食べてないから」

相手は、この人は食べるものにこだわりがあって、だからとても健康に気を使っている、と受け止めていたのに、当の本人は「好きなもの」にこだわっていただけで、健康など気にしていなかったという話です。
むしろ会話の中からはそんな自分の食生活に不安を感じているという気配さえありました。

そこでちょっと考えてしまいました。健康のためにはバランス良く食べることが推奨されますが、それはつまり「好き嫌いなく何でも食べる」ことなので、むしろ何かにこだわらない方が偏りが少ないかも知れないのです。

例えば、「自分は健康のためにこれしか食べません」といった話の場合、それは別の視点からは単なる好き嫌いに「健康」という理屈をつけているだけに見えてしまうかもしれません。科学的なエビデンスがなかったりすれば、まさに偏食。そもそも単一の食品だけでバランスがとれているというのは、某バランス栄養食ですら言い切れない話のような気がします。

もっとも実際には、偏食は食への無頓着から生まれるもので、食べるものになんらかの関心を持つことは、それだけで食生活のバランスの改善につながるものだとは思いますが・・・。

もしかしたら「食にこだわる」というのは、偏食と紙一重なのかもしれません。

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2010年1月18日 (月)

twitterをどう使うか

アカウントは持ちつつも、いまいち使えていないtwitterですが、土曜日にスキーに行った際に、何本滑ったかという記録に使ってみました。

ゴンドラに乗っている間に、何本目かというのと感じたことなどをつぶやいていったのですが、そうした「つぶやく時間」は必要にせよ、こうした使い方をしていると、自分の滑るペースなどを後から振り返ることができます。コミュニケーションの要素はほとんどありませんが、ライフログというのはこうしたものかもしれません。

ただ、問題なのは、「つぶやく時間」をどのように確保するかということ。実際にかかる時間はたいしたことはありませんが、それでも今回の場合、ゴンドラに乗る10分近い時間があったからつぶやく気になったわけで、常にそうしたタイミングを持てるわけではありません。つぶやく時間を確保するというよりも、つぶやく気持ちを確保するといった方が良いかもしれませんが・・・。

翌日曜日はオケの練習がありましたので、練習場所に向かう電車の中でもつぶやいてみましたが、この日はそれでおしまい。例えば練習の合間にその気になるかといえばこれは難しい気がします。

何かの区切りに、という考え方は分からなくはありませんが、実際にはその区切りを別のことに振り分けていて、twitterにはリソースを割けないというのが正直なところです。
(スキーの場合、ゴンドラに乗っている間は何もすることがない時間なのでつぶやくこともできますが・・・そういえば去年のスキーでも、リフトに乗っている間にブログ用の思い付きをHT1100にメモするということをやったことがありました。)

でも本気で記録に残すなら、オケの練習とかはつぶやくネタとして最適な気もするんですけどね・・・実際には練習中はそんな余裕はないですが、見ている立場であれば可能かもしれません。
(見てつぶやくだけのために練習に行くかという問題はさておき・・・笑)

そんなわけで、このブログの更新情報を流すだけではもったいないと思いつつ、まだ自分いとっての使い方が見えていないtwitterでした。

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2010年1月15日 (金)

理性のある人

ジョージ・バーナード・ショーの言葉にこんなものがあるそうです。

「理性のある人は、周囲の状況に自分を適応させる。
理性のない人は、周囲の状況を自分に適応させる。
あらゆる物事の進歩は、理性のない人にかかっている。」

原典にあたったわけではないので、日本語訳された内容から考えただけなのですが、最後の「あらゆる物事の進歩は、理性のない人にかかっている。」というのは考えさせられます。周囲に合わせるのではなく、自分を変えないある種の頑なさのある人たちがいるから、「周囲の状況」に変化が生まれ、結果として進歩につながるというのは、皮肉なようで真理を突いている気がするのです。

例えば「理性のある人」を、「頭の良い人」とか「優秀な人」あるいは、「協調性の高い人」などと置き換えても、似たような構図は生まれるかもしれません。

厳密には、必ずしも前向きではない「変化」もあるでしょうが、いずれにしても、周囲にあわせて自らを変える人というのは、組織内で優秀と評価される反面、組織に変化をもたらすインパクトは弱いという側面がありそうです。

もっとも、この言葉は別の意味にも受けとることができます。なんらかの変革が起きようとしている時に、理性のある人は自らそれに合わせるが、理性のない人は合わせようとしない。だから変革が成功するかどうかは、理性のない人にどう対処するかにかかっている、という解釈です。

この言葉を知ったのは、管理職向けに変革の重要性を説くe-Learning教材の中でしたので、あるいは引用者の意図はそちらにあったかもしれません。

ただ、ショーは皮肉屋としても知られた人物ですし、論法の組み立てから考えても、意図としては前者にあったような気がするのです。

もちろん、これは「理性のない人で良い」ということではなく、理性のない人には理性のない人なりの役割あるいは使い方があるというものでしょうが・・・。

何かを変えるというのは、状況にあわせて自分を変えるだけでなく、自分にあわせて状況を変えるということでもあるわけです。結果どちらが良いかはさておき、変わっていく環境に自らを適応させていくのではなく、環境そのものを変えていこうとする場合、あえて理性を投げ捨てるような対応も必要なのかもしれません。

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2010年1月14日 (木)

他人の文章をチェックする

昨日は先日の府中市民響の総会の議事録をチェック。悪い癖ですが、一度気になりだすと、細かいところにばかり目がいってしまい、あげくの果てに自分で全部書き直したくなったりします。

その人の意見、と割りきっているときはそれほど気にはしないのですが、自分も関わる文章ということになると、どうしても直したくなってしまう。それも添削というレベルではなかったりするのでたちが悪いです。ようするに、「自分の文章」にしてしまおうという意識が働いてしまうのです。

今後はこうした形で文章をチェックする機会も増えてくると思うのですが、書き手の思惑を尊重しつつ、文章を整えるにはどうしたら良いでしょうか。てにをはレベルなら簡単ですが、事はそう単純ではありません。文章だけでなく、内容のチェックを求められる場面も多いからです。

今回は我慢に我慢をして修正の指摘は6箇所。直す直さないは当人にお任せしたいので、なるべく論拠は明確にしようと思うのですが、結果として長くなるため、どれだけ伝わるかは不安です。

会社で文章をチェックする際も、直す根拠までメモする人と、赤のみで特に説明もない人とがいるのですが、修正を受ける側としては、単なる赤は判断に迷うことがあります。他人の代筆として書いていて、当人の赤の場合は何も考えずに修正すれば良いのですが、特に複数の手による校正の場合、あちらを立てればこちらが立たずという指摘に遭遇することがあるからです。
(ちゃんと前後を読んで赤を入れろよという気もしますが・・・。)

こういった校正にも、セオリーとかスタイルがあるのだろうなと思いつつ、いざ直しを入れるとなると、自分の考えばかり押し付けているようで気になります。もう少しドライに見る必要があるのかもしれません。

あとはなるべく時間をかけないようにしないと・・・今回はちょっと時間がかかりすぎでした・・・。

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2010年1月13日 (水)

農業をキャリアパスの一部として考える

Podcastの「ラジオ版学問ノススメ」で、ギャル農業で知られる藤田志穂さんの話を聞きました。

そこでフと思ったのが、農業を一生の仕事ではなく、人生の一時期に携わる、もっといえば、キャリアパスの一部として考えることはできないだろうか、ということです。

農業というとなんとなく「長く続ける仕事」の代名詞というか、やるからには一生携わる覚悟が必要というイメージがあります。
どんな仕事でもそうだ、という考え方もあるかもしれませんが、長く続ける事もできる、というのと、長く続けなければいけない、というのではまるで敷居が違います。

例えば職人の領域というのは、一人前になるまでに長く携わる覚悟が必要でしょう。でも、一人前にならなくても、途中で断念しても本来は構わないはずで、その経験を別の形で生かすことができれば、その人の人生にとっては意味のあるキャリアということになります。

農業も同じような捉え方はできないか。分かりやすく例えるなら、青年海外協力隊のような、期間限定の仕事として取り組むことはできないか・・・そんな気がしました。

恐らく藤田さんは、農業を一生続けるということは今の段階では考えていないはずです。もちろん、結果として一生続けたって良いわけですが、何も縛られる事はない。

もっとも日本の場合、労働市場の流動性が低いので、農業に限らず「一生の仕事」として取り組まざるを得ない、という側面もあるかもしれませんが・・・。

会社組織として農業に取り組むようになると、恐らく社員は「一生農業だけ」というわけではなく、社内の他の仕事とローテーションをしながら農業に従事することになります。これを社会的に成り立たせることができれば、また少し違った人生のキャリアというのができてくるかもしれない・・・などと思ったのでした。

家庭菜園とか、仕事ではないレベルで農作業に関わる人というのは意外と多い気がします。これをもう少し長いスパンで考えて、しかも農業のキャリアが他の仕事にも生かせるような何かがあると良いんですけどね・・・それ以上はやったことがないのでなんとも想像できませんが、他の仕事のキャリアが農業で生かせるように、農業のキャリアが他で生かせる領域というのもあるのではないか、という気がするのです。
(もっとも、人生の豊かさ、みたいな精神的満足感とは別の話である必要はありますが・・・。)

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2010年1月12日 (火)

三連休

三連休といっても、練習もあるため特に旅行等に行くということはないのですが・・・。

土曜日は今シーズン2回目となるスキーに行ってきました。今回は川場ということで、群馬県です。

星の調べで知り合った前橋の人に「(群馬に)来る時はぜひ声をかけてください」と言われていて、「もちろん」などと答えていたのですが、川場に行くことに決めたのは、その日ハンドルを握ってから。厳密に言えばその後もしばらく迷っていて、確定したのは八王子インターを過ぎた辺りでしたので、ちょっと連絡は無理というか、そもそもこんな感じで毎回行き先を決めているので、誰かに声をかけるという事自体が難しいのかもしれません。

一応来週も(どこかに)行こうかとは思っていますが・・・。

川場には以前一度行ったことがあり、吹雪だった記憶があるのですが、31日のブランシュたかやまに引き続き、今回も吹雪でした。今シーズンは雪に恵まれているというべきか、暖冬の予報はどこへやらという感じです。

2回の吹雪で分かったことは、ヘルメットは思ったより寒いという事。特にヘルメットとゴーグルの間に隙間ができてしまう額がかなり厳しいです。ニットの帽子であれば、帽子に重ねてゴーグルを着けることができますが、ヘルメットではそれができないため、スピードをあげればあげるほど、冷たい風と雪が額のちょっとした隙間を直撃します。

インナーでかぶれるものなどがあると良いのですが、ヘルメットのサイズがギリギリなのでそれも難しそうです。吹雪の時はニットの帽子の方が良いのかもしれません。
(吹雪の時は視界が悪いので、そういった時こそヘルメットなんですが・・・。)

日曜日は府中市民響の新年最初の練習と総会。年末年始にまったく楽器に触っていなかったわりには、楽器は良い音がしている気がしましたが、弾く方はといえば練習をしていないわけで、せめて楽譜ぐらいは見ておけばよかったと後悔しました。

管楽器からは、弦楽器のテンションが低いという声がありましたが、テンションが低いというよりは、まだ楽譜を追いかけるので精一杯という感じです。
今回の曲は特に管楽器は思い入れが強く、盛り上がっている(特にトロンボーン?)ようなので、弦楽器としては負けないようにしていきたいところです。
(とはいえ、ブルックナーで盛り上がるのは、弦楽器としてはきつかったりします・・・。)

午後は総会があり、正式に運営委員長に就任。何ができるのかはこれからですが、まずは運営委員会の招集をしなければなりません。

その後新年会があり、三連休の最終日は例によって例のごとくグロッキー状態でした。日曜日は少々熱っぽかったので、とりあえずそれが悪化しなかったのはよかったです。

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2010年1月 8日 (金)

アドレス帳の統合

今日はHP-Miniも持ってきているのですが、ブログの更新だけだとメールを使うHT1100からの方が早いんですよね・・・。

正月休みの間にやった数少ないことの一つに、アドレス帳の統合がありました。これまであまり整理を考えたことがなく、パソコンはパソコン、iPhoneはiPhoneというようにばらばらに管理していたのですが、心機一転、統合して管理をしてみようかと思い立ったからです。
(思い立ったからやるという程度で、特に個人のアドレス帳の場合、整理することの優先順位が高いというわけではないのですが・・・。)

最近はメールもGmailが中心となっているので、Gmailの連絡先をベースにすることにして、iPhoneの連絡先と同期。これまで別々でしたので、似たような連絡先が一気に2倍になりましたが、一つ一つ整理して、最終的には100程に落ち着きました。(たいした数ではないですが・・・。)

とりあえずそれで良いかなと思っていたのですが、そういえばHT1100のアドレス帳もGmailの連絡先と同期できるのでは?ということに昨日(ようやく)気付き、昨夜設定をしてみました。

結果むちょっとだけ連絡先が増えましたが、おおむね問題なく同期完了。これまでHT1100はブログを更新するメールを作成するためだけに使っている状態でしたが、メールマシンとしても使えそうです。キーボードのないiPhoneと違って、Bluetoothのキーボードを使えるHT1100があれば、外出中でもメールをするのがかなり便利になりそうです。iPhoneで必要な情報を閲覧しながら内容を作成することもできるわけで、込み入ったメールもパソコンに頼らずにできそうなのがよさげです。

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2010年1月 7日 (木)

朝の時間の使い方

何度も書いていることではあるのですが、自分の朝の時間の使い方というのはここ数年大きな変化がなく、時々変えようと思いつつも簡単には変えられずに終わっています。

考えてみれば、すでに5年以上、毎朝同じ電車の同じ席に座り続けているのです。時々イレギュラーはあるにしても、その1日の起点が変わらない以上、それ以降の時間の使い方もそう簡単には変わらないのです。

日々の時間の使い方というのは、実際には毎日変わっているにもかかわらず、いざ自ら変えようと思うとそれほどには変わらない、ということでしょうか。

さて、朝の時間を振り返ってみると、

5時頃起床(時々寝坊)
6時頃に家を出る
6時半頃電車に乗る(当駅始発電車に乗るため、2本ほど電車を見送る)
7時半頃渋谷に着く
・・・
9時始業

問題は、7時半に渋谷についてから、9時に仕事を開始するまでの時間の使い方です。実際には8時半頃にはオフィスに入ることが多いので、それまでの時間に、朝食の他に何をするか、というわけです。

実際にはその時間にこのブログを書くわけですが・・・。

何度か「勉強する」とか「本を読む」といったことにもチャレンジしたのですが、なかなか定着しない。ようは定着の努力が足りないというのが真相ですが、そういった努力に改めてチャレンジする必要があるのかもしれません。

30分で朝食を摂ってブログを書いたとしても、残り30分もあるわけで、1週間で2時間半、1ヶ月で10時間を確保できる訳ですから、この時間はもっと有効に使うべきでしょう。

(とはいえ、時間に余裕があると、ずるずるとブログを書く時間が長くなる傾向があるのも確かです。このあたりを何とかするための縛りのようなものが必要かもしれません。)

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2010年1月 6日 (水)

1901年の未来予測

今日は手短に。
(いつも手短にしたい・・・。)

1901年の未来予測というページを見つけました。
出典は報知新聞の明治34年1月2日〜3日に掲載された記事で、それを現代語訳したものです。

その中にこのような一節があります。(正確には二節?)

・野獣の滅亡
ライオンや虎、ワニといった野獣はアフリカからも絶滅し、ごくわずかが大都会の博物館で生き延びることになる。

・蚊およびノミの滅亡
衛生状態が改善され蚊やノミがだんだんに絶滅する。

生物に関しては、その他にも植物が電気で成長させられるようになるといった予測もあるのですが、挙げた二つに特徴的なのは、どちらも「絶滅するだろう」となっていて、しかもそれが現代のようにネガティブには捉えられていない点です。蚊やノミにいたっては、絶滅にポジティブな印象さえありますし、野獣についても、そうなることに警鐘をならし、対策をとろうといった印象はありません。

結局のところ、そうした考え方の延長が、現代の社会あるいは自然環境を形作ったと言えるわけですが、2100年代から見た2000年代の「考え方」はどのように写るのだろうか、などと考えさせられてしまった一節でした。


・・・もっとも、「衛生状態を改善し、蚊やノミが絶滅」というのは、今でもそういった考え方かも知れませんが(笑)

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2010年1月 5日 (火)

ワークライフバランスのバランスは誰が考えるのか

大木さんがワークライフバランスについて書かれていて、その通りと思いつつ、実は別の考え方もあるのではないか、という気がしてきました。
(このあたりの天の邪鬼な性格はなんとかならないのか、と思いますが、良いきっかけをいただいたということで・・・。)

バランスは人によって違う、それはその通りです。問題は、その判断は本人だけに委ねられるものかということ。特に「仕事が気になって寝られない人」「正月返上で仕事をすることで生き甲斐を感じられる人」は、実際にそういった方も見かけるだけに気になります。

例えば、子どもが部屋に閉じこもったまま勉強ばかりしている、あるいは逆に遊んでばかりいる場合、周囲は彼らになんというでしょうか。
「勉強ばかりしていないで、たまには遊べ」「遊んでばかりいないで勉強しろ」です。

その時に子どもが、「自分はこれで良いんだ」と、自分にとってバランスはとれていると主張したとしても、それは到底バランスがとれているとは言えないでしょう。

日本でワークライフバランスが叫ばれるようになった背景には、そうした「周囲から見たアンバランス」という要素があるのではないか・・・そんな気がするのです。
であれば、やはりある程度客観的な視点でのバランスの判断というのが必要な気がします。

「子どもじゃないんだから・・・」ということであれば、大人(社会人)として、もう少し別の考え方もできます。

大木さんが言及されるきっかけになった森戸さんのエントリーを読んでいて気になったのは、「仕事」とそれ以外の「プライベート」という切り分け方をされている点です。
それ自体は一般的な見方なので、それが問題というわけではありませんが、これから考えていくことが必要なのは、「会社での仕事」と「社会での(家庭での)仕事」のバランスであって、「会社での仕事」と「プライベート」のバランスではないのではないか、という気がするのです。

もちろん書かれているように、

「決められた時間内に渡された仕事を遂行する能力を日々高める」

ことは重要なことです。

ただしそれは、「家族の一員としての責務」「社会の一員としての責務」を果たすことこそがまずは前提であって、そのために必要なスキルが「仕事をきちんとこなす」ことではないか、というようにも思うのです。
仕事のために、それらをないがしろにすることが認めるのであれば、それこそ、ビジネスマンの(あるいはそれを要求する会社の)甘えではないでしょうか。

大木さんが引用されていたWikipediaの説明では、「仕事上の責任を果たすとともに」と書いてある一方で、家庭や地域社会においては「多様な生き方が選択・実現できる」となっています。

必要なのは「家庭や地域社会における責任を(も)果たす」という視点で、大木さんや森戸さんのようなビジネスリーダーであればなお一層、そうしたバランスを考えて欲しいと感じました。

・・・そういった意味では、小室さんの主張されている「仕事での成果を上げるために」というのは、結局会社中心の考え方で、本当の意味でのワークライフバランスとは違うような気もするんですよね。本人は企業に受け入れさせるための方便として言っているのかもしれませんが・・・。

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2010年1月 4日 (月)

2010年を何をする年にするか

今日は仕事始めということで、基本的に平日更新のこのブログも再開です。

遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

さて、年の最初のエントリーといううことで、2010年という年をどのように過ごすか、考えてみました。目標、というほどではありませんが、日々をどのように組み立てていくのか、決意表明などをしたいと思います。
(どの程度実現できるか・・・はまた少し別の話です。大体このブログに書いたことの多くは実現できていませんし・・・笑)

まず、インプットについては、読書をすること。このところ本を読む量は年々減ってしまっているのですが、淡々とこなしていく、という意味でも、「週1冊、年間で52冊」というのを、当面の目標として掲げておきたいと思います。できれば、所感などを毎週どこかでアップできるようにしたいところです。

ただし、条件として「電車の中では読まない」こと。これはiPhoneでのメールチェックなども同様です。昨年は視力の低下が著しかったのですが、そうした体へのいたわりも含めて、「電車の中では目を使わないようにする」ということは考えたいと思います。

二つ目は、アウトプットとして、このブログのメッセージ性を高めること。漠然としていますが、日記的な呟きを減らして(無くすのは無理ですが)、読んだ人に何かを伝えていくような内容を心がけていきたいと思います。
あるいはそういったことを自覚した上で書くということになるでしょうか。

それと、何か別のチャネルにもチャレンジをしていきたい。例えばtwitterは、今のところブログの更新情報を載せているだけなのですが、これに新たな要素を加えたい。もっとも、今のところ触れる時間がないから何もできていないわけで、それをやろうとすると、電車の中で目を酷使するはめになってしまうかもしれませんが・・・。

さて、三つ目は・・・パッと思い付かないのですが、とにかく何かを「変える」ことを意識した年にしたいと考えています。いつのまにかルーチン的に日々を過ごすだけになっているので、とにかく新しいことにチャレンジしてみるということです。

先日読んだアソシエに、教養を高めるために毎週何かにチャレンジするための手帳(すみません記憶が曖昧です)が付いていたのですが、そのような感じで、「今までの自分ならやらないこと」に、多少強制的にでも挑戦してみる、ということを考えたいと思っています。

さてさて、どこまでできるでしょうか。このブログの欠点は「書きっぱなし」になることが多いことなので、一番の目標は「有言実行を心がける」かもしれません。

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