« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月26日 (金)

雨だよ・・・

先日書いた通り、今日は休みをとってスキーに来ているのだが・・・

が降っております。

インストラクターと滑る明日ならともかく、一人で雨の中滑るほどの気合いはなく、人気のないスキー場のレストランでさみしくブログを更新中。

iPhoneは悲しいことに圏外でしたが、HT1100はばっちりつながっております。さすがドコモ。

さて、朝から雨では雪に転じる可能性もなく、おまけに小降りとかでもない状態。正直明日のレッスンも危ぶまれる状態なのだが、宿泊の予約もしているので帰るのももったいない。

午後はのんびり勉強でもすることになりそうです。夜時間があるからと色々持ってきておいて良かった・・・。(←よくない!)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月25日 (木)

もらわなければもったいない

先日の会社の株主総会では応援として会場に行っていたのだが、そこで少し考えさせられる場面に遭遇した。

インフルエンザへの配慮として、噴霧用のアルコールと無料配布用のマスクを用意していたのだが、来場者が殺到し、奪い合いとまではいかないが大量に持っていく人を相当数見かけたのだ。

もちろん中には、自身もマスクをしていて、「少し余計に貰っていってもよいかしら」と聞いてくる人もいた。マスクは原則使い捨て(一度外したら新品に交換)が望ましいので、機会があれば入手しておきたい気持ちはよく分かるし、それは「どうぞどうぞ」という気がする。

その一方で、会場でマスクをするわけでもなく、箱ごと持っていく人もいるのだ。あのマスクはその後どうなるのだろうか。最終的に使われるのであればまだ良いのだが、結局使われることなく終わってしまうということはないのだろうか。

そこで考えてしまったのだ。

日本人の「エコな」美徳としてもてはやされた「もったいない」には実は、「捨てるのはもったいない」というモノを大切にする側面だけでなく、「(せっかくくれるものを)もらわないのはもったいない」という側面があるのかもしれない。その両面を備えた「もったいない」は、もしかしたら「足るを知る」とは正反対の際限なき欲望の裏返しということはないだろうか。

「捨てるのはもったいない」にしても「もらわないのはもったいない」にしても、こんな枕詞が隠れているということはないか。

「使わなくても」

使わないものを処分しないのは、果たして本当に「もったいない」ことなのだろうか。
使わないものを「せっかくくれるんだからもったいない」ともらって帰るのは、無駄という意味の「もったいない」ではないだろうか。

少なくとも「もったいない」という時に、持っていることをもったいないと捉える考え方はあまり聞かないよなと思いつつ、意外とこれはモノに執着する姿勢の現れなのではないか、などと考えてしまったのだった。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2010年2月24日 (水)

仕事以外の時間の回し方

今週は朝の時間も含めて少々バタバタしている。

週末に久しぶりに尊敬するインストラクターのスキーのレッスンを受けられることになった。最後に受けたのは今の板に換える前なので、ずいぶんとご無沙汰だ。今回は人数も少なめでかなりみっちり受けられそうなので、それならと前日に休みを取り、事前に練習をしておくことにしたのだが、このスキーの予定が色々と首を絞めている。

まずは会社の予定で、来週は研修があるのだが、その事前学習をeラーニングで済ませなければならない。金曜日が期限だが、当然1日前倒しで終わらせる必要がある。それならもっと前からやっておけという話ではあるのだが、基本的に現在の業務には直接関係のない内容なので、研修時に忘れていることのないように、できるだけ直前に一気に済ませるつもりでいたのが、ちょっとした計算違いだったのだ。

eラーニングは、環境的に会社で受講する必要があるのだが(Macに対応していないからだ!)、仕事時間にやるほどの(仕事の)余裕はない。残業をしないポリシーなので、就業時間後は仕事はせずに学習時間にあてたのだが、ちょっと予定外だったのが、先週から今週にかけて意外とその時間がなかったことだ。

特に先週は火曜日の人間ドック、水曜日の経済同友会シンポジウムとKM学会の部会、金曜日のサイボウズLiveユーザー会と、会社にいないことが多かった。計画性のなさ丸出しだが、これが時間のなさを招いてしまった。

加えて今週は、昨日会社の株主総会だったために、その応援で月曜日、火曜日がつぶれてしまった。さすがに月曜日は朝の他、夜一旦会社に戻って学習を進めたのだが、昨日は朝からで、夜は打ち上げに参加したので学習できず、残りはあと2日という状態。

一応想定では十分終れる圏内まで学習は進んでいるのだが、それ以外にしわ寄せされてしまっている。

特に楽器の練習をする時間がない。今週末はミニクラシックコンサートというイベントもあるのだが、そのための練習時間の確保はとても無理だろう。ただでさえ平日の練習時間確保は難しいのだ。

スキーで土曜日がつぶれてしまうため、直前に追い込むこともできない。先々週のように昼で終わって帰って練習というのも、今回はできない。夕方までみっちりやるはずだからだ。
(まぁ夜中に帰ってきて、少しさらうという手はある。それだけでもやるか・・・。)

というわけで、ここ2日はブログを書く余裕もなかったわけだが、書かないでいるのも少々気持ち悪くなってきたので、今日は近況のまとめも含めて書いてみた。

昼休みに学習を進めれば、夜練習する時間ができるかなぁ・・・あのeラーニング教材、どれぐらいで終わるかを事前につかみにくいのが泣ける・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月19日 (金)

メンバーへの連絡をどう回していくか

今週は不規則な更新が続いているが、今朝はいくつかメールを出さなければならなかったため、そちらを優先する。今年に入ってアドレスの整理統合を(ようやく)
したので、HT1100でも問題なくメールを使えるようになったのだ。(今までは返信するのがせいぜいだった。)

ただ、複数のメンバーに一斉に送るのはつらい。府中市民響の運営委員向けにメールを出す場合、宛先は20以上になるので、それを一つ一つ指定するのはかなり面倒だし、いつか抜け漏れが発生してしまうような気がする。

ウェブ上のサービスを使うにしても、ブラウザベースではなく、メールで使えないと貴重なキーボードが使えないので、それまた困ってしまう。(HT1100は、通信しながらBluetoothを使えないのだ!)

ただ、パソコンを持ち歩かなくてもメールができる環境は重宝する。最近は簡単な返信であればようやくiPhoneでもできるようになったのだが、長文となるとキーボードは必須で、iPhoneでという訳にもいかない。そこでアドレスの統合が生きてくる訳だが・・・。

できればもう一歩進んだ使い方ができるといい。特にメールは情報が他に埋もれていってしまうので、通知だけにして中身は別に共有できるようになっているといいんだよなぁ・・・。

といって

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月18日 (木)

多様性を考える2

一昨日考えた多様性の受容についてだが、昨日資料をまとめるなかで2つほど追加した。

一つは「男女の違いと多様性」という話で、ライフステージにおける違いと価値観(感性)の違いは切り分けて考えた方が良いのではないか、というものだ。

特に価値観の部分についていえば、「女性ならではの感性」みたいな捉え方で男女の違いを語るのは意味がないと思っていて、「女性の視点」にせよ「男性の視点」にせよ、性別的な属性を排した上で、その視点がどのような視点なのかを説明できる必要があるのではないかといった話をした。

もう一つは「スポーツと多様性」という話で、相撲とボクシングを引き合いに出し、細かく階級が分かれているボクシングの方が、競技としての多様性を備えているのではないか、というもの。

なんら制限や区別なく「誰でもできる」状態よりも、個々の事情に合わせて区別し、クラス分けをした方が、実は全体としての多様性につながるのであって、単に無制限に門戸を開くことが多様性ではないのではないか、という疑問だ。

とまぁそういった話題を提供してディスカッションをしたのだが、自分はというと少々体調が悪く、最初の話題は提供したがディスカッション自体にはあまりのめり込めなかったりしたのだった・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月17日 (水)

経済同友会CSRシンポジウム

今朝はバタバタとしていて(昨日の内容を資料に落とし込む作業をしていただけだが)ブログの更新ができなかった。が、午後から経済同友会のCSRシンポジウムに出席したので、その内容の整理がてら、日本橋のマックにて更新をすることにする。

シンポジウムのタイトルは「社会的課題をビジネスにしたCSR経営の実践」

個人的には「CSR経営」というのは分かったような分からないような言葉なのであまり好きではないのだが、そうした言葉の問題はさておいて、「社会的課題をビジネスにする」というのは、今後の企業活動を考える上でも重要なポイントだ。

もっともスピーカーやパネリストの話を聞きながらふと思ったのは、そもそも古くからある企業というのは、当時の「社会的課題」を解決するためにスタートしていることだ。例えば最近よく言われているBOP(ボトムあるいはベース・オブ・ピラミッド)ビジネスだが、戦後に立ち上げられた日本企業の多くは、当時のBOPである日本人を対象にビジネスを展開していた。それが、彼らの発展と共に成長し、今ではそうではなくなったということなのだ。
(特に食品や日用品の分野はそうだろう。)

当時は両者ともBOPであり、そこから這い上がった。それが今は、少しいやらしい言い方をすれば、「手をさしのべる」側としてビジネスを展開しなければならない。そこにどことなく抵抗感を感じるということも、BOPにいまいち積極的になれない理由なのかもしれない。

戦後横ならび状態からスタートし、時に蹴落とし合いながらも、常に一緒に走ってきた日本人は、スタートラインが異なる相手のフィールドで、自らの優位を生かしながら、一方では公平でなければならないグローバル市場でのビジネスという競争を、うまく展開することができないでいるのかもしれないのだ。

そのあたりグローバルな企業というのはその辺りの切り替えがうまいように感じる。日本では外資という位置付けだからそのように聞こえるのかもしれないが、彼らの考え方には「日本(母国)」と沿それ以外」という市場の捉え方がない。母国も他国も、世界の中では同じ市場で、ちょっと地域ごとに特性の違いはあるが、やることは変わらない・・・というトーンを感じるのだ。

そういった意味で、国に依存していない(もっとも、母国では違うかもしれない。あくまでも日本で見た場合の話だ)。トヨタは「日本企業」だが、ネスレは「スイス企業」だろうか。
(そういった意味では欧州の企業というのはそうした母国特性が薄いように感じる。自前に大きな市場を持っているアメリカ企業が「アメリカ企業」なのとは対照的だ。)

案外企業がグローバル化するというのは、そうした「母国要素」が薄くなり、企業単独での独立した組織体として、世界に相対するようになるということなのかもしれないなどと考えてしまった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年2月16日 (火)

多様性を考える

今日は人間ドックのため休暇をとっている。実際には9時前には終わるので、出社をしても良いのだが、慌ただしいので休みをとるようにしているのだ。

で、ブログの更新はこんな時間になったわけだが、せっかく時間があるので多様性について考えてみる。(というか、明日KM学会の部会で発表しなければならないので、今ごろ、という感じではあるのだが・・・。)

この多様性というのは、最近CSRの分野で注目を集めている生物多様性ではなく、職場における人的多様性の話。KM学会の部会のテーマなのだが、何度かこのブログでも書いている。

最初は会社における取り組みを・・・とも考えたのだが、許可もなく内実をベラベラしゃべる訳にはいかない。そこで、個人的に考えたことなどを中心に、議論の話題を提供する、ということを考えてみる。

一つ目は「辺境と多様性」というテーマ。この「辺境」というのは、変革を進めるためには、自らを組織の辺境に置く必要がある、というものだ。組織の中枢ではなく、周辺に身を置くことが、創造性や知的生産性を高めるというのは、感覚的にはよく分かる。

(ただ、一方で知的労働においては地方への拡散ではなく、中央への集中が生産性を高めるという話もある。ネットの充実により東京でなくても仕事ができるようになったかというとそうではなく、むしろ一極集中が進んでいるからだ。これはネットというインフラが当たり前になることで、それ以外のコミュニケーション手段の重要性が増したことを示している。)

この「辺境」の話で考えさせられるのは、多様性の問題を解決するために、例えば女性や外国人といったマイノリティの数を増やし、マジョリティ化することは、逆に変革の芽を摘むことになるのではないかと思われることだ。マジョリティはすなわち中央であり、マイノリティが辺境であるとするなら、多様性を生かす組織戦略は、そのマイノリティを「マジョリティにすることなく」増やすことに他ならない。

そもそも、辺境が変革を生むのは、そこに何らかの不便や障壁があり、それを乗り越えようとするからだ。しかし、それを肯定してしまうと、働きやすさを追求するのは、実は組織の構成員を安穏とさせるという話も成立してしまう。

そのあたりにジレンマがあるのではないか。それはどのように乗り越えることを考えるべきか、というのが一つ目のテーマになるだろうか。

二つ目は「マーケットと多様性」。これは、アメリカの企業で多様性に関する議論が始まったのが、マーケットにおけるアングロサクソン以外の台頭・・・ヒスパニッシュなど未知のマーケットに対応するためだったという話がきっかけだ。

日本のマーケットはそういった意味ではアメリカのような多様性を持っているとは到底言えない。女性の社会進出が進む一方で、男性の市場進出は相変わらず進んでいないし、多民族化することもない。

そうしたマーケットであれば、組織に多様性を持ち込む必要があるのか、という疑問が生まれてくる。アメリカのような、対応しなければつぶれるような切迫感もなく、構成員の働きやすさという側面でのみ語られているのが、日本における多様性の議論の限界ではないか、という疑問だ。

そもそも多様性に富んだ組織というのは、コミュニケーション一つとってもハードルが高くなり、構成員には負荷を強いるものではないかと思うのだが、そうした議論が日本ではあまりないような気がするのだ。

三つ目は、「人材確保と多様性」だ。今後人材を確保する上で、多様性の受容は避けられないという議論だ。

これはその通りなのだが、一方で企業にとっては当たり前の側面もある。こうした対策を通して企業が受け入れたい人材には、共通した冠があるからだ。

それは「優秀な」人材である。

つまり、能力という尺度において「多様性」を受容するわけではないのだ。性別や国籍といった能力とは関係ない評価尺度を廃し、能力という一律の基準で評価をするのが、多くの多様性に関する議論の中心だ。

あるいは「価値観」という尺度もある。ものの考え方、では広すぎるのであれば、会社への忠誠心でも良い。組織の構成員として、求められる条件というのは必ず存在し、その条件において多様なあり方を認めることは考えにくい。極端な話だが、キリスト教の教義に基づいて活動する組織に、イスラム教を信奉してキリスト教を否定するメンバーを加えることはまずないだろう。

一方で、「能力」という尺度で考えた場合、CSRの考え方の中には、そうした人たちを訓練し能力を高めるのも企業の役割、という捉え方もある。その場合は若干違ってくるかもしれないが、いずれにしても、多様性に富む組織というのは、必ずしもなんでもありではなく、受容にあたってどういった条件が必要なのかという議論は必要だろう。

四つ目は、「居心地と多様性」とでも言えるだろうか。うまい言葉が思いつかない。

多様であることは、必ずしも居心地のよさを保証するものではなく、むしろ居心地の悪さにつながるのではないか、ということだ。コミュニケーションのハードルもそうだし、そもそも変化に富む状態というのは、人間にとっては不安につながる要素だ。

だから多様性を否定する、という訳ではなく、そうしたことも受け入れる必要があるということだ。そう考えると、実は多様性の受容というのは、「総論賛成各論反対」になりやすい気がする。ここの事象においては様々な軋轢が発生するはずだ。そもそもその「軋轢のある状態」こそが、多様性があることの証明に他ならない。


・・・と四つほどテーマを考えてみた。あとで資料として整理しなければ・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月15日 (月)

練習の録音を聴く

昨日の練習の録音を聴いた。いままでも録音はしたいと思いつつ、なかなか面倒でやっていなかったのだが、とりあえずiPod用のマイクを入手し、そちらでの録音にチャレンジ。

それほど高音質である必要はないので、この録音でも十分な感じだが、最大音量では音が割れてしまうので、録音レベルの調整ができるかどうかは何度か試してみる必要がありそうだ。

さて、肝心の録音内容はというと・・・。

まだ初期とはいえ、まだ曲のメカニズムがつかめていない感じがある。というか、譜読みが終わりきっていない感じだろうか。曲自体は有名なので、おそらく「知っている」つもりになっているのかもしれない。

こうした自分達の練習録音の面白さは、普段CDなどで聴いているのとはまったく違う響きで聞こえることだ。音程が外れているとか、そういった「間違い」はさておき、楽譜の音を再現する際に、どのようなバランスで音作りをするかで、聞こえ方がまるで違ってくる。

例えば、CDなどでは、全体の響きのなかに溶け込むように埋没しているあるパートの音が突出して聞こえてきたりする。単に音量のバランスが悪いだけなのだが、結果としてそれによりその箇所の和音や楽譜の構成が分かったりする。そうしたメカニズムを分かって意識して演奏するのと、分からずに自分のパートだけをやるのとでは大違いだ。

もちろんスコアをしっかり読めば分かることではあるのだが、プロではないのでイメージはしにくい。それを半ば強制的に自覚させられ、意識するきっかけになる。

恐らくもう少しこなれてくると、そういった「本来あり得ない」突出は消えてしまうのだが、今の段階だとそうしたところが残っているので、逆に素人的には勉強になったりするのだった。

ちなみに、自分のパートについてはその辺りは分からなかったりする。すでに自分のパートの音については無意識に聞き分けてしまう状態までには慣れてきているので、それが全体のバランスのなかで突出しているのか、聞き分けた結果なのかが切り分けるのが難しいのだ。

とはいえ、録音の最大の目的は自分のパートのチェックにあるわけで、そこはもう一度楽譜を見ながらしっかり聴くことにする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月12日 (金)

短時間で書く瞬発力

今日は通勤電車のダイヤが乱れたため、とても中途半端な時間しか確保できない状態なのだが、それでも書いてみる。

ただ、よく考えてみると以前はこうしたせいぜい10分ぐらいの間に書いていたような気がしなくもない。朝の時間に余裕を持たせるようになって、逆にブログを書く時間が増えてしまっているのだろう。先日書いたように、そうした「時間的余裕」が、考えなくてもとりあえず書けてしまう状態につながっている可能性もある。

短時間で書こうと自身に課していれば、書く前に何を書くかを考え、一言一句とまでは言わなくてもある程度文章を頭の中で組み立てておくものなのだ。そういう意味では、「その場で書く」というのは、時間を無駄に使って書いているということかも知れない。

実際、会社で書いているブログも、書き出す前にちょっと整理をしておくだけで、かかる時間が変わってくる。会社のブログの場合、全体のボリュームもおさえなければならないので、起承転結を基本にしたメモを作る(といいっても、小さなメモ用紙を四分割する線を書いて、それぞれの象限に一言「ここでこれを書く」とメモする程度)のだが、これを書くか書かないか、そのメモがまとまっているかまとまっていないかで、文章のまとまりや書くのに要する時間は格段に変わってくるのだ。

このENIGMAに関しては、そこまで予定調和的な内容を求めていないので、起承転結型のメモを作ったことはなく、メモがあってもせいぜいほぼ日手帳に1〜2行程度のメモがある程度なのだが、それでもそれがあるのとないのとでは違ってくる。

そう考えると、短時間で文章を書く瞬発力というのは、実は勢いで書く力ではなく、実際に書き始める前の準備を整える力ということなのかもしれない。もちろん、書きながら発展していくことはあるので、常にそうとは限らないとは思うのだが・・・。(ちなみに今日の内容はメモも事前の組み立てもない「勢い」だ。)

もっとも、事前の準備やメモを「書く時間」に含めて考えるのであれば、もう少しかかる時間の捉え方を変える必要がある。実際にキーを叩いているのが10分だとしても、その前に50分かけてメモを作成していたら、結局かかっている時間は1時間な訳で、メモにかける時間も書く時間と同じかそれ以下でなければ、「書くのが早い」とは言えないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月10日 (水)

プリウスのブレーキ

プリウスのブレーキの問題は正式なリコールとなったが、正直なところ本当にそれで良いのか、心配でたまらない。

トヨタの経営の問題ではない。そのものズバリ、プリウスのブレーキ、というより制動能力の問題だ。特に今回の修正が部品の交換などではなく、ソフトウェアの修正だったのが気になってしまうのだ。

それはつまり、ブレーキの機能の問題などではなく、効き具合に関するチューニングの問題だったのではないか。

こうしたソフトウェアというのは、恐らく調整に調整を重ねた結果、もっとも最適な制動能力を得られるようにチューニングされているはずだ。それは必ずしも人間の感覚と同じではない可能性もある。

例えば、当たり前だがABSはブレーキのロックを防ぐためのものなので、制動距離そのものは通常のブレーキよりも長くなる。ロックしそうになるとブレーキは解除されるので「効いていない」ような感じになる。

プリウスのブレーキもそういった類いのものだったのではないのか。そうした事も踏まえた上でチューニングされていたブレーキをいじったということは、「ドライバーの感覚」には適合しても、トータルのブレーキ性能は低下している、なんてことにはならないだろうか。そもそもそうしたブレーキ特性を理解し、自らの運転を合わせようとしない、あるいはできないようなドライバーのクレームに応えての修正である。
(実際のところプリウスを運転したことはないので、彼らの運転技術が低レベルとまでは言わないが・・・。)

個人的に思い出すのは、始めてABSが作動した時の体験だ。車が突然制御を失ったように(ブレーキの反応が途切れたように感じるためだ)感じ、動揺したのをよく覚えている。あとから冷静に考え直して、あれがABSかと思い当たったのだが、プリウスの場合も、そうしたアナウンスは不足していたにしても、ドライバーの側で対応するべき領域だったのではないか、という気がしてならない。

そもそもプリウスがその「エコカー」としての性能を発揮できるのは、普段相当の距離を走る人が乗り換えた場合だ。LCAでみれば通常の車よりも負荷が高いプリウスの場合、乗らなければ持っているだけで普通の車より環境負荷は高いことになるし、といってそれまでより乗るようになったら1000円高速と同じことで逆に負荷をかけてしまう。

そして、そうしたエコカーとしての性能を発揮できるほど車に乗っている人であれば、今回のブレーキの問題は個性として気にもとめなかったのではないか、という気がするのだ。

今回のプリウスへのクレームは、パワーステアリングのついていない昔の車に「ハンドルが重いから軽くしろ」とクレームをつけるのと同じようなものなのではないか。
車の問題ではなく、ドライバーのレベルの問題ではないか、という気がして仕方がないのだ。

ま、そんな人間に売ってしまった(そういった人間もターゲットにしてしまった)トヨタの問題というすり替えは可能かもしれないが、仮に今回の修正でブレーキ性能が低下(もちろんトヨタだから、そうはならないギリギリのラインでチューニングはしていると思うが、最高の性能は引き出せない状態になっている気がする)していたとすれば、そうしたことをさせた既存ドライバーの責任は重い。国やメディアの責任がないとはいえないが、やはりドライバーの責任が一番大きい気がする。

トヨタも弱気になってホイホイ対応するなよな〜。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年2月 9日 (火)

この世で仕事ほど面白いものはない

購読するメルマガが少なくなるなかで、いまだに毎日チェックしている「ビジネスブックマラソン」のvol.2030で、「20代に考えるべきこと、すべきこと」(國貞克則/日本能率協会マネジメントセンター)という本が紹介されていて、冒頭でこのような一節が赤ペンチェックされていた。

「この世で仕事ほど面白いものはない」

いちゃもんのようなつっこみかもしれないとは承知しているのだが、こうしたことを語る人は、仕事以外の事にどれだけリソースと熱意を傾けてきた結果、それでも「仕事ほど面白いものはない」と言っているのだろうか。

そんな違和感がある。仕事一筋に生きてきた人間に、「仕事ほど面白いことはない」と言われても、「あんた他のことを経験したことあるのかよ」と思ってしまうのだ。それも、仕事並みの情熱を傾けてである。
(もちろん、國貞氏はそうした様々な経験を踏まえた上でこう語っているのだと信じているが。)

そもそも仕事というのは誰かに「仕える事」だろう・・・と思って大辞林で調べてみたら、そうではなく単に「すること、すべきこと」という意味らしい。仕というのは当て字なのだそうだ。しかし、そういった従属的な意味合いではないにしても、少し曖昧な気もする。もう少し「面白いことはない」といえるぐらい具体的な定義はないものか。

最初に「事業」という言葉を考えてみた。これも仕事という意味ではあるのだが、特に「社会的意義のある大きな仕事」という意味だそうだ。それなら確かに「面白い」かもしれない。

が、「仕事」の定義としては解決されない。

次に「労働」という言葉を当てはめてみる。「体を使って働くこと」とある。これで「働く」を調べると「仕事」に戻ってしまうのだが、経済用語としては「生活に必要な財貨を生みだす活動」ということで、このあたりは「面白いこと」につながるかもしれない。

(余談だが、大辞林の「仕事」の用例では、「台所の-」というのが挙げられていた。これを冒頭の一節につなげるとずいぶんと印象が異なる。個人的にはつまらないとまでは思わないが、それほど面白いことでもない。)

これで終わると単なるいちゃもんなので、次のチェックを紹介するとこう書いてある。

「『仕事が一番楽しい』と思えるのは、仕事には苦労があり、失敗があり、挫折があり、葛藤があり、そして同時に工夫があり、創造があり、達成感があるからです」

さて、自分にとって仕事(労働)ほどではないが、それなりにリソースを割いていて、楽しいとも思っているオーケストラ活動に当てはめて考えてみると、

苦労があり・・・楽器を練習するというのは苦労ばかりだ
失敗があり・・・演奏中の失敗なんて数知れず
挫折があり・・・弾けなくてうちひしがれたことはいくらでも
葛藤があり・・・続けるかどうか迷ったこともある
工夫があり・・・練習方法は常に工夫が必要
創造があり・・・アンサンブルは常に新たな音楽の創造だ
達成感がある・・・演奏会終了後の打ち上げが達成感を物語る

・・・という訳で、別に「仕事」でなくとも、「楽しいこと」にはそういったことはつきものなのだ。

つまり、順番としては「仕事だからこうした楽しいことがある」のではなく、「こうしたことがある仕事は楽しい」ということではないか。

そして挙げられている「楽しいと思える理由」は、やってみなければ、それもある程度長く携わらなければ、得られない体験でもある。それぞれは別々のタイミングで遭遇するもので、一度に経験しようとしたら、混沌しか残らないはずだ。

そんなわけで、「面白い」と思えることは仕事でなくても良いのではないか、ということと、結局面白さというのは、「長期間の経験」から生まれてくるものではないか、ということを考えたのだった。

もちろん、仕事をしなくて良いということではなくて、仕事だけが面白いわけではない、というだけの話ではある。


これまた余談だが、こんな一節もあった。

「『自分なりに一生懸命やりました』と言う人はたいてい成果が出せない人」

仕事一筋でそれ以外に趣味がない、あるいは趣味なんかなくても良いと思っている人というのは、あんがい趣味に対してこの程度のスタンスでしか臨んだことがないのかもしれない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年2月 8日 (月)

メールを手早く書く

このところ、自宅でメールを書こうとすると、だらだらと時間がかかることが多い気がする。時間をかけて丁寧に書くこと自体は必ずしも悪いことではないのだが、「だらだら」と感じているように、実際には集中力が散漫な状態で書いているため、内容もかける時間のわりにクオリティが低い。

家ではノイズが多いということなのだろう。逆に外で書く場合には、集中しているためか時間も短時間ですんでいるような気がする。
(とはいえ、実測したわけではないので、単なる思い込みの可能性もある。)

そうなると、「家以外で」メールを書くための環境整備が必要になってくる。このブログと同様にHT1100で書くのが一番手軽なのだが、メールの場合、アドレスの問題があるのだ。

今年に入って、アドレスをGmailの連絡先に統合したのだが、唯一不便を感じているのが、グループの管理ができないことだ。(もしかしたらできるのかもしれないが、そこまで調べていない。)
そして、今一番やりたいメールというのが、そうしたグループを使った同報のメールだったりする。

とにかくその都度アドレス帳から対象者を選ぶのは、非効率だし抜けが発生しそうで怖い。それでもやるしかないと言えばやるしかないのだが、ついつい億劫で後回しにしてしまう要因にもなっている。そもそも家で普通にパソコンを使っている時でさえ面倒に感じてしまうのだ。

ただ、いずれにしても、Gmailうんぬん以前に、HT1100でそうした同報メールを出せるようにしておかないと、今後困るのも確かなので、それはなんとか解決方法を考えなければならない。Gmailの連絡先との同期とは別に、グループだけをローカルで管理するという方法もあるような気もするが、環境ごとに食い違いが発生してしまいそうなのが怖い。

ステーショナリーとかないかしらん。

※ここしばらく「ですます調」で書いていたのですが、どうしても意識が「自分の考えをまとめる」ではなく、「読者(って誰?)に呼びかける」方向に流れてしまうため、すっぱり断ちきるために元の書き方に戻すことにします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 5日 (金)

気候変動対策というゲーム

昨日はアカデミーヒルズのセミナー「福山哲郎外務副大臣に聞く「25%削減」への道筋」を聞きに行ってきました。スクリーンに写し出された資料のタイトルは、「新しいゲームがはじまった〜ポスト京都を巡る国際交渉と国内対策」というもの。

話を聞きながら思ったのは、すでに気候変動問題は「地球に優しく」といった倫理的な問題などではなく、次世代の世界の覇権を握るのはどこかというパワーゲームのルールとして動き始めているということです。前世紀のライフスタイルへの反省とか、人間の活動の「犠牲になる」生物を守るとか、そういった、言葉は悪いかもしれませんが「センチメンタルな」考え方で動くようなものではなくなっており、「経済戦争」ならぬ「環境戦争」の時代に突入しつつあるということになるでしょうか。

従来の経済成長戦略をレッドオーシャンに例えるなら、気候変動への対応戦略はブルーオーシャンであり、いち早く踏み出し、覇権を奪った国が、21世紀のイニシアチブを握るというわけです。

そう考えると、温暖化懐疑論のようなものは、科学的には正しくても、政治や経済的には「負け犬の遠吠え」にすぎなくなる可能性があります。「環境を商売のネタにするのか」といった批判も、今後は単なる「綺麗事」であり、足を引っ張るものとされてしまうかもしれません。

むしろ、そうした割りきりをせずに、ずるずると「優しいエコ」にしがみついていれば、結果として行動が鈍り、決定的な遅れをとることになる・・・そんな気がします。

「環境問題は競争の手段にすぎない」と言い切れるぐらいの方が良いのではないか・・・そんな気がするのです。そういった意味では、「環境へのやさしさ」を訴えるような活動こそが、推進していく上での最大の障害になるのかもしれません。

さて、メモをいくつか。

「環境問題は票にならない」
・誰の利益になるのか不明である
・問題を想像するための人間の物理的(距離や時間)限界がある
・フリーライダーが発生する」
・南北問題(格差)の本質に踏み込む必要がある

「ドイツにおける気候変動対策」
・技術革新の後押しは官民を挙げて行うが、その結果どの技術が最終的に生き残るかはマーケットが決めること
(対する日本は「生き残る技術の見極め」にこだわり、結局踏み出せていない?)

「新興国」
・新興国は環境技術を輸出する上での最大のマーケット

「COP3とCOP15」
・京都議定書は先進国間だけのゲームのルールを決めたもの(しかもアメリカは除く)
・コペンハーゲン合意は、途上国も含めた多様なプレイヤーが参加するゲーム

それにしても、やはり政治家というのは弁で成り立っているというべきか、人を引き込んでいく話が上手だと感じました。企業人や学識者とは違った「話の迫力」があるように感じます。もちろんレベル差はあるんでしょうが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 4日 (木)

ショスタコーヴィッチの交響曲第7番

手持ちのCDの大半をiTunesのライブラリに取り込むことができたので、最近は未再生の曲をスマートプレイリストでランダムに抽出し、iPhoneで通勤時間に聴くということをしています。

クラシックの場合トラック単位でランダムだと楽章がばらばらになってしまうので、アルバム単位でないと意味がないのですが、そうすると実際にはランダムではなくライブラリ内の順番になってしまうようです。先日までは抽出用のプレイリストを一つにしていたのですが、全集で取り込んだブルックナーの交響曲を連日聴かされる破目になってしまい、今は年代別にいくつかスマートプレイリストを用意し、聴く時はプレイリストではなくアルバムをその日の気分で選択することで回避しています。

(ちなみにクラシック以外については、別にランダムに抽出するスマートプレイリストを用意しています。)

購入したCDを取り込んだものなので、基本的には「聴いたことのある」曲を改めて聴くという形になるのですが、時々まったく記憶にない曲が登場したりします。今朝聴いてきたショスタコーヴィッチの交響曲第7番もそうした曲の一つ。

一度は聴いたけれども忘れているのか、何かのついでに購入して聴かずに終わっていたのかは定かではないのですが、「こんなの持っていたっけか?」などと(失礼な)ことを考えながら聴いたりします。曲によっては、聴いても印象に残らずに終わってしまうものもあるのですが、今日聴いた印象としては忘れるとは考えにくいので、恐らく後者でしょうか。ジャケットをアートワークとして取り込んでいないので、そうしたビジュアルから思い出すこともできず、まったく定かではありませんが・・・。

さて、一度聴いてしまうと、次の同期時にはスマートプレイリストから消えてしまうので、聴いて印象に残った場合は、とりあえずレートで星を付けて目印を残しておきます。星2つ以上だとiPhone内にそのまま残りますが、星1つの場合は、別のランダムなリスト(こちらはアルバム単位は諦め、再生日の古い順に抽出)上に待機して、また転送される機会を待つことになります。全曲を取り込んでいる大容量のiPod classicと違って、転送できる曲数にサイズ上の制限があるのが、iPhoneの泣き所です。

とはいえ、音楽を聴いている最中にも着信が分かったり、アラーム(朝の電車の必需品)が使えるのはとても便利です。一度目印を付けてしまえば、通勤時でなくても自宅でiPodの方で聴くこともできますので、それほど不都合はないと考えています。

こうしたプレイリストは、いつかは役割を終える時が来るわけですが、まだまだ当面は未再生の曲を聴く日が続きそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 3日 (水)

ブログのために日々考えるということ

以前、「CSR日記」という社内向けの勝手メルマガを発行していたことがあるのですが(その内容は実はブログでも公開)、それをやめて以来、どうも自分のセンサーがゆるゆると鈍って、考えなくなってきているような気がしています。

ナレッジマネジメントを担当していた頃も、CSRを担当し始めた頃も、日々考えたことをメルマガやブログのような形で発信する中で、自分自身の考えを固めてきたのですが、それをやらなくなったことで、そうした屋台骨が揺らいできているように感じるのです。

実際のところ、再開するとなるとかなりしんどいのですが、自分のためにもそうしたことは続けた方がよいのかもしれません。

一方で、悪い意味で慣れてしまうというか、「考えなくてもなんとか書いてしまう」ような状態になりつつあるのではないか、という気もしています。CSRに関しては、日記こそ書かなくなってしまいましたが(時々このブログで書いていますが)、月に1〜2度社内向けのオフィシャルに書く機会があります。ところが、その際の書き方がかなり「やっつけ」的な書き方になっているのです。

その時にネタを見つけて、その時に書く。

もちろん、ライブ感も必要というか、あらかじめ用意すればよいというものでもないのですが、それにしても自分の中に「なんとかなる」的な過信があるような気がするのです。

内容のクオリティは維持できていると思うのですが、少なくともそんな状態で書いても、自分にとっての成長にはつながっていないはずです。

このブログもそうかもしれないと思うのは、ネタを事前に準備するかどうかはさておき、書いている内容がそれまでに考えたことではなく、その時に考えていることになっているような気がするからです。

文章がまとまらないのはある程度やむを得ないとしても、考えが定まらないようでは、書くことによる自分へのフィードバックは望めません。

ああ、本当にまとまらなくなってきた・・・。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年2月 2日 (火)

練習の記録をtwitterで

先週の土曜日もスキーに行っていたのですが、その時にふと思いついて、滑っていて感じたことをリフトに乗っている間に呟いてみました。

ちなみに行ったのは信州野麦峠スキー場。以前は良く行っていましたが、遠いので最近は足が遠のいていました。


Jan 30th from TwitBird iPhone

まずはウォーミングアップ。思ったよりバーンが硬い。
9:22 AM Jan 30th

2本目。やっぱり思ったよりバーンが硬い。雪面の抵抗が強くて富士見の時より足に負担がかかる。 もう一本滑ったら上に行こう。
9:33 AM Jan 30th

3本目。ずらしを意識したショートターン。ノンストップだと息があがる。疲れる。
9:44 AM Jan 30th

4本目。上はちょっとリフト待ちが発生しているので、もう少し下で滑る事にする。 ずらしを意識したミドルターン。足裏全体で雪面を掴めるようになりたい。
9:56 AM Jan 30th

5本目。上まで上がってみた。雪は柔らかくて楽しいが斜度が増すのであまり練習にならない。下に戻る。 開脚でのミドルターン。ずらしたいけど流れてしまう。という事は、きちんと外足に乗ってコントロールできていないという事だ。再チャレンジ。
10:23 AM Jan 30th

上の方は圏外になる事が判明。ツイートは短めに。
10:24 AM Jan 30th

7本目。開脚でのミドルターン3本目。少しプルークぎみにしてみる。 下のリフトも混んできたので、一番空いている短いリフトへ。しばらく緩斜面中心かな。
10:36 AM Jan 30th

8本目。開脚でのショートターン。プルークぎみにするが、感覚的にはこれが一番難しい。足を閉じればもう少し楽だけど、それでは練習にならない。
10:43 AM Jan 30th

9本目。開脚でのショートターン。斜度的にはもっと姿勢が高くても良いはずだが、ついつい上体をかぶせてしまう。悪い癖だ。
10:51 AM Jan 30th

10本目。プルークでのショートターン。斜面に負けて踏んばりきれず、流れてしまう。きつい。
10:58 AM Jan 30th

11本目。より緩斜面でプルークのショートターン。ま、でも大切なのはプルークの姿勢ではなく、板にベストポジションで乗れているかだったりする。乗れていればどんな姿勢でも安定する。
11:07 AM Jan 30th

12本目。ゆっくり滑るストレスが溜まってきたので、開脚の高速ターン。そろそろ上に上がろうかな。
11:13 AM Jan 30th

13本目。緩斜面での高速ターン。というか、緩斜面なので高速というほどの速度がでない・・・。
11:21 AM Jan 30th

14本目。ひたすらショートターン本日2本目。少し体をいじめる。
11:32 AM Jan 30th

15本目。高速ターンでクールダウン。
11:38 AM Jan 30th

16本目。ずらさないロングターン。斜度と距離にもよるが一番楽なターン。
11:46 AM Jan 30th

17本目。緩斜面で小さくジャンプしながらロングターン。足がついてこなくて思った以上に安定しない。うまく乗れていない。
11:54 AM Jan 30th

18本目。ジャンプしながらのロングターン2本目。1本目よりは安定。少しゆったりした方が良さそう。
12:01 PM Jan 30th

19本目。緩斜面で足踏みしながらロングターン。これ開脚でできるだろうか。
12:08 PM Jan 30th

20本目。足踏みターン開脚バージョン。まあまあだが、やはり重心を移動する時にふらつく。そう言えば以前本当の意味の「ターン」は、この切り替えの瞬間と言われたことがあったっけ。
12:18 PM Jan 30th

21本目。ストックを横にして腰に当て。ポジションを確認しながらロングターン。緩斜面でゆるすぎたので、次は中斜面で。 ツイート中にリフトが止まると投げ出されそうでちと怖い。
12:24 PM Jan 30th

22本目。中斜面で腰のポジションの確認。まあ良いと思うのだが、これは人に見てもらわないと本当の所は分からないな。
12:31 PM Jan 30th

23本目。同じようにストックを腰に当てたまま、今度はショートターン。ストックや手を固定しているとショートターンは途端に難しくなる。体重移動が難しくなるので。 ・・・再チャレンジ。
12:40 PM Jan 30th

24本目。ショートターン2本目。まだまだ安定せず。それと、たいした斜度ではないので、もう少し腰高で滑れた方が良いはず。
12:46 PM Jan 30th

25本目。ショートターン3本目。腰の高さを意識してみる。時々腰が落ちてしまうが・・・。
12:53 PM Jan 30th

26本目。ストックを復活させてショートターン。体の使い方がかなり違う印象だが、それが悪いのか、そういうものなのかはよく分からない。
1:01 PM Jan 30th

27本目。緩斜面でプルークによるポジション確認。プルークと言っても減速の手段ではないのでそれなりに高速。速くなってくるとついついずらさなくなるため、もっと外足のずらしを意識できると良い。
1:10 PM Jan 30th

28本目。制動を意識しながらずらすプルークで再度ポジションを確認。まだスピードに負けている。
1:17 PM Jan 30th

29本目。一番上まで上がって、ノンストップでフリー滑走。さて、もう一本行きますかね。
1:37 PM Jan 30th

30本目終了。 というわけで、信州野麦峠スキー場からお届けしました。今から撤収します。
2:01 PM Jan 30th

一番上からの景色はこんな感じです。 http://yfrog.com/1en64nj 2:03 PM Jan 30th from Tweetie


と、このような感じで、実況中継というか、記録を取ったわけですが、スキーの場合、リフトに乗っている時間は時間はどうしても空いてしまうため、こういった使い方もありかもしれません。指先は冷たくなってしまいましたが・・・(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 1日 (月)

アバター

先週の金曜日は所用があって休みをとったのですが、用事自体は午前中で終了してしまったため、午後から話題の映画アバターを観に行ってきました。

ネタバレにならないように書くのが難しいのですが・・・確かにスゴい映画でしたが、個人的な感想としては「映像を楽しむ」映画だな、というもの。一方でその映像世界に「ファイナルファンタジー?」と感じてしまったのも確かです。細部の描き込みはさておき、こうした異世界の世界観については、どこかで見たような感覚がありました。
(もっとも、まったく未知だと人間の感覚として受け入れられない可能性もあるので、最初から計算ずくで既視感を持たせるようにしているのかもしれません。)

もう一つ、みもふたもない感想かもしれませんが、「結局戦争映画か」とも感じました。映画としてのカタルシスを生み出すためには仕方のないことかもしれませんが、異なる異文化の対立と融和というテーマを考えた場合に、融和という部分への踏み込みが足りないように感じたのは確かです。特に、最後の主人公の選択はちょっとひっかかりました。

そこで思い出してしまったのは、個人的に大好きなM.Z.ブラッドリーの「ダーコーヴァ年代記」というSF小説のシリーズ。

「惑星壊滅サービス」という作品があるのですが、この中に、人類と異世界の住人とが、どのように理解し、互いを受け入れるかという一つの答えが描かれています。(ああ、踏み込んで書けないのがもどかしい・・・。)

少し引っ掛かっているのは、アバターの最後で主人公がした選択は、結局相手を受け入れるのではなく、人類を捨てるものであったのではないか、ということ。むしろその前に異世界の女性がとった行動にこそ、相手を理解し、受け入れるという考え方が感じられます。あるいは、それ自体も人類と異世界との描き分けなのかもしれませんが・・・。

まぁそんな些細なごたくはともかく、あの圧倒的な映像は何度か観るにふさわしい内容だと思います。3Dも含めて、ぜひ一度は劇場で観ることをオススメしたい映画でした。
(その3D映像に関しては、かなりリアルでしたが、恐らく全編現実世界が舞台であれば、まだ気になってしまう違和感が残ったのではないか、という気がします。描かれているのが異世界だからこそ、圧倒的な迫力につながったのかもしれません。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »