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2010年3月31日 (水)

なぜ日本人はルールを作れないのか

昨日、twitterのTLを流れていたtweetに反応してこんなことを書いた。
(ああ、メールでブログを更新していると、こんな時にどう引用したものか・・・。)


多分「なぜ日本人はルールに固執するのか」と考えるべき。 RT @akof ずるい!?なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか http://j.mp/8XdRc 「ルール作り」から喧嘩がはじまるのが欧米流、それに対して、日本人は「ルールを守りすぎ」」:前者が @hoshibay


恐らく、日本人の方が特殊なのではないか、ということでこんなことを書いたのだが、実際にはもう少しニュアンスが違ってくるような気もする。

「ルールを守る」という段階では、欧米人も日本人も変わらないのだ、多分。問題は、そのルールがどのように作られたかという意識の違いではないか。

欧米人(あるいは日本人以外)にとって、ルールとは恐らく「お互いの合意で成り立つ約束事」なのだろう。ある種の契約と同じだから、どのように合意をするかが大きなポイントだし、少しでも自分の望む条件を加えようとするのは自然な話だ。「合意事項」なのだから、お互いが了承さえすれば、変更も可能。その合意を有利にするために、交渉術というものがある。

一方、日本人(あるいは「ルールを変えられない」人々)にとって、ルールというのは、「暗黙の了解事項」なのではないか。明確な互いの合意ではなく、何となくの「雰囲気」と言っても良いかもしれない。仮に明文化されていても、その約束事は「雰囲気」で作られたものだから、変えられない。誰の責任で決められたものかを明確に意識することができないし、そもそも各人が「類推して」従っているルールだからだ。

何故、そのように捉えてしまうのかは分からないのだが、日本人がルールを「変える」のではなく、柔軟に「解釈する」という解決策をとるのも、そうした「暗黙の了解事」というゆるさがあるからという気がしてならない。もちろんそんなゆるさは国際社会では通じないから、結局いいようにやられてしまう・・・そんな気がする。

ただ、これで終わって、「だから欧米流の対応をしよう」というのも、芸がない。実際問題として、「暗黙の了解」なんて幻想にすぎないと思いつつ、なんとかポジティブに生かしていく方法はないかとも思ってしまう。

それでふと思いついたのだが、実はtwitterをはじめとするネット上のコミュニケーションのルールは、案外こうした「暗黙の了解」と「個別の解釈」で成り立っているのではないか。公式RTのような明示的なルールができた後も、ローカルな使い方が優勢というのも、欧米型のルールが、なかなか通用しない世界だということを物語っている気がする。

もっとも、この世界で覇権を争ってどうするんだよ、という気もするが・・・。結局のところ、争いや対立がない世界でこそ成り立つ合意形成方法ということなのかもしれない。

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2010年3月30日 (火)

HP MiniとiPad

最近めっきり使わなくなり、ほとんどデータストレージと化していたHP Mini 2133が、気付いたら立ち上がらなくなっていた。利用頻度が低いので、最後に何をやったかを思い出せないのだが、WindowsXPの「ようこそ」の画面で固まってしまうのだ。

辛うじてセーフモードでは立ち上がったため、必要なデータはなんとかバックアップすることができた。新たにポータブルのHDDを買うはめにはなったが、そろそろMacのバックアップ用に新しいHDDが必要とも考えていたので、それはまぁ良しとしよう。

とはいえ、ここは思案のしどころだ。HP Miniを再び使えるようにするには、恐らくOSの再インストールが必要だし、もしかしたらそれでもダメな可能性もある。そうした手間をかけて、ほとんど使っていなかったこのパソコンを使えるようにするべきか。それとも、すっぱり諦めて廃棄(はしないのだが、過去の使わなくなったパソコンのようにお蔵入りと)するべきか・・・。

実際のところ、最近は本当に使っていない。パソコンを持ち歩くということをしなくなったこともあるが、少々持ち歩く程度であればMacの重量を我慢してしまうようになったからだ。あえて言えば、データストレージとしての利用の他に、PSPの母艦としても使っていたのだが、そもそもギリギリのスペックで無理矢理使っていたし、なくなってもそれほど困るという訳ではない。(元々はFF7をダウンロードするためだけに入れたようなものだし・・・。)

もっとも、キーボードは大きくて使いやすいので、大量&高速に文字を打ちたい時に(だけ)は重宝していた。実際今週仕事でメモをするのに使うつもりでいたのだ。その事前チェックのために立ち上げたことで、今回の問題が発覚したわけだが・・・。
(当日いきなりでなくて良かった、とは思う。)

仕事の方は別の代替機を用意(多少キーボードは打ちにくいが会社の予備パソコンを使用)したが、となるとなおのこと、当面利用目的がないこのパソコンをどうするかということになる。

まぁそれなりに愛着はあるので、OSのリカバリーまではすると思うのだが、その後使っていくかどうかに関しては、そろそろ潮時と考えた方がよいのかもしれない。購入後1年ちょっとで、たいして使っていないのはもったいないような気もするが、無理に使い続けるコストの方が結果高くつく可能性もある。


さて、「使うのか?」といえば、一応購入予定にしているiPad(といっても日本での発売待ちだが)も似たようなものだったりする。ちょっと考えているのは、仮に3Gモデルを購入した場合、「iPhoneは必要か?」という話だ。

もちろん、「携帯端末」は必要ではあるのだが、iPhoneならではの部分はiPadでフォローできると考えた場合、携帯電話は通常の携帯電話で良い、という考え方もある。今は「携帯電話」を使っていないが、おサイフなど、多少不便に感じることがないわけではない。

もちろんこれは3Gモデルにした場合の話で、WiFiモデルであればそうした代替は不可能(一番大きいのはGPSと連動したMap利用だが、いずれにしても通信が制限されてはiPhoneの替わりにはならない)なのだが、じゃあWiFiモデルにするのは何故なのさ、といえば、それはそれでいまいち利用シーンが見えていなかったりする。

まぁ単なる「物欲」ではあるのだから仕方ない。会社のネットワークにつなげる訳ではないから、仕事で使うのは難しいし、逆にある程度仕事で使うつもりだったら、3Gモデルにしておかないと結局使えないのではないかという気もする。
(ポケットWiFiと常に連動という方法もあるのだが・・・。)

こちらはもう少し考える時間はあるし、そもそも実機を触っていない段階では、やはり評価は難しい。


・・・などと、HP Miniのクラッシュを機会に、新たな物欲も生まれてきそうな気もするのだった。

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2010年3月29日 (月)

指揮者との初合わせ

昨日の練習は、本番指揮者との初合わせ。本来は全曲といきたいところだったが、時間が足りずに終わってしまった。今回の曲は長いのでやむを得ない部分もあるのだが、指揮者との練習がいつもより少ないため、なおのことそれ以外の練習を充実させていく必要がある。

だからというだけでもないのだが、練習の様子を録音しておいた。練習内容の復習をしておいてもらうためだ。練習中の指摘を客観的に振り返る意味合いもある。

昨日はiPodで録音したボイスメモの内容を編集するだけで終わってしまった(厳密にはまだ終わっていない)のだが、良く聴いて次につなげなければならない。

昨日の指摘で印象的だったのは、ブルックナーの交響曲は緻密に組み上げられた「構造物」だということ。だから、それぞれの楽器が狂いなくパーツを構成していかなければ、あえなく崩れてしまう。

幸いにして、数ヵ所を除いて読譜自体はそれほど苦労する曲ではないのだが、そうした「構造物を構成するパーツ」と考えると、とたんに難しくなってくる。これも昨日言われたことだが、「各々が好きなように歌っている」のが今の状態だからだ。あるいは、曲として耳に馴染んだ通りに歌っているとでも言おうか。

それでは、楽譜という設計図をもとにした構造物にはならない。音楽として考えると、耳コピーで練習していくのとは対極にあるのが、ブルックナーの交響曲を攻略する方法ということになる。

さて、そろそろパート練習のことも考えなければならないのだが、どんな練習をしますかね。

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2010年3月26日 (金)

ブログでどこまで自分をブランディングするか

昨日は某所で会社のブログについて講演する機会をいただいた。講演内容を明かすことはできないが、その後の質疑応答などをしながら思ったことが一つ。

「自分はこの(会社の)ブログで、どれだけ自分自身をブランディングできているだろうか」
「そもそも、ブランディングをする意図があってやっているだろうか」

会社のブランディングではなくて、個人のブランディング・・・会社の資産を個人のために使うのか、と叱られてしまいそうだが、実は会社のブログのポリシーを考えると、あながちおかしなことではなく、ある程度そういったことも意識していなければ、目的を満たしたことにはならないのではないか、という気がしたのだ。
(肝心の「会社のブログ」を伏せながらだと分かりにくいが・・・。)

とはいえ、会社のブログで書くのはあくまでも会社で起こったことで自分のことではない。だからこれまではあまり考えることもなくエントリーを重ねてきたのだが、それはそれで続けるにしても、そこに自分自身の価値を高め、伝えるための要素を加味していくことを考えていく必要があるのかもしれない。

漠としたイメージで、実際にどうしたらよいかというアイデアがあるわけではないのだが、そんなことを考えてしまった。どこに自分の価値を見い出し、それをどのように伝えていくか、ということを、もっと真剣に意識する必要があるのだろう。

(もっとも、その辺りはこのブログでも同じではあるのだが、どうも徒然日記の域を出ないというか、専門性を高めてコンテンツの質をあげ、読者に価値を提供していく、という発想になれなかったりする・・・覚悟が足りないのかもしれない。)

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2010年3月25日 (木)

報道は「良質なコンテンツ」か

日本経済新聞の電子版がスタートした。業界内でも注目の取り組みだそうだが、実はちょっと気になっていることがある。

今回の有料化は、「良質なコンテンツはタダじゃない」という考え方に基づいたもので、「ネット上の情報は無料」という従来の考え方とは違うものだ、ということが強調されている。

もちろん、良質なコンテンツはタダではない。情報に対価を求めるという考え方はあってよいだろう。

情報コンテンツプロバイダーとしては、だ。

気になるのは、それはジャーナリズム、もう少し踏み込むと「報道の精神」と矛盾しないだろうか、ということなのだ。

特定の相手に情報を提供するサービスというのは、様々に存在する。もっとも顕著なのは投資に関する情報サービスだろう。そうした世界では対価に応じて良質な情報を提供するという考えは間違っていないし、「情報はタダではない」は良く分かる。

では、それは「報道」なのだろうか。

大辞林にはこのようにある。

報道・・・新聞・ラジオ・テレビなどで広く一般に知らせること。また、その知らせ。ニュース。
報道の自由・・・報道機関が事実を国民に伝達することにかかわる自由。報道は国民の知る権利に奉仕するものであり、その自由は表現の自由に含まれ、憲法により保障される。

情報会社が顧客に情報を提供することを「報道」とは言わないだろう。情報に価値をつけ、対価を求めることは、実は自らを報道機関ではないと宣言することにならないか。

「そうはいっても新聞は有料じゃないか」

確かにその通り。ただ、これは情報の内容に対する対価ではなく、新聞という媒体コストに対する対価だったのではないだろうか。もちろん、どの新聞を選ぶかというのは掲載されている「情報」で選んでいるのだが、その対価は、その情報自体ではなく媒体コストに対して払われるものであり、だからこそ「報道」たりえたのではないか・・・そんな気がするのだ。

とはいえ、ネットの情報がタダでよい、とも思わない。思うに日経は、「良質なコンテンツはタダではない」ではなく、素直に「報道(活動)にはコストがかかる」と訴えて、応分の負担を求めた方が良かったのではないか。仮に同じ値段だとしても、ずいぶんとイメージは違ってくる。
もっと踏み込むのであれば、日経に限らず、そうした「報道のコスト」をどのように社会的に負担していくか、という議論が必要ということになるだろう。


もちろん、経済紙である日経は最初から「経済情報提供サービス業」であり、「報道」を事業としていたわけではない、というのであれば、全く関係ない話ではある。「良質なコンテンツはタダではない」と言って情報自体に価格をつけた時、日経は自分の立ち位置をどのように捉えていたのだろうか。

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2010年3月24日 (水)

5つの仕事

CLIeを使っていた頃のメモをevernoteに取り込む中で「ゲリラ流最強の仕事術」というものを見つけた。メモには出典がないのだが、恐らく何かの本からの引用だろう。
その中で、5種類の仕事が紹介されている。

1.Wage Work
2.Fee Work
3.House Work
4.Study Work
5.Volunteer Work

なるほどと思ってしまったのは、後半に挙げられている3つの仕事。こうした「仕事」の捉え方をすれば、「ワークライフバランス」などと言わなくても、すべて仕事の範疇で整理できるのではないだろうか。この5つの仕事のバランスが取れていることが、本来の「仕事」のあり方だと考えれば、前2つに片寄りすぎているのはそれだけでアンバランスな状態と言うことができる。

「ワークライフバランス」という言葉に抵抗を覚えるような人には、こうしてすべて「仕事」として捉えるようにするとよいのかもしれない。

もっとも、そもそも「ライフ」を「休み」「余暇」「遊び」と捉えること自体が間違いだと思うのだが。家でごろごろしてテレビを見るっていうのは、「ワーク」でないのはもちろん、「ライフ」でもないよなぁ・・・。

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2010年3月23日 (火)

生き残るためという違和感

昨日、twitterでこんなretweetをした。

殆どの生物が生き残るために行動します。人間だけが自己実現や世界のために行動できます。だからこそ違和感があるのかも。 RT @e_presence 良く聞く言葉「生き残るために・・・」に少し違和感を感じる。この地球上に生き残ることを目的として生き残った種がいるのだろうか?

字数の制限があるので言葉足らずなのだが、自分が感じたのはこういうことだ。

他の生物と違って、生き残る以外のことを目的として行動することで発展を遂げてきた人類が、今になって「生き残ること」を掲げるのは、実は「衰退」あるいは自然のメカニズムに対する「敗北」ではないか。だからこそ、その言葉に違和感を感じるのではないか、ということだ。

ただ、厳密に言えば、生物は恐らく「生き残る」ために行動しているが、その動機や目的ゆえに生き残るという結果を得たわけではない。少なくとも「生き残る」という目的意識の強さが結果に影響したとは考えにくい。
むしろ、「生き残っている」という結果から、「生物は生き残ることを目的にしている」と勝手に(人間が)類推しているだけで、実は生物には「生き残る」という目的さえないのかもしれない。

そう考えると、実は「目的」というもの自体、人類だけが持てる独自の能力である可能性もある。生きることや行動に「目的」を見い出すことのできる生物、それが人類という訳だ。

あながち間違いではないのではないか、とも思うのは、「目的」というのは未来に対する想像力から生まれてくるものだということがある。こうした想像力が、他の生物に備わっているかどうかは定かではないので、あくまで「想像」でしかないのだが、そんな気がしてならない。

もちろん、より高次の存在から見た時には、人類も同じように見えているのかもしれないのだが、少なくともそう思うのであれば、日々に流されて生きてはいけないな・・・などと殊勝なことを考えてしまったのだった。
(うーむ、最後はかなり強引・・・。)

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2010年3月19日 (金)

クロマグロと食糧自給率

ワシントン条約の委員会でクロマグロの禁輸について否決という結果が出たそうだが、この件については数日前にテレビの取材に答えていたスペインの漁業関係者の話が忘れられない。

「自分達は、グリーンピースなんかよりも、ずっとマグロの未来のことを考えている」

うろ覚えなので細部は曖昧だが、確かにクロマグロが絶滅すれば死活問題の彼らと、言ってみれば机上の議論に過ぎない自然保護団体とでは、どちらが真剣かは自ずと分かるような気がする。(いやもちろん自然保護団体も真剣なのだが、別に自分の生活がかかっている訳ではなかろう、という点で。)

今回の禁輸拒否でも、北アフリカなどを中心に似たような反発はあったに違いない。自然保護というのは、生存競争という面から見れば不自然な、「人類の余裕の産物」という側面はある。自らを自然に対する「神」とする視点とも言えるかもしれない。
(そもそも自然界には互いに利用しあう「共生」はあっても一方的な「保護」はないはずだ。そういった意味でも不自然な発想ではある。)

さて、そうした「クロマグロの保護」の話はさておき、ついくだらないことが気になってしまった。それは今回禁輸が可決されて、日本にクロマグロが輸入されなくなった場合、日本の食糧自給率には影響があったのだろうか、というものだ。

世界のクロマグロの80%を消費する日本。逆に言えば、日本国内の相当量を輸入に頼っている訳で、これがなくなれば結果として自給率は上がるのではないか・・・そんなことを考えてしまったのだ。どこかで試算とかしてないかしらん。

個人的には食糧自給率は無理に上げるべきではない(というか、こだわるべきではない)という立場なのだが、食糧自給率をあげるべきと主張している人たちの主張に沿えば、今回の禁輸要求は「それみたことか。こうした時のためにも国産で供給できる体制が必要なのだ」という話につなげやすいはずだ。だが今回のクロマグロに関して、そういった議論はあまり目にしなかったような気もする。(個人的に関心がなかったからだろうか?)

そもそも食糧自給率に関しては、全体論ばかりで個別の食資源についてはあまり議論がないような気がしなくもない。(個別に見ていくと色々と都合が悪いという側面はあると思うが。)

今回、禁輸が否決されたことは、引き続き海外からクロマグロが流入し続けるということにつながる。食糧自給率向上、食糧の自国生産重視という立場からは逆風という結果になると思うのだが、そうした立場の人たちはどのように見ているのだろう。

意地悪なようだが、少し興味があったりする・・・。

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2010年3月18日 (木)

Evernote

Evernoteは少し前から登録はしていたのだが、最近になって少しずつ使うようになってきた。

時間のある時にポツポツやっていたのが、以前使っていたCLIe上のメモの取り込みで、こちらは大体終了した。この機会にメモ自体も見直しているのだが、「アルジャジーラ」なんてメモもあって、当時何に関心があったのか?なんて思うことも少なくない。面倒な「作業」ではあるのだが、こうした振り返りは楽しい側面もある。

最近日常的にやるようになったのは、このブログをHT1100からメールでエントリーする際に、宛先にEvernoteも加えておくこと。ブログに書いた内容はあとから探したい時があるのだが、ブログ上では意外に検索がしにくい。特にiPhoneからだと面倒なのだが、Evernoteに放り込んでおけば簡単ということに気付いたのだ。

以前はこうした役割を個人のパソコン上のNotesデータベースが担っていた。ただ、バージョンが上がるにつれて個人で使うのが難しくなり、最近は開いていない。できればそうした過去の内容も取り込みたいのだが、ざっと数百件はあるはずなので、実際にやるのは気が重い。ただ、CLIeのメモ同様、振り返りと考えると、思わぬ発見があるかもしれない。今でも、昔のエントリーを検索した時に、ついつい読みふけってしまうことがあるからだ。

今のところはそうしたテキストの取り込みが中心で、そういった意味ではEvernoteの多彩な機能を「使いこなしている」とは到底言いがたいのだが、別に使いこなすのが目的ではないので、それ以上は望んでいない。正直なところ、会社からは利用できないので、仕事以外で使うというのが大前提だし、個人的にもその辺りはあまり混同したくなかったりする。

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2010年3月17日 (水)

生物多様性と淘汰圧

数日前に見かけた小飼弾さんのtwitterのつぶやきが気になっている。

@dankogai 事業がなくなる=多様性が減る、とはならない。自然を見れば、むしろ淘汰圧が高いところほど多様性が高いことは明らか>@itapon:親の後を継がないと成立しない程度の事業がなくなるでしょ。 RT @dankogai:多様性がなくなる?どうして?

事業継承の話はさておき、気になるのは、

自然を見れば、むしろ淘汰圧が高いところほど多様性が高いことは明らか

という部分だ。

この「淘汰圧」がどういった環境をさしているのかについては想像でしかないのだが、イメージ的には何となく分かるような気もするのだ。厳しい生存競争(あるいは生存環境)こそが、生物の進化適応を促し、結果として多様な生物相ができあがる=生物多様性が生まれる、ということである。

しかし、仮にそうしたメカニズムがあるのだとすれば、今巷で注目を浴びている「生物多様性の保全」はどのように考えれば良いのだろうか。保全と保護はもちろん意味合いは違うはずだが、多くの人は生物多様性の保全=淘汰圧を高める、とは到底思わないだろうし、実際そういった話にはなっていないような気がする。

もっとも、この「保全」というのは、実際そうした淘汰圧の高い自然環境を維持しようという側面はある。熱帯雨林のような環境を守るということは、逆にそこに生きる生物をこれまでと同じ生存環境下に置くことで進化を促し、その遺伝資源を役立てるということなのだから、それ自体は合理的な考えだろう。

開発によって自然環境が均質化すれば、結果として一部の生物が「生きやすく」なることになる。そうして生物相の淘汰圧が下がれば、生物多様性が失われ、進化は促されなくなってしまうからだ。

問題は、こうしたメカニズムはキャンペーンとして訴え方が難しいということだろう。よく聞かれる「○○を守ろう」というのは、淘汰圧を高めるのではなく、むしろ淘汰されつつある生物の生存を助けるというイメージなので、本来の生物多様性の保全とは真逆のメッセージになりかねない。だからといって、「淘汰されるに任せよう」とか「より厳しい生存環境にさらそう」といったメッセージではなんとなくイメージが悪い。

そのあたり、専門家はどのように考えているのだろうか。「豊かな生物相」というのは、冷静に考えれば「生存競争が激しく、日々淘汰が行われている環境」ということでもあるんだよね・・・。

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2010年3月16日 (火)

先進国の条件

「先進国」「途上国」といった捉え方の是非はさておき・・・。

日経ビジネスオンラインに「林業は途上国の産業という”ウソ”」という記事があり、ああ、実は農業などもそうかもしれない、と考えてしまった。(リンクは例によって後程。)

記事の趣旨は、林業は労働集約型の産業と思われているが、実際には世界の木材生産・加工の2/3は北米やEU、オセアニアといった先進国において行われている、というもの。しかも残り1/3の途上国については原生林伐採などで、持続可能ではない形で森林経営が行われていることが多いという。つまり、持続的に林業を行う基盤が整備されているのは「先進国」なのだそうだ。

その大きなポイントとなっているのが、機械化による生産性の向上であり、日本の林業はその分野で大きく遅れをとっているとのこと。

そこで考えてしまったのは、「先進国」か「途上国」かというのは、その国の産業の構成(第一次産業主体か、第二次産業主体か、はたまた第三次産業主体かといった産業構成)で決まるのではない、ということだ。
むしろそうした○○産業に関係なく、国内産業について高い生産性を持つ産業構造を築けているかどうかで評価される必要があるのではないだろうか。

もちろん機械化だけにこだわる必要はなく、ようはその国の産業すべてが、国際的な市場において競争力を発揮できるだけの生産性があるかどうかが「先進国」の条件ではないかということだ。問題となるのは「特定の分野」(日本なら工業)ではなく、その国の「すべての」産業において発揮できていなければならない。

そう考えると冷たいようだが「発揮できない産業は切り捨てる」という選択も必要になってくる。逆に切り捨てないのであれば、いかに生産性を高める努力をするか、というガバナンスが求められる。そう考えると、そうした「取り巻く環境に流されない」ガバナンスこそが先進国の条件とも言えるかもしれない。

であれば、第一次産業を持ちながら、その産業で他国を圧倒できる生産性(技術的な生産性だけでなく、経済的な生産性のことだ)を実現できていない日本は、どんなに工業生産性が高くても実は途上国ということにならないか。それは言い過ぎにしても、「先進国」であるならば、工業以外の分野でも同等の生産性を発揮できてこそ、胸を張れるのではないだろうか。

もしかしたら日本には、「先進国」=「工業国」みたいな勝手な思い込みがあって、それが結果としてそれ以外の第一次産業や、場合によっては第三次産業(これも日本の生産性は問題になっている)を脇に追いやり、発展を阻害してしまっている、ということはないのだろうか・・・そんなことをふと考えてしまったのだった。

(ちなみに林業に関して言えば、日本は国土に占める森林の割合が高い世界有数の資源国だという話も聞いたことがある。少ない平地を農業と工業と住居で奪い合うよりも、そうした森林資源を生かせるような産業の選択ができることが、やっぱり先進国の条件のような気がする。)

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2010年3月15日 (月)

心がけ次第でできること

昨日のオケの練習はトレーナーをお呼びしての弦分奏だったのだが、技術的な側面はさておき心がけ次第ですぐにでもできることを2つ教えてもらった。(というか、いままでできていなかったことを反省。)

一つ目は、休符の前の音の長さをそろえること。何度も指摘されたのは、「四分音符が短い」というもので、拍分を伸ばさずに音を切ってしまう(実際には音が切れるというよりも弓を離してしまって、あとは響くに任せる状態になる)こと。

もちろん長すぎてもいけないのだが、これは技術に関係なく、ちょっとした心がけでできることが多い。基本的に問題になるのは休符の前だからだ。
音がつながっている時に、その長さをそろえるのはそれなりに技術が必要だが、休符のタイミングは意識していれば大丈夫なはずなのだ。

問題は「意識して」という部分で、普段から気にしていないとついついこうした音の長さは短くなりがちだ。休符でホッとしてしまうという面もある。

二つ目も休符に関する指摘なのだが、音を出し終えるとあっさり弓を下ろして構えを解いてしまう点も何度も注意された。これも技術というよりは意識の問題だ。

全体が緊張感を保ちつつ音を弾ききった後で、その余韻に浸ることもなく弓を下ろす・・・というのは、本来は維持したい緊張感が解けてしまうという問題がある。

これは練習時には特に出やすい現象なのだが、練習時にやっていることは本番でも出てしまうだろう。その「ゆるみ」は確実に客席に伝わる。

少し前にチャイコフスキーの交響曲第5番を演奏した際に、4楽章のクライマックス、コーダに入る直前に拍手が入ってしまったことがある。
実際、曲的には終わったかのように聞こえてしまう所なのだが(指揮者も練習時に冗談混じりで「拍手が起こることもある」と言っていた)、これも実はそこで「緊張感が解けた」ことが客席に伝わってしまったのではないか・・・
そんなことを考えてしまった。自分もその時を思い出すと、弾ききった構えを解いてしまっていたかもしれないような気がするのだ。

難しいのは、次の音を出すための予備動作も、場合によってはそのように見えてしまうことだ。特に今回のブルックナーの第8番の3楽章では、それが顕著に出てしまう箇所がいくつかある。
前を弾き終わったらすぐに次に入るための準備をする・・・というのは、それ自体は必要なことなのだが、曲の流れや雰囲気によってきちんと使い分ける必要があるということなのだろう。

というわけで、休んでいたメンバーにきちんと伝えなければ。「弾けるようになる」には相応の練習が必要だが、「緊張感を保つ」(音を拍分伸ばすというのも、実は休符でゆるんでしまう緊張感オ問題だ)のは意識次第だし、これはアンサンブルの中で体得していくものだ。(個人の練習の中でそうした「緊張感」を意識するのは難しいだろう。)

結局は普段の練習にどれだけ緊張感を持って臨めるか、ということではあるのだが、とても参考になった練習だった。


それともう一つ。うちのオケは意外とそういった「意識」の部分が弱い気がする。指摘されると比較的簡単に軌道修正ができるのは、上手なわりに「気にしていない」「考えていない」ということでもある。できるのにやっていない、ということになるからだ。

その辺りの意識改革をどうやったら進めていけるか、というのも、これからの課題かも知れない。ま、自分も含めてだが・・・。

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2010年3月12日 (金)

公式ブログのリターンとリスク

会社のブログについて講演をすることになったので、そろそろその内容をまとめなければならない。

ブログについて話せと言われても、話を聞くぐらいなら書いてあるものを読めよ、と言いたくなったりもするのだが、逆に「書いていない部分」にこそ価値があるということなのだろう。オーダー(というほどのものでもないが、要望)されているのは、立ち上げまでの経緯や内外の評価といった、ブログ上には表れない部分についての話だ。

特に立ち上げに関しては「どのように社内を説得したか」といった内容に関心が高いだろうとのこと。主催者からの話レベルだが、まぁそうだろうという気もする。

ただ、ブログに関して、事前に想定効果を示して社内を説得するのは非常に難しい。そもそも、想定することに意味があるのか、などとみもふたもないことを考えてしまう。

加えて、こうした手段にはリスクの話がつきまとう。突き詰めて考えればメリット同様にあいまいな「リスク」ではあるのだが、炎上といった問題はメリットよりもずっと「分かりやすい」ので、多くの場合、そちらが話題になって結局ポシャってしまうということもあるに違いない。

正直なところ、自社のブログについてそうしたメリットやリスクを明確に議論したことはないのだが、何となくではあるが一つハッキリしていることがあるように考えている。
それは「火のないところに煙は立たない」ということだ。

本来の意味とはもちろん異なるのだが、ブログを「広報手段」として捉えた場合、それは「狼煙」の形で煙を立てる行為に例えることができるだろう。

狼煙をあげるには火を起こさなければならない。この火がつまり「炎上のリスク」だ。

そして目立つ狼煙をあげるには、それだけ強い炎を燃やす必要がある。

つまり両者は表裏一体の相関関係にあるのだ。だからバランスが重要と言ってしまえばそれまでだが、経験から言えば、多くの注目を集めるにはそれだけ「きわどい」エントリーが必要になると感じている。逆にそうした炎上リスクを下げたいなら、当たり障りのない「目立たない」エントリーをすればいい。

ローリスク、ハイリターンというのは、そうそう成り立つものではないのだ。ローリスクローリターンをめざすのか、ハイリスクハイリターンをめざすのかで、自ずとブログの性格は変わってくるはずだが、ローリターンではやる意味がなく、ハイリスクでは始められない、というのが多くの企業の担当者が抱えているジレンマだろう。

正直なところ、その部分にできるアドバイスというのはあまりない気がする。SIや代理店であればある程度無責任に(失礼)薦めることができても、同じ担当者の立場としては、ブログは決してお手軽な手段ではないし、広報だけが目的であれば普通のホームページで十分だというのが正直なところだ。

ちなみに自社のブログに関しては。すくなくとも「広報」として考えた場合はローリスクローリターン路線で運営している。これは別の目的があるからだが、それは講演に来られた方にだけお伝えすることにしよう。
(などと書きつつ後日あっさり書いてしまうかもしれないが・・・。)

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2010年3月11日 (木)

セミナーとtwitter

昨日は「21世紀型ビジネスモデルとしてのCSR経営」というセミナーに行ってきたので気付いたことなど。

一つ目は、講演の内容とは関係ないのだが、冒頭の基調講演をした寺島実郎氏が資料として配布した「寺島実郎の時代認識」という冊子になるほどと思ってしまった。内容にではなく、そうした資料を作っている(このセミナーでの配布用ではない)ことに対してだ。

数字などを更新しながら毎月作り直しているのだという。毎月というのはもしかしたら聞き違いかもしれないが、いずれにしても自分が追いかけていく数字や社会の動きなどを定めた上で定期的にアップデートしていくというやり方は参考になるのではないかと感じた。
コンサルタントや学者であれば当然のことなのかもしれないが、そうした自分の軸となる考えや情報を整理しておき、定期的に見直しておくと、考えがぶれずにすむ(ぶれるにしても根拠がはっきりする)。

一度これと決めてしまえば、アップデートそのものはそれほど時間がかからないだろうし、いざというときに話せるネタにもなるというわけだ。その都度「必要な情報は・・・」と考え、探し回るよりもずっと効率がいい。

時間があれば・・・という条件がついてしまうかもしれないが、こうした自分なりの考えの軸となる資料を作っておきたい気がした。

二つ目は、これも講演の内容とは関係ないのだが、今回は会場がホールで机がなく、メモをするのが難しかったので、twitterをメモがわりにすることにチャレンジしてみた。可能な範囲で気になった発言を追いかけてみたのだ。

iPhoneでの更新なので、スピードは「それなり」でしかないのだが、結論から言えば意外に「使える」気がした。入力に慣れていれば(あるいはPCを使っていれば)、恐らく話す内容に集中したままアップしていくことは可能だろう。

そもそも講演のメモにはHT1100&キーボードを使うことも珍しくない。iPhoneだとまだ入力の速度に問題があるので、聞き逃す発言もあるだろうが、逐語録を作成するのが目的というわけではないので、それほど問題ではないような気もする。

それと意外だったのは、会場内でtwitterを使っていた人は他にもいたらしく、知らぬ間にフォローされていたことだ。こちらは自分のつぶやきで精一杯だったのだが、返信が入っているのにあとから気付いた。

特にハッシュタグを使用していた訳でもないのに、どうやって自分のつぶやきを探し出したのか、そもそも探そうとも考えなかった自分としては、そうした形でつながったことに、ちょっと驚いてしまった。

とはいえ、本格的に使おうと思ったら、やはりPCは欲しい。せめてiPad・・・とその時はつぶやいたのだが、会場が暗い中、小さな画面を覗き込むのは少々しんどい。
また、今回は大会場に大人数のセミナーだったので目立たなかったが、講演中にiPhoneを覗き込んでいるのは、講演以外に集中しているようで、実際には違うにしても気が引ける。

twitterでつぶやいた内容は、家に帰ってからevernoteに取り込み、メモとしてもバッチリ整理。だったら最初からevernoteでもいいではないか、と思われそうだが、クローズなevernoteとオープンなtwitterでは、「何を書くか」という判断基準が無意識に変わってくる。ある程度発言を選ぶ必要のあるtwitterの方が、メモとしては有用かもしれない(クローズだと可能な範囲でどうでも良いことまで取り込んでしまうため)などと感じた。

三つ目は講演の内容についてだが、パネルディスカッションで秋山をね氏が発言されていた、「日本企業の理念の大半は公益資本主義に結びついているが、ビジネスに結びついていない。結び付つけたら公益ではない、といった精神的障壁があるのかもしれない」という指摘は、(公益資本主義が何かはさておき)重要な示唆だと感じた。

ボランティアもそうだが、日本では「利益を得ること」に対する一定のネガティブイメージがあり、そのあたりを「必要悪」的に割りきった時には遠慮なく突き進む(だから過去エコノミックアニマルなどと呼ばれた)ことができるのに、それを「良いことをする」ことと結びつけることには、心理的抵抗を感じているような気がするのだ。

その心理的抵抗感が結果として欧米に遅れをとる原因なのではないだろうか。

もっとも、プロテスタンティズムが、金儲けを是とする考え方を提供したように、その辺りについては何か別の精神的バックグラウンドを考えていく必要があるのかもしれない。

正直なところ、全体としては冗長な印象を抱いてしまう内容だったのだが、そんなことを考えたセミナーだった。

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2010年3月10日 (水)

盗作の範囲

スポーツ新聞の見出しを見た(それも他の人が読んでいたのをチラ見した)だけなのだが、「アバター」に盗作疑惑が持ち上がっているそうだ。中国の作家が、「80%はパクリだ」と訴えているらしい。

実際に盗作があったかどうかはさておき、80%が丸々パクリだったとしても20%は違うことになる。20%も違えば、作品のイメージは変わってくるし、そこで優劣がついてしまうことも珍しくない・・・そんなことを考えてしまった。未発表の作品を100%模倣したのであれば、それは間違いなく「盗作」だが、発表されている作品への「類似」というのは判断が難しい気がするのだ。

仮にキャメロン監督がその作品を目にしていて、そこからアイデアを思い付いたとしても、それは盗作と呼べるのか。そもそも創作物というのは過去のインプットの組み合わせでできるものだし、そうした「重複」がないように作るというのでは、逆に創作の幅を狭めてしまうことになる。

例えば個人的には、アバターは、FF9の世界観とFF12の映像に「似ている」と思ったのだが、重要なのは似ているから真似したとかではなく、仮に真似だとしてもまた別の形により面白く味付けをしてまとめあげた力量だろう。(真似はしていないと思うが。)
わずか1%の違いでも、作品の印象は大きく変わることはあるし、そうであれば、作家の真価はその1%で評価されても良いような気がするのだ。

もっとも、これまた個人的には、「アバター」のすごさは映像の作り方にあるのであって、世界設定や物語は「どこかにあるもの」の借り物という印象がある。それはそれでよいと考えていて、逆に言えば映像以外の世界設定や物語が似ていたって、その作品は「盗作」と騒がれるほどの面白さはないし、アバターのような映像がなければ売れる作品として成り立たせることもなかった、なんて厳しい見方をすることもできるのではないだろうか。

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2010年3月 9日 (火)

ポジティブな動機

今さらながら、「仕事に価値を置かない人の方が生産性が高い」について。

大雑把にまとめると、「何のために仕事をしているのか」という命題に対し、ネガティブな「お金のための仕事」とポジティブな「成長のための仕事」では、お金のために仕事をしている方が生産性が高い、という主張ということになるだろうか。

対して、コメント欄やはてなブックマークでは様々な意見が寄せられている。なるほど、と思うものもあれば、単なる罵詈雑言のようなものもあるが、意見が分かれているので、賛成する人もいれば反対する人もいて、それぞれの仕事観が出ていておもしろい。

そこで自分自身はどうだろうかと考えてみたのだが・・・。

そもそもの疑問として「お金のための仕事」はネガティブなのだろうか、などと思ってしまった。逆に「成長のための仕事」はポジティブなのか、という気もする。

「お金もうけが大好きだ」というポジティブな仕事観もあれば、「成長につながらなければやってられない」というネガティブな姿勢もあるのではないか。

自分自身は「お金のための仕事」と口にするのは結構抵抗があったりするのだが、実はそれを迷いなく言える人には尊敬の念を感じることもある。むしろポジティブとさえ感じる。
それに、口にすることには抵抗があっても、実際に自分は「お金のために」働いている。その結果成長も得られればよいと考えてはいるが、成長できればお金はいらない(むしろ払う!)といった覚悟まではない。成長のためにお金やましてや生活を犠牲にすることは、少なくとも本音としてはできない。

もちろん「投資」であれば別の話で、回収の見込みがあれば、成長を優先する場合もあるだろう。だが、その場合も「成長の目的は」と言われれば、生活のためあるいはお金のためであって、成長それ自体を目的とは捉えないような気がする。
もっとも、そういう「目的」を問うのであれば、「お金のため」というのもあくまで手段であって、目的ではないのだが・・・。

なんだか、結局「どっちでもない」みたいな中庸な結論になってしまうのだが、お金のためであれ、成長のためであれ、仕事に対してポジティブであれば生産性はあがり、ネガティブであれば生産性は下がるのは恐らく間違いない。ただ、ポジティブかネガティブかは、「お金のため」とか「成長のため」といった動機とはあまり相関がないのではないか、などと思ったのだった。

(もっとも個人的には、相手へのサービスへの対価として得る「お金のための仕事」と、自分の「成長のための仕事」という比較をすると、相手を意識した「お金のための仕事」の方がクオリティが高くなり、相手にとっても良い仕事になるのではないか、と思ったのも確かだ。結局「何のため」ではなく「誰のため」なのかもしれない。)

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2010年3月 8日 (月)

研修の効果

先週は管理職向けの研修だった。色々と参考になる話も聞いたのだが、こうした研修を仕事に生かしていくとなると、実際にはもう一工夫必要になる。

ちょっと思ったのは、闇雲にすべて参考にするのではなく、実際に取り入れてやってみる部分と、知識としては持っておくけれどもすっぱり諦める部分を切り分けてしまった方がよいのではないかということだ。体系的に学んだことを部分的にしか取り入れないのはなんだか中途半端な気もするのだが、仕事の方が「体系的」になっているとは限らない。

結局そのあたりを見極めていくのが、ふりかえりの目的なのかもしれない。学んだことをすべて取り入れるためにどうするか、ではなく、何を取り入れて何を取り入れないか、取捨選択をするために行うということだ。

今週は研修中に後回しになっている仕事を取り返す必要もあるのだが、そうしたふりかえりもきちんとやらなければ・・・。とりあえず学んだことをevernoteにインプットしないとね。


evernoteといえば、自宅の複数のパソコンのデータ統合をいよいよやろうということで、メモはevernoteに、ファイルはdropboxにツールを定めて、徐々に整理を進めている。dropboxの方はファイルを放り込むだけなので簡単なのだが、evernoteの方はメモをコピーする必要があるので少々手間がかかる。

まずは、CLIeの時代に溜め込んだパーム上のメモの取り込みを進めているのだが、「おお、こんなこと考えていたりしたんだな」と思わず読んでしまったりしてなかなか進まなかったりする。

個人的には過去のブログの内容もすべて取り込めると、自分の考えたことの検索等が一元化できてよいのだが、そちらはまずは今後のエントリー分からということになるだろうか。

こうした切り替え作業はまめにこつこつやるしかないわけで、結構手間がかかるのが泣けるところだ。

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2010年3月 5日 (金)

企業の社会的自由

今日は研修最終日。今週はメールなどがほとんどできていない。

昨日の研修の中で、「ねばならない」をどう位置付けるか、という話があった。言葉をそのまま受け止めると押し付けられた「しなければいけないこと」になるが、自らの使命としてより積極的な捉え方をして表現を置き換えたらどうかというような話だ。

その話を聞いて、以前スターバックスのブランドマネージャー(だったと思う)のお話を聞いたときに、「スターバックスの店員(社員)にはお客の要望に答える自由がある」といったことを言っていたのを思い出した。

実は「お客の要望」の部分については、そうだったか確たる自信はないのだが、いずれにせよ日本企業であれば「責任がある」と言うところを、「自由がある」という言い方をしていたのがとても印象に残っている。

「ねばならない」というのも、義務とか責任といった捉え方ではなく、そうする「自由」がある、と捉えると、また少し見え方が違ってくるかも知れない。

そこでふと思ったのが、「企業の社会的責任」も、実は「企業の社会的自由」と捉える方法があるのかもしれないということだ。

社会に貢献する「責任」ではなく、社会に貢献する「自由」。経済価値だけでなく、社会価値を追求する自由。株主の要求する利益だけでなく、社会の要求する他のことも追いかける自由。

そのように考えると、ずいぶんとポジティブな心持ちに変わってくる。自由というと、「やってもやらなくてもいい」とか「好き勝手にやる」といったイメージもあるのだが、そうした軸のない自由ではなく、使命感を伴った軸を持った自由があると考えてみるとよいのではないだろうか。

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2010年3月 4日 (木)

研修中

研修中のことというのは書きづらい。それ以外にインプットがないのだが、社内の研修なので内容をほいほいと書くのもはばかられるからだ。

先日のチリの大地震で、津波に関する情報を原口総務相がtwitterで流していたことに読売新聞がかみついた(?)件についてでも書こうと思ったのだが、ソースにあたるための手段が限られていて、実態がよく分からず、曖昧を通りこしていい加減な内容になりかねない。(いつもいい加減な内容だが。)

こんな時はさすがにPCがあればとも思うのだが、iPhoneをもっと使いこなしていれば、何とかなるのではないか、という気もして、「あまり使えていないな」と感じたりする。オケの方でもメールで対応を求められているものがあるのだが、調べてみないと分からない部分があって返事ができていない。
(今日こそなんとかしなければ。)

ちなみに原口総務相は自分もフォローしているので、件の情報は見ていたのだが、そうして見ている限りは問題がないようにも思えた。ただ、リツイートなどで伝播をしていった場合に、デマと区別がつかなくなるといった要素はあるのかもしれない。一次ソースである原口総務相を直接フォローしているのであればともかく、リツイートの繰り返しで、元がよく分からなくなっていた情報なども恐らくあったのだろう。

もっともそれは公式発表を誰かがツイートしても同じことではあるのだが・・・。

リツイートがリツイートであることの保証は、その人の善意だけにかかっていることは確かなので、お互いのフォローの関係などをよく把握した上で、信頼できる情報なのかは自分で判断する必要があるということなのだが、これまで日本におけるそうした情報伝播は、受け手のリテラシーは要求しない形で発信されていたので、混乱が生じやすいということはありそうな気がする。

ただ、それをもって、だからダメというのでは、今後の情報洪水にはついていけなくなるだけなので、結局は探りながら一歩一歩進んでいく必要があるのだろう。


ああ、結局書いてしまった・・・あとは受け手で判断してね(笑)

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2010年3月 3日 (水)

会社の近くに住む

今週は会社の研修なのだが、研修が行われている事業所はたまたまいつも通っている事業所よりもずっと家の近くにあり、早ければ30分ほどで着くことができる。

普段が早いということもあるが、家を出る時間は2時間遅くても余裕だ。なるほど会社が近いというのはこういうことかと実感する。

2時間あれば、朝食から洗濯まで、生活に必要な一通りを余裕で済ませることができる。実際にはずるずると起きる時間が遅くなるだけかもしれないが、帰宅時間も同様に早くなるのだから、そうした時間は確実に増えるだろう。

通勤時間というのは、それだけ「大きな時間」なのだ。会社の近くに住むのが難しいなら、その時間をいかに生かすかということが問われてくる。

多くの人はそうした時間を勉強にあてているわけだが、個人的にはちょっとつらい部分もある。甘えといえば甘えだが、通勤「しながら」勉強というのが、なかなか身に入らないのだ。どうせ勉強をするならもっと集中したいという気持ちはある。

じゃあ引っ越すかといえば、これも辛かったりして、結局どうしようもなくなってしまうのだが・・・。


うーむ、非生産的な内容のエントリーになってしまった・・・。

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2010年3月 2日 (火)

オリンピックの責任者

バンクーバーオリンピックが終了したが、ロシアのメドベージェフ大統領が、ロシアの金メダルが3つだったことに怒り、「責任者は辞表を書くべき」と言っているそうだ。

次回の冬季オリンピックの開催地はロシアのソチ。そういったこともあっての発言なのだろう。

しかし、そこでちょっと考えてしまった。

オリンピック憲章には、オリンピックは選手個人が競う場であって、国家間の競争の場ではない、というものがあるそうだ。もちろんそんなものは建前で、現実はそうではないのは確かだろうが、建前は建前としてきちんと立てる必要があるのではないか。

少なくとも、こうした発言に対して警鐘をならすような動きはあっていいはずだ。


個人的な感覚からいうと、責任者が責任を感じて辞表を出すというのは、それ自体はあってもよい。「選手をしっかりサポートできなかった」という、選手に対する姿勢としてであればだ。

一方で、国が「辞表を出せ」というのは、責任者の「責任」は、選手に対するものではなく、国に対するものだったと明言しているようなものではないだろうか。国が「選手に対する責任をとって辞表を出せ」と言っていると解釈するのはかなり苦しいものがある。

もう少しつっこむと、國母選手に対するバッシングにも、そうした「国家間競争」のような意識が底辺にあったということはないだろうか。大人の選手としてのマナーであれば、そうとやんわり注意すれば良いだけで、「国の代表として」どうあるべきというのは、その時点で、選手を一個人ではなく、国家間の代理戦争の兵士としてしっかりしろと言っているのと同じことになるのではないか・・・そんな気がしてしまった。

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2010年3月 1日 (月)

久々の筋肉痛

結局週末のスキーは少々残念な内容に終わってしまった。

金曜日はもちろん雨で1日滑れなかったのだが、夜の時間を過ごすために持っていったMacBookで、これまで書きためたメモをEvernoteに入力。宿が圏外だったため、ネットにはつながなかったのだが、いつかやろうと思っていた作業を終わらせることができたのは、まぁ良かったと言えるだろう。

Evernoteにまともにメモを入力したのは今回が初めてだったのだが、こうしたメモをがんがん入れてやれば結構役に立ちそうな手応えを感じたりもした。なるべくならこまめに入力していくことが必要だろう。

土曜日はなんとか雨もあがったので、滑ることはできたのだが、会えるはずだったインストラクターの先生は急遽キャンセルとなり、結局ただ滑るだけということに。

前日の雨をたっぷり吸った雪は重く、ここしばらく敬遠していた春のスキーを堪能することになった。重い雪に足がとられ、思ったように回せなかったのだが、それでも後半は徐々に慣れてきて、ある程度は乗れるようになった。

今回は一人ではなくグループで滑ったのだが、誰かに見られている(実際にはたいして見られていないが)と思うと、一人だと手を抜いてしまうようなところについても気をつけるようになる。結果としていつもなら流してしまうようなところできちんとターンをしたりして、けっこう筋肉に負担をかけてしまった。

そのため、今日は久しぶりに筋肉痛。もっとも、インストラクターに見てもらっていたら、同じ筋肉痛でもこんなものではすまないだろうが・・・。


で、土曜日は帰って楽器の練習をし、昨日は演奏会というそこそこハードな週末を過ごしたのだった。

今回の雨でスキー場の雪は一気に様変わりをしてしまったと思うのだが、さて、来週はどうしようかね・・・。

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