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2010年4月30日 (金)

ドラッカー

たまたま手にする機会があって、「もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら」(岩崎夏海/ダイヤモンド社)を読んだ。

物語仕立てのため一気に読んでしまった(ビジネス書を読むのは遅いのだが、小説や漫画を読むのは早いのだ)のだが、なんだかとっても「マネジメント」を読みたくなってしまった。正直な話、物語自体はかなりベタな内容なのだが、そこに「マネジメント」という本の内容が加わることで、非常に興味をかき立てられる物語に仕上がっているのだ。

自分にも、読んで役に立てることができるのではないだろうか、と錯覚させられるとでも言えるかもしれない。「錯覚」という表現を使ったのは、別に騙されているとかいう話ではなく、単にまだ読んでもいないのに「できる」とは言い切りたくないだけなのだが、少なくとも読んで同じように「活用してみたい」という欲求にとらわれるのは間違いない。

冷静に考えれば、物語のようにとんとんと進むわけもなく、逆に進むのであれば読まなくたって進んでいくに違いないのだが、何かヒントになるような「気に」させられるとも言えるだろう。

とりあえず買ってしまうか、まずは図書館で眺めてみるかは少々思案中ではあるのだが、ちょっと連休中に読んで考えてみたいなどと思ったのだった。

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2010年4月28日 (水)

アリ地獄のような現実

昨日はアカデミーヒルズの日本元気塾セミナーに行ってきた。
「アジア最貧国の闇と光を考える」というタイトルで、バングラディシュのストリートチルドレンを描いた「アリ地獄のような街」という映画の上映と、映画を製作したNGOの顧問の話を聞くという内容だ。

映画につけられた紹介文は、「大都市ダッカの闇。子どもがアリ地獄に飲み込まれていく現実の姿を描いた、リアルストーリー。」というもの。それだけでもバッドエンドの重い内容が予想される。

・・・が、結論から言えば、想像した以上の重さはなかった。ただし、描かれた現実に重さがないのではなく、描かれ方の問題だろう。

これがハリウッドなどで映像化されていたら、ぞっとするほど重い映画になっていたのは間違いない。子どもが大人の思惑に利用される現実を描いた映画としてショッキングだったは、レオナルド・ディカプリオが主演した「ブラッド・ダイヤモンド」があるが、あのトーンで描かれていたら、恐らくショックが強すぎたに違いない。(それぐらい、あの映画で子どもが兵士に「洗脳」されていく描写はリアルだ。)

対して、この「アリ地獄のような街」は、エクマットラというNGOによって撮影されていて、もちろん本職の手によるものなのだが、どことなくのどかな、作られたような雰囲気がある。逆にいえば、その雰囲気に救われているとも言えるだろう。

もちろん、映画は実際に起きている事実を下地にしていて(それは「ブラッド・
ダイヤモンド」も同様)、個々の描写はフィクションでも何でもないのだが、露骨に死体が出てくることもなく、表現自体は過激さが抑えられている。音楽も、心をかきむしるような悲痛さはなく、映像自体も明るめだ。
その後のトークセッションの話では、現地バングラディシュでは、上映中10回ほど笑いが起こるらしく、そうした「見てもらうための」娯楽的要素もあるとあったが、そうした少し抑え気味な表現だったのは確かだ。

だが、現実ははるかに重い・・・はずだ。

「ブラッド・ダイヤモンド」で描かれたのは、紛争地帯における子どもたちの現実だった。それ自体許せないことではあるが、まだ「紛争」という特殊要因がある。それがなければ、このようなことは起こらなかったのではないか、という希望だ。

世界で起きていることではあるが、自分の日常とは重ならない、という距離感がある。

一方、この「アリ地獄のような街」は、ダッカという都市の、「日常の」裏側にある現実なのだ。どちらも子どもにとって許せない現実であるのは確かだが、きれいなオフィスビルや「普通に」街を行き交う人々の中に、そうしたストリートチルドレンが当たり前にいる、という現実は少なくとも身近に感じられるという点ではとてつもなく重い。日本がそうではなかったか、といえば、恐らく戦争直後などは近い状態だったはずだ。(それは「火垂るの墓」を見るとよく分かる。あれも、二度は見たくないが一度は見る必要のある映画だろう。)

・・・なんだか、結論に行き着かないまま時間切れになってしまったのだが、まずは観ることを勧めたい映画として紹介しておく。現在渋谷で上映中だそうだ。

http://www.arijigoku.net/

ちなみに「ブラッド・ダイヤモンド」もお勧めである。ディカプリオを見るのではなく、子どもの現実を見てほしい。

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2010年4月27日 (火)

少し控えめに

このところ、暇さえあればtwitterを見るようになってしまっていた。特に電車の中がひどい。いや、ひどくはないが、見すぎている気がする。

元々、仕事やセルフブランディングに生かしていこうというほどの意思は(今のところ)ないことを考えれば、少々TLを追いかけることにこだわりすぎだろう。それに、「はまっている」というよりは、「他にすることがなくて」漫然と見ている感覚に近い。

特に目的もなく、パーティーで出席者を眺めているような感覚だ。であれば、もっと目的をもった何かに時間を費やした方がいい。

仮に目的を持ってtwitterを見るのであれば(そもそも「見る」という感覚自体かなり漫然としているのだが)フォローする相手も選んでいく必要がある。そうしないと結局TLは雑踏のざわめきと同じになってしまうからだ。
今のところは、そうした雑踏を眺める感覚が楽しいので、それほど気にならないのだが、コミュニケーションのツールとして使うのであれば、フォローする相手は意識的に選ぶ必要があるのだろう。
(減らす、という意味ではなく、ベクトルのようなものを揃えるという感じだろうか。そのあたりは、あるいはアカウントを使い分けると良いのかも知れない。)

そんなわけで、今の使い方をするのであれば、接触時間を控えめにした方が良さそうに感じている。一方的に眺めて、一方的に呟く。たまたまタイミングが合えばやり取りする(こともある)。その程度の気持ちで付き合わないと、時間や意識が侵食されてしまう。

もちろん、明確な目的意識をもって再構築をするのであればまた話は違ってくるのだが、正直なところ、そこまでは乗りきれていない。仕事のことは呟かないと制限しているせいかもしれないが、個人的なレベルで呟いている限りは、「明確な目的意識」といっても限界があるし、とりあえずまだしばらくは様子見ということになるのだろう。

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2010年4月26日 (月)

練習したい

昨日は1日練習で、しかも休憩が少なかったため、やたらと疲れたのだが・・・。

それでも今朝、年末の第九の録音を聴きながら、「練習したい」などと思ってしまったのだった。昨日は「もうしばらくいいや」と思ったりもしたのだが、何かきっかけがあれば練習がしたくなる。

これは、悪い傾向ではない。
ないのだが、その時に練習ができる環境がついてきていないのが問題だろう。平日音を出すための環境確保しかり、実際に練習するにあたっての指針しかり。気持ち以外の部分はまったくついていきない。

それでも、音を出す環境は、努力次第でなんとかならなくもない。時間をかければ実家に行って練習することもできるし、お金をかければ近所のカラオケボックスという方法もある。時間かお金か、何かは必要になるが、あとはその気次第で、これは気持ちである程度カバーできる。

問題は「何をどのように練習するか」という指針の部分だ。自分がこれ以上上手くなるためには、もっときちんと弾けるようになるためには、何をどのように練習したら良いのか、それが分からない。

これがスキーであれば、ある程度分かっている。理想とする滑りはどういったもので、その滑りを実現するためには何が必要で、どのように練習していけば良いのか、というのを、これまでの経験からある程度組み立てることができるからだ。

どちらも同じくらい長く(スキーの方が若干長い)付き合っているのに、自分で練習を組み立てられるスキーと、そうではないチェロの違いはどこにあるのか。

はっきりしているのは、スキーに関しては、いつの時点からか、理詰めで考えるようになったことだ。小さい頃は感覚で滑っていたのが、どこかの時点から理屈や理論で捉えるようになった。それによって自分の姿勢や力の使い方を客観的に把握し、見直しをするようになったのだ。

若干滑る楽しさは消えたが、そうした感覚の違いは大きい。スキーに関してはこのブログでも何度か書いているが、やろうとしていることをある程度言葉にすることができるのは、多分そういったことが大きく関わっている。

対して、楽器にはそれがない・・・ような気がする。

楽譜上の注意点とかそういった話ではなく、もっと根本的な「楽器を弾く」という部分が、まだ感覚で処理されているままなのだ。感覚を否定するわけではないのだが、おそらくこの部分を理詰めで把握できるようにならなければ、練習は遊びと変わらないまま終わってしまうだろう。だから、それ以上上手くならない。上手くなるための方法を自分で組み立てることができない。

一番最短の方法は、レッスンを受けることなのだろう。自分は「感覚で弾く」時代にしかレッスンを受けたことがない。理詰めで考えるやり方を教わっていないのだ。スキーとの違いがあるとすれば、恐らくその部分だ。理屈で考える「大人として」教わっていないのである。

ただ、実際にレッスンを受けるとなると、これはかなりハードルは高い。時間の確保もそうだ。レッスンを受けるだけでなく、そのための練習時間まで確保するのは、オケの練習時間すら確保に苦労している状況ではおぼつかないのが正直なところだ。

なんとか自力、独力で学んでいきたいところではあるのだが・・・。

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2010年4月23日 (金)

生物多様性配慮の不自然さ

このところ、twitter上でいくつか生物多様性について呟いたので、少し考え方の整理など。

呟いたのは次のような内容。(RTが中心だがこちらの内容のみ)

そもそも生物にとってもどうでもいい事で、人間だけが気にしている事です。
(生物多様性が人間にとって大事ならばもっと敏感になっているはず、という主旨のツイートに対するRT)

言葉足らずでした。もちろん影響は受けるけれども、人間以外の生物はだからといって他の生物や多様性に配慮などはしておらず、自然のメカニズムに流されているだけ、と言いたかったのです。人間だけが良し悪しはさておきそうしたメカニズムに抗おうとしている、と。
(生態系は生物同士のつながりでできており、他の生物の影響を受けているという返信を受けて)

(以下、キノコを育てるハキリアリはキノコに配慮しており、人間ははたしてどうなのか。トキを中国から持ってくるのはよくて、オオカミがダメなのはなぜか、という返信に対して3件)

そのあたりは考え方の違いかもしれませんが、自然の生物は、配慮しているように見えるだけで、それ自体人間独特の受け止め方だと考えています。ハキリアリはキノコをそのようにしかできない。ヒトだけが「配慮」という名目でそうしたメカニズムを飛び越えようとする。

ですから、生物多様性への配慮は、そうした淘汰メカニズムを改変しようとする人類の挑戦であり、それ自体が恣意的なものなので、トキは良くて狼は駄目だという理屈が成り立つのだと思います。

ただ、私自身は、そうした挑戦は人類だけに許されたいわば「特権」なので、おおいにやれば良いと考えています。そこに、自然に従うのではなく、抗う事だという自覚が必要だろうというだけです。多様性を訴える人は逆のスタンスの方が多いので・・・。


以上が今日までのツイートだが、個人的な基本スタンスとしては、人類を含めすべての生物は、「他の種を圧倒し、自分の生存域を拡大する」というのが本能だと考えている。それが生存競争というものであり、基本的にそこに他の生物への「配慮」など存在しない。

共生というのは、「人類的美観」からは、相手への配慮と受け止められるのだが、実際には、相手の生物種を利用するもので、それも「考えて」利用している訳ではなく、自然のメカニズムがそうさせたに過ぎない。生態系の上位にいる生物は、下位の生物を「食い尽くさないようにしている」のではなく、常に「食い尽くそうとしている」はずだ。餌が減ると自分達の個体数も減るから「食い尽くせない」だけで、時にそうしたバランスが崩れた結果、食い尽くしてしまって絶滅する例もある。

つまり個々の生物は、常に自分の都合で生態系を破壊しようとしていると捉えても良いだろう。ただし、現実には生態系の力の方が圧倒的に強いため、自分の方が負けてしまい、破壊できずに維持されるのだ。個々の生物種が生態系の維持を考えているとは、とうてい考えられない。

だから、人類がある意味壊滅に向けた進歩をするというのも、「生物の本能」としては自然なのだ。人類は、他のすべての生物を滅ぼし、自分達で世界を埋め尽くそうとしている。他の生物も同じことをめざしているが、歴史上人類ほど他を圧倒するパワーを持った生物は恐らく存在しない。

ただし、ここで考えなければならないのは、そんな人類でも、その方向にいるままでは生態系のメカニズムを越えることはできないだろうということだ。他の生物を滅ぼした後に待っているのは人類自身の絶滅である。それも生態系の維持システムの一つであり、人類が本能のまま拡大路線を邁進すれば、行き着く先は他の生物と一緒なのだ。

そうした生態系の維持システムの発動が、今の温暖化であり、生物多様性の崩壊なのだ。温暖化が進み、生物多様性が崩壊すれば、結果人類が滅ぶという「生態系の維持システム」が正常に働くことになる。実はそれこそが本来の「自然な」メカニズムの結果だろう。不自然でもなんでもない。

だが、人類はそれに抗おうとしている。生態系が求める「自分達の種の拡大」という本能にブレーキをかけてでも、そうした生態系のメカニズムに反乱しているのだ。温暖化防止しかり、生物多様性の保全しかり。むしろその方が不自然と言えるだろう。

それ自体本能と捉えることもできるかもしれないが、従来の生物が歩んできた道とはかなり異なることは確かだ。生態系による淘汰が始まる前になんとかしようというのだから。

実際にはまだまだ本能の方が強く、そうした人類の「不自然な挑戦」は一部のものなのだが、それが結局生態系のメカニズムに飲み込まれてしまうのか、それとも超越することができるのか。今はその瀬戸際にあるような気がしている。

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2010年4月22日 (木)

良い商品を決めるのは誰か

何号だかメモをするのを忘れてしまったのだが、多分最近の日経ビジネスの表紙で、こんな見出しを見つけた。

間違いだらけの品質至上経営
「良い商品」は消費者が決める

日本企業の品質至上主義が、消費者の意識が解離しつつあるのではないかという警鐘記事で、そうではない道を模索する企業を取り上げた特集だ。言わずもがなだが、きっかけとなっているのは、プリウスのリコール問題だろう。

ただ、ちょっと気になってしまったのは、「良い商品」を消費者が決めてしまって本当に良いのだろうか、という点だ。「買う商品」は消費者が決めるべきだが、その選択肢としての「良い商品」は、生産者の考えで決めるべきものではないか。

なぜそのように考えるかというと、消費者が「良い商品」を決めるという考え方だと、生産者はその考えに沿った商品を作るだけになってしまい、市場における商品の多様性が失われてしまうような気がするからだ。

例えばAppleのiPhoneと、GoogleのAndroidは、双方が生産者によって「これが良い商品だ」という考えの元に提供されたものだ。選ぶのは消費者だが、その「良さ」を決めたのは彼らのはずだ。

それぞれの生産者が「良い」と考えた商品の中から、消費者は自分の考えに近いもの、その考えに共感できるものを選ぶ。それが生産者と消費者との役割分担であって、そうした「良い商品」の定義を消費者が決めるなんていうのは、なんだかおこがましい気がする。(生産者としてではなく、消費者としてだ。)

もちろん、そうした選択の結果、生き残る商品と淘汰される商品はある、そうして生き残ったものを「良い商品」と呼ぶということなのかもしれない。しかしそれはあくまでも結果であって、生産者が消費者の「決めたこと」に従ったという訳ではないし、従うべきということでもないはずだ。

とはいえ、現実には生産者は消費者の思惑を意識せざるを得ないというのも実情だろう。そのあたりは難しい。

実は良い商品を「消費者が決める」となった場合に、ビジネス上有利になる業種がある。

それがコンサルタントや調査会社など、「消費者の考え」を分析し、企業につなぐということを生業とする業種だ。結果として決まるのではなく、生産前に決める場合、その「消費者が決める」というのは、結局のところ彼らの調査結果を生かすということでもある。

日経ビジネスを発行している会社は、さて、どんな会社でしたかね・・・。

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2010年4月21日 (水)

ブログの目的やビジョン

昨日、ネタがないというエントリーを書いてから、なぜそうした時があるのか、少し考えてみた。

決定的なのは、このブログをどうしていこうという目的やビジョンがないことだ。だからネタにつまる。自分の思索の方向性を定めてないから、普段から情報収集のセンサーも働かない。

いや、センサーがまったく働いていないわけではないだろう。何かインパクトを受けたときには、反応することもある。ただ、それはあくまでもパッシブソナーの話で、アクティブソナーの話ではない。それにパッシブといっても、警戒しながら耳を澄ますというよりは、何も考えずに身を委ねているに近い。

一方で、それで何が悪いのか、という気もする。このブログをきっかけに何かを成したいとか、自分のブランディングをしたいということを何となくでも感じているのであれば、今の状態はあまり誉められたものではないが、そもそも自分にとってそんな位置づけではないからだ。
少なくともこのブログについては、ストレス発散というか、居酒屋でくだをまいたり、カラオケで絶叫している感覚に近い。(カラオケには行かないが。)

とはいえ、毎朝一定の時間を費やしていることを考えれば、もう少し発展的な要素があってもいいだろうな・・・などという気持ちが働くこともある。

で、そんなエントリーができないもう一つの理由は、「その場の勢いで書いている」ことだ。目的がないだけでなく、そもそも準備をしていない。(だから居酒屋談義にすぎないわけだが。)

これは、「何を書こうか」という情報収集以上に、あることについて書こうとした際に、「詳しく書けない」という点に如実に現れる。予備調査も何もせずに、条件反射的に書いているのだから当たり前だ。

そして、昨日も書いたように、そうした「条件反射的」な反応は、twitterに流れつつある。だから、ネタがなくなる。逆にいえば、もともとその程度で書ける内容を無理矢理ふくらませていたのが、これまでのエントリーとも言えるだろう。(もちろんちゃんと書いたものもある・・・と思う。)

準備をして書くとなると、これは大変だ。どこまで調べるかということもあるし、そもそもある程度事前に何を書くかを考えておかなければならない。何かのニュースについて書くにしても、やはり複数のソースにあたらなければならない。

・・・とはいえ、「ならない」と考え始めると、続けるのは娯楽ではなく義務になってしまう。義務が悪いということではないが、そういうしんどい状態にどれだけ自分が耐えられるかといえば、目的もビジョンもない状態でそんなことを続けられるようには思えない。

というわけで、単なる堂々巡りで今日のエントリーを済ませてしまったのだった。
このブログのタイトルのENIGMAは(たしか)「謎」という意味なのだが、読み手に謎を提供するのではなく、自分に謎かけをしてどうするのさ・・・。

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2010年4月20日 (火)

ブログネタ

今日はネタがない。

実はこのブログ以外にも、不定期に更新しているブログがあるのだが、昨日そちらを更新して書きたいことを発散してしまったらしい。

その他にもはてなブックマークやtwitterなど、短い形で思ったことを発信(散?)しているためか、このブログに書くような内容にまで消化されないことが増えてきている気がする。
良し悪しの問題ではなく、そういう状態ということだ。

そういう時はすっぱりあきらめて、この時間にできる別のことをすることにする。(メールの返信とか。)

(ほぼ)毎日書いていれば、そういったこともあるさね・・・。

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2010年4月19日 (月)

一駅手前から歩く

多少寒さもやわらいできたので、今日は久しぶりに渋谷の一駅手前の神泉から歩いてみた。寒すぎても暑すぎても歩くのは厳しいので、この季節がちょうどいい。

朝の歩く時間はこのブログに書く内容を考えたりするには最適な、頭が活性化するタイミングなのだが、久しぶりだったせいか、今日頭に浮かんでいたのは「今日は久しぶりに歩いた」だけだった。さすがに何かきっかけを与えておかないと、何かを考えるにしても発展しないらしい。

いずれにしても、暑くなるまではなるべくこうした時間を確保するようにしたい。運動不足ということもあるし、電車の中で眠った頭を覚ますという意味合いもある。

理想をいえば、会社までの道順も、いくつかのバリエーションをもうけることなのだが、最短距離を追求してしまおうとするのは自然な性だろうか。そもそも一駅前で降りている時点で遠回りなのだが、歩く際に遠回りというのはなんだか落ち着かなかったりする。

もっとも、朝食とブログを書くためのお店をめざすという要素もある。こちらの方が道よりもバリエーションが少ない。わりきって会社で食べる&書くことにすれば、また少し変わってくるかもしれないが・・・。

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2010年4月16日 (金)

都響第696回定期演奏会

先日のマーラーに触発されてシリーズチケットを購入してしまった東京都交響楽団の定期演奏会に行ってきた。

東京都交響楽団第696回定期演奏会
指揮:ジェイムズ・ジャッド
ヴィオラ:今井信子
ヴォーン=ウィリアムズ:「すずめばち」序曲
ウォルトン:ヴィオラ協奏曲
エルガー:交響曲第1番変イ長調

今回のプログラムはオールイギリスプログラムで、個人的にはエルガーに注目していたのだが、ヴィオラの方が印象に残ってしまった。特にアンコールのソロがすごかった・・・というと、何を聴いていたんだ、という感じではあるが、弦楽器のソロを大ホールで聴かせるのはたやすいことではない。ヴィオラという楽器の表現力を再認識してしまった。
ああやって、ソロで聞かせることのできるレパートリーを持っていたい・・・などと考えてしまう。

今回購入したシリーズチケットは、席の選択肢があまりなかったため、舞台横のブロックになっている。位置的にはちょうどチェロやベースの後方だ。チェロを正面に臨める反対側のブロックにしなかったのは(そこも空いていた)、背中から見るトップの動きを参考にしたかったためだが、角度的にはいつも見ている視点に近い。指揮者の表情や動きもよく分かり、単に音楽を聴くだけではない楽しみ方ができそうだ。

もっとも、前半はちょっとうたた寝してしまった。知らない曲に集中し続けるのは難しい。録音が入手できないようなマイナーな曲はともかく、なるべく事前に予習をしていくのが良いのだろう。
(ちなみに次回はシューマンのマンフレッド序曲にチャイコフスキーのマンフレッド交響曲。そういえば、チャイコフスキーのマンフレッドは聴いたことがないような気がする。)

今回は前回のマーラーほどの高揚はなかったのだが、いずれにしても、演奏会で生で聴くというのはいい。楽器を弾くモチベーションがぐっと上がる気がする。

明日も練習しないとね・・・。

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2010年4月15日 (木)

MODE for Charity

会社がらみの招待だったのだが、昨日は生まれて初めてファッションショーというものを見てきた。
もっとも純粋に「ファッション」を評価するというものではなく、「MODE for Charity 2010 babies and mothers」というキャンペーンのオープニングイベントの一環だ。

このキャンペーンは、ファッションやイベントを通じて世界中の(多くは開発途上国の)妊産婦と赤ちゃんを救うホワイトリボン運動を推進するためのプロジェクトで、今年が第1回目。
中心となるのはWEB上でのチャリティオークションなのだが、そのオープニングイベントが昨日開催され、たまたま招待されてしまった、というわけだ。
ちなみにチャリティの収入は、国際協力NGOのジョイセフを通じて、アフリカのザンビア共和国コッパーベルト州マサイティ郡の妊婦支援に使われる。昨日のイベントでは、ザンビアの特命全権大使も招かれていた。

ザンビアでは、病院での出産自体は無料だが、そのために必要な医療品については妊婦側で用意する必要があるそうで、日本円で5000円程度になるその出産キットは、ザンビアではほぼ年収にあたる額になるという。そのため、実際には病院で出産する妊婦はほとんどいないそうだ。

そんなわけで、このイベントの参加費は一般で5000円。招待されてしまった身としては少々肩身が狭かった・・・。

さて、この出産キットだが、ビジネスとして考えたときに、ニーズが確実にあるにもかかわらず成り立たないのはなぜか・・・などと考えてしまう。先進国で作って持ち込めば年収に匹敵する額になっても、国内で生産・供給することはできないのか。国内で生産しても年収に匹敵する額になってしまうのだとすれば、その価格を下げていくための方策はないものなのか。少なくともニッチな市場などではないのだ。

正直、そんなことも考えてしまう。こうしたチャリティによる支援は、ビジネスとしてではなく、あくまでも支援として行われるから、逆にビジネス側では太刀打ちできない。競争相手は年収に匹敵する額をいちイベントの参加費として徴収できるほどの経済力を持った先進国の資金による「無料の」サービスだからだ。

まぁここまで言ってしまうとみもふたもないのだが、BOPビジネスが注目されるのは、そうした点が異なるからだろう。

一方で、だからこうしたチャリティに意味がないか、といえばそんなこともない。緊急支援としては必要なことも多いし、そもそもBOPビジネスだって、経済力の圧倒的な格差があって初めて成り立つものだからだ。
(こうした開発途上国でビジネスが発展しにくいのは、今の不況下の日本と同じで、初期投資の資金集めが難しく、スタートがきれないからだ。そのための資金をどう調達するかを考えた時には、経済格差があるところから資金を移転してくるのが手っ取り早い。ザンビアでビジネスを立ち上げるのに、年収の100倍の資金が必要といった場合でも、単純に計算するなら日本円なら50万円ということになるからだ。)


さて、ファッションショーはというと、「モデルって背がたけー」という程度の感想だった。ま、その部分には関心がないといえばないので、仕方ないかもしれない。ただ、その後見かけた私服姿のモデルはそれほど大きく感じられなかったので、ヒールと、何よりもオーラのようなもので「大きく見えた」ということだったのかもしれない。
(ま、それでも一般ゲストの女性よりは頭ひとつ分ぐらい長身ではあったのだが。)

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2010年4月14日 (水)

アンサンブル・オレイユ

昨日家に帰ると、楽譜が届いていた。
毎年春から夏にかけてのみ活動するアンサンブル・オレイユの楽譜だった。

2年前はエキストラに近い形で途中から参加、昨年は最初から参加だったが、それでも事前に「今年はどうか」と問い合わせがあった。今年は問答無用(笑)
すでに団員として扱われている、ということなのだろう。(もっとも、とうに「エキストラ」ということはないのだが。)

今回の選曲は・・・

バッハ=ウェーベルン:管弦楽のための6声のフーガ(リチェルカーレ)
マルティヌー:オーボエ協奏曲
ルトワフスキ:チェーンI
ストラヴィンスキー:かるた遊び

という構成。作曲者の名前はかろうじて全員知っているが、あいかわらず曲が分かるのはリチェルカーレぐらいだぞ(笑)

オレイユの場合、本番までの練習予定は確定した形で連絡があるため、スケジュールをおさえてしまうのは難しくない。とりあえずカレンダーに入れてみたが、何日か出られない日がある。今年は府中の春定期の本番が土曜日なので、午後夜間の練習日とその日が重なっているのが結構大きい。

本番は土曜日だし、まぁ問題ないだろう。府中の方は惑星の練習が始まっているはずなので、譜読みなどで相当バタバタしそうだが・・・。


さて、思案のしどころ・・・というのは嘘で、こんなエントリーを書いている時点で参加のハラは決まっているのだが、現実問題とし大丈夫か、というのは考えなければならない。幸いにして府中とオレイユは練習は重なっていないのだが、それは一方で「個人練習」の時間がとりにくいということを示している。最近は土曜日に個人練習をすることが増えたのだが、当然、そうした時間の使い方は難しくなる。

せめて家で音が出せればいいのだが、そういう訳にもいかんし、そうした時間(むしろ場所)をどのように確保するかというのが大きな課題だろう。
(オレイユの練習は大抵が夜間なので、日中練習する時間はあるのだが、実家に移動してできるほど余裕があるかといえば、それはない。もっとも追い詰められればせざるを得ないが。)

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2010年4月13日 (火)

ファミリーコンサートのプルト決め

7月の定期演奏会に向けた練習は続くのだが、その合間の5月に親子のためのファミリーコンサートがあり、その練習が来週からスタートする。

ファミリーコンサートは、2年に一度のコンサートだが、通常の演奏会と違って子どもの入場がOKなので、事前に申し込みが必要にもかかわらず、けっこう人気が高い。
(まぁそんな趣旨でやることをうたっていても、一人で来て「子どもがうるさい」とアンケートに書いて帰るお客さんもいるのだが・・・。)

それはさておき、練習スタートに先だってプルトを決めなければならない。全員が出演はするのだが、全員がすべての曲に乗るわけではないからだ。

今のところ考えているのは、3〜4プルトでの編成。現在11人5.5プルトの人数を抱えるチェロパートだが、会場の都合からも、スタッフが必要であることからも、全員が乗るのは難しい。
ただ、一応最後の曲である木星とアンコールについては、全員乗れないかと考えている。ホルストの「惑星」は、秋の定期の曲でもあるので、今のうちに経験しておきたいからだ。

とはいえ、実際のところそれほど曲数があるわけではなく、入れ換えが頻繁にできるわけではないので、改めて考えると結構編成が難しい。そもそも各人のレベルが異なるので、平等に振り分けること自体に無理があるのだ。

普通に考えれば、休憩を挟む前半後半で入れ換えをするのが良いのだが、それでは恐らく編成上無理が出てしまう。練習期間が短いので、余裕のない人には少ない曲数で集中してもらった方がいい。
そうなると、前半後半をさらに分割して、大きく4つの編成を考えることになる。

まず最初は、仮面舞踏会のワルツとペールギュントの朝。この2曲は木星に次ぐ難曲だ。特に朝は簡単そうに見えて結構面倒だったりする。

次に楽器紹介とサウンドオブミュージック。楽器紹介は全員ではないので、実質はサウンドオブミュージックのみということになる。

休憩をはさんで、後宮からの逃走とさんぽ。後宮からの逃走は、7月の定期と同じ曲で、その編成でいくことが決まっている。さんぽは一緒である必要はないので、次の木星とセットにしても良いのだが、演奏者の負担や入場を考えると、さんぽの後に人を入れる方が良い気がする。

最後が木星とアンコールのラデツキー行進曲。余裕の無さそうな人については、ここだけ練習してもらった方がいい。そもそも、抜粋とはいえ木星がわずか3回の練習で簡単にできるとも思えない。
(もっとも、サビの部分だけであればなんとかなる可能性もある。ちょっと音域が高かったような記憶もあるが・・・。)

自分ともう一人を全乗りにするか、自分だけ全乗りにするかという選択もあるのだが、もう一人全乗りにしたい気持ちはある反面、編成上は自分一人にした方がバランスがとりやすいかもしれない。

さて、今週中には決めなければならないのだが・・・。

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2010年4月12日 (月)

報道の役割

タイの暴動で日本人ジャーナリストが死亡した件で、江川紹子さんがこのようなことをつぶやかれていた。
(最近twitterネタ多いな・・・。)

ミャンマーで長井健司さんが亡くなった時もそう。日本のメディアは「日本人記者」の被害は大きく報じるが、それが終わると報道は消えていく。亡くなった彼らが取材をしていた問題は忘れられる。こうして日本人は世界で起きてる大事な問題を知らずに日々を過ごす。ガラパゴス化は携帯だけの問題じゃない

もっとも、報道する側に言わせると、日本人被害者のいない時のタイの問題、あるいは中東問題を報じても、読んでもらえないということなのだろう。メディアが問題なのか、読者視聴者の無関心が問題なのか・・・鶏と卵の問題に似ているかも

これを読んでいて、日経の有料化の際にうたわれていた「良質なコンテンツはタダじゃない」に感じていた違和感の正体が分かったような気がする。

報道の役割は、「読者が望む良質なコンテンツ」を届ける事ではない。読者が知らない、あるいは気付いていない問題をえぐり出し、社会に提起することこそが、報道の本質というか、本来求められる役割ではないか。

そうした情報は、恐らく「値がつけられる」ものではない。時として、読者が目を背け、拒否したくなるような内容も含まれるし、「関心などない」領域であることも少なくないからだ。

そうした問題を伝えることで目を向けさせることが、報道に求められる役割のような気がする。

(なので、先の江川さんの「どちらの問題か」に対しては、自分としてはメディアの問題、ととる。そもそも読者は無関心であることが前提だからだ。関心がない問題だから伝えないというのは、その時点でジャーナリズムとしては敗北宣言に等しい。)


無論、「報道」ではなく、「リサーチ」を生業とするのであれば役割は変わってくる。リサーチは、クライアントの関心や要望にそってなんぼだ。(リスク情報も含めてだから、必ずしも心地よい情報だけではないが。)
そこに対価が発生するのは、よく分かる話だし、むしろ無料でオープンされてしまっては、情報を得たクライアントの優位性がなくなるので、そっちの方が困るということになるだろう。

そうしたスタンスを明確に示したのが、日経の宣言ということではないか。つまり、ジャーナリストではなく、アナリストあるいはコンサルタントを生業とするということだ。

もちろん情報プロバイダーという役割は必要なものだし、そうした立場であることを明確にするのは悪いことではない。
ただ、自分たちを「報道機関」「報道関係者」「ジャーナリスト」と考えるのはやめてほしい。そこに自分としては違和感を感じたということなのだろう。

(そもそも日経の記者達はそのあたりをどのように考えたのだろうか。多くの記者はアナリストではなくジャーナリストをめざしていると「勝手に」思っているのだが、であれば「冗談じゃない」という反発が記者自身からあっても良いような気がするのだが・・・。)

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2010年4月 9日 (金)

端末環境の再編

iPhone OS 4.0 が発表されて、どうやら iPhone3G では完全に対応ができなくなるようなので、その頃には機種変更することを視野に入れておく必要がありそうだ。6月でようやく1年なので、2年契約の途中で切り替えるのはつらいが、結局そうしたサイクルで乗り遅れると、その後もずるずる「ちょっとだけ前のもの」を使うことになってしまうので、どこかで思いきってサイクルを変えてしまった方が良いのだろう。

もっとも、その必要があると言い切れるほど、使いこなしているわけではない、というのも事実。必要なのは「だから不要」ではなく「だからもっと使う」という考え方であることは分かっているのだが、従来の自分のやり方を変えるということまで考えると、結構大変だと思ってしまったりする。

そこそこ使えていればいいじゃないか。

そんなことも考えてしまうのだ。そんなことではもったいないと思う反面、もったいないにとらわれて無理矢理使いこなそうとすることも本末転倒だろう。

まず、自前の環境を整理してみる。

携帯端末
iPhone
HT1100

どちらもスマートフォンで、いわゆる携帯電話がない。両者の機能は使い分けているのだが、どちらもフルに活用とは言いがたく、若干無駄がある一方で、不足している機能もある。

一つはおサイフケータイ。使わなければ使わないで良いのだが、使えれば便利なことは以前使っていた時に実証済みだ。

もう一つはワンセグ。これは今まで使ったことはなく、ずっと不要と思っていたのだが、最近パソコンで録画した番組を iPhone で(持ち運んで)見たいという欲求が高まっているのだ。であれば、直接ワンセグで録画して見るようにした方が早い。
もっとも、おサイフと違って、こっちの機能は音楽を聴くことも含めて、「メインで使う」携帯端末上で実現する必要がある。視聴中に着信を逃すことになってしまうからだ。動画はともかく音楽はiTunes が前提になるため、結局 iPhone をメインに使うことになってしまうかもしれない。

パソコン
MacBook
HP Mini
Let's Note

HP Mini は先日昇天してしまい、データのバックアップをしただけでその後はまだ何もしていない。仮に復旧させるにしても、正直なところ実用性のある使い方は難しい。スペックしかり、重さしかり。キータッチは好きなのだが、それだけではいかんともしがたい状態ではある。

Let's Note は今では録画専用マシンになっていて、それも滅多に使わない。こちらも一度昇天して、ディスクの交換を行っていることもあり、フル運用するには不安が残る。それどころか、HP Mini 同様、いざという時を考えておかなければならない、という状態だろう。

MacBook に関しては、今のところ不満はないが、やはりモバイルとは到底言いがたいのをどうするか、という問題がある。MacBook をどうするか、ではなく、モバイルをどうするか、ということだ。これまではどうしてもという時には、HP Mini を持ち出したりしていたのだが、これからは MacBook の持ち出しも考える必要があるということになるだろうか。

iPad
今ある訳ではなく、あくまで購入予定だが、これをモバイルとして代替するという考え方はある。ただ、日常的にはそれで良いのだが、どうしてもパソコンとしての機能を持ち歩く必要がある場合にはどうするか、という問題は残っている。

ここは思案のしどころで、そもそもモバイルでのパソコン環境を必要としないような生活スタイルへの転換を図る、というのも一案なのだ。そもそも、ほとんどの場面では必要ではないわけで、残るほんのちょっとの場面をどうこなすかを考える方が、実りある検討である可能性もある。

その場合は、HP Mini や Let's Note に関しても使わない、という方針が良いだろう。ろくに使いもしないパソコンがちょっとずつ機能を補いあって何台もあるというのはなんとも非効率な感じだ。場合によってはやりたいことをすっぱり諦めるという選択肢もある。

もっとも、パソコンの場合はスペースの問題だけで、携帯端末のようにランニングコストがかかるわけではない。きちんと見直す必要があるのが、そちらであるのは間違いない。

そうそう、e-mobile もあるのだった。これはHP Mini とセットで購入したものなので、少なくとも年末までは契約の縛りがある。パソコンを持ち歩く機会が減った結果、利用機会も減っているのだが、これこそ「いざというときの」通信手段という要素が強い。パソコンだけ持ち歩くのは今時まったく意味がないからだ。

Poket WiFi に変更すれば、自宅のインターネット環境を切り替えるという選択もできる(PSPなどもあるので、無線のネット環境は必要)のだが、さらにプラス1回線では単純にコスト増にしかならない。

さてさて、どうしたものか。
HT1100 の1年契約は6月のはずなので、その頃にうまいこと見直しができれば良いのだが、ちょっとばっかし iPhone の新型は間に合いそうにないんだよね・・・。

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2010年4月 8日 (木)

Japan inside

何をきっかけにそのようなことを考えたのか思い出せないのだが、こんなメモがほぼ日手帳に残っていた。
(最近利用頻度が減ったが、もちろんまだ利用中。)

Made in Japan より Japan insaide

どちらにも日本の技術やブランドが関わっているが、前者が日本という産地にこだわるのに対し、後者はその商品やサービスの中に日本があるという感じだろうか。もちろん後者の方がはるかに適用範囲は広い。

そしてメモはこう続いている。

工業はともかく、サービス業や第一次産業にあてはめるにはどうしたら良いか?

工業製品を Japan inside にしていくのは分かりやすい。そもそも、以前のiPod(今も?)のように日本の技術が使われている、Made in Others は探せばいくらでもある。自動車などでも、Made in Japan ではなくても、Japan inside なクルマは意外にたくさんあるのではないだろうか。

問題は、それ以外の分野でそうしたことを実現していくにはどうしたら良いだろうか、ということだ。

身近な例では、食品などは多くが Made in Japan でも China inside だったり、U.S. inside だったりすることは珍しくない。ただこれはあくまでも「原料」の話だから、その分野で日本が対抗するのは難しい。自動車に使う「鉄鉱石」の分野で Japan inside をめざすのが明らかに無理なように、資源レベルで競争するのは無理がある。

むしろ、その鉄鉱石を「鉄にするための技術」と同じようなことを考えるべきだろう。そうした考え方ができるようになれば、Made in China でも、Japan inside な食品、ということを考えることができる。(さらにいえば、それは別に日本に売る必要はない。)

農業における日本の生産技術のレベルは分からないが、そうした技術の輸出を積極的に日本ブランドとして生かしていくことが、今後求められていくのではないか。

そもそも、Made in Japan という時に、単なる産地として品質が保証されていると考える人はいないだろう。「日本人が関わっている」だけで無条件に安心するのは考えものだが、その根底には「日本の技術が生かされている」という考え方があるはずだ。
であれば、Made in ○○ を表面的にとらえて一喜一憂する方がおかしい。
(・・・が、そのあたりは理屈ではなく感情面の話なので、一面では理解できる話ではある。問題は、そうした素直な感情の問題を、無理矢理理屈で説明しようとする傾向があることだ。食料自給率向上の「理屈」などがそうだ。)

さて、仮に第一次産業であっても、「モノづくり」においては、まだそうした inside は分かりやすい。ではサービス産業ではどうだろうか。「日本人らしい心遣い」が、輸出すべき Japan inside だろうか。

実はそれだけでは難しいのではないかという気がする。欧米に比べて格差が小さく、明示的な階級のない日本では、「上流階級に対する徹底的なサービス」の文化がない。実は知らないだけであるかもしれないが、少なくとも輸出できるほど一般化されていない。欧米の一流、超一流の対人サービスは、そうした階級社会が育んだものでもあるので、そこで対抗するのは難しい。

むしろ、そうした「特別扱い」のサービスではなく、「一般化されたサービス」の分野でこそ、日本人の「心遣い」というのが生きてくる気がする。そうした心遣いは、「(階級が)上の者に対する奉仕」ではなく、「隣人への気遣い」がベースになっているからだ。

一方で、そうしたサービスを「人手」で実現していくのは難しい。そもそも人手でやる限り、貴族向けのサービスと直接比較されてしまうからだ。それでは太刀打ちできない。

そこで「人」ではなく「技術」を生かすことを考える。「細やかな心遣い」を、サービスを行う「人」に求めるのではなく、サービスを提供する「システム(直接的には機械)」に求めるのだ。しかもそれを、Made in Japan ではなく、Japan inside で実現する。表向きは現地の企業が提供していても、基本的な考え方とか、思想の部分を日本的なものにする・・・そんあことはできないだろうか。


・・・ま、とっくにやられていたりして。

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2010年4月 7日 (水)

最近の状況

今日は予定があるので、自戒をこめて手短に。

1.「忙しい」「余裕がない」「たて込んでいる」「バタバタしている」・・・といった言葉は、自分の無能をさらけ出しているようで口に出したくないのだが、なんだか最近そうした言葉を発することが増えているような気がする。これは意識してでも矯正したいのだが、気が付くと呟いてしまっていたりする。

2.残業するのは日中の仕事に余力を残しているみたいなので、避けたい。まぁこれは今のところなんとか(ほとんど)しないで済んでいるが、最近は建前ではなく本気で定時以降に仕事をしようとする気力が残らなくなっている。いいことなのか、問題なのか・・・。
自分を鍛えるという意味では、ここから気力を振り絞ってする仕事は、(クオリティはさておき)自分の底力のアップにつながっていくかもしれない。

3.そうはいっても、端が暇と思うほど暇ではないが、自分が忙しいと思うほどには忙しくはない、というのが現状だろう。周りが残っている中、先に帰れば「そのように」見られてしまうだろうし、実際のところ本当に余裕がなくなれば「忙しい」なんて言っている暇はなくなるのだ。

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2010年4月 6日 (火)

オンラインとオフライン

少しずつtwitterで呟くのにも慣れてきた(流れるTLにはついていけていないが)のだが昨日ちょっとオンラインとオフラインのコミュニケーションについてやり取りがあった。

その最後に自分がツイートしたのがこんな内容。

うーん、オフラインかオンラインかというのは手段の問題ではなくて、相手の反応をリアルに「感じながら」行うか、「想像しながら」行うかだと思うんですよね。つまりテレビ電話はオフラインだし、手紙はオンラインだということに・・・あれ、なんだか語感が逆のような気が。

・・・矛盾するような、相手への返答にもならないツイートになってしまったのだが、語感の問題はさておき、オンラインとオフラインの「コミュニケーション」は本質的に何が違うのか、という点はもっと考えてみても良いような気がする。

対面を頂点(恐らくこれ以上の手段はないだろう)とする「オフライン」コミュニケーションの特徴を一言で表すとしたらなんだろうか。

昨日のツイートでは、「感じる」という書き方をしたのだが、改めて考えてみると、実は「相手の発言を遮ることができる」「自分の発言が遮られることがある」のが、最大の特徴ということはないだろうか。

これは「オンライン」の特性と対比して考えると顕著なのだが、メールやソーシャルメディアでのコミュニケーションというのは、少なくともその最中に遮られることはないと思うのだ。(あえていえば、twitterはその文字数の制約上、長いメッセージに関しては途中で横やりが入る可能性がないとは言えないが、それにしてもいきなり遮られることはないだろう。)

相手の反応をダイレクトに感じることができるということもそうだが、そうしたコミュニケーションにおいては、自分のメッセージが相手に与える影響力に対する想像力は、不必要とは言わないがそれほど必要とはされない。むしろ、相手の反応によって即座に方向転換するレスポンスの良さが要求される。

この「想像力」と「即応力」は、似ているようで実はかなり違うのではないか。

例えば相手の反応が得られにくい関係(上司と部下とか)であったり、メディアでの発言のように相手の反応が即座に得られない時に、「失言」が出やすいのは、コミュニケーションが「即応力」中心に行われていて、「想像力」がそれほど働いていないからだ、と推測できる。

対して「オンライン」コミュニケーションでは、即応力よりも想像力が重要になる。相手の反応が分かってからでは遅いからだ。その前に、自分のメッセージが相手にどのような影響を与えるか、常に想像力を働かせながらメッセージを構築しなければならない。

手紙のようなロングスパンのやり取りの場合は、十分に考えてメッセージを構築することができたから、それほど問題ではなかった。「名文」と呼ばれる手紙が多数存在するのも、そこに投入された想像力が半端なパワーではないことを示している。

ところが、メールさらにはソーシャルメディアといった手段になってくると、そうした時間をかけて想像している余裕がない。即応に近い形で想像力を働かせなければならない。これはかなりシビアな要求だし、そもそも即応と想像を切り分けて考えたことがない場合、「何で通じないのか」というストレスにしかならない可能性もある。

こうした現代のオンラインコミュニケーションの特徴への対処の方法にはどのようなものがあるだろうか。(手紙をオンラインというのは変だが、電話などよりはずっと「オンライン」だ。電話はむしろここでは「オフライン」で、これが語感的な矛盾。)

最終的な解決は、社会全体でのリテラシーの向上ということになるだろう。想像力を極限まで働かせてコミュニケーションを行うのは、正直な話無理がある。斟酌が過ぎれば、本音のやり取りができない「偽の」コミュニケーションばかり蔓延してしまうリスクもある。
つまり相手の想像力不足はある程度「笑っておさめる」大人の態度を身に付けること、ということになるだろうか。受け手にもある程度受け止めるための想像力を要求すると考えても良いかもしれない。

今はそういった過渡期にあるので、むしろある程度の「割りきり」が必要になってくる。通じなければそれはそれで仕方ないと考えるのも割りきりだし、相手によって使い分けるのもそうした割りきりの一つだ。むしろ後者のような割りきりが必要になってくるだろう。これは「オフラインを選択する」というだけでなく、相手によっては「オンラインを選択する」ということも含む。その場合は、自分にできる限りの想像力を(その時だけは)働かせる努力をするしかない。

最終的には慣れの問題だと思うのだが、手紙のように閉じたやり取りではなく、twitterのようにオープンなやり取りでは、想像力のベースになるコンテキストも様々だし、そもそもまとまるとは思えない。そんな混沌の中でやり取りをしていくのが、これからのコミュニケーションの姿なのかもしれない。

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2010年4月 5日 (月)

高く始めて価格を下げる

先週の金曜日は、アカデミーヒルズのセミナーに行ってきた。「最先端の知」シリーズの第1回で、「天才ロボットクリエイターが描くサイエンスの可能性」というタイトル。講師は、パナソニックのエボルタのCMで活躍したロボットクリエイターの高橋智隆氏だ。

話を聞いての第一印象は、とにかく「頭がいい」こと。いわゆる知識が、ということではなく、自分なりの価値観やポリシーが明確だということだ。少なくとも現在自分が打ち込んでいるロボットに対して、自分はこう考えている、という部分がハッキリしている一方で、でも将来は違うかもしれないというある種の達観もある。

一般的な知識人と違うのは、彼がクリエイターで、そうした考えがものづくりに立脚していることだろう。ただ、一般的なものづくりの考えとも違うように感じられるのは、多くのものづくりの担い手が、「先人からの継承」の中でその考えを確立してきているのに対して、彼にはそうした「先達」がいないことだ。そういった意味で、彼のものづくりの姿勢は、創造物であるロボット同様、かなりユニークな気がした。

そのあたりはなんとも言葉にできないのだが、そうしたものづくりの話とは別にちょっと印象に残ったことがひとつある。

それは、ロボットが普及していくために必要なのは、「安くすること」ではなく、「最初は高くて良い」という話。富裕層が購入し、周囲に自慢できるような価値を提供することで、社会全体にロボットを持つことに対する「あこがれ」を生じさせる・・・という考え方になるだろうか。

やがて背伸びをして買う層が増え、徐々に広く行き渡っていくという事なのだが、そう言われてみると、「新しいもの」というのは大概そういった普及の道をたどっているような気がする。
あえていうなら、最近のネット関係のサービスには当てはまらないが、少なくとも物理的なコストを伴うリアルな「モノ」に関しては、こうした考え方が合致するのかもしれない。

そこで思い出してしまったのが、自社のロングセラー商品のことなのだ。今でこそ低価格で誰でも手にできるものとして提供されているが、歴史を紐解けば、発売当初は高価なものであり、その後の値下げの歴史を経て今の姿がある。

値下げができるのは、最初が高かったからではないか。

そんなことを考えてしまったのだ。最初から安く提供すれば、その時は売れるかもしれないが、それ以降は価値を高めていくしかない。最初に高くしておけば、価格を下げることそれ自体が価値につながる。

もちろんそのためには、最初高くても「欲しい」と思わせるだけの価値や新規性が必要なのは間違いない。だが、その価値に自信があるのであれば、最初は思いきって市場を絞り込んでしまってもいいのかもしれない。

もっとも、そこから普及させていくには相当な我慢が必要だろうし、実際にはそこまで到達できずに消えていくものも多いだろう。
(ロボット・・・ということでいえば、そこで思い出したのがAIBOだった。)

ただ、「我慢する」ためには、最初の段階で採算がとれる価格で勝負をしていくしかない。そこで無理をするから結局つぶれてしまうとも言えるだろう。

こうしたコストオンの価格設定は、マーケット優勢な今では考えにくいのかもしれないし、もちろんそうした考え方が通じないマーケットもあるのだろうが、独創性と新規性で勝負をしていくのであれば、それが通じるぐらいでないと、結局ダメなのかもしれない。

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2010年4月 2日 (金)

演奏会に行くということ

さて、今朝のリベンジを会社の近所のカフェにて。以下前半は同文。

一昨日は知り合いにチケットをもらったので、東京都交響楽団の演奏会に行ってきた。

マーラー:交響曲第3番ニ短調
指揮:エアリフ・インバル
メゾ・ソプラノ:イリス・フェルミリオン
女声合唱:晋友会合唱団
児童合唱:NHK東京児童合唱団

一言で言えば、素晴らしい演奏会だった。チケットをくれた知人に感謝。(本人が行けなくなった代理だから、あまり喜ぶのも申し訳ないが・・・。)
「名演だ!」と言えるほど、マーラーの3番も都響の響きも知っているわけではないのだが、会場の拍手も鳴りやまなかったし、個人的にはとっても良い体験だった。

思わず手持ちの録音(同じくインバルのフランクフルト放送交響楽団)を聴き直したくなったぐらいだ。(と、ここで今朝のエントリーは終わってしまった。)

そうした「録音を聴こう」と思う一方で、もしかしたらこれは演奏会というライブでなければ味わえないものなのかもしれない、とも感じた。特に近現代の大編成の曲というのは、音色の豊かさや大音響の迫力といった点から考えても、ホールという音響装置や会場を包み込む雰囲気といったものがあって成り立つのではないか。そうして初めて作曲家や指揮者の意図した音楽が展開されるのではないか・・・そんな気がしたのだ。

そうだとしたら、いくら録音を聴き直しても、同じような感覚は得られまい。

だとすれば、iPodにたくさん曲が収録されて、色々な曲が聴けて満足・・・ではなくて、いくつもの演奏会に足を運ぶということを、もっと積極的に考えるべきではないか。
もちろん、録音には録音の役割があるし、そもそも演奏会に足を運ぶというのは、はいそうですか、と簡単にできることではないのだが、もっとそうした機会を作っていくことを大切にしたい、と考えさせられた演奏会だった。


・・・で、それで終わってしまうと、結局演奏会に足を運ぶ機会は作れなかったりする。

「行きたい」と考えたときに、それから探すのではすでに遅いし、そうした選び方ではどうしても聴く内容が偏ってしまうのだ。
そもそも、スケジュールの調整からして難しかったりする。

であれば思いきって会員登録やシリーズ券などを購入して、あらかじめ先の先まで予定としてブロックしてしまうのが良いのかもしれない。それ以外に行きたいのがあればそれでも良いし、いずれにせよ、少しこの分野にお金を使うことにしよう。(自分への投資のつもりで・・・。)

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都響スペシャル:マーラー交響曲第3番

一昨日は知り合いにチケットをもらったので、東京都交響楽団の演奏会に行ってきた。

マーラー:交響曲第3番ニ短調
指揮:エアリフ・インバル
メゾ・ソプラノ:イリス・フェルミリオン
女声合唱:晋友会合唱団
児童合唱:NHK東京児童合唱団

一言で言えば、素晴らしい演奏会だった。チケットをくれた知人に感謝。(本人が行けなくなった代理だから、あまり喜ぶのも申し訳ないが・・・。)
「名演だ!」と言えるほど、マーラーの3番も都響の響きも知っているわけではないのだが、会場の拍手も鳴りやまなかったし、個人的にはとっても良い体験だった。

思わず手持ちの録音(同じくインバルのフランクフルト放送交響楽団)を聴き直したくなったぐらいだ。(うおお、こんなところでキーボードが電池切れ。泣ける。)

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