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2010年6月30日 (水)

理解しないのは知らないから

月曜日に出席したアカデミーヒルズ「最先端の知」シリーズ。今回のテーマは「科学コミュニケーションがつなぐ私たちの未来」というもので、講師は東京大学 大学院理学系研究科 広報・科学コミュニケーション 准教授の横山広美氏。

科学コミュニケーションというのは、科学と社会をどのように結びつけていくか、という学問のようなのだが、ぶっちゃけていえば、「どう説明したら理解してもらえるか」ということだろう。科学的な知見というのは、意外と理解されにくい。

理解がされなければ、支持を得るのは難しい。それが端的に表現されたのが、事業仕分けにおける「一番でなければダメなのか?」発言だという。実際のところ、特に基礎科学の領域というのは、社会にとっての有用性も分かりにくく、なぜその研究が必要なのか、ということが不明確だ。そもそも「必要なのか」という問いかけ自体が馴染まないものなのかもしれない。

で、そんな話がしたい訳ではなく、昨日のエントリーに関連して考えさせられたのが、そうした社会とのコミュニケーションについて考察された「ボドマー・レポート」とその評価の話だ。

ボドマー・レポートというのは、一言でいえば「たくさんの情報を提供すれば、市民は自ら正しい判断ができる」というものらしい。市民(社会)が理解しないのは、理解するための情報を知らないからであり、理解してもらうためには、より多くの情報を提供していけば良い、ということのようだ。

これは昨日書いたベナンのHFW事務局長のメッセージに共通する考え方だ。個人的には自分の考え方もこれに近い。

ところが、この「ボドマー・レポート」は、その後間違いだったのではないか、と否定されてしまう。否定は言い過ぎかもしれないが、そうした反省が生まれるきっかけになったのが、イギリスでのBSE問題だ。このあたりの話は端折られていてよく分からなかったのだが、ようするにイギリス政府は当時この問題に対してボドマー・レポートに沿った対応を進めたのだが、それが必ずしも効果につながらなかったということらしい。
(とは言うものの、実際には当時のイギリス政府の発表には隠蔽があり、それが問題になったといった話もあって、そのあたりの経緯はよく分からない。)

そのボドマー・レポートへの反省というのは、知ることは重要だが、それが社会の知りたい気持ちに答えられているとは限らないというもの。ようするに闇雲に開示すれば良いものでもないよ、ということだとは思うのだが、こうした考え方は一歩間違えれば、発信者による恣意的な情報操作にもつながるため、注意も必要な気がする。

BSE問題での情報開示については、日本でも同じような状況があり、科学的には正しい対応がされながら、コミュニケーションの面では、情緒的な安心感が優先されてしまい、全頭検査という無駄なコスト(安心上、あるいは非関税障壁としては有益かもしれないが、安全上は無駄なコスト)につながっている。

(この話で気になったのが、自分は比較的早い時期にそうした情報に触れる機会があり、知っていたし理解もしていたのだが、例えばメディアや消費者団体というのはそうした「科学的事実」を知った後も、全頭検査をするべきと考えていていたのか、ということだ。いたのだとすれば、その理由にとても興味がある。実際には理解できていなかっただけなのか、それとも別の理由があるのかだ。)

話がずれてしまったが、ある問題について知ること、理解すること、共通の認識をすることとには、意外と大きな隔たりがあるということを考えさせられる内容だったのは確かだ。そういった意味で、ベナンのHFW事務局長が言っていた言葉も、そのまま受け取るのは難しいかもしれない、などと考えてしまった。(ああ、かなり強引なまとめ。でも時間が・・・。)

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2010年6月29日 (火)

問題に関与する人を増やす

昨日はアカデミーヒルズのセミナー「最先端の知」シリーズを聞いてきたのだが、その前に先週出席したハンガー・フリー・ワールドの10周年記念シンポジウムの事も書いておきたいのだった。

もちろん「飢餓」をテーマにしたシンポジウムなのだが、印象に残ったのは直接的な飢餓の話題ではなく、登壇者達が話していたこんな一言だった。

「複雑な問題ほど、特定の誰かを犯人にしてはいけないと考えている。」
「問題があるのであれば、関与する人を増やし、情報を提供し、議論をしていく事が重要。」

前者は、会場からの「(食品廃棄の多い)日本では食糧の生産量を増やしても廃棄されてしまうのではないか?なぜ廃棄されてしまうのか?」という質問に農水省の方が答えた一言。

売らんかなで作りすぎる企業が悪い。いやそれは結局鮮度を過剰に求める消費者の問題・・・といった具合に、「誰かを」犯人にして論じるのは簡単だが、そんな単純な話ではない、という戒めだろう。確かに、誰かを悪者にするのは痛快ではあるのだが、それを論じていても問題が解決する事はほとんどない。

そこで考えさせらるのが後者の一言で、ベナンのHFW事務局長のコメントだ。
(余談だが彼女はその前に「飢餓は人間が問題を作り出しており、人間が解決できるもの」という一言を発していて、会場的にはその言葉に打たれた方が多かったようなのだが、自分はちょっと違ったのだった。)

多くの場合、問題を「効率的に」解決するには関与する人間を減らし、意思決定の速度を上げる、というスタンスが取られる。関わる人が増えれば、意見も多様になり、まとまらなくなる。だから、関与する人を増やし、情報を提供していくなんてとんでもない・・・と考える人は少なくないのではないか。
表だってはそうは言わなくとも、無意識にそのように行動してしまう人は多いはずだ。

だが、そうではないと彼女は言う。それはおそらくベナンにおいて、そうやってネットワークを広げる事で問題を解決してきた経験が言わせるのだろう。それは逆にいえば「問題の本質」を共有できれば、解決のための意見はまとまっていくものであり、まとまらないというのは、問題を真の意味で共有できていないという事ではないか。

そして、そうした状態だからこそ、物事を単純化して「誰かを悪者にする」論法が生まれ、通じてしまうのではないか。

そんなことを考えさせられたのだった。

で、この「情報の開示と共有」については、昨日のアカデミーヒルズでの話にも関係してくるのだが、時間がなくなったので明日に回すことにする。

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2010年6月28日 (月)

iPad + pages

先週は府中の演奏会に向けた資料づくりに追われて、朝もブログを書くどころではなかったのだが、そこでiPadが大きく役に立った。朝と昼休みの30分程度(と夜の時間を多少)を資料作成に充てたのだが、iPadの持ち運びやすさと立ち上がりの早さがなければとてもその時間にやろうとは思わなかっただろう。

今回利用したのはiWorkのpages。何を使って作成するかで少々迷ったのだが、やはり文書の作成ということで選んでみた。結局のところ、印刷してなんぼの資料ではあるので、それを前提に作成できた方が良い。
参考となる前回までの資料はExcelだったので、numberという選択肢がない訳ではなかったのだが、少し使ってみて、文字や画像なども含めた資料作成には向いていないと感じた。表作成に特化している感じだ。
(ちなみにまとめて三種とも購入してしまったのでどうなのか分からないのだが、pagesの表作成機能はnumberがなくても機能するのだろうか。機能するのだったら、とりあえず買うのはpagesだけでも良かったかもしれない。keynoteなんて全然使うあてがないし・・・。)

最後の段階で、書き出したPDFファイルがWindowsでは文字化けして読み込めないという問題があり、慌てて(前日のオレイユの練習の休憩時間中に)フォントを修正するという作業に追われたりしたのだが、それもiPadの機動力のなせる技だろう。

ソフトの操作性自体には色々注文もあって、正直「とても使いやすい!」とは言い難いところもあるのだが、そうした欠点を補ってあまりある機動力だった。メモに特化したポメラが人気というのも分かる様な気がするのだ。

ただし一方で・・・

こうした隙間時間を使うやり方が本当に効率が良いのかという疑問も残る。今回作成に費やした時間は、朝昼だけでもトータルで5時間、夜も含めればもっとかかっているだろう。まとまった時間を確保して、Macなりを使っていれば、恐らく3~4時間ほどで終わったのではないかという気がしなくもない。

隙間時間を使う場合、iPadほど素早く前の作業状態に(こちらの頭は)戻らないのだ。特に今回は仕事時間に影響しないように、かなり意識的に思考の切り替えを心がけたので、なおのこと前回までの内容を見直す時間がかかってしまった。

そもそもこうした資料を作成するのに、隙間時間を使わなければならないほど追い込まれてはいけない、ということではあるのだが、何が向いていて何が向いていないのか、ということは見極めていかないと、結局「非効率な」時間活用で自己満足に浸るだけになってしまうのかもしれない。

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2010年6月18日 (金)

iPad + N04B

昨日、長らくブログ更新用のメールマシンとして愛用したHT1100を機種変更した。長らくと言っても、2年には若干満たなかったらしく、来月で満2年だったが。

そんなわけで、今日のブログは、後継機として選んだN04Bのアクセスポイントモードを利用して、iPadから更新している。念のため昨日試しにつないでみたのだが、想像以上に接続自体は簡単で、むしろこれでセキュリティは大丈夫なのか?と思うぐらいだ。

もっとも、目の前で使う時だけ接続可能にするのだから、知らぬ間に使われてしまうということは基本的にないということなのだろう。初期設定は一度に接続できるのは1台のみで、複数を同時接続するには、macアドレスの登録といったセキュリティは設定が必要になる。

問題は通信費がどれぐらいになるかだが、PocketWiFiなどで機器を追加しても結局同じような感じになるのではないかという気もする。こればかりはしばらく使ってみて様子をみるしかない。

さて、ここまで結構サクサクときたが、最後に実際に投稿ができるか、というハードルが残っているのだった。それと、evernoteへの内容のバックアップをどのようにするかを考えなければ。

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2010年6月17日 (木)

つながるチカラ

他人とつながる力、関係する力をコミュニケーション力と考えた場合、従来のコミュニケーション力というのは、考えの異なる相手、主張の異なる相手とすりあわせを行う力だったと考えて良いだろう。説明力、プレゼン力、共感力といった様々な要素は、違う相手とつながるためにあり、究極は「他人は変えられない」だから「自分を変える」というところにまで行き着く。

ところが、ITの発達が別の「つながる力」を産み出した。巨大な母集団の中から、自分と同じ考え、自分に合う相手を探しだして「つながる力」だ。口を開けて待っていればつながれるわけではなく、自ら能動的に動かなければつながれないのだから、これも「力」と考えて良いだろう。ブログやSNS、ツイッターなど、ソーシャルネットワーキングと呼ばれている「コミュニケーション」はどちらかと言えばそうしたつながりを産み出していくためのものだ。

そうなると、一口に「つながる力」といっても、二種類の、それもどちらかと言えば相反するベクトルが存在することになる。全く異なる力が求められると言っても良いかもしれない。

従来の形である前者は、地縁であったり、血縁であったり、職縁といった、集団を構成する人の内面とは別の「人をつなぐ」枠組みが存在するなかで、お互いの考えや好みをどうそろえていくか、ということが命題だった。
新しい形である後者は、内面的には近しい者同士が、どうやって集団としての外的な枠組みを構築していくか、ということが命題になる。

どちらも、「組織化」という言葉は同じだが、かなり性格が異なる。というか、ほとんど真逆だろう。互いのノウハウは実はほとんど役に立たないかもしれない。
特に後者にとって、何らかの外的枠組みを持つということは、その時点でそれまでとは別のつながる力を求められるようになる、ということでもある。好きで集まったはずの集団が、いつのまにか内部で対立するようになるというのは、よくある話ではないだろうか。

そう考えたときに、従来の枠組みの最たるものでもある企業が、後者の「つながる力」を行かしていくにはどうしたら良いだろうか。後者の「つながり」は最初のステップに過ぎず、どこかで前者の形にシフトをする必要があると考えるか、それとも、後者の形だけで発展していけると考えるかによっても違ってくるのだが・・・。

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2010年6月16日 (水)

リクルートの女性力

KM学会の関係で、「リクルートの女性力」(福西七重/朝日新聞出版)を読んでいるのだが、なるほどと思わせるところとつっこみどころが色々あって面白かった。

個人的に一番印象に残ったのは、女性の働きやすさのために男性の働き方を変えるアプローチをしていたことだ。狙ってかどうかは定かではないが、結果としてダイバーシティに貢献している例になっている。

具体的には、長時間労働をやめる、特に就業時間外に物事が進むような仕事のやり方を変えたことにつきるだろう。これには飲みニケーションのような場も含まれる。そうした場で仕事が進むことをやめるというのは、子育てなどでそうした場に参加できない女性の不利を無くすことにつながる。

もっとも、一方でそこに「女性はそういうもの」という考え方がある点については若干気になる。そうした視点は随所にあって、例えばこんな一節がある。

「女性は相手の地位や年齢にかかわらず、人間としてものが言える。部長だろうが社長だろうが、有名人だってへっちゃら。」

はたしてそうだろうか、と思うのだ。個人的な感覚としては、そうした人間は男性の中にも一定数の割合で存在している。違うのは、男性の場合はそういった発言は失言として反発されスポイルされやすく、女性の場合は許容される傾向がある、ということだろう。言う側の個性の問題ではなく、受け取る側の風土の問題なのだ。

だから駄目と言うことではないが、であればアプローチとしては、「女性のそうした強みを生かす」だけでなく、「男性が言っても許容される風土をつくる」という方向性もあるのではないかと思うのだ。

このあたりの捉え方は、どうしても男性と女性で異なってくるのだろうとは思うのだが、ダイバーシティをケアとフェアの2軸で考える場合、ケアの多くのは女性に向けられるのだろうが、フェアというのは案外男性に向けられるアプローチも多くあるのかもしれない、などと考えてしまった。

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2010年6月15日 (火)

政治家と向き合う

昨日twitterのタイムラインで「質問:政治家が主権者と向き合った事例ってあげることが出来るんですか?」というツイートを見かけて、反射的に「ちなみに主権者が本気で向きあったことは?」と返してしまったのだが、自分に限らず政治家に本気で向き合ったことのある主権者というのはどれだけいるのあるだろうか。

ニュースで騒がれる政治家でも、目立たない政治家でも、誰でも良いのだが、自分はその政治家と直接向き合おうとしている、という主権者側の意図があって、初めて政治家は主権者に向き合えるのではないだろうか。主権者が口を開けて待っていれば、政治家が向き合ってくれるなんていうのは、幻想にすぎないし、そもそもそれでは政治にはならない気がする。

もう一つは、向き合うというのは結局マスコミのようなフィルター越しでは意味がないだろうということだ。マスコミ越しに見た政治家を評して、「彼らは主権者に向き合っていない」というほど間抜けなことはない。直接会うなり、話を聞くなりして判断するのが最低限必要なことのような気がする。

まぁお気楽な政治評論をしたければ、マスコミ越しに作られた像に好き勝手言っている方が楽しいので、ようはそういうことなのかもしれないが。(自分もよくやるし・・・。)

自分が個人的に「知っている」と言える政治家は一人だけ(まだ議員ではないが)だが、少なくとも彼を見ている限り、主権者と向き合っていないとはまったく思えないし、むしろ向き合っていないとしたら自分の方だろう(それだけパワフルで、正面から対峙するにはエネルギーが必要になる)と思ったりする。


もっとも、政治家というのはそもそも意志を示す者であり、主権者に向き合っては意味がないという考え方もある。主権者の思惑を実現していくのが政治家の役割ではなく、一定の意志を示した上で、主権者がどの意志を「選ぶ」かが、政治の役割かもしれないからだ。

そうであれば、なおのこと主権者の側に向き合う(そして選ぶ)必要性があるということだろう。

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2010年6月14日 (月)

iPad + Evernote

週末にイベントが重なって、iPadでメモをとる機会に恵まれた。同期が簡単なEvernoteを使用して、聞いた内容のメモを作成する。

キー配置にもう少し慣れる必要はある(特に記号関係)が、結構使える。逐次入力はさすがに厳しいが、HT1100 + RBK2100BTJの組み合わせとはそれほど遜色がない。一番大きいのは、いざとなれば膝の上でも可能なことだ。HT1100の場合、本体とキーボードが別々だから、机がないと少々辛いのだが、iPadであれば、机がないようなセミナー会場でもメモがとりやすいということになる。(そういう会場では手書きでもメモがしにくいため、なおのこと役に立つだろう。)

一方で、まだ通信環境が整っていないので、作成してすぐにどこかに送るということは難しい。たまたまだが、直後から自宅の無線LANが不調になり、Evernoteに入力した内容を同期&送信できたのは今朝のことだった。通信環境を整えれば問題ないのだが、そのためには少々投資とHT1100を切り捨てるという選択が必要なので、そこまでするかどうかは、正直なところまだ迷いがある。

とはいえ、iPadをより活用していくことを考えれば、どこでもつながることができるようにするのは避けられない。だったら3Gモデルにすればよかったじゃないか、という話ではあるのだが、iPadの通信環境確保のためだけに、さらにもう一回線契約を増やすのはさすがに無駄というのが正直な感覚だ。どんな状況でも手の中で使うiPhoneに、内蔵された通信機能は必須(だからiPod touchという選択肢はない)だが、iPadの使用場面を考えると、内蔵しておくほどの必要性は感じられない。

一方で、ではPocketWiFiにするかと言われれば、それも回線の追加ということには変わらないので、本当にそこまで使うのか、という気がする。

そんなわけで検討しているのは、HT1100の機種変更で回線を増やさずに済む、アクセスポイント機能を備えたdocomoの携帯という選択肢なのだが、今のところN-04B以外の機種選択肢がない。近々F-06B(だったかな)も出る予定なのだが、決めあぐねているというのが実情だ。

まぁそうやって悩むのが楽しいということもあるので、少し引っ張っても良いのかもしれないが、さっさとiPadでどこでもメールが打てるようにしたいということもある。もう思いきって決めてしまっても良いのかもしれない。

HT1100 + RBK2100BTJのキータッチも捨てがたいんだけどねぇ・・・。

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2010年6月11日 (金)

iPadと過ごす一週間

twitterでは呟いたのだが、iPadが手元に来て約一週間。意外を通り越してほとんど使っていない。多少の設定をして、一応持ち歩いてはいるのだが、実質的に鞄の重りとなっているのは確かだろう。

もっとも、元々何か具体的な活用イメージがあって購入した訳ではない。現物を見る前に予約するというのはそういうことだ。だからぼちぼち利用イメージが湧いてくれば良いのだが・・・。

今のところ、即効的に使えそうなのは(先日も書いたような気がするが)オケのチラシやプログラムなどの校正だ。仕事がらみではCSRレポートを持ち歩くのにも使える。通信環境を整えないとメールなどは出来ないのだが、考えてみたら校正した内容をメモして(メールで)送るのは、iPad以外の機器で行う必要があるわけで、そういった意味では通信は絶対ではないような気もしてきている。もちろん繋がるにこしたことはないのだが。

そんなわけで、今日はブログを書くのは早めに切り上げてチラシのチェックをするのだった。「できる」と「する」は違うからね。

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2010年6月10日 (木)

企業ブログのやめ時

昨日会社でやっているブログについて話を聞かれる機会があり、自分なりに始める前に考えておかなければならないことなどを考えてみた。
(実際には3月に講演した時の内容とそんなに変わらないのだが。)

個人的に企業ブログで一番考えておかなければならないことは「やめ時」だと思っている。始める前からやめることを考えるのはなんだか変な話だが、個人のブログのようにある程度無責任に更新停止しても問題ないものと違い、企業ブログは始まる以上に終わり方が重要だ。個人であれ企業であれ、いつかは終わるわけだから、そのことは事前に考えておいた方が良い。

ようは「何を達成したら終了するのか」という目的を明確にしておく必要があるということでもある。そこまで明確ではなくても、区切りのようなものがどこにあるかは考えておいた方が良いだろう。続けながら考える方法もあるが、これはかなりしんどい。

やめ時という考え方に抵抗があるのであれば、オチと言い換えても良いだろう。ブログ全体をひとつの物語と考えた場合の、最後のオチは何か。論文であれば結論は何か。それがある程度でも意識できているのと、そうではないのとでは、そもそも書き手のプレッシャーや目的意識からして変わってくる。

もっとも、そういった意味では今自分が手掛けている会社のブログは、まさに「オチなし」状態で進んでいる。めざしている一定の方向性はあるが、ゴールはない。地平線の彼方にドリブルをしているようなもので、そのドリブル自体がある種の目的であるため、ゴールがないのだ。

もちろん書き手次第では続けることはできる。これは能力というよりは個性の問題で、自分の場合はこのブログのようにたいした目的がなくても、書き続けること自体にモチベーションを持たせることができる。

ただ、これはおそらくまれな話だ。そもそもビジネスで何かをする場合に、そんな風にゴールが曖昧で良いというのは、かなり問題がある。それを受け入れているのは会社の度量かもしれないが、普通に考えればありえないし、多くのビジネスパーソンはそんな状態には耐えられないだろう。特に後任として会社から「与えられたミッション」の場合は。

そんなわけで、最大の問題は自分が担当でなくなり、引き継ぎをする時なのではないかと思うのだった。

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2010年6月 9日 (水)

iPhone4

iPadを購入したばかりだというのに、世間はiPhone4の話題に満ちているのだった。

iPhoneを使い始めて1年ほど。正直に言えば、たいして使いこなせていないのだが、一方でレスポンスなどには不満を感じ始めている(3Gだし・・・)。

もっとも、先日書いた通り、iPadに感じる快適性は、このiPhoneとの比較によるところも大きい。へたに新機種にしたら、iPadへの不満がすぐに噴出する、なんてことになってしまうかもしれない。まだたいして使ってもいないのに、それは悲しい。

新機種には魅力を感じつつ、そもそも自分にとってiPhoneという端末はどういう存在なのか、と考えてみる。特にiPadが存在することによってどのように変わるかだ。

そうして改めて考えてみると、自分にとってiPhoneに感じる他の携帯にはない魅力は、「通信可能なiPod」なのではないかという気がしてくるのだ。「音楽が聴ける携帯」ではない。音楽プレーヤーとして快適な操作性(転送なども含む)を提供しつつ、聴きながらメールのチェックや電話の着信を逃さない、という一体感が重要ということだ。

特にここしばらくは移動中に音楽を聴いていることが増えたので、なおのことそう感じるのかもしれない。通信自体はたいしてするわけではないので、携帯としての機能はそれほど高機能である必要はない。一方で、たまにしか通信しないから、なるべくならそれを逃してしまったということは避けたい。両者が別々の端末ではそれは解決できないし、携帯としての機能が高くても、音楽プレーヤーとしての機能が使いにくければこれもダメだ。

そうなると、そもそもiTunesと同期可能なデバイスとして、iPhone以外の選択肢はないということになる。音楽プレーヤーとしての快適性というのは母艦とセットになっているし、Macを使う以上、他に選択肢はないということになる。

・・・完全に取り込まれている。

一方で、取り込まれているから、あれこれ考えなくてよい、ということはある。正直なところ、「どんなプレーヤーが良いか」なんて考えるのが面倒くさいということもある。

ただ、最近こうした「考えることが面倒くさい」傾向が出てきていて、これは少々問題なようにも感じている。AかBかで比較して考えるのではなく、○か×かで、感覚的に判断しているだけのような気がしているのだ。

さて、iPhone4は○か×か。いやいや、ここはせめて、3Gか4かという比較で考えなければ・・・。
少なくとも、今考えうる求める要件は、3Gでも十分満たしているわけで、特に新しい何かが生まれない限りは、当面不要ということなのかもしれない。
(どちらかというと、その前にiPad用にアクセスポイント機能を備えた携帯が欲しかったりするのだった。PocketWiFiだと新規購入で純増になってしまうので、HT1100をN-04Bなどに機種変更するというのが、ベターな選択肢だとは思うのだが・・・。)

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2010年6月 8日 (火)

Walk the World

今週は府中の練習を休んだのだが、昨日のエントリーを見ると、まるでiPadのために休んだようにも見えてしまうため、一応何をしていたかなど・・・。


半分は仕事がらみなのだが、日曜日は横浜で開催された「Walk the World」というイベントに参加してきた。横浜市内を歩いて、飢餓に苦しむ子どもたちを救おうというイベントだ。

仕組みとしては特に複雑ではなく、ようは参加費の一部が寄付になるというもの。こうしたイベントと組み合わせた寄付というのが、最近は増えてきている。

以前CSR日記で書いたのだが、こうした寄付の仕組みには若干批判がつきまとう。一番シンプルなのは、一部を寄付金に回すぐらいなら全額寄付をすればいいじゃないか、というもの。

まぁその意見はごもっともなので、そうした人にはぜひ全額を寄付して欲しいと思うのだが(Walk the Worldにも、寄付だけのエントリーがあるし、もちろん直接寄付もできる)、そもそもこうした寄付システムは、そういった形では寄付をしない(しないことが悪いわけではない)人たちにも寄付をしてもらうことを目的にしているのであって、寄付をしたい人たちの受け皿ではないのだから、批判としては的はずれであることは少し考えれば分かることだ。

もちろんそうした場合でも、寄付以外の運営費にコストがかかりすぎじゃないかとか、使途の透明性をもっと高めろとかいった批判はあって良いだろう。今回の場合、参加費1000円の内の500円が運営費、500円が寄付なのだが、運営費を下げて寄付額の比率をあげるための努力はもっとなされて良いはずだ。(個人的には、エントリーの方法が限定されていて、その手数料がそこそこしてしまうのが気になったが、少ない人数で数多くの参加者をさばくには仕方ないのかもしれない。)

ただ、いずれにせよ寄付に伴うコストというのは、0にすることはできない。寄付金の一部が団体の運営費に回っているなんて聞くと、「だまされた」などと騒いだりする人もいるのだが、額の大小はともかく、そうしたコストを否定してしまうのは考えもので、自らの寄付を全額支援に回して欲しいという希望は、伴うコスト負担を相手に押し付けて自己満足に浸りたいだけと言われても仕方ない。
(もちろん、団体の側では最大限支援に回るような工夫が求められる。その工夫が足りない、といった指摘はもっとあげても良いだろう。実際のところ、そうした部分を構成員のマンパワーで無理矢理埋めているように見受けられる団体も少なくない。)

さて、肝心のイベントの方なのだが、10kmを歩くコースにエントリーして、スタート地点の臨港パークから、赤レンガ倉庫、山下公園、港の見える丘公園、イタリア山庭園、横浜球場、歴史博物館、汽車道、けやき通りなどを歩いてきた。競技ではないので、もう少しのんびりと散策的な歩き方をしても良かったのだが、そこは少しでも早く帰ってiPadを受けとりたかった・・・という気持ちがなかったと言えば嘘かもしれない(笑)

気になるのは1日おいた今日でもまだ筋肉痛が出ていないことで、このまま出なければ良いのだが、明日あたりに出たら結構ショックだったりする・・・。

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2010年6月 7日 (月)

iPadについていくつか

昨日ようやくiPadが届いたので、少しだけ使ってみてのまずは感想など。

1.重い
やはり重いというか、片手に持って気軽に、というのはちょっとつらい。同時に買ったケースにいれたせいもあるだろうが、ある程度は置いて使う(膝の上なども含めて)ことになるだろうなとは感じた。
もちろん、短時間であれば問題ないが、ブラウジングならともかく、片手でホールドして、もう一方でキー入力というのは、せいぜいできるのはユーザー名とパスワードの入力ぐらいだろうか。

2.大きい
想像以上に画面が大きく感じられる。これは利点。あるいは、iPhoneと同じような気分で比較をしてしまうからかもしれない。iPhoneと比較すれば、それは大きいよ・・・。

3.速い
これもついついiPhoneと比較してしまうのだが、表示などが速くてかなり快適に感じる。3GではなくWiFiで通信をしているし、iPhoneも3GSではなく3Gとの比較だからということもあるだろうが、案外この「差」が、より快適性を感じることに繋がっているのかもしれない。
(そういう意味では、iPhoneは次の世代が出ても買い換えなくてよいかもしれないw)

電子書籍、として見たわけではないが、少なくともドキュメントリーダーとして考えた場合、使いやすいのは間違いない。個人的にすぐに使えると思ったのは、オケのチラシやプログラムの校正だ。PDFや画像ファイルで回ってくるが、iPhoneで見るには小さすぎるし、パソコンで見るには自宅で時間が確保できない。
ところが、iPadのGoodReaderにおとしておけば、空き時間に確認ができる。これは大きい。(早速チェックする必要のあるチラシをおとしてある。それで安心したらダメではあるが・・・。)

同様の使い道として、仕事であれば自社他社のCSRレポートを入れておくという使い方があるだろう。最近読まなくなっているのは、冊子だと持ち歩きにくく、パソコンでは開くのが面倒くさいというのがあったのだが、iPadであればこれまた隙間の時間を活用できる。

その他にも、PDFをさっと見られる形で持ち運べるのは利便性が高い。社内資料を入れるわけにはいかないが、外部の資料で読んでおきたいものは(でも会社では読む時間を確保できず、後回しにしてしまうものは)結構あるのだ。

それから写真だろうか。

個人的には写真はiPhoneなどの携帯デバイスで撮れば十分、と考えていたのだが、iPadで写真を見ていると、もっとしっかりとしたカメラで写真を撮りたくなってくる。「アルバム」的な要素が強くなるからだろう。

もっとも、こちらについては一時の熱ということも考えられる。そもそも普段写真を撮ろうと考えることはほとんどないからだ。(だからこれまでは携帯デバイスのカメラで十分だったのだ。)
撮る気も習慣も機会もないのに、うっかりカメラを買ってしまえば、無駄物買いになりかねない。


さて、今後考えていかなければならないのは、通信に関する部分なのだが、こうして挙げてみると、とりあえず通信以外の機能が使い方の中心になってくるんじゃないか、という気もしてくる。
もちろん、最終的にはブログの更新などにも挑みたいのだが、そこはもう少しキーボードなどに慣れてからでも良いだろう。そもそも昨日はユーザー名とパスワードの入力ばかりで、USのキーボードしか使ってないしw

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2010年6月 1日 (火)

反対とは対案を示すこと

沖縄米軍基地の辺野古への移転の問題で、民主党の福島党首が罷免され、鳩山首相への批判が強まっている。

別に弁護をしようとする気はないのだが、少し気になることがある。

反対派の鳩山批判は、移転を受け入れる免罪符になっていないか、ということだ。厳しい見方をすれば、反対派は、鳩山批判を強めることで、自分達の責任を回避しようとしていないか。そんな気がしてしまうのだ。

反対派が果たすべき責任とはなんだったのか。それは「反対!」と叫ぶことではない。それはたんなる無責任な意見に過ぎない。必要だったのは辺野古移転案を上回る移転オプションを提示することだ。

そういった意味では、再三「グアム案」を口にしながら、それを実現可能かつ比較検討可能な対案として示すことができなかった社民党と福島党首の責任は極めて重い。野党時代ならともかく、与党の一角であったのならなおさらだろう。閣議で署名を拒否して、まるで自分達には責任がないと言わんばかりだが、そうではなく、今回の移転における最大の「戦犯」でもあるのだ。

もちろん同様の責任は民主党や鳩山首相にもある。鳩山首相の能力不足が問われるとすれば、それは自民党時代に作られた辺野古移転案を上回る政策を提示できなかったことだ。日本に米軍基地は不要というオプションも含めて、議論に足るだけのアイデアを提示できなかった責任は問われてよい。

が、首相の最大の役割はアイデアを出すことではなく、最終的に決めることだ。そういった意味では、少なくとも鳩山首相は「決める」という責任は果たしたのであり、その事自体の責任を問うのは、少し違うような気がしなくもない。

「お前は沖縄の問題が分かっていない」と言われそうだが、確かに分かっていない。開き直るようだが、「分かっていない」と言うのであれば、「分かっている」関係者はなおのこと「反対」ではなく「対案」を示すべきなのだ。それも議論のためのアイデアではなく、比較検討のための移転案である。候補地、予算、スケジュール、地元とのネゴシエーション・・・そうした点で辺野古案を上回る案を提示できていれば、話は変わっていたはずだ。

そうした対案を示せなかった自分達の責任を、鳩山首相に押し付けてほっかむりする気なんじゃないか・・・そんなように感じてしまうのだが、どうなのだろうか。


ちなみに、「詳しくない」自分は辺野古を上回る案を提示できない。提示できない以上、受け入れるしかないと考えている。

「お前は住んでいないからそんなことが言えるのだ」と言われればその通りだが、そもそも生まれた故郷はあってもすでに家はなく、「住み慣れた土地」を持っていない身分としては、「自分達の土地から出ていけ」と言えること自体、ずいぶんと贅沢な身分階級の意見だとも感じてしまうのだ。

いやもちろん自分の力で入手した土地であれば、そう口にする権利はあると思うのだが・・・。

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