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2010年8月31日 (火)

メールの返信を早くしたい

せっかくiPhone&iPadでメールの確認と返信が素早くできる環境になっているのに、なかなかその環境を生かせていない。最低でも24時間以内、可能であれば12時間以内に返信できればかなり相手の印象も変わってくると思うのだが・・・。

特にその日の内に返信してしまうのはそれなりのインパクトがあると思うのだ。もちろん、仕事の話ではなくプライベート、特にオケ関係のメールの話である。

実際には仕事のメールですら滞ることが多い。出す前に内容について調べようとか、余計な事を考えてしまうからかもしれない。電話であればそんな考えている時間はない訳で、そういった意味では即答できる範囲内で返信すると割り切れれば良いのだが、なまじiPhoneでチェックしてからiPadで返信するまでには若干時間をおいてしまうために、ついつい余計な事を考えてしまうのだろう。

iPadの場合、返信作業が楽な代わりに、長文もさほど苦にならないので、ついつい色々書こうと考えてしまうという事もある。

それでも、今は朝の時間が比較的余裕があるので、そこで前日分に返信するように心がけてはいる。そのタイミングを逃してしまうとずるずると遅れてしまうのが問題で、夜は意外に書こうと思っても書けない事が多い。(一体何に時間を使っているのかと感じる事は多々あるが、メールを書いてもやたらと時間がかかる事が多い。)

朝は時間的な制約があるから、逆に割り切って書けるのだろう。そのあたり、無理に夜も書こうとするより、朝のこの時間を有効に使う事を考えた方が良いのかもしれない。

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2010年8月30日 (月)

日曜日の練習と演奏会

昨日の府中の練習はハイドンの交響曲第104番「ロンドン」。楽しい。

練習中、指揮者が「聴く事は少ないけど、演奏すると楽しい曲」と言っていたのだが、確かに楽しい。
練習後、管の人間には「チェロパートは楽しそうだ」と言われたのだが、確かに楽しい。
(そういえば入団した頃、自分の弾く姿が楽しそうだと何人もの人に言われたのだが、最近あまり言われないな。見なれたから?)

ロンドンを演るのは2回目なのだが、あまり強い印象は残っていない。当時はそれほどこの曲の魅力が分からなかったのかもしれないが、以前書いたように久しぶりに弾く古典だから、ということもあるのかもしれない。

いずれにしても、とても楽しい。個人で練習していてもそれほど楽しさはないが、合奏だととても楽しい。課題を言えば、指揮者の話す和声の話などについていけていないことだろうか。多分そうした音楽(学)の話がわかるようになれば、より楽しさが増すに違いない。違いないのだが、どの様に学んだら良いかさっぱり分からなかったりする。

午後は東京ジュニアオーケストラソサエティの演奏会を聴きに行く。杉並公会堂はとても良いホールだと思うのだが、駐車場がないのが難点だ。手ぶらなら電車で行くのもそれほど苦ではないが、練習後に楽器を持って、となると結構きびしい。

ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」、チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」、シベリウスの「交響曲第2番」と、たまたまどれも弾いた経験がある曲(ロメジュリは相当前だが)だったのだが、どれも素直な良い演奏だった。大人と違って余計な雑念がないというのが、一緒に聴いていたメンバーの感想だったが、確かにそんな感じがする。シベリウスの第四楽章では途中危ないところがあったのだが、大人だったら動揺して止まりかねないところをそのまま通り過ぎていた。

余計な雑念がある所が、演奏に色気を与える大人の良ささと思いつつ、まずはしっかり弾きこなせなければ意味がない。もうちょっとしっかり練習しないとね。

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2010年8月27日 (金)

iPhoneを忘れてきた

iPhoneを家に忘れてきてしまった。

iPhone、iPad、N04Bは基本的にどこにでも持ち歩くもの(N04Bは時々忘れる)と考えていて、特にiPhoneは必帯なのだが、実は意外に忘れやすい。iPadとN04Bは鞄の中に指定席があるが、iPhoneは基本的に服のポケットが指定席だからだ。

それでも家の鍵を閉めるあたりで思い出す事が多いのだが、今日は駅についてからだった。それでは流石に戻れない・・・という訳で今日は持っていない。
メールなどはiPadでも確認できるので(最近は返信はiPadからが増えた)実際にはあまり困らないのだが、掌でそうした確認ができないことに若干不安というか落ち着かなさを感じる。特に電車の中は、普段は目にしない窓の外の風景をしげしげと眺めてしまったりして、改めてiPhoneばかり覗き込んでいるんだなぁというのを再認識してしまった。

まぁっこれはこれで良いのかもしれない。実際には持っていないことの不便も多いと思うのだが、ずーっと持ちっぱなしというのも異常だ。逆に忘れないためにも、服では無く、鞄の中に指定席を用意した方が良いのかもしれない。

ただ、音楽が聴けないのは少々寂しかった。最近鞄の中に定位置を確保したDENONのノイズキャンセリングヘッドホンが単なるウエイトになってしまっただけになおさらだ・・・。

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2010年8月26日 (木)

環境負荷は誰の借金か

WWFジャパンが「世界が日本人の生活すれば地球2.3個必要」と発表したそうだ。

http://www.asahi.com/national/update/0825/TKY201008250505.html

エコロジカルフットプリントを使った分析結果で、ちなみに全世界では1.44個必要なのだそうだ。
実はその1.44個に引っかかってしまった。

オーバーしている0.44個は誰による誰からの借金なんだろうか。

よく言われる話に、現在世代は豊かな生活のために過去からの遺産を食い潰しているという主張がある。地球全体の歴史から考えればその傾向は間違いないとは思うのだが、例えば10年前、50年前、100年前と比較した場合に、当時と今ではどちらの方が環境負荷が高いのだろう。

これも恐らく分析結果はあるだろう。100年前はさておき、ここ数十年での環境負荷の増大は激しいというのが通説だし、恐らく根拠もあるに違いない。

でも例えば、高度経済成長期の日本と、明らかに経済的には停滞している今の日本を比較して、今の方が環境負荷が高いのだとすれば、それはどういうことなのか。当時より遥かに環境対応が叫ばれ、ずっとエネルギー効率の良い生活を送っているにも関わらず、生活全体の環境負荷が高いのだとすれば、それは何故なんだろうか。

もちろん当時と今ではモノの数が違うということはあるだろう。経済が停滞しているといっても、あくまでも成長率の話で、経済規模で比較すれば今の方が大きいのだから、その分負荷が高くなるのもわかる話だ。すでにモノは飽和状態に近いし、この先10年20年と経済規模さえ縮小するようになったら話は違ってくるかもしれないが、少なくとも今の時点での過去との比較は、過去の方が負荷が低いということになる。なんとなく釈然とはしないが。

・・・うん、行き詰ってしまった(笑)

最初に感じたのは、その0.44個には、もっと言えば今の時点で負荷とされているものの中には、今の負荷ではなく、過去に発生した負荷の返済に当たる部分が含まれているのではないか、ということだった。半分がそうした負債かもしれないし、実は負債額の方が上回っていて、今の時点だけを取り出せば1個を下回るかもしれない、ということだ。

今の我々が未来に対して借金をしている状態だと想定するのであれば、今の我々も過去からの借金を抱えているということも同じように想定しなければならない。昔は借金し放題だった。今はしない様に務めようと叫ばれているが、現実にはまだ借金を重ねている。そのあたりが答えのような気もするが、なんとなく過去の借金の返済分というのも、意外と少なくないのではないか・・・と考えたくなってしまうのだ。

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2010年8月25日 (水)

捨てる仕事

仕事が一段落したせいか、若干虚脱状態。会社のブログも更新していない。今日はどうするかな・・・とも思うが、別に一休みということでも良い気がしている。

が、この虚脱状態が良くない。

例年そのために仕事へのテンションが急落してしまい、結果ほとんど何もしないブランクが生まれてしまうのだ。丁度この時期は会社の人事異動の発表があるタイミングで、自分の立ち位置があやふやになっているということもある。

しかし、異動が仮にあると仮定しても、実際に異動するまでにはまだ1ヶ月以上ある。何かをするには十分な時間だ。

というわけで、そうだと仮定してその期間に何を成し遂げて異動するかと考えてみることにする。

現在抱えている年間の大きなルーチンは3つ。異動する場合は当然これらは引き継ぎをしなければならない。異動しないにしても、次にその季節が来るまでにやっておいた方が良いことはいくらでもある。

このいくらでもあるというのが結構難問で、全てをクリアはできないので、当然何かに集中しなければならない。それは何かを捨てるということでもあるのだが、それが難しい。
(そういう意味では、残りの期間で何をあきらめるか、の選択の方が重要だったりする。)

というわけで、流石にここから先はブログに書く訳にはいかないのだった。
今日は早めに切り上げてそのために時間を使おう。

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2010年8月24日 (火)

溺れる者は藁をも掴む

少し前のメモ。

溺れる者は藁をも掴む、というが、藁を掴んだ溺れる者はその後助かったのだろうか。

ちょっと調べた限りでは、元が英語のことわざ A drowning man will catch at a straw. だということは分かったのだが、このことわざがどのような故事から生まれたのかが見当たらなかった。きちんと英語で調べればまた違うかもしれないが、少なくとも日本語で紹介されているものはないようだ。

何でこんなメモを残していたのかはっきりしないが、このことわざは多くの場合「だからうかつに溺れている人に近づいてはいけない」という助ける側の視点で語られる事が多い。ことわざというより水難救助訓のようなものだが、藁を掴む者の視点で語られる事はあまりないのではないか。

このことわざに、あきらめずに藁であっても掴まれ、というニュアンスを感じることはできるだろうか。藁だからと掴むこと無く諦めるのではなく、藁であってもあきらめずに掴む。そうやって何でもやって足掻く事が結局自らを助くることにつながる、と解釈することは可能だろうか。

多分そんなことを思いついてメモをしたのだろう・・・evernoteに(笑)

自分には、藁をも掴む覚悟はあるだろうか。何もせず諦めて溺れていくことをよしとしてはいないだろうか。

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2010年8月23日 (月)

レンタル楽器

先週末に調整のために預けた楽器だが、まずは指板を削って(いずれにしても歪みが出ているので削る必要はある)必要な角度が出るかどうか試してみるそうだ。それがうまくいけば、ネックリセットは不要になり、2ヶ月も預けずに済む。
ネックリセットは楽器にも負担がかかるので、やらないにこしたことは無いそうだし、自分としても楽器が早く戻ってくるのは助かる。

とはいえ、預けている間練習をしない訳にはいかない。練習はサイレントチェロでできても、まさかそれで合奏に出る訳にもいかない。惑星にはソロもあるし・・・。という訳で、楽器を借りてきた。今のチェロを使い始めたのは高校時代だが、それ以来、他の楽器にこれだけ付き合うのは初めてだ。(もちろん知り合いのチェロをちょっと弾かせてもらったりはある。)

まだ2日間しか弾いていないが、音の感じはずいぶん違う気がする。ただ、弦の違いもあるかもしれない。弾いた感じはソフトで、軽い力でも音が出る代わりに、力を込めても音量がでない感じがする。実際に出ていないかどうかは自分ではよく分からないのだが、込めた力に対する楽器からの反発が弱いので、本当に出ているのかな、と不安になってしまうのだ。

しかし、冷静に考えると本来はこれが正しいのではないかという気もしてくる。ゴリゴリ押さえつけて弾くのが良いとは思えないからだ。意外とこの楽器で練習することが、自分のそうした癖の矯正につながるかもしれない。

昨日は星の調べの練習にも顔を出したのだが(今回の演奏会では入団していないので、あくまで陣中見舞い)そこで弾いていても同じように感じる。惑星は正直まだそこまでの余裕はないのだが、FFTは多少なりとも自分の音を冷静に見る余裕があるということもあるかもしれない。

自分の出した音がアンサンブルにしっかり溶け込んでいると、自分の音は聴こえなくなる。
去年のオレイユの年末アンサンブルで教わったことだが、それを初めて実感した。本当に聴こえなくなるのだ。そしてそれが分かってくると、聴こえている時は、どこかに問題があることも感じられる様になってくる。

ということは、今まで自分が出していた音はアンサンブルを乱していただけか・・・と落ちこんでしまうが、それも現実だ。もっとも、今までは聴こえなくなっていてもそれに気付く余裕がなかったということはあるかもしれない。

いずれにしても、ネックリセットが無くてもしばらくはこの楽器を使うことになる。その間に少しでも自分の弾き方を見つめ直して、直せる癖は直していきたいなどと思ったのだった。

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2010年8月20日 (金)

ネックリセット

半ば強引に昨日で仕事を一段落させ、今日は休みをとっている。といっても、そのまま長期休暇とかそういったものではなく(そうだったら嬉しいが)、楽器を調整に出すためだ。休日に行っても良いのだが、職人さんとじっくり話す時間が必要らしく、ならばと休みを取る事にした。

ネックリセット、というのをお願いする事になる。一度ネックを外してあて木をかませて角度をつけるというものだ(実はよく分かっていない)。先日調整をお願いしたところ、必要という事になってしまった。緊急というほどでもないのだが、このまま放置してさらに角度がなくなると根柱(って字だっけか)が立たなくなってしまうのだそうだ。

その他駒の交換や指板の削りだし、剥がれかけたニスの塗り直しなど、色々とやってもらう事になる。預ける期間は実に2ヶ月間。かなり長い。

それだけの期間楽器なしという訳にはいかないので、その間はレンタル楽器で練習する事になる。一応貸してもらえるそうだ。

さて、どうなって帰ってくるのだろうか。低い弦の響きがシャープになるだろうということは言われた(そう思って注意してみると、確かに低い弦は音の輪郭がぼんやりしている)のだが、少し楽しみだったりする。

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2010年8月19日 (木)

鞄の中のほぼ日手帳

鞄を手持ち型に変えたのだが、床に立てて置けるようになった代わりに、少々重くなった。
こうなると、鞄の中身を整理しようという気になってくる。

徐々にiPadを使うようになってきている事もあり、第一に考えたいのは、ほぼ日手帳をどうするかだろう。というか、それ以外はほとんど鞄の中には入っていない。いや、細々とした書類とかはあるか・・・。

ここしばらくほぼ日手帳は使っておらず、開く事もなくなっている。そういった意味ではすでに単なるウエイトと化しているのだが、一方で紙の手帳の類いをまったく持ち歩かないというのも不安があるのだ。実際紙にメモをする事はないだろうという事は(仮にする場合でもそれがほぼ日手帳でない事は)想定しつつも、どことなく不安を感じてしまうのは、長い間持ち歩いていた習慣のなす業だろうか。

いざという時のメモといえば、先日会ったNGOの人はメモする事があると自分の名刺を取り出してそこにメモをしていた。最小限の備忘メモであれば、確かにそれで十分かもしれない。会社の名刺は若干メモできる余白が少ないのだが、例えばそうした名刺サイズのカードを忍ばせておけば、後はペンがあればメモが取れる。

セミナーなどで長いメモをする時は当然iPadを取り出して使うので、ようはちょっとした記録ができるものがあれば良いのだ。

・・・というのは理屈で、そういった小さいメモもiPhoneでとるという事も考えられるのだから、ほぼ日手帳を鞄に入れておくというのは、そうした理屈で割り切れる話ではないのかもしれない。

「たまには手書きもしなければ」みたいな感覚もあるのだろう。

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鞄の中のほぼ日手帳

鞄を手持ち型に変えたのだが、床に立てて置けるようになった代わりに、少々重くなった。
こうなると、鞄の中身を整理しようという気になってくる。

徐々にiPadを使うようになってきている事もあり、第一に考えたいのは、ほぼ日手帳をどうするかだろう。というか、それ以外はほとんど鞄の中には入っていない。いや、細々とした書類とかはあるか・・・。

ここしばらくほぼ日手帳は使っておらず、開く事もなくなっている。そういった意味ではすでに単なるウエイトと化しているのだが、一方で紙の手帳の類いをまったく持ち歩かないというのも不安があるのだ。実際紙にメモをする事はないだろうという事は(仮にする場合でもそれがほぼ日手帳でない事は)想定しつつも、どことなく不安を感じてしまうのは、長い間持ち歩いていた習慣のなす業だろうか。

いざという時のメモといえば、先日会ったNGOの人はメモする事があると自分の名刺を取り出してそこにメモをしていた。最小限の備忘メモであれば、確かにそれで十分かもしれない。会社の名刺は若干メモできる余白が少ないのだが、例えばそうした名刺サイズのカードを忍ばせておけば、後はペンがあればメモが取れる。

セミナーなどで長いメモをする時は当然iPadを取り出して使うので、ようはちょっとした記録ができるものがあれば良いのだ。

・・・というのは理屈で、そういった小さいメモもiPhoneでとるという事も考えられるのだから、ほぼ日手帳を鞄に入れておくというのは、そうした理屈で割り切れる話ではないのかもしれない。

「たまには手書きもしなければ」みたいな感覚もあるのだろう。

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2010年8月18日 (水)

黎明期のメディア

昨日ふと思ったのだが、新聞というメディアは、最初から今のような信頼を勝ち得ていただろうか。良く言われる「ネットの情報は信用できない」という議論だが、意外と新聞も誕生した当初というのは今のネットの情報と同じような評価だったのではないだろうか。

だとすれば、今の新聞の信頼性を支えているのは、紙という媒体ゆえのものではなく、信頼を獲得していくための先達の血のにじむような努力の積み重ね、歴史ということに他ならない。

そしてそうした認識があれば、うかつに「ネットの情報は信用できない」とは言えない気がする。特に既存メディアに「乗っかっている」者であればそうだろう。先達の努力の恩恵にあずかる者が(もちろん守っていくための努力はあるだろうが)、これから切り開いていこうという者を見下すような発言をする事は、自分自身や先達の努力を蔑むようなものだからだ。

もちろんそうした歴史の自覚がなく、既存メディアの信頼性が何によっているかを考える事がなければ、平然と口にする事ができる。あるいは、そうした発言が携わる者から出てくる事自体が、既存メディアの衰退を表しているのかもしれない。

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2010年8月17日 (火)

休みボケ

たいして休んでもいないのに休みボケというのも変な話だが、昨日に続いて今日も他愛もないことしか思いつかない。休みボケというより、暑さボケかもしれない。

まぁそんな時は無理に何かを書こうとしても苦しいだけなので、諦めることにする。そういう時にあえてゆるさを保つのも続ける工夫の一つだ。

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2010年8月16日 (月)

お盆休み

やすみといっても、会社は個人ごとに設定するため、今回は特にお盆に絡めた休みというのはとっていないのだが、オケの方は(数少ない)休みのため、今週は少しゆっくりすることができた。

もっとも、譜読みを急がなければならない時期なので、実際には練習もしている。そういう意味ではあまり充電期間のようにはなっていない。そもそも「・・・ねばならない」と考えてしまう時点で、趣味としてどこか間違っているような気がしなくもない。

こういうことを考えてしまうのは、発想がネガティブな時期に差し掛かっているからだろう。時々そういうことがあって、演奏会の直前にくることもあれば、直後の場合もある。以前は3ヶ月ほど休止を宣言して休んだこともあったが、実はあまりリフレッシュといった効果はない(ので、それ以降はやっていない)。

まぁ今週仕事が一段落すれば少し心根も変わってくるだろう。それに今週末には楽器をメンテナンスのために預けなければならない。しばしのお別れだが、戻ってくる時が楽しみだ。

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2010年8月12日 (木)

協調性を持てという話

昨日、以前インタビューを受けた縁で、学生インターンのインタビューを受けたのだが、最期に「これから就職する自分達へのアドバイス」などというたいそうな質問をもらってしまった。
あまり人にアドバイスできるような社会人生活は送っていないんだがな・・・。

仕方ない(?)ので、協調性の話をする。

以前にも何度か書いたような気がするが、協調というのは「意見の異なる者同士が協力して一つの事に取り組む事」を言う。もちろん意見は同じでも良いのだが、同じである必要はない。ここが大きなポイントだ。

一般的に「あいつは協調性がない」というのは、意見が合わない奴のような捉えられ方をする事があるが、それは違う。意見を合わせるのは協調ではなく同調である。そして「あいつは同調性がある」はおそらく褒め言葉ではないだろう。

だから、別に会社や組織に考え方まで合わせる必要はない。自分の意見や考えは持ちつつ、一つの事を成し遂げるために協力しあえるかどうかが大切で、そうした(考えではなく行動の)妥協点を探せるようになって欲しい・・・みたいな話をとりとめなくしたような気がする。
(少なくともここまでまとまってはいなかった。)

で、今朝考えてみるとこれには続きがあった。

「あいつは協調性がない」という人間は、自分は協調性がないことを白状しているに等しい可能性があるということだ。

協調というのは、互いの妥協点という落とし所に生まれる。「あいつは協調性がない」というのは、相手ではなく、自分が妥協していないということかもしれない。少なくとも、そういった認識があれば、気軽に「協調性がない」なんて一方的な評価はできないはずだ。

そういった意味では、協調性がないなんて評価を気にする必要はない。もちろん、決め事やルールは守るべきだが、空気から生まれる協調というのは、実は同調が求められているだけなんて可能性もある。和を乱さないというのも時には大切だが、組織に属するというのは、その考えに同調することではなく、行動していく上での協調点を探すことであり、その過程で変わる必要があるのは、実は組織の側かもしれないのだ。

もちろん、同じ考えであれば、それはそれで幸せなことだし、そうした組織を見つけるのも一つの考え方だが、そうではない道もあるということは知っておいて欲しいかな、と思ったのだった。


・・・若者に偉そうに講釈たれるようになったら、おっさんだよな、などとは思いつつ、まぁ年齢的には十分おっさんだからね・・・。

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2010年8月11日 (水)

社会活動へのリターン

昨日自社のCSRについてヒアリングを受ける機会があり、久しぶりに頭を使った(笑)のだが、その中で、「企業が社会貢献する際のリターン」についての話があった。

社会貢献活動に対するリターンを考えるのは難しい。これは「良いことだから対価を得るのはいやらしい」といった感情面の問題だけでなく、もう少し根本的な構造の問題があるような気がする。

社会問題の解決のための投資というのは、Give & Take をベースに考えるのではなく、Give & Give というか、Pay it forward をベースに考えなければならないのではないか、と感じるからだ。

通常の経済活動は、商品やサービスの提供とそれに対する対価という二者間の取引で成り立っている。このパラダイムで考える限り、社会問題を解決するための投資というのはその正当性を(社会倫理上はともかく経済活動としては)説明できない。サービスの受益者がリターンをすることができないからだ。

リターンができればそれは経済活動になる。受益者がリターンができない、という大前提が、そもそも経済活動ではなく社会問題への投資だという証明でもあると考えれば、できるわけがない。

ただ、経済活動には広告モデルのようなもう少し複雑な取引関係もある。これをさらに拡大することで説明することはできるかもしれない。現在リターンができない受益者層が、投資によりリターンできる様になることは、将来の市場の拡大につながるからだ。実際、著名な企業の社会貢献活動はそうした「未来に対する投資」という要素が強い。リターンを得るためのスパンを通常の経済活動の場合よりも遥かに長く捉えることで、そうした投資が可能になる。

例えば、貧困に対する支援というのは、未来への投資として非常に分かりやすい。貧困層の経済的自立の実現は、新たなマーケットの創出でもある。特に貧困に直面する個人ではなく、貧困に生み出す社会システムの変革に対する投資というのは、極めてリターンをイメージしやすい。もっとも、これが暴走すると社会システムの混乱につながる部分もある。

そういった意味では、こうした投資は慈善活動のようなものとは一線を隔する部分もある。非常に冷めた見方をすれば、アメリカによる資本主義の輸出だって、そうした投資の一種ではあるのだ。
(実際、国際協力NGOの活動の多くは、先進国の文明を途上国に輸出するという側面があるのは否めない。これは社会の発展が一直線で定義される中での取り組みだからだ。)

一方で、そうした将来的なリターンをさえ望めない社会問題というのもある。残酷なようだが老人介護や障害者支援というのは、特に自立が望めない層についてはそうした「リターン」では非常に捉えにくい。

そこでそうした層に対しては公的な、つまり行政による支援が重視される必要がある。それはそれで良いのだろう。善意で上乗せされる要素はあっても良いが、最低限の部分は必要だし、なんでも一つの捉え方で解決ができるわけではない。

とまぁ色々と考えさせられたりしたのだった。

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2010年8月10日 (火)

演奏会終了

アンサンブル・オレイユの演奏会が終了。今回は諸事情により練習への参加回数が少なかったのが大きく響いてしまった。個人練習の不足は相変わらずの課題だが、合奏への参加回数が少ないとどうしても曲の感じがつかめず、流れに乗りきれない。

もっとも、翌日の府中の練習も含めて、そもそも個人の練習の絶対量が足りないというのが根本的な原因ではある。合奏の回数を重ねればできるようになるというのは、その場で個人練習をしているようなものだからだ。府中の練習ではその点を厳しく指摘されてしまった。

そんなこと言っても時間が・・・というのは言い訳で、毎週欠かさず前日にスタジオを借りて2時間練習をして参加をしているメンバーもいる。ようするに自分の場合はそんな覚悟が足りないのだ。

ただ一方で、覚悟が足りないと書くのは簡単だが、実際に行動につなげるのは難しい。なんらかの強制的な枠組みを作らないと自分の場合は無理だろう。そういった意味では、練習場所を借りてしまうというのは確かに効果的だ。借りるには事前に練習をやると決めなければならない。そして借りてしまえば、その予定から逃れられない。

実はそういう「予定を組む」ということをあまりやらない甘えがあるのかもしれない。スキーも行くのを事前に決めるわけではなく、前日に行こうと思えば行くし、当日でもなんとなく気分が乗らなければ行かなかったりする。万事がそのような感じで、その場の感覚や勢いで決めてしまっているのだ。

時間割でガチガチに自分を縛る、とまでは言わないが、先の予定を決めてその予定にそって行動する、ということをもっと意識した方が良いのだろう。予定通りの行動というのは、行動としてはあまり楽しさがない(自由がない)ようにも感じられるのだが、その自由は予定を組む段階で行使し、満喫するようにすれば良いのだ。

そういう意識変革をしていかないと、正直仕事の方も回っていきそうになかったりする。

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2010年8月 6日 (金)

スキャナを購入してみた

昨日は休みをとって、最後の追い込みの練習。暑さで集中力が徐々に失われる中で、どの程度身についたかは分からないが、泣いても笑っても後は明日本番当日しかない。

それにしても今回は練習に出席できなかった。やむなき事情とはいえ、反省。

一日中練習するのはとても無理のため、午後はのんびりブラブラしていたのだが、ふと思い立って衝動的にスキャナを購入してしまった。以前から欲しいとは思っていたのだが、踏み切れずにいたのだ。

これで少しでも身軽になれると良いのだが・・・もっとも、スキャナを利用する上で最大のハードルは、「読み取り作業が面倒くさい」点にあると思うので、スキャナを買っただけで物事が変わるわけではない。

さて、一日休むとその歪みが仕事に出る。今日はそれを挽回しなければ。

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2010年8月 4日 (水)

他社のCSRレポートを読む

昨日書いたように、早速i文庫HDに他社のCSRレポートを入れてみた。選別なしに一気に入れてしまったので、ボリュームがありすぎてちょっと気が滅入る。読むと決めたものだけに限った方がよかったかもしれない。

ここしばらく、他社のCSRレポートは読んでいない。読む時間がない、といえば言い訳のようだが、むしろモチベーションがないというべきだろう。自分は何のために読むのだろうか・・・などと考えてしまったりする。自社の参考にするため、ではあまり理由にならない。

もちろん、参考にすべきことはあるのだが、それはレポートの作成というステップではなく、その前の活動段階での話だ。そのあたりについては、最近やることがない。やる必要がないわけではなく、できる事がないのだ。

ただ、自分でそうした壁を作ってしまっては前に進めなくなる。結局自分から役割を作り出すという意味では、こうした他社のレポートから自社の活動に生かせる部分をフィードバックしていく、ということも重要なのだろう。そこにいまいち自分なりのモチベーションを見出せないのは、現時点ではやむを得ないにしても、環境のせいにしてはなにも始まらない。

遅れに遅れていた自社のレポート作成もお盆前には一段落させたいし、それが終わったら次に向けてそうしたことを考えていく必要があるのかもしれない。

・・・人事異動がなければだけどね(笑)

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2010年8月 3日 (火)

iPad on Business

大木さんの iPad on Business を購入。ムックの様な装丁で、帰りの電車で(流し読みだが)一気に読んでしまった。
なるほどと考えさせられる部分もあったのだが、さて、自分の場合はどうだろうか。改めて冷静に考えてみると、バリバリ使うのは結構難しい。

第一章で真っ先に書かれている様に、iPadには限界がある。これは良い意味での制約なのだが、仕事の大半がオフィスで完結している自分のような場合、iPadが活躍できる場面自体が少ない。そもそも会社ではモバイルパソコンさえ使っていないのだが、それが仕事の内容を物語っている。

セキュリティ上の制約もある。現実問題として、会社のデータをiPadに入れて持ち歩くという使い方は会社のシステムポリシー上できない。無理矢理やっても良いが、気がひける。クラウドのサービス自体使う事ができない(個人レベルではできる)のは、経営側の課題と言えば課題だが、これに手を出すのはすぐには無理だ。

しかし、無理だ無理だと言っても始まらない。大木さんが書かれている様に、そうした制約の中で、どうワークスタイルを変えていくか、ということが重要だろう。仮に「会社の仕事」という領域での活用は無理でも、オケ等で使っていく方法もある。実際、家に帰らなければ出すのがしんどかったメールの返信も昼休みにできる様になっている。

まずは、四六時中使うようにしてみることだ。そもそも、打ち合わせなどにiPadではなく紙の手帳を持っていく時点で敗北(?)している。余計な注目を浴びたくない、ということはあるのだが、そういった場面で当たり前のように使えなければ、仕事に使えるわけがない。もっとも、実際にメモを打つとなると、ずっと画面を覗き込むことになってしまいそうで、それはそれで問題なのだが・・・。(セミナーとかは良いのだが、打ち合わせは普通のパソコンでも使うのは難しい。)

後はやはり資料だろう。会社内部の資料はもちろん持ち歩けないが、外部の情報であれば問題ない。i文庫HDの本棚に会社案内を入れておく、という使い方が紹介されているが、自分の場合であれば、各社のCSRレポートを入れておく、という使い方がある。実はGoodReaderでは見た目がさみしいなどと贅沢なことを感じていたのだが、i文庫HDであれば、まさにライブラリという感じで使うことができる。

とは言うものの、もう少し使い方の幅を広げたいのも確か。まぁそれも持ち歩く中で思いついてくるのだろう。ほぼ日手帳の使い方だって、持ち歩く中で決まっていったのだから。

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2010年8月 2日 (月)

古典を弾く

昨日の府中の練習は、次回定期に向けてハイドンの104番。以前一度演ったことがあるとはいえ、まったく事前の練習なしで臨んでしまった。楽譜自体はシンプルなので、それでも大体はついていくことができる。来週のホルストの惑星など、近現代の曲ではそうはいかない。

古典はごまかしがきかないので難しいという意見もあるが、近現代の曲でも「ごまかしてはいけない」と考えれば、その部分での難しさは一緒だ。楽譜を追いかけるのが精一杯で考える余裕がなくなってしまう近現代の曲に比べると、余裕ができる分、古典の方が簡単という捉え方もある。ただし、その余裕をフルに使いきって音楽に集中しなければ、良い演奏にはならない。

それにしても、久しぶりにがっちり弾く古典の曲は楽しかった。前回定期でも序曲でモーツァルトを演奏したが、交響曲にはまた別格の楽しさがあるような気がする。そういうのを専門で演っているオケとか探してみようか、などと考えてしまう。

昨日の段階ではまだ楽譜を読むという状態だったのだが、何度かさらえば、楽譜に書かれていない部分に意識を振り分けることができるようになるだろう。そこからが楽しいのだが、正直に言えばここしばらく演奏していた曲にはそこまでの余裕は生まれなかった気がする。

もっとも、もう1曲のことを考えると、こちらの曲にそこまでリソースを割けない可能性もある。特に個人で練習する時間はそういうことになるだろう。そういった意味でも合奏に集中して臨む事が重要になってくる。昨日言われた事は何だったか。感じた事は何だったか。そうした事を反芻しながら、イメージトレーニングをしていく事が大切かもしれない。

しまった。今日は楽譜を持ってくるのを忘れてしまった・・・。

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