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2010年9月 3日 (金)

エコのための工夫と知恵

昨日はtwitter気を取られてブログの更新がおろそかになってしまった。ネタが思いつかなかったともいうが・・・。
そんな中で、ちょっと気になるツイートを見つけた。RTをするには少々言葉足らずになってしまう気がしたので、ちょっと書いてみる。

問題のツイートはこちら。

利便性を追求するとエコでは無いですよね、多少不便な方が人間は工夫したり知恵を使ったりするので良いと思います。 http://twitter.com/tsutun/status/22748716551

最初に反射的に思ったのは「いやいや、工夫したり知恵を使ったりするのは、そもそも利便性を追求するためですから」というもの。不便を解消するために知恵を絞るのだから、それはつまり利便性を求めるということだろう。

そういった意味で矛盾しているのではないかと思ったのだが、一方でこの手の主張はよく見かけるような気もするのだ。利便性の追求がヒトを堕落させたり、環境に負担をかけるといった類いの主張は、なんとなく首肯しやすいのではないか。

不便な状態が工夫や知恵を生むのは確かだ。だが、それは不便という状況が生み出すものではない。工夫や知恵が生まれる動機は、その不便を解消し、利便(便利?)でありたいというヒトの心の中にある。便利であることは確かに工夫や知恵を生まないかもしれないが、それも現状に満足し、環境を受容するというヒトの心から生じるもので、便利であるという環境が生むものではない。

それで少し気になってしまったのが、現在の「エコ」を取り巻く主張が、そうした「満足と受容」求めるものになっているのではないかということだ。先日紹介した地球何個分の生活と言う時、我々は無意識に「地球1個分の生活に満足し受容しよう」と考えていないか。

しかし、そこで地球1個分の生活というのがどういうものか、我々はしっかり想像しているだろうか。申し訳ないが、個人的にはそうした生活には満足も受容もできない。世界にはそうした人達が大勢いる?では彼等にその生活を受け入れろと言うのか。彼等にも自分達のような生活ができるようになってもらいたい、と思ってはいけないのか。そのためにこそ工夫と知恵が求められるのではないか。

利便性を追求せず、エコを求めるのは、単なる諦めと努力の放棄のような気がしてしまうのだ。ヒトの工夫と知恵は、地球1個分の生活で我慢するために使うのではなく、何個分使っても壊れてしまう事がないような方法を見つけ出すために使うものではないのだろうか。

・・・もっとも、そこで答えがないのが情けないところだが。
だが個人的には、諦めることさえなければヒトはその道を探し出す事ができるのではないか、と信じている。

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