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2010年10月15日 (金)

寄付の対価

昨日は児童買春の撲滅に取り組むかものはしプロジェクトの二木会(にもくかい)という勉強会に参加してきた。セミナーやイベントという規模でもないので、勉強会という感じだろうか。
少しユニークなのは幹事となった協力者が参加者集めをしている会だという点で、自分の場合はそうではなかったが、会場内にはそうした人たちもちらほら居たようだ。

内容はかものはしプロジェクトの活動についての説明と近況の報告、支援の呼びかけといったもので、こういったものが定例的に開催されている(特に近況報告)のは好感が持てる。もっとも、自分が知らないだけで、どこも大なり小なりやっていることなのだろうが・・・。

内容についての紹介はさておき、最後の支援の呼びかけの中で、(寄付金の使途の)透明性という話が出て、改めてちょっと考えてしまった。

寄付をする、あるいはしない理由として、寄付金の使われ方が見える/見えないというのは、よく挙げられる議論だ。支援する団体の財政状況も含めて、そうした話が俎上にあがる事は少なくない。寄付する側もされる側も、それが寄付において重要という意見では大体一致している。

・・・が、個人的にはあまりそういった事を考えたことがない。もっと考えてお金を使えと言われそうだが、そもそも日々お金を使う時に、払った先の事まで考える事がどれだけあるだろうか。

モノを買う前には、それを買った後の事を考えるじゃないか、と言うかもしれないが、考えるのはそのモノを使う「自分の」事で、払ったお金が「相手側で」どう使われるかを意識しているだろうか。少なくとも、自分は意識していない。

考えているのは、そのお金の使い方が自分にとってどうであったか、自分にどのような満足感を提供できたか、という事なのだ。

そういう意味では、自分の寄付に対する姿勢は信頼性よりも満足感に立脚している。ただそれも突き詰めればあまりこだわりはなくて、払えるお金と払うきっかけがあれば寄付してしまう、という感じだ。街頭募金などに反応しないのは、それが自分にとってきっかけとしては弱いからだ。

そんな訳で、自分の場合は「寄付してくれた方にはこうした情報をお知らせします」的な話には、少々ひいてしまったりする。そこまで深く考えた訳ではないし、そこまでの関与を求められても困ってしまうという事もある。

多分「寄付に対する感謝として情報提供」という発想の流れが少し違うのだろう。「情報提供あるいはその活動に対する感謝としての寄付」であって、お金の後に何かが発生するのではなく、何かの後にお金が発生する関係の方が、自分としては落ち着くという事かもしれない。投資的ではなく消費的といってしまえばそれまでだが・・・。

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