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2011年3月31日 (木)

災害にどう備えるか

震災後、被災地の父から届いた(やめとけと言ったのに・・・)米には手紙が同封されていた。震災時とその後の状況、原発について書かれていて、最後は水・食料を備蓄し、まず我が身を守れと結んでいた。
フンフンと読んで終わりにしていたのだが、その後メールで「意見を聞かせろ」と言ってきたので、返事を書く前に整理しておく事にする。

個人的には、もちろん備えは必要だが、水や食料というのは最低限でよいと思っている。むしろ重要なのは、お金と情報だろう。

お金があれば何でもできる・・・といった話ではない。同クラスの震災が東京を襲うにしても、原発が最悪の事態を迎えて東京までが汚染されるにしても、避難が必要なほどのカタストロフィがあった場合は、備蓄した水や食料が役に立つ可能性は低い。

むしろ、身軽な方がいい。そういった意味での避難のための準備や心構えはまだ足りないかもしれないが、いずれにせよ独り身なのだから、留まるための備えよりも、移動のための備えの方が重要だと考えているのだ。(ああでもパスポートは持っていないな。この機会に取っておこうかな。)

一方、父がもっとも心配している放射能汚染に関しては、そうした事態になれば長期戦となるのは明らかなため、これまた多少の備えでは足りない、というのが自分の考えだ。そこで必要なのは備えよりも覚悟だとしか言いようがない。

今回改めて感じたのは、そもそも放射能に関しては、被曝の恐ろしさのイメージばかりが先行して、どの程度リスクがあるのか実は自分自身よく分かっていない事だった。ここでいうリスクというのは、例えば自動車事故にあうリスクや、新型インフルエンザが発生した際に感染し命を落とすリスクと比較してどうなのか、という話だ。

新型インフルエンザの致死率は決して低くない。同レベルの致死リスクはどの程度の被曝によって生じるのだろうか。あくまで想像だが、実は闇雲に怖がるのではなく、付き合っていける程度の被曝というのもあるのではないか、と考えている。というか、その点で相当やばいのであれば、それこそ備蓄よりも移住を考えてしまった方が良い。

あるいは発がんリスクといった話であれば、リスクを少しでも下げるために無理に被曝回避を考えるよりは、定期的な検診を増やして早期発見を心がける方がトータルリスクは低いという事はないだろうか。
(もちろん、残りの人生時間を天秤にかけた場合、子どもたちは極力被曝を避けた方が良いとも思う。だれもがそうだという訳ではないのだ。)

とはいえ、一方でこの辺りは不足しているな~と感じたのは、今は無人となっている実家をいざという時に使えるようにしておくといったメンテナンスの部分だ。今はバラバラに暮らしている親兄弟や親族とのいざという時の連絡手段の確保といった点も正直心もとない。

いずれにしても、個人的な「備え」というのは、モノを増やして身重になるよりは、いざという時は身一つでも行動していける様に、身軽になるという方向で考えた方が良いのではないかと思っている。

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2011年3月30日 (水)

反対派という推進勢力

「反○○」「アンチ○○」というのは、当事者の意に反して○○を強化推進する事につながってしまう場合がある。

反対意見があれば、推進側はそれに対抗する術を身につけるようになる。あっさり投げ出してしまえばそれまでだが、反対派という「敵」の存在が団結を強化し、新たな打開策を生み出す事につながる事もある。

クレームが商品を育てるように、反対運動が逆に推進運動を強化するという側面もあるのだ。こうした傾向は、おそらく推進側が強大でどっしり構えていられる状況であるほど顕著になる。

「アンチ巨人」みたいな人たちがいた時代、おそらく巨人は人気も強さもダントツだっただろう。ファンとアンチファンとの相乗効果が、その強さを生む。巨人の衰退(というと怒られるかもしれないが)は、「アンチ」ではなく「他球団のファン」というあり方が台頭する事によって生まれたのではないか。

・・・なんて事を、今回の福島原発を取り巻く反対派と推進派のやりとり、特に「それ見たことか」と息巻く反対派の意見を見ていると感じたりする。多分、それは原発を無くす事ではなく、より強化する方に働くのではないか、という気がしてしまうのだ。

(とはいえ、それは無事終息した場合の話で、被害が拡大すれば反対派の意見に関係なく原発は潰れるだろう。反対派の主張によってではなく、推進派のつまづきによってだ。何かが倒れる時というのは、案外そんなもののような気がしてならない。)

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2011年3月28日 (月)

公演中止への対応

そろそろ落ち着いてきたというか、府中の定期演奏会の(運営面の)準備も本格的にスタートしなければいけないのだが、今回は色々と厄介な事がありそうだという事も分かってきた。

もっとも大きな問題は、本当に開催できるかだろう。
このところ、府中の森芸術劇場では公演中止のお知らせばかり目立つ。直後という事で難しかったという事もあるだろうが、大きく影を落としているのが計画停電の影響だ。

昨日の練習でも、当初午後は閉館という情報があり、パート練習の開催が危ぶまれた。計画停電が回避されたため使えるようになったが、公演となると停電予定が発表された時点で中止と判断せざるを得ないし、それで改めて「ではやります」とは簡単には言えないだろう。

今の状況で判断するのは早計だと思うが、そうなった時の事は考えておかなければ、いざという時に対応できない。

公演中止で問題になるのは、特にお金の問題だ。今回は有料公演だから、中止になれば返金が発生する。市販されている分はまだ良いが、問題は団員が販売している分だ。実際「やるかわからないので売れない」という声も聞こえてきているが、例えば団員が売った分に団の方で返金をするか?という話になる。

しかも、団員が無料で配布していた場合も、その判別はつかない。

さらにもう少し踏み込めば、「団員の責任販売分」に対して団員にも返金をするか?という話になる。これをやった場合のシミュレーションまではしていないが、そこまでの財政的な体力があるかと言えば、これまた厳しい。

一度しっかり発生しうるパターンを整理しておいた方が良いかもしれない。

さて、自分自身のチケットノルマに関しては、今回はチャリティにしようかと考えている。チケットを無料で渡す代わりに、同額(以上)の被災地への寄付をお願いするという形だ。チケット代までは自分が寄付したのと同じ形になり、それ以上を寄付してもらう事もできる。

そして、少々いやらしい話をすれば、あくまで「寄付」なので、中止の際にも返金は発生しない(笑)
問題は、団の方で返金をしてしまうケースだが、これはあらかじめお願いをして、善意に頼るしかないだろうか。その辺りの細かい話が微妙なんだよね・・・。

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2011年3月25日 (金)

今日も雑感

今日も雑感など。このスタイルの方が書きやすい時もあるな。

・毎朝利用しているプロントが、さらなる節電モードに入ったのか、窓際は照明が消されている。暗くはあるのだが、外からの自然な光が射し込んで、夜間の照明を落とすよりこの方がずっと雰囲気が良い。

・やはり今後の節電は、夜間に照明を落として暗くする事よりも、日中の採光をどうやって高めて照明を落とすか、という方向で考えた方が良い気がする。ま、ナイターは問題外だが。(計画停電にも左右されないデーゲームっていいじゃないか。)

・昨日は朝に続いて夜もevernoteが落ちて、作成中の文書が飛んでしまった。夜のはオケの運営委員会の議事録だったのでダメージ大。思わずMacBook Airを衝動買いしそうになる。

・とはいえ、iPadならではのアプリもある事を考えれば、MBAは必ずしもベターな選択肢ではない。ようはevernoteの問題なので、それが解決できれば良いのだ。

・そう思って帰宅してからとりあえずevernoteをいったん削除して再インストールしたのだが・・・同期後文書を閲覧中にまた落ちる。これでは不安で使えない。

・ようは作成の問題なので(閲覧だけなら落ちても特にダメージはない)、しばらくは別のアプリで文章を作成してみる事にする。とりあえず今日のは純正のメモ帳で作成中。これで落ちたらiPad自体がダメという評価になるぞ、Apple。

・ちなみに議事録などはすでに別のアプリで作成している。オケ関係もこのスタイルにするかな・・・。

・・・あまり雑感的でない内容になってしまった。

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2011年3月24日 (木)

雑感

どうも最近evernoteがよく落ちる気がする。もしかしてiPadのローカルに溜め込んでいるのが原因だろうか・・・そのためにわざわざプレミアムにしているのだが。

さて、気を取り直して今日も雑感など。しかし改めて書こうと思うとテンション下がるな・・・。

・水道水の件はとりあえず静観する。痛風対策に大量に飲んでいる東京水をどうするかは若干思案中。今の状況であれば特に気にならないが、このところ状況の変化が激しいので、情報が遅れる事については少し気になっていたりする。

・情報が遅れる事については、行政だけでなく、市民やマスメディアの側にも問題がある。発信側の「パニックになる」という感覚は、受信側に対する不安感、不信感の表れだ。これは情報を発信する側に立ってみるとよく分かる。

・直近で言えば、先週の首都圏の買いだめ騒動なんかが不信感の源になる。昨日のミネラルウォーターの購買行動はさておき(あれは実際に控えるように指示が出ているので子を持つ親として当然といえば当然の行動だが、大人のためであれば過剰反応だろう)、先週のガソリンスタンドに並ぶ列などを見ていると、発信側が躊躇してしまうのは当然の気がしてしまう。

・そこで「伝え方が悪い」というのは簡単だが、そこで「伝え方が悪い」という反応をするから、なおの事「正確で間違いのない情報を」と考え、情報の発信にブレーキがかかってしまうのだ。「伝え方が悪い」というのは「伝えられた側がどう考え行動するかまで考えて発信しろ」という事であり、それはつまり「パニックになると考え発表しませんでした」という考えを補完するものでしかない。

・・・ちょっと当初の内容と違ったような気もするが、まぁ言いたい事はある程度まとまったという事でよいかな。

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2011年3月23日 (水)

雑感

なんだかまとまった考えが浮かんでこないので、散文的な雑感など。

・昨日父と電話で話して「原発は最悪の事態を想定しておけ」と言われたが、最悪の事態を頭に入れておくのと、実際にそれを前提に動くとの間には大きな開きがある。問題はそれぞれのシナリオの発生確率で、現実的にはもっとも確度の高い(と判断される)事態にあわせて動かざるを得ない。

・「正しい」判断を行うためには、多くの正確な情報が必要かもしれないが、「自分の」判断を行う上では必ずしも多くの情報は必要ない。情報が多かろうが少なかろうが、自分の判断を保持しておくことが重要。

・当面は直接的な生命の危機に瀕するようなカタストロフィでも発生しない限りは、静観し見極める事を考えた方が良いというのが今の自分の判断。

・「統一」地方選である必要はないが、直接の被災地ではない限り選挙はやった方が良いような気がする。少なくとも自分については、今なら過去にないぐらい強い関心をもって候補者を見ると思うのだが、一般的にはそうではないらしい。

・ただ、選挙に反対する人の論調は、自分ではなく「他人が」正常な判断を下せる事態にないからするべきではない、と見ているような気がして、その辺りがどことなく気になる。

・まぁ、多分「今の方が真剣に選挙に臨める」と感じる自分の感覚の方が普通じゃないんだろう。

・もっとも、候補者の名前を念仏のように唱える街宣カーや、「お願いします」と言われた印象しか残らない街頭演説ばかりの選挙活動であれば、それは確かにやらない方が良い。今だけでなく今後もだが。半年後の選挙はそうした選挙になるだろうけどね。

・ちなみに「今はそれどころじゃない」という人は、経験上、半年前も半年後も同じ事を口にする事が多い気がしている。

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2011年3月22日 (火)

日常のテンションと非日常のテンション

昨日は何をするでもなく無気力な感じで一日を過ごしてしまった。前日急な誘いで結構な量を飲んだのだが、二日酔いではなかったので、それが原因ではない。

あえて分析するのであれば、震災のインパクトで日常のテンションを取り戻せていないのだろう。テンションが低い訳ではなく、非日常のテンションが高い状態にあるので、何か日常的な事を無意識に後回しにしてしまう傾向が表れているのだ。

もっとも昨日の場合、日常的活動の最たるものである洗濯が、雨のためできなかったということはある。日常生活に自分をグイッと引き戻すきっかけがつかめなかったのだ。あるいは、スキーに行けていれば、少し違っただろう。

実際のところ、非日常のテンションが高いといっても、何かできる訳ではない。会社では多少できることがあっても、プライベートでできることはほとんどないので、いかに日常生活を取り戻すかが当面の課題だろう。

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2011年3月18日 (金)

買い占めを生む社会構造

またまた父の話で恐縮ですが、昨日こんなメールが届きました。

米あるか?送ろうと思うが受けとれる日時を知らせよこちらは全く心配なしガソリン手に入らないが今のうちなら送れるだろう不便はしばらく続く備えよ

仕事中でしたが、問題ないと返信し、その後我慢しきれずこうtweetしてしまいました。

被災地(一関市南部)の父より東京の自分にメール「米送る不便に備えよ」買い占めで混乱してるなんて情けなくて涙出てくる。いいかげんやめようぜ!

相変わらず店頭では一部の品が消えている状態のようですが、それが一層買い漁りに拍車をかけているようです。(考えてみると、買う側は一部の悪徳業者を除けば買い「占め」をしているわけではありません。そこで買い「漁り」にしてみましたが、なんと表現すればよいでしょうか。)

一方でこんな意見もTwitter上で見かけました。

主婦が買い占めに走ることに対し「バカだ」とか「呆れた」という声が散見されるが、主婦が買い占めに走るのは「家族に責任があるから」である。笑えば済む問題ではない。実際に主婦の立場で、買い占めの行列に並ばないことが、未来を信じることがどれほど厳しい選択であることか。大げさではない。

この意見も分からなくはありません。そもそも冒頭の父の心配も、こうした主婦の心配と同種だからです。また、会社で一部の社員に自宅待機の指示が出た際に、「自宅で待機していたら買い占めぐらいしかすることがない」みたいな笑い話も出たのですが、会社のような集団の中にいれば得られる一定の安心感のようなものを、一人で過ごす家で得るのは簡単ではありません。報道に接することで不安をかきたてられ、買い物の列という集団に属する事で安心感を得るという図式もあるような気がします。

問題は、東京のような都市部では、その買い物の列に参加できる層と参加できない層とに大きく分かれている点です。結果、帰宅難民ならぬ買い物難民が発生する。それが一層混乱に拍車をかけるといった構図はあるでしょう。帰宅難民にならぬよう焦って帰っても、今度は買い物難民として街に放り出されてしまう。買い物の列に並べる人が帰宅難民になる事はほとんどありませんので、そうした役割分担可能な「標準家庭」だけが有利な社会構造になってしまっているのです。

買い物の列に並ぶ人には、並ぶ人なりの苦労や大変さがあるでしょう。ですが問題はそのスタートラインにすら立てない人達が首都圏には沢山いるということなのです。

仮にこうした構造的な問題があるとすれば、呼びかけてなんとかなるというのは少々楽観的すぎる気がします。正直なところ、今回の混乱は一時的なもので、ほんのしばらくを乗り切ればなんとかなるとは思いますが。今後今回を超えるような混乱が発生した場合、どのように対応していくかは考えておく必要があるかもしれません。

ちなみに紹介したtweetを見た際の自分の感想は、主婦が担うべき「社会への責任」は?というものでした。夫が社会への責任担い、主婦が家族への責任を担う、という役割分割ではなく、双方が相応に責任を担う、という構造になっていれば、少し行動の仕方も変わってくるような気がします。

※2011.3.21 当人より依頼があり、引用したtweetの名前を削除しました。

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2011年3月17日 (木)

不安を駆り立てているのは誰か

被災地の父から手紙が届きました。消印は14日。物資の輸送に難儀していると報道されている割には?と思いましたが、手紙には井戸の水を汲み上げるポンプのガソリンが尽きかけていると書かれていたので、今現在の方がこうした事は困難になっているかもしれません。

近所の方も汲みにくるとあったので、断水しているということでしょう。携帯の充電もできないとあるので、この日の時点では電気もなかったということになります。(もちろん、15日に妹に電話があった以上、すでにある程度回復しているのでしょうが。)

燃料がないのはこの季節かなり気になりますが、父は定年後今の土地に移り住んだ時に(自力で)家を建てるまでの一年半近くをテント暮らしで凌いだ猛者なので、そうしたバイタリティを活かして近所の皆さんを支えて欲しいと思います。

とはいえ、報道でも目立つようになってきましたが、現地の燃料不足は気になります。節電の次はガソリンというわけで、供給が回復するまではなるべく車の使用は控えるしかありません。少々不謹慎ですが、どうやら今シーズンのスキーも終わった感じです。

・・・うーん、書き出しを近況報告にすると、その後が続けにくいですね。

話はガラリと変わるのですが、今朝こんなのを見つけました。

Togetter - 「torii_h氏による英大使館会見邦訳まとめ。」
http://togetter.com/li/112284

知るきっかけとなったのは、以下のtweetから。

@ugtk 英国大使館の15日の記者会見を抄訳したもの>http://bit.ly/efckkb 大前リポート同様、最悪ケースを提示して、希望につないでいる。このわかりやすさを知ると、慎重すぎて事実公表とは言い難い枝野発言も、作業員だのみの東電も、すべて頼りない。不安を駆り立ててるのは誰だ?

ふと気になったのが、マスコミは政府発表の不備を指摘して騒ぐぐらいなら、さっさとこうした発表を大々的に打ち出せば良いのでは?ということです。

考えてみれば、我々一般人はマスコミを通じて政府発表に接しています。政府発表に不安を感じる時には、常にセットとなってそれを伝えるマスコミにも不安を感じているのです。
情報収集、分析、伝達のプロとして期待しているという点では、むしろ政府発表を「伝えるべき情報として」伝えているマスコミの発表に不安を感じてしまっている、とも言えるかもしれません。

「不安を駆り立てているのは誰だ?」というのは、少なくともマスコミがいうことではないよな~と感じてしまった次第です。

例えば、メーカーの製品に原料由来の問題があった時に、「原料を提供した生産者の責任です」と担当者が発言したら、間違いなく叩かれます。生産者の責任追求は、メーカーと彼らの間の話であって、消費者に対して最終製品を出した者が責任を負うのは当然です。

マスコミが伝える内容をそうした最終製品と考えれば、社会に対するインパクトに対して、誰がどの様な責任を負っているかは明白なような気がするのです。政府の問題?これは政府とマスコミの問題であって、マスコミは決して傍観者じゃないんですよね。

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2011年3月16日 (水)

災害に備える

妹のところに被災地の父から電話があったようです。電話ができる程度には落ち着いてきたということなのか、元気そうだという話でした。可能であれば(こちらにまだ家も残っているので)一時的に避難してきた方が良いのでしょうが、交通手段の状況を考えると難しい気もします。まぁ、元気でさえあれば、父のあのバイタリティは現地の助けになるだろうと考えることにしています。

むしろ、父としてはこちらの方が心配、ということもあるかもしれません。昨日の夜の静岡の地震は、正直な話、少々肝を冷やしました。いよいよ大本命襲来か、とも思われたからです。忘れた頃にやってくるのと、混乱の最中にやってくるのとどちらが良いのか、という気もしますが、ただ、今であれば逆に多少は落ち着いて対応できるということはあるかもしれません。

電車も徐々に回復してきていますが(今日の京王線は通常運行で、ちょっと早い気もしますが、助かるのは確かです)、一方で気になるのはスーパーなどの棚の状況です。昨日は無くなってきたトイレットペーパーを買いたかったのですが、全くありませんでした。他にはカップ麺やパン、スナック類でしょうか。

何をやっているのか・・・と思うのは、それが災害の備えに本当につながるだろうか、と考えてしまったからです。福島原発の放射能に対する備え(外出禁止への備え)かもしれませんが、正直な話、家庭での備蓄食料が大震災の備えにはほとんどならないというのは、今回の被災地の現状が物語っています。潰れるリスクが高い一般家屋に、すぐに持ち出せないほどの食料や物質を備えていても仕方ありません。

むしろ、スーパーなどの大型店舗に在庫しておいた方が、被害が最小限におさえられ無事に残る可能性が高い。そこに「まだ誰のものでもない形で」残ってさえいれば、私たちは暴動を起こすこともなく分けあえる民族であることも、今回の震災で証明されているのです。

家にはあまり食料を置かず、コンビニやスーパーを冷蔵庫がわりにする、というライフスタイルがありますが、実は社会全体で見た場合、その方が災害時の備えにつながっているなんてことも言えるかもしれません。

もちろん、そうした方法は、コミュニティの信頼感があってこそです。地域の人間同士助け合えると皆が考えていれば、「自分のためだけに」買いだめするという発想にはならない気がします。

棚を空にしない程度に、ある程度備蓄することを否定するわけではありません。しかし、被災地では一人ひとりが余計に手にしないように配慮しあっているみたいな話を聞くと、こちらで起きている現象は、少々情けないような気がしてしまうのです。

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2011年3月15日 (火)

状況報告

今日も下書き中にevernoteが落ちてしまいました。いいところまで書き進んで突然落ちるこのショック・・・気を取り直して、書こうとしていた前半だけでも取り返したいと思います。

今回の地震で被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。

私の親族も被災地に住んでいましたが(震度7と報道された岩手-宮城の県境付近)、幸いなことに直後に無事を確認することができました。内陸部のため、津波の影響はないだろうと考え、その後の連絡は控えています。落ち着くか、何かあれば連絡があるだろうと考えるしかありません。

その他にも知り合いが多く住んでいたはずですが、そちらは確認のしようもありません。後日消息を知らされることもあるでしょうが、今は覚悟を決めて祈るばかりです。いずれにせよ、それを知ったとしても今は直接的にできることはないからです。

自分自身はといえば、会議中に地震が発生し、当日は会社に泊まることになりましたが、むしろその方が良かったと考えています。仲間がいることの安心感、冷静な館内放送、炊き出し、情報へのアクセスの容易さなど、普段会社が備えていることは知っていましたが、改めて感謝の一言です。(まぁこのブログで感謝しても伝わるわけではないのですが・・・。)


・・・で、本来はこの後が本題だったのですが、内容が吹き飛んでしまったため、後日改めて仕切り直します。いずれにせよ、今回の震災は様々な変化、ポジティブな変化のきっかけにしていくことが、被災地のためにもなるのだろうと考えています。

がんばれ日本!がんばれみんな!(そして自分!)

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2011年3月11日 (金)

パート練習に向けて

いよいよ今年もオレイユの案内が来た・・・のだが、それはさておき今週末はパート練習があるので(今更ながら)何をやるか考えておかなければならない。
色々考えておいても、いざ聴いてみると脆くも崩れ去る事も多いのだが・・・。

とりあえず準備としては、先日指摘された指番号を考えておく必要があるだろう。

元々自分は指番号(だけ)で弾くタイプだったのだが、楽譜が読めなくなるばかりなので、府中に入った頃から半ば無理やり矯正をしてきた経緯がある。結果としてその場任せのフィンガリングをするようになってしまい、合理的な運指で弾くという事をしなくなってしまったという副作用があった事を考えると、少なくとも「考える」時間を持つ事は悪い事ではない。

ただ、そうなると流石に明日はスキーという訳にはいかないだろう。先日少しやったのだが、自分が弾けない所だけでなく、「全てやる」と考えると思った以上に時間がかかる。自分が弾けるようになるためではなく、他の人に弾けるようになってもらうためであればなおさらだ。
(もっとも、楽器以外でもう一件、時間のかかる「お勉強」があるため、いずれにしてもダメではある。というか、そっちの方がさらにやばい。)

その上でパート練習だが、前回からスケールの練習をする時間を取り入れているので、これは変わらずに行ないたい。基本となるC-durの他に、ブラームスの基本となるD-dur、今回の曲の中では一番面倒なAs-durぐらいはやっておきたいのだが、正直あまり時間はかけられない。

曲に関しては、一通りみればそれはそれでいくらでも気になる所は出てくるのだが、難しい所に集中しないと時間はいくらあっても足りない。音程面で一番確認が必要なのはブラームスの第2楽章とワーグナーで、これは各自のフィンガリングも含めて確認をしておく必要がある。

それと、嫌がられるだろうが、独り弾きの時間をとってみたいので、どこを弾いてもらうかを考えておく必要がある。あまりに難しい所だと惨憺たる結果になるし、簡単では意味がない。出来れば一人ひとりがきちっと音を出せる必要があり、しかもきちんと練習しなければ弾けない(でも練習すれば弾ける)箇所をピックアップしておく必要がある。

まぁいずれにしてもその辺りは、明日フィンガリングを考えながらチェックしておいた方が良いだろう。

それだけでなく、その前にいい加減プルトを決めなければいけないし、パート練習は関係ないけれども運営委員会の開催連絡もしなければいけないのだった。ああ、時間がない・・・。

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2011年3月10日 (木)

衝動買い

昨日はiPhone/iPad用のタッチペンを衝動買い。それも通常のペンタイプとストラップ型の短いタイプの2種類を勢いに任せて購入してしまった。

・・・うん、(買ったばかりで何だが)これは使わない。

そもそも自分にとってiPhoneは片手で扱うもので、両手がふさがってしまうペンの利用はそれ自体があり得ない。iPadにしても、手書き系のアプリは全くといって良いほど使っていないので、ペンを使う利用場面なんてありはしないのだ。

・・・お前はバカか?とも思うが、まぁ衝動買いというのはそういうものだろう。買ったから改めて気づく事もある訳で、別にそれ自体は後悔しても仕方ない。特にこうした小物類は、逆に買ってみたら意外と使った、という例も(ちょっとは)あるので、気になるなら試してみれば良いというのが基本的なスタンスではある。


昨日の衝動買いというのはそれだけではなくて、何やら無性にドボルザークの交響曲全集が欲しくなり、会社帰りにタワーレコードに立ち寄って購入した。

元々はあまり名前を知らない指揮者で安い輸入版の全集を買うつもりだったのだが、結局手にしたのはノイマン/チェコ・フィルという、言ってみれば定番中の定番。ドボルザークの交響曲全集は結構数があったのだが、何だかんだで一番高いものを購入してしまった。

昨日はその他に小沢征爾/サイトウキネンが昨年末行ったニューヨークライヴのCDと、ガーシュウィンの2枚組のCDを購入。6枚組のドボルザークとあわせて9枚をとりあえずiTunesに取り込みはしたが、まだ聴いてはいない。まずはドボルザークからポツポツと聴いていく事になるだろうか。

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2011年3月 9日 (水)

辞任という無責任

前原氏が政治献金問題で外相を辞任した事について、なんとなく感じた事など。

今朝Twitterでもさえずった(tweetは「つぶやき」よりは「さえずり」と考える方が本来の意味らしい)のだが、個人的には献金を受け取る上でのガバナンスが脆弱だったのは否めない、と思う。これは額の問題はなく、1円であってもどう受け取り管理するかというのは重要な問題なので、「わずか」みたいな議論はあまり意味がない。

むしろ気になるのは、辞任という決着のつけ方だ。これは前原氏本人にも、それを求めた野党にも当てはまる。何度か書いているが、辞任というのは責任放棄の最たる手段であって、それ以上の問題解決の芽を摘むものでしかない。

逆にいえば、辞任を求める人たちというのは、その方が都合の良い人たちという事になる。

今回の件でいえば、辞任によって「システムとしての政治献金はどうあるべきか」という議論が途切れてしまった。外国人からの献金をどうするかという問題は先送りにされ、あくまで個人の問題として帰着させる事で、システムとしてどうあるべきか、という議論は先送りにされてしまったように感じられてならない。

辞任を求めた政治家にとっては、その方が都合が良かったという事だろう。前原氏個人としてどうかという問題であれば、自分にその影響はないが、献金はどうあるべきかという事になれば、否応なく巻き込まれ、自らも責任を負う事になるからだ。

いい加減そういう「責任の取り方」「責任の取らせ方」はやめにしないか。大体、「選ばれた」政治家に自分の勝手な判断で辞める権利なんてない。いや、ある事はあるが、それは単なる自己都合であって、責任でもなんでもない。外相の場合、任命したのは菅首相だから、菅氏に「辞めさせる」責任はあっても、前原氏に「辞任する」自由なんてない。その菅氏を首相にしたのは国会だから、問題があるなら「辞めさせる」責任が国会議員にはあるが、「辞任する」自由を認めるべきではない。

結局のところ、辞任を求めるというのは、相手に責任を押しつける無責任な解決提案でしかなく、辞任するというのは責任を放棄するだけにすぎないのだから。

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2011年3月 8日 (火)

言葉の有無

今日は途中で下書き用のevernoteが落ちてしまった。ここしばらく落ちても書いた内容は残っている事が多かったのだが、今回は消し飛んでしまったので、少々ショックだ・・・。

土曜日のスキーでは、久しぶりに頭からのダイブをしてしまった。10mほどのスライディングになるだろうか。人が少ない時間帯であったのは幸運といえば幸運だが、ちょっとした気の緩みでの転倒だから、あまり褒められたものではない。

とはいえ、板が吹き飛ぶこともなく、ゴーグルが割れてしまうとか、胸を強打して呼吸ができなくなるといったような転倒ではない。全開ではなかったので当たり前といえば当たり前だが、そうした転倒は昔に比べればなくなっている気がする。(流石にゴーグルを割ったのは過去一度きりだが。)

さて、滑りながら気づいた事の一つに、スキーには言葉があるのに、チェロにはないという事があった。自分の滑っている状態や、次にどんな事を意識しようかという時に、スキーではそれをある程度言葉で説明できるのに、チェロの場合はそれができない。自分の問題点や次に取るべき行動をチェロの場合、言語化できていないのだ。

この差は、意外と大きい気がする。例えばプルークターンの3つのパターンを言葉にする事ができるのは、その際に体をどう動かすかというイメージが自分の中にある程度明確にあるからだ。そうした言葉なしに感覚的にやっていたら、反復して練習したり、反芻してチェックするといった事はできない。

チェロの場合、そうした事を意識していないのではないだろうか。

そうした言葉がないから、例えばパート練習などでも、どの様に弾いて欲しいとか、どういった点が問題だという事が的確に示せない。「音程が悪い」といった話ではなく、弓にどの様に圧力をかけるとか、動かす方向とか、運指の際の肘の動きとか、そういったメカニズムを理解していないので、問題点を把握できないのかもしれない。
(例えば大きな課題の一つにC線のF音の音程があるのだが、「音程が悪い」ではなくて、なぜ悪くて、どう指をコントロールするようにすれば修正ができるのか、ということを「言語化」して説明できる必要があるのではないか、ということだ。)

とはいえ、スキーだって言葉で意識するようになったのは、ここ10年ほどの話だ。それ以前は単なる感覚で処理をしていた訳だし、ようはどれだけ意識して考えながらトレーニングをするかだろう。

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2011年3月 4日 (金)

ISO26000対訳版

少し前の事だが、ISO26000の英和対訳版を半ば衝動的に購入した。

衝動的にといっても、いつかは入手しなければとは思っていたものだ。どのタイミングで入手するか、という問題であって、たまたま先日「衝動的に」その気になったというだけにすぎない。
ちょうど会社では日本語訳版(手引き)を購入していて、それに触発された感じだろうか。

個人で購入したのは読む覚悟を決めるためで、5000円弱の日本語訳版ではなく、20000円強の対訳版を選んだのは、英語の原典にも触れておきたかったからだ。

とはいえ、覚悟を決めるといいつつ、ここしばらくは鞄の中で眠っているままだった。

これではいけないと先ほど引っ張りだしたのだが、改めて手にすると正直な話げっそりする。内容に価値があるとはいえ、安っぽい紙に普通のプリンターで印刷され、簡単に綴じただけといった風な装丁はおよそ価格的な価値を感じさせない。それ以上に、A4で200枚ほどの紙の束は、普段から持ち歩くには重すぎる。

これこそ自炊が必要だな・・・と思いつつ、英語版はPDFでも提供しているのに、なぜ対訳版にはないのかと恨めしく思ったりする。もっとも、ページを見開いて左が英語、右が日本語という構成は、PDFにはあまり向かないかもしれない。

さておき、とりあえず英語と日本語を見比べながら、目次を眺めてみる。英語版だけだと、個人的英語力の低さ、特に語彙の不足から意味が分からなかったりするのだが、語彙に関しては日本語訳でカバーできる。一方日本語版だけだと、回りくどくて何が言いたいのか分からないものが、英語版を読むとすっきりしたりする。

そういった意味では双方を見比べられるのはとても良いのだが、反面行ったり来たりが多くてなかなか読み進められない。当面は日本語訳で読み進めつつ、よく分からないところは原典を参照するというやり方が良さそうだ。その後改めて原典を読んでみると良いのかもしれない。

いずれにせよ、なるべく早めに読んでおきたいものだ。実際には読んだ後に「どう使うか」が重要な訳だし、読むのはその最初の一歩にすぎない。ブログでも適宜取り上げるようにすれば、理解促進と進捗管理になるだろう。

そんな訳で(どんな訳だ?)とりあえず今日のところは、序文冒頭のこの言葉に個人的にすっきりしたのだった。

"The objective of social responsibility is to contribute to sustainable development."
「社会的責任の目的は、持続可能な発展に貢献する事である。」

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2011年3月 3日 (木)

会議の進め方

昨日は2件のミーティングがあった。

午前中は月に1回開催されているマネージャー同士の情報交換を目的としたもの。順番にそれぞれが共有しておきたいトピックを話す。話し方や内容にはばらつきがあるのだが、内容はもちろんここでは明かせないとして、話し方として参考にしたいと思ったのは2つ。

一つは年間の目標と照らしあわせ、進捗を話す事。
もう一つは最初に何点トピックがあるか前置きしてから話す事。

特に後者は当たり前といえば当たり前のやり方なのだが、自分の場合、これが抜け落ちる傾向がある。話す内容は事前にメモしてあるので、何点あるかは分かっているのだが、最初にその断りを入れる習慣が身についていないのだ。これは意識して修正していく必要がある。

前者についても、年間の目標を常に意識できているか、という差だろう。実際のところ、日々のルーチンに追われて(そのルーチン自体は目標に沿っているにしても)、年間の目標意識が欠落する傾向がある。自分の仕事だけならば、そもそも連動しているのでそれでも良いかもしれないが、チームをマネジメントすると考えた場合はそれではダメなのだ。

午後は2ヶ月に1度開催される担当者会議。主催ではないが、発表することがあったので出席する。
こちらは事例の共有と意見交換が中心で、特に意見交換を活発にしたかったようなのだが、若干議長の進行が気になった。

どうしても議長(主催者)と個々の担当者のやりとりが中心になってしまうのだ。事例をピックアップしたのも主催側だし、内容を事前に熟知しているだけに聞きたいことがあるということもある。少しでも意見を引き出したいという意図もあるだろう。

だが、他の参加者から見れば、若干疎外感は否めない。もちろん本来会議に出席する心構えとしては、疎外感を感じようがなんだろうが会議に益をもたらすという行動が必要なのだが、現実問題としてはこの会議は出席者が受け身になる傾向があり、主催側にはそれをなんとかするということが求められている。

どう主体性を持って参加してもらうか、その仕掛けが必要ということになるのだ。

議長による話題の振り方はそうした意図に基づいてのものだし、実際には以前に比べれば意見が出るようになっているのだが、次のステップを考えるのであれば、最低限資料は事前に目を通してもらっておける準備が必要だろう。準備がぎりぎりになったという事情はあるが、その場で目にした情報を元にその場で意見交換するというのはかなり難しい。

・・・といった事を感じたのだが、実はこれらはそのままオケの運営委員会や総会の運営につながってくる課題なのだった。そうやって感じたのなら、自分自身にも生かしていかないと意味がないよね・・・。

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2011年3月 2日 (水)

変わるヒント

ここしばらくアウトプットのパワーが低下している気がする。このブログもそうだが、会社のブログが顕著だ。ブログだけでなく、社内向けの定期的な発信にも苦労する事が多い。

基本的に勢い任せで、コンスタントに進めていく戦略を持っていないという事もある。元々の進め方が、スランプというか、自身の状態に左右されるような形になってしまっているのだ。こうした進め方は、できている時は良いのだが、何かの弾みに歩みが止まってしまうと、途端に辛くなる。

だから、それをなんとかしよう・・・というのは簡単だが、身に染みついた進め方はそんなに容易には変えられない。昨日書いたチェロに向き合う姿勢と同じで、どうしたら良いのか想像できないのだ。いや、この書き方だと諦めてしまっているので、想像するのが難しいというべきだろうか。

いずれにしても、きっかけというか、ヒントがない。

何かを変えるというのは、ただ方向や目線を変えるというものではなく、そのめざす姿を明確にするという事だ。そういった意味では、変えるヒントではなく、めざす姿のヒントがない。自分の中でピンとくる「変えた先の姿」が見えていないということだろう。

そもそもアウトプットが低下しているという自覚に対して、ではどうありたいのか、という姿を描けていないのだ。

実際のところ、どうありたいのだろう。人生とか、大げさな事は言わないが、漫然としている、というのはこういう状態をいうのかもしれない。

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2011年3月 1日 (火)

どうやって上手くなっていくか

ミニクラシックコンサートは無事終了。

運営面でバタバタしてしまったのは今後の反省点だが、それでもなんとか終える事ができたのは、団体としてのこれまでのノウハウの蓄積と一人ひとりの意識の高さによるものだろう。

実際、当日自ら申し出て臨機応変に対応してくれた団員の皆さんには頭が下がる。事前のネゴもしていないのに当たり前のように動いてくれる人がいるというのは、アマチュアの団体にとって得がたい事だ。
あえて言うなら、それ以外のまだまだ自分では動き方が分からない人たちを動けるようにしていくというのが、自分に課せられた役割なのだろう。

そういった話はさておき、打ち上げで指摘され、パートリーダーとして考えてしまった事が一つある。指摘の内容はこんな感じだ。

1.大学オケでは、初心者で始めた1年生が、3年でトップをやる(ぐらい成長する)
2.市民オケは、大学オケほど日々の練習はできないが、期間の制限はなく、大人として自ら考えて練習する事ができるはずだ
3.しかし、実際にはどれだけ上手くなっているのか、そこには甘えがないか、短時間で効果的に練習し練習させる事ができるのではないか

酔った頭で聞いていたので、正確かどうかは心許ないが、おおよそこんな感じだろう。一言でいえば、

「もっと上手くなれるはずだし、そのための練習ができるはずだ」

という事になる。これは、当人だけでなく、パートリーダーである自分にも責任があるという指摘だ。

厳密には大学オケでも、3年でトップをはれる人間とそうではない人間はいると思うが、確かに大学オケのメンバーの成長と、市民オケのメンバーの成長には、大きな開きがある。市民オケであっても初心者に近い状態で参加する人はいるから、伸びしろの問題ではない。

正直に言えば、これまで「上手くなるのは各自の責任」という考えが自分にはあったのだが、それでは(パートとして)ダメだという事だろう。パートリーダーとして、何か考える必要があるという事だ。これは・・・重い指摘だ。

その場で出た話は、せめて大学オケのように指番号を徹底してふるといった対応をする事だ。個人的には経験がないが、その理屈は分かる。実際、そうした話は他のパートリーダーから出る事があるし、まずはそこから徹底してやっていく事が必要なのかもしれない。

もう一つ個人的に反省したのは、翻って自分自身はどうだろうかという事だ。冷静に評価するなら、多分自分の成長は大学に入った頃で止まっている。そこまでの資産で食っているようなもので、上手くなっている実感がない。

そんな事を考えるのは、スキーと比較するからだ。スキーに関しては、上手くなるための方法論もある程度分かっているし、どういった状態になりたいかというイメージもできていて、道具の進化に助けられているとはいえ、今でも少しづつだが上手くなっているという実感がある。

チェロにはそれがない。

なぜだろう。漫然と付き合ってしまっているからだろうか。

本番直前にもかかわらず土曜日にスキーに行った際に、午前中の4時間で32本滑った。1回ごとに気付いた点などをtwitterに投稿した。どうでも良いツイートもあるが、1本1本何かを考えながら滑っているのは確かで、読み返せば(今ならまだ)どんな滑りをしたか大体思い出す事もできる。

チェロの練習にはそれがない気がする。

集中力が足りないのだろうか。考えていないのだろうか。成長したイメージが描けていないのだろうか。

その辺りが今後の課題なのだろう。正直な話、3月一杯はスキーの方を優先したい気分なのだが(そういう「時間的制約」も大きな要因かもしれない)、チェロとの接し方をきちんと考え直す必要があるのかもしれない。

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