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2011年3月 9日 (水)

辞任という無責任

前原氏が政治献金問題で外相を辞任した事について、なんとなく感じた事など。

今朝Twitterでもさえずった(tweetは「つぶやき」よりは「さえずり」と考える方が本来の意味らしい)のだが、個人的には献金を受け取る上でのガバナンスが脆弱だったのは否めない、と思う。これは額の問題はなく、1円であってもどう受け取り管理するかというのは重要な問題なので、「わずか」みたいな議論はあまり意味がない。

むしろ気になるのは、辞任という決着のつけ方だ。これは前原氏本人にも、それを求めた野党にも当てはまる。何度か書いているが、辞任というのは責任放棄の最たる手段であって、それ以上の問題解決の芽を摘むものでしかない。

逆にいえば、辞任を求める人たちというのは、その方が都合の良い人たちという事になる。

今回の件でいえば、辞任によって「システムとしての政治献金はどうあるべきか」という議論が途切れてしまった。外国人からの献金をどうするかという問題は先送りにされ、あくまで個人の問題として帰着させる事で、システムとしてどうあるべきか、という議論は先送りにされてしまったように感じられてならない。

辞任を求めた政治家にとっては、その方が都合が良かったという事だろう。前原氏個人としてどうかという問題であれば、自分にその影響はないが、献金はどうあるべきかという事になれば、否応なく巻き込まれ、自らも責任を負う事になるからだ。

いい加減そういう「責任の取り方」「責任の取らせ方」はやめにしないか。大体、「選ばれた」政治家に自分の勝手な判断で辞める権利なんてない。いや、ある事はあるが、それは単なる自己都合であって、責任でもなんでもない。外相の場合、任命したのは菅首相だから、菅氏に「辞めさせる」責任はあっても、前原氏に「辞任する」自由なんてない。その菅氏を首相にしたのは国会だから、問題があるなら「辞めさせる」責任が国会議員にはあるが、「辞任する」自由を認めるべきではない。

結局のところ、辞任を求めるというのは、相手に責任を押しつける無責任な解決提案でしかなく、辞任するというのは責任を放棄するだけにすぎないのだから。

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