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2011年6月29日 (水)

企業はエコノミックアニマルである

震災復興関連続きだが、昨日はJENの主催する「企業とのダイアログ」に参加してきた。「東日本大震災から3ヶ月:今、起こすアクションを考える~持続可能な社会の再生~」というテーマで、「ダイアログ」とあるように話を聞くよりは、互いに話をする性格が強い。

東日本の復興はある意味ハイチよりも遅れている、という指摘があったのだが、ショックだが分からない話ではない。特に大きな遅れは持続可能な支援のシステムの構築だそうだが、原発の問題があるとはいえ、政府国会の右往左往を見ていると、なんとなく納得できてしまうのは情けないだろうか。

さておき、昨日の議論で個人的に力説してしまったのは、復興支援における企業の支援は、「企業論理としては」企業に利益をもたらすものであるべき、という話。
この辺りは価値観的な部分も含めて議論が分かれやすいのだが、震災復興に限らず、企業にとっては社会貢献であっても自社に利益をもたらすものであるべき、というのが個人的な意見だ。

(ただし、その利益は必ずしも直接的なリターンでなくても良い。例えば従業員のモチベーションアップや優秀な人材の確保、企業イメージのアップなどでも良い。)

根底には、CSRの議論が、企業がさも良い人格を持つべきといった議論に流れがちな事への疑問がある。

企業はエコノミックアニマルで良い、あるいは強力な馬力を持った馬車で良い、というのが自分の考えだ。それが企業のパワーを生む。ただし、それに関わるステークホルダー、特に従業員や経営者は「アニマル」ではない。調教師であり、御者であるべきだ。

「エコノミックアニマル」と呼ばれた頃の日本企業は、社員までもが「アニマル化」していたのだ、と思う。いわば企業という怪物に人が飲み込まれた形になっていた。

「企業が倫理観を持ち」「社員がそれに従う」では、図式がまったく変わらない。社員は企業に飲み込まれたままだし、企業自身には「倫理観」という行動原理と「利益追求」という実際の行動の乖離が生じてパワーが鈍る。

そうではなく、「利益追求に突っ走る」企業のパワーを「いかにその行動原理は変えずに行動を変えるか」という視点で、「操る」あるいは「利用する」のが、ステークホルダーの役割なのだ。言葉は悪いが「騙す」と言っても良いだろう。そんなしたたかさが求められている気がしてならない。

企業に倫理観を持ってもらうなんて、ナイーブな事を求めても、それは幻想にすぎない。

震災復興において、被災地を「支援したい」と思うのは、個人たる従業員や経営者の「役割」だ。そのために企業の行動原理を利用するのが人としての知恵だろう。企業に支援の意思を持ってもらって、それに乗っかっているのでは、いつまでたっても構造は変わらない気がする。

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2011年6月28日 (火)

仮説を立てて仮設を支援

昨日参加したセミナーで、参加者同士の名刺交換の際に「(会社の)ブログを見ています」と声をかけられた。ああ、ここしばらく更新できていなくてスミマセン。嬉しいような、悲しいような・・・。

さておき、昨日のセミナーはパブリックリソースセンターの主催する「変化する被災地ニーズと企業の役割~被災地での暮らしにおける具体的ニーズへの対応」というもので、具体的には仮設住宅の話が中心。なかなか入居が進まない現状や、今後考えられる課題などについて話をお聞きした後に、テーマ毎に分かれてグループディスカッションも行われた。余談だが、こういう話す機会のあるセミナーは楽しい。

先週参加した別のセミナーで「避難所から仮設住宅への入居が行われると、緊急支援から復興支援にモードが変わる」といった話も聞いていたのだが、「仮設」住宅といっても2年から5年も住むのであれば、企業の転勤族の住居と事情はあまり変わらない訳で、なるほど快適な居住空間が必要だよな、という気にもなる。

中学生や高校生ならその学生生活の大半を過ごす事になるかもしれないし、高齢の方にとっては終の住処になってしまう可能性もある訳で、緊急避難のための仮住まい、という捉え方ではいけないのだ。

そのためにどういった支援ができるのか、という話なのだが、仮設住宅事情も千差万別で、なかなか一律に同じような支援というのは難しそうだった。

ただ、聞いた話の中で一つ考えさせられたのは、「何かやる事、やって欲しい事はありませんか」と聞かれても簡単にニーズは出てこないので、「このようなニーズがあるのではないか」と仮説を立てた上で、「こうした事ができます」と提示してもらえると良いというもの。

考えてみたら、企業のマーケティングなどはそうやって進める訳で、支援であってもそうした進め方が必要だということだろう。もちろん御用聞きでも良いと思うのだが、企業としてノウハウを生かすのであれば、市場(被災地)のニーズを自ら掴み、提案していくスタイルで進めていくのが良いのかもしれない。

ちなみにそうしたニーズを調べる場合に参考になるサイトとして、昨日紹介されたのがこちら。

つなプロ 被災者とNPOとつないで支える合同プロジェクト。
http://blog.canpan.info/tsunapro/

避難所や仮設住宅のアセスメントを行っているプロジェクトで、頻繁に更新もある。こうしたデータは、個人よりも企業でこそ活かせるのは確かだろう。

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2011年6月27日 (月)

電力使用量を情報操作?

どうもよく分からないこの話。

東電、電力使用率を情報操作 恣意的に数値を高く見せる
http://www.mynewsjapan.com/reports/1453

それで結局どんなデメリットがあるのだろう。水増しされた(分母が小さく公表された)事により、節電が進めばそれは節電した側にとってもメリットになる。それを無理な我慢、無駄な我慢と思うのは、ようはこれからも電力会社に「依存した」生活を続けたいとだだをこねているだけではないだろうか。

そもそも「恣意的」という意味が分からない。東京電力は、過去の実績などからその日の消費電力予想をして供給電力を決める。常にフルに発電したらそれだけ無駄にエネルギーを浪費する事になるからこれは当然の考え方だ。その供給予定に対して、実績がどうなっているかを示すのが電力使用状況なのだから、最大供給可能電力に対する使用比率ではないのは当たり前・・・なのだが、こう言っては何だが「頭の悪い」人たちにはそういった考えは通用しないのかもしれない。

自分で考える想像力がないから、東京電力のいう事も、こうしたジャーナリストがいう事も、そのまま鵜呑みにする。東京電力の電力使用状況が最大供給電力に対するものと「勝手に」誤解していた面々が、風見鶏のように向きを変えただけというのが妥当なところではないか。

そういった意味では、レベルをあわせた情報提供が必要だ、という事になるだろう。特にさもジャーナリストのような顔をして、こうした煽りをする人がいる事を考えれば、丁寧な説明は欠かせない。(もっともこの人には煽るような意図はないだろう。本気で義憤にかられているわけで、実際にはそっちの方がたちが悪い。)

一方で、そんな事をしていたらいつまで経ってもリテラシーはあがらない、という考え方もできる。こうした内容に対して、静観したり、自分のエントリーのように単に「バカにする」だけでなく、きちんと対峙して丁寧に議論を重ねた方が、事前にあれこれ手を回して余計な画策をするよりも意味はあるかもしれない。

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2011年6月24日 (金)

フロアのみなさまへ

みなさま

昨日、私は18時に自席を片付けてから、上階に上がってゴーヤの様子を見に行きました。
18時の消灯時間以降の残業部屋に指定されている会議室には、すでに何人かが集まり、残った仕事を開始、もしくはその準備をしていました。

10分ほど経ってフロアに戻ると、まだ灯りがついていて、自席で仕事をされている方が残っていました。

その状況を、残業部屋に向かう他のフロアの人は、当然目にすると思います。
ロッカーに寄って帰る人たちも(最近はエスカレーターを使わない人も増えているので)、当然目にすると思います。

彼らはこのフロアの灯りを目にしてどのように思うでしょうか。
残業部屋に一番近いフロアの人間が、堂々とそのフロアで仕事をしている光景を、どのように思うでしょうか。

わざわざ語るまでもないのではないかと思います。

ほんの10分じゃないか・・・そういった意見もあるかもしれませんが、その5分10分こそ、他のフロアの人たちの目に触れる時間帯なのが気になります。
私たちは、むしろ率先して、最低でも5分前、可能であれば10分前には消灯を実現できるように行動する必要があるのではないでしょうか。

並み居る役員、部長のみなさんを差し置いて口を出すのも恐縮ですが、誰かが言わなければならないだろうと思いましたので、投げかけさせていただきました。
反論がありましたら、遠慮なくお寄せください。

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2011年6月22日 (水)

政策を追うのは誰か

もういい加減政局ネタの報道は「自粛」した方が良いのではないか・・・という気がしなくもない。政治が混乱しているのは確かだと思うが、それに拍車をかけているのがマスコミによる報道だ。

メディアには伝える責任がある、というのかもしれないが、どう見てもかき回す事しかしていない。菅さんの退陣に関心があるのは、政治家とマスコミだけではないか。国民にとって(少なくとも自分にとって)関心があるのは、これから菅さんが何をするかであって、いつ辞めるかではないのだ。

よく言われる事だが、辞めた後の事がさっぱり見えないというのも気になる。菅さんが辞めれば何か好転するのか。それが提示されれば支持もできようが、ただいつ辞めるのか、だけ騒がれても仕方ない。

もっとも、国民の関心を政治からそらし、自分たちが好きにやるための仕掛けだとしたら、これはこれで一つの戦略だろうとは思う。政治の中身ではなく、メディアに写る印象だけで評価されるのであれば、これほど簡単な事はない。何しろそのメディアも一緒になって進める共犯なのだ。

とはいえ、こんな愚痴を垂れても仕方が無い。メディアが政局を追うのであれば、政策は自分たちで追うしかないって事だ。

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2011年6月21日 (火)

兎と亀

昨日は残業について愚痴tweetを連発してしまったのだが、ふとしたやりとりがあって、兎と亀の寓話について考えてしまった。

残業しない人とする人を、兎と亀に置き換えた場合、亀の方が良いのか?みたいなtweetに対して、あの話は兎が油断しない限り亀は勝てない教訓と捉えているという返信があったのだ。

それでなるほどと思ってしまったのだが、あの話は結局「亀のようになれ」ではなく「油断しない兎になれ」と捉える方が良いのではないかという事だ。

仕事に喩えれば、亀は「24時間戦う」ビジネスマンであり、兎は「オンオフのメリハリをつける」ビジネスマンという事になる。

気をつけなければいけないのは、兎と亀の違いを「能力」とは捉えない事だろう。「休まず進むけど急ぐ努力はしない」亀の姿勢、「休む時は休み、急ぐ時は急ぐ」兎の姿勢、どちらを選ぶのかという捉え方をする必要がある。

寓話における亀の勝利は、亀の姿勢を賞賛しているように見えるが、次にやる機会があればスピードをあげる努力をしていなかった亀は勝つ事ができない。

さらにうがった見方をすれば、実は兎だったのに、亀にようであれと洗脳されて、本来は活かせる脚力を封じてしまう「擬似亀」にさせられてしまうかもしれないのだ。


・・・何かまとまらなくなってきた。多分亀であっても、緩急つけながら時に「急ぐ」事をしていれば、次に走る時にはもっと速く進む事ができたのではないか・・・そんな気がする。

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2011年6月20日 (月)

高速料金割引

高速道路料金の上限1000円がなくなるということで、この週末は駆け込みの利用が相当あったようだが、改めて個人的な考えなど。

以前にも書いているが、高速道路というのは「時間を買う」ものだというのが、個人的な捉え方だ。もうだいぶん前になるが、オケのメンバーで夏油にスキーに行った際に強くそう思った。

だから理想は同じ距離を一般道で走った場合との時間的な差(距離的な差はあまりないので意味がない)が反映された料金体系が望ましい。高速がない時代、東京-宮城間は途中白河で一泊が必要だったそうだ。それをそのまま反映しては鉄道に勝てないが、2日間を半日に短縮できる「ありがたみ」というのが、もっと感じられれば良い気がする。

単純に距離で料金を決めても良いのだが、その場合も加えて時間の概念が欲しい。特にETCによるクレジット決済の利点は、端数の金額でもそれほど問題がない事だ。人の手による料金所で1円単位の支払いをしていたらうっとおしくて仕方ないが、クレジットなら問題ない。(個人的にガソリンをカード決済にするのは、その理由が一番大きい。)

A地点からB地点までの距離を500kmとして(おおよそ盛岡までの距離だ)、時速100kmで走れば5時間。これを基準として時間が長くなるほど割引するようにする。時間を短縮した場合は割高にしても良いが、理屈上それはスピード違反になるので、自動通報システムがあっても良い。

長距離なら、大体途中で休憩をするから当然自然に割引が発生する。運転する側としては、急がないなら休憩を増やせば良いので、余裕を持つようになり事故の確率が減る。
さらに渋滞が発生した場合も、到着時間が遅れるほど割引率が高まるから、ストレスも(若干は)減るはずだ。(そもそも渋滞で遅延しても同じ料金というのはあまりにひどい。)

短距離の場合は時間的な差ほとんど生じないが、長距離ほど割引率が高まるので、遠出をするようになるかもしれない。

もちろん、ベースとなる料金は一律ではないので、距離に比例して金額は大きくなるのだが、時間による割引が加われば、途中の走り次第では相当安くなるといった設定も可能だ。距離で料金が同じなら、さっさと走破した方が得なので、スピードを出すようになるが、ゆっくりいけばそれだけ安くなるなら、無理なスピードを出すこともなく、事故や道路へのダメージも減らせるだろう。

という訳で、別に難しいことではないと思うし、関係者にもそういったことを考えたことのある人間は一人や二人ではないと思うのだが、何か実現できないような問題があるんだろうか。

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2011年6月16日 (木)

情報を伏せる理由

今回の原発騒動のなかで、情報を公開するとパニックになる、という理屈で、情報が隠蔽されていたということが言われているが、そのように言った人の考える「パニック」とはどのような状態だろうか?

震災直後に見られた買いだめのような現象だろうか。しかし、確かに混乱はあったが、あれをパニックというのは言いすぎな気もする。それに当時すでに起こっていたのだから、あれをパニックというのであれば「パニックになるので公開できない」という理屈は通じない。

そもそも、あの震災すら諸外国が驚くような冷静さで対処した日本人に「パニック」なんて起こりうるのか?という気もするのだが、どうなんだろうか。

一方で、パニックになるから、というのは方便にすぎないのではないか、という気もしてくる。情報開示を「しなかった」のではなく「できなかった」ことを、さもしなかったように見せるための理由として使われているだけではないかという事だ。

あの時、もしパニックが実際に存在したとすれば、それは原発をめぐる現場と官邸、さらにメディアの周辺以外にあり得ない。つまり「パニックになるから」「情報開示しなかった」のではなく、「パニックになっていたから」「情報開示できなかった」というのが妥当ではないだろうか。

それを、自分たちはパニックに陥っていないなどと取り繕うとするから、「他がパニックになるから」という奇妙な理屈になる。

そもそも隠蔽というのは、当事者もよく分かっていないから発生するものだ。当事者が1から10まですべてを把握していれば、分かっていることとして説明は可能になる。ところがそのうち1でも分からないところがあれば、説明できない。だから結果として情報が開示されない。

そういう意味では、「この情報は伏せておこう」と感じる時には、自分はそれに関するすべてをまだ理解していない、と考えると良いのかもしれない。

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2011年6月15日 (水)

会社の机

昨日は(株)ワーク・ライフバランスの小室淑恵氏のセミナーに行ってきた。ワークライフバランスというのは、今の自分にとってはあまり重要な要素ではないのだが、働き方を変えるヒントとしては価値がある。

そもそもワークライフバランスというのは、ワークとライフのバランスをとれ、という話ではないと思うのだ。ワークの面からいえば「時間生産性を上げろ」、ライフの面からは「個人が果たすべき社会的な責任から逃げるな」という極めてシビアな要求の話であり、これを否定するというのは、どう言い繕っても実は単なる現実逃避行動にすぎない。

それではあまりに厳しすぎるから、ワークライフ「バランス」という優しい言葉を使っているだけだ。(注:これは自分の意見であって小室さんの意見ではないので悪しからず。)

そうしてそうした視点で自分を省みれば、およそそれらを果たしているとは言えない状況が浮かびあがってくる。そこで働き方、もっといえば生き方を変えるという事が必要になってくるという訳だ。

いくつか刺激になった事はあるのだが、一つあげるとすると集中タイムあるいは集中スペースに関する話だろうか。質問の中に、日中は集中できないので、考える仕事は夜になってしまうというものがあり、それに対する回答として提示されたアイデアだ。

それ自体は珍しい考え方ではない。トリンプのがんばるタイムの話は有名だし、集中したい時に何処かにこもるというのは、意外とどこでも実践されている筈だ。

ただ、ちょっと考えてしまったのは、だったら会社の仕事机というのは何のためのスペースとしてあるんだろうか、という事だ。ミーティングをする訳でもない、集中して作業できる訳でもないとすれば、そのスペースは何を生み出すために個々の社員に用意されているのか?

実は単なるアドレスになっているという事はないだろうか。

会社としてはさておき(それは人事とかに考えてもらおう)、自分にとっては何だろうかと考えると、これが甚だ心許ない。セミナー終了後にアカデミーヒルズの平河町ライブラリーの見学をしたのだが、そうした「ワークスペース」を見ると、なおの事会社のあの席は何なんだ、という気になってくる。

もしかしたら、本当に「会社における住所」程度の意味合いしかないのかもしれない。あるいはその程度の位置づけの価値しか生み出せていないとでも言おうか。

時間生産性ももちろん大切なのだが、空間生産性というのも一度考えてみると良いのかもしれない、などと考えてしまったのだった。

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2011年6月14日 (火)

原発徒然

イタリアで国民投票により原発が否定された・・・だからという訳でもないが、いくつか考えた事など。

まず個人的な原発に対するスタンスを明らかにしておくと、消極的な肯定派という事になるだろうか。ガンダムなどを見て育っているためなのか、人類は原子力もゆくゆくは制御できる、あるいは制御すべき、という楽観があるのかもしれない。

未来に負債を遺すのか、というが、実際にはすでに遺してしまっている。すべての原発を無くしても、放射性廃棄物は残る。原発を無くした後、これをなんとかしようというモチベーションを人類は持てるだろうか。原発を続けるなら、放射性廃棄物をどうするかという課題は常に意識されるだろうが、なくなったらハイおしまい、で先送りしてしまうという事はないだろうか。

未来の人類が、「こんなものを遺しやがって」というのか「あの時やめずに続けていたら」というのかは、未来の人類にしか分からないのだ。
(そういった意味では「未来のため」というのは個人的にはあまり好きではない。そういう気持ちは大切だと思う反面、結局それは今の自分たちによる一方的なものにすぎず、免罪符にも何にもなりはしないと思うからだ。)

もっとも、現実問題として、今の原発が「制御できている」に足るとは思わない。おそらくまだ実用段階、あるいは普及段階というには早すぎる技術という事なのだろう。だから、「脱」原発ですべてを捨てるのではなく、「抑」原発ぐらいで減らす(なくす為に減らすのではない)事は考えた方が良い。いずれにしても、0か100かの議論では何だか気持ちが悪い。

それから、脱原発ばかりで、次をどうしたいのか分からない、というのも気になる。ベルルスコーニ首相は自然エネルギーに言及したそうだが、「安定電源」である原発と、不安定な自然エネルギーはそもそも置き換えが可能なエネルギー源なのだろうか。自然エネルギーの普及は大切だと思うが、原発に求められた性格とは相入れないような気がしてならないのだ。

そうそう、イタリアやドイツが脱原発を進めて、原発のあるフランスから電気を買っているというのは、福島の原発に頼っていた東京と構造的に重なるよな~などとも思ったり。
(もちろん福島の場合地元の余剰電力を売っていた訳ではないので、その部分は異なる。ようは目の前じゃなければ良いという使う側の心理としてという事だ。)
少し気になるのは、今後先進国が脱原発を進めた時に、途上国に原発を建設してそこから電気を買うみたいな構造にならないかってことで、これは単純に世界全体での原発リスクを高めることになるので、それなら先進国で持っていた方が良いのは確かだ。

そんなことは許されない、というかもしれないが、食料生産や工業製品の製造をそうやって移転してきたのが、これまでの歴史だということも忘れてはならない。電気の場合、物流コスト(送電ロス)が大きいからそうなっていないだけの話で、それが劇的に改善されれば、一線を超えるのはむしろたやすいのではないか、という気がしなくもない。

うーむ、まとまりなくだらだらと書いてしまった。

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2011年6月13日 (月)

楽器に触れる機会

先週は朝にバタバタする事が多かったのだが、今日は久しぶりに落ち着いている。会社が定時後に消灯するようになり、夜の余裕がなくなった影響だろうか。普段から遅くまで働いている訳では(まったく)ないが、いざとなれば残れると考えるのと、無理にでも終わらなければならないのとでは、心の持ちようが違うのかもしれない。

それはさておき、昨日の府中オケは、午前中の分奏に加えて、午後はパート練習と少々多忙な練習だった。分奏は管楽器が居ない分密度が濃くなるし、パート練習に至っては弾きっぱなし(自分は弾けないが)なので、楽器に触れている時間は相当長くなる。

大学時代であればある意味日常的ともいえるかもしれないが、社会人となるとそうはいかない・・・と書いてふと思った。なんで社会人だと学生のようにはいかないんだ?

時間の自由?だが、学生にも学業というものがある。個人的にサボっていた記憶はないので、拘束時間が仕事ほどではないにしろ、使える時間があるかないかという点では大差ない。
もっとも、「通勤」時間は圧倒的に違うだろうが。

いずれにしても、時間の自由よりも場所の自由だという気がしなくもない。昼休みにも練習できた高校時代、ほぼ毎日練習があった大学時代、それらを支えていたのは、時間ではなく場所だ。場所があるからその場を使う時間を捻出できる。時間があっても、場所を作るのは難しい。

以前書いたが、普段から鞄に忍ばせ、空き時間にカラオケボックスで練習できる楽器とは訳が違うのだ。

とはいえ、そんな事を嘆いても始まらない。そんな状況でも練習する、もっといえば「楽器に触れる」機会を作るにはどうしたら良いか、前向きに考えた方が良い。

土曜日は、久しぶりに練習の事を忘れて好きなように弾いた。そういう楽しむ機会をもっと作れると良いような気がする。

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2011年6月 7日 (火)

ピアノ版

冷静に考えると、先日購入したCDもまだ聴き終わっていなかったのだが、また新たに購入してしまった。自分にしては珍しく、ピアノが中心だ。

次回の府中の定期演奏会で演奏する曲の中で、ドビュッシーの小組曲についてはピアノ版が存在することは知っていた(もっとも、こちらがオリジナルで、しかも管弦楽版は別の人による編曲だとは知らなかった・・・)ので、それを探すのが主目的だったのだが、漁っているうちに、ラヴェルのスペイン狂詩曲とボレロにまで作曲者本人の編曲によるピアノ版がある事が分かり、こちらも購入。

さすがにフォーレのペレアスとメリザンドについては、ピアノ版というのはなかったのだが、こちらは同じ戯曲(「青い鳥」を書いたメーテルリンクが作者)を元にした音楽が幾つかあるという事で、それをまとめたCDというのを買ってみた。

というわけで、少し早いが次回演奏会の(第一回目の)ご案内。

府中市民交響楽団第64回定期演奏会
日時:2011年10月2日(日)13:30開場 14:00開演
場所:府中の森芸術劇場どりーむホール
指揮:高橋勇太
曲目:
ラヴェル:ボレロ / スペイン狂詩曲
ドビュッシー:小組曲
フォーレ:組曲「ペレアスとメリザンド」
全席自由(無料公演)

演奏会のタイトル(ここ数年副題というかテーマを表すタイトルをつけている)などは、おいおいお知らせする予定。管楽器の見せ場の多い曲ではあるが、自分にもソロがあったりする。


・・・で、実はまだCDはiTunesに取り込めてもいなかったりする。早めに聴いておきたいところだが・・・。

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2011年6月 6日 (月)

被災地で考えたこと

金曜日土曜日と東北を訪問した。日本フィランソロピー協会の主催する訪問プログラムで、気仙沼と石巻を見て回ったので、感じた事などを書いておく。

現地の状況は直後に比べれば(当たり前だが)大分落ち着いてきたようだ。受け入れてくれたNPOの方が、「この時期に来てくれて良かった。少し前ならそれどころではなかった」と言っていたのが印象的だ。確かに、ボランティアでもない人間が「話を聞きにくる」のを受け入れる余裕はなかっただろう。

とはいえ、改めて見て回ると、手つかずと思える地域も多くあり、これからどうなるのか、という気になってくる。一番印象的だったのは、目に見える被害の状況にかなりの落差がある事だ。
聞かされていた話ではあるが、実際に目にするとやはりインパクトが大きい。

建物をなぎ倒すような津波に襲われた地域の状況は、報道などで目にする通りと考えて良い。車が入っていける様になっているのは、その部分の瓦礫の撤去などはすでに終わっているということなのだが、今の状況でも撤去はまだまだという感じで、正直なところ直後の光景を想像するのは難しい。

一方、津波が届かなかったエリアというのは、一見日常を取り戻しているように見える。津波で冠水しても、破壊される様な被害がなかったエリアもそうだ。

が、話を聞くと、「生活」におけるダメージはあまり違いがない。自宅避難者と呼ばれる方々は、避難所では生活していないかわりに、避難所における支援も受けられないからだ。
気になるのは、そうした違いが、互いを疎遠にし、コミュニティの断裂につながるのではないか、という点だ。

直接話を伺ったある学校の校長先生は言っていた。
「今はできる限り子どもたちを笑顔で包んでいたい。そのために多くの支援、多くの人達に触れさせたい」
その学校では、子どもたちが笑顔になれるようなイベントや、一線級の著名人を呼んで話を聞くといったことをやっているそうだ。

しかし、別の話も(こちらは聞いた話として紹介されたものだが)聞いた。
「様々なイベントを与える事が子どもたちのためになるとは限らない。日常の教育環境を取り戻す事が大切」

実際のところ、学校としての機能を失って避難所となっている所は文字通り「避難所」としてなんでもやるが、学校としての被害は少なく、学校としても再開している避難所では、徐々に避難者のための支援活動が敬遠されつつあるといった話も聞いた。

考え方も違いもあるのかもしれない。取り巻く環境の違いが、そうした違いを生んでいるのかもしれない。いずれにせよ、正解は誰にもわからないし、正解よりも今できる事、最善と思える事を一つひとつやっていかなければならない事に違いはない。

もう一つ強く感じたのは、緊急支援はさておき、今後の復興支援は、遠隔地からでは限界があるだろうという事だ。実際のところ、必要とされている支援は細かく違う。商売のように、相手にあわせた活動が必要で、同じ内容で大規模に、という活動はほとんど意味をなさない。

となれば、東京や西日本からできる事というのは限られてくる。むしろ現地への権限的な移譲や、期間を区切ってでも誰かを現地に投入して初めて効果的な支援活動ができるのではないか、という気がする。

そもそも、仙台と石巻でも違うし、石巻でも地区によって異なり、さらにいえば避難所のリーダーの考え方によっても違うのだ。
そうなれば営業が地域やお店、担当者に併せて商談をするように、進めていくしかない。一律なんて無理だから、あとは縁を活用するしかない。本社主導でああだこうだ考えるより、現地に担当者を(フリーの予算と共に)指名し、報告だけはあげてもらってあとは独自に動いてもらった方が良いのではないか・・・そんな事を考えてしまった。

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2011年6月 3日 (金)

東北訪問

今日は書くか少々迷ったのだが・・・今日明日と日本フィランソロピー協会の主催する被災地訪問プログラムで、宮城県(仙台、気仙沼、石巻)を訪問する。現在新幹線で仙台に向かう途中。

ボランティアが目的ではなく、現地のボランティアセンターやNPO団体の話を聞くのが中心だ。今のところ会社は従業員の被災地派遣(ボランティアでの派遣)は考えていないのだが、今後を考えると何らかのプログラムの検討はしておきたい。

そんなヒントも得られれば、という訪問になる。

可能であれば、父の所を訪問したり、ボランティアもしたかったのだが、前後の予定に余裕がなく、今回の訪問プログラムへの参加が精一杯だった。夏に予定されている輪番休業のおかげで、オケを休む訳にいかなくなっている。まぁ、逆に輪番休業が始まれば機会は作りやすくなる。

実際のところ、震災後に東北に行くのはこれが初めてなのだが、どんな衝撃が待ち受けているのだろうか。もっとも、心配なのは、むしろ事前の想像が膨らみすぎて、現地で気づきなく終わってしまう事だ。中途半端に達観したりしているので、何でも「そんなものだ」と受け入れてしまうのは、自分の悪いくせだろう。

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2011年6月 2日 (木)

書けない時

書けない時は書けないと割り切るしかない。

昨日の内容にも関係しているのだが、ブログを「書く」というのは、ある種溜め込んだものを吐き出す行為に似ている。つまり、「溜め込む」という前段階が必要になる。

はてなブックマークやTwitter、Facebookなどで短いメッセージを発していると、この「溜め込む」が発生しなくなる。ストレスに似ていて、その都度発散してしまっているために、ブログの形に結晶化する事が難しくなっているのだ。

もちろん、一言では書き表せないような事は「ブログ化」される訳だが・・・。

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2011年6月 1日 (水)

アウトプットの準備

1ヶ月に一度ぐらいのペースで、会社のメールマガジンにちょっとしたコラムを書くのだが、最近その内容に苦しむようになってきた。何というか、書くネタに困るのだ。

ようするにインプットが足りないという事なのだろう・・・とは思うのだが、別の要因もあるように感じている。メールマガジンの他にも、掲示板やらブログやらでインプットした端からアウトプットをしてしまっているので、ストックがないのだ。

つまり、何を書こうか、と思った時に「あれは書いた」「これも書いた」になっているような気がするのだ。右から左に受け流す様にスルーさせてしまっていて、蓄積をしていない。目や耳から入った情報が、脳に溜まらずに指先から流れ出しているとでも言えば良いだろうか。

この状態がまずい、というのは安易すぎる気がして嫌なのだが、とりあえず今日のネタに困っているのは確かで、さて、どうしたものか。

そもそも、今日書くネタを今日インプットして凌ごうという姿勢がまずいのかもしれない。
ブログやTwitterのせいではないのだが、どうもそのスタイルに慣れてしまって、アウトプットの準備というものをしないようになってしまっている気がする。

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