« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月31日 (水)

投資目的のマンション購入

昨日はどういう訳か2件立て続けに投資としてのマンション購入の勧誘電話があった。

実は「住むため」ではなく「将来のため」(将来住むため、ではない)に購入するという発想がそもそもよく分からない上、直近であんな震災があり、関東ではまだ起きていないにもかかわらず、恐らくは起きた後に迎えるであろう老後の資金のために都内にマンションを借金して購入するというハイリスクローリターン(下手すればノーリターンかマイナスリターン)なことを勧めるビジネスが何で成り立つのか、個人的には不思議で仕方がない。

1件目は名前も知っている某工務店。数日前にも電話があり、手紙が届いていたりしたのだが、再度の電話であまりにしつこいので受話器を置いてしまった。入社した時に「しつこく勧誘してくる相手でもそのやりとりを離れればお客様だ」と言われていたのを思い出して少々反省する。

そのように考える事はまるで自社のイメージを人質に取られているようで気が重い。

続いて別の聞いた事のない会社からも同様の勧誘電話。ふと思いついてこちらから質問を投げかけてみたのだが、何やら多少撃退効果がありそうなので、次の参考としてメモしておく。

「このところ連続して似たようなお電話を受けたんですが、私の情報はどちらで入手されているんですか?」

やや言葉を濁しながら名簿業者からとの回答。

「それは個人情報保護の観点から問題はないのですか?」

名簿を買う事自体は違法ではないという回答。

「じゃ、それは名簿業者側の問題で、買う側にあるのは道義的な問題という事ですね(と軽くジャブ)。でもその名簿業者とかはどうやって情報を得ているんですか?」

展示会や街頭での名刺交換などでとの回答。

「そういったことは経験があって(実際ある)、後日その会社からコンタクトがあった事はありますが、その情報を他に提供するというのは問題ではないんですか?」

名刺を提供した以上、そうされることも了承したとみなされるとの回答。

「もちろん名刺を渡した相手から連絡をいただくのは仕方ないと思いますが(本当は嫌だけど)、それとその情報を他社さんに提供するというのは話が違いますよね?」

この辺りで旗色悪しとみたのか、相手に言葉を濁しつつ電話を切たげな雰囲気が漂う。

で、今回は(それで勘弁して)終わったのだが、そんな訳で次にコンタクトがあったら次のように対応しよう。

「分かりました。お会いしたいと思います。ただし、その際に私の情報をどのように入手されたのか、名簿業者であればその業者の情報も含めて書面での報告をお願いします。その内容に納得できたら、あなたのお話をお聞きしたいと思います。あなたが答えられないのであれば、それに関する責任者の方に同席いただいても構いませんが、必ず書面での報告をお願いします」

・・・うん、それでも会うなら会ってもいいかも。もちろん当日は机の上にレコーダーを置かせていただく。なんだか逆に楽しみになってきたぞ。「法務部の人間なんです」とかって誰か同席させても面白いかもしれない。

もっとも、自分の場合名前はウェブ上に晒されているので、「それを見た」と代表電話経由でコンタクトがあった場合はこの手段は使えないのだった。その場合はどうするかな・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月30日 (火)

勉強不足とアピール不足

民主党の新代表が野田氏に決まり、次の首相が事実上決まったのだが・・・野田氏って誰?

・・・政権や民主党を批判する前に、そんな状態の自分を恥じるべきではあるのだが、何かについてこうした命題に囚われる事は少なくない。

それは、知らないのは自分の勉強不足か、相手のアピール不足か、という命題だ。

簡単な解決方法はある。もっとも安易なのは「常に相手の問題」としてしまう方法で、自分が受け手側であれば「当人のアピール不足」となじり、自分が発信側であれば「勉強不足」と断じるやり方だ。
(全然関係ないが、Twitterなどで絡んだ時にキレるタイプというのは大体こうした傾向がある。)

次に安易なのが「常に自分の問題」とする方法で、自分はこの傾向が強い。だが、自分が発信者であればアピール不足を反省し、受信者であれば勉強不足を恥じるというのは、一見謙虚そうにみえてそうではない。それは「相手への不干渉」「自分も干渉されたくない」という心理でもあるからだ。厳しい言い方をすれば、反省に酔っているだけで、必ずしも解決につながる訳ではない。

つまるところはケースバイケースで判断をしていく事が重要という事にはなるのだが、そうであっても一定の判断基準のようなものは必要だろう。この辺りのバランス感覚が優れている人が、どのような見方をしているかについては、結構興味がある。
(例えば思考のパターンとして、まず自分の責任と捉えた上で相手の問題点にアプローチするのか、相手の責任と捉えた上で自分の問題点にアプローチするのか、といった順番だけでも案外結果は変わってくるように思える。)

いずれにせよ、正解というものはなく、なんらかの切り分けというか、割り切りのポイントをどこに置くか、という問題ではあるような気はするのだが。

さて、冒頭の命題に戻るのであれば、関心が低いのは自分の責任だし、もう少し知っていても良いとは思うのだが、それほど事前に知る事ができるかといえばそうではないだろう。アピール不足というよりも、そもそもアピールの大きさで決めて良いのか?という議論もあるからだ。能力のある人は自ずと目立つ傾向にはあるが、目立たなくても能力のある人がいない訳ではない。

むしろ必要なのは、これから何をしていくのかをきちんと見つめていく事なのだろう。そもそも菅氏にしても鳩山氏にしても、どこまでそうやって見つめていたか、といえば甚だ心許ない。彼らの功罪を自分がどのように捉えているか、内容はともかくそれが語れないとすれば、それは自分が反省すべき事であって、彼らの問題ではないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月29日 (月)

フランスものの難しさ

昨日は久しぶりに府中の練習に出席。会社は休むことになるが、さすがにオケを休みっぱなしという訳にもいかない。

幸いなことに今回のフランスものの選曲は、譜面上とてつもなく難しいという訳ではない。難しい箇所もあるが、量的には限られるので、短時間の練習でも「弾くだけなら」何とかなる・・・のだが、何だか音楽になっている気がしない。ようはただ弾く以上の何かが要求されているということなのだろう。

久しぶりに聴いた(そして弾いた)府中だが、まとまっているのかどうかがさっぱり分からないのだ。厳しい言い方をすれば、音楽としての表現ができていないように感じられる。これはきっちり弾けば音楽になるような曲ではないからだろう。

昨日の練習は前半のプログラムであるドビュッシーの小組曲と、フォーレのペリアスとメリザンドだったのだが、合奏に身を置いてみて改めて思うのは、いわゆる「弾ききった達成感」のようなものは、これらの曲には求められないということだ。(後半のラヴェル2曲は多少そういった要素も求めることができそうだが。)

そうではなく、所々の旋律の移り変わりや響きの変化を楽しむ曲ということなのだろう。実際小組曲などは、原曲であるピアノ連弾を聴いているとそういう感じが現れている気がする。

そうしたことを楽しむには、お互いの音をもっと良く聴き合うとか、あえて自分の弾き方を変えてみて刺激を与えてみるとか、なんというかジャズのセッション的な要素が求められるような気がする。自分のパートを毎回同じように真面目に弾くことよりも、今回はどんなアンサンブルになるだろうか、と探り合いながら、時には自分からも変化を与えていくような演奏への参加の仕方が必要になってくるのだ。

これは、結構(かなり)難しい。そもそも、そういった音楽はほとんど経験がない。あるいは室内楽を数こなしていれば、もう少し違ってくるかもしれないが、ライブのライブたる部分を楽しむ音楽というのは、府中も自分も苦手な領域に入るだろう。ある演奏のパターンを反復で再現できるようにする練習ではなく、刻々と変化する状況に合わせて柔軟に演奏パターンを変えていくような練習はほとんどしていないからだ。

とはいえ、そうした音楽を楽しめるようになれば、もう一皮むけるのは間違いない。
本番まであと1ヶ月。どこまでそうした懐の深さを獲得できるかは・・・どんな練習にかかってくるのだろうか。

それが想像できないってのが難しいところなんだよね・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月27日 (土)

休日に

今日はやや熱っぽいな・・・というのはさておき、本来今日は輪番休日で休みのシフトなのだが、諸事情により出勤となっている。会社にとってはやや(結構?かなり?)重要な要件のためこれ以上は書けないが、正直にいえば少々気が重い。

いや、別に悪い話ではないので、テンションを下げる必要はないのだが・・・ちょっと寒いなここ(エクセルシオール渋谷宮益坂店)。

さて、昨日はMacBook Airの再セットアップをした。なぜ?と言われると何故だろうという感じではあるが、データ移行ツールでの移行がどうにも余計なものまで移行してしまっているように感じて、気になってしまうからだ。これは昨今の放射能騒ぎと同じで、真偽はさておき気になる以上は仕方がない。ようは自身の心の平安を得るためとも言える。

ただ、あまり詳しく調べもせずに再セットアップを開始してしまったため、なんだか右往左往してしまった。MacBook Airで保持するデータでもっとも重要なのはiTunesのライブラリデータなのだが、この移行に半日以上かかってしまう。

ま、色々試す事ができたので、次は大丈夫だろう・・・次はしばらくないとは思うが。

加えてサファリのブックマークやらのバックアップもしていなかった。サファリについては、iPhoneと同期をしているのでそちらから復元する事ができたが、今後使っていく中で「あ、あれ忘れてた」みたいな事が出てきそうな気がしなくもない。

とはいえ、今のところはMacBookがほぼそのまま残っているので、それ自体がある種のバックアップではある。使っていく中で徐々に乖離は進んでいくだろうが、今の所MacBook Airの中身はMacBookから抽出した一部分だからだ(OS以外は)。

今後は徐々に使い分けを意識して、MacBook側でのデータ整理を進める訳だが、それが進行すると両者は別物になっていくのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月25日 (木)

情報を共有するという事

Podcastで「日経ヴェリタス大江麻理子のもやもやトーク(第114回)」を聞いていたら、情報共有について「100点は狙わずにすべての情報を共有する」という話があって、なるほどと思ってしまった。

この「100点は狙わない」というのは、情報の正確性についての話で、100%確かとは言えない情報でもすべて共有する事なのだそうだ。

日本的感覚(かどうかは知らないが)では、普通逆の発想をしている気がする。「すべての」情報を共有する方ではなく「100%確かな」情報を共有する(不確かな情報は提供しない)事を考えるのだ。

あるいは「すべてを説明できるようになってから伝える」といった発想もあるかもしれない。

こうした発想は、情報を伝える相手に対する信頼、あるいは割り切りのようなものが表れている気がする。

例えばCSRレポートの多くは、読者に「信頼してもらう」事を編集の目的にあげる事が多い。そもそも企業による情報発信の多くは、そうした発想に基づいている。

が、そのわりに企業は読者の事を「信頼して」はいない。だから、不確かな情報は伝えない。原発関係で、政府が情報を伏せるのも「パニックを防ぐ」といえば聞こえは良いが、国民を「信頼していない」からとも言える。

一方でそれは、読者や国民側の問題でもある。企業や政府に信頼されるだけの態度を示してこなかったから、という捉え方もできるからだ。

とはいえ、発信側の責任がより大きいという事は言えるだろう。

信頼する、というのはある種の覚悟といっても良い。「信頼される」際の主導権はなんだかんだ言っても相手にあり、自分が何をしようと最後は相手に委ねている形になるが、「信頼する」というのは相手の反応も含めて自分の側で飲み込む事だからだ。実はこちらの方がはるかに胆力とエネルギーを必要とする。

すべての情報を共有するというのは、相手への信頼を必要とする。信頼されるためには、あるいはすべての情報でなくても良いかもしれないが、情報云々に関係なく、こちらが信頼していないのに相手に信頼してもらうのは無理だし、仮に信頼されるとしたらそれは相手を騙している事になる。

もっとも、そうは言っても簡単ではないのは確かだろう。

「100点は狙わずにすべての情報を共有する」というのは、逆にいえばそこまで意識していなければすべての情報は共有されないという事でもある。ほっといてもすべての情報が共有されるのであれば、こうした心構えは不要だからだ。

あるいはこうした意識を双方が共有する事が、すべての情報の共有を行うための第一歩かもしれない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年8月24日 (水)

会議の時間

このブログは自分にとっては「情報発信」というよりは「ストレス発散」のようなものなのだが、そういう使い方をしている事にはやや忸怩たる思いもあったりする。

・・・という言い訳じみた(というか言い訳)前置きはさておき、昨日は6時間近くこもりっぱなしで打ち合わせ。週末に行われる(休日に出勤だ・・・)会議のための資料作りだが、正直長い。でも終わってない。

資料作りは一人でやった方が良いのか、グループでやった方が良いのか、内容的には一人の手に余る部分もあるのでグループでやるのは構わないのだが、どうしてもダラダラ感は否めない。

時間を区切るといった方法もあるのだろうが、こういった時間をなんとかする事はできないだろうか。自分の場合、PC操作も受け持っているので、ついついそちらを言い訳?にして内容について考える事がおろそかになるのだが、これも良くないだろう。


さて、今日は早めに行って、そのおかげで昨日できなかった作業をやりますかね・・・続きもあるけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月23日 (火)

ねんきん定期便

少し前(というか4月算定だからだいぶ前か?)に「ねんきん定期便」が届いていて、とりあえず特別便で確認して以来環境に変化はなく、問題はないはずなのでしばらく放置していたのだが、昨日開封してみた。

あー会社名が間違ってるよ(異なっているという訳ではなく、手入力でデータ化された際などによく間違われるもので、支障がある訳ではないが、相手の誠意や注意力を疑う程度には気になる)などと思いつつ、中に「(参考)将来の年金見込み額をご自分で試算できます」というのがあったので、参考までにやってみる。

残りの期間を数えてポチポチ・・・も、盛り上がらない(気分が)。

そもそも本当にもらえるかも分からない社会状況であるというのはさておき、これが盛り上がらないのはシミュレーションにすらなっていないからだろう。いくら払うかは勝手に決められていて、「どれぐらい払っておけばどれぐらい貰える」なんて想定のしようがない。今後の収入次第で積立額と貰える額が変わってくるというある意味みもふたもない計算式で、何を試算しろというのか。

もちろん、これは「どれだけ貰えるようにするか」を考えるものではなく「どれだけ貰えるか」を意識しておけ、という話にすぎず、不足と思うなら貯蓄とか財形とか個人で備えよ、というメッセージにすぎない事は分かっているのだが、なんとも脱力感に襲われてしまったのは確かだ。

こんなものに用紙1枚を費やすのであれば、年金機構の財政状態とかそういったレポートを入れてくれた方がよほど役に立つ。そもそもこの定期便にどれだけコストがかかっているのだろう。


ちなみにネットで見れますという案内も入っていたのだが、ネットに切り替えたら貰える額が多少なりとも増えるっていうならともかく、特にそういったインセンティブもなく切り替えるのは面倒だな・・・と思って放置してしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月22日 (月)

NPOと企業とのパートナーシップ

先週、NPOのマネジメント研修のお手伝いをする機会があった。企業との協働の機会を得たいNPOによるアプローチの相手をするというものだ。

NPOと企業とがパートナーシップを結ぶために必要なことは何か。

特にNPO側からのアプローチを考えた時に、個人的にいつも欠けていると感じる要素がある。
それは、そのNPOが考える課題が解決された結果、どのような社会になるか、というビジョンだ。

例えば、エイズ孤児がいなくなったらどういった社会になるのか。地雷がなくなったらどんな社会になるのか。「安全で平和な社会」といった漠然としたイメージではなく、もっと具体的な青写真としてどんな社会にしたいと考えているのか。

その方向性が一致した時に、パートナーシップは生まれる。描かれた社会像に、NPOと企業双方が互いのリソースを生かしてアプローチするのが「パートナーシップ」ということだろう。それがない間は、企業が「NPOを支援している」にすぎない。

企業が支援を行うことで「団体から」リターンを得ている場合、それは企業とNPOの間で取引が発生しているだけとも言えるだろう。キャンペーンによる企業イメージ向上も、寄付付き商品による売り上げ向上も、突き詰めればそうした取引にすぎない。

もちろん、それはそれであって良いが、それはパートナーシップとは言えないような気がするし、相互の取引である以上、いつ中止されても文句は言えない。

そうではなく、企業が支援を行うことで「その社会から」リターンが得られるようなモデルを構築する必要があるのではないか。NPOと企業が手を組んでその課題にアプローチすることで、解決を図ると同時に双方がそれぞれのリターンを得るというモデルがあって、初めて協働と呼べるような気がしなくもない。

あるいは、企業がNPOを支援し、NPOが社会を支援し、社会が企業にリターンをもたらす、という三角形の循環が生み出すという方法もあるかもしれない。

こうした方法は、すでにマーケットである場合には、比較的構築は容易だ。例えば東日本復興支援は、その復興がそのまま企業にとってのリターンにもつながってくるので、モデルは構築しやすい。

一方国際協力NGOなどの場合は難しいだろう。その企業にとってはマーケットとしてのターゲットでさえない地域かもしれない。そういった意味では、どういった企業が「手を組む」相手として良いのか、という見極めも必要になってくる。

こうした考えはまだまだ一般的ではなく、実際には団体からリターンを得る形で企業が支援をしているケースが多いような気がするが、今後はそうしたモデルを構築することが必要なのではないか、という気がしている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月21日 (日)

演奏会をプロジェクトとして捉える

気がついたら府中の本番が迫っていた。

演奏面についてはまだまだ準備の余地がある(というか自分がまだ練習に参加してないし)。
問題は運営方の準備だ。理想をいえば、そろそろ大方の準備は固まってるのが理想だろう。

練習から離れていたため、といってしまえばそれまでかもしれないが、その準備が遅れている・・・気がする。自分自身の日時感覚がずれているのかもしれない。

もちろん間に合わないかといえばそんなことはなくて、多分間に合わせることはできるだろう。でもそれは「間に合わせた」だけで、演奏会を一つのプロジェクトとしてみた場合に、そのマネジメントができていたかといえばそうではない。

何故だろうと考えてみる。

多分自分の中に、それらをルーチンワークとしてこなしていこう、こなしていけるようにしよう、という感覚があるからではないか。だからなんとなく「ここでこれをやろう」「この時期にはこれが必要」というぐらいの感覚でしか捉えていないのだ。

ようするに一つの演奏会の成功に向けて、練習の開始(もっとさかのぼれば予算の編成)から当日の打ち上げ終了、翌日以降の残務処理までの流れを、プロジェクトとして把握できていない。個々のルーチンの積み重ねでこなしていこうとしてしまっている、という感じだろうか。

もっとも、これはオケ全体でもある程度は言えることだ。もともと毎週の練習を基本として、その間に発表の機会として演奏会があるスケジュール感の中で動いており、演奏会の単位では動いていないようなところがある。

例えばオレイユの場合はそうではなく、演奏会から逆算した形で練習がスタートしている感じがある。あくまでも感覚の話で、実際にどうかは定かではないが、少なくとも自分の中ではそのようになっていて、府中の場合は(特に終わりではなくスタートの)区切りがないような感じなのだ。

他の人はさておき(こういうスケジュール感が団体として悪いとは思わない)、自分が、自分の立場がそういった感覚ではまずい気がする。演奏会をどう組み立てるかと考えた時に、ルーチンの積み重ねでは進歩がないからだ。

一度きちんと考えた方が良いのだろう。でも実際のところ、そうできたことってないんだよなぁ。そもそも自分の思考の枠組みから叩き直すような方法ってないのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月19日 (金)

組織の熱

今日は休みのため、朝から平河町ライブラリーへ。さすがに世間的には平日のため、この時間はほとんどいない。練習・・・も必要なわけだが、それは明日行くことにする。

ここしばらく(といってもまだ1ヶ月程度だが)オケから遠ざかっていて改めて感じるのは情報的な遮断感だ。なんと言うか、起きていることの情報が入ってこない。意識的にシャットダウンしたい場合はそれでも良いが、情報が欲しい時にこちらから都度アプローチが必要というのは、ややストレスがある。

別にメンバーが冷たいという訳ではない。ようはシステムの問題で、毎週練習があってそれなりの出席率が維持されているから、それを前提にした情報交換の仕組みになっているのだ。創成期のオケと違ってやるべきこともある程度定型化されているから、過剰にやり取りをする必要もない。

なんだか冷めている。人がではなく団体がだ。

演奏が熱ければそれで良い、という考え方もあるし、それはそれで良いと思うのだが、一演奏者ならともかく、運営サイドにも身を置く人間としてはやや寂しい。要するに「運営については熱がない」状態だからだ。

それはそれで必ずしも悪いことではなく、演奏に集中するために必要なことを粛々とこなせる体制ができているということでもある。実際熱がない訳ではなく、演奏会直前直後には盛り上がるし、それで十分という気もする。

ようは無い物ねだりなんだろう。現実問題としては、熱がない責任は自分にこそあって、それこそ組織に熱を入れるのが委員長である自分の役割なのだ。現在の状況は、むしろ自分の熱のなさかげんが組織に伝播された状態と考えた方が良い。

復帰まであと1ヶ月(といっても、後半は練習への参加が増えるので半ば復帰状態にはなる)何かその間にあるべき姿を考えたいものだ。

・・・前半はやろうと思っていた練習も含め、全然できてないけどな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月18日 (木)

休日前

昨日はMacBook Airで諸々の連絡作業。実際のところiPadでできない訳ではないのだが「やろう」と思うハードルは下がる。とはいえ、そういったモチベーションだけで選択するにはやや重いのも事実なので、改めてどこまでiPadでやるかというのは考えておく必要があるだろう。

iPod、iPhoneはMacBook Air、iPadはMacBookと母艦を分けることにしたので、アプリや同期設定から見直しをしても良いかもしれない。

iPadの課題の一つがメールだ。文字化けもそうだが、アドレス帳のグルーピングができていないというのが結構大きい。昨日の連絡もそうした同報メールだった。単純にグループ分けができれば良いという訳ではなく、MacやiPhoneとも同期が取れていなければ困る。今はGoogleの連絡先を利用しているが、グループに関しては同期ができていない。

アプリの使い方もやや雑多で、何を使うかという統一感がない。最近ようやくevernoteへの統合を図ろうと画策し始めたので、それを軸に見直していくと良いのかもしれない。

最近ちょっと役にたったのが、楽譜をpdfで取り込んでおいたpiaScoreだ。今はたまたま練習への参加がないが、パート内にフィードバックをしたいと思った時に、出先でも楽譜で確認できるのは大きい。練習に使うにはややサイズに問題があるが、今後はとりあえず放り込んでおくという使い方があるだろう。

いずれにせよ、iPadに音楽のデータを保持しない(MacBook上の音楽データをどうするかは検討中)と考えれば、結構な容量が確保できるので、それを何に使うかについてはいろいろ考えたいところではある。


さて、お盆までは水木が休みだったが、今週からは金土が休みになる。オケの練習に参加できないことに変わりはないが、とりあえず明日明後日の休みを何に使いますかね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月17日 (水)

MacBook Airを使う理由

今日はMacBook Airを持ってきているので、代わりにiPadがない。さすがに使うかどうか分からない状況で双方を持ち歩くのはしんどいからだ。

当然ブログの更新もMacBook Airから行う訳だが、実際にいつものプロントで広げてみるとやはり大きい印象がある。こういうところで持ち出して使うには、やはり13インチでは少々大きすぎるのだろう。画面は広いので使いやすさは格段に上だが、この時間はまだコンタクトをつけていないので視力の関係で必ずしも見やすくはなかったりする。

今日持ってきたのは、諸々考えなければならないことがたまってきたからだ。表計算やら複数の文書を見比べながら考える必要があるので、これは少々iPadでは効率が悪い。そもそもそんな時に使うためのMacBook Airでもある。

もう一つは同報メールを出す必要があるからで、これがグループ分けができていないiPadからでは少々面倒が多い。文字化けの問題も解消されていないため、できることなら同報のような場合は使いたくないという気持ちもある。

後は・・・実際にはそれだけやったら時間がなくなるとは思うのだが、可能であればDFFのアンケート募金への回答というのがある。これが実はiPadからではかなり面倒だったりするのだ。複数のwebページを同時に開いて見比べるということができないからで、過去何度かチャレンジしたことはあるのだが、よけいな所に手間がかかりすぎて、およそ無駄な時間を費やしている気分になる。

ここしばらく回答していなかったのだが、結構依頼がたまってきたので(シーズンだし)考えを整理する機会にもなるのでなるべく回答していこう。本当はなんとかiPadで効率的に回答する方法があると良いのだが・・・iPadとiPhoneの併用であればMacBook Airに頼らなくても回答できるだろうか。

そうそう、モバイルでの性能を確認する意味合いもあるので、今日はアダプターは持ってきていない。バッテリーがヤバくなれば作業終了だが、カタログ通りであればまず終電の方が先に来るはずだ(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月16日 (火)

5番なう! #2289oke

昨日は粒谷区管弦楽団サジタリウスの演奏会「5番なう!」に行ってきた。外出先でたまたま見かけた知り合いのtweetがきっかけで、正直にいえば少々遅い時間で一瞬躊躇したのだが、結論からいえば行って良かったという事になるだろうか。

粒オケ 5番なう!
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調
ベートーベン:交響曲第5番ハ短調「運命」

プログラムはこれ以上はないというベタな(失礼)選曲で、一発オケでなければ(あるいは設立初期でなければ)とてもできないものだが、一方で贅沢(すぎる)というか、羨ましい側面もある。特に運命は、実は個人的には演った事がない。

1曲目が運命かと思いきや、チャイコフスキーからスタート。

テンポはやや重め、弦も菅も多いため、音に厚みがある。時折リズムパートが指揮者の棒を追い越してしまうがそこはある程度やむなしだろう。数の関係で囁くような歌い方は厳しそうだが、補ってあまりある音の厚みがあって心地よい。

チャイコフスキーの5番は、第九を除けばこれまで一番演奏回数が多い曲で、聴く回数も少なくない。指揮者による解釈の違いも結構あるので、そういった中で組み上げられた「自分の好み」と、今回の指揮者の解釈を比較するような楽しみがある。

そういった視点では、もう少し緩急や強弱があれば良かったと思うし、第4楽章などはもっと疾走感があるのが(要するに早いのが)好みなのだが、全体としては安心して聴いていられる良い演奏だった。

なんだか上から目線だが、どうにもそうした分析的な見方をしてしまうのは、自分も演奏者だからだろうか。

・・・が、後半の運命は少し様相が違った。

正直にいえば、チャイコフスキーよりも「難しい」曲である事が良く分かる演奏だったと言えるだろう。冒頭の運命の動機は指揮者のタクトについていけておらず(やや独特なタイミングのような気はしたが)、伸ばした音が間延びしてリズムに乗り切れていない。アンサンブルも荒っぽく、大編成という事もあるが、エネルギーだけで押し切ったような印象がある。

ある・・・のだが、不思議なことに聴いていて鳥肌がたった。

曲の素晴らしさはもちろんあるのだが、オケと曲が放つエネルギーに圧倒されたという感じだろうか。楽譜を忠実に再現しているとは言い切れない荒々しさの反面、ベートーベンが楽譜に込めたエネルギーを楽器に叩きつけるような激しさを感じた。

それでふと思ったのだが、これが本来の音楽のあり方なのかもしれない。我々は先人達が積み上げ、磨き上げた経験と技術によって構成された「緻密で」「理性的な」演奏を聴き慣れているが、ベートーベンが伝えたかった「音楽」というのは、多少の乱れも内包した様な、こうした荒々しいまでの感情のほとばしりにこそあったのではないか・・・そんな事を感じたのだ。

こうした演奏はアマチュアならではかもしれない。それも、技術やアンサンブルの完成度を優先するようなオケでは難しい。下手でも良いという意味ではなく、何か言い表せないようなエネルギー、音楽を楽しむパワーの様なものがメンバー一人ひとりにあって、それが演奏会という場と一体となって初めて成し遂げられる気がする。

そういう意味では、「芸能」が「芸術」に転化したという捉え方もできる。あくまでも個人的な捉え方だが、芸能は「聴く人のため」に創作されるのに対して、芸術は「自分のため」に創作されるという事はないだろうか。結果として受け入れられなければ儚く消えてしまうかもしれないが、自分が表現せずにはいられなかった「何か」がそこにあって初めて芸術は芸術たり得るということはないか。作曲者に限らず、演奏者においても。

そんなことも考えさせられた、とても良い演奏会だった。
演奏側で参加してみたいと思いつつも、聴衆として参加した方が実は満足度が高かったかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月12日 (金)

節電のための海外シフト

このところ連日猛暑だが、電力需給について逼迫したという様子はない。その原因として、企業がお盆休みに入ったため、と今朝のニュースでやっていた。お盆明けに企業活動が再開するタイミングが危ないという。

ここでいう「企業活動」というのは、多くは製造業の事だろう。電力に限らないが、工場が使うエネルギーはオフィスとは桁違いだ。自社でも本社で節電を行っているが、企業全体で見ればポーズに近い。小さな積み重ねにやる価値がないとは思わないが、効果を求めるのであれば大きい需要を集中的に減らす方が効率が良い。

この話が示唆的だと思うのは、省エネルギーと脱原発を進めるためには、製造業を海外へシフトし、サービス業への産業構造の転換を図るべきではないか、という議論につながるのではないかと思うからだ。CO2削減も「国レベルでみれば」そうした対策を取るのが経済力を落とさずに削減する道筋になる。

ただ、そういった主張はあまり見かけない気がする。

世界全体でみれば、まだまだエネルギー効率が低い途上国よりも、高い技術を持つ日本などで生産した方が良い、という考え方は確かにあるだろう。(ただそれも理想からいえば技術移転を積極的に行なって、原料産地に近い所で加工した方が良い。)

しかしそれ以上に足かせになっているのは「ものづくり立国」という考え方ではないか。「ものづくりこそ日本の魂」みたいな考え方が、上記のような議論の最大の障壁のような気がしなくもない。

以前に書いたような気もするが、日本が「ものづくりの国」になったのは、せいぜい明治維新以降、実質的には戦後といって良いはずだ。実は伝統でも何でもない。伝統工芸などはもちろんそれ以前から存在するが、それは諸外国(民族)も同様であって、近代産業としての「ものづくり」というのは、実際には「伝統」と呼べる様な歴史はない。

そんな訳で、脱原発とCO2削減を進めるには、製造業へのこだわりをやめて(少なくとも「国内生産」というこだわりをやめて)海外へシフトさせる事が近道だと思うのだが、どうだろうか。ちなみに一次産業もかなりのエネルギーを使うので、食料自給率という神学論争はやめて、海外にシフトできるものはシフトしてしまった方が良いはずだ。

大切なのは、国内にこだわり続けた結果「競争に負ける形で」海外にシフトするのこそ最悪な選択だということだ。その前に、自分たちが優位に立てるように戦略的にシフトすることが「日本の魂」を守る上でも重要なのではないか。

自分の事は棚にあげて、そんな事を考えてしまったりする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月11日 (木)

MacBook Airのセットアップ

今日は休みだが、セカンドハーベスト・ジャパンでのボランティアもあるので、いつも通り渋谷のプロントに居る。7月後半から毎週木曜日にお手伝いしてきて、今日で4回目になるが、お盆明けからは休みのシフトが変わるので、おそらく今日が最後になるだろう。

それはさておき、昨日は待望のMacBook Airのセットアップをした・・・のだが、いまいちしっくりきていない。さらからセットアップをしたつもりが、必要なデータを移行するつもりで移行アシスタントを使ったら、ほとんどMacBookの環境が移行してしまったのだ。

違うよ!こうしたかったんじゃないんだよ!

・・・と叫ぼうにも、散々時間がかかったあげく移行は終了。やり直すには再セットアップをする必要がある。まぁ何もいじっていない最初のうちだからできる事として、一度再インストールをやってみよう。

ただ、そんな移行アシスタントのドタバタを通じてわかった事もある。
いや、わかっていた事ではあるのだが、iTunesのライブラリをそのまま移行するにはサイズが大きすぎるという事だ。

昨日の移行時のサイズは約170GB。写真が約20GBで、双方移せば空き領域はあっさり30GB台になる。それは流石に受け入れられない。

しかし、音楽だけならそこまでいかないはず・・・と思ったら、移行アシスタントで「ミュージック」となっているデータは、iTunesライブラリ内のビデオやPodcastなどが含まれていた。移行アシスタント上では「ムービー」というのもあって、これが220GBくらいあったので、てっきりiTunes上のビデオも含まれていると思ったら、そうではないらしい。

ということは、この220GBのムービーデータって何のデータ?・・・という疑問はさておき、MacBook Airに移行するのは、文字通り音楽データだけで良いので、その辺りは個別にコピーという手段を取るしかなさそうだ。

さて、そうなるとやはりMacBookとの併用が必要になりそうという事になる。例えば、今音楽再生のメインとなっているのはiPod nanoなので、これの母艦はMacBook Airに変更する。iPadはこの機会にバッサリ音楽データをカットする事にして(そうするとそこそこ余裕ができる)MacBookを母艦にビデオを中心に扱う。

写真も無理にMacBook Airに移す必要はないかもしれない。過去の(他のカメラでの)撮影データは、すでにquanpなどに移してあるし、SugarSyncやNAVERなどのオンラインストレージなども使えば、そもそもローカルに保存しておく必要などないはずだ。(ちなみにSugarSyncはLionにはまだ未対応というメッセージが出ていた。)

iPhoneの母艦をどちらにするかはやや微妙だが、アプリを分けて考えるのであれば、MacBook Airにしても良いかもしれない。本当ならこの機会にメールやアドレス帳の同期も行うようにすると良いのかもしれないが(今はGoogleとの直接同期でMacと同期はしていないし、そもそもMacのメールとかを使っていない)それはおいおいの検討事項だろう。

という訳で、昨日の4時間近い(移行の)待ち時間をパーにして、今日改めて再チャレンジしてみることにする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月10日 (水)

社会のリスクと個人のリスク

・・・という訳でMacBook Airの13インチを購入しました。もっとも、まだ開封しただけでスイッチもいれていません。現行のMacBookの環境を移行するか、さらから設定していくか、やや迷い中。iTunesのライブラリはもちろん移行するんですが、それ以外も一括でというのはやや逡巡が・・・。

それはさておき、物欲にはいったん終止符をうったということで、何か別の話題。
一昨日あたりから、Twitterの「自分の」TL上で、放射線絡みの話題をよく見かけるようになったので、「自らの感じる小さな不安を解消するために」少し考察してみることにする。

ちなみに「不安を解消する」というのは、「安全であると思い込む」ことではなく、自分の中で「折り合い(白黒)をつける」ことだ。事故であれ病気であれ災害であれ、結局のところ必要になってくるのはそうした「自らの判断による折り合い」であって、絶対的な安全確保を考えるとか、ましてや他人(政治や社会も含む)に保障を求めても仕方がない。

・・・と書くとすでに結論が出てしまっているようだが、せっかく書き始めたのでもう少し。

こうした問題で難しいのは、「個人としてのリスク」と「社会としてのリスク」はやや異なるにもかかわらず、混同されやすいという点ではないかと思う。

例えば食品の保存料や消費期限というルールは、社会全体での食中毒の発生リスクを下げるものであって、個人が食中毒にあうリスクを下げることとは必ずしも同じではないような気がするのだ。うん、違いの説明が難しいな。

分かりにくい例示はさておき(あえて消さないが)、放射能汚染に関しては、多くの「問題ない」情報は社会としてのリスクの観点で論じられていて、逆に「問題あり」情報は個人としてのリスクの観点で論じられているので、そこにすれ違いがあるのではないか、という気がするのだ。

一致するべき、という考えもあるだろうが、実際に何かを決める際には、個人と社会ではやはり判断基準は違ってくるというのが妥当だろう。

そんな前提をした上で、自分の捉え方を述べるのであれば、現状放射能汚染は社会的には許容できるレベルだろうと考える。というか、許容せざるを得ない。総体的に捉えるのであれば、受動喫煙や事故といったリスクとそう大きく変わらないものではないかと考えるからだ。

もちろん、現在進行形の事態だから、今後もそのままとは限らない。予防原則に従って極力低減する方向に動く事が必要かもしれないが、後は社会的なコストとの天秤だ。
むしろ、社会としてはそこで過剰な対応コストが発生してしまう事の方がリスクが高い。

一方で、それはあくまでも社会としてのリスクの話だから、個人としてリスクがあると判断する人がいれば、それは構わない。避難(というより移住に近いだろうが)ができるのであればするというのも別にあっても良いだろう。

ただし、それは個人のリスク判断の話なので、社会のリスクであるかのように声をあげるのはやめて欲しい気がする。自動車事故を避けるために(自分が)車に乗らないのと、(社会から)車をなくせと訴えるのとはまったく違う。この車の例えが今回の放射能にピタリと重なるとは思わないが、個人的にはこれに近い混同が発生しているような気がしてならないのだ。

乱暴な話だが、避難(移住)をしたい人はしてください。その際の費用は国が一時的に負担しますが、税金の形で回収します(というか国が負担すれば当然そうやって回収されるだろうが)。また、「汚染地帯(言葉は微妙だが避難する人たちが危険と考えると地域)」に残る人たちへの保障費用を「安全地帯」に住む人は負担(もちろん税金)してください、という議論であればどうだろうか。

そこで残る人たちは関係ない、というのであれば、それは社会的なリスクではなく個人的なリスクという事になるような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 9日 (火)

まだ続くMacBook Air話・・・

昨日書いたようにiPhoneでできる事を増やしていくというのは、結局のところMacBook Airを購入した場合に、iPadをどうするのか、という事につながっている。

iPhone+iPadを基本として、時々MacBook Air 13インチなのか、
iPhone+MacBook Air 11インチを基本として、時々+iPadなのか、

という感じだろうか。

物欲エントリー続きな感じだが、多少頭が夏休みモードになってしまっているのかもしれない。というか、夏休み周辺(今週ー来週)で、またMacBookの出番がありそうなのだ。夏休みといってもたいして休みがあるわけではなく、実際には平日の夜を使うことになるので、車ではもちろん持ち歩けない。この暑さの中、あの重さを抱えて歩くのは、ちょっともう避けたい・・・。

もちろんそれも単なる購入の口実といってしまえばそれまでなので、無理やり乗り切る方法もある。というか、11インチの場合オンラインストアで買う必要があるので、すでに間に合わない可能性もある。(13インチは店頭モデルで十分だと考えている。)

13インチにした場合、MacBook Airの出番はそれほどでもないため、やや宝の持ち腐れ感がある。MacBookを相変わらず残す場合、「双方共に」宙ぶらりんになる可能性も高い。
(もっとも、そうなったらMacBookは処分しても良い。寄付をするという方法もある。)

一方で11インチにした場合、iPadはほぼ出番がなくなるため、お蔵入りになってしまう可能性が高い。経験上その可能性が低くないと思うのは、普段使わない電子機器はどうしても充電がおろそかになる傾向があり、結果として「いざという時使いたくても充電から始めなければならない」というトホホな状態に陥るからだ。
この場合も、既存のMacBookについては宙ぶらりんになる可能性は高いが、作業性を考えると処分は躊躇することになるかもしれず、13インチ以上にどっちつかずになるだろう。

そう考えると、購入のしやすさから考えても13インチにしておいた方が良いということかもしれない。実際のところ、そちらの方が現実的ではある。11インチという選択肢は「いつも持ち歩きたい」という、精神的自己満足を得たいという要素が大きい。実際には、そんなに持ち歩いても仕方ないし、バッテリーの持ち時間から考えても、普段使いはiPadの方が現実的なのだ。

今日にでも買って帰るか・・・いやでも現在のMacBookからの移行を考えると作業できるのは明後日の休みになるので、明日でも良いといえば良いか・・・。

ちなみにMacBookについては、Windowsマシンにしてしまうという手もあったりする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 8日 (月)

iPhoneのカレンダーアプリ

ここしばらくiPhoneのカレンダーは標準のものを使っていたのだが、昨日ふと思いついて、昔購入したいくつかのカレンダーアプリを復活させてみた。

もともと標準アプリのカレンダーを使っていたのは、他のカレンダーアプリが3Gでは重くなりすぎて使いにくくなったからだ。実際に使ってみると、標準アプリでもまぁ十分な事が分かったので、4にしてからもそのまま使い続けていた。

とはいえ、全く不満がないかといえばそうではない。例えば月間の予定などは、標準アプリでパッと確認するのは難しい。そういった場面ではiPadを使う事にして、iPhoneのカレンダーは「いざという時には使える」程度の位置づけにしていたのだ。

考えてみれば、iPhone4であれば、そんなことを気にする必要はない。

もっとも、購入したカレンダーアプリといっても、そんなにあるわけではない。「さいすけ」「Informant」「SnapCal」「CalenGoo」といった感じだ。

どれが良いだろうか。まず、CalenGooは外す。Googleカレンダーとの同期は今回は必要なさそうだからだ。他の3つはiOSのカレンダーをそのまま表示できる。以前は複数のカレンダーは表示できなかった気がするが(だからどれもGoogleカレンダーと直接同期可能なものばかり選んでいた)、改めて使ってみると、どれでも表示されるようになっているので、わざわざGoogleカレンダーと同期する必要はない。

残りの3つのうち、SnapCalは、機能はよく分かっていないが、独自のユーザー登録が必要になる。これは、正直なところちょっと避けたい。Twitterなどとの連携もできるようだが、今の所は必要ない。(じゃあ何で買ったんだよ、とか言われそうだが。)

Informantはタスクも同時に扱う事ができる。Toodledoと同期させる事が可能だが、今のところToodledoに関しては純正アプリで特に不満がない。ただ、使えていた頃、両者が同時に見られるのは便利だった事は確かだ。(重くなって使わなくなった。)

さいすけはメニューが日本語なのが良い。たかが日本語、されど日本語。別に英語のメニューでも良いのだが、細かい所で一旦考えなければいけないのはややストレスがある。

まぁとりあえずInformantとさいすけを改めてしばらく使ってみよう。Informantについては、Toodledoとの連携も試してみる事にする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 7日 (日)

MacBook Airをどうするか

今日はあまり・・・というかネタが、ないな。

「ネタがない」というネタは過去に何度も使ってきているので、それで苦労するというか、それでも無理やり書いてしまう事に「慣れて」しまっている部分もあるのだが、毎度書いているようにそれ自体はあまり良い事ではない。

そうだな・・・では(仕方ないので)MacBook Airの話にしよう。ようするに物欲の話だ。

出た当初はiPadで十分ということで購入を見送ったMacBook Airだが、最近徐々に欲しい気持ちが強くなってきている。iPadではやや不足、でもMacBookでは重すぎる、という事態が増えているのだ。平河町ライブラリーを利用するようになって、iPadではなくMacBookでやりたいような事が「外出時に」増えたという事もあるだろう。

もちろんiPadでも、キーボードを使えばかなりの快適性が確保できる。今もそうやって書いているが、ソフトウェアキーボードを使うのとでは明らかに効率は異なる。
ただ、それでカバーできるのは文字の入力に関する部分で、もう少し突っ込んで、例えば複数のドキュメントを参照しながら、コピペも使って資料を作成するといった事になると、「できなくはないが」かなり効率が落ちるし、ちょっと「面倒だからMacBookで」になってしまう。

そんな訳でMacBook Airの購入を考えているのだが、そこで大きな問題が横たわっている。
11インチか、13インチか、という問題だ。

MacBookでやっている事を持ち出して容易に、という事であれば、13インチが基本になる。実際問題として、デスクトップの広さなどを考えると作業効率は13インチの方がずっと高い。作業性で考えると、13インチは「持ち出せるMacBook」だが、11インチは「iPad+キーボードに毛が生えた程度」になってしまうのだ。

一方で、目的を持ち歩きと考えると、11インチが基本になる。13インチは「いざとなれば余裕で持ち出せる」のは確かだが、あくまでも場面を区切ってのもので「常に持ち歩く」には少々ハードだ。仕事でもガンガン使うというのであればともかく、基本的にはプライベートでの利用だから、実際にはそんなに出番がある訳ではない。11インチぐらいであれば、そういった事を考える必要はなく、常に持ち歩いてもそれ程問題がないし、iPadまで併用するのはやや厳しいかもしれないが、それも不可能ではない。13インチの場合、iPadまで持ち歩くというのはよほどでなければ考えられないだろう。

ようは「非常時使い」か「日常使い」かという事なのだが、非常時使いであればMacBookでも何とかなるのではないかという気もするし、日常使いならiPadで良いのではないかという気がする。

このジレンマは、MacBook Airが出た当初「不要」と判断したのと同じロジックで、そういった意味では「まだ必要とはいえない」という考え方もできるのだが、一長一短で双方を満たすのは難しいのだから、どちらかに割り切らなければならないのだろう。

また、iPadで不足を感じるようになった理由の一つには、iPhoneを4にした事もあるかもしれない。3Gでは厳しい部分をiPadでカバーしていたのが、iPhoneである程度可能になったので、そういった「iOSに望む部分」というのが減っているのだ。具体的に何ということはないのだが、iPadの利用場面は減っている。その気になれば(キーボードさえあれば)ブログを書くのもiPhoneで十分な訳で、iPadサイズのデバイスにはもう少し別の機能が求められていて、そこをカバーするのがMacBook Airだとも言える。

さてさて、どうしますかね。もっとも、ブログでこうしたエントリーを書いている時はまだ迷っているという事で、「買わずに済む理由」を考えている段階とも言える。本当に買う気があれば、「どうしようか」ではなく「買いました」というエントリーになるに決まっているのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 6日 (土)

仮設住宅のコミュニティ

昨日は予定を間違えて約束をすっぽかすという間抜けなことをして少々落ち込む。慢性的な寝不足は寝だめでは回復できない認知力の低下を招くそうだが、オーバーだがそんなことを考えた。

単に忘れるならともかく、カレンダーへの登録の段階で間違えていたというのは(それも話を聞きながらではなく紙に書かれた予定を見ながらだ)ちょっといただけない。現在登録されている予定の確認が必要かもしれない。

そんな落ち込み事件はさておき、昨日に続いて休み中に(今日は休みではない)参加したセミナーの話。一昨日(昨日も一昨日と書いたが)は、震災復興セミナーに参加し、主に仮設住宅の課題について話を聞いてきた。

阪神大震災では、復興にかかった費用の大半は仮設住宅に投入された(建設だけではない)のだそうだ。復興支援対策というのは、実は仮設住宅対策といっても過言ではないらしい。

その特徴で印象的だったのは、仮設住宅のコミュニティが「人が抜けていく事を前提とした」コミュニティであるという事だ。当たり前といえば当たり前だが、仮設住宅はあくまでも自力で住居を確保する事が難しい人たちが一時的に入るものなので、住居の確保ができた人から「抜けて」いく。それが可能な元気な人から抜けていくということは、コミュニティの核となれるような人からいなくなるという、およそコミュニティ形成においては不利としかいえない条件を最初から抱えているという事だ。

人が抜けていく、という意味では例えば限界集落の問題に似ている面もあるが、限界集落のように「魅力を高めて人を呼び込む」というやり方が仮設住宅のコミュニティには通用しない。そもそも「流出」はあっても「流入」はないものだからだ。

コミュニティにおける快適性の追求は、多くの場合コミュニティへの定着や参加者の増加を目的に行われる。そういった考え方が、仮設住宅のコミュニティには通用しないのだ。

もちろん、流出を前提としているからといっても、「追い出す」ことを前提にしている訳ではなく、住人の快適性は追求される必要がある。そうした快適性への配慮は必要だが、一方でそれで自立の(仮設住宅を出ていくという)意思の芽を摘んではいけない。そして最終的には解散しなければならない。これはコミュニティをデザインする条件としてはそうとう厳しい。

おそらく基本的にはある程度期間を区切るような形で、安心して入居してもらうためのフェーズ、生活を安定させていくためのフェーズ、自立を促していくフェーズといったステップを踏んでいくのだろう。こうと決まったセオリーがあるとは思えないので、ある程度は手探りになってしまうのだろうが、それでも阪神以降に蓄積された経験はあるはずだ。

ふと思ったのだが、費用面をどうするかはさておき、空いた部屋には希望するホームレスの人たち(特に若い人たち)に入ってもらうといった方法はないだろうか。被災者と同じ条件でという訳にはいかないかもしれないが、彼らが自立するまでの住居として活用する事で、コミュニティ自体の延命を図るといった事はできるし、そうした「流入」がある事で、コミュニティ自体の維持活性化につながるのは確かだ。

もちろん、次にはそうした彼らをどうするのか、という問題は残される訳だが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 5日 (金)

在宅で仕事の指揮をとる

一昨日昨日の行動からくる今日の気だるさは、まさに週末気分であるのだが、もちろん会社は今日から始まり、しかもお盆前の輪番休日の調整週のため水曜日まで6日間の出勤なのだった・・・。

さて、週末(自分的には)にもかかわらず、セミナーを連日スケジューリングしてしまったため、色々とインプットが溜まっている。とりあえず一つひとつアウトプットしていこう。

一昨日参加したセミナーは、ワークライフバランスに関するテーマで、特に在宅勤務に焦点をあてた内容。在宅勤務自体は自分自身はまったく必要としておらず、関心が強い訳でもないのだが、震災後に社会的な関心が高まっているのは確かで、会社でも一時的に制度が導入されている。

内容は、取り巻く現状についてと、実際に在宅勤務を行っている(た)事例、特に情報セキュリティに関するレクチャーが詰め込まれ、加えてグループディスカッションまで行うものだから、一つひとつがやたらと駆け足な印象だった。

現状については、制度導入の際の「抵抗意見」として、中小企業ではセキュリティなどのハード面、大企業ではコミュニケーションや評価といったソフト面を挙げる例が多いという話で、感覚的には分からなくもない。もっとも、中小企業でセキュリティ面がクリアされたら、今度はソフト面の課題が挙げられてくるだろうということも想像できる。

そもそも、事例などを聞いていても思うのだが、在宅勤務の不幸な点は「必要に迫られてやる」ケースが多く、生産性を「落とさないために」どうするかといった話が中心になってしまうことだろう。通勤ストレスからの解放や集中できる環境による生産性アップというのは、「結果として」なされることはあっても、目的や狙いとして導入理由にするには弱すぎる。

「在宅勤務でもできる」と「在宅勤務だからできる」では、大きな違いがあるのだ。震災後、企業から注目が集まったといっても、BCPや節電対策の一環といったリスク対策が中心で、生産性向上みたいな論点はあまり聞いたことがない。

さらに、「在宅勤務でどう働くか」というのが部下としての視点ばかりで、「上司として」在宅勤務をするという視点がまだ不足している気がする。今後、親の介護問題が持ち上がるのは、上司に評価される部下の世代ではなく、部下を評価する上司の世代だ。どう「評価してもらうか」ではなく、どう「評価するか」という視点で、オフィスで働く部下を在宅で指揮するというワークスタイルをどう実現できるか、というのが、今後在宅勤務に求められる条件なのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 3日 (水)

休日の過ごし方

今日は輪番休日で休み・・・なのだが、いつもの電車に乗っていつもの様に渋谷に来ていつものプロントでこのエントリーを書いている。いつもとちょっと違うといえば、服装がややラフな事だが、今は勤務もこの程度の服装は認められているので、実はほとんど違わなかったりする。

今日の予定はこれから会社の清掃活動。毎月恒例のイベントだが、たまたま自部署の輪番休日の日にあたってしまった。今はどこかしらの部署が休みになるため、特にスケジュールは変えずに実施する事になったのだ。で、当然主催部署としては準備やら片付けのために(ボランティアで)参加する事になる。

片付けには使った軍手の洗濯なども含まれるので、そこそこ時間はかかるのだが、その後の予定としては平河町ライブラリーで時間を過ごし、夕方(夜かな)からワークライフバランスのセミナー。在宅勤務がテーマということで、参考までに。

明日は午前中にセカンドハーベスト・ジャパンのボランティア。南三陸に送る食品パッケージ作り(仕分け)のボランティアで、先々週から毎週(午前中だけ)参加している。お盆までは木曜日が輪番休日にあたるため、参加しやすいのだが、お盆以降は出勤日に変わるので、ちょっと難しくなるだろう。これは来週まで参加予定。

午後は震災復興セミナー。うっかり入れてしまったが、実は移動の時間がほとんどない。2HJのボランティアを早めに抜けるか、少し遅れて参加するか・・・先週の様に全身着替えが必要なほど汗をかくとそれどころではなくなりそうなので、注意が必要だろう。

そんな訳で、休みといっても家にいる時間はほとんどない。もっとも節電という点で考えると、家でエアコンをつける(あるいは我慢する)よりは、こうして外出していた方が効果的だろう。電車は涼しいし、平河町ライブラリーも快適だし。

・・・練習はできないが。

さて、ゴーヤに水をやりにいくか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 2日 (火)

情報を隠して生まれるもの

言いたい事は大体Twitterで言えたと思うのだが・・・。

「パニックを恐れて情報を伏せる」に対し「隠せば不安から流言飛語が飛び交いよりひどい混乱を招く」という意見がある。個人的には後者を支持するのだが、とすると今飛び交っている「原発危険!」情報も流言飛語の類って事になるのだろうか。主に後者の主張の人達からの発信として見かけるのだが。

最後は蛇足な皮肉ではあるのだが、ようするに

「政府、東電は情報を隠すな。隠せば不安から流言飛語が飛び交う」

という立場に立つと、

「政府、東電は情報を隠すな。正しい情報はこれだ」

という情報こそまさに「不安から生まれた流言飛語」って事になってしまうのではないか、とふと思ってしまったのだ。

個人的な感覚では、両者は比較的近い人たちから発信されていて、あまり対立的に捉えられているようには見えないのだが、実は正反対って事にはならないのだろうか。考え出すとどうにもその辺が矛盾しているように思えて仕方がない。

発信者への信頼感という点で考えると、

「パニックを恐れて情報を隠しても、憶測が憶測を呼んで流言飛語が生まれ、信頼の低下を招く(だから隠すべきではない)」
「パニックを恐れて情報を隠しても、結局正しい情報が伝わり、信頼の低下を招く(だから隠すべきではない)」

・・・どっちだろうか。

もっとも、個人的には政府や東電は別に隠しているわけではなく、多くは推測を口にしていないだけではないか、と考えている。よく言われる「分かっていた」というのは、「そういう解釈もできた(そして結局そちらが正しかった)」という類が多い(もちろん全てではないだろうが)気がするからだ。

時々気になるのは「少し考えればわかる事」みたいな主張で、それは事実じゃなく解釈じゃん(それもあなたの)とつっこみたくなってしまうのだ。もちろん、一人ひとりが考えなくて良いわけではなく、「事実」と「解釈」は分けて考えた方が良いだろうし、政府や東電に我々が求めているのは、事実ですか、解釈ですか、双方だとしたらその線引きはどこですか、という事なのだ。

「正しい情報」みたいな捉え方は、その両者を曖昧に混濁してしまっているような気がするんだよなぁ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 1日 (月)

CD買い

怒りや不安などのネガティブな感情は、放射能と同じで拡散すれば薄まる・・・なんて事をTwitter上の原発批判やメディア批判を見ていると感じたりする。

本人にとってはそうして仲間を増やす事で怒りや不安が薄まって癒されるわけだが、周囲にはその影響が確実に残るわけで、その辺りは自分も気をつけなければいけないな・・・と思ったり。

さて、昨日はオレイユの演奏会で気になったペルトのCDを探しに行く(会社帰りに)。
渋谷のタワーレコードには月に1回か2ヶ月に1回程度のペースで行っていると思うのだが、行くたびに色々と買い込んでしまうのだ。

昨日の購入は・・・ペルトの曲集5枚組(+ボーナスCDが1枚)、サティのオーケストラ作品集、吉松隆のタルカス、フックスとウェーバーのクラリネット五重奏、2Cellos(なんて説明したら良いかわからないが少し前にYouTubeで話題になったクロアチアの2人組のアルバム。カッコいいんだこれが。)のしめて10枚。相変わらず買いすぎだ・・・が、行くたびに新しい発見があってどうしても欲しくなってしまうのだ。
(もっとも今回だとサティとクラリネット五重奏は勉強用。)

ペルトについては、欲しかった曲が含まれるのが5枚組の中にしかなかったのが大量買いになった原因だ。パッケージを開けてみると、元々は別のCDを箱に詰めたような感じで、ああ商売だなぁ、と思ったりする。もっとも、いくつか聴いてみたが、かなり好みに近いのでまぁ良しとしよう。

で、今朝は2Cellosを聴きながら通勤。繰り返すがカッコいいんだこれが。弾けと言われると困ってしまうが(映像でも見たがかなりの技巧)、聴いていると気分が盛り上がってくる。荒っぽさがあるので人によってはノイジーに聴こえるかもしれないが、こういう激しさは個人的に嫌いではない。

さて、他を聴ききるのにどれぐらいかかるだろうか。
ペルトなんかは、本当はiPodで電車の中などでなく、静かな環境でしっかりしたオーディオセットで聴きたい所だよなぁ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »