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2011年9月30日 (金)

府中市民交響楽団第64回定期演奏会

本番が明後日に迫ってしまいました。

迫って「しまいました」という書き方になるのは、自分の準備不足が大きな原因ですが、今更ながら演奏会についてご紹介。(多分していなかったはず・・・。)


府中市民交響楽団第64回定期演奏会
フランスにふれる

曲目:
ドビュッシー:小組曲
フォーレ:組曲「ペレアスとメリザンド」
ラヴェル: スペイン狂詩曲/ボレロ

指揮:高橋勇太
演奏:府中市民交響楽団

13:30開場 14:00開演(16:00頃には終演予定)
全席自由(無料公演)


毎回サブタイトルをつけている府中市民響の定期演奏会。
今回のサブタイトルの「フランスにふれる」の「ふれる」は「触れる」「振れる」「狂れる」という意味。
チラシの裏面には、実際にフランスで撮影されたエッフェル塔の写真が使用されています。余談ですが、第一案の写真は周囲から「スカイツリー?」と勘違いされてしまったのでした。そんな意味のない写真使う訳ないだろ・・・。

さて、ドイツものやロシアものにはそこそこの強さを発揮する府中市民響ですが、フランスものは過去にも数えるほどしか演奏経験がなく、正直にいえば苦手な部類に属します。そういった意味ではチャレンジングな選曲と言えるかもしれません。

個人的にも「ペレアスとメリザンド」や「スペイン狂詩曲」に一部ソロがあるにもかかわらず、節電対応の会社の事情で練習に出られるのは数えるほどだった、という困った事情があります。

また、前回「ドイツをうたう」では対向配置でしたが、今回はオーソドックスな配置に戻ります。違うのは普段は内側に入っているチェロが、ビオラと入れ替わって外側になる点でしょうか。真横から私の突き出たお腹と猫背な姿勢を見られない様に、背筋を伸ばして弾かなければなりません。

このように書くとあまり「ご期待ください!」と言えない状況のような感じですが、そこは本番直前の追い込みに強い府中市民響ですので、なんとかするものと信じています。


春の定期は有料公演ですが、秋の定期は市の芸術文化祭の参加公演のため、無料公演になります。猛暑(とエアコン自粛)の夏が終わり、秋の気配が感じられるであろう(と思われる)10月最初の日曜日に、都心からちょっと離れた府中で、フランスに「ふれて」みるのはいかがでしょうか。

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2011年9月29日 (木)

創発的破壊

昨日はアカデミーヒルズの日本元気塾セミナー、『米倉教授の「創発的破壊」2時間講義』に行ってきたので、考えた事など。


創発的破壊の最大の障害は「もったいない」
これは昨日tweetしているのだが、何かを捨てる、あるいは破壊する時に最大の障害となるのは、既得権益などではなく、「もったいない」という気分ではないか、という話。もっとも既得権益自体、手放すのが「もったいない」だから動機は似たようなものかもしれない。

また少し意地悪な話だが、破壊されるべきパラダイムの中には、日本的な「良さ」とされている価値観が含まれる可能性もある。「良いものは残す」「残すべきものは残す」というのは、聞こえは良いが多くの場合変革の妨げになる場合が多い。本当に良いものは消そうと思ったって消えないものだと考え、「良いものは(ほっといても)残る」「残るべきものは(残るべくして)残る」ぐらいのスタンスで強い淘汰圧をかける覚悟が無ければ、イノベーションにはつながらないだろう。


ビジョンにそもそも根拠はいらない
なるほどな~と思ってしまったのだが、言い換えれば根拠がなくても人を惹きつけるようなものをビジョンというのだろう。人を動かすための根拠が「いらない」のではなく、根拠など必要としないような夢や方針こそが本当の「ビジョン」なのだ。

しかしそのように考えると、世の中は「根拠」に満ちている。自分の仕事に近い領域でも、企業が社会貢献する「根拠は?」なんて話がある。経験上「根拠は何か」という質問は、進めるためではなく、止めるために投げかけられるものだ。先の創発的破壊に絡めて考えるなら、イノベーションを止めるために発せられる問いと考えても良いだろう。

もっとも、それが持ち出されるという事は、そのビジョンには無条件に人を惹きつけるだけのパワーがない(=実は「ビジョン」とは呼べない)というだけかもしれない。


歴史は繰り返すか
講義の冒頭で投げかけられた質問だったのだが、米倉先生の答えは「学ばないものは繰り返し、学ぶものは繰り返さない」。その通りといえばその通りだ。

「歴史は繰り返す」という言葉は多くの場合、同じ過ちを繰り返す、という文脈で使われている。そう考えると「同じ成功を繰り返す」という趣旨ではあまり聞かないような気がするのだが、どうなのだろう。

この捉え方は結構重要で、以前ナレッジマネジメントについて考えていた頃に「失敗事例の共有は次に繰り返さない進歩を生むが、成功事例の共有は同じ事の繰り返しを生み発展につながらない」なんて主張した事がある。成功事例を学ぶなとは言わないが、短期的に効率をあげる事にはつながっても、それこそ創発的破壊を呼ぶのは難しいというリスクは自覚しておく必要があるだろう。

そういう意味では「歴史を学ぶ」のは実は結構難しい。記録として残る歴史の多くは「成功の歴史」だ。「敗者に学ぶ」のも、見方を変えれば「勝者に学ぶ」のと同じである。乱暴な言い方をすれば、歴史という教科書こそ、創発的破壊の障壁になりうる。全ての記録や経験が消えてしまえば、そこに残るのは「新たな創造」だけだからだ。


・・・といくつかあげてみた。しかし読み返してみると、米倉先生が言われていた「知的好奇心」とは対極にあるような思索ばかりで、どうにも自分の思考癖はあまりポジティブじゃないよな~と改めて感じてしまったりするのだった。

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2011年9月28日 (水)

演奏委員会の役割

(府中において)演奏委員会の役割とは何だろうか・・・と時々考える。運営委員長として運営委員会とどう機能を分担するか、という意味あいと同時に、自分自身がパートリーダーとしてその一員でもあるからだ。

兼任していなければ、何も考えずに運営委員会としてバンバン要求を突きつけてしまえば良いのだが、一員でもあるというのは、自分の喉首に刃を突き立てている様な感じで、いまいち座りが悪い。

飲み会の席では何度か話した事があるし、もしかしたらブログに書いているかもしれないが、演奏委員会には大きく2つの役割があると考えている。

一つは言わずとしれた事だが、団の演奏面に関する役割だ。選曲から練習計画まで、演奏会における「演奏」を成功させるための役割が演奏委員会にはある。

もう一つは、やや曖昧だが団員の意見(特に各パート)を代表するという役割だ。運営委員会は、団を運営する機能の集合体だが、団員の意見を集約する仕組みがない。パートリーダーという立場で団員一人ひとりにつながっているのは演奏委員会であり、運営委員会ではない。

後者の位置づけは、言い換えれば団の運営に関しての決議機関である、という事につながる。もちろん、全員参加の決議機関として総会という場はあるが、そこまでではない決め事に関しては、各パートを代表している演奏委員会に決定権があると考えるのが妥当だろう。

飲み会などでは「演奏委員会は国会、運営委員会は行政(官僚?)」とたとえたりするのだが、実はその辺りの役割感が明確になっていない。というか、今までは運営委員会の側がそうした機能を(曖昧な中で)担ってしまっていたとも言えるだろう。

同じ団員だからそれでも良い、という考え方はあるが、運営委員会でパートのバランスを考えながらそうした意思決定を行うというのは、組織的には違和感がある。

もちろん、完全に切り分ける必要はないのだが、団員の意見を集約するという機能は、現状運営委員会では持ちようがない。無理やり持つ事はできるが、演奏委員会と運営委員会の二本立てで意見を集約するチャネルがあるというのは団員の側が鬱陶しいだろう。

今年の総会で演奏委員会のあり方についての意見が出て以来、そういった事を考えてはいるのだが、なかなか議論する機会がない。運営委員長と二足のわらじという事もあって、言い出す事を控えてきたのだが、いいかげん待てないかなぁ・・・。

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2011年9月27日 (火)

演奏会の後に

先日、毎回演奏会終了後に指揮者の評価を団員に聞いたほうが良いという話が出たので、自分はどうだろうか、と考えてみた。

実はあまりその手の感情を持った事がない。飲み会などで「この指揮者はどう」「あの指揮者はこう」といった話を聞いても「ふーん」という感じで、自分自身にはあまり意見がない。「何となくいいよね」ぐらいはあっても、そんなの人それぞれだし、自分がそう思っているからだから何?みたいな突き放した気分がある。

もちろん聞かれれば、調子をあわせるぐらいはできる。というか、聞かれて初めてそれについて考え始めるような感じだろうか。実は指揮者だけでなく、そもそも他人全般に対してそうなっている気がする。もしかしたら自分に対してさえそうかもしれない。

そんな自分の事はさておき、話が「好き嫌い」といった主観的な内容である間は良いのだが、「良し悪し」みたいなやや客観的な内容になってくると、その根拠は何?みたいに突っ込みたくなってしまう。

一方で、そういう事を躊躇なく口にできる人はすごいな、と思ったりもする。以前に書いたような気もするが、自分の思考スタンスは「自分は間違っているかもしれない(だから他人も間違っているかもしれない)」というものだ。だから、客観的なスタンスの意見や主張を見聞きする際には、無意識に裏を突いて考えてしまう傾向がある。

でも世の中には「自分は正しい(だから他人は間違っている)」という思考スタンスの人も存在する。というか、多くの人はそうしたスタンスだから、論争が発生する。正しいと思っている同士だから、争いになるのであって、間違っていると思っている同士では論争になりようがない。

・・・話がずれてしまった。指揮者を評価する場合、どのような内容が考えられるだろうか。

個人的には、仮にもプロである指揮者をアマチュアの身で評価する、というのは身に余るような気もする。ただ、その指揮者に対する自分の相性であれば、評価できるかもしれない。
その指揮者によって、自分のポテンシャルを引き出してもらえたと感じられたかどうか、という事だ。(指揮者にポテンシャルを引き出す能力があったか、ではない。)

とはいえ、団員にアンケートなどで聞く場合、あまり複雑な事を聞いても仕方が無い。一人ひとりの感覚の集合体を評価するためのアンケートと割り切るのであれば、単純に「良かったか悪かったか」で、後はコメントで補うしかないだろう。

となると「良かった」「どちらかといえば良かった」「どちらかといえばいまいちだった」「いまいちだった」の4段階評価で、

練習について
本番について
その他について

の3つについて聞くぐらいだろうか。より分かりやすく、露骨に聞くのであれば「今後もぜひお願いしたい」「機会があえばお願いしたい」「無理にお願いする事はない」「お願いしたくない」という聞き方でも良いのだが、練習と本番はさておき、その他ではやや違和感がある。
(別に共通である必要はないが。)

その他、付随して今後お願いしたい指揮者を聞いておけば、別にアンケートを取る必要もなくなる。

そう考えると欲張りたくなるのだが、演奏会全体や演奏委員会に対する評価まで聞いてしまっても良いかもしれない。

プログラム(今回の選曲)について
練習期間について(長い短い)
練習内容について(各曲の時間配分や合奏分奏のバランスなど)

こうした事を聞いておけば、今後の選曲や練習の組み方の参考にしていける(はずだ)。

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2011年9月26日 (月)

先を見る

この連休は、関西行きもあったのであまり連休らしい感じではなかったのだが、それはさておき府中の本番があっという間に来週に迫ってしまった。今回はただでさえ練習期間が短い上に、会社の輪番休日の影響でほとんど練習に出ていないため、あまりに早く感じる。実質5回ぐらいのためほとんどエキストラのような感じだ。(エキストラであっても出られるだけ練習には出るタイプなので、むしろそれより少ないと言っても良い。)

とはいえ、今回も気になるのは演奏よりも運営の話。それはそれで良いのだが、どうも府中は演奏するために参加する団体という気分が薄れてきている。

運営面から言えば、それでも何とかなるだろうという感覚はある。元々組織がしっかりしているので、一つ二つ抜け落ちても、なんとかなるぐらいのパワーはあるのだ。経験者(演奏会の)が多いので、当日であっても臨機応変に動けるという事もある。

一方で、それで良いのか、という感覚は常にあって、ここ数回そのあたりを意識して記録化するといったことをやってきたのも確かだ。そのやり方でもある程度回るようになってきているとは思うが、まだまだというか、まだ人に頼っている部分はあって、どうしても対応が遅れがちになっている部分がある。

仕事でもそうだが、人に頼れたり慣れがあると遅れてもリカバリーできてしまうため、甘えが発生してしまう事が(少なくとも自分の場合は)多い。「何とかなるだろう」という感覚の正体はそれで、実はあまり良い状態ではない。

来週が本番という事は、再来週からは次に向けた練習がスタートするという事でもある。その計画がざっくりとでもできているかと言えばそうではない。例年ならこうなるだろうというスケジュール間はあっても、それは団体としての時間割のようなもので、個々の演奏会に向けたプロジェクトプランではないからだ。

年末の第九や、来春、来秋を含めた来年の計画はもちろん、そろそろ再来年も視野に入れなければいけない頃だろう。そのあたりは「できていない」事であり、「できるようになっていきたい」事でもある。

本番直前だから、まずは目の前の本番にリソースを割く必要はあるのだが、少しでもそのあたりを考えておけるようになりたいものだ。

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2011年9月22日 (木)

リスク管理としての信頼関係の構築

今日から大阪方面へ出張。ずいぶんと久しぶりだ。何しろチケットの取り方(会社での)まで忘れていたぐらいだから・・・。

さておき、予想していなかったのだが新幹線(N700系のぞみ)の中で無線LANが利用できたので、せっかくなのでブログも書いてみる。(単に勉強不足なだけだ・・・。)

昨日の台風では首都圏にも相当な混乱があったのだが、個人的には(時間がかかっただけで)特に大きなトラブルもなく帰り着く事ができた。時間はあったので、本の立ち読みやら、(スタバで)メールチェックやら、個人的にはたいしたストレスはなかったのだが、人によっては大変だっただろう。

で、twitterでは「こうなる事が予想できているのに出社するなんて想像力なさすぎ」といったtweetなども見かけた。

一理あるのだが、それは結果論のような気もする。結局帰る事ができなかったような人たちは確かに出る必要はなかったかもしれないが、帰れると確信するのであれば、出社して仕事をする事が社会を支える事にもなるからだ。(社畜的発想とはちゃうぞ。)

とはいえ、会社的には在宅ワークのような環境を整えておくというのも方策の一つだろう。ただ、知り合いと(twitter上で)やり取りをしていて、ふと思ったのだが、そういう時に「仕事を続けられるようにする」のではなく「仕事を止められるようにする」のもリスク管理の一つなのではないだろうか。

経営的な安定性もそうだし、取引先など周囲との関係もそうだ。「止めた影響を互いに許容できるのが信頼関係」という事を昨日はtweetしたのだが、「迷惑をかけられる」という捉え方でも良いのかもしれない。困った時に「お互いさま」と言えない関係が果たして「信頼関係」と言えるだろうか。

大切なのは、「相手に受け入れてもらえる」のが信頼ではなく、「相手を受け入れる」のが信頼ではないか、という事で、それを互いにできる事が「信頼関係」という事になるのではないかという気がするのだ。

相手に迷惑をかけないために事業継続をはかる・・・事はリスク管理としてもちろん大切だが、多少止めて相手に迷惑をかけても許してもらえる関係を構築する、というのも大切なリスク管理なのではないかと思ったのだった。

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2011年9月21日 (水)

丁寧で穏やかな語り口

最近はブックマークしたりtweetする事で満足してしまって、ブログを書く所まで届かない事が多いのだが・・・

昨日、内田樹の研究室というブログで「多数派であることのリスク」というエントリーを読んで、その一節になるほどなぁと思ってしまった。

内田樹の研究室 ー 多数派であることのリスク
http://blog.tatsuru.com/2011/09/20_1001.php

納得すると同時に、反省させられたのはこの部分。

逆説的に聞こえるだろうが、少数意見であればあるほど、そして、自分がその意見が「他の人たちに聞き届けられる必要がある」と信じていればいるほど、語り口は丁寧で穏やかなものになる。

少数意見かどうかはさておき、自分の意見を聞き入れて欲しい時、つまり相手を説得したいと思っている時に、語り手に必要なのは相手を突き放したり罵倒したりすることではなく、丁寧に穏やかに語る態度だろう。

最近のTwitterのTLでは、特に原発関連でこれとは正反対の語り口を目にする事が多い気がしていたので、なおさらそのように感じたのかもしれない。

内田氏はそうなる理由として「聴き手はいくらでも替えが効く」「語り手はいくらでも替えが効く」と思っているからだとしているが、特にTwitterのような場ではそうした心理が働いてしまうのだろう。(実際いくらでも替えが効くわけだし。)

省みれば、実は自分も似たような傾向がないとは言えない。乱暴で切り捨てるようなtweetやエントリーはいくらでもある。元々読む人の事はあまり考えてはいないのだが、明確に意識はしていなくても、発信する以上はなんらかの「聞き入れて欲しい」という思いがあるはずだ。
その思いが、語り口と矛盾しているかもしれない。

ちなみにこのブログは、一時期「ですます調」で書いていたことがある。語りかけを意識してそうしていたのだが、独り言のような内容だと書いていてやたらと違和感があり、苦しくなってやめた。他のブログでは「ですます調」を維持しているものもあるが、少なくとも独白系の多いこのブログでは不適当と判断したのだ。

とはいえ、ですますではないからと言っても、自分の姿勢次第で語り口や内容には違いが出てくるはずだ。その辺りの真摯さのようなものが欠けていたのではないか・・・そんな事を考えさせられる内容だった。

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2011年9月20日 (火)

タスクリストの見直し

昨日は1日平河町ライブラリーにいた。

ウィークデー会員なので、休日の利用には料金が必要にはなるのだが、結果としては十分その価値はあっただろう。先週は外出が重なったために書けずにいたレポートやら、オケ関係の諸連絡やら、溜まっていた諸々を大分片付ける事ができた。

朝から晩までこもるというのはこういう事か、と実感する。今回は諸事の片付けが目的だったが、勉強するつもりならこういうやり方はありだろう。家に書斎を設けるよりも、隔絶空間という意味では効果が高そうな気がする。

とはいえ、それでも帰ってみたら漏れている「やる事」があって、正直どんだけ「諸々」を抱えているのか、とは考えてしまったのだが、これはやる事が多すぎるというよりは「すぐやらない」か「タスクリストを作っていない」かのどちらかに起因するものだろう。いや、双方にというべきか。

「すぐやる」というのは、正直難しい事もある。特にオケ関係の連絡などはどうしても後回しになりやすい。であればタスクリストという事になるのだが、まだその使い方が自分の中で確立されていない。

リストとしてどうかとかではない(リストをキレイに作る事が目的ではないのだから)事は分かっているのだが、どうもそういう所にこだわってしまう。自分の場合特に抜け落ちがちなのが比較的ルーチンというか、繰り返されるタスクのため、そこで余計な事を考えてしまうのだ。

もっとも、昨日はその辺りについても少し考える事ができた。多分そういったタスクリストの見直しを定期的に行っていく事で、少しずつこなれてくるだろう。今見るとToodledoには236のタスクが登録されている。備忘録的な登録がある一方で、登録していないタスクもある。

今週は休みが多い。実際には関西へ行く予定が出来てしまったので「休み」ではなくなっているが、移動中というのはそうした事を考える時間としては比較的適しているはずなので、その辺りの見直しを今週の課題にしておこう。

後は昨日整理した「今日のタスク」を終わらせるためにさっさと仕事に入る事にする。

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2011年9月14日 (水)

企業とNPOの違い

昨日、インターンの学生に「NPOって利益を得ないんですよね」と聞かれたので、答えた内容の整理など。

・利益の定義にもよるが、NPOは利益を得ない組織ではなく、利益の配分方法が企業とは違う組織
・企業の利益は、構成員と株主(出資者)に配分される
・NPOの利益は、構成員と支援先に配分される
・企業の取引は対価型モデルで、サービスの受益者とコストの負担者が基本的に同じ
・NPOはペイフォワードモデルで、サービスの受益者とコストの負担者が同一でない
・企業は構成員を養う組織
・NPOは構成員と支援先という「二つの胃袋」を養う組織

おおよそそんな話をしたと思う。結論は「だからNPOの方が経営はシビアだろう」というものだ。良い事だからとか、世間のイメージとかではなく、単純に取引の構造と支えなければいけない相手の数の問題でだ。

これらは見知った知識ももちろんあるが、基本的には自分の考えであって、世間でどのように捉えられているのかは分からない。
企業とNPOにどんな違いがあるか、というのは、自分が両者をどう定義しているかによっても違ってくるはずだ。

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2011年9月13日 (火)

今週から来週にかけての時間のなさ

昨日の朝は人身事故で振替輸送となったために時間が取れなかった。それにしても、案内が見えない視力の状態で、知らない電車に乗るというのはストレスが大きい。

そんな事はさておき、府中の合宿が終了。本番まであとわずかとなった。練習についてはそれなりに充実して、大分形が見えてきたと思うのだが、それ以外の事が(合宿中には)できなかったので、演奏「以外の」演奏会の準備を早急に進めなければならない。

それでも今回は結構な部分を他の人に投げているので楽ではある。反面、戻ってきた内容のチェックとかは遅れていて、しかも一昨日昨日と帰ったらすってんころりと寝てしまっているため、フィードバックができていない。

どういう訳か(って結局自分の段取りの問題だが)今週は夜までの予定が多く、平河町ライブラリーに行けるのも今日ぐらいだ。日中の作業時間も短くて、仕事の方も立て込んでいる。日曜日が本来出勤日だったのを、オケの合宿を優先して休んだ事が影響しているのだ。おまけに来週は休みが多い。

そんな訳で今日は全くとりとめのない内容なのだが、早めに切り上げて少しでも仕事の時間を確保する事にする。夜はオケのためにとっておかなければならない。

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2011年9月 9日 (金)

社員旅行

今日は輪番休日のためお休みだが、社員旅行がある。といっても泊まりではなく、上野動物園でパンダを見て、赤坂(だったかな?)で夕食という半日お手軽コースだ。明日からはオケの合宿なので、そもそも泊まりは困る。(もっとも、土曜の夜箱根で宴会で宿泊、翌朝練習に間に合うように帰る、なんて経験はある。)

社員旅行というのは不思議なイベントだ。個人的には、この手のイベントは事前に色々期待する割には、実際に行くとやたらと冷めてしまう事が多い。会社の人と親睦を深める、という発想があまりないのだろう。親睦というものに対する温度差のようなものがあるのかもしれない。

とはいえ、ここ数年は食事会のようなパターンが多いので、それほど気苦労がある訳でもない。今日の旅行も、夜の食事だけ参加というオプションもある。最近はこういうパターンが増えて、温泉で一泊大宴会なんてのは珍しくなっているような気がする。

・・・うん、何だかとりとめのない内容になってきたぞ。昨日の話を書こうと思ったが、メモをとったiPadではなく、MacBook Airを持ってきてしまったので(社員旅行なのに・・・)、振り返れないのだ。昨日のうちにevernoteに送っておけば良かったのだが、懇親会できれいさっぱり忘れてしまった。

さて、集合は昼過ぎなので、それまでは平河町ライブラリーに行く事にする。そもそもそのためにMacBook Airを持ってきたのだから・・・。

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2011年9月 8日 (木)

楽器を弾く

昨日、久しぶりに楽器を弾いた。

誤解のない様に(誰に?)書き添えておくと、オケのための譜読みや練習の話ではない。過去にさらって自分にとってはある程度定番になっている曲を弾いたという事だ。指ならしと考えても良い。実はここしばらくオケのための練習ばかりで、そうした曲を弾いていなかった。

・・・愕然とする。

弾けなくなっているのだ。

忘れている、という感じではない。例えばバッハの無伴奏の第1番プレリュードは、高校時代にさらって以来、自分にとっては調子を図るバロメーターのようになっているのだが、これがやたらとギクシャクする。

理由ははっきりしている。移弦がスムーズにいかないのだ。練習曲をさらってみても、右手のポジションが定まらず、スムーズな移弦ができない。

これってまずいんじゃないか。

オケの楽譜云々以前に、楽器を弾く技量自体が極端に低下してしまっているような感じだ。他にもいくつか思い出しながら弾いてみたが、結果は芳しくない。

一体何があったのか。

結果として楽器からしばらく遠ざかった結果だろうか。それともそれ以前からこの傾向は出ていたのだろうか。なんとなく後者のような気がしなくもないのだが、であればより深刻という事になる。こんな状態ではオレイユのアンサンブルの譜読みもままならなくなるぞ。

理屈でいえば、毎日は楽器を弾いていない以上、技量の低下は避けられない。少なくとも向上は望めない。それは、過去の技量を取り戻すだけでも、毎日か2日に1回ぐらいの時間確保が必要という事だ。

集中的に大量にではなく、ほんのちょっとでもコンスタントに弾く時間を確保するにはどうしたら良いだろうか。今の状況の課題は、正直そこにあると考えていい。

もちろん自分は楽器で身を立てている訳ではなく、所詮は趣味と考える事もできる。だが一方で、趣味だからこそ半端な付き合い方では意味がない。仕事は結果がすべてだが、趣味はプロセスがすべてだ。全力でとまではいかなくても、そのプロセスにおいて「やっている」という充実感がないものは、趣味として嗜んでいるとは言えない。

さて、どうしたものか。正直昨日の状態はショックだった。何か対策を講じたい所だが、ちょっと妙案が思いつかない。

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2011年9月 7日 (水)

被曝による健康被害をデータ化する

そういう人たち(?)を何人かフォローしている事もあって、時々TwitterのTL上に「被曝で鼻血?」といった健康への影響が出ているというtweetが流れてくるのだが・・・

そういう情報はブログやTwitter上ではなくて、医療機関にデータとして蓄積できるように協力してあげてください。

と思ってしまうのは自分だけだろうか。情報が集まる某団体や某ジャーナリストには、それをただ横流しにするだけでなく、そういう事こそ支持者に勧めて欲しいと思う。彼らが時々取り上げるチェルノブイリの被害だって、住民が個々に自己診断し日記に書いたような情報ではなくて、国や医療機関など第三者が集団的に診断、調査した結果が元になっているはずだ。

本気で社会の将来を考えているのであれば、そうしたデータを今蓄積しておかなければ何の役にも立たないのだ。自分の個人的満足感のための情報発信であるなら別だが。

「今の時点でそうした影響が出るのは科学的にナンセンス」という意見に個人的には賛成なのだが、一方でそうではないという意見があるのであれば、それはそれで考える必要がある。だからこそ、そうしたデータは恣意的な形ではなく、第三者による客観的なデータとして残しておく必要があるのだ。

もうこの際だから、そういった情報を見かけたら厚生労働省はしらみつぶしに検査してデータを蓄積しておいたらどうなんだろうか。乱暴なようだが、チェルノブイリで国がやったのはそういった事だろうし、行政に対応を求めるってのは結局そうした事を受け入れる事でもある。自覚症状のない人間まで調べるかはさておき(対照群としては必要なのかもしれないが)、少なくとも自覚症状があると訴える人というのは、それはそれで科学的には興味深いサンプルと考える事もできる。

国で抵抗があるなら、NGOでも良いから、騒ぎ立てる事よりもきちんとデータ化する事を考えるべきだ。周囲に警戒を呼びかける事を社会的使命と考えているのであれば、なおの事そうした事をして欲しいと思うのだが、どうなんだろうか。

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2011年9月 6日 (火)

儲かるCSR

ダイヤモンドオンラインの『「社会貢献」を買う人たち』で「儲かるCSR」は本当にタブーなのか?というコラムを見つけた。

「儲かるCSR」は本当にタブーなのか?
脱・慈善活動。利益を度外視したCSRに明日はない
http://diamond.jp/articles/-/13884

趣旨は理解できるし、そうした面があるのは事実だと思うのだが、「儲かるCSR」に対するタブー観については、もう少し深い側面があるように感じている。

それは従来の「儲かるビジネス」の位置づけはどうなるの?という点だ。「儲かるCSR」の定義を「社会問題の解決に貢献しながら儲ける」だと考えてみよう。多くの企業やビジネスマンは、CSRという言葉が持ち出される以前から、そのためにビジネスをしていなかっただろうか。

「これからは「儲かるCSR」って、じゃ今まで自分たちがやっていた仕事は社会問題の解決に貢献していなかったとでもいうのかよ。」

つまり「儲かるCSR」という考え方は、ともすればこれまでの仕事を否定するようなニュアンスを与えてしまうのだ。多くの企業でCSRを定義する際に、「今までやってきた事こそCSR」という言い方をする事が多いのは、その辺りの配慮があるのではないか、という気がしている。

そういった意味では、実は「儲けるためには手段を選ばない」というタイプの方が「儲かるCSR」には飛びつきやすい。当たり前だが、彼らにとってはCSRは手段の一つにすぎず、それを鞍替えするだけだからだ。

むしろ、今までの仕事に社会的な価値を感じている人達ほど、「儲かるCSR」には抵抗感が強いのではないか。なぜなら手段ではなく、仕事に対する価値や目的の鞍替えを要求されてしまうからだ。

そこを割り切るのは、仕事への社会的使命感が強い人ほど困難だろう。これは理屈ではなく、どちらかといえば感情の領域だから、論理だてた所でほとんど意味はない。マーケティングの手段としての「儲かるCSR」は理論の領域だが、ビジネスの目的としての「儲かるCSR」は価値観の領域なのだ。

CSRという「言葉」の導入に問題があるとすればそこにあるような気がしてならない。元来CSRの考え方が要求していたのは、企業活動(SRであれば組織活動)の正しいあり方はどうあるべきか、ということであり、CSRというキーワードがなくても個々の活動においてなしうるものだ。CSRはそれらの全体像を一言で言い表すための、いわばそれ自体が(学問的な)マーケティングを目的とした言葉にすぎない。

本来そんな言葉に価値観を揺らされる必要はないはずなのだ。
CSRがキーワードとして踊るたびに、そんな事を考えてしまったりする。

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2011年9月 5日 (月)

土曜日の音楽

昨日のエントリーとは順番が前後するのだが、土曜日はチラシの挟み込みに行って、そのままその楽団の演奏会を聴いてきたので、そのレビューなど。

オーケストラ・ナデージダ 第6回演奏会
指揮:渡辺 新
ピアノ:丹 千尋
曲目
リムスキーコルサコフ:交響曲 第1番 ホ短調 作品1
リャプノフ:ウクライナの旋律主題による狂詩曲 作品28
タネーエフ:交響曲 第4番 ハ短調 作品12

楽団のプロフィールがやや不明なのだが、北欧・ロシアのマイナーな曲を積極的に取り上げているらしい。オレイユに似ているが、府中とは性格が全く異なるオケとは言えるだろう。個人的にはそうしたポリシーがあるのは嫌いではない。

とはいえ、聴いた事の無い曲なので、演奏の評価は難しい(別に評価する必要はないが)。首席奏者はプロで固められており、たまたま一人知り合いが出演していたのだが、彼女もプロだった。破綻のない上手な演奏なのは確かで、もしかしてプロ奏者によるアマオケ?という気もした。(その辺りの情報がさっぱりないのだ。)

という訳で、演奏ではなく「曲に対して」素直に感じた事など。

リムスキーコルサコフの交響曲第1番を聴いて感じたのは「ああやっぱりシェヘラザードは傑作なんだな」というある種身も蓋もない感想。ただ、CDで聴いてもそうだが、インパクトのある曲は最初からそのように感じるものだ。

記憶にある限り、自分が最初にはまったクラシックの曲は運命の第4楽章なのだが、繰り返し聴いた結果そうなったという記憶はない。先述のシェヘラザードやマーラーの2番しかり。一発目で心を鷲掴みにされる曲というのは確かにある。(最近ではハチャトウリアンのバイオリン協奏曲だろうか。)

もちろん何度も聴く事ではまる曲というのもある。自分の場合、サンサーンスの3番第1楽章などはその類だ。チャイコフスキーの4番のように(おそらく生涯もっとも弾き込んだ曲だ)練習を通じてはまる曲もある。

閑話休題。

リャプノフのウクライナの旋律主題による狂詩曲は、何度か聴き込んでみたいように感じた。主題を展開させていく形式なのだが、一度ではちょっとつかめない。バリエーションの切り替わりが分かるようになると聴く楽しみが生まれる気がする。

タネーエフの交響曲第4番は、第1楽章はかなり好みな感じだったのだが、他はやや尻すぼみした感じだろうか。ただ、今回の中では「この作曲家のCDを買ってみようか」と思わされたのはこの曲だろう。解説を読むと輸入版であれば何とかなる・・・らしい。


さて、実はこの日は夜にJAZZのライブも聴きに行ったのだった。仕事関係で知り合った人が出演するバンドで、正直そうしたきっかけがないとなかなか聴かないのだが、これも楽しいひとときだった。JAZZはやはりライブでこそという感じがする。

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2011年9月 4日 (日)

背中で語る

昨日出かけての帰りの電車でのtweet。

メールがない時代に仕事を覚えた方の多くは、仕事は先輩の背中を見て覚える、もしくは盗むものだという意識が強い傾向がある。ところがそれは先輩が意図的に見せていた可能性があるという意識が薄い気がする。そのため自分は先輩ほど後輩に背中を見せていない。 2011年9月3日20:51:37 HootSuiteから
例えば電話やFAXからメールに連絡手段がシフトしたという事は、それだけ互いの動きが見えにくくなったという事だ。つまりそれらを通じて自然に継承された部分は継承されない。「見て覚えろ」というなら、自分のメールを後輩に全公開しておくぐらいの覚悟がなければ意味がない。 2011年9月3日20:55:38 HootSuiteから
手取り足取り伝える必要はないのだが、どうやったら後輩が自分の仕事を盗めるのか、その手段は担保するべきだろう。 2011年9月3日20:57:37 HootSuiteから
そもそもメールは、上司が部下のメールをチェックできるようにするより、部下が上司のメールを閲覧できるようにした方が良い。セキュリティとかいう輩がいるけれども、そういうのこそメールではやるべきではない。部下の前で電話で機密事項を話す上司がいるか? 2011年9月3日21:01:37 HootSuiteから

やや中途半端な感じなのは、到着してしまったからなのだが、この後は次のように続けるつもりだった。

上司が10人の部下のメールをチェックしても取れるアクションはほとんどなく、時間だけがかかる。10人の部下が1人の上司のメールをチェックするのはそれほど時間がかからないうえ、組織の動きが分かって取れるアクションが増える。
メールの最大の問題点は、仕組み上1対1に閉じているだけにすぎない事が、周囲に対してセキュリティが保たれているという無意識の誤解を生じさせてしまう事だ。メールが閉鎖系なのは、別にセキュリティを目的としている訳ではない。
冷静に考えれば、分散型で受け手が自由に操作できてしまう情報伝達手段に「セキュリティ」なんてありはしないのだが、たまたま互いの関係内に「閉じている」事が、そう錯覚させてしまうのだ。
以前、社内向けの論文で、メールによるやりとりを、パスの相手しか見えていないサッカーに喩えた事がある。ノールックでも相手を指定さえすれば完璧に届くパスだが、他のプレイヤーが連携しようのないパスだ。
CCやBCCによってカバーできる側面はあるが、それはパスを出すプレイヤーの采配に任されてしまっている。当たり前だが、それで可能な連携というのは実は連携と呼べるレベルの動きではない。思わぬ結びつきが生まれてこそ連携だろう。


・・・なんだか当初の思惑とは別の方向に流れている様な。

リトライ。

やや中途半端な感じなのは、到着してしまったからなのだが、この後は次のように続けるつもりだった。

背中は「見て覚える」ものではなく、「見せて覚えさせる」ものだ。「見て覚えろ」という言葉に「自分は(必要なだけ)見せている」という自覚を込めているだろうか。
ちなみに日本人の信頼関係や阿吽の呼吸というのも、この「背中を見せる」という行為から始まっている。
常に正面に相対するのは「敵」だ。同じ方向を見ている「味方」同士で見るのは前に立つ仲間の背中だ。信頼関係とはそういうものだろう。
阿吽の呼吸というのは、言葉を使わなくても意思が通じ合う事ではなく、背中を見せあう事で語り合う事だ。それには見る側以上に、見せる側の配慮が必要になってくる。
「言わなくても通じる」訳ではない。通じるためにはやはり発信は必要であり、言葉を使うか、背中を使うかという違いがあるだけなのだ。背中を使わないのであれば、言葉を使うしかない。
背中も言葉も使わずに「阿吽の呼吸」で通じるという勘違いをしていないだろうか。

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2011年9月 1日 (木)

平河町の2ヶ月

平河町ライブラリーを使い出してから、早いもので2ヶ月が経過してしまった。

やや自戒を込めていうなら、その間何かが新しく学習できた訳ではない。本を読む時間も得られたし、台湾のTV局の取材を受けてしまったりもしたのだが、正直にいえば「元が取れている」かといえば心もとないのが実際だろう。

が、満足感は結構高い(毎月ではなく一括で払って、あまり利用料を意識することがないからかもしれないが。)

実は個人的に一番活用しているのがスキャナーだ。そんなの別にライブラリーでやらなくても、という気もするが、身の回りの書類などをスキャナーで取り込んで電子化するというのは、単にスキャンするだけでなくその後の整理があって始めて意味があるので、会社やコンビニでスキャンしておいて後で整理、といった時差が発生せず、直後に整理ができるというのは、とりあえずなんでも取り込んでおこう、という気にさせる。

当然それらはevernoteに取り込むのだが、プレミアムにして以来、はじめて「らしい」使い方をしているという気がする。

こうしたことが家でできないのかといえば、スキャナーの購入をしていないというのもあるが、A3が取り込めるかどうかというのが大きい。

少々申し訳ないなと思うのは、おかげで書類からチラシからパンフレットまで、やたらと捨ててしまっている事だろうか。最近は郵便物などはそのまま鞄に放り込んで、ライブラリーで開封して目を通し、必要なものはスキャンして廃棄、という流れになりつつある。CSRレポートなども、目を通して気になる点をメモしたらそのまま廃棄してしまう事が多い。

とはいえ、情報のインプットから保管、廃棄までの流れがスムーズになったというのは非常に大きい。シュレッダーもあるので、多少の機密文書であればチェックも可能だし、仕事の考え事(オフィスではうるさくて難しいような事)も、あまりやりたくないができる。家に帰った時のように通勤疲れで気力がなくなるといった事もない。

こういう使い方は勿体無いだろうか。個人的にはそうは思っていない。今はまだまだメタボ状態の身の回りの情報整理を進めている最中だからだ。この流れがよりスムーズになって、余計なものがそぎ落とされたら、当然次のステップに進む必要があるだろうが、まずは贅肉をそぎ落とさなければならない。自宅の情報も、会社の情報も。

さて、今日はどうしようか。行けばできる事はいくらでもある。とはいえ、台風の接近はやや気になるところ。明日は輪番休日で休みな訳だが、もろ直撃と分かっていて都内に出るというのもなぁ。

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