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2011年9月 4日 (日)

背中で語る

昨日出かけての帰りの電車でのtweet。

メールがない時代に仕事を覚えた方の多くは、仕事は先輩の背中を見て覚える、もしくは盗むものだという意識が強い傾向がある。ところがそれは先輩が意図的に見せていた可能性があるという意識が薄い気がする。そのため自分は先輩ほど後輩に背中を見せていない。 2011年9月3日20:51:37 HootSuiteから
例えば電話やFAXからメールに連絡手段がシフトしたという事は、それだけ互いの動きが見えにくくなったという事だ。つまりそれらを通じて自然に継承された部分は継承されない。「見て覚えろ」というなら、自分のメールを後輩に全公開しておくぐらいの覚悟がなければ意味がない。 2011年9月3日20:55:38 HootSuiteから
手取り足取り伝える必要はないのだが、どうやったら後輩が自分の仕事を盗めるのか、その手段は担保するべきだろう。 2011年9月3日20:57:37 HootSuiteから
そもそもメールは、上司が部下のメールをチェックできるようにするより、部下が上司のメールを閲覧できるようにした方が良い。セキュリティとかいう輩がいるけれども、そういうのこそメールではやるべきではない。部下の前で電話で機密事項を話す上司がいるか? 2011年9月3日21:01:37 HootSuiteから

やや中途半端な感じなのは、到着してしまったからなのだが、この後は次のように続けるつもりだった。

上司が10人の部下のメールをチェックしても取れるアクションはほとんどなく、時間だけがかかる。10人の部下が1人の上司のメールをチェックするのはそれほど時間がかからないうえ、組織の動きが分かって取れるアクションが増える。
メールの最大の問題点は、仕組み上1対1に閉じているだけにすぎない事が、周囲に対してセキュリティが保たれているという無意識の誤解を生じさせてしまう事だ。メールが閉鎖系なのは、別にセキュリティを目的としている訳ではない。
冷静に考えれば、分散型で受け手が自由に操作できてしまう情報伝達手段に「セキュリティ」なんてありはしないのだが、たまたま互いの関係内に「閉じている」事が、そう錯覚させてしまうのだ。
以前、社内向けの論文で、メールによるやりとりを、パスの相手しか見えていないサッカーに喩えた事がある。ノールックでも相手を指定さえすれば完璧に届くパスだが、他のプレイヤーが連携しようのないパスだ。
CCやBCCによってカバーできる側面はあるが、それはパスを出すプレイヤーの采配に任されてしまっている。当たり前だが、それで可能な連携というのは実は連携と呼べるレベルの動きではない。思わぬ結びつきが生まれてこそ連携だろう。


・・・なんだか当初の思惑とは別の方向に流れている様な。

リトライ。

やや中途半端な感じなのは、到着してしまったからなのだが、この後は次のように続けるつもりだった。

背中は「見て覚える」ものではなく、「見せて覚えさせる」ものだ。「見て覚えろ」という言葉に「自分は(必要なだけ)見せている」という自覚を込めているだろうか。
ちなみに日本人の信頼関係や阿吽の呼吸というのも、この「背中を見せる」という行為から始まっている。
常に正面に相対するのは「敵」だ。同じ方向を見ている「味方」同士で見るのは前に立つ仲間の背中だ。信頼関係とはそういうものだろう。
阿吽の呼吸というのは、言葉を使わなくても意思が通じ合う事ではなく、背中を見せあう事で語り合う事だ。それには見る側以上に、見せる側の配慮が必要になってくる。
「言わなくても通じる」訳ではない。通じるためにはやはり発信は必要であり、言葉を使うか、背中を使うかという違いがあるだけなのだ。背中を使わないのであれば、言葉を使うしかない。
背中も言葉も使わずに「阿吽の呼吸」で通じるという勘違いをしていないだろうか。

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