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2011年10月31日 (月)

調性を言語処理して捉える

昨日の第九の練習では、調性についてのレクチャーがあった。

音楽は「リズム(律動)」「メロディ(旋律)」「ハーモニー(和声)」で構成されている、という話を吉松隆の「『運命』はなぜハ短調で扉を叩くのか?」(ヤマハミュージックメディア)で読んだことがあるのだが、この3要素のうち、未だによく分かっていないのがハーモニーだ。「ハモる」というのは、感覚的には分かるのだが、理屈が分からない。もっとも、リズムやメロディにはそもそも理屈があるわけではないので、要するに「音楽の理屈」に関する部分はさっぱり分かっていない、という事でもある。

調性というのは、和声にまつわる体系のことだ。知識としてうんちくを知るのはそう難しくないが、実体感を伴った形で理解するのは難しい。自分の耳(と脳)が感じ取っている音を理論に結びつけるのは、言葉を理解するのとはまったく違うからだ。それでなくても、自分の感覚処理はかなりファジーで音程の捉え方もかなりいい加減だ。感覚処理には一定のトレーニングが必要なのだが、そうした事をやっていないからだろう。

スキーと違うのは(ああ、シーズンが近づいていきたなぁ)、スキーに関してはある程度自分の身体感覚を言語処理化できている、という点だろう。両方共同じぐらいキャリアは積んでいるが、おそらくスキーの方がトレーニング的な要素が強かったので、そうした処理ができるようになっているのだ。音楽の方はそうではない。

昨日はそういうトレーニング要素の不足をひしひしと感じてしまう練習だった。レッスンを日常的に受けていれば、あるいはそうした要素が加味された形で練習ができていたのかもしれないが、オーケストラで弾くようになってからはそうした事はなく、単に機械的に楽器が弾けるというだけでこれまで来てしまっているのは確かだ。

そもそも、自分が今奏でている音が、どんな和声の中のどのポジションを占めているか、を理解していないんだよなぁ・・・。

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2011年10月27日 (木)

キャパシティオーバー

自分が少々キャパオーバーに陥っているのではないか、と感じる事がある。
特にやらなければいけない事が抜け落ちていた時などだ。

抜け落ちる事については、タスクリストでカバーをしようとする訳だが、それに頼るようになると、そこに載せなかっただけで簡単に抜け落ちるようになる。悪循環、とまでは言わないが、そういう状態になるという事は、普段からこぼれ落ちる状態になっている、という事でもあるのかもしれない。

とはいえ、そもそも人間はキャパシティ内ですべての行動を行っている訳ではない。むしろ、オーバーしている中から、必要なものを取捨選択しつつ、キャパシティの拡大に努めている、というのが実態だろう。

そういう意味では、キャパオーバーを感じるというのは、キャパシティの拡大、能力の拡大の機会を得たということでもある。自分のキャパシティの中での負荷しかなければ、拡大する事はないからだ。

自ら動いたアクティブなものであれ、周囲に与えられたパッシブなものであれ、機会には違いない。後者の場合、若干のストレスはあるし、後者ばかりでは気分的にも追い詰められた感じになってしまうが、アクティブなものでキャパシティを超えるチャレンジをするのは容易ではない。さらにアクティブなものだけでキャパオーバーを起こすほどの負荷をかけていると、周囲の思惑を一切無視する事になりかねないので、うまく組み合わせていく事が重要といえば重要かもしれない。


それにしてもなんだか自分のキャパシティが縮小しているような気がしてならないのだ。負荷が多いからオーバーを起こすのではなく、自分のキャパシティがついていけなくなっているのではないか、という感じなんだよなぁ・・・。

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2011年10月26日 (水)

CSRの主体は本当に企業なのか

昨日のエントリーにも関係するのだが(だったらリンクぐらい貼っておけば良いのだが)、CSRというのは、実は企業側の取り組みではなく、企業を取り巻くステークホルダー側の取り組みなのかもしれない。

同じく昨日、Facebookの「CSRコミュニケーションを考える」というグループで書いたのだが、CSRコミュニケーションは「企業が(ステークホルダーに)」しかけるものではなく「ステークホルダーが(企業に)」しかけるものではないかとも感じている。

例えば、先週のアムネスティのセミナーで「CSRは会社の経営判断であり、経営そのもの」というコメントがあったのだが、これは「CSRは企業側で行うもの」という暗黙の了解に基づいた捉え方になっている。CSRが企業に対する外部からのアプローチであると考えれば、それは経営そのものではなく、企業経営に対する社会によるアクションということだ。

それを受け入れるのも経営判断・・・という捉え方では、従来の「顧客の声」とそう変わらない。受け入れる受け入れないではなく、変えてしまう(圧力で変えさせる、ではない)こと、そのために行う一連のアプローチを「CSR」と捉えるのが良いのではないだろうか。

企業のあり方を決めるのは、企業自身ではなく、それを取り巻く社会の側だ。その、企業を見つめる社会の目を変える「社会の責任」を求めているのがCSRの本質のような気がしなくもない。

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2011年10月25日 (火)

CSRレポートのアンケート回答者というポジション

昨日、CSRレポートの制作会社の人と話をしていて、他社の担当者から自分の名前を聞くことがある、と言われた。理由は不明だが、ブログを書いているからか、(レポートへの)アンケートに原則記名で答えているからだろう。

前者の可能性がもちろん高い訳だが、後者である方が個人的には嬉しいし、価値があるような気がする。

CSRレポートのアンケートは、「CSRに関して」ステークホルダー側からコミュニケーションを行うためのほぼ唯一の手段と考えて良い。商品やサービスについてならお客様相談窓口のようなものはあるし、別にそこでCSRに関して投げかけても良いわけだが、本来機能すべきなのはこうしたアンケートの方だろう。

アンケートは、ステークホルダーダイアログや第三者意見と違って「誰でも」意見する事ができる。だから、本当に企業のCSRに関心があれば、レポートを読んでアンケートを通じて意見を伝えるのは、至極当然の事だ。そうした事をせずに「企業のCSRに関する情報発信が不十分」と言うのは、実はたいして関心がなくて一般論を言っているだけか、無責任な放言をしているかでしかない。

そういった意味で、後者だったらすごい事だと思ったのだ。もちろん自分の場合、所属も含めたバックグラウンドによる影響がないとは言わない(基本的に相手が同業社であってもすべて書いている)が、複数の会社からアンケートを通じて名前を覚えてもらえるとすれば、それは発した意見にインパクトがあるという事でもある。

担当者同士で情報交換をしたり、制作会社とやり取りする中で、共通して出てくる「耳は痛いが説得力のある」意見を言うアンケート回答者というのは、それはそれで有識者とは違った結構意味のあるポジションではないか。

昨日の話でそんな事を考えた。回答したアンケートに直接フィードバックが得られるわけではないので、「勝手な事言いやがって」的な印象を持たれているだけの可能性もある訳だが、それはそれだろう。

とはいえ、実際のところどうなんだろうか。自社のレポートのアンケートは匿名なので、発信者を特定できないのだが(もちろん自ら名前を書いてくる人もいるが)、記名欄を設けてアンケートを実施している企業というのは、回答者をどの程度意識しているものなのだろう。

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2011年10月24日 (月)

和音に溶け込むためのトレーニング

今朝もプロントではMacBookAirは繋がらず・・・と思いきや、やはりSafariの問題であったようで、Firefoxで試してみたら、あっさりログインできてしまった。理由は不明で、多分設定か何かの問題だと思うのだが、調べるのも面倒くさいし、そこまでSafariにこだわりがあるわけではないので、ブラウザを切り替えても良いかもしれない。ブックマークの管理が少々面倒だが・・・。

さておき、金曜日のセミナーの事でも書こうかと思ったが、中二日であまり記憶が定かではない。メモを読み返せば良いのだが、今回は手書きにしてしまったため、ここでは少々出しづらい。とりあえず昨日の練習でも振り返っておこう。

第九の練習も3回目。ようやく楽譜も思い出してきて、少し周囲を聴ける余裕が出てきた。もっとも昨日は1,2楽章で、それほど苦労しない楽章の部類に入る。4楽章などはまだ無理かもしれない。

音程に関しては相変わらず指摘されるのだが、重要なのは単独での正しさではなく、調和がとれているかだろう。和音の中に溶け込んでいれば、自分の音は聞こえなくなる。音量を出していないから聞こえなくなるのではなく、別の響きの中に溶け込んで聞こえなくなるのだ。逆に言えば、自分の音が聞こえるということは、音程がずれているということになる。こういう状態は一人では作れないから、練習が難しい。

例えばそのあたりを他のパートリーダーはどう考えているのか。あるいは、一人1パートとなる管楽器のメンバーはどう考えているのか。単純に曲の譜面を読むだけではないトレーニングが必要ではないかとも思うが、どういった練習が効果的なのかが正直わからない。高校や大学オケの弦楽器レベルではそうしたアンサンブルのメソッドがほとんどないのだ。(それとも歴史が古く大きな所ではあるんだろうか。)

スケールの練習を取り入れる事については何度か提案したのだが、あまり反応がないことを考えると、他のメンバーはそれでは効果がないと考えているか、経験として効果がないと知っているのだろう。そういう練習の経験がほとんどない自分には効果のありそうなメソッドに感じられるのだが、経験しているであろう他の面々が反応しないということは、効果がないということだ。

いずれにせよ、それは合奏での練習で、個人での練習については別のメソッドを考えなければならない。さて、どうするかな。

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2011年10月21日 (金)

CSR評価セミナー2011「人権CSRの時代 見せかけCSRの読み解き方」

昨日はアムネスティインターナショナル日本のCSRセミナーに行ってきた。数年前から大体参加していて、以前は「CSRレポート評価セミナー」として報告書編集の参考にするためだったのだが、今は少し内容が違うらしい。

内容は、前半が講演&報告で後半がトークセッション。

(講演)
企業と人権:その新しい潮流(寺中誠氏)
CSRの新潮流を読む(藤井敏彦氏)
(報告)
みんなのCSRリテラシー(アムネスティインターナショナル日本CSRチーム)

トークセッションは会場から集めた質問に講演者が答えるという形で進められた。

少々厳しい評価をすれば、学術談義になってしまっているような印象がある。知的好奇心を満たす上では面白いかもしれないが、このセミナーによって何を変えていきたいのか、という部分が良くわからない。

個人的には、今回の登壇者でもある、アムネスティの前事務局長の寺中氏が以前言っていた「人権は困っている人を守るためのツールで、概念として守るべきといった議論に意味はない」という趣旨の発言がとても印象に残っているのだが、そこから離れてしまっているような雰囲気を感じるのだ。

「知識として」参考になった事はといえば、資生堂の動物実験廃止の捉え方や、欧州での個人情報保護の背景といった話、社会の中で新しいプロダクトやサービスをどう位置付けるかという議論における日本の弱さなどだろうか。

こうした特に欧州でのCSRの背景などを知ると、日本のCSRにおける最大の弱点はそれが「企業主導」で進められている点だという事を痛感する。良くも悪くも企業中心という事だ。
藤井氏は「(企業)内のロジックを外(社会)に当てはめようとしている」という言い方をして、そうではなく「外の考えを内にどう取り込むか」が重要としていたが、企業の「内」にいて感じるのは、その「外」の脆弱さで、図らずも今回のセミナーはその弱さを証明してしまっているような印象がある。

もちろん企業側でセンサーを張り巡らせ、外の動きを取り込んでいく事は必要だ。しかし、そこで「企業はそうあるべき」という言い方をしてしまうこと自体が「企業に頼っている」事に他ならない。アムネスティのようなNGOや、CSRを推進しようとする有識者に求められているのは、無理やりにでも企業に気づかせる(そして可能な限り反発を招かない)手腕であって、「企業かくあるべし」「社会かくあるべし」なんてベキ論の話ではない。

自分は企業「内の人」なので、そんな見方をしてしまうのだが、「外の人」はどう思っているのだろうか。

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2011年10月20日 (木)

CSRとソーシャルメディアの親和性

昨日はFacebookで見かけた「NPO・NGO×ソーシャルメディアで飲む会」に行ってきた。結果としてトリプルブッキングの中から選んだ会だったのだが、とても楽しかった。

そこでの帰り際に「CSRとソーシャルメディアの親和性は高い」みたいな話になったので、少し考えをまとめておく事にする。

「CSR」という言葉はまだ定義が曖昧な部分があって、正直にいえばあまりひとくくりにしたくはないのだが、「企業の社会的責任」という「ねばならない」的なものではなく「企業と社会との(良好な)関係」みたいな捉え方が良いと個人的には考えていて、そういった意味でソーシャルメディアとの親和性は高い。メディアというよりネットワークというべきだろうか。

企業を一つの個性と考えた時に、その個性が社会とどのような絆を結ぶか、そのあり方を考えるのがCSRだ。もう一歩進めれば、社会の側でも企業という「個人とは違った個性」とどういう関係を結ぶかというのは大きな命題なのだが、ソーシャルメディアが「個人と個人」「個人と社会」を結ぶものであれば、「企業と個人」「企業と社会」との関係構築においても利用可能と考えるのは妥当だろう。

・・・うん、あまり考えが発展しないな。

ソーシャルメディアが互いの関係構築に役立つのは、商品やサービスといった1点のみではないつながりを作れるからだ。そういった意味では、サービスやブランドといった従来の延長線上でソーシャルメディアを活用するよりは、別の側面、別のコネクションを作るために活用した方がいい。個人的にFacebookページなどにあまり関心がないのは、それが従来のコミュニケーション路線の延長で、HPの代替のように見えてしまう事だ。

・・・うーん、イマイチな展開だな。イマサンぐらいか。

個人の側からみたらどうだろうか。企業のCSRに対して、ソーシャルメディアを通じてアクセスしようと思うだろうか。現状、CSRは企業側からの社会へのアプローチとして成立している。「企業の社会的責任」という言葉は「企業が社会に対して果たすべき責任」であって、「社会が企業に対して果たすべき責任」というコンテキストでは語られない。

ここで「社会」を「社会を構成する個人」に置き換えた場合はどうなるか。

企業の社会的責任は「社会」とはうたっていても実際には構成する個人に対して向けられている、と捉える事ができる。個人で小さすぎるならステークホルダーという捉え方をすると良いかもしれない。企業とステークホルダーとの関係でCSRというものを考えるのであるなら、その関係は双方向であるべきだろう。企業がステークホルダーに対してなんらかの責任を担ったりコミットをするように、ステークホルダーも企業に対してなんらかの責任を持ちコミットをするからこそ、そこに関係が成り立つ。

サービスの提供という接点では、こうした関係は成立しにくいが、ソーシャルメディアを通じた関わりではそうした事が求められるような気がする。

とはいえ、現状そこまではいっていないというのが実態だろう。ああ、なんだか支離滅裂な内容になってしまった・・・昨日ちょっと話題になったのだが、毎日ブログを書くというのは結構そういう側面があって、自分の場合特に「まとめ」ではなく「単なる思考のだだ漏れ」である事が多いんだよな・・・。

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2011年10月19日 (水)

オケのための時間の確保

昨日は平河町ライブラリーには行かず、楽器の練習をした。

平河町にいけば、事務周りの作業が進むが、練習ができない。練習をすれば、事務周りの作業が進まない。優先順位をつけてやれという事にはなるが、コンマスからは「ほとんど運営委員だな(パートリーダーなのに)」と言われ、運営委員からは「フィードバックがない」と言われると、流石にもう少し時間が欲しいなと思ったりする。

しばらくは第九に向けた練習で、個人練習にはそれ程気合いを入れる必要はないだろうが、来春の定期となればそうはいかない。その第九にしたって、前回のような練習をしていれば、やがてコンマスからおおっぴらに雷が落ちるだろう。避雷針のようにその相手となるのも自分の役割だと承知はしているが、あれは正直しんどい。最近はなくなってきたが、前回の体たらくは(昨日も書いたように)かなりやばいのだ。第九は初めてやるような曲ではないからだ。

年末にはオレイユのミニコンサートの予定も入れてしまったし、そちらの練習もしなければならない。いや「しなければならない」ではなくて「したい」だろう。第九も良いが、ブラームスも楽しい。普段20世紀以降の曲しかやらないオレイユで、ブラームスというのはなかなか刺激的な機会だし、昨日の(個人の)譜読みは楽しかった。ブラームスの4番は、実質的には3回目の機会という事になるが、妙に楽しい。ま、今の段階では全然弾けないのだが。

いずれにせよ、精神状態だけでも「しなければ」ではなく「したい」と思える状態には持っていきたいものだ。そういえば、団内やらミニクラの準備もある。別口でアンサンブルの予定もあったな。


昨日は第九の1、2楽章をスローテンポで練習。きちんと読めているかの確認と、他のパートの音を少なくとも一つ二つ思い浮かべながら弾く事ができるかの確認だ。第九であれば、そこそこそういった事も期待できるが、浮かんでこないところは「聴いていない」という事になる。単純だが、難しいところはやはり他のパートが頭に浮かんでこない。全体の響きの中での自分のポジションを確認できずに弾いているという事だ。

年末の第九までの課題はその辺りのクリアになるだろう。周囲の音を聴くというのは、知識としての予習(スコアなどの読み込み)に加えて、実地での訓練が必要になる。合奏以外の時間、個人練習以外の時間をどのように使うか、合奏の時間にどれだけ集中できるか、という事だ。

とはいえ、今の自分の頭の使い方は9割がたが運営に絡む内容になっていて、演奏面に気を遣う余裕ってあまりないんだよなぁ。どうやって時間を確保しようかしらん。とりあえずiPadにスコア(のPDF)を入れて、いつでも参照できるようにはしたけどね・・・。

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2011年10月18日 (火)

弾き振りに対応する

昨日はどういう訳かプロントでmoperaにつながらず(どうもWifi周りというよりもログイン用に開いたSafariが原因だった模様)、今日は近隣事業所直行でいつもとパターンが違うので、書くか迷ったのだが、日曜日のコンサートのレポートを出せとコンマスに言われているので、下書きを兼ねて感じたことなど。

聴きに行ったのは、来春の府中の定期演奏会で演奏する曲と同じ指揮者同じ演目があるから。半分はセッティングの確認だが、まぁそれはおいておこう。演奏面で考えるとピアノのソロと指揮を兼任する弾き振りがどのようなものなのか、オケ側が対応できるのか、という点が関心事項になる。

結論からいえば、今のままではやや難しいかもしれない、というのが率直な感想。

午前中の練習で露見したオケの問題点が尾を引いているのかもしれないが、実質的に指揮者に頼らない音楽作りができるか、というのが焦点になるだろうか。

来春お願いする指揮者の先生は、グイグイとオケを引っ張る剛腕タイプで指揮も分かりやすい。が、弾き振りでは、そうした部分があまり表に出てこない。ピアノのソロをこなしながらなのだから当たり前といえば当たり前かもしれないが、そもそも楽譜上「指揮してもらえる」時間というのが想像以上に少なく、指揮というコネクタなしで、オケの側からピアノに寄り添って音楽を作っていく事が必要になるのだ。

そうした場合に要になるのがコンサートマスターだが、そのコンマスも合図の出しようがない(弾いていない)場面も少なくない。つまりその場面で音を出しているプレイヤーがそれぞれ聴き合い、感じ取っていかなければならない。

午前中の第九の練習で、「お互いに聴いていない」「自分の都合で演奏している」と指摘されたばかりで、突きつけられたこの現実は結構シリアスだ。

もちろん課題としては分かっている訳で、時間もない訳ではないので、改善を図る事はできるだろうが、このままなんとなくでは、途中で止まってしまうリスクもあるだろう。

後半の演目は演奏会の予定はないが、今後演りたいという意見が出ている曲の一つ。

弦楽器に関していえば、第4楽章(曲自体は5楽章形式)が難問だと感じた。弦楽器の地力がもろに出てしまうのだ。ゆっくりで静かな曲という事もあり、ちょっとした音程や弓の圧力の乱れがそのまま演奏に跳ね返ってくる。激しければ多少はしょれるような部分がなく、おまけに有名な曲なので、客席にもすぐバレる。

この曲が問題なのは、練習でいくら楽譜を読み込んでもクリアできない地力が露見してしまうという事だ。暗譜したからキレイに弾けるか、といえばそうではなく、音の出し方の引き出しをどれだけ持っていて、どれだけ自在に使えるかが求められる。一朝一夕でできる事ではない。(何となく演奏する事ならできるだろうが・・・。)

そんなことを感じたのだった。さて、自分はどういった練習をしていくべきだろうか。

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2011年10月14日 (金)

iPadならではの用途って何だろうか

昨日はiPadではなくMacBook Airを持ってきていたのだが、多少重いにしても持ち歩きがしやすいせいか、機会が増えている気がする。相対的にiPadの出番が減っているとでも言おうか。

元々用途的にある程度かぶる事は分かっていたので、想定内の話ではある。実際のところ、MacBook Airの方がやはり用途が広く、自分がやりたい事がはかどる事は多い。そのため、ついついMacBook Airを選ぶ機会が増えてしまうのだ。

これは、iPad独自の使い方をしていない事が原因かもしれない。そもそも会社でも自宅でも外出先でも同じように出来るようにする事を考えていると、どうしてもデバイスには依存しないサービスを中心に利用していく事になる。そうなるとデバイス毎の個性は薄れて、結局一番使いやすいものに落ち着いていく事になる。

今のiPadは、モバイルしやすいMac、ぐらいの使い方になっているのだ。

もちろん、共通するサービスが使える事は重要だが、もう少しデバイス独自の使い方を考えてみても良いのかもしれない。「デバイスを使うため」に用途を考えるのは本末転倒な発想ではあるが、利用場面を共通サービスに閉じ込めることで、自分自身を縛っている可能性もあるはずだ。

例えば、iPadならではの使い方の一つに「手書き」という要素があるが、実はこれは全く使っていない。元々自分はiPhoneにしても限られた使い方しかしていないのだが、もう少し色々チャレンジというか、試してみても良いのではないだろうか。

・・・そんな事を、今朝家を出る時に「今日はどちらを持って行こうか」と選びながら考えた。とりあえずiPadにしたのだが、昼休みにふらっと持ち出せるのはやはりMacBook AirではなくiPadな訳で、そうした身近さをより生かすような使い方をもっと探ってみても良い気がする。「なんでもやる」のではなく「ならではのことをやる」ものとして。

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2011年10月13日 (木)

続けられる支援

昨日は一昨日に引き続きGINZA☆30DAYSの復興支援セミナー。気仙沼と三陸沿岸で活動を行っているシャンティ国際ボランティア会の報告会に参加する。被災者でもある現地採用のスタッフによる報告会は、途中震災直後の話に及んだりして生々しい。

「自分は家族が全員無事だったから話せるが、そうでなければ話せないと思う。思い出したくない、(テレビなどで当時の映像を)見たくないという人もまだたくさんいる」

・・・確かにそうかもしれない。昨日の話に戻るのであれば、「忘れないで欲しい」一方で「忘れたい」という側面もあるのだ。昨日は軽々しく「思い出す」という事を書いたが、被災していない人間の思い上がりにすぎない、と少々反省する。

メディアで取り上げれば、いやでも被災者は思い出してしまう。一方でメディアで取り上げられなければ世間は忘れてしまう。両者を成り立たせるのは難しい。見なければ良いといった問題でもないのだ。

もう一つ印象的だったのは、1年を契機に世間の関心は急速に薄れる、という話。阪神淡路でも、1年を経過しての2年目の支援活動が非常に苦しかったそうだ。区切りがつくというか、一段落ついたようになってしまうらしい。半年経っての今の現状は、そうした1年後に想定される状況に比べればまだまだましという事になる。

気分として区切りがついてしまうのは、ある程度やむを得ない。大切なのは、それを支援の区切りにしてしまわない事だ。そういった意味では、今のうちに継続的に、無意識でも続けられる何かを生活に組み込んでしまうという方法もあるだろう。

一番簡単なのは、定期的な寄付の会員になる事で、今のところそういった事ぐらいしか思い浮かばないのだが、他に何かできる事はあるだろうか。

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2011年10月12日 (水)

忘れないということ

昨日はGINZA☆30DAYSの復興支援トークライブ「震災後の日本人」に出席してきた。
ややオフレコ的な部分があったので、内容について触れるのはやめておくが、話を聞きながらなるほどというか、少し考えてしまった事がある。

一つは「価値観の違い」について。

価値観の違いは最大の離婚理由なのだそうだが、厳密に言えば違いが問題なのではなく、「自分は正しく相手は間違い」としてその違いを受け入れない事が原因なのだそうだ。

考えてみれば価値観が違うのは当たり前で、そこが同じでなければならないという「同じ考え方」が、違いを対立にまで昇華させてしまうのかもしれない。そういう意味では、奇妙な話だが「価値観が違うからダメだ」という価値観については、共通しているからこそぶつかるのだ。

言葉遊びの様だが、「価値観が違う」という時、そこには無意識にネガティブなニュアンスが含まれていて、「価値観が同じである方が素晴らしい」みたいな雰囲気があることはないだろうか。違う事が問題なのではなく、違う事を認めない事が問題なのだ、というのは、特に「違うな」と感じた時には大切な意識なのかもしれない。

もう一つは「被災地を忘れない」事について。

震災直後から言われていた事だが、やがては忘れるから「忘れないで欲しい」という事はよく言われている。実際、震災から半年以上が経過して、確かに報道なども減ってきているが、そこでふと思ってしまったのだ。

「忘れない」とはどういう状態だろうか。

常に意識の端にある状態、という事だろうか。だが、冷静に考えればその状態はかなり異常だ。例えばタスクリストを作る理由の一つに「一旦他を忘れる事で、集中できる状態を生み出す」という事が言われる。何かを「忘れないで心に留める」というのは、そうした状態を作れない事を意味している。

忘れない事は大切だろう。しかしそれはある種の興奮状態、パニック状態に心を置いておくという事でもあるかもしれない。

「忘れない」とはどういう状態だろうか。

自分にはガンで亡くなった母と、事故で亡くなった弟がいる。二人の事を忘れる事はないが、普段から意識して記憶にとどめている訳でもない。細部の記憶は薄れても、それを「忘れた」とは思っていない。

いやいや、それらはすでに過ぎて終わった事だ。被災地の状況は現在進行形で、決して終わった事ではない。同列に考えるのはおかしい、という考えもあるだろう。
現在進行形であるなら、過去の事と比較して「忘れる」「忘れない」を論じるのは意味がない。

「忘れないで欲しい」というのは、「関係を断ち切らないで欲しい」と同意という事になるだろうか。しかし、これまであった関係を断ち切らないで欲しい、というのは分かる話だが(そしておそらく実際に断ち切れないと思うのだが)、震災をきっかけに生まれた関係をいつまでも維持しているのは、一方で震災前の日常には戻っていないという事でもある。

もちろん、今はまだ切れて良い訳ではないし、忘れて良い訳でもない。
しかし、どこかで「忘れる」時が来るのではないだろうか。一斉に変わる訳ではないが、徐々にそうした関係になっていく事が、逆に日常を取り戻す事ではないか、などと思ってしまったのだった。


余談だが、「忘れない」よりも「思い出す」という呼びかけの方が良い気がしなくもない。思い出すという行為は、忘れるという前提に立っているので、ややさみしさもあるが、時々(むろん今の段階ではやや頻繁に)思い出そう、という方が、普通に被災地の事を記憶の中に保ち、ゆるやかに関係を維持する方法ではないか、と思うのだ。

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2011年10月11日 (火)

演奏会の振り返り

定期演奏会から一週間。次の第九に向けた練習が(相変わらず区切りもなく淡々と)始まったが、それはそれとして今回はスタッフをお願いした方に呼びかけて反省会をやってみた。あまり大げさなものではなく、感じたことをお互いに共有して次に向けてどうするかを考える会だ。

事前にあまり強く呼びかけていなかった(そもそも思いついたのが本番の直前だし)ので、参加者は10名に満たない程度だったのだが、それなりに盛り上がったと思う。少なくとも自分にとっては、終了後の打ち上げで色々と聞かされる話よりもずっと参考になるし、次に向けて考えをまとめやすい。

今回特に盛り上がった(?)のは、途中入場と未就学児童の入場についてだ。どちらも演奏中で中々手が及ばない領域ではある。

一つなるほどと感じたのは、来場者が増えることで顕在化している部分があるという事だ。1000名を超えない少ない頃であれば、途中であっても子どもであってもそれほど大きな影響はなく、「どうぞどうぞ」と(内心は)言えたのだが、1000名を超えてくると(今回は1291名)お客様の側でも気になることが増えてくる。空いているスペースが減っているからだ。

また、お客様が増えるというのは、クラシックに馴染みのない人も増えるという事でもある。一般的にいえば「コンサート」というのは、アイドルのコンサートの様に舞台と一緒に盛り上がるようなものが大半で、静かに聴くクラシックのコンサートはどちらかといえばマイノリティで、経験のない人の方が多い。お客様を増やすには、そうした馴染みのない人たちを取り込んでいかなければならず、それは「観客マナー」の部分から、何らかの形で理解を求めていく必要がある。

彼らは「マナーが悪い」のではなく、ただ「知らない」だけなのだ。ただこの「知らない」というのは、むしろ「クラシックの常識、世間の非常識」という事に近い。これまでは、クラシックの世界だけで良かったが、今後を考えると、そうした世間に対して、クラシックの常識を浸透させていく(会社の場合と違って、世間の常識を受け入れていくというのは少々難しい)という事が必要になってくるという事だろう。

さて、今回は運営側という事で、主にスタッフ系での振り返りだったが、次に必要なのは(本当はそれ以前に必要なのは)演奏面における振り返りだ。これも今回は新たな試みが進んでいるので、少し新たな展開が期待できそうで、楽しみではある。

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2011年10月 7日 (金)

自分の意見

昨日はちょっと驚く出来事もあって、結局朝昼夜とブログを書いてしまったため(1本は別ブログ、他に会社のブログもある)、今朝はやや枯渇気味。ネタがないというよりも、連発に疲れて文章化の気力がやや弱いのかもしれない。

自分の意見を交えた文章というのは、書きやすい側面とエネルギーを使う側面がある。

主観中心に書くのが楽なのは、手元にある素材だけでもある程度できてしまう事だ。もちろん全くの素材なしでは無理だし、必要なら裏を取る事も求められるが、そこはある程度書き方次第でなんとかなる。正確な情報以上に大切なのは「自分の意見は何か」という自問自答だろう。

一方客観中心に書くレポートが楽なのは、自分の意見はある程度無視してしまって良いという点だ。もちろん全く交えないというのは意味がないだろうと思うのだが、より重要なのは情報的な正確さだし、自分の意見よりも読み手の考えを尊重して書く必要がある場合もある。

読み手の考えを尊重して書くのは、その意図が分かっている限りはそれほど難しくない。意図がわからず類推して書くというのは、見方を変えれば自分の意見を相手にぶつけるという事なので、やや難しくなる。そして相手の意図が分かった上でそれに反する自分の意見をぶつけるためには、よりエネルギーを必要とする。

で、このブログは基本的に主観ベースなので、ぶつける(何にかはさておき)自分の意見が必要になる。しかし何にでも自分なりの意見を持つのは難しい。これまでネタがない、と呼んできたのは実はそういう事なのだろう。きっかけ云々もあるが、自分の意見がこうだ、というのは結構エネルギーが必要で、それを何にでも持つというのは案外難しい事なのだ。

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2011年10月 6日 (木)

Steve Jobs 1955-2011

今朝、iPhoneをネタにエントリーを書いたのですが、まさかその後スティーブ・ジョブズ氏の訃報が飛び込んでくるとは・・・今日はiPhone4も家で休みながら生みの親に思いを馳せているのでしょうか。

情報でしか存じ上げない方の逝去に、思わず涙が出そうになるとは思いもよりませんでしたが、ご冥福をお祈り申し上げます。

私はAppleユーザーとしては新参者ですが、まさか最初にiPod classicを手にして以降、ここまで急速に周囲がApple製品で固められるとは思っていませんでした。iPhone3G、MacBook、iPod nano、iPad、iPhone4、MacBookAir・・・今時点で他に乗り換える事は考えていませんが、今後、彼の手を離れた製品とも、同じようにつきあっていくのでしょうか。そんな事を考えてしまいました。

自分などがいうのもおこがましいですが、さようならスティーブ。
あなたの作品もいつかは使わなくなるけれども、その名前を忘れる事は(多分)一生ないでしょう。

http://www.apple.com/stevejobs/

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iPhoneを・・・忘れた

家を出てしばらくしてから、iPhoneを持っていない事に気づいた。駅に着く前なので戻れない距離ではなかったが、電車は遅らす事になるので、割り切って今日はなしで過ごす事にする。多分、考えているほどに困ったりはしないはずだ。
(もちろん3月の震災やこの間の台風のような事が起これば、持っていなかった事を後悔する事にはなるだろうが・・・。)

使えれば便利だし、手放せないとも感じているが、絶対的に必要という訳でもない。あえて言えば主たる連絡先の番号になっているので、電話としての部分は重要だが、普段あまり電話はしないので、緊急事態でもなければ問題ないのだ。

そういう意味では、さて、出る出ると噂されながら5ではなく4Sだった新型iPhoneはどう捉えるべきだろうか。

必要ないとは思いつつ気になっているのは、処理速度が上がる事によりアプリが追随し、従来機種では重くなってしまう事だ。新しいアプリには手を出さなければ良いのだが、従来から使っているアプリがどんどんアップデートされてしまうのは少々困る。今でさえ、一部のアプリでは動作のもっさり感が気になっているのだ。

おまけにハードは4なのに、OSは5になってしまう。これがどの程度の負荷になるのかはどうしても気になるところだ。

自分の場合、それほど多くの機能を必要としている訳ではなく、使うアプリも限定的だが、だからこそ使うものは快適な状態で使いたい。3Gをかなり我慢して使ったあげく(それでも購入が3GSが出る直前だったので、2年は持たなかった)、動作の重さにねをあげて結局4にしてしまった身としては、そういう我慢をするぐらいであれば、次はさっさと買い替えても良いのではないか、とも思ってしまう。

あるいは、通信はモバイルルーターにまかせて、iPod touchのような縛られない端末を使った方が良いのかもしれない。いやこれも実際に使い始めると手間が多くてねをあげそうなんだけどね・・・。

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2011年10月 5日 (水)

清掃活動の延期

今日は会社で清掃活動があり、「雨のために延期を知らせなければならないため」少し早めに会社に行く必要がある。

雨である事は一目瞭然なので、わざわざ連絡の必要もないだろ、と思いつつ、やはり問い合わせをしたり、その場に来てしまう人というのはいるのだ。過去何度か強行してしまったという事務局側の不手際も一因には違いないが、ややなんだかな~という気はしなくもない。

もっとも、自分が事務局側でなかったら、やはり同じ事をするかもしれないので、あまり偉そうな事は言えなかったりするのだが・・・。

さて、とはいえ明日も雨の予報なので、結構微妙だったりする。今月は中止かな~。

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2011年10月 4日 (火)

演奏会終了

昨日は休みをとっていたので、こちらに書くのが1日遅くなりましたが、演奏会は無事終了しました。ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。


さて、演奏の評価は聴いた人にお任せするとして、運営面で感じたことなど。

今回はお客様の出足が少々遅かったこともあり、(少し早めに開場はしたのだが)流れが緩やかだったので、時間通りの開演としたのだが、結果開演後のロビーに50名ほどお客様が残ってしまったらしい。
いつもは5分押しで進めることが多く、アンケートでは「時間通りにスタートするべき」みたいな意見を聞くこともあるのだが、50名も取り残されるとなると、お客様のためにも5分押し程度はデフォルトにしておいた方が良いのかもしれない。
(結果としてその人たちの一部が楽章間で入場してしまったので、会場後方はややざわついていたはずだ。基本的には曲間のみの入場にしているので、それ自体は案内のミスなのだが、人数的にお待ちいただくのは申し訳ない、という気もする。)

お客様の動き、という点でいうと、終演後の出口を制限していたので、かなりアップアップになったという指摘もあった。大人数の場合、ホール正面の扉を開放する事もできるのだが、府中ではそこまでしてはいない。今回は1291名の来場だったのだが、これが1500名、2000名となれば、そうした「はけ方」というのも考え直す必要があるのだろう。

ま、今回はスタッフを集めての反省会をしてみようと考えているので、そこで色々と意見が出てくれば、次はもっと良い案内ができるだろう。そういう事は一人ひとりに考える機会を提供して、誰かがやるのではなく、一人ひとりが最善を尽くせるようにした方が良いと考えている。

さて、もう一つの課題は、今回もルーチン的な対応で演奏会の準備を進めてしまったのではないかという事だ。ルーチンではなく、プロジェクトにする、というのは「走れ!プロジェクトマネージャー!」のこのエントリーを読んでからなるべく意識するようにしているのだが、どうしても省エネ思考になるというか、「いつもと同じように」なってしまう。変えれば良いという訳ではもちろんなく、演奏会というゴールに向けた道筋が立っていないように感じるのだ。

次の第九が終われば、運営委員長としては丸2年で、一通りのサイクルが終了すると共に任期の区切りを迎える。この2年、果たしてプロジェクトとして成功できた演奏会はあったのだろうか。演奏会としては成功しても、それは日常のルーチンの延長上で、結果として「成功した」だけで、それぞれの演奏会を成功させるための計画をきちんと作り、実行できたと言えるだろうか。場当たりの対応になっていないだろうか。その後につなげる事ができているだろうか。

そんな自問自答を昨日はしてみたりしたのだった。

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