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2011年11月30日 (水)

スコア諸々の購入

第九の本番が近づいてきて、そろそろその次を見据えなければいけない時期になってきた。という訳で、第65回定期演奏会の曲目の中で、唯一スコアを未入手だったコープランドのエル・サロン・メヒコのスコアを山野楽器で購入する。

一度だけミニスコアを見かけた事があって、返す返すもその時に買っておけばよかったと思うのだが、それ以降巡り会う事はなく、結局曲集版の大判スコアを購入する事になってしまった。バーンスタインのキャンディードといい、第65回の曲は大判スコアが多い。グローフェのグランドキャニオンも比較的大きなスコアだ。

パート譜の準備はギリギリになるため、今の所はスコアしかないのだが、本来なら曲の読み込みを始めていなければならないだろう。というか、自分の場合そういう準備がそもそも圧倒的に不足している。楽器で音を出すかはさておき、曲に対する理解を高めておくことは、いつからでもできるからだ。

毎回そのように思うのだが、結局そのままズルズルと練習の日を迎えてしまうのが情けない。もっとも、その時間があれば今の曲を練習しろという理屈もあるし、そもそもその時間の確保すらままならない状態ではあるのだが。


さて、エル・サロン・メヒコのスコアはそこそこの値段で、こうした高額商品を購入すると、ついつい連鎖買いの欲求が高まったりする。楽譜を買うニーズはなかったのだが、昨日はその後MacBook Air用のスーパードライブを購入し(いずれは買うつもりだった・・・ま、結局ビックカメラのポイントで買えてしまったのだが)、iPad/iPhone用のBluetoothキーボードを物色し(未購入)、ICレコーダーの売り場をウロウロしてみた(未購入)。

キーボードに関しては、今使っている有線タイプが少々大きくて持ち運びに難があるため(かわりに打ちやすいのだが)、特に冬場ポケットに入れて持ち歩けるサイズのものがないかと考えたのだが、折りたたみ式はイマイチだし、やや良さげなモノはあったのだが今回は思いとどまった。

ICレコーダーについては、今オケの練習録音に使っているiPod+マイクでは限界かなということで、専用機を買うべきか迷っているのだが、自費でそこまでやる義務はないし、そもそもオケとして望むのであれば、その役割自体他の人にふっていかないとやることが増えるばかりだなと考え、こちらも見送り。とはいえ、スキーのビデオと同じで、自分の練習を録音して聴き直すという事も、本当はやっていきたいのだ。(スキーは撮ってくれる相手が必要で結局ほとんどままならないのだが、録音は一人でもできるので、本来は躊躇する必要はない・・・聴きたくない!という気持ちはさておき。)

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2011年11月29日 (火)

小編成のアンサンブルをする機会

今朝はiPadが一時立ち上がらずヒヤリとする。とはいえ、完全にiPadにしかないデータというのはない訳で、実は大した事ではなかったりもする。

それはさておき、この所やたらと「大変だ」とか「できていない」とか、ネガティブな事ばかり書いていた気がする。仮にそれが事実としても、気が重くなる(自分だけでなく読んだ人も)のも確かなので、もう少しポジティブにシフトした方が良いかもしれない。


府中の第九はいよいよ練習も残り1回となってしまったが、同様にオレイユのブラ4も実は練習は残り1回だったりする。直前の練習が第九のゲネプロとかぶっているからだ。今週末土曜日に練習すれば、後は本番だ。

正直な話、今回のオレイユは色々と勉強になると同時に刺激にもなった。

いつもは楽譜についていくのがやっとだが、今回は過去に経験のあるロッシーニとブラームス。弾ける弾けないはさておき、楽譜から置いていかれる事はない。曲を聴く余裕も多少あるし、何より「間違えた」時にそれが分かる。知らない曲は、間違っている事さえ分からなかったりするのだが、少なくともそれがない。

弦の編成が小さいのもいい。甘えがない(個人的には甘えてるが)。
個々の要求レベルが高いのもいい。妥協がない(個人的には妥協してるが)。
そして飲み会があるのもいい。他の人が何を感じ考えているかが分かりやすい。(個人的には飲み会要員みたいだが。)

そしてそれらは(飲み会はさておき)府中に活かせる。少なくとも、自分の「弾く」という行為には活きている気がする。そうした、府中という場がある事も自分には良い事なのだろう。おそらく、オレイユだけではダメだし、府中だけでもダメなのだ。

そうなると欲がでてくるのが、小編成のアンサンブルをする機会だ。ある程度固定でアンサンブルができるグループと言ってもいい。個人的には弦楽四重奏に限定するのはあまり好きではないので、そう言った意味では「固定」にはしたくないのだが、一方で特定のメンバーとより深くアンサンブルをする機会というのが欲しくなってくる。

実際にはそこまでするのはかなり厳しそうだが、とりあえずオレイユのメンバーからは別にアンサンブルにも誘われていて、これはこれで(しんどそうだが)楽しみだったりする。府中でもそうした事ができると良いのだが・・・。

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2011年11月28日 (月)

団員のためにオケがあるわけではない

団員とのやり取りでそんな話になったので、個人的にその考え方のベースになっていることなど。
名言、というのかどうかは分からないが・・・。

誰かが助けてくれるのがチームじゃねえ。
死にものぐるいでー全員の役に立とうとするのがチームだ。

これは乃木坂太郎/永井明の「医龍」の第4巻に出てくるセリフ。チームの(他のメンバーの)助けを期待するのではなく、自分がいかにチームの役に立つかを考えろ、といったニュアンスになるだろうか。

似たようなセリフは、甲斐谷忍の「ONE OUTS」第15巻にも出てくる。

「俺が」なんだよ 「俺が」チームを勝たせるんだよ
他人なんかアテにしちゃダメなのさ
自分しかいねーんだよ チームを勝たせられるのは
他人が失敗したってカンケーねーよ
自分のパワーひとつでチームは勝利するんだから
「俺がやる」・・・って もしメンバー全員がそう思ったら
もの凄いパワーになると思わねーか?
それが真のチームワークじゃねーのかな

真のチームワークとは何かを問われてのやり取りの中でのセリフで、これまた「自分が」チームに助けられるのではなく、チームを助けるという発想を説いたものだろう。

で、大元がこれ。

「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」

訳はいろいろありそうなので、上記はWikipediaから持ってきたものだが、言わずと知れたケネディの大統領就任演説の一節だ。祖国をオケに置き換えれば言わずもがなだろう。

多分自分の根底にはそういう発想があるのだ。だから誰かがやってくれる(だろう)とはほとんど考えないし、自分がやれると思えば何でも抱え込む。
他の人が自分のほうができると思えば、自分から奪いとればいいとさえ思っている。(いやもちろんそれを表立って口にするわけではないが。)

そして、他の人も同じ発想だろうと単純に信じている。

我々は団費を払って、その代わりにオケに何かをしてもらうのではない。
オケが我々に何かをしてくれるわけではないし、他のメンバーに助けてもらえるわけでもない。

他人やオケが自分に対して何をしてくれるかではなく、自分がオケに対して何ができ、何をするか。
それだけが問題なのだ。

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2011年11月25日 (金)

第九まで16日

一昨日の休みに平河町ライブラリーを利用して、府中の第九の実施要綱を作成した。前回の資料を参考に、構想の時間も含めて半日ほどかかったのだが、結局「大変」と言いながらこういう事が好きなんだろうなぁと思ってしまった。

だから、時間をかける事も厭わないし、同じでは済ませずに毎回何かを変えようとする。
もっとも本来時間は短ければそれに越した事はないし、毎回何かを変えるというのは、前回をよく覚えていないということの裏返しでもあるのだが。

今回の第九は段取りが悪くてかなりバタバタとしてしまったので(しかもその間に別の演奏会の事にまで手を出しているし)、反省も多い。周りからはよく言われる事だが、基本的にすべてを抱え込みすぎるのだろう。他人というリソースを使うのが苦手なのだ。

とはいえ、これを乗り切ればとりあえず一段落ではある。第九に関しては、あと残っているのは打ち上げの仕込みぐらいだろうか。演奏以外の事ばかりだが、まぁ演奏は他に任せたって良いのだ。何となればオケの団員はそのためにオケにいるのだから、その部分に余計に干渉しても仕方ない。自己責任で仕上げるのが普通で、弾けないと思ったら自ら降りればいい(今からでは困るが)。

演奏は全員が責任を果たすべき事だが、それ以外の領域は、誰かが責任をもってやればいい。単にそれが自分であるというだけの事だ。

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2011年11月24日 (木)

企業が社会の声に応える時

もちろんこんな事は許すべきではないし、こうした企業を擁護する気もないのだが・・・。

企業の震災ボラティア競争の裏にお寒い実態
http://kasakoblog.exblog.jp/16934632/

こうした「競争」をさせている社会の側に全く責任がないとも言えないのではないか、とも思った。もちろん、その「社会」というのは、被災地ではなく、被災地の外の「社会」だ。
この企業に同情の余地は全くないが、この企業の問題と責めれば解決するか、と言われれば、そうでもない気がするのだ。

仕事柄、自社についてもこうしたボランティアをやっていないのか、しないのか、と聞かれる事は少なからずあった。正直に言えば余計なお世話だ、と思うが、もちろん波風立てないように「やりたいとも思うが今の所は特に考えていない」といった回答をしていた気がする。実際には、個人的なポリシーとしては従業員が言い出しでもしない限りはやる気はなかった。(実際にはそれでもやらなかったかもしれない。)

なぜならそれは「企業がやる事」ではないような気がしていたからだ。少なくとも「CSR」や「社会貢献」の名の下にやるべきではない気がするのだ。特定のお世話になった地域に恩返しをする(もちろんその地域に関わりのある従業員や事業所がだ)とか、それを強く望む従業員を応援するといった理由があるならともかく、漠然とした社会の期待のようなものにのっかるのは実は根拠がない。そもそも、受益者でも利害関係者でもない相手の無責任な声を聞いて行動するというのは、ろくでもない結果を招きやすい。

それでも、社会からの声が強くなれば、考えざるを得なくなる場合もある。うっかり社長がそんな声を拾ってその気になった日には目も当てられない。そうして生まれたのが、取り上げられてるようなある種惨憺たる結果なのではないか。

もちろん「やるからには責任をもってやるべき」というのは確かだろう。だが、であれば「やらせた側にも責任がある」という事も成り立つ。こうした行動をする企業が「自発的に」こうした活動を決めたとは考えにくく、それは書かれているような「イメージアップ」も含めた社会からの要請に応えた結果でもある。

震災が起きて、多くの企業が支援活動をしている。
「うちらもやらなければまずいだろう」
「CSR報告書に震災支援活動がなければまずかろう」
みたいな意識から、ボランティアに来たとしか思えない。

ここで「まずいだろう」と思うのは、社会の目を意識した結果だ。企業にそう思わせてしまう「社会の責任」というのは、少なからずある気がする。

一応断っておくと、別に紹介したブログの内容に反論したいわけではなく、むしろその通りだろうと思う。ただ、だから「企業が」おかしい、という議論をしたら、多分いつまで経っても変わらないだろう、と思うだけだ。

企業は、社会を親とした一種の子どもだ。鏡の如く社会を映し出す。我が子が悪さをした時に、親が考えるのは「育て方を間違ったか」という自分の責任だろう。そういう視点で見ると、この企業の振る舞いは、親である社会の期待のかけ方に何か問題があったのではないか、と考えさせられるに足る事例ではないか、という気がするのだ。

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2011年11月22日 (火)

iPad or iPhone or MacBook Air

現在このブログを書く時はiPad+キーボード(有線)を使う事が多いのだが、実はキーボードを組み合わせるのであればiPhoneで書く事も可能だったりする。実際、過去にはそうした形で書いていた事もある。もちろんiPadの画面の広さは快適なのだが、折りたたみ式のBluetoothキーボード+iPhoneにすれば、手荷物は劇的に小さくなるんだよな・・・と思ったりした。(流石にキーボードなしではブログの更新や込み入ったメールの作成までは難しいので、iPhone単独というのは厳しい。)

そんな事を考えたのは、先日のアンサンブル・オレイユの練習の際に、カバンなし楽器だけで通う、という事をして、それが思った以上に快適だったからだ。雨だったので傘はあったのだが、楽譜を楽器ケースに入れ、持っていくのは最小限の荷物にすると、何だか気分的に楽だったりする。もちろん、練習だから実際にはそれで十分な訳で、他に余計なものを持っていく必要はないのだが、カバンがあるとついついいろいろなものを詰め込んでしまうのだ。
(ちなみに持っていくのを諦めたものの中で、これはちょっとまずいかな、というのはスコアだった。やはりスコアはもっと使うつもりでいた方がいいだろう・・・実際にはそれほど機会はないのだが。)

これには気候的な要素もあって、冬場は上着を着るのでポケットが増え、小物が持ち歩きやすいという事もある。夏場はカバンに入れていたものが、ポケットにシフトするのだ。ま、これについては良し悪しはあるだろう。

正直な話、今のiPadの使い方にiPadならでは、というものは少ない。作業性はもちろんiPhoneより上だが、入っているアプリはほとんど同じだし、ネットワークへの接続などではiPhoneの方が有利な場合もある。より込み入った作業になるとMacBook Airの出番で、これまたiPadの出番がない。

・・・とこんな書き方をすると身も蓋もないのだが、ではiPadは不要かというと別にそのようには考えていない。作業の快適性はあるに越した事はないし、バッテリーの持ちなどを考えるとセミナーなどでメモを取るといったことまでiPhoneでこなすのは無理がある。今の所は、無理に「使わない」生活にシフトする必要はないのだ。

ただまぁ、「いつでも持ち歩く」みたいな事は考えなくても良いだろう。実際、職場で持ち歩く事もなくなってしまった。3Gモデルであれば違ったかもしれないが、Wi-Fiモデルはやはり微妙に使えない場面が多いからだ。

それに見直すならば、むしろMacBook Airを持ち歩く機会をいかに減らしていくか、という方が切実な気がする。もちろん持ち歩きも考えて購入したものではあるのだが、それにしても最近機会が増えている気がするんだよね・・・。

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2011年11月21日 (月)

月曜日

今日の持参機はMacBook Air。

とはいえ、docomoの公衆無線LANの問題は、相変わらず解決されていない。ネットで見かけたDNSキャッシュのクリアも、キーチェーンアクセスの設定の変更も、自分の場合は解決にはつながらず、かろうじてFireFoxでログインはできているが、evernoteのクライアントが立ち上がらないなど、完全に接続できているわけではなさそうだ。

OSXの問題だとすれば、次のバージョンアップを待つしかないのか・・・とりあえずiPadでは問題なく使えているので、docomoを契約解除するつもりはないのだが、今日のようにMacbook Airが必要な日には少々ストレスが溜まりそうだ。というか、何のためのAirなのか・・・という状態。ま、普段使いはiPad中心なのでやむを得ない。

さて、今日は昨日の録音の編集作業をしなければならない。ここ数回は日曜中にできていたのだが、昨日はちょっとその時間がとれなかった。平河町ライブラリーでは無線LANも問題なく使えるので、その後の配信までを行える。その他、連絡事項も多々あるのだが・・・。

何故このように追われる状態になるのか。そこを解決しなければならない。この自転車操業のような状態は、どこかで行き詰まることが十分想像できるからだ。自分の場合、慣れてくると油断して物事を後回しにする傾向があり、計画性ではなく効率性(慣れているので作業速度は上がる)で対応してしまう悪い癖があるように感じる。なまじ対応できてしまうのが、さらなる油断につながってしまうのだろう。

さて、一旦仕事モードに切り替えなければ。

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2011年11月18日 (金)

学生さんとCSRについて議論する

昨日はちょっと縁があって、学生のみなさんとCSRについての話をする。

その後の一連のTweetはこんな感じ。

学生さんたちとCSRについてのディスカッション。楽しくてやや興奮状態のまま、夕食を食べてないのを忘れて電車に乗ってしまった。さて、平河町ライブラリーによるべきか、今日は帰って洗濯するか・・・。
2011年11月17日 20:02:18 HootSuiteから

忘れないうちに話した内容を幾つか。
CSRは企業から社会へのアプローチではなく、社会から企業へのアプローチという視点で捉えた方が良い。企業にイニシアチブを取らせても良いが、それはこれからの社会のデザインを委ねるという事でもある。
2011年11月17日 20:39:30 HootSuiteから

企業が利益追求を優先するのは、株主の投資に対してリターンをするというシステムがもたらしている。倫理観を求める前に、リターンに優先するものを示せば企業は自ずと変わる。
2011年11月17日 20:43:27 HootSuiteから

社会が納得して受け入れ、企業が競争可能な、貨幣に変わる評価システムを提示する事が出来れば、企業の活動の軸も変わる。
2011年11月17日 20:50:14 HootSuiteから

ソーシャルメディアは、企業が社会にアプローチするための手段ではなく、社会の一人ひとりが、企業に関わる一人ひとりにアプローチするための手段。企業を変えるのではなく、そこにいる一人ひとりを変える事が変化につながる。それをマスでなく個別に行える事にソーシャルメディアの価値がある。
2011年11月17日 20:55:51 HootSuiteから

CSRレポートのアンケートは、商品でもサービスでもない、企業のあり方に意見を投げかけられるチャネル。大切なのは、企業に対する意見をただ書くのではなく、読んだ個人を唸らせ、社内に伝えたいと思わせる意見を書く事。
2011年11月17日 21:02:12 HootSuiteから

青臭く感じられても、次の社会をこうしたいと議論するのは良い事。そういう場に企業(の人)を巻き込めば良い。企業に用意してもらったステージで議論しても企業の想定の枠内にしかならない。自分たちのステージに企業を呼ぶ事を考えなければいけない。
2011年11月17日 21:06:15 HootSuiteから

それにしてもいたいけな学生にこんな意見を吹き込んでしまって良かったんだろうか。いやいや、そんな事を気にしていたらコミュニケーションにならないよなぁ。
2011年11月17日 21:10:16 HootSuiteから

最後に書いているように、今回話した内容自体はあまり一般的な話ではない。むしろユニークで極端な意見に類するだろう。

以前、社内の匿名掲示板の是非についての議論で、「匿名だから荒れるのではなく、コミュニティの状態が反映されているだけ」という意見を聞いた事があるのだが、個人的には企業についても似たような事が言えると考えている。「企業が倫理観を失っている」というのは、実は「社会が倫理観を失っている」鏡にすぎない。社会が健全で企業だけが歪むなどあり得ないし、社会の歪みを放置して企業だけが健全になれる訳もない。

CSRを取り上げた映画で「企業を人として人格診断すればパラノイアだ」みたいなキャッチコピーがあったが(DVDは持っているのだが名前は忘れた)、そもそも人に例えるのが間違っているのであって、もし企業が(人として)破綻しているというのであれば、それはつまり企業を取り巻く社会の状態が破綻しているというだけにすぎない。それを正面から認め、自分たちの責任として受け入れられない人が、自分ではなく「企業の社会的責任」として倫理に結びつけて叫んだりするのだ。

企業の持つ「法人格」は、人の持つ「人格」とは違う。言葉のイメージかもしれないが、企業を人になぞらえる捉え方というのは、どうも弊害があるんじゃないかという気がしてならない。

CSRは、企業の社会への(その一員としての)責任ではなく、社会の(その鏡である)企業への(我々一人ひとりの)責任だと思うんだよなぁ。

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2011年11月17日 (木)

多様性を支えるための均質化

昨日はKM学会の多様性研究部会。やや久しぶりに参加したような感覚だったのだが、結構楽しい議論だった。

組織におけるダイバーシティがテーマという事で、とあるスーパーにおけるパート労働者のマネジメントについて議論をしたのだが、印象的だったのは、従業員の働き方の多様性を担保するためには、評価基準や職務内容、組織風土の均質化が重要なポイントになるのではないか、という点だ。

説明が難しいのだが、組織の構成員の職務がある程度同じで、職能給の形で評価基準が統一されている場合、働く側にステージを選択するイニシアチブが生まれる。(ただしこれは「時給」の形で給与がスライドするという条件が不可欠で、固定給の場合はやや事情が異なるだろう。)

一本化された評価基準の中で、個々が自分でポジションを選んでいける(もちろん無条件ではなく能力は必要だが、その基準は明確になっている)場合、自分のライフスタイルにあわせた働き方が選択できる事になり、それはそのまま働き方の多様性につながる。

ただ、これはある程度限定された条件・環境下の話だ。労働市場における競争が激しくなく解雇が発生しにくい、家計における役割が絶対的ではない、といったものだろうか。さらに組織自体が単一の機能に特化して単純化されている必要がある。

問題なのは、現在求められているダイバーシティマネジメントはおそらくその対極にあるという点だろう。評価基準を固定化して、その枠に個人の能力や意欲を当てはめるのではなく、個
人のポテンシャルを最大限に活かすために、その個人の能力・意欲にあわせて評価基準の側をフレキシブルにする事が今求められている事だからだ。

昨日のモデルでもし参考になるとすれば、評価基準を一本化して均質化すると同時に、縦割りの組織とは別の、横断型のいわゆるプロジェクトで、その評価基準から「はみ出す」個人の能力を吸い上げる(別に手当のような形で評価にも反映される)仕組みがある点だ。

つまり、評価軸を複数用意し、それぞれの軸は均質化(うまい言葉が出てこない)した上で、取捨選択や組み合わせでフレキシブルな対応が可能なようにする、という感じだろうか。

とはいえ、こうした事が難しいのは、その制度のデザインに実際に評価される側が加わっていると、それぞれの利害が絡んできてしまう点だろう。政治家による選挙制度の見直しと同じで、大抵の場合そこには別の思惑が絡んでくる。

昨日のモデルケースでは、評価制度の大枠を構築した人たち自身は、その評価制度には組み込まれない(パート労働者という事も関係しているだろうが)事が、逆に制度デザインに成功した原因ではないか、という話もでたのだが(というか自分がしたのだが)、それができるケースはかなり限られてくる。特にいわゆる正社員の評価制度となると、かなり難しくなってくるのは間違いない。

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2011年11月16日 (水)

MacBook AirとMzoneとEvernote

どうも自分のMacBook Airはdocomoの公衆無線LANとは相性が悪いらしく、うまく繋がらない事が多い。まずSafariではログインができないので、Firefoxを使うのだが、加えてもう一つ、どういうわけかEvernoteのクライアントが立ち上がらないのだ。

なぜこれがdocomoの公衆無線LANに関係しているのかはさっぱり分からないのだが、どういう訳かこの環境下でだけ立ち上がらず、応答なしで強制終了するはめになってしまう。自宅でも平河町でも(無線LANを使うのはそれぐらいだが)問題がなく、docomoに接続している時にだけそうなるのだ。

実はこれは結構困る。ブログにエントリーした内容は、都度Evernoteにバックアップしているからだ。いやウェブ上でやればいいんだけどさ・・・。

このあたりを試して見るしかないんだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/whitefield_d/20111112/1321066486
基本的に朝しか使う機会がない(そもそもそれほど持ち歩くわけではない)ので、なかなか作業時間が取れないのだが。

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2011年11月15日 (火)

立ち位置のゆらぎ

どうも最近自分の立ち位置が曖昧になってきている気がする。自分の中でも、周囲の見方も。思うがままに振る舞えばそうなるのはやむを得ない部分もあるのだろうが、それでいいのか、という気がしなくもない。

・・・と、Twitterでつぶやくだけならその一言で良いのだが、ブログでは中途半端な形なので、もう少し踏み込んでみる。

演奏委員会と運営委員会は、時として利害が(事情が、と言った方が良いかもしれない)ぶつかる場合がある。全体の組織が小さいうちは、両者は兼任される事が多く、そうした事情のぶつかり合いは委員会の内部事情として消化されやすいのだが、組織が大きくなり、両者の役割が分化されてくるとそうも言っていられなくなる。

そんな中で、(たまたま)両者を兼任をしていると、自分の立ち位置がよく分からなくなってくる。双方に帰属意識を感じていられるうちは良いのだが、双方から疎外感を感じるようになるのだ。特に自分の発言のスタンスと、周囲の受け取り方が違うと、そう感じる。不思議なことに、外の立場として発言している時に、中の立場として受け止められると、そのように感じるのだ。

どうしてそのような感覚になるのかはよく分からない。

普通に考えれば、中の立場で発言している時に、外の立場として受け止められることが疎外感につながるはずだ。が、なんだか逆のように感じている。おそらく、自分の考える立ち位置から疎外されたかのように感じるのだろう。この、自分のスタンスが揺らぐような感覚は、怖い。

自分の行動を抑制して、決めたラインから出ないようにしていれば、そう感じることはないに違いない。別に自分の人生に大きく影響するわけでなし、一定の節度を持って付き合っていれば良いだけだ。しかし、そこで抑えがきかなくなるのが悪い癖だ。

学生時代は、仮にそのようになったとしても、エンドが決まっていたのでリセットできた。自分ではどうしようもないエンドだから、リセットもそう難しくない。

今はそうはいかない。そうはいかないからこそ、自分で何とかしていかなければならない。

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2011年11月14日 (月)

技術の再確認

この土日は、先週に引き続き、土曜の夜→日曜の午前→日曜の午後と練習。情けない話だが、さすがに指が痛い。

日曜の午後はパート練習の予定だったのだが、結局諸々の事情で参加者不足のため中止となってしまった。部屋は確保していたので個人練習をしたのだが、ブラームスの楽譜をひと通りチェックしたら疲れきってしまった。

それにしても、最近弾き方や音が(本当に)荒れてきたように感じる。実際には前から荒れていたのだろうが、それが気になるようになってきた、と言ったほうが良いかもしれない。

以前にも書いたが、楽器の練習を車に例えると、楽譜を読み込むのはサーキットのコースに習熟する作業に当たる。それが「車を運転する技術」の向上につながる場合もあるが、純粋にドライビングテクニックを習得するトレーニングとは本質的に別物だろう・・・多分。

スキーの方が実感としては分かるのだが、あるコースや斜面に「慣れる」のと、どんな斜面でも滑れるように基本的な技術を「磨く」のは、ややトレーニングが異なる。もちろん実際には様々な斜面に「慣れながら」、どんな斜面にも対応できるような技術を「磨いて」いくのだが、ベースとなる部分は地道な反復トレーニングが中心で、斜面に慣れるといった要素はほとんどない。

スキーでは同じコースで何十本と同じ事を繰り返せるのだが(実際には毎回細かく要素要素をチェックするので「同じ」ではない)、楽器の場合はそれができない。そもそも、そういうメソッドを自分自身が持っていない。練習曲は多々あれど、それを「どのように自己診断しながら」弾けば良いのか、という部分が確立できていないのだ。

レッスンを受けるのが一番良いのだろうが、心理的にそこまでの余裕が無い。(まぁ時間的にもかなり厳しい。)

自分の楽器の技術は、スズキメソッドがベースにあるので、もう一度一から弾き直しながら自分なりに再構築をしていくのが良いのだろう。当時は言われるままに弾くだけで、音楽的な要素(それこそ調性といった要素)はまったく意識していなかったのだが、そうした部分を再確認することにもつながるかもしれない。

・・・と思って、楽譜を探してみたのだが、見当たらないんだよねぇ。後半のは残っているので、最初の頃の楽譜は処分してしまったんだろうか・・・。
多分、1巻〜3巻あたりまでをきちんとやることが大切なような気もするのだが。

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2011年11月11日 (金)

Paid Work と Unpaid Work

昨日のエントリーに関連するのだが、「ワーク・ライフ・バランス?ケッ!」とかいう人種には、「ワーク」「ライフ」という対比ではなく、「Paid」「Unpaid」で対比させた「ワーク・ワーク・バランス」という考え方で攻めるのが良いのかもしれない。

OECDにこんな労働時間調査があるそうだ。
http://www.oecd.org/document/60/0,3746,en_21571361_44315115_47567356_1_1_1_1,00.html

ここで気になるのは、労働時間の長さもさることながら「Paid Work」と「Unpaid Work」のアンバランスさだ。特に日本、韓国、中国のアジアが際立っている。

こちらの方が分かりやすい。
http://blog.tribehr.com/bid/90228/HR-Environmental-Scan-Work-hours-around-the-world-infographic

では、Unpaid Workとは何か?二つ目のリンクの下の方にあるのだが、いわゆる家事の類になる。(ちなみに「勉強」はPaid Workに含まれるようだ。)

それはつまり、ワーク・ライフ・バランスの「ライフ」と重なる。「ライフ」というのは、別に家で横になっている時間の事は言わないのだ(そう勘違いしているお父さんも多そうだが、ライフというのは別に「余暇」の事ではない)。

昨日取り上げた作家などは(名前を書くのも嫌だが)、趣味(好きな仕事)に没頭して、仕事(家事)をおろそかにする半端者という捉え方もできてしまう事になる。


少し話は変わるが、先日書評ブログで、日本における家事使用人を取り上げたものを読んだ(本の名前は忘れてしまった)際に、なるほどと思った事がある。

それは、家事使用人がいる家庭における奥さんの役割は、そうした家事使用人を「マネジメント」する事で家の中の一切を取り仕切る事だった、という話だ。それはつまり「家」という会社における「社長」と言っても良いだろう。

そういう状態であれば「家の事は妻に任せている」というのも、何となく理解できる。他人を雇い、その仕事を監督し、時として彼らの生活を支える責任があるからこそ、「専業」でなければできないのだ。

そしてこの場合、家事は「Paid Work」という事になる。自分が働くのではなく、雇用主としてという事だが、Paidである事は確かだろう。そしてそういう状態であれば、自分自身の「Unpaid Work」の時間は減って当然だ。その分をPaid Workとして委託しているのだから、そこに時間を使う必要はない。

という訳で、「自分にワーク・ライフ・バランスは関係ない」という言葉は、それぐらい稼いで、家事をきちんと「Paid Work」としてマネジメントできている人にだけ許されるのだ、というぐらいは言っても良いかもしれない。

少なくともUpaid Workのまま、パートナーに押しつけてそれを当たり前と思っているような人間というのは、単なる勘違いの無能野郎という事は言えるだろう。先に挙げた作家がきちんと「Paid Work化」されていましたらごめんなさい。

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2011年11月10日 (木)

仕事漬けで不幸になるのは本人ではなく周囲の人

久しぶりにややイラっとした主張など。いやでも最近イラっとくることが増えているような気がするな・・・。

仕事漬け「社長 島耕作」のホンネ 弘兼憲史 漫画家
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A90889DE1E7EBEBE0E1E2E2E0EAE3E2E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2

こんな事を言っている。

「これは島の本音であると同時に僕の本音でもあります。「ワーク・ライフ・バランス」なんて言葉がありますが、島も私も、この言葉とは正反対の人生を歩んできました。人それぞれの考え方がありますが、仕事漬けだから不幸、なんてことはない。僕はそう、思います。」

「ワーク・ライフ・バランス」は、「仕事をしすぎない」のような文脈で語られる事が多いのだが、どうもそこに勘違いがあるような気がしなくもない。「仕事をしていなくたって」、ワーク・ライフ・バランスが崩れている事に違いはないのだ。

仕事漬けで不幸にならない人は確かにいるだろう。ではその周囲はどうか。

「よく、外国の政治家が休暇を取って家族と楽しんでいる姿が報道されることがありますが、これってもしかすると「そうすべき」という義務感でやっているのかもしれない。「家族は大切にしなければいけない」「仕事の切り替えのために休まなければならない」というのは一種の呪縛かもしれない、と思うことがあります。」

本人も良くわかっているんじゃないかと思うのだが、これは外国の政治家の方が正しい。ワーク・ライフ・バランスはそもそも、「(好きな)仕事以外の責任」もきちんと果たすべき、という概念で、そこには家族の一員としての責任、社会の一員としての責任など、様々なものが含まれている。

ワーク・ライフ・バランスは「仕事をしたくない人」が、仕事以外に時間を使えるようにするための概念ではなく、「仕事が好きな人」に、その「好きな事」に打ち込むために他の事もきちんとせい、という考え方なのだ。だから会社も、その人のリソースを過剰に奪う事で「仕事だけすればよい」ような口実を与えないようにしなければならないのだ。

記事の最後の一節を読んでいると泣けてくるのだが、この人は要するに自分が好きな事に打ち込むために家族を犠牲にしていて、でも自分がいいからそれで良いと言っているのだ。「仕事」を「趣味」に置き換えれば、それがいかに異常な事かは誰にでも分かるような気がするのだが、「仕事」の場合はそこを思考停止してしまう人が多いのは何故なのだろう。そもそもこの人は、仕事を趣味のように楽しんでいる訳だから、実は仕事なんかしていない、という考え方さえできる。

余談だが、いわゆる「公私」の別において、経済活動は「私」にあたるのだそうだ。仕事をしてお金を稼ぐのは実は自分のための「私的な活動」にすぎない。「公私混同」をしないというのは、政治活動と経済活動を混同しない(それは私的な利益のために社会を食い物にする汚職の温床だからだ)という概念であって、仕事とプライベートの区別をするという概念ではない。

日本ではさもあらゆる仕事が「公的な活動」のように置き換えられているが、そう言い切れるのは本来「公務員」の仕事だけということになる。もっとも、そういった人たちは、無意識に自分も「公務員」だと考えているという事かもしれない。

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2011年11月 9日 (水)

徒然

朝からあまり頭が働かないという事は確かにあって、そうなるといわゆる「ネタ切れ」になる。実際にはネタになるインプットがない訳ではなく、反応したいソースはあるのだが、それが面倒臭いというか、反応してブログにまとめるまでの気力が湧いてこないというか。

例えばCSV(ファイル形式ではなく、CSRの次として最近注目されている考え方)についてとか、昨日ちょこちょことFacebookのあるグループに書いたりしたので、その続きを考えようとか思っていたのに、いざ向かうとその気力が失せている、とか。

「めんどくさい人とは「調整コスト」がかかりすぎる人。」というのをTogetterで見かけて、ああなるほどと思ったけどその先を自分事として考えるのが面倒だ、とか。

一歩先を見て行動できる人はプレイヤーとしては優秀だけど、マネージャーは三歩先を見て指示を出す必要があって、しかも三歩先だからそこで自分で動いてしまったら他とずれてる単に変な人になるだけだよな、と考えてしまった件、とか。

何だかオケの人事でも大きな変動がありそうだよな、とか(いやでもそんなの書けないし)。

うーん、なんだろう。思考がフラフラしている気がする。ま、そういう事もあるわな。

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2011年11月 8日 (火)

CSRレポートを作成する主体

このところもう一つのブログの方も更新が活発になっているのは、夜に時間(というか場所)を確保する事が可能になったからだが、ややネタがかぶり気味だったりする。

昨日参加したセミナーの最中に、こんなTweetをした。

CSRレポートは「会社が社会に対してやっている事」をベースにするのではなく、「社会が会社に期待している事」をベースにして編集すると面白いかもしれない・・・などと思ったり。 2011年11月7日 19:46:40 HootSuiteから

多くのCSRレポートは、もちろん「会社として伝えたい事」をベースに編集されている。いかに読者の興味に応えるか、という課題は抱えていても、それはある種読んでもらうための方便とも言えるだろう。情報発信というのはそもそも伝える側の都合で作られるものだ。

これを読者(社会)の側に委ねる事は可能だろうか。意見を聞くのはそう難しい事ではない。実際、アンケート等で寄せられた声に応える努力というのは、どの企業もやっているだろう。

しかし、意見を聞くという事と、委ねるという事は大きく違う。最大の違いは、委ねられた側に責任が発生する事だ。「社会が会社に期待する事」を言うだけなら簡単だが、その結果編集されたものに対してコミットする事ができるか。「責任編集」とする事ができるか、という事でもある。

これはかなり難しいのではないか。ある企業のCSRレポートに、第三者ではなく編集責任者として名を連ねても良い、その編集に参加したい、というステークホルダーはどれだけいるだろう。

企業に要望を伝えたい、意見を言いたい人というのはいくらでもいるだろう。しかし、それらを「聞いて」企業が編集したレポートが、果たして「社会が会社に期待している事」をベースにしたと言い得るだろうか。言ってしまっても文句をいう人はいないだろうが、自分だったら、それは結局「会社が作ったものでしょ?」になる気がする。

「社会が会社に期待する事」をベースに編集するというのは、会社(側の人間)ではなく社会(側の人間)が編集する、編集責任を負うという事だ。それは、社会として企業に問う内容であり、それを読む社会に対しても問う内容になる。費用負担は企業でも良いが、その内容は企業のコミットメントではなく、むしろ社会の(企業に対する)コミットメントとも言えるだろう。


こうした考えは現実にはかなり厳しい。テクニカルな面でも、そこまで深く関わろうとする(それも中立性を保つ上ではボランティアで関わる事になる)ステークホルダーがいるかといえば疑問が残る。もちろん企業内では、何でそんなものを企業のコストで発行するのか、という話になる。

実は去年レポートの編集がスタートする前にこういう企画書は作成している。あくまでも思いつきで、実現可能性を高める努力もしないままお蔵入りになったのだが・・・自分なら機会があればやりたいと思うが、実際そのように考える人というのはどれぐらいいるのだろう。

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2011年11月 7日 (月)

ドイツ二本立て

土曜の夜のアンサンブル・オレイユの練習が始まり、府中とあわせて二本立てで練習する週末が12月中旬まで続く事になった。
普段新しい曲ばかりを演奏するオレイユの今回の選曲はブラームスの交響曲第4番。府中の第九とあわせて、ドイツの大曲の練習が重なる事になる。ま、それ自体は楽しいのだが。

オレイユはこの土曜日が初あわせ。やはり府中に比べると格段にレベルが高いと感じる。府中で弾いていると、自分が弾ける方ではないかと錯覚させられるのだが、オレイユだと自分の練習不足を自覚させられる。いや、練習が不足しているというか、地力部分の鍛錬が不足しているというか。

もっとも、人数が絞られているという事もあるのかもしれない。府中のチェロパートは5プルト半、オレイユは2プルト半、パート全体の音に与える一人当たりの影響力は大きく異なるし、緊張感も自ずと違ってくる。府中もそれぐらいの編成で練習をするようになると違ってくるのかもしれない。管はともかく、弦についてはオレイユと同じ編成なら2つ組めるぐらいの人数が揃っているのだから、実は無理な話ではないのだ。

その府中はというと、昨日は元パリ管のVn奏者による弦分奏。2年前にも見ていただいた事があるのだが、今回も楽しい練習だった。そもそもそんな一流の奏者が弾くのを間近で見られるというのがすごい。府中はいわゆる常任のトレーナーがいないので(いた方が良いと今回の指揮者の方からアドバイスなどはいただいている)こうした機会はとても貴重だ。

例えばスキーでも、一流の人の滑る姿を見る(映像ではなく生でだ)というのは、途轍もなく参考になることがある。自分の体をどう動かすか、というイメージを実際の姿で目にする事になるからだ。今回の体験もそういったものに近い。楽器は多少違っていても、似ている部分というのは、ある。(VnやVaとなれば、さらにインパクトは大きいだろう。)

そして昨日の午後は個人練習。たまたま練習用に確保していた部屋が空いてしまったからだが、ああなんて弾けないんだ・・・と落ち込む。左手が回らないのは仕方ないとしても、右手が思うように動かせないのがもどかしい。直前にみた鮮烈なイメージが残っているからなおさらだ。

この辺りを鍛え直すメソッドって何かないだろうか。師匠を探してつくのが一番の近道だろうとは思うのだが、ちょっと今はそこまでの時間は確保できそうにない。府中の運営委員会だけでも結構精一杯なのに、演奏委員会でやる事も勝手に増やしてしまったりしているからなぁ・・・。

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2011年11月 4日 (金)

新しい弦にしました

本来は秋の定期演奏会用に張り替える予定だった弦を昨日張り替えました。うん、新しい弦は気持ちが良い。やや馴染んでない感じもありますが、それはもう少し弾けば馴染むでしょう。

考えてみれば、大学時代は早い時は3ヶ月に一度ぐらいのペースで張り替えていた時期もあります。まぁその頃はほぼ毎日のように弾いていましたので、週にせいぜい2日弾くのが精一杯の今とは比べるべくもありませんが、ちょっと今回はあまりに弾き味が違いすぎて、少々反省しました。

音を出すためにと信じていた力の入れ加減が、まったく無駄な力であった事がわかったからです。そうか、新品の弦だとこんなに簡単に音がでて、無理な力をかける必要がないのか・・・という感じです。

おそらく、徐々にそういう状態になっていったので、気づく事ができなかったということでしょう。自分では音を出せているつもりでも、それは確実に音に表れていたはずです。やはり自分がどう感じていようと定期的に張り替えはした方が良いな、と感じたのでした。

・・・こういうのもタスクリストで管理するのって、何だか微妙な気もしますが(笑)。

ま、基本的には演奏会の度に変える(半年に一度)ぐらいのつもりでいれば良いのかもしれません。

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2011年11月 2日 (水)

パート練習

今週末はパート練習を予定していたのだが、委員会の予定が入ってしまったので来週に持ち越し。それはそれとして、練習内容を考えておかなければならない。どうもその辺りの準備が不足する傾向がある。

色々事前に考えていても、実際やってみると次々気になるところがでてきてそれどころじゃなくなる・・・という事がない訳ではないのだが、だからといって行き当たりばったりという訳にもいかないだろう。

個々の譜読みをやっても仕方が無いので、できる限りそうではない練習をしたいのだが、実際は譜読みの手伝いのような内容になってしまう事も多い。レッスンを受けなくなって久しい(自分が受けていたのは高校時代までだ)身としては、そういうものは自分でやるもので教わるものではないような気がするのだが、人によってはその辺りが受け身になって「教わるもの」になってしまっているのかもしれない。
(第九は始めてというわけでなし、その辺りはとうに終わっていても良いはずなのだが。)

個人的には、それ以上に基礎的な部分の練習をしたい。楽譜を読むのは一人でできても、他と聴き合うといった練習は一人ではできないからだ。それがパート練習の役割かどうかはさておき(やはりまずは「弾けるようにする」が大命題なのは間違いない)、スケールなどは個人練習だけでなく、集団での練習があってこそ価値があるような気がする。

時間配分を考えると、その辺りにどれだけ時間を割けるか、という問題はあるのだが、何とか毎回のプログラムに入れたい内容ではある。本当はもっと定期的にパート練習をやるべきなんだろうな・・・。

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2011年11月 1日 (火)

CSRレポートの役割

CSRコミュニケーション(という概念がどんなものかはさておき)におけるCSRレポートの役割ってなんだろうか。

このところ久しぶりに(多分3年とか4年ぶりぐらいだ)CSRやCSRレポートについて考える機会が増えているのだが、改めてそんな事を考えてみた。すると、6年前最初にレポートの編集を手掛けていた頃の発想に戻っていく。

それは、CSRレポートの役割は「企業とステークホルダーとのコミュニケーション」のためではなく「ステークホルダー同士のコミュニケーション」を誘発することにある、というものだ。何となく、ここしばらくその発想を忘れていて、いかにして「(企業として)ステークホルダーとコミュニケーションするか」という事ばかり考えてしまっていた気がする。

ステークホルダー同士のコミュニケーションというのは、例えば従業員同士であったり、家族とであったり、取引先や知人と「自社のCSRについて」話し合う、という事だ。「企業と」対話をするのではなく、互いに対話をする。もちろん対話する関係によって内容は事なるが、その題材、きっかけを提供するのがCSRレポートの役割という事だ。

なぜそんな事が必要かというと、企業という組織体には、関わるステークホルダーの意思が反映されるものだからだ。その際に、思惑の違うステークホルダーが「それぞれ」企業に思惑をぶつけても、企業は何もできない。それは例えれば、教育方針の異なる親が、親同士は話し合いをせずに、それぞれが子どもに己の方針を押しつけるようなものだ。

以前は、企業のステークホルダーは限定されていたので、そうした利害調整はあまり考える必要がなかった。力と影響力が増すにつれて、関わるステークホルダー、企業に何かを要求するステークホルダーが増えたために、そうした調整が必要になったという事だろう。

その際に注意しておかなければならないのは、その調整の役割を企業に押しつける形で、ステークホルダーが無責任にそれぞれの利害を主張するだけになっては意味がない、という事だ。「企業とステークホルダーの対話」という発想には、そうなるリスクが含まれている。本来利害が対立する者同士が、直接のぶつかり合いをさけて、企業という緩衝帯を利用して何となく合意してしまうような危うさだ。

もちろん常に対立するわけではなく、共に合意できる事もあれば、うまく妥協できるものもあるだろう。ただ、いずれにしてもそれは企業を挟んでではなく、互いにコミュニケーションを行ってこそ生まれてくるものだ。

CSRレポートの役割は、そうしたコミュニケーションの題材ときっかけを与えるもの・・・そういえばそんな事を考えていたような気がするな~などと、久しぶりに思い出してしまったのだった。

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