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2011年12月28日 (水)

信頼するという覚悟

今日は仕事納めになるのだが、社員証を忘れてきてしまった・・・このまま休んでしまおうかしらん、というのはさておき、昨日は平河町ライブラリーで久しぶりに本を読み、自分に似た考えの主張を見つけてしまった。

信頼とは、相手がどうかではなく、自分が相手をそのまま受け入れる覚悟ができているかどうかということです。(「リーダーになる人のたった1つの習慣」福島正伸/中経出版)

この本を読んだのは初めてなので、別に真似たわけではないのだが、一応以前こんなエントリーを書いている。

多様性を受け入れ、信頼する社会
http://projectk.txt-nifty.com/enigma/2009/10/post-d8fb.html

「信頼」というキーワードに関しては、過去のエントリーを検索してみると意外と出てくるのだが、大体「自分の覚悟の問題」だという考えがベースになるだろうか。まぁ、単に天邪鬼で世間一般の捉え方とは逆に見たいというだけかもしれない。

で、その延長というか、他人から聞かされると「本当にそれで良いかな?」と思ってしまったりする。

信頼を「自分の覚悟」で捉えるのは、厳しいようだが安易な側面もある。何しろ自分だけで完結してしまうのだ。相手に関係なく、自分が覚悟しさえすれば「信頼する」は成り立つ。ある種の割り切りさえしてしまえば、「信頼する」のは実はそれほど難しくない。

「信頼される」のは違う。何しろ上記の定義に従うなら「相手に覚悟してもらって」初めて成立する関係なのだ。これは冷静に考えると、とてつもなく難しいことだ。ただでさえ「他人は変えられない」のが普通な中で、そこまでの覚悟を持ってもらうというのは、ほとんど宗教と言っても良い。(というか、ほとんど相手の問題で、こちらから干渉する余地がほとんどない。)

「信頼される」関係づくりというのは、それだけ途轍もないチャレンジなのだ。自分なんてヘタレだから「信頼する」で済ませているだけではないか、なんて気になってくる。

さて、来年は相手に信頼「される」ために何ができるだろうか。まず信頼するのは実はそれほど難しくない。問題は、それが「信頼される」に必ずしも結びつくわけではない、という事だろう。

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2011年12月27日 (火)

身の回りの情報整理

今日はいまいちテンションが上がらないのだが、まぁそんな日もあるよ、という事で・・・。

別に年末モードに入ってしまったというわけでもないのだが、今日明日(仕事は明日まで)は、書類やらファイルやら仕事周りの整理をしなければ。断捨離というほど大げさな話ではないのだが、どうも「溜まりすぎている」(何が、というものでもなく)気がしてならない。

いや「気がする」というレベルではなく、実際に不要化している書類やら情報やらはたくさんあるはずなのだ。その見直しを後回しにしてきただけだ。タスクリストの上位には、書類の「溜まり場」になっている場所の整理という項目が鎮座している。始めた時には定期的にやっていくつもりが、しばらくするとすぐに後回しになる。

他の事業所では、フリーアドレスやペーパーレスが進んで、個人用キャビネも一つで整理整頓という所も増えているのに、自分の身の回りはさっぱりというのは情けない。とにかく一気に環境を作り上げなければ。年末というのはそのための絶好の機会だろう。

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2011年12月26日 (月)

楽器が戻ってきた!

川に落ちてから約2週間・・・安静(乾燥)から解放されて楽器が戻ってきた。オケの練習をしただけで、あまりじっくり音などは確認していないのだが、今のところは問題なさそうだ。

とはいえ、乾燥してもネックの角度はそれほど戻らなかった。これ以上立ってくるようなら大掛かりな修理が必要になるし、他にも魂柱が合わなくなってきているといった指摘もあり、どこかできちんと考えなければいけないのかもしれない。(今の楽器はお気に入りだが、それでも買い替えという選択肢がない訳ではない。)

この連休には、スキーに備えてタイヤもスタッドレスに交換。その気になれば滑りに行くこともできたのだが、冷静に考えると身体にまだダメージが残っている。楽器はとりあえず復活したのだが、自分の身体の方は全快には程遠い。遅れてくる筋肉痛のように、右だけでなく両脇に痛みを感じるようになっていて、寝ていて横向きになれないのが一番つらかったりする。

まぁスキーに行けないのであれば、この正月は楽器の練習をしろという事なのだろう。多少痛みはあるが、楽器を弾くことはできる。府中の春定期の譜読みに加えて、ミニクラシックコンサートや、オレイユのアンサンブルの準備もしなければならない。

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2011年12月22日 (木)

今年の重大ニュース

昨日の忘年会(望年会?)で、「今年の重大ニュースは?」と問われて、それはもう間違いなく先日の転落事故に違いないのだが、ここにきてもう一つインパクトのありそうな事故が進行中。今年は3月の震災以降、やや追われるように点検なしのバタバタが続いていた気がするのだが、どうやらそのツケを諸々年内に返す事になりそうな気配だ。

・・・とやや意味深な事を書いてみても、それで事態が好転するわけではない。いずれにせよ状況は進行中のために詳細を書く事はまだできないのだが、なんとか年内には目処がたつようにしたいと思っている。

さて、ネガティブなニュースはさておいて、ポジティブな重大ニュースはなんだろうか。

一つぱっと思いつく変化は、平河町ライブラリーを利用するようになった事だろう。正直にいえばまだまだなのだが、それでも時間の使い方について、少し落ち着いて何かをできるような環境が得られたのは大きい。今のところ大半はオケのために費やしてしまっているのだが、徐々に他の事にも使えるようにしていきたいものだ。

また、今年は夏場の節電で輪番休日があり、オケの練習を休む事が多かった。これをポジティブと呼ぶかは微妙だが、接し方について考え直す機会になったとは言えるだろう。当たり前に練習に参加していたのが、実はそうではないという事を実感できたのは、練習に対する視線を変えるきっかけになった(得られたインスピレーションはまだ実行できていないが・・・)。
結局本番には乗れなかったオレイユの年末ミニコンサートへの参加も、自分は中では大きかった。

とはいえ、見直すヒントやきっかけを得ても、それらを生かせなければ意味がない。それは次の課題だ。現在進行中の事故は、最終的な結果によっては大きな見直しのきっかけになる。それをポジティブに生かせるかどうかも自分次第だろう。できうる事ならポジティブな形で新たな年を迎えたいものだ。

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2011年12月21日 (水)

優先順位が低いものほど時間枠を確保する

昨日の夜は時間ができたので、久しぶりにCSRレポートを読んでアンケートに回答し、ブログも書いた。(まぁその分オケに関しては後回しになったのだが、それはそれとして。)

でもこの「時間ができたらやる」というのではだめだろうな、と思ったりする。時間はできるのを待つものではなく、作るあるいは作っておくものだ。「時間ができたらやる」というのは、「運がよければやる」ようなもので、それはやるとは言わない。

例えば自分の場合、ほとんど残業は「しない」のだが、実は「できない」という方が正しい。多くの場合、夜には夜でやりたい事やる事があるため、残業をする時間がない。もちろん、天秤にかけた上で、残業を選択する場合もあるが、少なくとも「他にやる事がないから残業できる」という状態ではない。

残業をするな、とは言わない。だが、それは何かの天秤にかけてそれでも残業を選択する場合の話だ。特に予定がなくて残業「できるから」残業するというのはあり得ない気がするのだ。

・・・二つの話を無理やりくっつけたら変な内容になってしまった。
話を戻して時間を「作っておく」という意味では、このブログに関してはほぼ時間が確保されている。朝の行動予定が変わってしまった場合を除けば、何はともあれ確保されている枠内で書く事ができる。

一方、もう一つのブログやCSRレポートを読む、あるいはそういった勉強の類は、そこまで明確に時間枠を確保していない。優先順位が低いと言ってしまえばそれまでだが、優先順位が高いものは他を押しのけてもやるものだから、低いものほど枠を作っておかないといつまで経ってもできない事になる。音楽に関しても、楽器を弾くのとは違った勉強というのは、優先順位が低いが故に、いつまで経っても時間が確保されない。

正直なところ、時間割的にきっちり確保できるのはこの朝の時間しかないのだが、それ以外にも予定として明確にブロックする、少なくとも優先枠を設けるといった事を考えなければいけないのだろう。

ちなみに朝の時間を二分割するという無理やりな方法もあるのだが、これはさすがにちょっと難しそうだ・・・。

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2011年12月20日 (火)

週末の練習?

昨日は自宅近隣の事業所へ直行だったので、朝は楽だったのだが、ブログは書かなかった。時間はあったのだが、どうもリズムが変わると書けなくなる傾向がある。

先日の土日は楽器は弾けなかったのだが、オレイユのミニコンサート本番と、府中の練習に参加した。
半分は事情説明のためのようなものだ。

オレイユの方は、やはり乗れなかったのは残念だったというのが正直な感想。無理をすべきか大事をとるかで大事をとったのだが、無理をしても良かったかもしれない。とはいえ、無理をしてもろくに弾けずに迷惑をかけるだけだっただろう。

弦楽器群は府中のほぼ半分ぐらいの規模になるのだが、それでもあれだけ管楽器と張り合えるのはさすがという感じだ。音の厚みで管楽器に対することはできないので(府中はそれができるのが強みだろう)、その分アンサンブルがシビアになるのだが、それを感じさせない。弓の使い方もビッタリそろっていて見ていても気持ちがいい(府中だとどうしてもばらつきが出る)。

正直に言えば、ホールの音響が良ければもっと・・・という感じで、あの規模であれば府中のウィーンホールにも乗るので、そうした響きの中で聴いてみたいような気もする。

府中は来春の定期演奏会に向けた最初の譜読み。こちらは・・・やや惨憺たる感じだろうか。第九とは一転して苦手な領域の選曲で、特に変拍子に関してはそこそこ手こずりそうな気配がある。慣れの問題と言えば慣れの問題なのだが、そうした慣熟をさせるメソッドが今の府中にはない。毎週コンスタントに練習はするのだが、時間が通常のオケより短い(午後や夜間の場合大体3時間できるが、午前の府中は実質2時間)ので、実はトータル時間では思ったほどではない上、個々の曲の練習のインターバルが開きやすいので「忘れてしまう」のだ。
(前週の1日練習、前日のG.P.、当日のリハで一気に変わるのはインターバルがなくなって「覚えていられるから」だと個人的にはにらんでいる。)

6月の本番まで多少時間はある・・・と言いたいが、途中に別の演奏機会が挟まっていたりして、実はそれほど時間はない。そのあたりのカウントダウンもきちんとしておかないと、気づいたら本番が目の前という事態に陥るだろう。

それは運営面も同じで、練習に参加できない間、諸々事務作業をしていたりしたのだが、次こそは何とか立ち上がりを早くして、直前で慌てるような事がないようにしたいものだ。

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2011年12月16日 (金)

「支援をする」から「隣人になる」へ

昨日は東日本大震災における県外避難者の支援を考えるワークショップに参加してきた。

東日本大震災の避難者は33万人にのぼるそうだが、そのうち7万人が県外へ避難しているのだという。特に福島からの避難者がそのうちの5万8000人を占めているという話だ。自主避難は含まれていないため、実際にはさらに多いのではないかという。

そうした県外避難者の受け入れ先として、現在「避難所」として残っているのは埼玉県加須市の旧騎西高校のみ。残りは応急仮設住宅や民間借上住宅に入居しており、そうした人たちへの支援が大きな課題になっている。どうしても被災地への支援が注目されがちで、なかなか手が届かないという課題だ。

東日本大震災における支援団体は約700。そのうち県外避難者を対象にしているのは24団体しかないそうだ。加えて、応急仮設や民間借上という形で分散してしまっているために、そもそもまとまった形での支援が行いにくいという問題があるという。

まとまった形での支援が難しいのであれば、個別分散で対応するしかない。
話を聞きながら思ったのは、途上国へのチャイルドスポンサーのように、点と点を結ぶような仕組みは構築できないだろうか、という事だ。

例えば唯一の避難所である旧騎西高校に避難しているのは現在約800人。そのすべてに一律で何かをしようと思ったら、それなりの規模が必要になる。そうではなく、その中の一家族や個人に対して何かをできるようにする。公平性の問題があるのでコーディネートは慎重に行う必要があるが、そういった所にこそノウハウを持った団体もあるのではないだろうか。

応急仮設や民間借上の場合は、そもそもが分散してしまっているので、むしろこうした形でないと何もできない可能性もある。病時保育を行うNPOのフローレンスには「ひとり親支援」というプログラムがあるが、そうやって「個別の」避難者に支援を結びつけていくきめ細かさがこれからは求められているような気がしなくもない。

もう一つ思ったのは、「支援する」「支援される」という関係ではなく「隣人になる」という関係作りを進めていく必要があるのではないか、という事だ。

もちろん、「戻る権利」は担保されるべきだが、1年2年避難先で暮らすのであれば、それは一種の転勤と変わらない。どこまでもその入居先の地域とは距離を置くのか、一員として溶け込んでいくのかの選択肢は残す必要はあるが、少なくとも受け入れ側の地域としてはそうした準備を進めていく必要があるのではないか。

住民票を二重に持つのは難しいかもしれないが、ふるさと納税のような仕組みもあるので、入居先の住民としてのサービスも受けつつ、本来の地元との関係も断ち切らないような仕組みづくりが必要かもしれない。いずれにせよ、自分たちの地元にいる避難者に対して、いつまでも「ボランティア」として接するのではなく、「隣人」として接していけるようにする事が、今後彼らの自立を支援していく意味でも必要な事の気がする。

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2011年12月15日 (木)

評価を気にする?気にしない?

少し前だが、ほぼ日手帳にこんなメモをしていた。

「新しい取り組み」は「評価を気にしない人」によって始まり、「評価を気にする人」によって発展する。

もちろん最初から高い評価を得られる取り組みもあるだろうが、新しい取り組みというのは多くの場合最初は半信半疑の目で見られるものだろう。そうした環境の中で、その取り組みを定着させていくには、周囲の評価や目を気にしない、ある種の鈍感さが求められる。

言葉は悪いかもしれないが、「自己満足」というか、取り組むモチベーションを「自己完結」させられる方が、良いという事だ。(もちろんそれは取り組み自体が最終的には良いものという前提の話で、逆に悪い取り組みに「しがみつく」リスクもはらんでいる訳だが。)

一方、ある程度定着してくると、自己完結型のモチベーションではそれ以上の発展が望めなくなる。本人的には評価は関係なく、自分が取り組めればそれで良いからだ。ようするに発展させる事には本音の部分では興味がないのだ。

そこで、周囲の評価をモチベーションのベースにする人が必要になる。周囲からより高い評価を得るための行動が、その取り組みの発展につながるからだ。「評価を気にする人」という言い方だとややネガティブな感じだが、言い換えれば周囲とのリレーションを重視するという事でもある。それが、より幅広く周囲の評価や理解を高め、取り組みを発展させる駆動力になる。


多分会社のブログなどはそういう段階にあるのだろう。自分は少なくともブログに関しては明らかに自己完結型のスタンスで、評価は単なる言い訳にしかなっていない気がする。評価駆動型の新たな人材を呼び込むか、自分自身のモチベーションをその方向にシフトさせていく必要があるのだ。

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2011年12月14日 (水)

府中「第九」2011

直後に起こした大失態のために、別の意味で強烈に記憶に残りそうな気もするが、今回の第九も無事終了。とても良い演奏会だった・・・客観的に聴いたわけではないが、演奏する側の主観的には。

何が、と問われると言葉にするのが難しいのだが、これまでは「楽器を弾く」事が中心だったのに、アンサンブルのあり方とか、作曲者の意図とか、何というか「音楽を奏でる」といった事を考えるようにシフトしていく感覚が得られたような感じだろうか。

もちろん指揮者の飯守先生による所が大きいのだが、自分の場合は並行していたオレイユの練習も大きな影響があっただろう。両者の相乗効果でここまできたのに、結局今週末の本番に出られなくなったのは、本当に残念ではある。

いずれにせよ、今回の第九も素晴らしい音楽体験だった。第九は演奏経験も多いので、単に楽譜を追いかけるだけではなく、色々考えながら弾けるというのも良いのだろう。そういう意味では「初めての曲」ではなく、経験のある曲を演奏するというのは別の意味での楽しさがあるし、あるいはアンサンブルをより緻密に組み上げていく経験を得るためには、意識してそうしたプログラムを組む事があっても良いのかもしれない。

一方で、反省はと言えばやはり運営面。今回は府中市民響単独ではなく、実行委員会という別組織だが、その一員としてどれだけ貢献できたかは甚だ心もとない。チラシ、プログラム、当日の実施要綱、打ち上げの手配・・・諸々が後手に回ったのは確かだ。どんな演奏会でも毎回反省しているが、とにかく追い込まれてから行動するというのが多すぎる。(仕事でも結構そうだが。)

団内での協力体制をうまく構築できず、なんでも抱え込んでしまったのもいつもの通り。もう癖(クセではなくヘキだ)というしかない。以前書いたが、基本的に「自分が」やれば良いと考えていて、オケという有志の集まりはそういう考えの人の集団だという前提で無意識に行動してしまうのだろう。協力は「される」ものではなく「する」ものとしか思っていないので、他人にしてもらうのではなく、自分がすることしか考えられないのだ。

ま、そんな話はさておき、次の演奏会としてはミニクラシックコンサートがある。春の定期に向けてアメリカものという大規模編成の曲を練習しつつ、小編成のアンサンブルの練習をするわけで、これまた色々と刺激が得られそうだ。

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2011年12月13日 (火)

橋から転落しました・・・楽器ごと その2

(直前のエントリーからの続き)

月曜日は楽器が気になりながらも出社。この日は会社で会食があり、楽器には申し訳ないと思いながら美味しいイタリアンを堪能しました・・・お酒は抜きでしたが。
その頃には体の痛みも結構感じるようになり、翌日は楽器店だけでなく病院にも行くことにしました。10年若ければ放置したかもしれませんが、二の腕の痣が思ったより大きくなってしまったのと、落ちた場所が場所(もっとも流れはありますし魚を見かけたこともありますので、まったく汚いという訳ではありません)だけに、感染症が心配になったということもあります。

で、今日はまずは以前使っていたケースを取りに車で実家へ。結局今のケースが完全には乾かず、楽器を入れて運ぶのは難しいと判断した為で、今のケースを代わりに実家に置いてきました。(後日乾いた頃に中の清掃を改めて行う予定。)
ちなみに以前使っていたケースは、ケースだけで今のケースに楽器を入れた状態よりも重いという重量級のケース。今朝からは右の脇腹も痛むようになっていたため手で運ぶのは少々しんどい。当初楽器店(仙川)には電車で行く予定でしたが、車に予定変更。とはいえ、運転中も急なカーブでは体がよじれるのか、脇が痛みます。

先に病院(駅前)に行くつもりでしたが、そこでドクターストップでもかかれば楽器を放置することになってしまうため、まずは楽器店へ(あくまでも楽器中心)。以前調整をお願いして、ネックの角度が浅すぎるということで指板を削っていただいたお店です。今回の衝撃でネックがさらに立っていれば、こんどこそネックリセット(ネックを一度取り外してあて木をかませることで角度をつけるという調整でかなり時間と費用がかかる)という事になるかもしれないと覚悟をしました。

職人さんに事情を話し、とりあえず見てもらったところ、魂柱が回転してしまっているのと、やはりネックの角度が浅いのが気になるとの事。ただ、それ以外には大きな問題はなさそうという話で一安心。水をかぶっているので、一度弦をはずして(テンションをかけない状態で)乾燥させることで、角度が戻るかもしれないということで、そのまま預けてきました。

この週末にはオレイユのミニコンサートの本番がありますが、正直自分の体の状態もやや微妙だったため、今回は諦める事に。ですので、楽器については全治(安静)1週間、という感じでしょうか。ただ、他に問題があればこの際だから調整をしたいとお伝えしました。

仙川から高幡不動にとんぼ返りし、病院・・・は午後の診療時間まで時間があったため、その前に楽器やケースを拭くのに使ったタオルなどをコインランドリーで洗濯。思った以上に汚れており、3枚は処分。あわせて、破れたズボンと半身が水に浸かった上着とジャンパー、靴と手袋も処分。靴以外はどれもお気に入り(というか普段はほぼ一張羅状態)でしたが、特にジャンパー(ハーフコート?)などは10年近く着ていますし、結構泥もついていたので思い切って処分することにしました。で、そうなると困るのが「着るものがない」ということで、それは買いに行くことに。

とはいえ、その前に病院(ちなみに病院に行く道すがら礼服をクリーニングへ)。
念のためレントゲンも撮ってもらいましたが、肋骨も折れてはいないということで、痛み止めと、痛ければ湿布をするようにということで、そちらも処方してもらいました。こちらは全治10日の診断。

とにかくその程度で済んでいる事については、「運の良い落ち方をしましたね」という事を強調されました。確かに打ちどころによってはそのまま・・・という可能性もあったので、とにかく運が良かったのは間違いありません。浅いとはいえ、水がクッションになったということもあるかもしれませんが、とにかく頭から落ちていないのは不幸中の幸いでしょう。

感染症については、この程度なら問題ないということでした。破傷風は嫌気性のため、地表や水の流れがある所で感染することはまずないそうです。(危ないのは発掘現場など。)

そんな訳で、ようやくこのエントリーを書くことができました。
今武蔵村山のイオンモールのスターバックスにてこのエントリーを書いていますが(今日一日の車での移動距離は100kmぐらいになります)、これからダメになってしまった上着と靴と手袋を買って帰ることにします。

お騒がせいたしました。とりあえず無事ですので、ご心配なく。
今後はお酒には気を付けたいと思いますが、忘れているようだったら注意してくださいますようお願いいたします。

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橋から転落しました・・・楽器ごと

昨日から読む人によってはびっくりさせる、人によってはやや意味不明なエントリーをしておりましたが、一段落しましたので顛末を報告します。

12月11日の府中「第九」2011は無事成功しました・・・演奏会は。
その話は明日にでも譲るとして、打ち上げ終了後、しこたま酔った(らしい)私は、その帰り道、自宅近辺の小川に橋の上から楽器ごと転落してしました。
(「ドブに落ちた」と書いていましたが、側溝に落ちたかと勘違いされるようなので、「小川に」「橋の上から」落ちたと書くことにします。)

どんな場所かというとこんな場所です。(めったに使わない写真を使用してみる。)

Img_1783
正面の橋を右から左に向かう途中、足を踏み外して手前の川に転落。駅のホーム程度の高さはあるでしょうか。結果から想像するに、歩きながら眠りに落ちていたらしく、痛みに気づいて目が覚めた時は水の中。

「どうしてこんなところにいるんだ!?」と即座に(気持ちは)起きて、脇からよじ登りました。とにかく「楽器がやばい」という頭しかなく、その場でケースを開いて中を確認。

ちなみに私はケースを背負っていたのですが、ちょうど真横になるように左半身から落下。左側はずぶ濡れでしたが、頭には水がかかっていなかったので、幸い頭は打っていないと思います。上着の左ポケットに入っていたiPod nanoや、胸ポケットのiPhoneは無事だったので、おそらく着水直後に目が覚めて飛び起きたはずです。

楽器を開けても暗くてよく見えず、とりあえずネック等が折れていないことを確認し、とにかく自宅に急ぎました。靴と手袋はぐちゃぐちゃ。頭の中は「なんでこうなった」の繰り返し。

自宅に戻ったらずぶ濡れの上着を脱ぎ捨て、楽器を取り出してとにかく拭く。びっしょり、という訳ではありませんが、それでも拭いたタオルを確認するとそれなりに濡れていたと思います。拭きながら各部を確認しましたが、弦がゆるんでいるぐらいで、大きな傷はなさそうに見えました。(後で確認したら一箇所ケース内でぶつかったらしくニカワがはげているところがありました。)

もちろん弓も取り出して拭き、続いてケース。さすがにケースはかなり濡れていました。中に水が浸入した痕跡として、中の下の方は砂がびっしり。パッドを剥がし、ドライヤーで乾かしながら粘着テープで取れるだけ取りましたが、後は乾いてからということで途中で断念。楽器は出したまま、ケースは開いたままで放置しました。

体の状態はというと、左の二の腕に痣と擦過傷、左の掌に痣、右足の膝裏に擦過傷がありました。この時は精神的なショックもあってそれほど痛みを感じることもなく、とりあえずシャワーを浴びてその日は就寝。その日といっても2時頃だったでしょうか。

いつもは演奏会の翌日は休みをとっているのですが、諸事情によりこの日は出勤。いつもどおり朝5時に起きた時はまだお酒が残っている感じでした。
とにかく楽器を何とかしなければということで、明日は休みを取ろうと判断し、この日は会社へ(実際、この日休みでもお酒のせいで逆にろくなことは出来なかったと思います)。そしてお酒が抜けてくるに連れて、徐々に痛みを感じるようになりました。

落ちた瞬間は覚えていないので、あくまでも傷から想像するしかないのですが、おそらく左足を踏み外し、右足が橋に残る形で、膝裏を引っ掛けてから落下したと思います。(ズボンの右足の膝裏は破れていました。)
ただ、その後がよく分かりませんが、とにかく頭から落ちるのではなく、左の二の腕を下にする形で落下。掌をどうぶつけたのかは不明ですが、上着の状態、傷の状態からはそのように想像できます。

ケースはというと、頭の部分に三箇所傷があります。

Img_1779
独特の塗装がされている関係でわかりにくいのですが、側面に三箇所。背負っていたということを考えると、こちらが先に落ちる形で、結果として私の頭が守られたのかもしれません。

(長くなってしまったので、続く・・・。)

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おはようございます

昨日はご心配をおかけしました。
今日は休みをとって楽器屋と病院に行く予定です。
顛末はまた後ほど。

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2011年12月12日 (月)

酔っぱらってドブに落ちました・・・楽器ごと

最悪・・・とはいえ、高さを考えると体が無事なだけましかもしれない。楽器は点検しなければならない。

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2011年12月 9日 (金)

ほぼ日手帳2012

唐突な衝動買いだったのだが、ほぼ日手帳2012を購入した。昨年2011は買わなかったので、一年ぶりに復活という感じだろうか。

今回はちょっと贅沢に革カバー。使わなくなるかもしれないが(実際過去には紙製のカバーに付け替えて使っていた事もある)革カバー・・・と別にカバーを強調したいわけではなく、復活購入した理由は手書きの「気軽な」メモを復活させるためだ。

メモ用としてはモレスキンのスクエアノートも持っているのだが、何故か書かない。紙質が手持ちの万年筆(LAMYのアルスターとパーカーのエスプリ)にやや合わない(にじむ)という事もあるが、多分日付が入っていないのが原因だ。

メモに日付は関係ない・・・ようなのだが、その日に書けるスペースが限定されていて、何も書かないと流れていってしまうという環境が、思いついた事を書き留めるモチベーションというか、半ば強制力のような形で働くのではないか・・・そんな気がする。その証拠というか、昨日は早速思いつきのメモがある。

「マジメ」をネガティブに使う時というのは、言う側の「ゆうづうをきかせろ」が含まれている場合があり、それは必ずしも良いものとは言えない。逆に相手を「マジメだな」と思う時は、自分に「外れた」所がないか、再点検するぐらいで良いのかもしれない。

購入して最初の一筆がこれというのもなんだかあれな話だが、手書きそのままだとやや荒削りなので補完をすると、

「マジメ」をネガティブに揶揄として使う時というのは、言う側に「少しは融通をきかせろよ」という気持ちが含まれている場合がある。それは「現実をみろ」という一方で、その「現実」に対する批判精神を失っているという事でもある。逆に相手を「マジメだな」と感じた時は、そう感じる自分が単に現実を批判なく受け入れてしまっているだけではないか、と疑うぐらいで良いのかもしれない。

という感じだろうか。多くの場合「マジメ」という評価は、正論に対して他に反論の手段がない時に、そうではない現実を受容させるために使われるのではないか・・・そんな気がしたのだ。

ということで、とりあえずスタートダッシュとしてはほぼ日手帳の効果は十分という感じだろうか。この調子で(くだらない)思考を書き留めていきたいものだ。

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2011年12月 7日 (水)

消えたアイデア

今日はあまり時間がないので手短に・・・したいのだが、ネタがない。電車の中で良いフレーズを思いついたような気がするのだが、消えてしまった。Tweetなりメモなりすれば良かったのだが、ちょうどそのタイミングでホームに着いてしまったのだった。「評価」とかそんなキーワードが含まれていたような気がするのだが、あまりに一般的すぎてそこから想起できない。

そうやって霧散してしまう考えやアイデアというのはいくらでもあるのだが、まぁ、それはその程度のものという事なのだろう。

という訳で今日はここまでにする。時間があればいろいろこねくりながら思い出すきっかけを作っていくのだが、今日はそれもないのだった。

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2011年12月 6日 (火)

自分のせい、が一番楽チン!ではないだろうか・・・

書かれている事は確かにその通りなのだが・・・

他人のせい、が一番楽チン!でもね・・・
http://blogs.itmedia.co.jp/tooki/2011/12/post-d87f.html

それとは逆の状況に陥っているな~と思う事がある。今の自分の課題は、「他人のせい(責任)」をきちんと追求できない事だ。物事が進まないのは自分の問題、その通り。だから自分でやってしまった方が早い。他の人のせいにして任せるよりもずっと楽だ。

・・・しかし、個々に見ればその通りだが、全体として見れば何でも一人で抱えてしまう事は遅くなる原因だ。他人をそのように動かせないのは確かに自分の責任だが、それをカバーするために自分がやってしまう事は多分誰のためにもならない。いや自分自身は勝手な自己満足に浸れるし、成長にもつながるかもしれないが、組織やその人のためにはならない。

もちろん、大木さんが言われているのはこれとは別次元の話だろうと思うのだが、自分自身に関していえば、もっと「他人のせい」という事を意識してそれを相手に伝えていく部分にこそ自責を感じるべきなのだろう。

(ちなみに一般的に「他人のせい」と呼ばれる評論は、そう自分に言い聞かせるだけであれば、実は自責とあまり変わらないのではないか、とも思っている。他人のせいというのは、相手にそう伝え、相手が受け入れれば問題のあることではなく、そうせずに中途半端なままだから問題なのだ。)

他人の問題を追求するのはしんどい。自分の問題にとどめておいた方がよほど楽だ。
そういう意味では「誰々が悪い」とあっさり公言できる人というのはすごいと思ったりする。単なる愚痴でなければ、その人を悪くない状態にするように関わる責務を自ら負うと宣言しているようなものだからだ。

他人を評価するというのはそういう事だろう。
自分にはそれができないのだ。ああ、「できない」系のエントリーになってしまった・・・。

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2011年12月 5日 (月)

第九&ブラ4練習終了

この週末で府中の第九とオレイユのブラ4の練習は終了。第九は今週末のゲネプロと本番、オレイユは来週末の本番を残すのみになった。ほとんど個人練習をする時間がなく、正直弾ききれるか不安もあるのだが、それでも今回(今シーズン?)の練習は色々と勉強になった気がする。

昨日の合奏で感じたのは、そもそも合奏は自分が「弾く練習」をするためにあるのではなく、周りを「聴く練習」をするためにあるということだ。自分が弾く練習は個人でもできるが、聴く練習は一人ではできないからだ。

そういう意味では、他のパートが指導を受けている時間こそ貴重な時間とも言える。その待ち時間を「時間がもったいない」という意見もあるし、もちろん弾きながら聴くにこしたことはないだろうが、弾いてないからこそ考えられることもある。他のパートの動きを理解し、自分に応用するにはどうしたら良いか、頭の中でイメージできる事はいくらでもある。音を出していない時間の使い方こそが、音楽の質を決めるのだ。

それにそもそも自分の場合、四六時中「オケ」の事は考えていても、そうした「音楽」の事を考えられる時間は限られているため、練習中の「休み」は結構貴重だ。「時間がもったいない」という人は、そうしたイメージはすでに事前に予習してきていて、今更不要ということなのかもしれないが、今の自分にそこまでの余裕はないので、ああした時間は実は助かっている。

もちろん、合奏が「聴く練習」として成立するためには、「弾く練習」は済ませてから臨むということが必要になる。実際に以前そうした心構えをトレーナーから諭されたことがあった(と思う)が、第九などは過去の経験のお陰でそうした時間がかなり短縮されているという事はあるだろう。そういった意味でも、ここから音楽を高めていくには、「聴いて考える」時間こそが重要だし、その時間をいかに使うかということが求められるという事だろう。そして音楽がナマモノである限り、その側面の追求には終わりがない。

・・・などという事を考えられるようになったのも、今回の練習の「組み合わせ」のお陰だ。これまでも府中とオレイユの練習が並行していた事はあったが、こうした事を感じたことはあまりない。どちらも新曲だと「弾く練習」が中心になってしまうからだ。今回の場合、オレイユは「弾く練習」に近いが、そこで得られたことが府中での「聴く練習」につながっているように感じる。論理立てて説明する事はできないが、そのように感じるのだ。(さらに言えば、オレイユについては練習+飲み会でのフィードバックが大きく影響しているような気がする。)

こうした練習が他でもできるようになりたいものだ。

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2011年12月 2日 (金)

家に帰ると何もしない

平河町ライブラリーを使うとやる事がはかどるのは良いのだが、反動で行かない日は何もできなかったり(しなかったり)する。会社に行くと仕事モードになるようなもので、自宅では「何もしない」モードになってしまうのだ。それでも無理やり臨む事もあるのだが、やたら効率が低く、「やっぱりダメだな~」とさらにインプリンティングされてしまう悪循環。なんだかな。

たまたまというか、今週は平河町ライブラリーにほとんど行けていない。行けない時というのは、飲み会があるか、セミナーがあるかが大半だが、今週の火曜日のようにやや燃え尽きに近い形でどうしてもテンションが上がらずに真っ直ぐ(ではなかったが)帰る場合もある。

行けばやる事はあるし、やってしまう事も分かっているので、まぁその程度の回避行動はあっても良いだろう。とはいえ、今週は後半3日が行けない予定だったので、やや判断を誤ったかな、という気分もある。今日は流石に帰ってからやる事をやらないと少々まずいかもしれない。

とりあえず今日のブログはこんな感じで、残りの時間はメールの返信にあてよう。うっかり昨日の夜チェックをしていなかったのだが、結構重要なのが来てるよ・・・。

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2011年12月 1日 (木)

CSRの要求をごね得にしないためには

昨日たまった資料を片付けていたら、ISO26000の導入に関する提案資料がでてきた。パラパラとめくっていたら、その中に、ISOの導入とは直接関係はないのだが、某国際企業が某国際NGOのキャンペーンにより「持続可能な」調達をする事になった事例が紹介されていたのだが・・・。

ふと思った。これがNGOによる「ごね得」ではないという根拠はどこに求められるだろうか。

もちろん、感覚的な話ではなく、論理的な話としてだ。持続的な社会の実現に役立つのであれば、それはすばらしいと自分も思うのだが、それは必ずしも論理的に証明されるものではない気がする。

例えば不買運動や何らかの形でのイメージダウンというのは、企業にとってはダメージだから、「そうならないために」NGOのキャンペーンの要求を受け入れたとする。それは、企業としてのダメージを回避するためのリスクマネジメントとしての行動であって、社会や地球の持続可能性のため「ではない」。

結果としてそうなれば良い、という考え方もあるのだろうが、何となく釈然としない。そもそもそうした不買運動やイメージダウンが、扇動ではなく正当な判断の集合体として生じた、という事も厳密には証明されない。多くに支持された、という事を論拠とするのであれば、ヒトラーだって多くのドイツ国民に支持されていたのだ。

もっとも、政治の場合、その判断の責任は国民が負っている。問題は、企業の行動の場合その責任は誰が負うのか、という点だ。国際NGO?支持した消費者?おそらくどちらもそうは思っていないだろう。行動したのは企業の責任だ。

この構造は実は結構恐ろしい事なのではないか。銀河英雄伝説で、ラインハルトとヤンが初めて対峙した時に、ヤンが独裁政治を批判したセリフを思い出す・・・正確に思い出せないので引用して書くことはできないが、独裁政治の最大の弊害は、民が失政の責任を他人(独裁者)のせいにできる事にある、という指摘をした場面だ。

企業にCSRを要求する事が、独裁者への要望ではなく、民主的な要望であるためには、要望した側がその責任を担うメカニズムが必要になる。どうやったら社会はその責任を担う事ができるだろうか。

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