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2012年2月29日 (水)

会社で断捨離

諸般の事情により、会社で資料の整理を断行中。「捨てるものを選ぶ」のではなく「残すものを選ぶ」スタンスで、原則捨てるという進め方をしているのだが、そうやって考え方を決めてしまうと、思った以上に不要なものを溜め込んでいる事が分かる。

目の前の資料の山に対して、

1.基本的に(このカテゴリの資料は)捨てる
2.ただし、◯◯の条件に合致するものは残す

と、先に条件を決めてしまえば、判断は早くなる。個別に残すかどうかを考えていたら、残すものが増えてしまうからだ。そのカテゴリの資料の性格から、日付(1年以内とか日付がないとか)、形態(OA用紙に印刷されたものとか冊子になっているものとか)などでルールを決めておき、バッサリと捨てていくようにすれば、驚くほど残るものは少ない。

もちろんそれでも残るものはあるが、そこで決めたルールは例えば将来改めて見直す際の指針にもなるだろう。

感覚からいえば、

・昔の資料は陳腐化してもう使えないものが多い
・最近の資料は電子化されているものが多い

ということで、大半のものは捨てられる。もちろん、電子化されていても利便性から紙の資料になっているものもあり、そういったものは一時的に残しておくわけだが、今回の整理ではそうした資料は大体対象外(使用中の資料を処分するのが目的ではない)だ。

一昨日昨日と大きなイベントがあったので、その合間に作業を進め、共有資料の類はほぼ終了したのだが、個人で溜め込んでいる資料がまだ残っている。こちらはやや思案中で、特に研修などの学び系資料の処分が悩みどころだ。理屈ではまず残しておく価値はない(身についていれば資料は不要だし、身についてなければその学び自体が不要だからいずれにせよ資料は不要だ)のだが、どうも感情が混じってしまう。ノートや手帳などもそういった要素がある。

まぁ、どこかでえいやとやってしまう必要はある訳で、どうしても気になるものは一度読み返す(そして捨てる)事にしてしまうのが良いのだろう。

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2012年2月28日 (火)

普段からアンサンブルの練習をする

昨日は土曜日のスキーの事を書いたので、今日は日曜日のミニクラシックコンサートの件。

演奏面については聴いた人の評価に任せたい所だが、個人的な反省はといえばやたらと掛け持ちをしてしまった事だ。練習がかぶるなど、掛け持ちはろくな事がない。本当は割り切ってパート内に割り振るべきだったのだろう。

それ以前に、乗るべきだったか、という問題もある。スタッフに徹するという選択もあるからだ。普段定期演奏会などで、スタッフとしての経験不足を痛感しているのだから、形は違うにせよ、こういった機会にスタッフを経験するというのは、真剣に考えても良かった。

とはいえ、弾きたいという気持ちは気持ちであって、そこは微妙ではある。特に最近は室内楽の方が楽しそうに感じてしまったりして、「定期は(降りても)良いけどミニクラはなぁ・・・」などと思ってしまったのも確かだ。

ミニクラシックコンサートに関しては、演奏の準備自体が直前に集中するという問題もある。年間を通じてある程度コンスタントに練習をする仕掛けをしておき、その成果の発表の機会として位置付けた方が、団としてもレベルアップにつながるのではないか、という気もしている。
そのあたりは、来年に向けた課題だろう。

例えば次のような感じ。

・代表者とメンバーを決めて、グループとして団に登録
・団は練習場の確保などで便宜を図る(無料枠の提供など)
・グループは団内演奏会などで積極的に発表する
・ミニクラシックコンサートへのエントリーは基本グループ単位
・練習実績や完成度、メンバーの重複状況などをプログラム選考の参考にする
・ミニクラシックコンサートでは他に必要であれば単発の企画演奏を追加する

ある程度固定のメンバーで、オケとは別に定期的にアンサンブルの機会を持つ事は、確実にレベルアップにつながる。他の団体で武者修行という方法もあるが、団内にそういった場を設けるのは、演奏委員会の考えとしてはありだろう。(運営委員会としてはやや手間が増えるが、プログラムの調整などの手間に比べればましかもしれない。)

もちろん、一期一会の顔合わせがあっても良いのだが、それにしても直前に慌てて結成するのではなく、ある程度期間はおいた方が良い。その上で、演奏しないスタッフも含めて早めに体制を固めるようにする。

個人的には団員を「待ち状態」(自分から何もしなくても団が声をかけてくれる)ような状態にはしたくないので、まずは当人が声をあげてグループを作るあるいは参加するという事が大切だとは思うが、とはいえ、そうした場合、自分のような人間がホイホイと掛け持ちをしてしまうリスクもあるので、その辺りは注意が必要かもしれない。

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2012年2月27日 (月)

内足に乗る

土日はスキーにミニクラシックコンサートと慌ただしい休日だったのだが、まずは土曜日のスキーの件から。久々に受けた指導のおかげで、今日は筋肉痛だが、とても充実していた・・・と思う。

言葉にできるほど理解できたかやや不安で、正直すぐにでも確認しておきたいのだが、今週末は予定があってスキーにはいけない。とりあえず可能な範囲で言語化しておく事にする。

ポイントは内足の使い方。今回の指導がこれまでと大きく違っていたのは、ターンの際にいかに内足を使うかが問題になるという点だ。従来は外足に乗ってターンをしていたのだが、これを内足に乗って、外足はそれを支えるというターンに変える必要がある。

ターンの始動前に、ニュートラルのポジションから腰をさらに谷側に落とす事で、谷足(ターン時の内足)のインエッジを立てるようにすると、板は自然に下を向く。その際に外足に荷重を移すのではなく、内足に乗ったまま外足はそれを支えるだけにする。ターンが終了したら、そのまま腰を谷側に落としながら反対側の足に荷重を移し、そちらを内足として次のターンに入る。

うまく説明できないのだが、これによりターンの切り替え、始動が劇的に早くなる。大切なのは外足に乗りすぎないで内足でターンをしてしまう事だろう。外足に荷重するターンの場合、次のターンに入るために荷重を移す際に外足側、つまり山側に荷重を移す動作が必要になる。これがターンの切り替えを遅くする。

内足に荷重を残したままターンを終えると、次のターンに移る際に必要な動作は谷側に荷重を移すという事になり、重力に逆らわないために無駄がない。

・・・と、おそらく理屈はそういう事だろうと思うのだが、理屈は分かっても実際にやるのは難しい。外足に荷重するのはターンの際の遠心力に対抗するためで、外に吹っ飛ばされないためにやや内側に荷重を残し、それを内足で支える形でバランスをとっている。これを逆にするという事は、内側に倒れないために外側に荷重を残すという事だ。

これは、感覚的にはかなり怖い。自転車でコーナーを曲がる際に、内側の足を踏んだ状態にするようなものだからだ。しかし、そうしておけば、次の踏み込みですぐに次のターンに移る事ができるようになる。

実際にはまったく外足に乗らないという事ではなく、双方の足への荷重をなるべく均等にするといった意味合いもあるのだろう。そうする事で荷重移動を最小限に押さえる事ができれば、それだけ無駄のない滑りができる事になる。

しばらくはそういった練習をする事になりそうだ。そのうちもう少し上手く言葉にする事もできるようになるだろう。

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2012年2月24日 (金)

週末の予定

なぜかぶってしまったのか・・・という気もするが、この週末は結構慌ただしい。

明日は前泊でスキー。前泊ということは、ようするに今日の夜からということだが、前泊するのは朝ゆっくりできるからだ。今回の目的地である尾瀬岩鞍は、日帰りではやや不便(駐車場が遠い)で、宿泊施設の送迎を使う方がアクセスが良いということもある。

で、長野五輪で解説をしたこともあるという人に指導を受ける予定。周りは知り合いばかりなので、比較的気楽に受けることができる。その方にはもうしばらくお会いしていないので、楽しみだ。

楽しみなのだが、宿泊はできずに(他のメンバーはもう一泊して日曜日も指導を受ける)土曜日の内に帰り、日曜日は府中のミニクラシックコンサート本番。いつもと違って半日ではなく1日滑って帰るため、土曜日に楽器を弾けないのはやや不安だが、さりとてスキーのチャンスも諦めきれない。結構な強行軍ではある。
(帰ってきてから深夜のカラオケボックスという方法がない訳ではないが・・・。)

ミニクラシックコンサートは、室内楽中心のアンサンブルコンサートで、いつも「今回は出演しないでスタッフに徹しよう」などと思っているのに、気づいたら複数エントリーしていたりする。普段機会が少ないので、飛びついてしまうのだ。

というわけで、もう明後日ですがご案内。よろしければご来場ください。

府中市民交響楽団ミニクラシックコンサート2012
日時:2012年2月26日(日)13:30開場 14:00開演
場所:府中の森芸術劇場ウィーンホール
曲目:
G. ロッシーニ:弦楽のためのソナタ 第1番 ト長調 より
J.D. ゼレンカ:トリオソナタ 第2番 ト短調ZWV181 より
W.A. モーツァルト :フルート四重奏曲 第4番 イ長調 K.298
E. クレスポ:トロンボーンアンサンブル曲 ほか
W.A. モーツァルト:アヴェ・ヴェルム・コルプス ほか
J.S. バッハ:ブランデンブルク協奏曲 第5番 BWV1050
主催:府中市民交響楽団 後援:府中市
全席自由 入場無料
※小学校入学前のお子様のご入場はご遠慮ください

最初と最後に出演するので、あまり気を抜ける所がないんだよね・・・。

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2012年2月23日 (木)

ネガティブ情報の開示

「ネガティブ情報の開示」はCSRレポートを作成する上での大きな課題の一つだが、昨日Facebook上でとあるやり取りをしていて、反省すると同時に、自分なりの考えがまとまった気がする。

「ネガティブ情報を開示せよ」というのは「あなたの伝えたくない情報をあなたの責任で発信すべき」という事なので、求める側としては無責任かつ安易に要求しやすい。「私の知りたい情報を私のために開示して欲しい」という姿勢で求められれれば、開示を拒む企業は少ない気がする。
2012年2月22日 23:35:02 HootSuiteから

そして考えてみると「ネガティブ情報」が「自ら伝えたくない情報」であると定義すると、それは自ら開示されないからこそ「ネガティブ情報」なのであり、自ら開示したらその時点で「ネガティブ情報」とは呼べない事になる。だからこそ「求める人」がその責任において開示を求める必要があるのだろう。
2012年2月22日 23:47:44 HootSuiteから

結局「ネガティブ情報」の開示を阻む最大の障壁は、開示「すべき」という姿勢なのだ。そしてそういった人たちが「べき」論から離れないのは、開示「して欲しい」と求めて自ら責任を負いたくないか、「ネガティブ情報を開示せよ」という要望そのものが重要だと考えているからではなかろうか。
2012年2月22日 23:54:11 HootSuiteから


反省、というのは、自分も社内に対しては「べき」論で対峙していた事に気づいたから。何の事はない、開示して欲しいという意思を示す事ができず、他人事で情報開示を求めていたのは自分自身で、だからこそ進まなかったという事になる。

べき論は実に安易に展開できる。それが正しいという前提や根拠を示す事も、自分の意思を示す事もなく、さもそれが当然で、理解できないのはあなたの問題と、一方的に通告できるのが「何々すべき」という指摘だ。

「開示すべき」・・・ああなんて(自分にとっては)甘美な響きだろうか。

しかし、言われる側にとってはたまったものではない。「判断するのはあなたの責任」「理解できないのもあなたの問題」だからだ。言われて反論する立場になってみると、なんともムカつく話である。(そもそも反論自体封じられている。何しろ「それはお前の問題」と宣言されてしまっているのだから。)

なるほど、そういうコミュニケーションをしてきてしまったのだな、と反省する。「べき」といのは、最低限自分に向けて使う言葉で、他人には(少なくともコミュニケーションしたい相手には)使ってはいけない言葉なのだろう。


思うに、CSRレポートにおける情報開示には、2つの軸がある。

(企業として)伝えたい情報
(読者として)知りたい情報

バランスからいえば、前者に偏りがちなのが現状だが、これは企業内に意思が存在するからだろう。知りたい情報という意思は企業の外にあり、企業内から想像はできても、その想像が企業側の事情に寄ってしまうのは、これまた想像に難くない。

ジャーナリズムやNGOによる情報開示圧力は、いわば後者としての意思だ。こうした意思が示されれば、開示側はではどうやってその情報を開示するか、という検討を迫られる。そこにメリットやリスクを感じれば開示するし、あるいは開示しない意思を示すだろう。そうして判断が下された情報は、開示されればそれはもうネガティブな情報ではないし、開示されなければ「企業秘密」となるだけである。

今後CSRレポートの開示情報において求められるのは、そういった個別の掘り下げであって、「ネガティブ情報」などという曖昧模糊な議論は、机上の概念論にすぎないというスタンスが重要な気がする。

さて、読者として「知りたい」と求める情報は自分にとってなんだろうか。それは自分にとってどんなメリットをもたらすと、企業に対して説明できるだろうか。

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2012年2月22日 (水)

コミュニケーションツールとしてのCSRレポート

昨日は某所でCSRレポートとCSRコミュニケーションについて勉強会。
自社の取り組みについても話したのだが、こうした機会があると自分自身がめざしている方向というのも明確になってくるのが面白い。

このブログでは(一応)所属を伏せているので、その辺りの情報を避けながら昨日話した内容をメモとして列挙しておく。

(CSRレポートの)対象者は誰か
・従業員・・・会社で読むのではなく、自宅への持ち帰りを呼びかけ
・家族・・・親元にも送付

なぜ従業員なのか
・「会社と」ではなく、「従業員と」ステークホルダーのコミュニケーションを発生させる事をめざしているため(家族、友人・知人、取引先、同僚etc)

何を期待していたか
・従業員がコミュニケーションの主体となる事
・レポートはそのきっかけであり、触媒

たった一人と向き合う
・トップ対談は「会社の伝えたい事をトップが話す場」ではなく、「一人のステークホルダーの関心事にトップが応える場」

CSRレポートの役割
・レポートはそれ自体がコミュニケーションをする訳ではない
・企業はステークホルダーの中心に位置付けられるが、コミュニケーションの中心である必要はない

コミュニケーション?
・「伝える」ことではなく「ぶつけあう事」「知り、認め、受け入れる事」
・そのツール(提供される話題)の一つとしてCSRレポートがある

分からないって何?
・企業の評価が目的なら「分からない」はあっても良い
・企業との対話が目的なら「分からない」では進まない
・CSRレポートを読む目的は、企業が考えるものではなく、読み手が考える事

読者として
・ステークホルダーとして企業に向き合うとはどういう事か
・自らがコミュニケーションの中心になるには何をしたら良いか


自分で読み返してもこれだけではよく分からないのだが、個人的な意図としては、CSRレポートは企業が作るものではなく、(物理的には企業が作るにしても)読者が育てていくスタンスが必要で、そのために必要な事を考え、行動していきませんか、と呼びかけたつもりだった。


後半のワールドカフェで、今後どういったレポートをめざしていきたいかと聞かれた。実際今はそこまでレポートに関わってはいないのだが、こう答えた。

「読者の顔を見えるようにしていく事」

レポートが読み手のために書かれるためには、書き手に読み手の顔、意図が伝わっている事が重要だ。それは「こうだろう」といった推測や伝聞ではなく、直接的なものであればあるほど効果的になる。

今のCSRレポートには、読者の顔が見えていない。それを書き手の努力不足とするのは簡単だが、自らを読み手と考えるのであれば、求められるのは読みたい内容、読みたい自分の姿を伝える事であって、書き手の努力不足を指摘する事ではない。(もちろん、自分は読み手ではない、と位置付ける事も可能だ。その場合、読み手が不在のレポートは消えていく事になる。)

アニュアルレポートの膨大な数字情報は、それに興味のない人たちのためにではなく、それを必要とし、企業に求めた人たちの意図によって提供されている。CSRレポートに記載される内容というのも、その内容に興味を持ち、求めた人たちの意図によって決まるものだろう。

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2012年2月21日 (火)

変拍子のノリに対応する

(一日空けてしまったが)日曜日の府中の練習は、エル・サロン・メヒコの合奏。「苦手とする」変拍子系の曲だ。

「」にしてみたのは、何故苦手なのだろうか、と考えてしまったから。単純に慣れと考えても良いのだが、であれば回数をこなして慣れるしか方法がないし、ある意味時間が解決する問題でしかない事になる。

そもそも「慣れる」って何だという気もするのだ。

スキーの場合・・・と比較するものではないかもしれないが、ある時期から「身体」ではなく「頭」で滑るようになる。「身体」を通して経験を積んでいっても、その感覚を言語化して理屈で「頭」に入れていかないと、どこかで頭打ちになるのだ。一方で、「身体」からではついていけない年齢というのもあって、その場合は「頭」から入って、その頭通りに動かない「身体」にもどかしさを感じたりもする。

とはいえ、いずれにせよどちらかのアプローチではあるような気がする。

今のオケが抱えているのはどちらだろうか。個人レベルの問題は個人で解決するとしても、集団としてのオケがアプローチする方法はどちらになっているだろう。

慣れの問題、という捉え方は、身体的アプローチだろう。その場合、徹底して反復練習をすることになる。それも中途半端に指揮に合わせるのではなく、機械的にメトロノームに合わせるところから始めた方が良いかもしれない。変拍子といっても、エル・サロン・メヒコの場合、8分音符でのビートはほとんど変わらないから、不可能ではない。

リズムだけを追わせる方法もあるだろう。慣れる、というのは、覚えて頭では考えずにできるようになることだ。分かるのは後で良いから、とにかく覚えさせる。子どもにはこうしたアプローチは有効で、各人のリズムが一致した時に(一致するように練習を繰り返すわけだが)驚異的なシンクロとノリを見せることがある。

しかし、このアプローチは本来圧倒的な「共通する」練習時間が必要だ。週に2時間で、もちろんその曲だけをやっている訳にはいかないオケでは限界がある。
(もちろん、個人練習で徹底せよ、という方法もあるが、多分現実的ではない。)

という訳で、もう一つの頭から入るアプローチはどうか、という話になる。
実際、指揮者やトレーナーの指導はそういったアプローチが中心だ。メカニズムを説明し、ポイントを押さえようとする。

問題は、それを受け取るオケの側が「慣れるための場」と考えていたら意味がないということだろう。しかし、感覚的にはそのように捉えてしまっているのではないか、という気がしなくもない。そもそも、このアプローチは最初からノリのようなものは求めない。それは最後の最後に降りてくるものだからだ。むしろ数学的にきっちり積み立てる方を優先する必要があるだろう。

このアプローチの難しさは、頭で理解した時に、それについてこない身体の問題をどう解決するか、という問題が残っていることだ。身体からのアプローチは「出来ていることを改めて理解する」だが、頭からのアプローチは「理解したことを出来るようにする」なので、出来ない状態で理解するというストレスフルな状態を要求される。しかも素人の集団だから、「分かっていても出来ない」状態を最後まで引きずってしまう可能性もある。

それでも「分からないし出来ない」という状態よりは良いとは思うのだが・・・。
いずれにせよ、個人レベルではともかく集団としては、今は「分かっていない」状態で、先に「出来るようになる」事を追い求めているように感じられてならない。
感覚の話ではあるのだが、これを「まず分かる」というアプローチに切り替えるには、どういった方法があるだろうか。
(・・・って、こうやって書いていて自分が混乱している状況がそもそもダメな気がしなくもない。)

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2012年2月20日 (月)

大企業病とCSRコンサルタント

先週大企業病についてエントリーをして、やや尻切れトンボのまま終わっているのだが、休みを挟んだらどんな結論に持っていこうと考えていたのかすっかり忘れてしまった・・・。

元々のきっかけである「大企業のCSR部は大企業病の病巣だ」については、初日に書いた以上の反論があるわけではない。表現を変えるとすれば、「大企業のCSR部は大企業(大組織)ならではの病巣だ」という感じだろうか。そもそも「CSR部」などという専任組織ができる事自体、大組織でなければありえない。

「CSRは経営そのもの」という主張がある。であれば、そもそもそれは経営企画や経営陣、さらには一人ひとりの役割であって、専門部署など必要ない。さらに加えるなら「CSRコンサルタント」という職業も不要だろう。「経営コンサルタント」で十分だし、むしろその範疇で語られる事が求められるものだからだ。

最初に引っかかってしまったのは、結局そういう事なのかもしれない。「大企業のCSR部は大企業病の病巣だ」というのは、「経営コンサルタントの」言葉であれば、頭を垂れて聞くべきだろう。何しろ経営の一部であるCSRを、さもそれだけが特別であるかのように扱おうとするのが「CSR部」であり「CSRコンサルタント」だからだ。しかし、CSRコンサルタントの範疇に入るような人が口にするのであれば、大いに間違っている。

もちろん、過渡期としてはそうした存在はありうるが、位置づけ的にはプロジェクトやタスクフォースに近いだろう。課題が解決されれば解散するNPOのように、「今経営に根付いていない」課題を解決するのが目的であれば、一時的にそうした組織は必要だし、大きな組織で解決に数年かかるようであれば、組織化されるのはそれほどおかしくはない。

おかしくはないが、それが将来的に続くものと考える事には違和感がある。
大企業病かどうかはさておき(そもそも大企業病という言葉は単に煽情的なだけで、企業が抱える問題を指摘する明確な概念でも何でもない)、「CSR部」といった組織や「CSR◯◯」といった職業を不要としていく事が、組織や社会の課題である、とは言えるような気がする。

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2012年2月17日 (金)

大企業病を振り返る

昨日の続きを書こうと思ったが、昔書いたものを引っ張り出してきたら、何度か書いていて思ったよりボリュームがあった。2003年に書いたものだが、とりあえず今日はその内容を振り返ることにする。(社内公開を前提としたものなので、一部そのまま出すのはまずい部分は割愛もしくは修正している。)


人事異動への関心と大企業病(2003/08/27)
昨日社内の知り合いと飲んで、人事異動の話で盛り上がる。
こういった事への関心と大企業病は比較的リンクして論じられることが多い。いわく、組織に興味を持つ前に仕事に集中するべきであり、組織に無用な関心を持つのは大企業病だ・・・。

昔は確かにそんなことも思っていたのだが、最近はこの考え方を簡単に首肯できない。組織への一定レベルでの興味は、特に大組織であればあるほど必要だ。

社内にどのような名前と機能の組織があり、そこにどういったメンバーがいる、というのは、知る必要のない事だろうか?そうは思えない。
会社の一員であるという事は、会社の代表でもあるのだ。
自分の会社の組織構造を説明できない人間に代表たる資格はあるか?
ない。

以前にも書いたことがあるが、中小企業の場合は、説明の必要がなかったり、わざわざ興味を持って調べるほどの規模ではないので、こういったことは必要ない。
この段階でそういった事に余計な興味を持つ人間は、確かに仕事に集中するべきだろう。

いや、正確には大企業であっても、組織よりも仕事に集中する必要はあるのだ。これは当たり前だ。問題は、それだけではなくて、組織に対する情報もきちんと知っていなくてはいけない、ということだと思う。

では組織に必要以上の興味を抱いてしまう「大企業病」とは一体なんなのか?

昨日盛り上がりながら考えたのは、そういった人事や組織の情報を社員に対して伝えるという機能が働いておらず、社員1人ひとりが自分の才覚で情報を得なくてはいけないような状況こそが「大企業病」ではないか?

例えば、ある意味だらだらと人事異動が行われる事こそが大企業病の病巣であり、社員にそういったことに興味を持つなという前に、そういったことにわざわざ興味を持つ必要がない人事異動の仕組みが必要ということではないだろうか?評価制度云々の前に。

あるいはわざわざ調べたりしなくても、だれにでも分かりやすい組織構造にすることこそが必要であって、分かりにくい組織構造を作っていることこそ大企業病なのではないだろうか?

大企業病というと、どうもその組織の構成員に問題があるかのような議論が多い気がするが、実は組織の側にこそ構造的な問題があるような気がしてならない。

今日決まったら、せいぜい2週間後には異動が完了し、余計な調整なしで異動は即決するような組織構造にこそして欲しい。それができないのが大企業病であり、それに振り回されて仕事に集中できない社員こそいい迷惑のような気がしなくもない。


当時の「日記」は掲示板スタイルだったので、この日の投稿には意見が寄せられている。
それに答えたのが次の内容。


大企業病と職制伝達(2003/08/29)
先日の「人事異動への関心と大企業病」にこんな返答(質問)をもらった。

あまり重要性を感じないのに組織の名前が変わるというのは大企業病なのでしょうか。

答える、というのもおこがましいが、おおよそ次にように考えている。

「重要性」というものの捉え方にもよるが、「大企業病」というものは少なくとも組織の規模の拡大に伴って発生するもののはずである。であれば、大企業病として問題にするべきは、名前が変わることの重要性が「末端にまで伝わらない」ということだろう。重要性を感じないとはそういうことだ。

特に組織が大きい場合、逆説的にいうなら組織名を変えるというだけでも単なる「思いつき」では発生しにくい。意思決定に携わる人間が多いから、変わるまでのプロセスの中になんらかの変更の理由があるはずなのだ。

その変更の理由を「重要性」と捉えれば、それがきちんと隅々まで伝わらないというのは明らかに組織が大きくなったことによる弊害だろう。
その結果、伝わらない側が「憶測」で話を進めてしまったり、重要性を感じないと受け取ってしまうようになる状態を、大企業病と考えるのがよいのではないかと思う。

こういった現象は、組織の拡大時に「(物理的に)伝えきれない」という形で発生してくるものではないかと思う。組織が大きくなれば、情報伝達効率はどうしても落ちるからだ。
本来はそこで何とか対策を考えなければいけない。
ほおっておけば、世代を重ねるうちに、やがて「伝える必要はない」に意識が変化してしまうからだ。なぜなら「伝えきれない」状況においては、その状況さえ伝わらないから、伝えられる側はそうは受け取らず、「伝えられていない」と受け取るからである。

職制伝達というのを語るときに「情報のフィルタ」の役割をあげる人間がいるが、そう考えると間違いであることが分かる。職制伝達にフィルタの役割なんてないのだ。本来フィルタというのはたばこのフィルタに代表されるように「有害な」ものを取り除くためのものである。上層部が発したメッセージに「有害なもの」が含まれているとでもいうのだろうか。

職制伝達という伝言システムは、10を伝えたい上層部が、実際には1のメッセージを発するだけで、末端にはきちんと10で伝わるという効率性を追求したシステムの筈である。
それがきちんと働くことが大企業が大企業として動くための方法だ。
逆に言えば、これを誤解して「10をかみ砕いて1にして伝える」なんて運用がされている場合は、間違いなく大企業病ではないかと思う。


この一連の投稿の少し前にも、大企業病について書いている日があった。
多少補足しておくと、全社の掲示板で「社内メールで相手に様をつけるのは大企業病ではないか」という議論が持ち上がった時のものだ。(当社は互いを肩書きではなくさん付けで呼ぶのを基本姿勢にしている。)


大企業病(2003/07/08)
大企業病の話題が盛り上がって(?)いる。
本来ならそちらに書くのが筋だろうが、ちょっとまとめておく。

実は「様」をつける気持ちは分からなくもないのだ。それも一部の人に対してだ。おそらく自分でもつけることはある。

一つは、会話ならともかく、文字では「様」のほうがまだまだおさまりが良いということだ。これはそう感じている人は多いだろう。
正直、文頭で相手に呼びかける際に「さん」は使いにくく感じることはある。

「さん」には、「さま」よりも砕けたイメージがあるというのもある。
プライベートでも「さん」と「さま」を使い分けることがあるが、より親しい人には「さん」を使いやすい。初めてメールをするような相手に、いきなり「さん」は使いにくい。

実は、大企業病の本質はここにあるのではないかという気がしている。
単にバカ丁寧にするとか、考えないということではなく、「知らない相手」だから「様」を使ってしまうのだ。
確かに同じ会社の相手かもしれないが、顔を合わせたこともなければ、話したこともない相手に呼びかけるのに、いきなり「さん」は使いづらい。

なんのことはない。「様」をつけられるというのは、自分が丁寧に扱われているのではなく、相手にとって知らない相手だ、ということを突きつけられているのと同じなのだ。

中小企業では、こういったことはまずあり得ない。
しかし、大組織では構成員が互いに互いを知り合う機会というのは極端に制限されるから、こういったことも起こり得てしまうのだ。

ただ、だから中小企業のような人間関係を見直そう・・・ということには、正直な話無理を感じている。そんなことは物理的に無理だし、そんなやり方が大組織でも通じるなんていうのは、ただのかけ声にしかならない。

おそらく大企業には大企業のやり方があるのだ。大企業病を直すには、大企業(大組織)であることを認めた上で、それに適した処方を捜すのが第一であって、大企業を否定して中小企業の良さを懐かしんでもだめなのだ。

「さん」と「様」の問題でいうなら、自社の「さん」文化は、中小企業時代の良き遺産で、「互いに良く知った家族的な間柄なんだから」という発想の延長にある。この発想の先に「さん」があるということは、逆に言えば「家族的な間柄」でなければ「様」ということなのだ。
だから、物理的に「家族的な間柄」を維持できなくなった時に、社内で「様」が流通するのは、むしろ当然といえる。互いの関係があってこその「さん」であり、「さん」があるから互いの関係がある訳ではないからだ。

今は、昔とは違った「さん」文化を考え出す必要があるのではないかと思う。
同じ会社やグループ内での仲間意識を保つというのは、そういうことではないだろうか。


という訳で、長くなってしまったため、今日はここまで。

一言だけ書いておくと、大企業病には「変わってしまう」という症状と「変われない」という症状があり、前者は顕在化して比較的見えやすいが、後者は潜在化して見えにくく、より厄介ではないか、という事だ。

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2012年2月16日 (木)

大企業病を考える

昨日ちょっと考える機会があり、今日は「大企業病」について書こうと思ったのだが、以前書いた内容が(これまで書いたブログ上には)なかった。せっかくなのでそのソースを読み直してから書く事にする。多分会社には残っているはずだ。(そんなもの残しておくな、というのはさておき。)

で、別の話題・・・と思ったのだが、ちょっと思いつかなかったので、昨日Tweetした内容を振り返っておこう。

大企業のCSR部は大企業病の病巣だ、というTweetを見かけた。そうですかすみません、と白々しく反省しつつ、この主張について考えてみる。実は大分前に一度考えた事がある。Twitterどころかブログすら一般化する前の話だが。
2012年2月15日 21:41:34 HootSuiteから

ちなみに大企業病というのは「大企業」というレッテルに付随して発生する精神的状態を「ネガティブ」に捉えた言葉だ。多くは組織内つまり社員に発生するが、実はこう捉えると組織外にも発生するものだという事が分かる。ある組織に対する「大企業だから」という視点がその典型だ。
2012年2月15日 21:46:16 HootSuiteから

それはさておき、昔考えたのは大企業病が発生する要件は二つあるという事だった。一つは組織の巨大化による力の拡大を自己に投影してしまい、周囲に対して傲慢とも見える態度をとってしまうというもの。もう一つは組織が巨大化したにもかかわらず、小さいままの意識を持ち続けてしまうというものだ。
2012年2月15日 21:54:24 HootSuiteから

前者はいわゆる一般的な大企業病の捉え方だと思うが、実はこれは単なる強者が陥りやすい心理状態を示しているだけで、大企業であるというだけが発生の要件になるものではない。本人の責任は一番大きいが、周囲の接し方が影響する場合もある。「大企業」として扱う事がそうした状態を生むのだ。
2012年2月15日 22:00:50 HootSuiteから

そういった意味では、そのように接する周囲も間接的に大企業病に侵されていると言えるだろう。本来必要な対処は大企業としてではなく、対等の相手として接する事だ。それができないのは自らも大企業病に侵されているからである。
2012年2月15日 22:06:51 HootSuiteから

一方、組織が大きくなっても小さい組織の意識のまま、という「大企業病」は、内部的にはかなり深刻な事態を引き起こす事がある。厄介なのは自覚症状がなく、時にはその方が良いという錯覚さえ発生する事だ。
2012年2月15日 22:10:07 HootSuiteから

で、それはどういう事か・・・という所で電車が着いてしまいそうだ。
時間切れか・・・一言だけ触れておくと、コミュニケーションスタイルの問題という事になるのだが・・・。
2012年2月15日 22:12:29 HootSuiteから

・・・うん、ここまではきっかけとなったTweetに感情的に反論しているだけだ。しかも脱線気味(笑)本来であれば、この先に書こうと思っていたもう一つの大企業病に触れてから、冒頭のTweetに反論する流れにすべきだし、そもそも「大企業のCSR部は、大企業病の病巣だ」という主張に対する論考にもなっていない。

大企業病(大組織病)の病巣は、組織内のどこにでもあるもの(だから大企業病というのだ)だと思うのだが、「CSR部」にはもう一つ深刻な病巣が存在する気がしている。名称は「CSR委員会」でも何でも良いのだが、組織内にCSRの文脈で動くもう一つのガバナンスが成立している、というのがその病巣の正体だ。喩えは乱暴だが、「経営に口をだす労働組合」と似たようなものと捉えると良いだろうか。
(断っておくと、労働組合そのものが悪い訳ではない。労働者の権利を守り、要求を伝える事と、経営に口を出す事とは違うのではないか、という事だ。さらにいえばCSRはそもそもが「経営に口を出す」事を目的としているから、実はもっとたちが悪い。)

この辺りは以前どこかで書いたような気もするのだが、これもちょっと見当たらなかった。どうも書き散らすというか、自分の意見がいろいろな所に分散してしまっていて、えーとどこだっけ?ということが多い。

いずれにせよ、このテーマはもう少し考えを整理する必要があるだろう。

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2012年2月15日 (水)

「世のため人のため」は他人事

昨日、こんな事をほぼ日手帳にメモしていた。

「他人のため」というのは冷静に考えると他人事という事でもある。
「自分のため」であるからこそ、それは我が事となるのであり、大切なのは、他人のための行動を自分のために置き換える事にある。

断っておくと、別に「世のため人のため」という動機を否定したい訳ではない。ただそれって、それだけだったらもしかしたら他人事かもしれないよ、と思っただけだ。きっかけは損保ジャパンのCSRコミュニケーションレポートにあるこんな文言。

地球規模の気候変動によって、巨大ハリケーンや大洪水など、異常気象による大規模災害が増加しています。保険会社にとって、気候変動のリスクに「適応」し「緩和」を促すことは、重要な経営課題であると同時に、ビジネスの「機会」でもあります。

以前聞いた事があるのは、損害保険会社にとって自然災害が増える事は、それだけ保険の支払いが増えるという事であり、経営上の大きなリスクだという話だ。なくなってしまえばもちろん保険自体がなくなってしまうが、なくならない以上、その発生を防ぎ被害を減らす事は経営上極めて大きな命題、つまり「我が事」になる。

自分に直接影響のない事で、我が事としての関心を持ち続けるのは難しい。であれば、「世のため人のため(だけど自分のためではない)」状態から「世のため人のため自分のため」という状態に価値観を転換する事が重要だろう。特に、人と違ってロジカルな行動原理を持つ企業などの組織の場合はそうだ。

企業が社会貢献に積極的でないとされる事が多いのは、企業自身の問題だけでなく、社会の側で「我が事ではない社会への貢献」を求めてしまっているからではないか。企業活動の多くは、それ自体「世のため人のため自分のため」である事が少なくないが、ここに「自分のため」がある事で、その活動が「社会貢献ではない」と受け取られてしまっては、企業は「他人事」の社会貢献しかできない事になってしまう。それは一方で「自分のため」の活動においては「世のため人のため」を切り離して良いという意識にもつながるだろう。

「自分のため」というのは、それに取り組む事が他人事ではなく我が事だという宣言でもある。
そういう受け止め方、そうした動機付けが重要なのではないか。そんな気がする。

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2012年2月14日 (火)

CSRコミュニケーションについて話す

来週、某所で(って別に秘密の会合という訳ではないが)「CSRレポートとCSRコミュニケーション」について話す事になっていて、ここしばらくその内容について考えている。

案内ではテーマのみ提示され、内容については「秘密。当日会場に足をお運びください」となっているので、ここでおおっぴらに書く訳にはいかないのだが、おおよその骨格はまとまってきた・・・気がする。

時間は30分程度なので、それほど多くを盛り込めるわけではない。
CSRレポートが、誰をターゲットにしていたか、どういったコミュニケーションをめざしていたか、それを端的に示しているコンテンツが何で、その上で何を期待していたか・・・をパパッと提示して、具体的に聞きたい事などは質疑の時間でフォローするという感じだろうか。

どちらかといえば、具体的に自社のレポートにフォーカスするというよりは、少し一般化したような話だ。オフレコの発言はせず、基本的にオープンされている素材を使う。

過去形にしているのは、こうしたポリシーを話せるのは、自分が中心になって関わっていた頃のレポートまでだからだ。大きく変わったわけではないが、多少の変化はある。

ううう、もどかしい。アウトラインだけでも書いてしまいたいが、おおよそ内容が分かってしまう。まだ(直前まで)変わる可能性もあるし、迂闊な事は書けない・・・って何書いてんだか。

もう一つちょっと困っているのが、どうやってプレゼンをするかという事。会社のパソコンは持ち出したくない。基本的に使うソースは社外に公開されているものなので、会社のリソースにこだわる必要はまったくないのだが、そうなるとMacBook Airを使う事になる。

一応OpenOfficeは入れているのだが、プレゼンは使った事がない。そういえば、MacBook用に購入したiWorkは結局使わずに削除してしまったのだが、あれ使えるのかな。

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2012年2月13日 (月)

車が欲しい・・・と思う時

時々、無性に車が欲しいと思うことがある。多くは乗っていて非力さを感じた時などだ。高速道路、山道など、スキーに行くこの季節はそうした衝動(誘惑?)にかられる機会が多い。

現在乗っているのは、ヴィッツのユーロスポーツエディションと呼ばれたモデルで、まだヴィッツが登場した頃に購入したものだ。次の車検で13年になる。走行距離は13万kmを超えているので、日常の足としては使わないサンデードライバーとしてはそこそこ乗っている方だろう。

乗っているといっても、ではハイブリッドに乗り換えるほどか・・・と思って、運転しながらざっくり計算してみたことがある。(ちょっとプリウスに惹かれていたという事もある。)

現在のヴィッツの燃費をリッター10kmと仮定。計算を簡単にするためにかなり燃費を悪く想定した。普段あまり気にしていないが、大体450kmぐらい走ると給油して、それが大体30リットル前後なので実際には15kmぐらいだろうか。

今の自分は年に1万km程度走っているので、単純に計算すれば年間に使うガソリンの量は1,000リットル。ガソリンをこれまた高めにリッター150円と想定すると150,000円。これが年間に使うガソリン代になる。

これがリッター30km走るハイブリッドに替わる。燃費3倍ということはガソリン代は1/3。すると年間に使うガソリン代は50,000円で、その差10万円。10年乗って100万円。もちろんガソリン代が変わらないと仮定してだが。

10年間で100万円を大きいと見るか小さいと見るかは人それぞれだろうが、購入価格を考えるとそれほど大きなメリットには感じられないというのがその時の感覚だった。そもそも計算の前提を考えると、実際の金額差はもっと小さい。もちろん、同クラスの価格帯の車を新規に買う際の比較と考えればまた違ってくるが、現在の車を乗り換えるほどのメリットは、燃費という側面からは実はそれほどないような気がする。

もっとも、これが年間10万kmぐらい走るというのであればまったく別の話だろう。そう考えると、商用車にハイブリッドを導入するのは、非常に理にかなっていて、実は個人向けよりもずっと価値がある。

とはいえ、欲しいな〜という衝動はそういった計算とは無縁の話。そもそも、個人の購買はメリット計算だけで決まるものではない。自分の場合は特にそうで、損得はあまり考えないことが多い。(そうでなければ、特に走りにこだわりがあるわけでもないのに、ユーロスポーツエディションなんて買うわけがない。しかもその前はギャランのVR4だったりする。)

で、今惹かれているのはこれなのだった。正直真剣に検討しても良いのだが、まだ若干決め手にかけるんだよな〜。(実車を目にしたことがない、というのが大きい・・・結構写真やイラストと実際の印象って違うんだよね・・・。)

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2012年2月10日 (金)

リアルなインプットからブログ書くということ

ふとしたきっかけがあって、昔書いていた内容をちょっとだけ振り返って読んだ。
(このブログは2006年にスタートしたものだが、それ以前に2004年から別のブログに書いていた内容があり、さらに会社内では2000年から日記のような形で発信をしていた。)

・・・うん、自分でいうのもなんだが、結構いろいろ書いているじゃないか。しかも今の自分が書くものよりレベルが高い気がする。

そのように感じる理由はなんだろうか。今の自分の要求レベルが上がったという捉え方もあるが、多分違う。なんというか、当時の方がリアルな肌感がある。特にブログに書き出す前の社内で書いていたものはそうだ。理由はおそらく、書か(け)ない事の制約がほとんどなく、考えた事を生々しくそのまま書いているからだろう。

今でもそのスタンスを変えたつもりはないのだが、それでもどこかでセーブしてしまっているのかもしれない。良し悪しというより、社内と社外では自ずと異なって当然なのだが、個人的にトーンダウンしている感覚は否めない。

もう一つ考えられる事は、今は「考えた事だけ」が中心となりやすいというものだ。考えた事を中心に書くというスタンスは当時も同じなのだが、その考えるきっかけがリアルか否かという問題がある。当時の内容を読み返すと、体験や会話など、リアルな何かがきっかけとなって考えたことが多く、これが「そういえばそういう事があったな」と(自分にとっても)思い返すきっかけになる。今はそういった事が少ない。

それは結局、インプットが少ないという事でもあるのだろう。単純なインプットではなく、アウトプットにつながるインプットだ。そして社外に向けて書くという事は、当然そのインプットは社会に対して開かれている必要がある。社内向けに書いていた時との最大の違いは、当時は社内でのクローズなインプットもネタとして使えていたという点だろう。

結局、今日の内容もほとんどインプットをきっかけとせずに考えた事を書いているだけだ。これでは面白くない気がする。読者もそうだが、自分もだ。(もっとも、昔は読者の事など考えていなかったが・・・。)


そうそうもう一つ。
以前と違ってこのブログは、書き手である自分がある程度リアルにもリンクした形で知られてしまっている。そのために書けなくなっている事は多い。他社のブログ担当者と情報交換してこんな事を考えましたって書いたら、書く内容としては相手を特定せずに一般化していても、別のつながりからどこの会社かは大体一目瞭然になってしまうからだ。

もちろん、インターネットの匿名性なんてものはあまり信用していないので、以前だって紐付けされる可能性は考慮した上で書いていたわけだが、それでもねぇ・・・。

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2012年2月 9日 (木)

CSRを「企業と社会の関係」で捉える

CSRレポートやCSRコミュニケーションの目的が、企業のイメージアップや広報活動、マーケティングと同じ文脈で語られるものであれば、別にCSRという言葉を持ち出す必要はない。むしろそれは、広報やマーケティングなどがCSRを手法として取り込んだという事だろう。

では、CSRは何をめざし、CSRレポートやCSRコミュニケーションは役割として何を担うべきなのか。

・・・とまぁそんな趣旨のメモが残っていた。答えがあるわけではなく、なんとなくそのように感じたというだけだ。もともと自分の場合、「CSR」はやや流行語的な位置付けにあって、そのキーワードで盛り上がる事に冷めた見方をしている嫌いもある。数多ある手法の一つとしてのCSRなら、別にそれはそれで構わないと思うのだが、より高次のというか、「概念」「思想」といった位置づけだと、どうもしっくりとこない気がするのだ。

気がするだけだし、単に勉強不足、思索不足という事かもしれないが。

以前書いたような気もするが、個人的な考えとしては、CSRつまり「企業の社会的責任」というのは、「企業の社会に対する責任」ではなく「企業に対する社会の責任」という捉え方をするべきではないかと考えている。これは、自分自身を企業とは同一化せずに、企業に対置される社会側のポジションとして位置付けていて、では自分(=社会の一員)として企業に対してできる事(=責任)は何か、と考えるからだ。

ようは企業という組織を、社会においてどう位置付け、どういった役割や機能を求めるかを考えるのは、社会側の責任ではないか、という事なのだ。企業に対して自覚を持て、という発想はあるが、それは企業が意思を持っている場合の話だろう。個人的な考えとしては、企業はステークホルダーの意思を反映するもので、独自の意思は持たないというスタンスなので、こうした発想はしない。そもそも責任感というのは、自分に向けて求めるもので、他人に対して求めるものではない。

これまで企業と社会の関係というのは、サービスの提供者と要望者という関係だった。社会は企業に様々な事を「要望する」。その関係を崩さないままであれば、「責任を求める」のはまったく同じ文脈の中での「要望の一つ」にすぎない。もちろん、そういうものはそういうものとして必要だろうが、もしCSRが概念として企業と社会の関係を考え直すものであるなら、別の捉え方があってしかるべきではないか・・・そんな気がする。

ちなみにここでいう「企業」は「組織」と置き換えた方がしっくりくるかもしれない。

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2012年2月 8日 (水)

ブログの更新は大変なことか

今日は会社の清掃活動があるため手短に。

会社でブログを書いていて、他社の方と情報交換などをする際に「大変ではないか」と聞かれることがある。

まぁ話題の1つとして受け取るようにしているのだが、実はやや違和感を覚えていた。確かに大変だし、個人的な適性などもあると思うのだが、ことさらに言うような事だろうか。

そこで気づいてしまったのだが、こうした方々は「普段の仕事の合間に」「片手間で」ブログを書いていると思っているのではないか。

うーむ・・・「仕事の合間に(という事は仕事とは位置づけずに)」「片手間で(という事は本腰入れずに)」書くのであれば、それは大変だしつらいだろう。仕事であれば、大変なのは当たり前だし、片手間でやるようなものでもない。もちろん、極力労力を減らす努力は必要だが、それは仕事だからであって、仕事以外のことだからではない。

そこに大きな意識の違いがあるのかもしれない。少なくとも自分はブログを書くことの大変さを、他の仕事と同列に位置づけている気がする。ブログを書くのが主たる仕事とまで思ったことはないが、一定のウェイトを持つものと考え、どうするかを考えている。書いている内容が余暇的なのは、書き手としての個性やネタの選び方の問題で、書く事自体の仕事としての位置づけが下がるわけではない。

そんなことをふと考えてしまった。会社のブログの仕事としての位置づけって何だろうか。

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2012年2月 7日 (火)

室内楽をもっとやりたい

昨日はコンサートのチケットをもらったので、晴海トリトンスクエアにある第一生命ホールに行ってきた。東京都交響楽団のメンバーを中心に編成された室内楽のコンサートだ。

すぎやまこういちプロデュース
ストラヴィンスキーのゆうべ
ストラヴィンスキー:管楽八重奏曲
ストラヴィンスキー:七重奏曲
マルティヌー:組曲「調理場のレビュー」
ストラヴィンスキー:組曲「兵士の物語」

うん、全然聴いた事ないぞ(笑)

難易度も高そうで、とても(弾き手としては)手が出そうにないのだが、それはさておきこのような室内楽は、聴くのも弾くのももっと機会を持つようにした方が良いな、などと感じたのだった。

先日レーガーのクラリネット五重奏の練習をした時にも書いたが、室内楽は周囲を聴き、自ら参加する上での緊張感がオケとはまるで違う。厳密には同じはずなのだが、オケではそれを意識しなくてはならないのに対して(ようするに気を抜くとすぐ緊張感を失ってしまうのに対して)室内楽には「そうならざるを得ない」強制力がある。

当たり前といえば当たり前だ。実際にはオケだって、弦楽器の人数をディビジョンが可能な最低限まで減らし、指揮者なしでやればそうなるだろう。先日の練習では「(音楽に)意思が感じられない」という評価が(コンマスから)あったが、府中の場合、オケの大人数で弾く事に慣れる、というか甘えてしまって、何も考えない(は言いすぎで、性格には「音を出す事しか考えない」)状態で楽器を弾いてしまっている気がする。

という訳で、もっとミニクラシックコンサートや団内演奏会のような機会を生かしていった方が良いと、一緒に行ったメンバーと盛り上がったのだった。

とはいえ、個人として考えれば「府中の」メンバーとやらなければならないという事はなくて、別の仲間を作るという方法もあるんだけどね・・・。

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2012年2月 6日 (月)

右足の親指の付け根に乗る

土曜日に(また)スキーに行ったので振り返りなど。滑った本数はツイート数に連動しているので25本ということになるが、ゴンドラとリフトでも大きく違うので、あまり大きな問題ではない。

まずは軽く流してみる。2週間ぶりだし。
2012年2月4日 8:20:20 Keitai Webから

ロングターン。腰の位置が低くなってしまっているように感じる。この程度の斜度ならもっと高い位置の方がいい。
2012年2月4日 8:26:17 Keitai Webから

もう一度ロングターン。腰に手を当ててポジションを確認してみる。
2012年2月4日 8:32:18 Keitai Webから

プルークターン。今日の調子は悪くない!・・・多分。正直なところこれ以上は誰かに見てもらわないと難しい気がする。
2012年2月4日 8:40:14 Keitai Webから

もう一度プルークターン。ターン時に腰の位置を内にずらす必要があると思うのだが左ターン時にどうしても外に乗ってしまう。
2012年2月4日 8:46:18 Keitai Webから

プルークターンのつもりが途中からパラレルターンになってしまった。その方が腰のポジションは安定するのだが、プルークでできなければ本当にできているとは言えない。
2012年2月4日 8:53:29 Keitai Webから

デモ滑走がある模様。
2012年2月4日 8:56:34 Keitai Webから

さて、デモ滑走も見た事だし、一度上に上がろう。
2012年2月4日 9:05:58 Keitai Webから

さて、ゴンドラで上に上がる。上の方はやや曇っている雰囲気。それにしても寒い。
2012年2月4日 9:18:51 HootSuiteから

ウェアの裾が雪を引っ掛けて左ターンの時に足を取られる。そろそろ直さにゃならんな~。
2012年2月4日 9:36:46 HootSuiteから

ゴンドラ一本目は飛ばしている人につられて飛ばしてしまったので、二本目はゆっくり滑ったのだが、降りてきたらゴンドラ乗り場が混んでいた。今シーズン一番並んだ。一時期よりはましだけど。
2012年2月4日 10:03:09 HootSuiteから

ゴンドラに並ぶのはやめてリフトできちんと練習することにする。左ターンがやっぱり安定していない気がするんだよね。
2012年2月4日 10:22:29 Keitai Webから

集中力に欠ける滑りだった・・・気が抜けたというより手を抜いたという意味で。
2012年2月4日 10:32:14 Keitai Webから

右足に腰を乗せつつ左足で雪面を捉える右ターンの安定感に比べて、逆のパターンの左ターンの不安定感が半端ない。
2012年2月4日 10:39:59 Keitai Webから

そもそも靴の中で足の裏が捉えている雪面の感覚が違う。右足はしっかり土踏まずに当たっておらず、踵も浮いているような感覚がある。
2012年2月4日 10:51:36 Keitai Webから

なんとなく分かってきた。右足は前方外側に踏み込みの力が逃げてしまっている。多分足の形の問題だが、そうしないためには膝をかなり内側にひねりこむ必要がある。
2012年2月4日 11:02:59 Keitai Webから

一方で、この右足の形がスムーズな右ターンに一役買っている。元々外を向いているので内足として邪魔をしないのだ。
2012年2月4日 11:11:29 Keitai Webから

仕組みはなんとなく分かったが、これを矯正するのは結構しんどそう。靴のセッティングとかでなんとかならんかな。
2012年2月4日 11:16:41 Keitai Webから

まぁしばらくはかなり意識する必要があるだろう。
2012年2月4日 11:20:55 Keitai Webから

単に板に乗って身を任せる分にはあまり問題ない。コントロールしようとすると問題が生じる訳だ。
2012年2月4日 11:27:57 Keitai Webから

コントロールなしで楽しめるのは、人の少ない緩斜面だけ。それでは意味がない。コントロールしてこそ楽しいのだ。
2012年2月4日 11:35:03 Keitai Webから

斜面がクリアになるとついつい好きなように滑ってしまう。技術向上にはほとんど役にたたないのだが、まあ楽しいのでよしとしよう。
2012年2月4日 11:42:18 Keitai Webから

うおー、また斜面がクリアだったよー。楽しいけどよー。
2012年2月4日 11:46:01 Keitai Webから

さすがに今回はクリアではなかったので、プルークに戻してみる。
2012年2月4日 11:51:46 Keitai Webから

次滑って今日は終了。
2012年2月4日 11:57:11 Keitai Webから

今回のスキーで収穫があったのは、靴の中の足の状態に改めて気づいた事だろう。あまり意識していなかったのだが、踏み込んだ時の感覚は左右でかなり違う。

足の形についていえば、自分の場合右足は足先が少し外側に開いていて、やや外側に重心がかかってしまう傾向があり、膝を落として踏み込んだ際に、左はまっすぐ親指の付け根付近に乗れるのに対して、右足は小指の付け根あたりに力が集中してしまうのだ。

これはある意味物理的なものなのだが、結局その分しっかり意識をする必要があるという事だろう。右足の場合、親指の付け根に力を集中させるには、やや膝を内側にひねる必要がある。ひねる事による負担がやや気になるが、あるいは日常の中で右足の場合開きを矯正できるのであれば、そういった試みをしても良いだろう・・・趣味のスキーにそこまでするか?という問題はさておき。

さて、この日のこの後のツイートはこんな感じ。

足湯につかりながら原稿チェックするなり。
2012年2月4日 12:39:27 HootSuiteから

さて、帰ってきたので今度は楽器の練習へ。一度落ち着いてしまうと動くのがしんどくなるな~。
2012年2月4日 15:33:38 HootSuiteから

カラオケボックスに行ったら満室だった。さて困ったな。この近所は他に練習できるところがない。実家に行くか・・・。
2012年2月4日 15:48:56 HootSuiteから

さて、練習しますか。しかしもう少し部屋が暖まってくれるといいな~。
2012年2月4日 16:59:52 HootSuiteから

楽器の練習についてツイートはないのだが、この日はそれでも多少暖かく、なんとか落ち着いて練習はできた。グローフェのフィンガリングをようやく考えながら、音のイメージができないので部分的に音源を作成する事を思いつく。

で、この日はそこまでやったのだが、それはまた別の機会に書く事にしよう・・・できたら。

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2012年2月 3日 (金)

フィクションという「嘘」

先日Facebook上でシェアされていたこちらの話。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=222556551168990&set=a.156400501117929.36545.100002439406083&type=1

これに対してこんな意見を見かけた。

http://d.hatena.ne.jp/hagex/20120202/p5

表現の問題はさておき(別のコメントで書いたが、本来その時点でこの言説にはほとんど価値がない)、ふと考えてしまったのは、フィクションをフィクションと説明されなければ受け入れられない人たちが世の中にはいるらしいという事だ。

ただ、一言で「受け入れられない」といっても、そのパターンには2つある。

1.フィクションを真実として受けとめてしまう
2.フィクションを嘘として受けとめてしまう

1.は、フィクションを真実として受け入れてしまう、という事だ。これがいわゆるデマや風評の拡大につながる。今回の件でいえば、Facebookに最初の投稿をした人がどう捉えていたかといえば、個人的にはフィクションとして捉えていたのではないかと思うのだが、2つ目のリンクで紹介した人が心配し警告を発しているのは、そうした「フィクションを真実として受けとめてしまう」人たちへの危惧だろう。

その指摘自体は間違いではない、と思う。思うのだが、この2つ目の方が書かれている指摘は、2.のケースに当てはまるのではないか、という気がするのだ。フィクションを嘘として受けとめて、それがフィクションであるという説明がない事を許せない、という捉え方だ。

実は両者はフィクションに対する姿勢としてはあまり違いがない。
1.の人たちの多くは、自分が「信じたこと」がフィクションであると知った時、2.に転じて「許せない」となることが少なくないからだ。そう考えると、2.の人たちは、たまたまそれがフィクションであるという事を先に知ってしまっただけの、1.と同じ人たちという事になる。

なんだ、上から目線でさも自分以外が情弱であるかのように語っているけど、所詮は近親憎悪か・・・という身も蓋もない(個人的)感想はさておき、ある情報(多くは物語)に接した時に、「これはフィクションである」という説明はどの程度必要なのだろうか。本来それがフィクションであるかどうかは、語り手と聞き手双方の「暗黙の合意」のようなもので、ことさらに断られなくても、文脈で判断されるものなのではないか。

桃太郎を子どもに読み聞かせる時に「これは嘘だよ」と最初に説明する親はいないだろう。サンタクロースがいると子どもが信じていれば、いつかは分かるだろうと思いながら、それを壊さないようにするのが親の気持ちだ。「フィクション」に対する姿勢は、そうやって育まれていく。真実か虚構かをあらかじめ峻別し、虚構を拒否してしまうことで、そうした現実が持つ曖昧さを受け入れることができなくなっているのではないか・・・そんな気がしてしまったのだった。


余談だが、何かに対する「信頼性」というのは、それがすべて正しいことによってではなく、正しくないこととの線引きができることによって生まれるものだと思う。ちょっと言葉で説明しにくいのだが、無条件に相手の信頼を求める「宗教的な」信頼関係と、何らかの条件があって相手の一部を信頼する「論理的な」信頼関係は違うもので、例えばネットに必要なのは、後者であって前者ではないだろう。

そういう意味で「真実でないなら発信するな」「ソースを示せ」といった排除姿勢は、宗教的な信頼関係を築く事をめざしているのかな、と感じてしまったりもする。ま、これはまた別の話。

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2012年2月 2日 (木)

Toodledoの運用見直し

少し見直したので、備忘録として。

フォルダー
プロジェクトやカテゴリの単位でタスクを分類するために使用。ほぼ従来通り。

コンテキスト
そのタスクを行う場所で分類するために使用。大半はオフィスになってしまうため、これはおおよそのかかる時間(取り掛かるのに本腰を据えるか、空き時間で十分かといった目安)と組み合わせて設定する。

タグ
そのタスクを行うために必要な手段、ツールを登録。どういった環境で何を準備しておく必要があるかの目安にする。

開始日
そのタスクに取り掛かる日を登録。どれだけ前倒しで着手できるかの目安にする。

期日
そのタスクの締切日を登録。優先度と組み合わせて判断する。

優先度
締切日に対して、指示あるいは他人との約束(トップ)、自分との約束(高)、おおよその終了の目安(中)、状況・進捗の確認が必要(低)、まだアイデア・思いつきの段階(なし)という設定を行う。

スター
その日が期日あるいは期限切れとなっているものの他、開始されているタスクの中からその日にやるタスクを前日もしくは当日に設定する。基本的にその日はスターのついたタスクを終了させる事をめざす(期日の修正も含めて)。

既存のタスク(未完了のもの)については、コンテキストとスターについてはすでに修正を行ったが、タグや期日、優先度についてはすべての修正はできていない。まぁこれはぼちぼちやっていく事になるだろう。

Toodledoには他にも設定できる項目があるのだが、最近iPhoneでは再びInformantを利用するようになっているので、タスクに関してはそちらにもあわせるような形にしている。そういえば昔そうやって運用していた事もあったんだよな・・・3Gに対してソフトが重くなりすぎてやめたけど。

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