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2012年3月27日 (火)

ソーシャルメディアのパラダイム

ブログやSNSのようなソーシャルメディア上で、何らかのデマあるいは誤解に基づくような情報が発信されていたとする。それに対して「発信者としての責任」を問う姿勢は、本当にソーシャルメディアの時代にあった作法だろうか。

そんなことをふと考えた。

マスメディアに対する接し方としては間違っていないだろう。マスメディアは、情報の受信者を総体化して抽象的に扱う事で、受信者からの対等な形での反論やコミュニケーションを封じている。情報の流れが一方通行なので、上流である発信者が情報を「コントロールするしかなく」、だからこそ責任が問われる。

ソーシャルメディアにおいても、そうした作法が必要だろうか。必要かもしれない。だが、それはソーシャルメディアを「マスメディア化する」事にすぎないのではないか。マスメディアに進化するのが、ソーシャルメディアの未来だろうか。

ソーシャルメディアによる発信を、将来マスメディアとなるかもしれない卵(実際今のマスメディアもスタート当初は小さな卵だったはずだ)として扱うのか、まったく別のカテゴリのメディアとして扱うのかで、その辺りが違ってくるような気がしてならない。

ソーシャルメディアの時代に求められるのは、「発信者としてどうなのか」と相手の問題として指摘するのではなく、「それは違うと思います」と自分の問題として指摘する、という作法ではないだろうか。両者の違いは、前者が「間違いだから発信するべきではない」なのに対して、後者は「間違いだから反論する」である事だ。

もちろんこれはすべての発信に当てはまるわけではない。プライバシーの問題など、微妙な領域はあるだろう。ネットの情報は一旦発信されればほぼ削除できないため、発信には慎重であるべきというのはその通りかもしれない。それにそもそも、当人がそのつもりで発信していても、受け手がマスメディア的に受け取ってしまえばそれで終わりである。

それは分かるのだが、ではそこでマスメディア的に扱ってしまうのが良いのか、新たな何かを模索するのかでは違ってくるのではないだろうか。少なくとも、アーリーアダプターにはそういう方向への模索のような動きがあっても良いのではないか。

個人的には、ソーシャルメディアというのは、「誰もが発信できるようになる」という個人のメディア化ではなく、「路傍のやり取りが可視化される」事による社会のメディア化をさすのではないかという気がしている。マスメディアが特定の個からマスという集団への情報の流れであったのとは反対に、集団から個への情報の流れをさすのではないかという事だ。

それには当然、受け手の側でも身につけなければいけない作法というものがあるだろう。情報に対して責任を取れるのは個だけだと考えれば、個が発信者であるマスメディアの時代においては、責任を負うのは発信者であり、受信者は集団の一員としてその責任を追求すれば良い。
一方、個が受信者であると考えれば、発信者である集団の責任を問うても仕方がない。受信者が責任を負わなければならない。

プチマスメディアとソーシャルメディアとの間にはそうした大きな隔たりがあり、そうした意識変革があって始めて成立する概念がソーシャルメディアということはないだろうか。
「誰もが発信できる」事ではなく、「誰もが(すべてを)受信できる」所に、ソーシャルメディアの持つ本当のパラダイムシフトがあるような気がする。

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