独自基準の価値
先日Tweetしたのだが、某所で耳にした発言が頭の中にしこりのように残っている。
昨日耳にした話で考えさせられたのは、国などの公的基準がある中でそれをクリアすべく努力された原料を、自社基準ではじくのは調達姿勢としてどうなのか、という指摘。買い手の自由といえばその通りだが、例えばフェアトレードみたいな観点だとどう捉えるべきだろうか。
2012年2月29日 - 6:27 HootSuiteから
放射能にせよ農薬などにせよ、一定の規制値、基準値のようなものが示されている場合、当然生産者はその数値をクリアするよう努力する。むろん姿勢としてより低くといった努力はあるだろうが、それにしても基準値をクリアしているのであれば、商品として通用すると考えるのが妥当だろう。
それをより厳しい自社基準ではじく、というのは調達側、購買側の傲慢ということはないのか。
念のために断っておくと、その基準値自体が信用できないとか、そういった話は関係ない。基準値自体の議論は別物として行うべきことだ。ここで問題にしたいのは、「公平な取引」とはどういったものだろうか、というより一般的な話で、世間の基準とは異なる自社スペックの購買基準というものをどう位置づけるのかという話だ。
もちろん、それは「差別化」の一環ではある。そうしたこだわりや、そのための競争が品質を向上させてきたのも間違いない。基準値を単なる最低ラインと考えれば、より高い条件をクリアしている方を選ぶというのは、理にかなった選択でもある。
それは分かっているのだが、何か引っかかってしまうのだ。一定の学力に到達しないからといって、子どもを留年させればよいという議論のような、どことなく他人事のような乱暴さを感じてしまったのだ。
実は先の話には続きがある。そうしてはじいた場合に、生産者に対して何らかの保証のようなものは行うのか、という指摘だ。あるいはそういった「一緒になって取り組む」ような姿勢が重要ということなのかもしれない。高い基準を設けてはじくのは簡単だし、それをどうクリアするかは相手の問題としてしまうのも簡単だが、一緒になってどう解決するか、という姿勢があって初めて、自社スペックのような独自基準に価値が生まれるのだろう。
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