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2012年4月27日 (金)

脱原発に向けて必要なこと

大阪の橋下市長が、節電に市民の理解が得られなければ原発の再稼働を容認すると言い出したりして、何やら様々に思惑が飛び交っている大飯原発の再稼働問題だが、個人的に原発を巡っては大きく次の3つの考え方があるのではないかという気がしている。

⒈原発即時停止派(反原発)
⒉原発段階的停止派(脱原発)
⒊原発推進派

即時停止派と段階的停止派を分けたのは、今回の再稼働に対する姿勢の違いだ。

即時停止派・・・再稼働は絶対認めず、このまま全停止へ
段階的停止派・・・脱原発は進めたいが、電力事情を考えれば今回はやむなし

大きくそのように分けた上で、それぞれ選択した方が良いと思われるアプローチはこんな感じだろうか。

⒈即時停止派・・・市民に節電を呼びかけ
この主張に対する最大の反論は、「では電力供給はどうするのか」というものだろう。だから、それをクリアすべく広く市民に呼びかけるの最も理にかなった戦略といえる。反対を叫ぶのは結構だが、再稼働を認めなかった結果、大停電でも起きれば、むしろ原発推進を力づけることになりかねない。

日経ヴェリタスのPodcastを聞いていたら、震災前の電力消費量から(原発分と言われている)30%を差し引くと、だいたい1990年頃の電力消費量になるそうだ。そして当時と今を比較して消費が飛躍的に増えたのは家庭で、企業の電力消費量はほとんど横ばいだという。つまり、家庭での電力消費を20年前の水準にできれば、電力不足をクリアする事が(理論上は)できる事になる。

20年前と大きく違うのがエアコンの普及率だそうで、特に関西での普及率の伸びが6割から9割以上とめざましかったようだ。ちょうど今回のエリアとも重なるし、一般家庭で20年前エアコンがなかった家庭がエアコンなしで夏を過ごせば良いというざっくりした考え方をしても良いだろう。

いずれにせよ、実は即時停止派こそ電力供給不足を最も心配しなければならないのは間違いない。原発を稼働しなくても大丈夫、というある種トンデモな主張が加わると様相は変わってくるが、いずれにせよ、自覚しているかどうかはさておき即時停止派にとって最大のリスクは供給不足なのは間違いない。


⒉段階的停止派・・・再稼働と引き換えに段階的停止のロードマップを要求
段階的停止派は、最終的には全原発の停止をめざしていくのだから、ゴールは即時停止派と同じなのだが、電力不足という危機的状況の回避を優先したいといういわば柔軟派だ。そういった意味では現実的ともいえるのだが、ただ目の前の危機を回避するだけでなく、もう少しうまく立ち回っても良い気がする。

今回の再稼働は認めるが、その代わり、全原発停止に向けたロードマップを要求するのだ。これは日本の発電施設を今後どのような体制に変えていくか、指針を示せと政府に迫るという事でもある。再稼働において懸念されているのが、そのままズルズルと原発依存が続いていく事なのだから、それを払拭するための条件をきちんと突きつけておかなければ、推進派と変わらない事になってしまう。

個人的には、こうした考え方の人は少なくないのではないかと思うのだが、なかなか表だってでてこないのは、他の二者の主張に挟まれてやや中途半端感が出てしまうからだろう。結果としてどちらかの主張にいいように利用される、あるいは批判されてしまうポジションにあるというのが、この主張の抱えている問題点になるだろうか。


⒊推進派・・・静観
実は「推進だけを目的とする」推進派にとって最善の策は静観ではないかという気がしなくもない。節電にコケれば再稼働の口実になるし、そうはならなくても橋下市長が言っているように結構なストレスがかかる事は間違いないので、何も対策が取られなければ遅かれ早かれ再稼働を望む声が出てくる気がする。

極めていやらしい言い方をすれば、あえて即時停止派を野放しにし、段階的停止派に「停止に向けたロードマップの要求」などをさせないようにする、という戦略と言えるかもしれない。

もっともこれは単に「原発推進」だけを目的としている場合の話だ。この主張をする人の多くは、原発を「推進」したいわけではなく、そうでなければ電力供給がままならず、企業活動やひいては市民生活に悪影響が出る事を恐れる層でもある。その場合は、電力供給不足解消のために再稼働に向けて積極的に働きかけなければならない。


こう考えると、現在のある種の混迷状況は、「原発利権派」(本当にそうした人たちがいるかは個人的には疑問なのだが、いるとすれば)にこそもっとも有利に進んでいるような気がしてならない。利権派にとって最大のリスクは、⒉の戦略が実行される事なのだが、それを⒈と⒊とで潰しあっているような状況だからだ。

さて、どうなるだろうか。これは単なる論理ゲームだが、現実はこんなにシンプルではないし、これ以外の様々な利害が絡み合う。個人的には⒉のような「条件付き再稼働」のような主張がもっと聞かれるようになると良いと思うのだが、「安全」という視点だけで議論をしていてもなぁ・・・。

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2012年4月26日 (木)

創造的であるとはどういうことだろうか

日本・東京は日本人はそう思っていなくても、他国からは「クリエイティブ」と思われているそうだ。

「最もクリエイティブな国・都市」は日本・東京 でも日本人は自信がない──Adobe調査
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1204/24/news089.html

「「最もクリエイティブな国」は日本、「最もクリエイティブな都市」は東京──Adobeによる創造性に関する調査でこんな結果が。ただ、日本人は自らをあまりクリエイティブだとは考えていないという。」

この調査結果はとても興味深いのだが、日本人が自らをクリエイティブだと考えていない点については、個人的には「クリエイティブ」の捉え方がちょっと違うのではないか、という気がしなくもない。「目新しいもの」「変わったもの」「違ったもの」を生み出すのがクリエイティブだと思っているのではないか。

先日ふと「suica(pasmoでも良い)ってすごいよな」と思ったりしたのだが、多くの日本人はこれを「クリエイティブ」だとは捉えてはいない気がするのだ。でもおそらく他国にとって「クリエイティブ」なのはこうしたものではないだろうか。

本当に優れたデザインはそれがデザインであることを感じさせないそうだが(誰が言ったか忘れたので実は出典なしの思い込みの可能性あり)、本当に創造的なものというのは、それが創造的であることさえ感じさせないものだ。

例えば宗教などで「神がこの世界を創造した」という時に、その創造は何か「変わったもの」だろうか。

これは極端なたとえかもしれないが、「新しいこと」と「創造的なこと」は似ているようで違うのかもしれない。うーむ、言葉としてまとまらないな・・・。

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2012年4月25日 (水)

地域力と防災

会場にいたのでこの発言は自分も聞いたのだが、この受け止め方は少々ナイーブなのではないかという気もする。

地域力弱い東京では生き残れない――陸前高田の被災者が都内で警鐘
http://www.alterna.co.jp/8859

「東京で大地震が発生したら、私は生き延びる自信がない。恐らく『人』が最大の敵となる。地方に逃げる方がいい」

では、自分がたまたま旅行などでその時陸前高田にいた場合、その地域力に助けてもらう事はできただろうか。

できた、とすれば、それは「人は見知らぬ同士でも助け合える」という事であり、同様の事は東京でも起こりうるだろう。
できない、とすると、ここでいう地域力というのは単に見知った間柄だけで通用する排他性に支えられた結束にすぎないということになり、東京では別のメカニズムが働くかもしれない。

もっとも、記者はこの発言を地域力に結びつけているが、個人的には別の捉え方をしている。
それは、この発言と結びつけた捉え方だ。

「津波は人の心まで流し去ってしまった」

記事の文脈では、他地域から紛れ込んだ「火事場泥棒」に結び付けられているが、会場で聞いていた印象や、上記の発言と結びつければ、実は被災した当事者にそうした人たちが発生していたのではないか、と推測できる。残酷なようだが、火事場泥棒というのは、火事場に居合わせた人にしかできない事なのだ。

蒲生氏が指摘していたのは、そうした「人の心が流される」現象が発生した場合、人の数が膨大な東京ではその「人の数」自体が脅威になる、という事ではないか。それは地域力とは何の関係もない。

そうした人の数自体がいかに脅威になるかというのは、帰宅困難者が大量発生した時の大混乱を見れば明らかだろう。東京のような都市にそうしたリスクがあるのは確かだ。


確かに都市には地方のような地域コミュニティはないかもしれない。
(実はこの見方にもやや疑問がある。東京にも江戸時代から続く地域コミュニティはあるからだ。そうした「地域に根ざしたコミュニティ」と「そうしたコミュニティに属さない人たち」がハイブリッドに存在しているのが「都市」であって、それは「地域コミュニティがない」とはまったく異なる。)

だが、その時に必要になるのは、「だから地方のような地域コミュニティを作ろう」ではなく、そうした都市に合わせたコミュニティのあり方や防災の考え方の構築だろう。

警鐘を鳴らすのは結構だが、ノスタルジックな感傷に近い結論で終わってもなぁ・・・という気がしたのだった。

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2012年4月24日 (火)

税金や寄付金の使途に責任を持つのは誰か

今朝のプロントのモーニングのゆで卵はまだ温かい茹でたての半熟卵で最高だった。お店で茹でているらしく、時々そういうのに巡り合う。もっとも、一度生卵にも遭遇した事があるが・・・。(その顛末は以前書いた事があるような気がする。)

そんな話はさておき、本来は夜のブログ(と書くとやや卑猥だな)のネタに近いのだが、昨日今日と書く時間が取れそうにないので、こちらで書いておく。

CSRコンサルタントの安藤光展さん @Mitsunobu3 がこんな事をTweetされていた。

納税はCSRというなら、領収書の受領を一切せず、節税対策をしちゃダメでしょ。だって納税こそが「良きこと」なんでしょ?そして、更に、納税先の使用用途まで追わなきゃ。投げっぱなしは、責任を果たしていると言えないよね。 2012年4月22日 22:39:27 HootSuiteから


皮肉として書かれている事は承知しているのだが、そこをあえて突っ込んでみる(笑)

まず「節税」だが、脱税は問題外として、節税というのは言い換えると「厳格なルール通りの納税」の事だ。そうした面倒をかけなくても納税は可能(なぜなら受け取る側はその方が税収が増えるから文句をいう動機がない)だが、「正しく」納税をするという視点でみると、節税というのは至極まっとうな納税にすぎない。

そもそも良い事だから多ければ良い、というのは正しくないだろう。これは寄付や支援活動だって同じ事だ。納税を「良きこと」とする上で必要なのは、「正しく」納める事であって「たくさん」納める事ではないはずだ。(もちろん「正しく」かつ「多い」のであればその方が良いわけだが、「不正に」「多く」払う事が良い事とは思えない。)

後半はさらに気になる。納税者が納税者として使用用途を追いかけるのは、一歩間違えればロビー活動と変わらなくなるからだ。さらに踏み込むと、使用用途を云々するのが「納税者の義務」だとすると、納税者にしかその用途をどうこうする権利はない、という事にもつながりかねない。

思うに、「納税者の責任」というのは、納税をするところまでなのだ。その用途については、別の責任において監視される必要がある。これは切り分けて考えた方が良い。

「自分たちの納めた税金だから」その用途に注目する、というのは、極めて経済的な動機に基づいた「サービスと対価」の考え方に近い。自分はお金を払った、だからサービスを受ける権利があり、その内容について口を出す。その考え方は税金あるいは「公共」という考え方において、果たして正しいだろうか。

払ったか払ってないか、あるいはその額の多寡に関わりなく、税金の使い途には国民一人ひとりが責任を負っている。でもそれは「納税者の義務」ではないような気がするのだ。

(そしてこの考えを拡大して「税金」を「寄付金」に置き換えると・・・やや微妙な事になってくる。ただ、企業活動への監視が直接取引関係がない場合でも行われているように、NPOやNGOの活動に対しても、寄付をしているしていないに関わらず注目をする必要はあるのだ。「寄付をしたから」その用途を追いかけるものではなく、やはりそこは切り分ける必要があるのではないだろうか。)

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2012年4月23日 (月)

ブログを書くという事

このブログは2006年からスタートしているが、前身となっているのは2000年から社内で書いていた日記、いわゆるイントラブログがベースになっている。基本的にその頃からスタンスは変わっていないのだが、社内で書いていた頃と今とでは唯一大きな違いがある。

仕事の内容について、突っ込んだ話を書いていないのだ。

当たり前といえば当たり前なのだが、実はこの違いはかなり大きい。日々の仕事を話題にして書くというのは、その物事についての考えを整理する事につながるし、別のアイデアが生まれるきっかけにもなる。これは、抱えている案件について具体的に書けば書くほど効果が顕著になる。

ようするに日報と同じだからだ。違うのは、上司を対象にしていないという点である。

この「対象者を特定しない」という点も重要だろう。事情を分かっている上司ではなく、事情を知らない相手に対して、誤解を招かないように表現を選ぶ必要があるからだ。その蓄積は、確実に自分の考えをシャープにしていく効果がある。

そんなわけで、個人的に「イントラブログ」「イントラSNS(上での日記投稿)」には、単なるコミュニケーションの円滑化とかいった以上の効果があると考えているのだが、もちろんリスクもある。

オープンな発信である以上、社内であれ誤解を招くリスクは常にあるが、それだけでなく、これを書いていると何となく「仕事が進んでいる」と錯覚してしまうということがあるのだ。仕事を何らかのアウトプットと定義した場合に、書いて発信をするブログもそうであると錯覚しやすいのだが、これが危ない。

こうしたブログは、自分の意識を改めて言葉にして自らの脳に打ち込む作業、つまりインプットに近いものだからだ。

もちろん、マーケティングを目的としたようなブログの場合は別だが、そうしたものは「個人」の属性ではなく「部署」「立場」といった属性で書くものだ。逆にいえば、そうした目的で書かれるブログというのは、先述したような効果はほとんどないと考えていい。短期間で書き手が変わってもそれほど大きな問題はないし、長期間続けても本人へのリターンはほとんどない。
(自分でいえば会社のブログがそれにあたる。もちろんここでいう「リターン」は成長につながるといった内的なもので、マーケティング的なリターンの話ではない。)

で、最近の悩みはといえば、そうしたインプット(本を読むといった話ではない)ができていない事を感じる事だ。こうしたものは常に感じるようなものでもなく、実際ここしばらく感じる事はなかったのだが、最近はそういうインプットを脳が欲しているように感じる事が多い。

ぶっちゃけていえば「赤裸々に書きたい」という事だろう。モヤモヤした悩みのようなものを言葉として吐き出し、自分自身に楔として打ち込む作業。時としてそれで終わる事もあるし、次につながる事もあるが、いずれにせよオブラートに包んだような書き方をしていたら楔にはならない。

自分しか読めない日記ではダメだ。他人に対する楔として書くから、それが自分への楔たりえるのであって、自分しか読まないものでは単に飲み込むだけで終わってしまう。意識ではなく、環境をそのようにしなければ、楔は鋭いものにならない。


・・・だが、今はそうした場がないのだ。

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2012年4月20日 (金)

誤報の訂正がもたらすもの

少し前に「オルタナ」編集長の森さんに噛みついた(?)話(http://projectk.txt-nifty.com/enigma/2012/04/post-3050.html)を書いたのだが、その後このようなTweetをされていた。

他山の石としたい⇒ 朝日新聞おわびと削除…四国電力の記事に誤り : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) http://t.co/BiZhp1sk 2012年4月12日 23:12:48 Tweet Buttonから


指摘されている記事を朝日でも確認してみた。

〈おわび〉四国電力、点検怠った事実なし 記事に誤り
http://www.asahi.com/national/update/0412/OSK201204120020.html

森さんからは、「まともなメディアなら訂正する」とリプライをもらっていたのだが、実際このように訂正がされているという事なのだろう。とはいえ、以前書いたようにどれだけ伝わったかはまた別の話だ。

読売の記事によると、今回の件は、四国電力から抗議があったようで、HP上で反論もしていたらしい。これも探してみた。

4月9日付朝日新聞夕刊『火力発電自主点検怠る~四電・橘湾 原発停止で不足か』について
http://www.yonden.co.jp/press/kenkai/1174219_873.html

内容だけを読むと、読売新聞が書いているような「反論」「抗議」という感じではない。どちらかというと、報道の影響で問い合わせが寄せられる事に対する説明という感じだ。もちろん裏では広報部門が抗議をしていただろうが、それは表に出すような事ではないのだろう。というか、読売新聞がこれを「抗議」と捉えた感覚も興味深い気がする。


今回の件は、四国電力がこうした行動を取らなかったら、どうなっていたのだろう。膨大な数の記事を発信しているメディアにとって、何もないのにすべての記事を再検証するのは不可能だ。今はソーシャルメディアなどもあり、個人の発信力が高まっているから、誤報の可能性に気付く機会も増えているのだろうが、それがなかった時代は気づかなかったり、泣き寝入りしたりといった事があったのかもしれない。(取材を受けての記事なら当人はチェックするだろうが・・・・。)

また、物理的に配布された新聞を回収し、差し替えた訳ではない。生命に関わるような商品ではないからそこまでする必要があるとは思わないが、そうしたいと思っているのか、最初からそんな事は考えないのかについては気になる。先日別に書いた「狩猟民族は消費者か」ではないが、「提供者としてのプライド」のような部分はどうなのだろうか、などと思ったりもする。(もっとも日本社会ではこうした場合、隠す方にプライド意識が働いてしまったりするので厄介だが。)


先日のエントリーに戻ると、正直事前の検閲や添削があるべきとは思っていない。というか、無い方が良いに決まっている。むしろ問題なのは、「誤報の可能性もある」というスタンスで読者が接するかどうかだろう。無いに越した事はないが、それでも「あるべきでない」と「あるかもしれない」というスタンスの違いは極めて大きい。

訂正をきちんと伝えていくという事は、「あるかもしれない」という意識を植えつけていくという事でもあり、それは長期的にはリテラシーの向上をもたらす。メディアの報道に対して、視聴者側が一定の緊張感を持って接するのは、メディアにとっても決して悪い事ではないだろう。

事前のチェックをするという行為は、間違いは「あるべきでない」という姿勢に基づくものだ(流石にお伺いを立てる意味で事前チェックをしているという事はないはずだ)。それは長期的には視聴者によるメディアのチェック機能の低下をもたらす。実はそちらの方が問題なのかもしれないなどと考えたりもするのだが、メディア関係者はどのように考えているのだろうか。

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2012年4月19日 (木)

消費者市民教育のターゲット

昨日はFacebook上で呼びかけのあった「消費者とか市民とか教育について語る会」に参加してきた。テーマは大げさにいえば「社会を変える消費の仕方」になるのだが、そのために消費者はどうしたら良いか、という話になるだろうか。

懇親会もあったので、詳しい話の内容はすっかり忘れてしまったのだが、自分自身はこんな話をしていた気がする。

・買うという事は、全責任を引き受ける事。その後何が起きても、それは買った自分の責任。
・作り手の顔が消費者に見える事よりも、消費者の顔が作り手に見える事が重要。知っている相手の信頼を裏切れる人間はそうはいない。
・近江商人の「三方よし」は、ローカルな「互いに顔の見える」コミュニティにおける信頼関係が商売の前提にあった時代の話。近代以降の「顔の見えない」都市型コミュニティにおいては、信頼のメカニズムが異なる。
・エシカルは、消費における「動機付け要因」ではなく「衛生要因」。
・モノが作られるプロセスの情報が知りたい時に、その情報に金を払えるか。

さておき、個人的には「消費者」というセクターにとって必要なのは、生産などの他のセクターに身を置いている人間を「取り込んでいく」事ではないかと考えている。ダイバーシティにも絡むのだが、企業が従来消費者に位置付けられていた女性を、その位置づけには軸足を残しつつ「働く女性」として取り込みはじめた一方で、消費者の側は従来生産者に位置付けられていた男性を「買う男性」として取り込もうとしていない気がするのだ。
(ここでいう男女は分かりやすくするための方便で、実際には性別は関係ない。)

「働くお母さん」の半数近くが家事・育児をほぼ100%やっているなんてブログも見かけたのだが、「働くお父さん」の家事・育児参加をどう進めていくか、というのは、本来企業だけの問題ではなく「消費者」としても考えなければいけない事なのだ。

その際に重要なのは、おそらく「教育」だろう。「お父さん」が家事育児に参加できないのは、そもそもそうした訓練を受けてきていない事にも一因がある。就労のための「キャリア教育」は男女平等でも、生活のための「家事教育」や「買い物教育」はどれだけ平等にできているだろうか。

昨日の会では「消費者市民教育」という言葉が出ていたのだが、「教育」と考えた場合に、そのターゲットは「現在消費者である人たち」ではおそらくない。(もちろんそうした人たちに対しても何らかのアプローチは必要だが。)
「消費者予備軍」「現在消費者ではない人たち」こそが対象であり、その際に「何を教育するか」を考えるのが、「現在消費者である人たち」の責任なのではないだろうか。

Facebook上では「消費者市民教育」の「教育」という言葉に抵抗があるという意見もあったのだが、これは「消費者を教育する」と受け止めているからだ。そうではなく「消費者に育てる」視点が大切で、現在消費者である人たちに必要なのは、「(消費者としてそれ以外を)教育する側である」という自覚と責任感なのかもしれない。

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2012年4月18日 (水)

余裕があるのはどちらか

急な仕事が降ってきたとする。

断る断らないはさておき、その際にどうやって対応するか。
不興を買う事を承知でいえば、そこで残業で対応するというのは、仕事以外の時間に余裕のある人だからできる事だ。

仕事以外に時間の余裕なんかあるか、と思うかもしれないが、仕事を優先して他を反故にできるというのは、そうできるものの方に余裕があるという事だろう。だが世の中にはそちらを犠牲にする事ができない人たちもたくさんいる。典型的なのは、子どもを抱えて働く母親やひとり親などだ。

もちろん、降ってきた内容によっては、それでも他を犠牲にして仕事を優先せざるを得ない場合もある。それが選択というものだし、こうした人たちについても「余裕がある」とは思わない。

気になるのは「犠牲にしている」という自覚のない人たちだ。それは余裕があるという事に他ならない。そうした余裕のある人たちは、得てして他人も同様だと考えてしまいやすく、そうした無言かつ無意識の同調圧力が、余裕を持てない人たちを追い詰める事につながる。

(余談だが、この手の「自覚のない犠牲」の筆頭が「家族の食卓」ではないかと思う。世のお父さんたちは、自分が犠牲になって働いていると勘違いしているかもしれないが、間違いなく犠牲になっているのは家族の方だろう。)

もっとも、逆に考えると、こうした人たちは、仕事ではなく他を優先する事に対して「仕事に余裕がある」と捉えているかもしれない。実際のところそうした見方もできるのだ。特に選択もなく、残っている仕事があるからと残業してしまうような人はそう考えているような気がしなくもない。


・・・昨日降ってきた急な仕事にそんな事を考えた。今週、残業できる「余裕」は明日しかない(本当は明日もなかった)。犠牲にしないためには、すでにある時間の枠内でがんばるしかない。ブログ書いている場合ではないな・・・。

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2012年4月17日 (火)

集中して作業するために

昨日は久しぶり(だと思うが)に平河町ライブラリーでまとまった時間を過ごした。ここしばらく考える時間が取れずに悶々としていた案件について、ある程度考えをまとめる事ができて、「やっぱりここは集中できるわ~」と思ったのだが、

・・・思ったのだが、ではなぜ会社ではそれができないのか。
(昨日の案件というのは会社での仕事の案件である。)

時々聞くのだが「自席では集中できないので、集中するためのスペースが欲しい」という意見がある。それおかしいだろと思ってしまうのは、本来自席こそ、その「集中のためのスペース」のはずだよね、と感じるからだ。

現実問題として集中できない、というのがあるのであれば、ではどうすれば集中できるようになるのか、あるいは、そもそもそんな「集中できないプライベートスペース」が必要なのか、という議論が必要になる気がするのだが、あまりそういった話は聞かない。特に後者の方向では聞かない。

「集中のためのスペース」が別に欲しいというのは、自宅は自宅として(静かな)別荘も欲しい、という意見のような気がしてしまうのだが、どうなのだろう。

もちろん、現実問題として、自席で集中するのは難しい。特に「考える」という作業はそうだ。
だから自分も平河町ライブラリーなどを使ったりする事になる。だが、そこでその「自席の状況」を受け入れてしまっては、事態は改善しない。

会社は組織なので、個人の集中作業だけで成り立っている訳ではない。ちょっとした問い合わせを受けたり、電話を取り付いだりといった「中断」は常に発生する。それを物理的に区切るための方策が「集中のためのスペース」という事になるわけだが、それはスペース的な余裕があってできるもので、そうではない場合には、残業(早朝を含む)といった「個人的対策」を余儀なくされたりする。

なぜ「個人的対策」になってしまうかといえば、これらは「組織的対策」が必要な領域であるにもかかわらず、「個人の集中」という個人の問題に帰結させてしまっているからだ。難しいのは、一般的に職位が上がるほど「集中作業」よりも「コミュニケーション」などに時間のウェイトがシフトしていくにもかかわらず、「集中作業」の時間的ウェイトが高い部下の方が電話を取るといった作業を被りがちになることだ。

おお、そう考えると「個人宛の」電話や問い合わせはやむなしとしても「部署宛の」コンタクトはまずマネージャーが受けるという形にすれば良いのかもしれない。部下の仕事の把握にもなるし、マネージャーだから即決できることもあるだろう。そもそも「組織外とのファーストコンタクト」を下っ端が率先してやるというのは、内部的な事情優先で、外部の都合を無視しているようにも思える。
(もっとも、案件を断る場合には「上司がダメだと・・・」みたいな感じで直接コンタクトさせない方が良いかもしれない。)

とはいえ、そのためには「プレイングマネージャー」といったよく分からない役職はなるべく排して、代わりにマネージャーは厳選するというやり方が必要になるような気もする。

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2012年4月16日 (月)

どういう視点で聴くか

昨日は府中でバレエ公演のお手伝い(もっとも打ち上げでの代表の言葉を借りるなら「コラボレーション」の方が良いかもしれない)があったのだが、今回は乗らずに裏方に回ってみた。

府中の演奏を「聴く側」に回ることは滅多にない。弦楽器のパートリーダーという性格上、降り番になるということがほぼないからだ。「乗れない」事はあっても、それはスケジュールの問題で「聴けない」ということでもあり、今回のように「乗らない」機会というのは、貴重といえば貴重だろう。

楽屋番だったので本番は聴いていないのだが、リハーサルは聴くことができた。面白いのは「ここがダメ」みたいな捉え方ではなく、「ここをこうしたほうが良い」みたいな聴き方になることだ。客として聴くときには、「うーんここがいまいち」となったりするのだが、練習として聴いていることもあり、「ではどうする」という改善点を探るような聴き方になる。

リハーサルの時に、客席に座って聴いている降り番の団員は、どんな事を考えながら聴いているのだろう・・・と常々思っていたのだが、なるほどこんな気持ちで聴いているのか。などと考えたりしたのだった。

さて、次の本番は定期演奏会。そろそろ(って今頃かよ!)きちんと練習を始めたいところだ。いやこれまでがきちんとしていなかったということではなく・・・。

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2012年4月13日 (金)

紙は捨てるために使う

今日は近隣事業所に直行することに急遽なったため、昨日の夜に続き自宅駅近くのタリーズを利用中。渋谷まで通勤するのと違ってやたらと時間に余裕がある。

昨日はオフィスにおける紙を減らすというプロジェクトの会合があり、ファイリングのコンサルタントを呼んでレクチャーを受けた。ノウハウの類なので内容についての詳細の記述は避けるが、なるほどファイリングというのは「仕事の進め方」の問題であって、整理整頓とは違うのだなというのが、個人的な感想になるだろうか。

で、その後はそうしたレクチャーの内容も受けて、オフィスの紙を減らしていく上でどういったアプローチを職場に対してしていくか、ということなどを考えていた(タリーズで)。とりあえず思いつく範囲でメモを書きなぐったりしたのだが(アイデア出しでは紙を使うことが多い)、それがこんな感じ。

・オフィスにおける「紙」は、リサイクルにより循環可能な資源でもある
・紙による情報の「保管」「保存」は、そうした循環を止めてしまう事につながる
・紙は「捨てる」のではなく「リサイクルする」
・必要なのは情報であり、紙ではない
・紙は使っても良いが、ためないようにする
・「使う」の定義を明確にし、「保管」「保存」には紙を使わないようにする
・紙の使用場面を「仕掛り」「回覧」のみとして、「保管」「保存」は電子的に行うサイクルを作り上げる
・それを通じて、ワークスタイルの変革を図る

ポイントは、紙の役割を「フロー」に限定し、「ストック」として使わないことだ。言い換えれば「使ったら捨てる(ただし環境部門なので「リサイクルする」になる)」を徹底するということになるだろうか。

こうした取り組みを行う場合、紙を減らすためには「とにかく出力を減らす」になりがちだ。もちろんそれはそれで重要なのだが、では最低限出力するのはどんな資料かという時に「ストック」として捉えてしまいがちになる。せっかく出力したのだからすぐに捨てるのはもったいない、すぐに捨てるような資料を印刷しないようにしよう、といった発想に陥りがちなのだ。

個人的な感覚からいえば、それでは紙は減らない。正確にいえば「保管される紙は減らない」。
オフィスにおける紙の削減には二つの考え方があって、「印刷コストを減らすために出力を減らす」「スペース効率をあげるために保管資料を減らす」のどちらかだと思うのだが、この両者は本来分けて考える必要がある。前者を進めれば後者は自ずと進むように思われるが、これが実は簡単ではない。

減らされる出力が「フロー」の資料中心で、結果逆に「ストック」(という名目の)出力が増えてしまう悪循環を生み出す場合があるからだ。

出力を減らす、というアプローチは間違っていない。大切なのはその際に「ストック用の」出力を減らすというより限定された条件を付加する事だ。短期間で処分される紙だけならば、多少増えたところでスペースを圧迫する事はない。一方長期間保存されてしまうと、一つ一つは微量でも着実にスペースを蝕んでいく。

このアプローチの難しさは、マインドの転換を図る必要がある点だろう。多くの場合、この話を最初にすると「すぐに捨ててしまうものを印刷するのはもったいない」「印刷した以上、しばらくは持っていたい」といった反論が浮かぶのだが、その考えそのものを転換する必要がある。

以前、裏紙の使用について「提出・保管される資料は(社内であれば)裏紙を使い、試し印刷や一時チェックなどは新しい紙を使った方が良い」という投げかけをして、さっぱり理解されなかった事がある。(大抵の呼びかけは「一時資料や試し刷りは裏紙で」だろう。)
裏紙まで徹底して使うというのは、寿命の長い資料ほど裏紙を使うという事だと思うのだが、そうした発想の転換は自然にできるものではないのだろう。

紙という媒体の利点は、以前は保存性だったのかもしれないが、今は違う。可搬性と閲覧性こそが紙の利点であり、それはすなわち一時利用にこそ向いているという事だ。電子媒体の登場がそうしたパラダイムシフトを招いたと思うのだが、なかなか人の意識というのは変われないものなのかもしれない。

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2012年4月12日 (木)

グローバル化を「受け入れる」

ここしばらく「グローバル化」というのはどういうアプローチだろうかと考えた際に「世界の都合に自分を合わせること」ではなく「世界の都合を自分に合わせること」ではないかといったTweetをしていたりしたのだが、昨日はKM学会でちょうどそんな話題になった。

もちろん、自分自身に一切の変化なしで「世界を変える」のは容易ではないから、どこかでは変えていく必要があるだろう。ただ、目的が「世界を変える」ことなのか、「自分を変える」ことなのかは、大きな違いだ。欧米や中国の動きには、前者の意思を強く感じる。日本はどうだろうか。

世界に合わせるために、いやいや自分を変えるのと、世界を変えるために自らを変化させるのは、モチベーションとしても大きな違いがある。一方でそうしたアプローチに「自分の都合を押し付ける」ようないやらしさを感じて躊躇してしまうような風土が、日本にはあるのかもしれない。

昨日出た話でもう一つ面白かったのは、日本人は互いの違いを違うまま受け入れてしまうというものだ。ドイツが引き合いに出されていたが、ドイツ人は互いの考えがてんでバラバラなので、社会を維持する上でルールを決めて守るという考えが(逆に)はっきりしている。それに対し、日本はルールメイキングが苦手だ。ルールを守る日本人というが、実はそれはローカルルールで個々に「都合の良い」ルールを守っているだけとも言える。

先の話にかぶせるなら、自分の都合を相手に押し付けようとせめぎ合って統一ルールを構築しようとするのが欧米や中国で、自分の都合の良いところをバラバラに受け入れて別々のローカルルールにしてしまうのが日本とも言えるかもしれない。

後者が必ずしも間違いとは思わないが、前者の方がパワーがあり、現在世界を席巻しようとしているのは確かだろう。そうしたグローバル化を「受け入れる」のであれば、日本的なアプローチも可能かもしれないが、そうした土俵に「出ていく」のであれば、やはり発想の転換が必要な気がする。

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2012年4月11日 (水)

他人への関心

昨日は久しぶりに職場の人と飲む機会があったのだが、話題の多くが組織内の人や人間関係に関する話題で、なんだかなるほどと思ってしまった。

それを内向きだと批判したいわけではない。聞いていて閉口する話がなかったわけではないが、組織内の人間関係を知る事は、基本的には組織の力を高める方向に働く。コミュニケーションが円滑になるというのはそういう事だろう。やり取りする可能性のない人の人となりを知っても、コミュニケーションの役に立つわけではない。

なるほどと思ったのは、そうした話についていけない自分の関心のありようだ。この傾向はオケにもあったりして、基本的に人の事(ここでいう「人の事」とは、その人に関する個人的情報の事だ)には無頓着だ。乱暴な言い方をすれば、自分にとっては組織内の人さえ「コミュニケーション」の対象とは見ていない(本音の部分では)という事かもしれない。

もちろん、全く無関心とは思っていないのだが、関心の度合いが全然違うよな・・・などと昨日は思ったのだった。少なくとも職場の人の事について改めて知る機会にはなったけどね。

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2012年4月10日 (火)

褒めるというアクション

昨日久しぶりにMacBook Airをmopera(Mzone)の環境下で使う機会があったのだが、何時の間にかつながるようになっていた。しばらくの間ログイン画面が立ち上がらずに四苦八苦していたのに何があったのか・・・いずれにせよ使えるようになったのはありがたい。

・・・まぁ今日はiPadだけどね。

Facebook経由で知ったのだが、日清食品のカップヌードルのCMで放送中止に追い込まれたものがあるそうだ。

カップヌードルにはふたつの放送中止になったCMがある / 視聴者「素晴らしいCMなのになぜ?」
http://rocketnews24.com/2012/04/09/201103/

問題になっている少年兵のCMはそういえば目にした事があるような気がするが、クレームで放送中止となっていたとは知らなかった。記事によれば、その事に対しての批判もあるようで、実際、世界の現実と課題を訴える良いCMなのではないかと思う。

が、当時自分はそれを日清食品に伝えなかった。良いCMと思いながらも、それだけで済ませていた。

もし、このCMが放送中止となった事が、自分にも関わるとすれば、その点があるだろう。
記事で紹介されている、このCMに対する賞賛意見の多くは、中止となった事をきっかけに寄せられたと想像できるものが多い。

それでは遅いのだ。

当たり前の話だが、このCMを放送中止としないためには、クレームが寄せられたのと同時期に、それ以上の数で賞賛の意見が寄せられている必要があった。中止した後の賞賛コメントは、形を変えた日清食品への批判でしかなく、担当者的には「今更そんな事を言われても・・・」といった思いもあるだろう。

褒める、あるいは賛同するという行為は難しい。特に対象となる事物が今回のようなケースは特にそうだろう。それでも、そうした「褒める」事をドライブとしていくよう社会の動きが、例えば企業の社会貢献などでは必要な気がする。

プロの評論家というのは、問題点は問題点として押さえつつ、褒めるところを褒められる事が必須の条件だと思っている。それも他が気づかないような良い点を発掘し、聞いた人がなるほどと感心して評価を変えるような「褒め方」ができて一人前だろう。

この記事のCMでいえば、そうした目利きが必要だったのかもしれない。こうした問題に関心を寄せるNGOや有識者がどんな意見をこのCMに寄せていたのか、気になる。

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2012年4月 9日 (月)

節電を成し遂げる人たち

昨日は来週のバレエ公演のお手伝いのためのリハーサルがあったのだが、ボレロを2回通しただけでピチカートで使う親指にマメが・・・弱すぎる。ま、本番は出ないのだが。スキーのシーズンも終わったし、5月からはオレイユの練習も始まるので、もう少し体を楽器を弾くモードに近づけていきたいものだ。

さておき、togetterでおもしろいまとめを見つけた。

夏場の電力ピーク時の数時間、製造業は節電のために稼働を止められるのか?現場の人に聞いてみた。
http://togetter.com/li/284806

無理無理と言うだけでなく、何らかの解決方法を考える事がイノベーションにつながるという考え方もあるとは思うが、それにしても安易に節電ができるというのは考えものだよなぁと、こうしたものを読むと思う。

家庭の空調などのように、単に消費されるだけの電力はある程度節約が可能だろう。対して、生産に使われる電力というのは、簡単には節約できない。品質や安全に関わってくるからだ。もちろん、電力以外のエネルギーをきちんと確保しておくべきという主張もあるだろうが、それはすなわちコストとして価格などに跳ね返ってくる問題でもある。

そもそも、消費(浪費ともいう)されるエネルギーと違って、生産に使われるエネルギーというのは、日々ギリギリまで節約されている。当たり前だが、価格競争にさらされるという事はそういう事だ。

この問題の難しさは、机上の議論や意識の持ちようとかでは悲しいかな、到底解決できない点だろう。先日の爆弾低気圧などと同じで「帰れる人たち」「できる人たち」の意見はほとんど役に立たないと言っても良い。「帰れない人たち」「できない人たち」の現場での踏ん張りに期待するしかないのだ。

その結果、何とかなった時には「それ見たことか」ではなく、感謝の声で称えたいものだ。
もっともそうした感謝ができる人というのは、安易に「節電は可能」なんて言ってはいないような気もするのだが・・・。

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2012年4月 6日 (金)

他のブログ用のネタ二つ

今ちょうど頭の中に二つのネタが引っかかっているのだが、それがどうもこのブログにしっくりこない。一つはCSR日記向け、一つはつぶやき、もとい気になる出来事向けで、そんなに書く場面を広げてどうするんだよという気もするが、そうしてしまっているのだから仕方がない。
(加えて最近はちょっとしたネタはTwitterやFacebookに書き込んでその場で霧散してしまったりもする。)

元々このブログは、ある程度テーマオリエンテッドに臨んでいる他の場に収まらないものを書く、個人的鬱憤ばらしとして位置付けられているのだ。そのくせ毎朝書こう書こうとウンウン唸るのはやや矛盾しているような気もするが・・・。

仕方ないので、ネタ準備として書いておこう(危ないのは、一度文字にしてしまうとそこで一定の終わった感が発生してしまい、本来の場に書けなくなる事だが)。

CSR日記用のネタは、@hitogaraさんがTweetされていたこれ。

CSRオリエンテッドなビジネスを求め、いまや企業は社会問題を求めて市場をうろつく。これは先進国の住人が飽食の果てに肥満になり、ダイエットに励むのとよく似ている。 2012年4月5日 16:11:06 Twitter for BlackBerry®から
企業が経済的価値を持つ社会問題にコミットする。ではどのように努力をしても経済的価値を持てない社会問題はどうなるのだろうか?これは環境社会学などの「エコロジーの経済化」と「経済のエコロジー化」の議論によく似ている。 2012年4月5日 16:15:16 Twitter for BlackBerry®から

ちょうど会社で「投資的社会貢献」と「慈善的社会貢献」のような話が出ているのだが、企業の投資的論理を「経済的価値」として社会問題に結びつけた場合、ここで指摘されているような「経済的価値を持てない」社会問題へのコミットをどうするかという課題が残るのではないか、という話だ。

もう一つ、気になる出来事(社内向けに毎週書いている時事コラム)向けのネタはこれ。

橋下市長、駅で喫煙の助役の懲戒免職検討を指示
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120405-OYT1T00503.htm

個人的に橋下氏は嫌いではないのだが、最近どうもこの人は「権限を行使する」と「権力を行使する」の使い分けができていないのではないか、という気がしなくもない。それは、ある意味恐ろしい事でもある。

社員の不祥事にトップが頭を下げ、学生の不祥事に学長が謝罪する時代に、まったく別の態度をとれる姿勢は立派だが、一市民一弁護士として(市を相手に懲戒を求めて)司法闘争するならともかく、束ねるトップとしてそれをするのはどうなのだろう。市長は「立法」ではなく「行政」のトップであり、まるで他人事のような態度だがこの事故発生の最終責任は市長にあるのだ。
(例えばこうした問題の背景に市長への不満があるのであれば、それもまたリーダーとしての問題で、フォロワーを責めれば良いという話ではない。)

権限を行使する自覚を持つ者は、課題と責任は自らにあると考えている。
権力の行使に酔う者は、課題と責任は相手にあると考えるものだ。


・・・うういかん、やっぱり書けなくなるかも・・・。

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2012年4月 5日 (木)

食料自給率って意外に知られていない

昨日は某会合(とかって微妙な書き方だな)の慰労会があったのだが、うっかり予定を忘れてすっぽかしてしまうところだった。なんとか開始前にはそれに気づき、連絡をする事ができたのだが、自分にしてはこうした事はやや珍しい。

もちろんカレンダーには予定として書き込んであったが、頭からは抜け落ちていたという事だ。別にそれが何という訳ではないが、反省として書き留めておく。

・・・で、今日ネタがパッと出てこないというのは、昨日は何かモノを考える時間があまりなかったという事かもしれない。そういう状況だから抜け落ちたのかも・・・。

そうそう、昨日話していてちょっと驚いてしまったのは、日本で騒がれる「食料自給率」がカロリーベースの数値で、例えば国産野菜を食べる事なんかはほとんど影響しないという事を相手が「知らなかった」事だ。

食に関しては、安全志向の高まりから国産にこだわるといった話をよく聞くが、その割に食料自給率が変化しないのはなぜだろうか、と考えた事はないだろうか。自分はこれだけ国産にこだわっているし、周りにもそういった人が多いのに、自給率がちっとも向上しないのは・・・その多くが国産「野菜」だからだ。

カロリーベースの自給率を上げようと思ったら、国産の穀物を消費しなければならない。例えばいわゆる国産の肉でもあまり意味がない。その餌の多くは海外の穀物だからだ。もちろん餌まで国産というのであれば話は別だが、そうした純国産はちょっと想像すればかなり難しい事がわかる。そもそも、その形で国産穀物を消費したら、生産量に対する消費量が跳ね上がり(肉を作るための穀物消費は直接消費の比ではない)、さらに自給率を引き下げる事につながる。
(ちなみに上記後半は自分の想像で、理屈はそうなるという事だ。疑問を感じたら調べてみれば良い。大切なのはそれが何であれそのまま受け入れないで色々考えたり調べたりする事だろう。)

今日は散文的になってしまった・・・。

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2012年4月 4日 (水)

事前チェックは「検閲」なのか

今日は清掃活動があるので手短に。

雑誌「オルタナ」の編集長の森さん@setsumoriがこのようなTweetをしていた。

どうもPR会社や広報セクションにとって、取材を受けた原稿の事前チェックが当たり前になっているようだ。雑誌やウェブは当たり前のようだが、新聞はどうなのだろうか。事前チェックを当たり前のように応じてきた雑誌や編集部、記者側の責任も大きいだろう。これではまるで「検閲」だ。
2012年4月3日 21:19:25 webから

個人的にはそうした事前チェックは、検閲ではなく、最後の裏取りなのではないかと思っていたのだが、メディアの側からはそうは見えていないという事らしい。なんだかなぁと思ったのでこんなRTをしてみた。

誤報をしても訂正も謝罪もしませんから、事前チェックがないと怖くて取材には応じられないでしょうね。 RT @setsumori どうもPR会社や広報セクションにとって、取材を受けた原稿の事前チェックが当たり前になっているようだ。雑誌やウェブは当たり前のようだが、新聞はどうなのだ…
2012年4月4日 6:08:53 TwitBirdから

実際のところ、メディアにとって、誤報あるいは誤解に基づく報道に対する訂正の位置づけはどのようなものなのだろうか。少なくとも、他紙に社告を出して謝罪をしたり、元記事よりも大きな扱いで訂正をするといった例は目にした事がないと思うのだが、「情報」を扱う立場として、自分たちの出した情報の位置づけはその程度なんだろうか。

メディアの「誤報の訂正や謝罪」というのは、メーカーでいえば「商品のリコールや回収」にあたるだろう。それはつまり、元の情報を目にしたすべての人にリーチし、その誤解を解消する、という目的と意思を持って行われる必要があるという事だ。時折見かける囲みの訂正記事には、そんな意思は微塵も感じられない。

それは企業が自社のHP等で発信している情報を訂正するのとは意味が違う。自社のHPで扱っているのは、自らのリスクだが、メディアが扱っているのは他者のリスクなのだ。第三者としてそうしたリスクを扱う以上、責任と覚悟がより求められると考えるのは不自然な事だろうか。

たまたま時事通信の誤報の話 http://togetter.com/li/282901 などを目にしたりしたので、なんだかそんなことが気になってしまった。メディアはもちろん事前チェックなんかする必要は本来ないが、それはこうした場合の対応がきちんとできていればの話だろう。

ようするに「検閲」じゃなくて「添削」をしているんだと思うんだよね・・・。

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2012年4月 3日 (火)

帰れない人々

今日は大阪へ・・・という事で、このブログは新幹線の中で書いている。無線LANが使える環境というのはとても便利だ。一方で今日は帰って来られるのか甚だ不安である・・・。

こうした際に、交通網の混乱などで帰れなくなったりする騒ぎになると「その程度の事が予想できないのか」とか「盲目的に会社につくす社畜」みたいな議論をさもありなんと語る輩が出てくるのだが、個人的にはそうできる人はそうすれば良いが、それだけの話であって、そうはできない人を蔑むような捉え方をするのは間違いだと思っている。

そもそも、「そうできる」人たちは、「そうできない」人たちに支えられているという自覚と感謝の気持ちを持った方が良い。

「分かりました。今日は出社しません。ですので通信網も停止します。」
「分かりました。今日の生産は中止します。ですので今日生産予定だった、先日あなたがネットで注文した商品をお届けするのは半年後になります。」
「分かりました。今日は救急搬送はすべてお断りします。」

ノマドワークができない人は、たまにはそういった事を言ってやれば良いとも思うが、言わないのはそれでは子どもと同じだと思っているからだ。

もちろんこれらは極端な例だが、社会というのは多かれ少なかれ約束事で動いており、ある予定をリスケする事は少なからず周囲に影響を与えるものだ。

今日のアポを中止できるという人は、その程度の影響力しかない自分の仕事の力量の小ささと、相手の度量、そうではない影響力を持つ仕事に従事する人の踏ん張りに感謝をするべきであって、テレビやネットの前で笑っていられるというのがどういう事なのかは、良く考えた方が良いに違いない。

仮に今日の予定がキャンセルできたとしても、自分は少なくとも感謝する側でありたいものだ。

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2012年4月 2日 (月)

昔書いていた内容の方がクオリティが高いんじゃないかという件

ふと思いついて昔のCSR日記を読んだのだが、書いている内容があまり今の悩み事と変わっていない・・・と反省したりする。永遠の課題だと捉えるよりも、努力不足で変える事ができていないと捉える方が妥当だろう。

当時と違っている事もある。見た目上一番大きな違いは、文章の量が昔はずっと少ないという事だ。そのかわり更新頻度が高い。当時はほぼ毎日書いていたから当然だろう。読者はほんの
一部とはいえ、社内向けに書いていたから、読んでもらえるように簡潔にまとめる意識があったのかもしれない。

世間の話題を多く取り上げているという点も違っている。もっともこれに関しては、ブログに転載したのがそうした「一般的な話題」である事にも起因している。社内事情に踏み込んだ内容はさすがに公開していないからだ。とはいえ、ちょっとしたニュースを捉えてCSRに結びつけて一言二言というパターンは悪くない。当時はそれだけ世間のニュースにも感度が働いていたという事だ。(今は別口の「気になる出来事」でさえネタに詰まる事がある。)

一体何が変わったのだろう。時間の使い方か、気持ちの上でプライオリティか、はたまた別の要素か。「仕事が増えて忙しくなった」なんて言い訳はしたくない。

という訳で、新年度にあたって少し気持ちの切り替えなどしようかななどと思ったのだった。
まずは、書く際のボリュームを少し抑える事からかなぁ・・・。

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