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2012年6月29日 (金)

オケを掛け持ちで愉しむという事

昨日はJBPの練習。半ば勢いで乗ったオケだが、残すはG.P.と本番だけという事で、短期間かつ少ないリハ回数で仕上げるオケの難しさを感じる。色々とプレイヤーの側に求められている事が多いのだ。半年かけて(それでも練習が長いと感じる事はあまりないが)仕上げる府中とは趣が違う。

ソリスト合わせだったという事もあって?懇親会にも出席したのだが、話を聞いてみると掛け持ちが多いようだ。特に弦は、練習がかぶらないのか?と思うぐらい多い人もいた。とはいえ、実際別にオケの経験がなければ、こうしたオケに参加するのは難しいだろう。乱暴な話だが、最初からそういう事を想定して作られていると言えるかもしれない。

こういう掛け持ちは諸刃の剣だなと思う。(諸刃の刀?そういえば剣って基本諸刃じゃなかったっけ?)

様々な曲を次々できる楽しさはある。仮に過去演った事があっても、指揮者やプレイヤーが違えばそれはそれで楽しみとなるのがオーケストラの面白さだ。オケごとに選曲の性格は異なるから、一つのオケにいてはまずやらないような曲に巡り会えるという事もある。

抱える曲が増えてくると短時間で曲を読み込むトレーニングにもなる。例えば楽譜へのとっさの対応力なんかは、こなした数で決まるような部分も多いと感じているのだが、実際そういう体力はついてくる。蓄積されるパターンも、一つのオケで弾いているよりは格段に増える。

一方で、どうしても追いかけられるような感じになり、一つの曲にしっかり向き合えない・・・ような気もする。楽譜の読み込み方が荒くなり、練習が不足しがちでおざなりになるのだ。

ただ、これは個人の気の持ちようかもしれない。

特に楽譜の読み込み方はそんな気がする。時間がないといってしまえばそれまでだが、それは単なる甘えだ。むしろ、短時間の練習で最大の効果を挙げるためには、楽譜とどう向き合うか、自分なりの弾き方と解釈を持っておくか、が重要になる。指示指導を待つ受身では、どうしても時間がかかってしまうからだ。

これは、直面している曲以外への姿勢にも関係してくる。今度この曲をやる事になったから、音源を聞いて楽譜を読んで・・・ではなく、そうなる前からどれだけその曲に対して自分なりの考えを持っていたかでも、立ち上がりの差は明確になるからだ。(もちろんすべての曲についてそんな事は無理なわけだが、例えば自分がいつか演りたいと思っている曲について、普段どれだけ備えているか、という事は言えるだろう。)

こんな事を書くと、なんだか「ねばならない」感じなのだが、それを音楽の愉しみとして行う気持ちが大切な気がする。実際、そうなれば愉しいだろうと思うのだが、なかなかそんな感じにはならないものだ・・・。

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2012年6月28日 (木)

株主提案はスピーチじゃない・・・よね

昨日の平河町ライブラリーでの作業は「予定通り」とまではいかなかったが、十分価値はあっただろう。というか、あの時間を持たずに締め切りぎりぎりまで持ち越していたら大変な事になる所だった。
とはいえ、「終わった」訳ではなく、ようやく「スタートラインに並んだ」という程度で、ここからが肝心なのは間違いない。

さて、そんな訳で昨日は現世から隔絶したように作業に埋没していたのだが、世間では株主総会がラッシュを迎えていたのだった。特に東電、関電では、筆頭株主である自治体から、それぞれ猪瀬氏や橋下氏といった大物が出席して、株主提案を行ったらしく、そうした株主提案がすべて否決されたと騒がれていた。

株主提案?

少し前にスピーチと提案(プレゼン)の違いについてセミナーで聞いた話をエントリーしたのだが、株主総会という意思決定の仕組みにおいて考えると、この両者の違いが際立つ気がする。

株主総会は議決権がすべてを握っている。みもふたもない言い方だが、当日のスピーチなどどうでもよく、事前にいかに議決権を確保するかで決まるのだ。「株主提案」とはつまるところ、事前にどれだけ株主の賛同を得たか、という問題であって、株主総会の流れや雰囲気など関係ないと捉える事もできる。

仮に今回の提案と対立するような議案がすでに必要な議決権を確保していた場合に、それが株主総会の場の雰囲気でひっくりかえってしまう、という方が、実はガバナンス上は問題だろう。

そんなのおかしい、というかもしれないが、それが株主による企業統治の厳然たるルールだろう。逆に本気で株主提案を行うのであれば、昔某ファンドがやろうとしていたように、事前に株主に問うて議決権を集めるという事を行わなければならない。というより、行えば実際に提案を通す事ができるというのが、このシステムの肝と言えるかもしれない。

消費者は不買といった形でしか意見を伝える事はできず、それが実現されるかどうかも企業の判断次第であやふやだが、株主は違う。「モノいう株主」というのは、やり方次第で文字通り企業の意思決定を左右する力があるからこそ、そのように言われるのだ。

で、そんな事は猪瀬氏も橋下氏もとっくに承知のはずで、ようするに株主総会では提案ではなく単なるスピーチをしたんじゃないか・・・というのは、単なる個人的勘ぐりである。


余談だが、「CSR」はそうした株主統治のあり方に楔を撃ち込む考え方だろうと考えている。
だが、現状株主ほど確実に企業の判断を変えられる仕組みがあるとは言い難い。だからこそステークホルダーは、その力を勝ち取るために努力が必要だし、「企業はCSRに取り組むべき」なんて甘えた事を言っている場合ではないような気がするのだ。

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2012年6月27日 (水)

ノマドワーク?

今日は朝から平河町ライブラリーへ。休みではなく仕事のためだ。会社のオフィスではまとまった集中する時間の確保が難しく、滞っている仕事があるため、外での作業を申し出た。緊急手段だが、そうでもしないとどうにも進みそうにないのだ。

外で仕事をするといっても、こんなのはノマドでもなんでもないよな、と思う。ノマドワークが遊牧民的な働き方であるなら、その本質は「仕事のあるところ(放牧地)へ自ら出かける」能動性だろう。他の仕事から逃げ出す(は言いすぎだが、他の仕事を遮断する)ために動きまわるというのは、真逆の働き方に近い。

実際、ノマドな働き方というのは、オフィス内でも可能なのだ。というか、会社内でもその必要のある人というのは大体そういう働き方をしている。必要なところに出かけ、相手を捕まえ、仕事を進める。自分はどうしても待ちになってしまって、そういった事ができていない。その結果、自分のいる場所に仕事が滞り、こうして逃げ出して作業するという本末転倒が生じる。

もちろん、会社にはそうした定住的ポジションの人も必要で、自分の抱えている仕事の一部にもそうした性格の仕事がある。ただ、自分の場合はあくまで一部なので、それを口実にはできない。多くの仕事はノマド的に進めなければいけないものだ。

まぁ、そうしたワークスタイルの話はさておき、とりあえずは目の前の滞りを解消しないことには、物事を進めようがない。とはいえ、多分今日の作業は快適に進むとは思うのだが、それに安住することだけは無いようにしなければならないだろう。

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2012年6月26日 (火)

個人の練習をいかに組み立てるか

一日空いてしまったが、先週末の練習の話など。

オレイユは相変わらず歯が立たない。いやもうそんな事言っていられる時期ではないのだが、ピアソラとヒナステラは後は回数を重ねればなんとかなりそうな目処が立っているのだが、カーゲルがさっぱりなのだ。なんというか、音楽が身体に入ってこない。

多分聴き込みが足りないのだろう。それもスコアと付き合わせながらの聴き込みだ。この曲は「聴こえている音楽」と「楽譜に書かれた音楽」が巧妙に異なっている。タイトルの「固定楽想」は、一つの主題を様々に変容させていく手法なのだそうだが(ベルリオーズの「幻想交響曲」で初めて使われたらしい)、そうした関係を耳ではなく頭で理解していないと、結局この曲にはついていけない気がする。

もっとも、そもそも音域的に高音域に手が出ていないという事もある。これは単純に練習不足なのだが、自分の場合こうした音域は耳から入ってその音に指がついてくるというパターンで弾けるようになる事が多いので、聴く領域の話といえば話だったりする。

府中はドボルザークの8番。ああ、ホッとする・・・というか、久しぶりにしてはそこそこ弾ける。大学時代に1回、府中でも1回、すでに弾いたことがあるというのが大きいのだろう。特に大学時代の弾き込みは、市民オケとでは量が圧倒的に違う。

とはいえ、こうした「立ち上がりが早い」曲の場合、ズルズルとその状態で低迷するという可能性もある。何かチャレンジングな要素というか、課題を持った方が良いかもしれない。特に今回の指揮者の高橋先生は、どちらかといえばこちらに解釈を任せてくれるタイプの指揮者だ。先日の練習でも、「ここはどう演奏するのか?」「指揮者次第ですね」という会話が発生していたのだが、多分「ここはこう演奏したい」までオケ側で持っていないと、ややかみ合わない練習になる。(で、それが府中は苦手なのだ。どちらかといえば受身が多く、教えていただくというスタンスだからだ。それが悪いわけではなく、個性といえば個性なのだが。)

今回のプログラムでいえば「ここにはこうしたパターンとこうしたパターンの弾き方が考えられ、自分としてはこうしたい」まで持った上で合奏に臨まないと、結局何を練習したのか分からないまま終わってしまう可能性もあるだろう。しばらくファミリーコンサートに向けた練習にシフトするので、その間にどれだけ楽譜に対する解釈を考えておくか、というのがポイントかもしれない。

そして今週は木曜日にJBPのブラームスのピアノ協奏曲の練習もある。一度しか合奏に参加していないのに、すでにソリスト合わせで、来週はG.P.。こうしたスピードに合わせるのも、トレーニングといえばトレーニングだろうか。結局、個人の練習をどう組み立てるかが、どの団体においても要求されているという事だろう。

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2012年6月25日 (月)

CSRに欠けているもの

先週末はやや(かなり?)怒りに任せたエントリーをして、夜にも別のブログで書いてやや落ち着きはしたのだが、まだモヤモヤしている。なぜモヤモヤしてしまうかというと、自分の問題として回答が出せないでいるからだ。

私からいわせてみれば、日本企業で「CSR」を口にする人たちって、ある意味「体制側」の人たちだと思っているんですよ。内情は酷いのに、イメージアップを図るためだけに「CSR」を掲げればいいと思っている、みたいな。

この発言は、外部の人間にとっては他人事な放言で別に良いが(コミットする訳でもなし)、内部の人間と自覚しているのであればそうはいかない。逆にいえば、企業の人間がこの発言に「そうだよね」と同調するのは、自分は内部の人間ではないと公言するようなものなのだ。前半は単なるレッテルで、しかもそもそも言葉の使い方を間違っているような気もするが(体制側ってなんだよ笑)、後半についてはきちんと考えなければいけない問題だろう。

ポイントは3つだろうか。

1.内情は酷い、とはどのような状態か
2.イメージアップを図る事に問題はあるか
3.そもそもここで掲げられる「CSR」とは何か

CSRレポートに書かれている内容が、従業員からみると実態から遠い、という話はよく聞かれる。特に従業員の労働環境についてはそうした意見が根強い。一方で、内部を知らないはずの外部の人も同じような事を言うのを聞くと、単なるイメージで話しているだけではないか、と感じる事もある。社会的に「そういうものだ」という雰囲気が作られてしまっているのではないかという疑念だ。

一方で、レポートを編集する側からすると、こうした「実態」は表しにくい。個別の事例をもって全体がそうだという事はできないからだ。客観的なデータを示そうとすれば尚の事そうなる。サービス残業は企業側が把握できないからサービス残業なのであって、企業として把握したらそれは正規の残業なのだ。

そもそもこの問題は、内情の「絶対的酷さ」というよりは、外面とのギャップの問題と捉えるべきかもしれない。となると、2番目の問題にも絡んでくる。

みもふたもない言い方だが、外部に公表するというのは、基本的にはイメージアップのために行うものだ。こう書くとやや語弊があるかもしれないが、何か改善すべき問題があり、その課題解決を行うことが目的であれば、大切なのはきちんとPDCAを回すことであって、そこに「外部に公表する」という要素はない。

CSRにおいて、そうしたPDCAの公表が求められるのは、ステークホルダーに対する説明責任としてだろう。無責任な興味関心に答えることではないので、説明された側もPDCAの一部として応分の責任を負う事が前提になる。仮に企業が説明責任として公表した内容を、「ステークホルダー」がイメージアップのための情報発信として受けとるというのであれば、その人はすでに「ステークホルダー」ではなく、興味本位の第三者という事になる。

ようするに企業が発した情報を「イメージアップ」と受け取って批判するか「説明責任」と受け取ってフィードバックするかは、受け手次第という事だ。説明責任として受け取るのであれば、そこに問題があれば突っ込む責任を受け手が負う。株主総会やIRにはそうした要素があり、そうしたやり取りを経て内容が高められていく。同じように考えるのであれば、CSRにおいて足りないのは、企業の姿勢以上に、そうした受け手の責任意識だということになる。

この考え方を3番目に当てはめると、ステークホルダーにその自覚がない内は、企業側が何をしようがそこに「CSR」は成り立たない事になるのではないだろうか。利害関係者、PDCAの一部として責任を負うステークホルダーが不在の「CSR」・・・それは、確かにイメージアップにしかならないし、内情の改善にもつながらないだろう。

こうした考え方はステークホルダーへの責任転嫁だろうか。自社だけを捉えるならそうかもしれない。しかし、他社に対しては自分も一人のステークホルダーたり得る。自社に対しても、ステークホルダーの一人であることは間違いない。

その立場において何をし得るか。何ができていて何ができていないか。社会全体でCSRを考える場合に欠けている視点はそこのような気がしてならない。そうでなければ、冒頭で紹介したようなコメントが出てくる理由の検討がつかない気がするのだ。

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2012年6月22日 (金)

だったらCSRなんて必要ないよね

Facebook上のグループでこのような発言を見かけて、さすがにカチンときた。

私からいわせてみれば、日本企業で「CSR」を口にする人たちって、ある意味「体制側」の人たちだと思っているんですよ。内情は酷いのに、イメージアップを図るためだけに「CSR」を掲げればいいと思っている、みたいな。

なぜカチンときたかといえば、企業の内部でも同じような印象を持っている人は少なくないからだ。むしろ企業内にこそそうした印象は強く、そこを「外部の人間や担当者が」粘り強くアプローチする事で意識を変え、浸透を図ってきたという印象がある。

それを外部の人間がこのように言ってしまってはおしまいである。企業側としては「やっぱりそうじゃないか、だったらCSRなんて必要ないよね」でジ・エンドだ。

これが「企業内から」出てきた発言であれば、それは違うと反論もできるだろう。少なくとも自社内でそんな発言があれば、担当者としてアプローチの不足を反省し、考えを変えてもらうための次のアプローチを考える。が、外部の人間がそう思っている時に、内部の人間の意識をいくら変えたってダメである。

こういう発言が出てくるのは、CSRを「社会の」問題ではなく「企業の」問題と捉えていて、自分がステークホルダーであるという自覚がないからだろう。それが日本社会におけるCSRをめぐる現実なのかもしれない。

いずれにせよ、CSRの名目で企業にアプローチしてくるNPOの本音はそういう事なんだな~ということで、今後付き合うスタンスは変えた方が良いのかもしれないなどと思ったのだった。少なくとも自分が接する人たちはそういう感じじゃないんだがな。

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2012年6月21日 (木)

企業の節電と家庭の節電

原発再稼働をめぐる議論などを眺めていて、ふと、企業(特に製造系)における「節電」は、家庭におけるそれとは意味合いが違うという事が、伝わっていない、あるいは想像できていないのではないかという気がした。

再稼働を求める企業(あるいは産業界)にとっての節電が、家庭における「何に」あたるか・・・それは決してエアコンや家電を「使用しない」という事ではない。

モノを作り社会に供給するという責任を抱えた企業にとって、節電によりモノが作れなくなるとはどういう事か・・・家庭になぞらえるなら、それは「子どもの食事を減らす」に近いのではないだろうか。

電力使用量を減らすというのは1回の食事の量を減らす事であり、計画停電による生産停止は食事の回数を減らすことにあたる。電力不足に対する企業の恐怖感がそういうものだと考えたらどうだろう。東日本大震災後、首都圏で起こったモノ不足パニックを考えれば、そうした恐怖を笑う事は決してできないはずだ。

企業にとって大切なのは、「原発」ではなく「安定した電力供給」だ。家庭への供給電力をすべてカットしてでも、企業への電力供給を優先しますと電力会社がいえば、企業としては特に再稼働にはこだわらないだろう。一方で電力会社は電力会社として、供給責任を果たさなければという恐怖を抱えており、相手が企業であれ家庭であれ、それができない事に対する感覚は、先述の「子どもを食べさせられない」親の恐怖に近い。

もちろん、子どもとして、その「親としての」恐怖をなだめる方法はある。一つは独立してしまい、面倒をみてくれなくても大丈夫だという事を示す事だ。親にしてみればそれでも心配には違いないのだが、それでも多少の効果はある。電力については一部そうした動きもあると言えるかもしれない。

しかし、その他の企業に対して、そうした行動は果たして取れるだろうか。モノ不足を受け入れ、それに伴う価格高騰を受け入れる。しかも独立するというのは、それを「企業側」からのアプローチをやむなく受け入れるという受身ではなく、「消費者側」からの能動的なアプローチで行わなければならない。

これはアプローチの一例にすぎず、おそらく最適な処方箋でもない。しかし、脱原発を「叫ぶ」のは簡単だが、脱原発社会を「作る」のは容易ではない、という一例にはなるのではないかと思う。

我々は企業の恐怖心を解消し、脱原発を成し遂げる事ができるだろうか。

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2012年6月20日 (水)

モードチェンジ

他社の方と情報交換をした際に、比較的良く聞いているのが、多くの場合兼務のため、その仕事(情報交換の対象となった仕事)にどの程度のウェイトをかけているか、という事なのだが、その度にせいぜい2~3割という話を聞いて、ああ自分はこんなにウェイトをかける事ができて恵まれている・・・などと感じていたのだが、

最近、冷静に考えると自分も似たようなものかもしれないという事に気づいた。

気持ち上の位置づけは重いし、そのために時間をかけているような「気分」もあるのだが、実は気分だけで、実質的にはそれほど時間をかけられていないのだ。全体の時間の使い方から考えると、自分が感じているほどにその仕事のウェイトは高くない。

あえていえば、集中して一気にやるわけではなく、まとまりはありつつも作業自体は分散してやっている事が、いつまで経っても頭から離れない仕事としてのウェイトを作り上げてしまっているのかもしれない。

それが分かって何という事はないのだが、正直に言えば最近は焦っている。他の仕事の分量が増えてくることで、圧迫されてその仕事に回せる時間が少なくなるのはもちろんだが、分散の度合いが強くなりすぎて、このところ頭から「離れがち」になっているのだ。

仕事全体の統一感を保つ上で、これ以上の分散は危ない。

むしろ、トータルの時間が変わらないのであれば、集中して一気に取り組めような段取をつけた方が良いのだろう。しかし、そうしようと考えながらズルズル先送りにしてきてしまっているのも事実なんだよね・・・。

作家のカンヅメではないけれども、どこかで隔離された時間を確保しなければ、本当にやばいかもしれない。その辺りの折り合いを他の人はどのようにつけているのだろう。

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2012年6月19日 (火)

いかに肩の力を抜いて弾くか

また一つ歳をとってしまった・・・と、特に嘆くような事ではないのだが、残りの人生であと何曲ぐらい弾けるのだろうか、などと殊勝な事を考えてみる。もっとも、先輩たちをみれば、生きている限りあと30年ぐらいは大丈夫そうなので、まだそんな事を考えるには早いかもしれない。

府中はアメリカプログラムが終了し、秋の定期に向けた練習がスタートした。間にファミリーコンサートなどもあるが、それはさておき次回のプログラムはドボルザーク。7番8番という対象的な交響曲2曲と、序曲として謝肉祭を取り上げる。

個人的には、ドボルザークは「歌」と「空気」の印象が強い。

旋律はどれも魅力的で、何でこんな美しい旋律を思いつくのか、と思う。弾いていて気持ちは良いのだが、歌いこなすのはかなり難しい。弾いている最中はさておき、後で聴き直すとなんだか自分が音痴に思えてくるのだ。

課題は肩の力を抜く事だろう。全開に近い音量でバリバリ弾いたら、まず間違いなくらしくなくなる。せいぜい6割程度の力と気合で、余裕を見せながら弾けないと、それらしい歌にならないのだ。この辺りは、全開ノリノリだったアメリカプログラムとは全く違う感じがする。

「空気」の方はさらに難しい。空気というのは表現が難しいのだが、ドボルザークは旋律を支える細かい分散和音(で良いのかな?)を結構使う。6割の気合で浪々と歌われる旋律を支えるには、その細かいパッセージを3割程度の気合、鼻歌を軽く口ずさむような雰囲気で弾きこなさなければならない。

前回の練習では、楽譜にかじりつくように(初見なので仕方ないといえば仕方ないのだが)、弾いてしまったが、それでは泥臭さしか出ない。泥臭さが悪いわけではなく、むしろドボルザークのオーケストレーションは泥臭いと感じているのだが、それを泥臭く弾いたら単なる泥沼である。

近づいて足を踏み入れたら泥沼でも、見ている限りは木漏れ日さす爽やかな水面を臨む風景・・・そんな演奏ができると良いのだが。

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2012年6月18日 (月)

プレゼンテーションとは想いを伝えることではない

先週に続いて土日の予定が詰まってしまい、今日は身体が回復していない・・・いつものことだけど。

それはさておき、土曜日はオレイユの練習前にセミナー(フォーラム?)に参加してきた。
NPOに白書の作成、ブログでの情報発信を勧めるもので、そういった意味ではやや畑違いだったのだが、とても興味深く、参考になる内容だった。
(まぁIIHOEの川北秀人さんが講演する、というだけで、すでに参考にならないわけがないのだが。)

個人的に印象に残ったのは、「提案とは相手の良い判断への協力、貢献」であるという話だろうか。スピーチは想いを伝えるものだが、プレゼンテーションは相手に判断をしてもらうものだから、想いを伝えても仕方がないという話だ。(やや個人的解釈が入っている・・・かな?)

プレゼンテーションで相手が変わらなかった理由は、「想いが伝わらなかった」からではなく「相手の判断の参考にならなかった」からだという捉え方は、肝に命じておく必要があるだろう。実際振り返ってみると、想いが伝わってくるプレゼンテーションというのはよくあるが、その想いが判断に影響を与えているケースは少ない気がする。それはつまりスピーチだったということだ。

プレゼンテーションというのはシビアだ・・・。

この話を聞いて最初に考えたのは、ちょうどオケで選曲の提案を受け付けているところだったので、ああなるほど、今自分に寄せられているのは、想いではあるけれども提案ではないんだな、というある種みもふたもない感想だ。

もちろんそれを否定する話ではなく、そもそもそうした想いを聞いて提案に仕上げるのは自分の仕事ではあるのだが、プログラムを「提案する」というのは、単にやりたい曲を挙げるというものではなく、それを受けた人に「なるほどそうしよう」と思わせて初めて意味があるのは間違いない。

そしてもう一つ思ったのは、ちょうど原発の再稼働が決まった事もあり、それに反対していた脱原発派の人たちがやっていたのは、スピーチだったんだろうか、プレゼンテーションだったんだろうか、という事だろうか。

スピーチは楽しい。自分の想いをぶつけるだけだから。変わるかどうかは相手の責任で、自分は関係ない。

しかし、プレゼンテーションは、相手の判断の責任の一端を担うという事でもある。そのためには、時に自分の意見を曲げてでも、相手が判断するために最も適した材料を提供する覚悟が必要なのだろう。

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2012年6月15日 (金)

いいかげん

ブログのネタが思いつかない時に、それでも無理やり何かを書いてしまうか、まぁいいかと諦める(もちろん理由は「しっかりしたものを書くべきだから」)かは、多分に書き手の個性によるのだが、基本的に前者のスタンスでありつつ、時々後者でもいいかと思ってしまうのは、単にいいかげんなだけではないかと思わなくもない。

一言で恐縮だが、今日はこれだけ。ネタはあるのだがもう一つのブログ用にとっておきたいんだよね・・・。

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2012年6月14日 (木)

楽譜を読む

長い間楽器やオーケストラをやってきて恥ずかしい話だが、「楽譜を読む」というのをやった事がない。弾けるように「さらう」ことはするが、どういった流れになっているとか、和音の構造とか、そういったものを分析した事がない、という事だ。

そもそも、読み方がよく分かっていない。

同じように長くやっているスキーとの最大の違いがここだろう。スキーについてはまがりなりにも理論的な領域をある程度理解できていて、このブログで書いたりする事もできる。ところが音楽については、楽器の弾き方にせよ楽譜の読み方にせよ、感覚的にしか処理できておらず、理屈としての裏付けがないのだ。

まぁ弾ければいいじゃないか、という話もあるのだが、より深く楽しむにはそうした領域に踏み込んでいく事も大切な気がしなくもない。

例えば、その曲で使われている調性とその雰囲気を知ること、そうした調性がどこで変化するかを把握すること、自分のパートがその調性の中でどこを担っているかを感じること・・・そういったことも実はできていない。何となく響きの中にある、という程度の感覚でしかない。

少しはそういう勉強でもするかな・・・。

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2012年6月12日 (火)

放電のための区切り

昨日は休みをとっていたのだが、何もせずにぼーっとしていたわけではもちろんなく、JBPの譜読みとか、過去の演奏会のビデオの整理などをしていた。休みということで、仕事のことは考えない(考えたってできることはない)ようにする訳だが、それでも気になる事は気になる。

よく休暇は充電に例えられることがあるが、実際に必要なのは放電なんだろうなという気がしなくもない。メモリ効果(は最近の充電池では少ないそうだが)で、充電効率が悪くなった状態を、完全放電によりリフレッシュする。それをしないままこまめな放電と充電を繰り返しても状態は変わらない。

一方で、そうした完全放電をするには、単に休みを取れば良いというものではなく、そもそも仕事なり、目前のやることの区切りをつけておかなければならない。時間と空間を隔絶させても、意識が残っていれば放電にはならないからだ。

今難しいのはその区切りをつけることだろう。仕事はもちろんだが、オケにしても、演奏会はひとつの区切りではあるが、すぐに次が始まるスタートでもある。そもそも掛け持ちをしてしまうとそうした区切りすらなくなる。

まぁそれでも府中の定期演奏会は大きな区切りではある。ここらで一度気分だけでもリセットしておきたいものだ。

後は仕事の方だろうなぁ・・・。

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2012年6月11日 (月)

定期演奏会終了

府中の定期演奏会は無事終了。ご来場いただいたみなさま、ありがとうございました。「アメリカをみせる」事ができたでしょうか。

打ち上げからの帰宅も無事こなし、年末の第九の二の舞となる事は避けられた。最後はお茶ばかり飲んではいたのだが・・・。(ちなみに今日は休みをとっている。)

打ち上げの話はさておき、演奏会はとても良かったのではないかと思う。個人的にもソロがあり、概ね好評だった(ちょっと嬉しい)。とはいえ、今回のソロは楽譜そのものは簡単で、音の出し方が重要なソロだったので、まぁ乗り切れたという話ではある。こういう時には積み重ねた年数が出るのだ(多分)。

さて、いつも運営面の事ばかりが気になってしまうのだが(演奏は楽しければそれでだいたい良いが、演奏「会」はそうはいかない)、今回はフロア側で8名(+α)の方にお手伝いをいただいた。この場でお礼を言っても伝わるわけではないのだが、これぐらいの人数が出演者以外のスタッフとしていると、とても助かる。

こうした体制は維持していきたいが、とはいえ、今回は団員がほとんど乗り番でスタッフどころではなかったという事もある。次回はもう少し少なくてもやりくりができるかもしれない。

来場者数は、満席にはまだまだ遠く、集客面の課題は残っている。団員には見込み来場者数の申告などもしてもらったのだが、まだまだ浸透はしておらず、記入はしてもらえていないのも確かだ。チラシの挟み込みなどはかなり力をいれてやってもらえたのだが、やはり団員経由の集客をどれだけ増やすかが課題だろう。

当日の実施要綱については、前回から自分では作らずにお願いするようにしているのだが、こちらのスケジュール管理などの問題でどうしても直前になってしまうのが課題だ。それと、思った以上に「読んでもらえない」という事もあり、周知も含めて工夫が必要な気がしなくもない。

個人的に感じたのは、手の空いた人が各自の判断で手伝い出すと逆に混乱するため、注意を徹底するか、「やってもらう事」をきちんと作った方が良いという事だ。今回でいうと、セッティングについてはややそういう状況に陥った。手伝ってくれる人は善意なので無下にはできないし、そうした気持ちを生かす意味でも「何をやってもらいたいか」「何はやらなくて良いか」をきちんと提示する事が必要なのだろう。
(とはいえ、この辺りの悩みというのは、人数がいるオケならではの贅沢な話ではある。人手は足りないというのが普通だろう。)

さて、次回秋定期に向けて準備を開始しなければならない。今回感じた事を生かしてこそだ。
しかし、その前にファミリーコンサートもあるんだよね・・・。

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2012年6月 8日 (金)

楽器が思ったように響かない

iPadのケースを変更した。結局縦置きできるというのはたいしたメリットにはならず、単独で使いづらい上に、横置きにした時に前のiPadとはボタンの位置が変わってしまって戸惑うといった事もあったからだ。それにしてもiPadのカバーって意外と高い・・・。

昨日は何となく平河町ライブラリーに行こうかと考えていたのだが、何となく行っても意味がなく、むしろその時間で楽器を弾いた方が良いという事に気づき、予定を切り替えた。ぶっちゃけ習熟度というのは弾いた回数の積み重ねだ。加えて「音を出す(ための振動を与える)」事は、弦楽器の場合、コンディションを整える事にもつながる。

ちょっと気になっていたのは、一昨日JBP(ヨハネス・ブラームス・フィルハーモニカー)の練習に参加した時に、思ったように音が響かないように感じた事だ。響かない(練習)会場だというのは指揮者も言っていたが、それはそれとして楽器が思ったように鳴っていない気がした。

その原因は不明なのだが、昨日は静かな環境でそれを確認したかったという事もある。

結論からいえば、昨日は思ったよりはきちんと鳴ったのだが、やや響きがくすんでいるようにも感じた。何となく違和感がある。このところ弾き方が荒くなっていたので、曲を思い切りさらうのはやめて、少し丁寧に音を出すように弾いたのだが、音色はさておき、響きが物足りない。

楽器をしばらく弾いていないとそうなる事はある。音が出しにくくなり、澄んだ音が出なくなる。が、今回は土曜の午後に2時間半の個人練習、夜にオレイユの練習、日曜には府中で1日たっぷり弾いて、さらに水曜日にはJBPの練習があった。それほど間を置いていない、というか、これだけ間をおかずに弾いているのは珍しい。

音の出方は悪くない。音を出すのに苦労をするという事もない。ただ、響きが足りない。伸びというか、音の広がりが悪いような気がするし、そもそも音量が思ったように出ない。

一つ考えられるのは、弦の劣化だろう。正確に記録していないのだが、しばらく替えていない。今回の府中の曲は叩きつけるように弾く事も少なくないので、思ったより劣化が激しいのかもしれない。弓の毛も弾いている最中にバンバン切れているので、そうした消耗部分がやや限界という可能性はある。(ただし弓に関しては昨日の練習に使ったのは別の弓なので、そちらが原因とは考えにくい。)

とはいえ、交換するにはちょっと本番が近すぎる。せめて前回の練習前には替えておくと良かったのだが・・・今回は今の状態で乗り切るしかないだろう。

今回のプログラムでは一部ソロもあるのだが、ホールに助けられて響いてくれる事を願おう。

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2012年6月 7日 (木)

譜読みをする

昨日はヨハネス・ブラームス・フィルハーモニカー(http://jbphil.com/index.html)というオケの練習に行ってきた。練習した曲はブラームスの交響曲第1番だったのだが、恥ずかしながら思ったように弾けず、少々落ち込む。

落ち込むが、練習をほとんどしていないのだから、仕方ないといえば仕方ない。今回の(このオケでの)課題は、少ない合奏回数の合間に、どれだけ個人でさらって弾けるようになるかだ。個人で練習する習慣というか、術のようなものを身につけるという事でもある。

今回は交響曲の合奏で、こちらは本番も2度ほど経験している。問題は来週、初めて臨むピアノ協奏曲の合奏だろう。とにかくスタートアップが(と呼ぶのかどうかは知らないが)遅いのが自分の欠点だ。そもそも「譜読み」というものがうまくできない。

とはいうものの、この週末は府中の本番のため、ひとまずはアメリカプログラムに集中しなければならない。ピアノ協奏曲の譜読みはその後になるだろう。しかし冷静に考えると、府中の本番が終わるという事は、次に向けた練習が始まるという事で、そちらも譜読みをしなければならないのだった・・・。

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2012年6月 6日 (水)

3つ目のオケ

半ば勢いで乗る事になってしまったのだが、今日から府中やオレイユとは別のオケに参加する事になった。3つ掛け持ちというのはやや厳しい気もするが、7月末ごろまでやや忙しい日が続く事になる。

もちろん何も考えていないわけではなくて、本番を除けば練習がダブルブッキングする事はない。今日から参加するオケは、練習回数も少なく、平日のみの練習予定が組まれている。朝楽器を持って出社するという手間はさておき、個人の練習がなかなかできない中で、週3日、楽器に触る機会が持てるのは、悪い事ではない。(楽器にとっても自分にとっても・・・楽譜にとってはややきついが。)

朝の電車も、幸いにして使っている電車は楽器を持って乗れる程度の混雑具合で、土曜の夜のオレイユの練習の後、終電で帰る際の電車よりも空いているぐらいだ。帰り・・・はやや気になるが、時間を考えなければ各停を使えば空いている事は分かっている。

むしろ問題は練習回数が少ない中でどれだけ弾けるようになれるかだろう。経験上、個人の練習をしてもそれほど効果がなく、合奏の回数をこなす事で弾けるようになる傾向があるからだ(理由は不明)。

プログラムは2曲。ブラームスのピアノ協奏曲第1番と交響曲第1番だが、交響曲はさておき、協奏曲は経験がない。ただ、オレイユで取り上げる現代曲のようなプログラムと違って、音の動きや音域も素直な感じがする。いや、曲の素姓の問題ではなく、自分の過去の経験から次を予測しやすいという事なのだろう。だからすぐ弾けるという訳ではないが、こういう場合はとにかくそのパターンに数当たるしかなく、後はどれだけ集中して練習に参加できるかだろう。

いずれにせよ、初めて参加する時というのはドキドキする。弾ける弾けないはその時になってみないと分からないが、楽しみな事だ。

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2012年6月 5日 (火)

CSRレポートを発行する理由

CSRレポートの役割ってなんだろうか・・・ということを、昨日関係部署にヒアリングをしながらふと感じた。社会にとって、ではない。会社にとっての話だ。

例えば社会貢献活動については、本業と結びついて会社も何らかのリターンが得られる活動が持続可能な事例とされている。逆にいえばそうした要素を持たない慈善的な活動では、どこまで持続できるかが怪しいという事だろう。そうした判断をする企業を無責任となじるのは簡単だが、持ち出すだけでは持続できないのは、個人の活動だって同じだ。

同じような考え方に立てば、CSRレポートにもそうしたリターンがなければ、持続的に発行していく事は難しいという事になるだろう。ではそのリターンとは何だろうか。

SRIや専門家による評価だろうか。しかし、SRIの多くは独自のアンケートを行っていたりする。であればアンケートに答えれば良い話だ。もっとも、回答の際の条件にそうした情報が開示されているかが挙げられる事もあるので、ある種の証拠作り的な要素はあるかもしれない。とはいえ、SRIによる評価が企業にとってどれだけリターンと呼べるかはやや微妙だ。

専門家の評価の場合はもっと難しい。厳しいようだが、その専門家の評価自体が、社会に対してどれだけ影響力を持つかという部分がはっきりしないからだ。断っておくが、ここで問題になるのは、CSRに関心を持つ層ではなく、そうしたものに関心を持たない層への訴求の話である。
その専門家による評価をしてもらう事で、社会的な評価が上がるのであればそれは企業にとってリターンだが、企業を評価する事でその専門家への社会的関心が高まるといった構図であれば、それは企業にとっては特にメリットがない。

もちろん、CSRに関心を持つ層に対するアプローチとしてCSRレポートを作成するというのはあるだろう。ただ、こうしたCSRに関心を持つ層が社会や企業に対してどれだけの影響力を持ちうるかはまだ未知数だ。

では、従業員に自己点検をしてもらうためだろうか。しかし、こうした要素は社内的な取り組みでかなりカバーされつつある。全体としてまとまってはいなくても、個別には取組が行われていて、そうした取り組みにはもちろん自己点検のプロセスも含まれている。そもそも、CSRレポートの多くは、そうした取り組みを紹介するものだ。従業員にとっては、改めてレポートに記載しても「それで?」という感じだろう。

レポートの編集に携わる者として、こうした疑問は常に持ち続けていく必要があるのだろう。惰性で発行しても意味がなく、どのような必要性にそって発行する必要があるのか、常に自己点検が必要なのだ。何か、このところその辺りが抜け落ちて、発行するのが当たり前みたいな感覚に陥ってしまっていたかもしれない。

社会が必要としている?どのように必要とされているか、自分は描けているだろうか。
その必要性は単なる興味関心ではなく、会社にとってもリターンが得られるものだろうか。

教科書的な回答ではなく、自分や従業員にとって腑に落ちる回答が必要なのだ。

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2012年6月 4日 (月)

本番一週間前

いよいよ本番前週ということで、昨日の府中は1日練習。全曲を一通り練習したのだが、何とか聴かせられる形に仕上がりそうな気配が見えてきた。

あいかわらず最後に追い込んでくるなと思うのだが、それがこれまでの練習の蓄積の成果なのか、単に直前まで真剣さに欠けているからなのかはよく分からない。府中の場合、アマオケに比較的見られがちな(と思われる)「直前までメンバーが揃わない」ということはほとんどないので、直前まで仕上がらないという理由がイマイチ他とは違うような気もするのだ。

さておき、昨日は前日まで揃わない一部の特殊楽器(流石にハープなどは前日からで、今回はウインドマシンなどのかなり特殊な打楽器も前日からになる)を除けば大半が集合したため、かなり広めの練習場も手狭で、果たしてこれだけの楽器がステージに乗るのか?という感じだった。
慣れている会場といっても、こればかりは当日セッティングをしてみないと分からない。

その辺りの運営準備に関しては、今回はやや後手に回ってしまった。委員長として何でも自分でやろうとするのは良くないと年初にアドバイスを貰っていたので、なるべく他に任せる方向で進めてきたのだが、どうもその辺りのお願いというか、指示のタイミングがつかめず、後半にややバタバタしてしまったのだ。改めてそうしたマネジメントの難しさを感じたりする。

自分でやる方が楽だよなぁ・・・とは思いつつ、今後はそうした点により気を使っていく必要があるのだろう。なんだかどんどん音楽以外の領域が広がっている気がする。実際このところパートリーダーとしての役割はあまり果たせていない気がするんだよね・・・。


というわけで、今週末が本番になりました。ご興味のある方はぜひ足をお運びください。損はさせないプログラム&演奏だと思います。

府中市民交響楽団第65回定期演奏会
「アメリカをみせる」
2012.6.10(日) 13:30開場 14:00開演
府中の森芸術劇場どりーむホール

バーンスタイン:キャンディード序曲
コープランド:エル・サロン・メヒコ
ガーシュイン:ラプソディー・イン・ブルー
グローフェ:グランド・キャニオン組曲

指揮&ピアノ:田部井剛
演奏:府中市民交響楽団

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2012年6月 1日 (金)

悩みを相談できる社会

無料相談ダイヤルに相談が殺到してパンク状態なのだそうだ。

「助けて」1日2万件、死にたい・食べてない…(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120531-OYT1T00681.htm

貧困や孤独を訴える声が目立ち、深刻なものも少なくないのだという。

記事のトーンは社会不安が高まり、厳しい世相を反映しているという感じなのだが、あえて誤解を恐れずにいうと、こうした相談が殺到しているというのは、むしろ好転しつつある予兆なのではないかという気もする。

これまでは、悩んでも誰にも相談することもなく世の中から消えてしまっていた、という人が多かったのではないか。声を上げることもせず、我慢した挙句に自己解決の道を選んでしまった人も多いのではないか。

相談する、というのは、そこから一歩踏み出す行為だ。身近な周囲にはできなくても、こうした形なら出来る。相談して良い、相談すれば良いという社会的な雰囲気の変化が、こうした現象には現れているような気がする。

ここで「みんな困っているんだな」「些細な相談はやめよう」みたいな流れになったら、逆戻りだ。どんどん相談するようになれば良い。余裕のある人は、有料のサービスを使うようにすれば良い。人々の悩みというのは、捉え方によってはビジネスチャンスでもある(食い物にするという意味ではないもちろん)。

自己に留めおかれた悩みは、自己崩壊しか招かない。発信された悩みは、当人の負担を和らげ、社会の糧になる(とはいえ、直接的に受け止めた周囲にとってはダメージになるので、そこを上手く拡散していく仕組みは必要だろう)。

とはいえ、社会の糧にしていくためには、秘密は守りつつ(これは極めて重要だ)、寄せられた相談を生かせる形で社会に発していく事が重要になる。そういう仕掛けを考えていく事が今後は重要な気がする。

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