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2012年7月31日 (火)

カレンダーでのタスク管理

少し前からToodledoの運用を一旦やめて、Googleカレンダーに予定としてタスクを登録するやり方を試している。

感触はそれほど悪くはない。前日に翌日のタスクを決めて時間を見積もって予定と登録し、それをこなす。その時間にできなかったタスクはそのまま残業時間にシフト(笑)するか、その日に進められないと判断されるものは別の日に移す。抱えている作業の関係で、一時的に残業はやむなしモードになっているが、概ねその日にスケジューリングしたものはその日に終わらせる事ができている。

そういった意味では、進め方としては自分に向いているのかもしれないとは思うのだが、やや懸念事項としては、今は結構な緊急事態で、せいぜい1週間から10日先までに「やらなければならない事」をいかになんとかするか、というモードにある事だ。

おおよその作業量が分かっていて、あとはそれをいかに効率よく乗り越えていくか、という場合、長期的なスパンを考える必要がないので、できる事からとにかく詰め込めばタスクリストが出来上がる。今のカレンダーはそういう状態で、その先の事を想定できていないのだ。

ようするに「目の前の緊急課題をこなす」ためには良いのだが、「先の重要課題を解決する」ためのタスクの組み立てができていない感じなのである。そもそも、今の状態だって「カレンダーでタスク管理をしているから」何とかできているのか、「単に切羽詰まっていて手当り次第にやるしかない状態にある」だけなのかはやや微妙だ。

実際、意識的&無意識に「忘れている」タスクもある。ふと思い出した時にも、それを入れられるキャパがない。キャパがないという問題は、ToodledoだろうがGoogleカレンダーだろうが同じなのだが、それ以外のタスクで埋まったカレンダーを見ると、気持ち的にタスクはこなせているというか、その日はもう限界のように感じてしまって、手が付けられなくなってしまうという事がある。

まぁもう少し落ち着いてきたら、きちんと整理してできるのだろう・・・などと思いつつ、その「もう少し落ち着いたら」的な先送り思考が多分一番の問題で、今この場でできる限りの事をやらなければならないのだろうと考えたりする。

・・・じゃ、ちょっとでもやるか。

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2012年7月30日 (月)

本番終了

先週から続く本番続きの週末が終了。土曜日がアンサンブル・オレイユ、日曜日が疾風怒濤の時代のオーケストラ(長いのでOASと略す事にする)の本番だ。といってもOASの方はスタッフであって出演者ではないが。

土曜日のオレイユは・・・そういえばブログ上では正式にプログラムを載せていなかった気がする。今回は南米の作曲家シリーズだった。

ピアソラ:室内管弦楽のためのシンフォニエッタ1953
カーゲル:固定楽想 ー 管弦楽のためのロンド
ヒナステラ:パブロ・カザルスの主題による変奏曲より《鳥の歌(カント)》
ヒナステラ:協奏的変奏曲

ピアソラはリズムが楽しい(=重要な)曲で、ピアソラらしさをどれだけ出せるかという点がポイントだったのだが、自分の中で消化しきれていたかというと心もとない。自パートの楽譜だけにかじりついていたら、オケ全体で奏でるリズムに意識が届かないのは自明だろう。

こうした曲は響きに身を任せるのではなく、リズムを自ら刻んでいかなければならないのだが、結局そうした楽しさを実感できるほどにはリズムに乗れていなかった気がする。

カーゲルは自パートの楽譜だけでなく、スコアを読んで頭を使えと言われていたのだが、結局スコアを見れたのも数回、楽譜をこなす事さえできなかった。かろうじて「聞く」事についてはついていけるようになったのだが、それも感覚的な話で「頭を使って理詰めで」聞けていたわけではない。

こういった曲も楽しい・・・とは思ったが、それと今後も「弾きたい」かはまた別の話。
ただ、こうした曲を本当の意味で「聴いて」「弾ける」ようになったら、また別の楽しさを得られるようになるんだろうな、とも思う。

ヒナステラの鳥の歌は、チェロは要するに「あの」鳥の歌を弾くのだが、他のパートが色々特殊な事をやっていて、それが楽しそうだった。いや美味しいのはチェロなのだが・・・。

協奏的変奏曲は、「協奏的」とあるように、ソロが重要なポジションを占めるので、それ以外としては安心して(?)聴いて&弾いていられるのだが、相変わらずオレイユの面々のレベルの高さとさらいこみには脱帽する。冒頭のチェロソロなんて、そんなキレイな音がアマチュアで出ますか!?という感じなのだが、そうした集団に身を置いて、自分をどれだけ磨けるかが大切な事だろう。

オレイユのプログラムは、惰性のような向き合い方を許さない。実際にはどんな曲でもそうした向き合い方は許されないのだが、オレイユの場合は無理やり向き合わされるようなところもあり、その辺りが自分の場合は甘いのだろう。


翌日曜日のOASは、20世紀以降の曲に取り組むオレイユとは対象的な、古典に取り組む室内オーケストラ。指揮者をおかず、自分たちで考えて音楽を作り上げようというのがコンセプトで、やはり楽譜に真剣に向かい合おうという気持ちが感じられる集団だ。

こちらはステマネの依頼という事で、奏者ではない形で協力。といってもたいした事はできなかったが、なるほどスタッフを「依頼される」側としては、こんな情報があると動きやすいんだな、とか、演奏中はこんな事を考えているんだな、といった事が分かった気もするので、これは別の意味で活かせる貴重な経験だったかもしれない。

スタッフといえば、オレイユでは特にスタッフなどの役割もなく演奏に集中できるのだが、そこで奇妙な実感をしたのが「ああ、スタッフでない奏者は開場後に着替えても十分間に合うんだな」という事だった。

府中では開場1時間前には着替えまで終えてスタッフとしてスタンバイをしなければならないメンバーも少なくない。自分もその一人なので、その感覚で開場30分前に練習が終わるスケジュールに何やら慌ただしさを感じていたのだが、実際はそれ程でもなく、食事をして着替えて余裕でスタンバイができた。

そういう環境を奏者にどうやって提供してくか・・・そんな事も考えていかなければならないような気がしたのだった。

さて、7月はあまりに慌ただしい感じだったが、8月以降は府中の秋定期に向けての練習を本格化させなければならない。とりあえず来週はマエストロがくるので、その前にきちんとさらわないとね・・・。

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2012年7月27日 (金)

電力の「需給問題」

多分暑さのせいだが、イラっとした。
なので、本日二度目のエントリーをする。

茨城で最高37度以上と強烈な暑さだが、東電管内の電力供給力はなお10%を余している。http://t.co/wzE9RbBH わざわざ原発を動かさなくても何の問題もない。それでも原発を動かしたいというのは需給以外の理由に他ならない。もう原発の議論に需給問題を入れるのは止めにしよう。 2012年7月27日 16:01:30 webから https://twitter.com/setsumori/status/228746919378296832

足りないという議論も足りるという議論も「需給問題」の一環だと思うのだが、この人にとっては「足りない」だけが需給問題なのだろうか。

そもそも、この暑さで「足りる」と言える人というのは、「自分は」一切節電していないか、していてもたかがしれているか、あるいは他人の我慢に鈍感で想像力が働かない人という事なのではないだろうか。(もしくは計算づくで意図的に無視しているという捉え方もできるが、この手の判断はそうした「陰謀」ではなく単なる「無能」で捉えた方が良いのがセオリーだ。)

議論がかみ合っていないと思うのは、脱原発派の主張が「原発はいらない」なのに対し、推進派もしくは容認派の主張は本来「電気が足りればなんでもいい」にあるという事だ。(ちなみに自分は「利権説」は揶揄以外の目的では採用しない。仮に利権で動くのだったら、それを批判するのではなく、それ以外の利権をぶつけてやれば良いだけだ。利権説を採る人というのは、「自分がその分前にあずかれない」事をやっかんでいるだけにすぎないと考えている。)

足りているんだったら、節電で暑さを我慢する必要はない。(もちろん不必要に冷やす必要はない。)
足りているんだったら、電気代はあがらない。(単純な経済原則として需要に供給が追いつかなければ価格はあがる。奪い合いになるからだ。)

別に原発はなくても良いから、安く電気を使わせてくれ。発電方法に問題があるなら任せるから。
それができないなら、原発反対を唱えるなとは言わんから、せめて他人の我慢に乗っかって無神経に「足りている」とかいうのはやめてくれ。

「足りている」んじゃない、死に物狂いに「足らしている」んだよ。
あなたじゃなく、他のみんなが。

あなたがメディアの一員としてやらなければいけないのは、原発云々以前に、その状況で身の危険を避けるために必要な注意を喚起する事じゃないのか?


ま、(先日も書いたが)実は隠れ推進派で、脱原発派のイメージダウンが目的というのなら別だけどね・・・(とここだけ陰謀論になってみる。というか、そうではないと思いたいのにそのように感じられてしまうからなおの事イラっとくるんだよなぁ)。

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大企業病には二次感染症があるのかもしれない

いや別にイケダハヤトさんのエントリーがどうこうというわけでもないのだが・・・。

富士通「ARROWS A」の広告と、「大企業病」の処方箋
http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/12956

「大企業病」には「大企業批判病」あるいは「大企業病原因病」という二次感染症があるのかもしれない、などとふと考えてしまった。

ARROWS Aの中吊り広告の写真は(現物ではない)自分も見かけていて、もうその(写真として流通した)時点でマーケティング的にはある種成功という考え方もあるんじゃないかと思わなくもないが、それはさておき、こういうなんとなく「妥協の結果的なモノ」というのは、別に大企業でなくたって見かけそうなものだと思うのだ。

そもそも人が二人以上集まって何かを決めようとすれば、どこかに妥協が生じる。
それは組織の大小に関係なく、逆に小さいからこそ生まれやすいという可能性もある。イケダさんの書いている事に反論するとすれば、

「大企業病」というのは、否定というプロセスを極端に避けようとした結果、生まれるものだと僕は考えます。

これはむしろ小規模で密な関係を持つ集団でこそ生じやすいものではないかと思う。

大企業という「大きな枠」ではなく、その中の「役員会」や「部署」といった小さい単位の中でこそ、否定が難しくなる。単に親密な相手を否定しにくいという感情面の問題もあれば、互いにライバル(ライバルというのは同格の相手をさすので、大組織の中でそのメンバー全員がライバルという事はない)だから後々にしこりを残さないようにするといった打算的な側面もあるだろうが、いずれにせよそれは「大組織だから」生まれる関係ではない。


とはいえ、今回の広告は、あえていえば、大企業の広告だから「話題になった」という事はあるかもしれない。

それはつまり、当人以上に「周囲の人が」大企業病に侵されているって事だろう。
かくいう自分も立派に侵されているから、こんな話を書いたりするわけだからね・・・。

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2012年7月25日 (水)

反論のあり方

ふむ・・・

@setsumori さんのツイート。

「反原発なら、エアコンもウォシュレットもPCも使うな」といまだに言う人たちは、きっと次に原発が爆発しても「まだ大丈夫、大丈夫」「これくらいの低線量なら人体への影響なし」って涼しい顔して言えるんだろうね。すごい精神力。 2012年7月25日 4:08:35 webから

この「反原発なら、エアコンもウォシュレットもPCも使うな」みたいな意見への反論は時々見かける気がしているのだが、そんな事を言っている人はすでにそもそも批判の対象にするべきではなく、むしろ必要なのは次のような指摘に対してどう答えるかではないかと思う。

さよなら電力足りる論 - ryoko174の混沌日記
http://d.hatena.ne.jp/ryoko174/20120722/1342905433

先の意見が暴論で論評に値しないなんて事は、拙速な脱原発に異を唱える人たちだって分かっているのだ。それを取り上げて、さもその集団全体の発言が稚拙であるかのように見せるのはある意味言論操作のようなものとも言える。

何度も書いているが、相手を説得する上で必要なのは、相手の土俵で論破する方法を考える事だ。脱原発なら、推進派の唱える「電力不足論」にこそ丁寧な論証が必要であり、それをこのように突き放してバカにしたような反論をしていたら、いつまでたっても相手は説得されないだろう。

少なくとも推進派はこれまで何年もかけて(お金もかけて)、脱原発派の土俵である「原発の危険性」について論証と社会への刷り込みを繰り返してきたのだ。それに対抗しようというのに、「お前たちはバカか?」みたいな上から目線の発言を繰り返していたら、そのうち社会からもそっぽを向かれるとは思わないのだろうか。

ま、表向き脱原発を唱えて、そのくせイメージダウンを図る「隠れ推進派」とでもいうのであれば、別だが・・・。

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2012年7月24日 (火)

ボランティアってなんだろうか

何というか、うわぁという感じなのだが・・・。

花火大会後の清掃活動「なぜ職員だけ有償」 鳴門市、指摘受け方針変更 - 徳島新聞社
http://www.topics.or.jp/localNews/news/2012/07/2012_134293516532.html

どうしてそのような抗議が出て、しかも見直しされた挙句に「仕事として参加しなければならない」市の職員が無償で参加しなければならないのだろう。

しかし個人的に気になったのは、この部分。

例年は、職員と作業を委託したシルバー人材センターのスタッフらが作業に当たってきたが、今年は初めて市民の参加を募ることにした。

・・・シルバー人材センターの人もボランティアになるのかしらん。

そしてもう一つとても気になる記述が・・・。

直接の指摘は寄せられていないものの、市は徳島新聞の取材で市民の間に疑問の声があることを把握。対応を検討した結果、職員にもボランティアでの参加を求めることにした。

「直接の指摘は寄せられていないものの」「徳島新聞の取材で」

えー?

それって記者が街角で拾ってきた声(だけ)が元になっているって事?しかも記者は「そういう意図を持って」聞いているわけですよね。それを市の担当者にぶつけてその方針を変えさせたという事?

なんだかメディアの恐ろしさというのを感じた記事なのだった。これは最低限署名記事にして、取材の経緯なんかも明らかにした方が良い内容だと思うぞ>徳島新聞

こんな話が続くと、ボランティアってなんだろうかという気分になってしまいそうだ。

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2012年7月23日 (月)

本番が続く

この週末と次の週末の予定はこんな感じだ。

今日はオレイユの最後の練習。その前に疾風怒濤の時代のオーケストラの会場下見。明日は府中のファミリーコンサート本番。来週の土曜日はオレイユの本番で日曜日は疾風怒濤の時代のオーケストラの本番でステマネ。 ・・・うん、休日っぽくはないな。すべて飲み会があるし(笑)
2012年7月21日 - 12:00 HootSuiteから

という訳で、昨日は府中のファミリーコンサートだった。隔年で実施しているため、前回やったのは2年前になる。

ファミリーというか、子どもたちが対象になるため、正直な話会場はそれほど静かではない。コンサートといっても、そのあたりはかなり雰囲気は異なるだろう。だが、多くの子どもたちは演奏中は食い入るようにこちらを見つめてくる。1曲演奏が終わるまで耐えられない場合もあるが、「静かに聴かなければならない」という大人と違って、彼らは集中しているがゆえに静かになる(事もある)のだ。

こういう演奏会は面白い。今回は「指揮者体験」というプログラムも用意したのだが、予想以上に盛り上がった。企画段階ではやや不安もあったのだが、プログラムを考えてくれた係に感謝。楽器紹介もそうだが、単に音楽を聴くだけではないプログラムは、準備は大変だが楽しい。

とはいえ、そういう意味ではもっと真剣に準備をする必要があるのかもしれない。もちろん企画は真剣そのものなのだが、演奏自体に関しては、定期演奏会にかけるような真剣さはない。恥ずかしながら自分もそれほど真剣に曲をさらった訳ではない(本番が続いて単に忙しかったということもあるが)。

それでも何とかなりそうな曲を選んではいるわけだが、本来「なんとかなる」ような演奏では子どもたちに失礼なのだ。そうではない演奏をするためには、練習をどうするかというスケジュールの時点から考えなければならないのだが、2年に一度というスパンでは、なかなか全体のスケジュールの中に組み込むというのが難しく、結局直前に押しこむような練習になってしまう。

毎年やればまた少し違ってくるかもしれないが、第九のある年だとこれがまた厳しい。府中の年間練習時間は1回2時間×約50回で大体100時間程度だと思うのだが、その時間をどのように割り振るか、みたいな視点がもっと必要なのかもしれない。

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2012年7月20日 (金)

家では書けないブログ

昨日の朝は別のブログを書いてしまったのだが、結局昼も夜もこちらのブログは書けなかった。そうなるとなんだか歯磨きを忘れたようでやや気持ち悪さが残ったりする。

昼も夜もやや忙しかった(=時間がないに加えて考える心のゆとりがない状態)というのが原因だが、改めて分かったのは、

朝でも昼でも夜でも書けるけれども、家では書けない

という事だろうか。それだけ家にいる時と外にいる時とでは精神状態が違うという事かもしれない。勉強もそうなのだが、家にいる時はそういう気分にならないのだ。そもそもメールの返信程度でさえ、なかなかそういう気にならなかったりする。

できるのはだらだらネットサーフィン(古い)をするぐらいだ。

こんなとりとめない書き物さえできないのかよ、という気もするが、まぁそういう弛緩した時間があってもいいよね。

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2012年7月18日 (水)

昼に書くブログ

やや乱暴なチャレンジではあるのだが・・・

今日は朝寝坊してしまった。アラームを止めて、一瞬目を閉じただけのつもりが、ハッとしたらすでに一時間経過。その程度で会社に遅刻するほどヤワな(?)時間には起きていないが、それでもブログをのんびり書いているほどの時間はない。

先日書いたように夜に書くという方法もあるが、今日の夜はとある勉強会に参加する予定で、その時間を確保できなくなる可能性が高い。という訳で、昼休みに書いてみる。

昼というのは時間的制約が厳しいが、実は会社のブログなどは昼休みに書くといった事をやった事もある。書く内容さえ決まっていれば、10分程度で書き上げるのもそれほど難しくはない。ただし、このブログは「書く事が決まっていない」段階で書き出す事もあり(今日もそうだ)、その場合は途中で止まってしまう時もある。
(そもそもそこまでして書く必要があるのか、という話もある。現実問題としては、ない。)

さて・・・(ここで何を書くか一考)

昨日こんな事をつぶやいた。

原発を稼働しなければいけないのは電力会社の経営上の問題で自業自得という主張があって、そう主張するのは別に構わないのだが、その「自業自得」とやらに巻き込まれるのは金融機関の破綻以上に確実なので、個人的にはそれは嫌だな~と思ったり。その辺りどう解決するんだろう。
2012年7月17日 23:29:01 HootSuiteから

くしくも今日の中日新聞ではこんな見出しの記事があったようだ。

関電、大飯再稼働なくても電力供給に余力 2012年7月18日 09時49分
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2012071890094758.html

これは先の主張である「原発再稼働は電力供給のためではなく経営のため」をある種裏付けるものにもなるのかもしれないが、実は

電力供給の問題ではなく、会社存続の問題

である方が、事としてはずっと深刻なのではないだろうか。電力供給が不足するのは電力会社の責任を追求すれば良いが、破綻した場合は誰がどのように責任を取り、事後対応をすれば良いのか。

原発の稼働に経営上の問題があるのだとすれば、まずはその問題をクリアするためにはどうしたら良いかを考える必要があるだろう。経営陣の問題を追求するのは簡単だが、それで手を挙げられた場合の事を考えて追い詰めているのか、その辺りが気になってしまう。

たかが電気(という発言も某所で話題になっていたが)、されど電気。問題は、我々の生活を支えているエネルギーをどのように確保していくかで、原発というのはその手段の中の一議論にすぎない。「たかが原発」だからこそ、どう扱うかが問題なのであり、どうバランスを取るのかという議論が必要なのだ、としか今の自分には言いようがない。


ところで先の中日新聞の報道だが、これは言ってみれば脱原発派にとってチャンスである。「それ見たことか」と鬼の首を取ったように騒ぐチャンスという意味ではなく、「この調子で頑張れば不要ですよね」というエビデンスを得るチャンスという事だ。電力供給の保険はかけたままで、原発分を丸々節電可能と示す事こそが、本当の意味で脱原発への第一歩だろう。

くれぐれもこれに乗じて騒いだり、羽目を外して使いすぎないようにして欲しいものだ。
もっとも、節電に頭を悩ませる多くの企業にとっては「だったらもう少し電力を使わせてくれ」というのが本音だとは思うのだが。

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2012年7月17日 (火)

体力回復

三連休が終わってしまった・・・。

土曜日にオレイユ、日曜日に府中の練習があると、もう一日休みがあるのは身体的には助かるのだが、その分のしわ寄せは仕事に来たりする。今週来週は少し(じゃないか・・・)追い込みをかける必要があるだろう。もっとも、このタイミングで追い込みが必要になること自体には三連休は関係ないが。

身体的には助かる、と書いたが、実は体調はそれ程良くもない。土曜日のオレイユの練習後の飲み会のお酒が何故か翌日も抜けないな~と思っていたら、二日酔いではなく微熱状態だった。今もやや不調な感じだが、おそらく極軽いが脱水症状が出ている。土曜日暑い中で大汗をかいた後にお酒を飲めばそうなってもおかしくない。日曜日も月曜日も結構な汗をかいている。

ただでさえ、平日と違って土日は水分摂取が偏る傾向がある。オフィスで机に一日向かっていれば、コンスタントな水分摂取が可能だが、土日は動き回る機会が多く、どうしても減ってしまう傾向がある。少し注意が必要かもしれない。

そんな訳で、普通の人とは真逆な感じではあるが、土日に消耗した体力を回復させながら仕事に臨む事にする。実際のところ、頭ほど体力を使うわけではなく、睡眠や三食のリズムも安定するので、平日の方が体力は回復しやすいのだ。

まぁ水分摂取にだけは気をつけよう。

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2012年7月13日 (金)

夜に書くブログ

先日のエントリーで取り上げた小室さんのプレゼンによれば、人間の脳は起きて13時間しか集中力が持たないそうだ。その後は酔っぱらいと同レベルの集中力になるという。

もちろんこれは「集中力」の話で、すべてが酔っぱらいと同レベルになったら大変だとは思うのだが、いずれにせよ脳が「疲れて」しまうのは確かで、そういった意味で朝の時間というのは貴重であり、そのゴールデンタイムをこのブログを書く事だけに使ってしまって良いのか?とふと考えてしまった。

厳密にいうと、このブログが無駄という事ではなく、他をやった方が良さそうな時は、他の事をやっても良いのではないか、という話だ。このブログはかなり習慣化されていて、書かないと何となく落ち着かなくなったりするので、実は夜書くという事もできる。むしろ「朝書く」と決めない方が書ける可能性もある。(時々朝書けないし・・・。)

という訳で、今朝は別のブログを書き、このブログは今書いている。こういうダラダラネタでも書けるのがこのブログといえばブログだ。一方、今朝書いた方はもう少しテーマを絞っているので、書けない時は書けないため、書ける時に書いた方が良い。

そのピークがたまたま今朝来たというだけだ。

実際にはそういう事は時々あって、そんな時は「今はその時間ではない」と悶々としたまま、こちらのブログのネタを無理やりひねり出していたりした。まぁ実際問題として、それはもったいないよね・・・。


さて、実は金曜日というのは、今朝書いたCSR日記でも、このENIGMA VARIATIONSでもない場に書いているさらに別の日記がある(会社のブログではない)。基本的には社内向けに書いた内容の転載だが、今日はその転載作業を忘れてしまったので、掲載しておく。

ちなみにこちらはその週にあったニュースや読んだコラムを紹介してコメントするというスタイル。

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■いじめについて(内田樹の研究室 7/12)

http://blog.tatsuru.com/2012/07/12_1033.php
※リンク切れはご容赦願います。

このところ、大津市のいじめの話題がメディアを騒がせていますが、そんな中このコメントを見かけて、シニカルな内容ながら、なんだかなるほどなぁと思ってしまいました。

とはいえ、これが単純に「競争社会の否定」みたいな話になってしまうのもやや気になるところ。

以前このような話を読んだ事があります。

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競争社会になると、強者はより強くなり、弱者は一段と弱い立場に追い込まれることが考えられます。昔、米国の友人に競争社会について、「どうしたら上手くワークするのか」と尋ねたことがあります。そのとき彼は、即座に、「強いものは、弱いものを助けるという考え方が重要で、そうした考え方なくしては、競争を基礎にした社会は上手く行かないだろう」と言っていました。その通りでしょう。

競争ですから、勝者があり、敗者があるはずです。そこで、大切なことは、強いものは、負けてしまったものを助けるという発想が必要です。そうした考え方は、一朝一夕にできるものではないでしょう。小さい頃からの生活習慣や教育の中で、徐々に形成されるものだと思います。もっとも重要な社会的インフラと考えます。
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(何で読んだか忘れてメモだけ残っておりましたが、検索したらありました!)
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/economy/article231_1.html


競争が問題なのではなく、その作法の問題なのではないか・・・そんな気がします。おそらく内田氏の意図もそのあたりにあるのだろうと思いますが、単純な競争否定にだけはならないようにしたいものです。
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という訳で明日から三連休。

とはいえ明日からオレイユの練習は午後夜間だし、日曜日の府中の練習のあとはマーラーの復活を聴く事になっているし、月曜日も練習しなければオレイユも府中もやばい状態だし、おまけに会社の研修に向けた予習もしなければならないし、何より仕事が遅れてしまっているのだった(仕事は休み中は手が出ないのでそれは多分やらないけどね)。

ああのんびり休んで温泉にでもつかりたい・・・夜書くとなんだかトーンが違うな(笑)

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2012年7月12日 (木)

タスク管理をどう行うか

ここしばらく掛かりきりになっていた計画資料の作成がほぼ一段落。こういうのは嫌いではないのだが、やはり少々時間をかけすぎているかな~という気がする。会社的にはかなり優先順位の高い資料で、他を後回しにしてでも取り組まなければならないものだったのだが、後回しにしていた他の仕事のツケが怖い。

実際、Toodledoのホットリストには、押しのけられて予定していた期日をすぎてしまったタスクがずらりと並んでいる。デッドライン的な期日設定はしていない(完全にデッドラインにしてしまうと、本当に取り返しがつかなくなるまでリストにあがってこなくなってしまうからだ)とはいえ、この状態はじわじわとストレスになる。

「あれが終わってない」「これも終わってない」「どれも終わってない」という事を常に突きつけられる状態だからだ。

どうもこのタスクリストによるタスク管理のやり方は自分にとってイマイチな気がしなくもない。とりあえずリストはできているのだが、実際には進まない事が多いのだ。

もちろん、忘れるとか抜け落ちるという事は少なくなったと思う。そういった意味でまったく無意味とは思わないのだが、仕事の推進力になっているかというと、やや疑問が残る。何だろう、やらなければならない事として意識にはある一方で、そのための時間がブロックされないのだ。

それでは、進みようがない。

以前何かで見かけた、カレンダーで一元管理する方法に切り替えてみても良いのかもしれない。カレンダーそのものがごちゃごちゃして見にくくなる(以前一度試そうとした事があるのだが、登録している間にうんざりしてやめてしまったので実際には運用には至っていない)のだが、自分の時間の使い方をきちんと把握する意味でも、一度そのようにやってみても良いかもしれない。

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2012年7月11日 (水)

長時間労働をなくすという考え方

少し前から気になっていたのだが、遅ればせながら見た。

TEDxTokyo - Yoshie Komuro - Life Balance - [日本語]
http://www.youtube.com/watch?v=sd6OLoQW0hY&feature=youtube_gdata_player

小室さんの話は以前直接聞いた事もあり、ああ、変わらずぶれてないな、とも思ったのだが、この中で主張されている「長時間労働をなくそう」に対して「好きな仕事を好きなだけやって何が悪いのか」と思った人は、そもそも受け取り方を間違えている事に気づいた方が良い。

小室さんは「長時間労働をなくせ」と言っているのではない。
「会社のための労働時間の一部を他の労働に回せ」と言っているのだ。

そういう意味では、ペイワークかノーペイワークかはさておき、「労働時間」そのものは変わらない、と考える事もできる。6時に「会社の仕事」を終えたから、その日の労働が終わるわけではなく、他の労働をせよ、という事だ。

家族のための労働でも良いし(要するに家事ってことだ)、会社とは別の社会のための労働だって良いだろう(ボランティアってことだ)。自己啓発だってある種自分に対する労働と捉えることができる。

そういう「会社における労働とは別の労働を人生に組み込め」というのが、彼女の主張の本質のような気がしてならない。それらのバランスをとりながら、時には何処かに全力投球したって良いが、それは他を多少なりとも犠牲にすることが伴う選択であり、それを自覚することが大切なのだ。

長時間労働をなくすというのは、定時であがって休むあるいは遊ぶことではない。
人生においてよりシビアな時間管理と労働管理をしろということに他ならない。


おそらく彼女の主張に反発する人というのは、どこか無意識に、本質的にそうだということに気づいている。だから反発するのだ。この話を受け入れることは、これまでの自分が怠惰で、やり方を変えなければいけないということを認めることだからだ。

少なくとも、自分の中には、小さいとはいえ、そういう反発がある。
だから分かるのだ。長時間労働をなくせという主張は、怠惰な人にとってこそ恐怖だということが。

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2012年7月10日 (火)

コミュニケーションシステム

何となく考えとしてはまとまっていないのだが、コミュニケーションには「スキル的なアプローチ」と「システム的なアプローチ」があるかもしれない、などと昨日ふと思いついた。

スキル的なアプローチというのは、まぁ一般的なコミュニケーションアプローチだ。基本は対面で(リアルでなくても良いが)やり取りをしながら、互いのすり合わせを行い、ストレートな言い方をすれば「自分の望む方向に」相手ややり取りをし向けていくというアプローチになるだろうか。

このアプローチが上手い人というのは、やり取りそのものの内容もさる事ながら、相手の見極めが上手い気がする。自分と相性が良く、かつポイントとなる人物をおさえた上で、相手にあわせてやり方を変える。計算もあるだろうが、多くの場合は本能的に行われている。

しかし、自分がそうなのだが、そうした能力が弱い、そもそも本能が弱いタイプというのがあって、こうしたスキル的なアプローチが上手くできない人がいる・・・ような気がする。

このタイプは「相手を選べない」。なんというか、そういった相手を探すアンテナが働いていないか、非常に弱いのだ。「受身」というのが近いかもしれないが、まったくそうという訳でもない。

で、こうしたタイプがその欠点を補うためのやり方を「システム的」なアプローチと考えてみた。呼び方は適切ではないかもしれないが、「相手」ではなく「内容」に注力し、相手を選ばない(選べない、ともいう)アプローチの事だ。

もちろん物事を進める上でコミュニケーションが不要という事はないので、最終的に相手は必要になってくる。でもそのチョイスにおいて、自分の「人脈」といったパーソナルスキルには頼れないので、組織に頼ってアプローチをしたり、個人のスキルによらなくてもコミュニケーションにつながっていくような仕組み(システム)を作り上げなくてはならない。

そんなことをするぐらいなら人脈を広げることを考えた方が楽じゃないか、と言われればそれはその通りかもしれないが、それはスキル的なアプローチを得意とする人の話で、そうではない人にとっては、迂遠であってもそうしたシステムを作り上げてそこに頼るしかないのだ。


・・・で、今仕事が非常に苦しい状況にあるのは、一時築き上げようとしていたそのシステムの構築に頓挫して、スキル的なアプローチに頼らざるを得ない状況にあるからではないか・・・という話。

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2012年7月 9日 (月)

演奏会終了

JBP(ヨハネス・ブラームス・フィルハーモニカー)の演奏会終了。楽しかったのだが、色々と反省点もある(個人として)演奏会だった。

まず、正直なところ無理があったのは認めざるをえない。やったこともある曲だし、というのは甘すぎた。時期的な問題もあるが、短期間で仕上げるにはそれなりのリソースの投入が必要で、それはつまり府中やオレイユなどの他の練習に影響が出てしまうという事でもある。

さらにいえば実際にはそこまでのリソースも投入できていない。改めて思ったのは、自分が個人練習ではなく合奏や分奏といった練習の中で曲への練度を高めていくタイプだということだ。これは実はあまり良いことではなくて、本当は個人できっちりと練習をしてから合奏には臨まなければならない。

短期間で練度を高めていく練習方法が必要だと感じるのは以前にも書いた通り。基本的にはベースの部分を高めていくしか無い。これは単に楽器を弾くという技術だけでなく、楽譜を読み込むといった事も含めてだ。

一方、こうして他のオケに参加するというのは、様々な発見がある。そのオケの運営方法、練習方法それ自体もそうだし、メンバーから他のオケの話を聞くということもそうだ。こればっかりは、同じオケにいるだけでは得られない情報で、もちろんすべてがすべて参考になるわけではないのだが、得られる事は大きいと感じる。

また、調整次第では平日練習のオケもなんとかなるということもなんとなく分かった。深入りするのは無理にしても、練習に参加するのはなんとかなる。後は個人の練習とのバランスだ。

府中のような大編成(特に弦)のオケにいると、ついつい数に甘えがちになる。今回のJBPが3プルト、オレイユが2.5プルト、チェロが2〜3プルトぐらいだと、室内楽とまでは言わなくても、自分の役割が大きくなるし、逆にアンサンブルとしても緻密さが出てくる。(府中が問題というわけではなく、大人数には大人数の良さがある。)

選曲の幅ということでいえば、弦楽器が5-4-3-2-1ぐらいの編成で古典を中心にやるようなオケに参加するのが、次のステップとしては面白いのかもしれない。とはいえ、そういう編成のオケは空きがないだろうなぁ・・・。

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2012年7月 6日 (金)

福島原発事故が「人災」であるという事

国会の事故調査委員会が、福島原発をめぐる一連を人災と位置づけたそうだ。

「原発事故は人災」国会事故調が最終報告書
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120705-OYT1T00537.htm

人災・・・そう結論づけて本当に良いのですか?という気がする。特に脱原発派にとって、この結論は大きな障害となるだろう。

人災とはすなわち、管理を徹底すれば人が防げ得た事故だという事だからだ。
それはつまり、今後も原発を推進しても「注意すれば大丈夫」という免罪符を得たという事でもある。

原発推進という意思決定そのものが人災だという意見はあるが、この事故調の報告書はそのように位置づけてはいない。そもそもそれを「人災」と結びつけるのはやや無理があって、自動車事故は自動車を発明した人による人災だ、みたいな言いがかり感がある。
(その意思決定が間違いだった、という議論はあって良い、「人災」という言葉の使い方がどうなの?という話だ。)

話を戻す。

福島原発の事故が人災であれば、その責任は関係者にあり、彼らには償う責任が発生し、事故の被害者を救済するのは彼らの役割になる。

その一方で、他の原発については「しっかり備え管理を徹底する事で」事故は防げ得る事になる。実際、記事で取り上げられている事故報告書の内容は、福島原発も備える事ができたはずなのにそれを怠った、という責任を追求している。事故後の対処にしても、もっとうまくやれた筈だというニュアンスがあり、それは、そうした点をしっかりさせて今後も原発を利用していきましょう、というメッセージにも受け取れる。
(細かく内容を読んだわけではない。あるいは事故報告書の結論は、最終的には人の手に余るもので原発を推進するべきではないとなっているのかもしれないが、少なくとも報道のメッセージはそうなっていないという事だ。)

福島原発の事故が天災であったならどうなるか。
関係者には責任がない(まったくないとは言わないが、ある種不可抗力として重い責任までは問われない)事になり、事故の被害者は国つまり社会全体で救済する(助け合う)という事になる。国民一人ひとりの役割になるという事だ。

その一方で、今後こうした災害が起こった際には、人の手では事故を「防げない」事になり、早急に他の原発を見直す必要が生じる。人智を尽くして防げるものなら取り組んでも良いが、それでも防げないからこそ「天災」なのであり、これを防ぐには後は「手を触れない」という結論しかない。

気持ちとして関係者の責任を問いたいのは分かるし、まったく問うなとは言わない。天災であっても、最大限の備えはできるし、それによって被害を減じる事ができたのであれば、その不備は問われるべきだ。

が、人災だという位置づけで本当に良いのですか?という気はする。

想定外で不可抗力だからこそ、再発を防ぐには廃炉しかないのだ。
想定内で防ぐ事ができるのであれば、稼働しても再発を防げるという事になる。

実際のところ、推進派の人はこれで「トカゲの尻尾きりをすれば良い」という事になったと思うのだが、脱原発派はどのようにこの結論を受け止めていくのだろう。

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2012年7月 5日 (木)

電源カフェを利用してみた

今日はJBPの練習があるため、楽器持ち。
その練習に備えて昨日は楽器を弾いておきたかったのだが、週末の府中の練習を休むためには諸々連絡作業をこなしておかなければならず、それどころではなかった。

平河町ライブラリーに行く方法もあったのだが(そして地元のタリーズという選択肢もあったのだが)、知り合いにお試し券をもらったので、渋谷にある「beez」という電源カフェに行ってみた。最近この手のスペースの話をよく聞く気がする。

雑居ビルの7階で、一見さんでは入りにくい感じだが、会員制という事で基本的には口コミでの展開を狙っているのだろうか。昨日はグループで利用しているお客がいたのだが、店主の知り合いのような雰囲気だった。利用者アンケートには、他の来店者と交流したいかという趣旨の質問があり、店内の雰囲気も含めて、そうした「コミュニティづくり」をめざしているような印象を受けた。

その辺り、同じようなスペースを提供する場合でも、平河町ライブラリーのような形とは違う気がする。もちろん平河町ライブラリーにもメンバーコミュニティはあるのだが、基本的には個にスペースを提供するのが目的なので、受けるサービスの印象は均一だ。もちろん馴染みにはなっているのだが、それによって利用者の居心地の良さを生み出すのではなく、基本的な個々のホスピタリティを高める事で「誰でも」過ごしやすい空間を提供することが基本スタンスにある。

一方、beezのようなスペースはやや違う印象を受ける。利用者が馴染みになり、利用者同士の交流が生まれることで、それを次の利用動機につなげていくような、コミュニティ(グループといっても良い)へのホスピタリティを高める方向性を感じるのだ。

自分の場合は、今のところそうした方向性は求めていないので、平河町ライブラリーほどの魅力を感じるかといえば微妙なのだが(そもそも投入しているコストの問題でそうそう乗り換えられるものでもないのだが)、こうしたアプローチは面白い気がする。SNSのコミュニティがめざしている方向と同じで、利用者に提供するサービスではなく、コミュニティへの帰属意識を利用動機に結びつけていこうというアプローチだ。

そういう意味ではグループで使ってこそ面白いのかもしれない。

http://beez.co/

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2012年7月 4日 (水)

社内向けに日記を書く

今日は会社の清掃活動があるので手短に。

昨日は会社の飲み会があり、そこで酔っ払って自分が力説していたのは「社内で良いから日記を書いて発信しろ」だった。
その積み重ねが、やがてブログなどにもつながっていく。最初からブログを書くならそれでも良いが、無理と思うならまずはそこからはじめるしかない。

自分の場合も、会社のブログのバックグラウンドになっているのはこのブログで、このブログにはさらに前身となるブログがあり、さらに遡れば社内の掲示板に載せていた日記があり、メールで勝手配信していたつぶやきがある。

とはいえ、このやり方の問題点は、読者のことをあまり考えなくなってしまう点だ。基本的に「自分の事」を書くのが主眼だから、どうしてもそういう傾向が出てしまう。そういうスタイルが身についてしまってから読者を意識して書こうとすると、そのための新たなペルソナを作ることになり、逆に不自然な感じになる。

そう考えるとあえて最初からブログのような形で発信するスタイルから始めるのも一つの方法かもしれない。

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2012年7月 3日 (火)

何故脱原発にばかり絡んでしまうのか

本来自分の性格は天邪鬼として何にでも絡むのだが、どういう訳か原発問題に関しては、何故か推進派ではなく脱原発派にばかりツッコミをいれてしまっている気がする。

それは何故だろうか、という事をふと考えた。自分が推進派だという事だろうか。

そうではないような気がする。主張として、脱原発派はツッコミやすさを備えているのではないだろうか。ただしそれは悪い意味ではない。

こういう事だ。推進派と脱原発派の主張というのは、それぞれ「電力が足りない」「原発は危険」で基本的にはかみ合っていない。そこで相手に反論するには、それぞれ相手の主張に切り込んでいく必要がある。

それはつまり「電力は足りる」「原発は安全」なのだが、こうした反論はどうやっても相手の土俵での勝負になるので、当然の事ながらツッコミどころが増える。自分が反応しているのは主にこの領域で、例えば「電力が足りない」「原発は危険」には、主張それ自体にはツッコミようがなく感じている。

そして「原発は安全」という主張は、福島原発の事故以来、ほとんど目にする事がない。実際の事故の事実の前には主張のしようがないからだ。そのため、推進派はその主張において脱原発派の主戦場である「安全か危険か」という土俵にはほとんど乗る事なく、「電力が足りない」を基本スタンスにしている(ように感じている)。

結果として、その相手の土俵で戦う脱原発派の主張には「?」という事が増える。増える電力需要のために原発が必要という主張は、長年に渡って構築されてきたもので、社会的な刷り込みも含めて強固な体制を構築している。そこにぶつかる側の論理が脆弱に見えるのはある意味仕方がない。

ただ、この状況は言い換えれば敵陣に踏み込んでの本土決戦中という事であり、相手の本丸を崩せる距離にまで肉薄しているという事でもある。自分のツッコミを擁護するわけではないが、そうした疑問を一つ一つ丁寧に取り除く事が、最終的に推進派の「(原発がなければ)電力が足りない」という主張を丸裸にしていく事につながるだろう。


・・・と自分なりの勝手な理屈を考えてみた(笑)

ただ、今の状況が脱原発派にとってこそチャンスであり、だからこそ勢いではなく丁寧な議論が必要だと感じているのは確かではある。実際、脱原発派の人というのはどのように考えているのだろう。

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2012年7月 2日 (月)

練習計画

この週末は、通常のオレイユと府中の練習に加え、土曜の午前中に府中のファミリーコンサートのための楽譜探し、午後にオレイユのパート練習、日曜の午後に(オケとは関係ないが)B4Sの主催する「カナエール2012夢・スピーチコンテスト」があった。単なる慌ただしさと受け取るか、充実と受け取るかは主観による。

パート練習では、光が見えたというか、絶望が見えたというか、相変わらずこの人たちはすげーなという思いを新たにする。楽器のキャリア的には負けていない(というか多分自分の方が長い)ので、ようはこれまでに積み上げた練習の違いということだろう。どうも自分の練習というのは中途半端な気がしてならないのだが、どう組み上げていったら良いのか分からない。

前にも書いたが、それが楽器とスキーの違いだ。スキーは自分で練習を組み立てることができる。楽器はそれができない。できないわけではないが、その確証が持てない。

レッスンを受けるのが一番良いのだろうが、現状ではその時間を確保するのはかなり難しい。それも甘えといってしまえばそれまでだが、何というか、練習量ではなく練習方法の問題の気がするのだ。
とはいえ、根本的な基礎不足といえばその通りなので、そこを量でカバーをすれば良いのか、その辺りがよく分からない。

一方府中の練習は、秋の定期演奏会に向けた練習を一時中断し、ファミリーコンサートの練習がスタートした。スタートしたといっても、本番は7月22日だから、練習期間は短い。間にJBPの本番があり、終わった翌週はオレイユの本番って、何だそのスケジュールは。
(というか、ファミリーコンサートは元々降りる事も考えていたのだが、パート内の事情によりやはり乗らざるを得ない事になったという事もある。)

こちらはやや曲数が多い。昨日の初見では、絶対的にさらわないと弾けないという曲はないのだが(期間が短いため、そんな曲はそもそも選曲されない)、まったく個人練習なしでOKかといえばもちろんそんな事はない。とはいえ、現状からいえば、本番が一番後のオレイユが最も危機的状況にあり、本番が近いJBPがそもそも練習時間がないとうことで、府中についてはやや余裕があるという感じだろう。今回は運営面を他の人に任せられるという事も大きい。

さて、今週はJBPのG.P.(木曜日)と本番(日曜日)がある。G.P.前に練習するにはもちろん平日夜に時間を確保するしかないのだが、今日明日はすでに予定がある。水曜日は面白そうなセミナーがあったのだが、まぁこの日は練習にあてたい所だ。金曜日も別件の予定。
日曜日の府中の練習は休むが、土曜日のオレイユの練習は休めないし、そもそもオレイユこそ最も練習が必要な状態にあるので、土曜日はその練習にもあてなければならない。

うん、充実している。


・・・ちなみに仕事も結構追われる状態にあったりするorz

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