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2012年9月28日 (金)

ブログはプロセスの可視化

昨日もこちらのブログは書かなかったのだが、朝は別のブログの方を書いていた。ちなみにプロフィールはまだ公開していない。この週末にでも内容を考えることにする。

自分という人間をどう紹介するかというのは「こう見せたい」という明らかなポリシーがなければ、相手によって変わってくる。相手の顔が見えたり、場が明確な場合は、それに合わせて行うのが普通だが、ブログのプロフィールにはそうした要素が薄いため、前者のようなポリシーが必要になる。

自分はそうした要素が薄いのだろう。そもそもブログを始めた理由もはっきりしない。何かを社会に訴えるとか、自分を売り込むとか、そうした意図はあまりなく、単に書きたい事を書いていて、それを日記のように伏せていないというだけの話だ。

いやいや、それは言い訳かもしれない。このブログにせよ、もう一つのブログにせよ、大元は読み手にメッセージを届けたいという所からスタートしている。社内向けから外向けに対象は変わっても、根本的な動機の部分は変わっていないはずだ。

では自分は何を伝えたいのだろう。

多分その部分はモヤモヤしたままなのだ。厳密には「誰」というのはあまり意識されておらず、むしろ自分の思考をだだ漏れにただ発信したいという欲求が強いだけの気がする。言ってみれば「伝えたいことを伝えるだけ」という、企業のCSRレポートへの批判がそのまま通用するような状態で、勝手に読み手にされてしまった相手は迷惑なだけという可能性もある。

今日の内容などはその典型で、単に公開で自分の考えをまとめているだけである。まとめるどころか、単になぞっているような状態だ。自分の考えをまとめるための方法はいろいろあると思うが、自分の場合はそれをブログでのやっているのだろう。その辺りが「まとまった考えを」表明する形のブログとは違う所だ。

そういった意味では、最終的にまとまった考えは、このブログで書いていた内容とは異なってしまう場合もある(あまりない・・・はず)。時々ブログの話題を持ち出された時に「ああそういえばそんなことも書きましたね」みたいな反応になってしまうのは、ブログ上で展開されているのが、最終的なアウトプットではなく、そこに至るプロセスであるからだ。

そう考えると、実はリアルな自分を知らない相手に、ブログの内容だけで判断されるというのは、少々リスクが高いという事になるのかもしれない。

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2012年9月26日 (水)

ブログの実名化についての思案

昨日エントリーしなかった事も含めて今日はがっつり書こうと思ったのだが、電車が遅れてあまり時間がない状態になってしまった。とりあえず昨日の夜の一連のTweetをまとめておこう。

ちなみに以下のTweetで書いている「ブログ」というのは、このブログではない。


さて、少し考えをまとめておこう。
今朝ブログを更新しなかったのは、昨日のエントリーに関連して匿名ではなく正々堂々名乗れという指摘があって、どうしたものかと思案していたからだ。
2012年9月25日 19:14:29 HootSuiteから

正直それほど差し障りのある内容を書いているわけではない。ブログ上で名前や会社などは明かしていないが、知り合いの多くは自分である事を知っている。だから名前を明かしても良かったのだが、さえ、プロフィールを書こうとして迷ってしまった。
2012年9月25日 19:17:17 HootSuiteから

例えば社名を明かしたとする。とはいえ、個人で書いている訳ではないので「個人の見解ですので会社とは関係ありません」と書くとしよう。その場合、所属している会社の情報は読む人にどんな意味があるだろうか。普通無いよな。
2012年9月25日 19:19:41 HootSuiteから

一方、その所属にあわせて会社の見解を語るとする。その場合会社の情報は内容を担保する上で重要という事になるが、それはようするにポジショントークのようなもので、個人のブログと呼べるのか微妙な気がする。
2012年9月25日 19:22:13 HootSuiteから

もちろんポジショントークを聞きたい人もいるだろうし、そもそも人にはポジショントークしかないという捉え方もある。読み手がそのように思うのであれば、書き手の意思に関係なくそうしたポジション情報は重要だろう。
2012年9月25日 19:24:46 HootSuiteから

さて、実は悩んでしまったのだ。会社というポジションは、自分がブログを書く上ではほとんど関係ない。全くとは流石に言い切れないが、そのポジションで自分という人間を捉えられてしまうのは甚だ不本意としか言いようがない。
2012年9月25日 19:28:06 HootSuiteから

ところが、プロフィールとして書ける「自分という人間を特定できる情報」が、会社の情報ぐらいしかないという事に気づいてしまった。実際にはブログにエントリーしている内容こそが自分自身を最も表す記号であるのに、最もそうではないと思っている会社の情報でしか自分を説明できない。
2012年9月25日 19:31:15 HootSuiteから

果たして自分の「実名」を保証する情報とは何なのだろう。それが会社のような「所属組織」の情報しかないというのは、実はとてもさみしい事ではないか。
2012年9月25日 19:33:30 HootSuiteから

実際のところ、名乗れと言ってきた人物だって、自分にとっては匿名なのである。実体を知らない相手だからだ。そう言った意味では、その匿名相手のポジションの発した意見に対して意見を言ったという感覚にすぎない。
2012年9月25日 19:36:24 HootSuiteから

さて、そうなると相手の要望する「正々堂々名乗れ」という要請にはどう答えるべきだろう。相手のポジションは分かっているので、直接コンタクトするのが良いのだろうか。
2012年9月25日 19:38:09 HootSuiteから

・・・なんて事を考えたのだが、ま、相手にとっては自分と同じようにポジションを明かせば名乗ったという事になるのかもしれない。こっちは全くもってそんな感じにはなれないのだが、コミュニケーションの基本は相手の求めに応じる事だからね。
2012年9月25日 19:40:49 HootSuiteから

しかし自己紹介というのは難しいし、恥ずかしい。ペルソナをかぶる気がない場合は尚更だ。自分のブランディングという捉え方は、その恥ずかしさをかなぐり捨てるための手段でもある。
2012年9月25日 19:43:30 HootSuiteから

そういえば昔会社で自己紹介ではなく他己紹介データベース構築というアイデアを考えた事があったな。当人には投稿者が分からないような仕組みで(笑)
2012年9月25日 19:46:30 HootSuiteから

そういう「他人の紹介で成り立つプロフィール」プラットホームとかあったら面白いのかもなぁ・・・脱線してしまった。
さて、着いたので練習に行ってくるとしよう。
2012年9月25日 19:48:44 HootSuiteから


という訳で、禁を破って電車の中で(iPhoneを)使ってしまったのだが、それはさておき、ブログの実名化というのは考えていなかったわけではないので、この機会にそうしてしまっても良いのかもしれない。少なくともCSR日記の方はそうだ。(このENIGMAはやや微妙・・・。)

そもそも、知り合いが多く繋がっているTwitterやFacebookにリンクを飛ばしている時点で、あまり伏せている自覚がない。それ以前に公開した以上は、どこかで分かると思っている。そこまで関心を持つ人はそんなにいないだろうというだけの話だ。実際自分も、読んだブログや新聞の記事などを「誰が実名で書いたか」なんて事は気にしない。

そういう意味では、この名乗れという指摘も、自分という人間に興味があっての事なのか、単に批判したいだけなのかで、どう対応すべきかが変わってくるのかもしれない。リアルな自分に興味を持ってくれたのであれば喜んでお伝えしたいが、単なる反論や批判封じの手段として実名を使われるというのは、何となく嫌な感じがする。

さて、どうしたものだろうか。ブログでの個人ブランディングなどには興味がない(意見する事自体に興味はあるが、それを自分の評価などにつなげようという気持ちがない)ので、自分にとってはほとんど無価値なのだが、読んでいる人が興味があるというのなら、プロフィールは大切だ。

だが、何分自分が無関心なので(他の人のブログでのプロフィールなんて読んだ事がないし、実名かどうかも気にした事がない)、何を書いたら良いかというアイデアが浮かんでこない。
そんな訳で「他人の紹介で成り立つプロフィール」なんて事を考えるのだが(そういえばmixiに「紹介する」という機能があったので、多分発端はそれだろう)、誰かリアルに自分を知っている人に考えてもらえないかしらん。

まぁ会社のブログにリンクすれば一発なのかもしれないが(笑)


最後に、これだけだと分からない人もいるかもしれないので、大元を晒しておく。

Tweet from オルタナ編集長(@setsumori)
今までネタにされていたとは知りませんでした。申し訳ありませんが、匿名の方に一方的に取り上げられても、気味悪く感じます。正々堂々、名前を名乗られたら如何でしょうか @GoroSASAKI 企業と社会の対話という幻想 http://t.co/rWDdRw2W
2012年9月25日 1:40:50 webから
See More: http://twitter.com/setsumori/status/250273600672763904

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2012年9月24日 (月)

当事者は意識の問題ではない

そこからスタートするしかない。

ヤレバデキルハナシ。 - サカタカツミノブログ
http://sakatakatsumi.hatenablog.jp/entry/2012/09/24/070407

このエントリーで書かれている事は、確かにその通りの要素もあるだろうなと思うのだが、そこで突っ込むとすれば、この指摘自体「問題意識」でしかない点だろう。それがダメというわけではなく、この人は「趣味は観客になること」と言っているのだからそれで良いとして、指摘されていることに「その通りだ」と納得して終わったら批判されている人達と同じだよ、という事だ。

「問題意識」が自分に対して使う言葉なのに対して、「当事者意識」というのは他人に対して使う言葉なのだと思う。少なくとも自分に対して「当事者意識があるない」という捉え方はあまりしないのではないか。

さらにいえば、これらは結局「意識」に対する評価として使われるのではなく、「行動」に伴う評価として使われるものだ。問題意識をベースにして、それを自分で納得したり周囲に語るだけなら「問題意識がある」、解決に向けて動けば「当事者意識がある」となるのだろうが、それほど大差ないといえば違いはないような気がする。

そもそも課題解決に必要とされるのは、問題「意識」や当事者「意識」の高さではなく、「当事者かどうか」にすぎない。乱暴な言い方をすれば、リーダーに求められるのは「意識の低さ」を嘆いたりする事ではなく(それは先のエントリーでいう「問題意識」でしかない)、「当事者にしてしまう」事だとも言える。

とこのように書いてしまうと「意識の低い当事者」はむしろ困ったちゃんみたいな議論になるのだが、課題解決に貢献できない人は「当事者」ではなく「第三者」だとでも定義を変えてしまえば良い。RPGのNPCのようなもので、パーティーに加わっているから当事者とは限らないのだ。

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2012年9月21日 (金)

受信者と消費者

こういう量的な捉え方は大切だと思うのだが・・・

ビールが筋肉老化抑制 毎日83リットル飲めば
徳島大、寝たきり防止に期待
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2000O_Q2A920C1000000/

そうは言っても、ちょっとでも飲めば効果があるんじゃないの、と思ってしまうのが人の性というものなのだろう。特にそうした発想はリスク情報において顕著になる。

この見出しはやや苦笑をもたらすニュアンスになっているのだが、同じように書かれても放射能や添加物などでは全く違う印象になるに違いない。もうその辺りは感性の領域で、科学的であるとか、コミュニケーションのなんたらでなんとかなるような領域ではないような気もするのだ。

こうした部分は、発信側ではどうしようもなく受信側でより議論が必要という事なのかもしれない。


昨日書評メルマガで『やっぱり「モノ」を売るな!「体験」を売れ!』という本が紹介されていて、それは売り手の発想としてはそうなんだけど、消費者たる者、「モノ」は買っても「体験」は自分独自に生み出してこそ一人前で、体験まで売り手の言うままに買ってしまったらもう「ステークホルダーとしての消費者」とはとても言えないよな~などと身も蓋もない事を思ったりした。

情報のやり取りをそうした売り買いに喩えるのであれば、モノがもたらす体験は、情報の解釈にあたる。受信した情報をどう消化し受け止めるかはやはり受信側の責任で議論が必要な気がするのだ。

もっともそれは売り手側が口にして良い事ではないので、買い手側がきちんと声をあげる必要がある。『「体験」まで買うな!「モノ」だけ買え!』とか主張する消費者団体とかないのだろうか・・・。

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2012年9月20日 (木)

変節だという批判

前言の撤回や主張の変化に対して「前はこう言っていたではないか」という批判がある。

意見そのものへの批判ではなく「変節」だという批判に意味がないな~と感じてしまうのは、それが自分にとって心地の良い(都合の良い)変化であれば、「英断」と讃えるだろうと思ってしまうからだ。

少なくとも、変わった後の意見に大賛成だが、変えたのは変節だから、初志貫徹して撤回すべきだ、という意見は聞いた事がない。

つまり、それが変節であるかどうかは、意見を変えた当人の問題ではなく、それを聞いた側の問題という事になる。批判する側の底の浅さを露呈するようなものだ。

もちろんこれは変わった後の意見への批判をするなと言っている訳ではない。その意見が気に入らなければ、そう批判すれば良いだけの話だ。そうではなく「変えた事」が気に入らないのであれば、その変化が自分にとって良い方向であっても批判しなければ、それこそ一貫性がないのではないか、ということだ。

そう考えると、相手の一貫性に対する批判というのは難しい。ともすれば批判する自分自身には一貫性がないという事になりかねないからだ。

そもそも、意見の一貫性に対する批判というのは、他に批判の材料を持たない故の苦し紛れという捉え方もできる。むしろ対抗勢力がそうした批判を持ち出してきたら、現在の主張にはそれだけスキがない、ぐらいに受け止めておいた方が良いのかもしれない。

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2012年9月19日 (水)

企業が環境活動や社会貢献活動をする理由

企業が環境活動や社会貢献活動をする理由はなんだろうか。
この命題は、いまだ自分にとって答えの出ない問いだ。確たる自信が持てないと言っても良い。
(もっとも、基本的に常に懐疑心を持つ天邪鬼な自分の場合、大抵の命題は確たる答えが出ないが。)

環境活動を例に改めて整理する。

企業が行う環境活動には、大きく2つの方向性があった。
一つは、事業活動に伴う環境への負荷そのものを低減するための活動。もう一つは(企業を含む人類社会が)環境へ与えてしまった負荷をオフセットする活動だ。後者は必ずしもその企業の事業活動とは結びつかないが、多くの場合結びつけた形で行われる。企業というのは本来事業活動に付随することにしかお金を使えない=活動できないからだ。

歴史的には、企業の環境活動は、公害防止などに代表される前者の活動からスタートし、徐々に後者にシフトしていったと捉えることが出来る。前者すら行われていない時代というのは確かにあり、それが社会からの働きかけによってスタートした。これは、企業の大元の行動原理には環境活動というものが存在しなかったということを物語っている。

つまり、社会との関係の中で、その要請によって行われるようになったのが、環境活動ということだ。事業活動には直接関係しないオフセットの領域にまで活動が拡大したことも、社会からの要請に基づくと考えれば説明可能になる。

社会からの要請は、抗議活動のような直接的アプローチや、法規制のような間接的アプローチによって企業に伝えられ、その意思決定に影響を与える。

ここまでは、企業の立場は社会に対して受け身である。これはまぁ理解できる。社会の要請をどのようにキャッチするか(特に法規制のように具体的な形を伴わない間接的な要請をどう捉えるか)という課題はあるが、いずれにせよ企業が受け身の立場であれば、それはまぁ納得できるのだ。

問題は、これが逆転して、社会側が受け身になってしまう3つ目のケースだ。典型的な例は、CRMに代表されるマーケティング手法としての環境活動である。一見同じように見えて先の例と異なるのは、この活動における企業の行動原理はあくまでも事業活動の延長にあるという点だ。極めて露骨な書き方をすれば、これは「環境活動は事業拡大の手段に過ぎない」というに等しい。

こうした活動は、行動原理が事業活動に内包されるが故に強力な推進力を持つ。受け身ではなく自らの意思で行なっているのだから当然といえば当然だろう。

ところが一方で、それを明示してしまう事は、活動のイメージに多大なダメージを与えてしまう事が多い。それどころか、イメージ先行で行われた場合、実際には環境への負荷が低減されていないといった指摘をされてしまうというリスクもある。(そもそもオフセット的な活動はそういった要素がつきまとうのだが。)

で、どういうジレンマに陥るかというと、その活動のアカウンタビリティをどのように確保するかという問題に直面するのだ。これが冒頭の問いである。

企業が企業自身の行動原理に基づいて、企業自身のために行う環境活動や社会貢献活動は、正直にその活動理由を説明すると、社会的なイメージを損なうリスクがある。

企業が能動的に行う環境活動とは、環境ではなく企業のため、つまり事業活動の発展につながるためのものだ。しかし、それを素直に説明すれば、あらぬ批判やイメージダウンを招く。結果として、企業は「環境のため」と活動動機を「偽らなければならない」。ほかならぬ事業活動へのダメージを避け、環境活動へのダメージを避けるためだ。

それでは、企業が環境活動に取り組む理由はどのように説明されるべきだろうか。
まだ答えは出ない。

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2012年9月18日 (火)

新しいモノへの関心

三連休が終了。土日は府中の合宿だったのだが、何というか、今回の曲はやっぱり難しい。合宿前に一時高まった練習熱だが、まだまだ維持していく必要があるだろう。効果自体はある。

それはさておき、初日の予約が200万台を突破したというiPhone5だが、いまいち気分が盛り上がってこない。元々現物を見なければ盛り上がらない傾向はあるのだが、iPhone4で今のところ不自由を感じていないという事もあるかもしれない。

どこかのブログで読んだのだが、免許の更新のようなもので、何か新しいものを手にするというよりは、当たり前に更新する気分というのは確かにその通りかもしれないと思う。言ってみれば手帳と同じだ。ほぼ日手帳の発売の季節になったから、あ~そろそろ買っておくか(ほぼ日は今年はまだ買っていないが)みたいな気分。

iPhone(というかスマートフォン)の場合、手帳のように「新しいものを探す」、つまり別の機種を検討するという気分も薄くなっている。もっとも、iPhoneにたどり着く前は色々と変遷している訳で、ようは理想と考えるものにたどり着いたという考え方もできるかもしれない。

その一方で、そうした「新しいモノ」への関心が薄れるのはどうなの?的な気分もある。いやもちろん、iPadといい、年々新しいモノは購入しているのだが、未知のモノとアップグレードは違うだろう。まぁ現実問題として「新しいモノ」がどれだけ誕生していますか、という事もあるのだが。

・・・うん、何のまとめにもならないエントリーになってしまった。まだ合宿の疲れが抜け切っていないのかもしれない。

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2012年9月14日 (金)

多様性と個性の境界

昨日はナレッジマネジメント学会の多様性研究部会。オフィスのファシリティにおける多様性の受容についてがテーマだったのだが、とても面白かった。

これまで部会の議論が、どちらかといえば多様性を「受け入れてもらう」側の議論だったのに対して、今回は多様性を「受け入れる」側の視点での議論になったからだ。それもマネジメントではなくファシリティという視点でだ。

考えさせられたのは「多様性」と「個性」をどこで線引きをするかという問題だ。その境界をどうするかというのは、まさに「受け入れる側」ならではの悩みで、新たな刺激だった。

例えばオフィスの椅子をどうするか。維持管理する側からすれば、誰もが使いやすいよう配慮しながらも、基本的には仕様を揃えたい。一方使う側からすれば、自分にあった椅子を使いたい。どこまでが「多様性への配慮」で、どこからが「個性というわがまま」になるのか、その線引きは非常に微妙だ。しかもそこに個々人の生産性という要素まで加わってくる。

自由と規律のバランスをどこでとるか、という問題にもつながってくるだろう。

組織には組織のポリシーがあるから、基本的には多様性への配慮といってもその範囲内での話にはなる。一方で優秀な人材を確保しようという時に、その組織のポリシーとのすり合わせをどのように行っていくかはとても大きな課題だ。それは組織にとっても個人にとっても重要な命題だろう。

もっとも、「規律」とは言いつつも、そのポリシーが組織ごとに異なるのであれば、それは組織にも多様性があるという事であり、組織の規律はいわば個人の個性と似たようなものと捉える事もできる。

そうであれば、組織が個人の多様性を受容するように、個人も組織の多様性を受容(選択?)する事がどこかで必要であり、その部分のマッチングをどうするかという問題になるような気がしなくもない。

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2012年9月13日 (木)

iPhone5

iPhone5が発表されたから・・・という事とは全く関係ないのだが、iPadをカバーなしで使いたくなり、スリーブケースを買ってみた。スマートカバーも無しなので、さすがに裸のまま持ち歩きはできないと思ったからだ。

あわせてというのも変だが、しばらく着けていたiPhone4のバンパーも外してみた。自分にしては長く着けていた方だが、外してみると思った以上に小さく感じる。個人的には、やはり何もない方がしっくりくる。

時間がなかったのでまだ剥がしていないが、保護フィルムも剥がしてしまう予定。ノングレアのフィルムは、触った感触が良かったり、反射の少ない見やすさはあるのだが、全体に画面がにじんだような感じに見えるのも確かだ。

iPhoneにせよiPadにせよ、カバーなしで使いたい(iPadもフィルムは貼っていない)と思うのは、何となく「本体自体の使い込んだ感」が出てくると良いな、と考えている事もある。カバーは比較的劣化が早いので、簡単にそうした感じが出てくるのだが、やや汚い感じもあって、本体にそうした痕跡が出るようになると良いなと考えたりするのだ。

もっとも、実際にはせいぜい2年程度しか使わないデバイスで、そうした使い込み感を出すのは難しいかもしれない。ハードに使い込めば良いのだが、実際にはそこまで使う事はない。

さて、iPhone4は購入後1年ちょっとだったはずだが(そういう時はブログを読み返すと大体わかる)、5はどうしようか。ここしばらく考えていた事は、iPhone5にするタイミングでauに切り替えて、3キャリアでの通信環境を整えるという構想だったのだが、今のところiPhone5にする決定的な動機がない。

もっとも、この段階で動機がないのは当たり前といえば当たり前で、例えば「動作が遅い」といった動機が出てきてからでは、過去のiPhone同様「遅いタイミングでの購入」になってしまう。この手のデバイスは、本来発売直後から使うのが一番効果的なので、替える気になるのを待っていたら少々持ったいないのは確かだ。まぁ並んでまで買うほどのものでもないのだが。

ただ、そういえば本当にauに切り替えるのだとすれば、それこそ2年契約の縛りが切れるタイミングの方が良いのかもしれない。だとしたら、まだ先の話だなぁ・・・。

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2012年9月12日 (水)

スケール練習用の音源

昨日は練習をした(別に堂々と言うような事ではないが)。

前日にスケール練習用の音源を作っておいたので、お試しも兼ねていくつかさらってみる。聞きながら練習するために作った音源だ。4オクターブで全音符-四分音符-八分音符-十六分音符というパターンと、3オクターブで二分音符-四分音符-八分音符-十六分音符のパターン。
一拍=60で弓の動きは4拍全弓で固定。

4オクターブは、一つの調性で5分かかる。3オクターブなら2分半。オケの練習前に軽くさらうのであれば、4オクターブは時間的に長すぎる。正直にいえば3オクターブも長いので、もう少し短いパターンを考えた方が良いかもしれない。

それと、音源の音そのままではなく、三度なりの和音の響きとして音を出すようにした方が良いかもしれない。アンサンブルの中で要求されるのは、「同じ音を出す事」ではなく「ハモる音を出す事」だからだ。音源と同じ音を出すような練習をしても仕方が無い。

そうした 響きを出すような練習であれば、細かい音は省いて、せいぜい四分音符まででも良いという考え方もあるだろう。実際には細かい動きの中でも聴き合う事が要求されるが、実際やってみた感触としては、まだそこまでの余裕はない。特に調性が変わると途端にそれだけで精一杯になる。

もちろん指を慣らすための細かい動きのスケール練習も必要だが、響きを聞いて音程をとる練習とは分けて考えた方が良いだろう。別々にパターンを作成した方が良さそうだ。

全部の調性で練習すると考えれば、3オクターブで大体必要な音域はカバーできる。
音程重視のパターンは二分音符(全音符では時間がかかりすぎる)で、ガイド音源は和音で構成。
リズム重視のパターンは四分音符-八分音符-十六分音符として、少し変則的なものを加える事も検討してみよう。弓の使い方も全弓にこだわる必要はないはずだ。

さらに欲をいえば、アルペジオの練習などもできると良いのだが、これはかなり面倒な気がする。今後の課題というところだろうか。

で、それらの音源はそれぞれ作らなければいけない訳だが、考えてみたらそういったパターンを色々切り替えて練習できるようなアプリがあったりすると便利かもなぁ・・・。

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2012年9月11日 (火)

迷惑とサービスの類似性

今朝は別のブログを書いていて、しかも朝の時間では書き終わらずに昼休みに被ってしまった。
夜は練習に行く予定なので、残りの時間で手短に書く。

昨日こんなTweetをした。

「周りの人の迷惑にならない音量でお楽しみください」という車内アナウンスの声は、多分実際に迷惑な音量で楽しんでいる客の耳には聞こえないであろう。 2012年9月10日 20:08:21 HootSuiteから

HootSuiteからTweetをする場合は、同時にFacebookにもポストしているのだが、意外と反応があった。なるほど、そのように感じている人が多いのかもしれない。

・・・が、実は自分はあまりそれらを迷惑に感じた事がない。
おそらく公共の場における周囲への無関心の成せる技だと思うのだが、車内放送やマナー広告を聞きながら「ああなるほど世間ではそれを迷惑というのか」と感じるような状況だろうか。
(その辺り、スペースを圧迫される類とは別に捉えているという事かもしれない。)

といって、自分がそこまで大音量にするかといえば、それは主に自分の耳のためにそうしているのであって、あまり「周囲に迷惑だから」みたいな事は考えていないような気がする。

何を迷惑と捉えるかは人それぞれだ。実はサービスも同様で、何をサービスと捉えるかは人それぞれだろう。する側にとっては、あまり意識されるものではないのかもしれない。

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2012年9月10日 (月)

大学時代の練習

今朝はヘッドフォンを忘れて来てしまった。
電車の中でiPhoneを覗かずに済ませるには、音楽は必須のはずだったのだが、そんな訳で何となく車外を眺めながら通勤。

普段あまり見る事のない車窓から新たな発見が・・・ある訳もなく、そもそも5mも離れると人の顔の判別がつかない裸眼状態で窓の外を眺めたって何が見えるわけでもないのだが、とりあえず目には負担をかけないよう手元を見るのは我慢する。
実際、気分的なものかもしれないが、そう決めて以降、多少目の調子は良いのだ。


さて、そんな話は関係なく、昨日の練習の話。弦分奏だったのだが、ドヴォルザークの8番の第1、第4楽章をじっくりと練習する。

ドヴォルザークの8番は、大学時代と府中の計2回、すでにやった事のある曲だ。つくづく思うのだが、大学時代に練習した曲というのは、練習の絶対量が違っていて、結構指に残っている。難しいパッセージなどはもちろん弾けなくなってしまっているのだが、何ともないところで、目が楽譜を追いきれていなくても、勝手に指が反応する瞬間が時折あるのだ。

目と頭は初見に近い状態で楽譜を捉えているのに、体は勝手に弾いてしまうという感じだろうか。その体の動きをトレースしながら、ああそういえばこういう楽譜だったと何処かで再認識しているような感覚だ。(認識できずにどうやって弾いたか分からない時もある。)

大学時代にやった(メインの)曲は4曲。

ベートーヴェンの9番
ドヴォルザークの8番
チャイコフスキーの4番
ブラームスの1番

第九は府中でも定期的に演奏しているので別だが、これらの曲は、卒業後に取り組んだ曲とはやはり違う感じがする。それは7月のJBPでも感じた事だ。

もっとも、同じく大学時代の演奏曲として、コンチェルトは、

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番
アルチュニアンのトランペット協奏曲
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番

序曲は、

スッペの軽騎兵序曲
ベートーヴェンのエグモント序曲
ブラームスの大学祝典序曲

というのがあり(第九は1曲プロ)、多分これらの曲も近い状態なのではないかと思うのだが、こちらはあまりそのように感じた事はないような気がするな。

そうした大学時代のような弾きこみをするのは今は無理だろう。先週は少し気合をいれて平日夜に3日練習をいれたのだが、思った以上に集中力が続かない。そういう意味では自分が思ったほど「楽器を弾く(だけの)事自体は好きではないかもしれない」という事が分かった(アンサンブルは楽しい)のだが、それでも練習は必要だ。

辛い事を無理にする必要はないのだが、いかに楽しんでできるようにするかという事は必要だろう。もっとも、スキーなども楽しいのか楽しくないのか良く分からない状態で滑り込みをしていたりするので、そんな状態を楽器でも作り出す事ができると良いのかもしれない。

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2012年9月 7日 (金)

目を使わない車内の過ごし方

昨日ふと気がついたのだが、視力が悪化しているような気がする。

何というか、画面を見るのが辛いのだ、視界がにじむというか。ややコンタクトが合わなくなってきているのかもしれない。

だからという訳ではもちろんあるのだが、通勤電車の中で目を使わない方法を考えてみる。ようするに「iPhoneを覗きこまない」時間の過ごし方ということだ。そうした携帯デバイスに限らず、本なども極力慎むということになる。とはいえ大切なのは「近くばかりを見ない」事だから、目を閉じていなければいけないわけではない。

そんな訳で今朝はPodcastを聞きながら来たのだが、途中で眠くなってしまった。内容がいまいちだったということもあるが、耳からの刺激はそういった結果に陥りやすい。眠ってはいけない訳ではないが、ある程度混雑した電車の中でうとうとすることは、目の前の人に頭突きをかましたりするリスクにつながるので、なるべく避けたいところだ。

とはいえ、「目を使わない」のであれば、「耳を使う」しかないのだ、基本的には。これもやり過ぎると今度は耳が痛くなってきたりするのだが、目ほど顕著なダメージではないだろう。ノイズキャンセリング機能を使っていれば、むしろ騒音は軽減される(しかしカナル型は長時間だとキツイので、オンイヤー型のを検討するかな・・・)。

いずれにせよ、しばらくはそうした模索をしてみよう。以前にも何度か検討したことがあるのだが、毎回挫折している。それだけ電車の中の過ごし方は難しいということだ。

究極の方法は通勤時間を劇的に短くするとか、電車を使わないといったことなのかもしれないが、それはさすがにコストがなぁ・・・。

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2012年9月 6日 (木)

振替輸送とベビーカー

昨日は振替輸送で渋谷にはやや遅れて着いたのだが、駅を出たところで役員とニアミスをしていたらしく、会社で「とても良く似た人を見かけた」と言われた。いつも出社する時間とはかけ離れて早かったので、まさか自分とは思わなかったそうだ。

実際時間を考えればそれが自分であった事は間違いないのだが、確かにそう思われてしまうのも止むを得ないかもしれない。家の側から見れば、朝6時に出て夜は23時頃に帰ってくるというのは、かなり「仕事をしている」イメージになるかもしれないが、会社側から見ると勤務時間しか居ない社員な訳で、それなりのギャップはあるだろう。


そんな話はさておき、昨日の振替輸送の電車内でこんな事をつぶやいた。

振替輸送で中央線。考えてみたら、いつも乗っている人達にとっては、ベビーカー如きとは比べ物にならないくらい迷惑な存在だろうなぁ。つまりベビーカーのマナーっていうのも他人事ではないって事なのよ。 2012年9月5日 6:28:25 HootSuiteから

巷で見かけるベビーカーと電車の話題の多くは、特に混雑している時間帯に乗ってくる「非常識」を問うものなのだが、では振替輸送で他社線に無理やり乗り込むのは「非常識」ではないのか、という話だ。

正直にいえば、自分だって乗っている車両にベビーカーが乗り込んできたら「迷惑」と感じている。ベビーカーに限らず、酔っぱらったおっさんだって迷惑だし、これ見よがしに本や新聞を広げるビジネスマンだって(最近見かけなくなったが)迷惑だ。

そう考えると、迷惑と感じる事自体は別に非難される事ではない。ようはそれを「迷惑な相手」の問題と考えるのか、「迷惑と考える自分」の問題と考えるかどうかの問題ではないか。「非常識だ」と相手に問う姿勢は前者で、そこには「自分もそうかもしれない」という視点が無いように感じられるのだ。

実際にはベビーカーの相手だって、自分が乗る時間にこんなに人がいるのは迷惑と感じているだろう。でも自分もそうだと思っているから、それを口にしないだけだ。結局のところ、自分もそうだ(周囲に迷惑をかけている)という想像力の働かない輩が、相手の問題として「非常識だ」と叫ぶ構図があるという事かもしれない。

なんて事を、こんなものを読んだ直後だった事もあって考えたのだった。

片山さつき秘書「東浩紀をSNSから抹殺する」 - Togetter
http://togetter.com/li/366402

マナーというのは、自分を律するためにある言葉で、他人をとやかくいうためにある言葉じゃないよね。

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2012年9月 5日 (水)

振替輸送と安定運行

今日は会社の清掃活動があるのだが、京王線が運転見合わせで振替輸送。その程度で遅れる事はないが、それは振替輸送が可能な駅を利用しているためで、単なる遅れならともかく不通となると、利用している駅によっては簡単ではないだろう。

こうした場合に、遅れずに行くのはビジネスマンとしては当然の心得という事になるのだろうが、社会全体としてはどうだろうかと、振替輸送の詰め込み電車に揺られながら考えてしまった。

いつもの事なのか、振替輸送の影響なのかは不明だが、後者だとすれば、7時前でもこれだけ負荷のかかる電車での通勤が及ぼすストレスは社会全体の総量としては相当なものになるのではないだろうか。

もちろん、どうしても今日はいなければいけない、という事はあるだろう。でも、そのためにどれだけのコストをかけられるか、例えばタクシーを使うに値するコストをかけても(会社として負担しても)朝いつも通りに来て欲しいか、と言われたらどうだろうか。

自己責任と考えるのは簡単だが、そんな時には思いきって無理な出社は求めないというのも、一つの考え方のような気がする。経営的には甘い話といえばその通りだが、振替輸送が社会にコストを転嫁している行為だと考える事だってできるのではないだろうか。

もっとも、そうなった責任は電鉄会社にあるといえば、それはそれでもっともな話で、電鉄会社が何とかすべき、という論法も成り立つだろう。

ああ、それにしても振替輸送って大変だ。普段当たり前に運行されている事のありがたさが、こんな時は身に染みる。こうしたインフラは、安定している時にはそれを普通に感じて何とも思わないのだが、不安定になると途端にストレスが大きくなる。
そういう意味では、今日はトラブルを起こしてしまったが、いつも安定した運行をしていただいてありがとうございます、という感謝の気持ちは、心の片隅にでもいつでも持っておきたい気がする。

電力だってそうだろうな・・・とはまた別の話。

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2012年9月 4日 (火)

かられるドヴォルザーク

昨日は宣言通り練習をした。

・・・と書くとなんだか「やらねばならない」感じだが、音を出すのはそれはそれで楽しいし、練習自体は嫌いではない。府中の前回アメリカプログラムや、オレイユとは違って、曲自体は平易(弾くのが簡単という意味ではない)なのだ。アンサンブルで「はまる」気持ち良さも大きいし、一人で練習していてもそれを想像しやすい。
(念のため断っておくとアメリカプログラムやオレイユが楽しくない訳ではない。方向性の違いだ。)

曲としてのボリュームが大きいので、全曲を一気に練習するのはほぼ無理なのだが、何箇所かは毎回さらっておく必要があるだろう。練習はゆっくりで良い。経験上、それでだいたい曲にはまるようになるからだ。もっとも、謝肉祭はゆっくり練習するばかりではテンポについていけなくなるかもしれないが。

という訳で、何を練習しているかも含めて、次回演奏会を正式にご案内。

府中市民交響楽団 第66回定期演奏会
かられるドヴォルザーク
日時:2012年11月25日(日) 13:30開場 14:00開演
場所:府中の森芸術劇場どりーむホール(京王線東府中駅)
曲目:
ドヴォルザーク 「謝肉祭」序曲
ドヴォルザーク 交響曲第7番ニ短調作品70
ドヴォルザーク 交響曲第8番ト長調作品88
指揮:高橋勇太
演奏:府中市民交響楽団
全席自由 入場無料

オールドヴォルザークプログラムという事で、曲目を並べて書きづらいが、それはさておき、交響曲2曲プログラムというのはやはりハードだ。弦楽器は音符数も多い。 ここしばらく弦楽器もそこそこ「休みのある」曲が多かったのだが、今回はほとんど休みなしである。

さて、昨日スケールの練習をしていて、ガイドが欲しいと感じた。メトロノームと音階を組み合わせたガイドの音源ファイルは、ハ長調については作ってあるのだが、こういうのを都度組み合わせてかき鳴らしてくれるアプリとかないのだろうか。それもできれば和音を出せると良いんだよね。

とりあえず必要なのは音源を作るのが早いかなぁ・・・。

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2012年9月 3日 (月)

練習時間

なんだかガタガタである。

・・・と泣き言から入ってみる。

昨日はドヴォルザークの謝肉祭序曲と7番の合奏、午後はパート練習があったのだが、準備と練習不足で相変わらず歯が立たない。練習不足の言い訳をしても仕方がないが、7月の本番ラッシュ以降、まともに練習ができていないのは確かだ。

もちろん、徐々に弾ける様にはなってきている。というか、個人練習をほとんどしていない状態でも、ぼちぼちついていける箇所が出始めているのは、やはりそうやって弾ける様になっていくタイプなのだろう。とはいえ、こんなスローペースではもちろん間に合わない。そもそも、毎回楽譜を初めて見る様な気分で弾く羽目になってしまうのは非常によろしくない。

一方で、楽器を弾く以外に考えなければいけないことも目白押しだ。仕事については一つは確かに一段落したが、もちろんやることは他にもいくらでも溜まっている。

もう少し時間があればとも思うが、多分時間があっても休んでしまうだけだろう。時間が足りないというよりも、ややオーバーフローなのだ。そういう意味では何かを捨てる事を考えた方が良い。捨てる、というと語弊があるかもしれないが、任すとか、とにかく自分以外のリソースを使えないかと考えることだ。(とはいえ、それを考えることをまずアウトソースしたいぐらいだが。)

まぁ、泣き言から入ったとしても、泣き言で物事が解決するわけではない。一つ一つ片付けていくしかないのだ。まずは練習を立て直そう。結局これは「かけた時間」だ。技量を維持する上でも、週1回の府中の練習に頼るだけでは、弾けなくなっていくのは避けられない。

夜の時間を使おう。帰ってから実家に移動するのが面倒でも、基本的にはそれしかない。移動の時間が無駄に思えるなら、そこに何かを付加しよう。そうやって時間密度をあげるしかない。

とりあえず、このエントリーが終了したら、Googleカレンダーに予定として記入することにしよう。

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