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2012年11月30日 (金)

テンションを取り戻す

今週はややテンションが低い。

本番が終わったからかもしれないし、仕事が進まないからかもしれない。いや、仕事が進まないのはテンションが低い結果であって、原因ではない。まぁそもそもはっきりした理由があるわけではないのだろう。所詮は気分の問題だ。

何かが切れそうになっている・・・なんていうのも、こうやってブログに書いているうちはおそらく問題ないだろう。本当にやばい状態なら、ブログなんて書いていられないはずだ。ようするに今日のような書きようは、単にだだをこねているにすぎない。

とはいえ、何となくどよーんとしているのは確かで、これはこれで困る。何が困るってそういう気分の時は物事を後回しにしがちだからだ。これからが慌ただしくなる季節だというのに、スタートダッシュをとれない状態にあるのは、あまりよろしくない。

この週末は、珍しく府中の練習がない。だったら旅行でも・・・と言いたいところだが、諸事情により予定を開けておくようにブロックされてしまった。まぁのんびり過ごすのか、普通に練習をするのか、いずれにせよ、週明けには気分を取り戻せるような何かをしかけておきたいものだ。

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2012年11月29日 (木)

kindle

上田早夕里の「華龍の宮」(早川書房)を(ほぼ)一気に読んでしまった・・・kindleで。

厳密には、iPhone&iPadのkindleアプリで読んだのだが、なるほど小説なら電子書籍でも読めるんじゃないかと感じた。これまでビジネス書で挫折する事が多かったのだが、そもそもビジネス書の場合、紙の本であっても挫折率が高いので、ようは読みたい欲求が続くかどうかという内容の問題なのだろう。

もっとも、kindleの場合、複数のデバイス間でどこまで読んだかが共有されたという事も大きい。iPadを広げられる所ではiPadで、ちょっとした合間にはiPhoneで、という読み方をしてもストレスがない。これまで読んだ電子書籍は、デバイス毎にバラバラだし、アプリを一旦終了したら、次開いたらまた最初から、なんて事もあったような気がする。

もちろん紙の本とは違う面もある。一番大きいのは、自分がどこまで読み進んでいるかが直感的には分からない事だ。紙の本の場合、残りのページ数は一目瞭然だが、電子書籍ではそれが分からない。もちろん残りのページ数を表示させたりもできるが、読んでいる時にそんな事をいちいち情報として調べようとは思わない。

結果として「華龍の宮」の場合、上巻はあれもうそんなに読んだかなという感覚で読了し、下巻はあとちょっとかなと思いながら読んでいたら意外に残っていて余計な夜更かしをする羽目になってしまった。没入していたといえば聞こえは良いが、特に下巻のような読み方は時間の使い方が乱れやすいので危険だ。

それと、飛ばし読みのような読み方が難しいように感じる。小説の場合はもちろんそんな読み方はほとんどしない訳だが、ビジネス書などのように、パラパラめくりながらハッと引っ掛かった箇所をつまみ食い的に読むのは少々難しそうだ。なるほど挫折してしまう事が多かったのは、その辺りにも原因があるのかもしれない。

また、電子書籍はスペースを取らないのが利点だが、一方でリユースのしようがない。ようは古本屋などに持っていったりができないという事だが、これは自分の時点で消費が完結してしまうという事でもある。それでも良いのだが、今は買取金額を寄付するといった仕組みもあるので、そうしたものに回したいと思ったら、紙の本を買うのもありだろうなとは感じる。

いずれにせよ、今回の読書で思ったのは、小説や漫画は電子書籍でも良いかもしれない、という事だった。これらは基本的に最初から最後までを通して読むスタイルなので、それほどストレスを感じない気がするのだ。漫画の場合は(これも何冊か購入してみた)、iPhoneではやや厳しい感じだが、iPadであればほとんど問題がない。とはいえ、やはり主体は小説だろう。個人的に読みたい本はありつつも、スペースを取るうっとおしさからあまり買う事がない。図書館などで読むには機会が限られ、なかなか手に取れない。

さて、そうなると気になるのが、専用端末だ。もともと電子ペーパーであるkindle paperwhiteはとても気になっていて、そもそも今回kindleで購入したのも、それを見据えていた側面もある。

一方で、今回読んでみて一番感じたのは、iPhoneという常に身近にあるデバイスで読める事の読み進めやすさだった。iPad miniでもkindle paperwhiteでも、「そのために」デバイスを取り出すという行為は、やはり読む事の阻害要因になりうるだろう。というか、iPhoneでばかり読んで、せっかく購入しても使わぬ宝の持ち腐れになってしまうようなリスクを感じる。しかも読むためにデバイスをわざわざ取り出すなら、画面の大きいiPadの方が良い。

電子ペーパーは目に優しいという話もあるのだが、こればかりは実際に見て評価するしかない。少なくとも、現在店頭で見られる他社の電子書籍リーダーは、電子ペーパーを採用しているモデルでも、それほど見やすいようには感じられない。むしろRetinaディスプレイのiPhoneやiPadの方が読みやすさを感じる。

それって結局iPhone5かよ・・・などと思いながら、まぁそれならiPhone4でもそれほど変わらないので、しばらくは様子見だな、と考えたのだった。

次は何を読みますかね。

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2012年11月28日 (水)

協調を求める組織同調を求める組織

今日は近隣事業所への直行だったのだが、過去何回かの経験から起床を遅らすとリズムが崩れるため、いつも通りに家を出て近所のファミレスへ。こういう時に24時間営業のお店というのは助かる。朝から営業は早くても7時という所だろうか。

そんな話はさておき、なんだか動きの激しい政治の世界を見ながら、日本人というのは(こういうステレオタイプな見方は本来よろしくない)、

「協調を妥協と呼んで嫌い、同調を協調と呼んで尊ぶ」

傾向があるのかもなぁ・・・などと思ったりした。

何度かこのブログで書いているような気がするが、協調には「利害や立場が異なるもの同士が、目的のために協力し合う事」という意味がある。ポイントは「利害や立場が異なるもの同士」だ。

そうした協力には、当然自分の意見を譲らなければいけない場面も出てくる。大切なのは「利害が一致する所で協力し合う」ために「利害の一致しない部分は互いに譲る」という意思決定だろう。

これは一般的に譲る側にとって妥協と呼ばれている。

妥協というのは、協調をする上での重要な意思決定と考えれば、本来ポジティブな判断と考えても良いのだが、そうした要素である事が抜け落ちて、大概はネガティブなものとして受け止められているのではないか。

この「妥協する」という事が嫌いな場合、力の強い側が弱い側に、協調という名の「同調」を求めるという事態が起こりやすくなる。同調というのは、意見や態度に賛成し、同じ行動をとることだ。

協調は対立するもの同士でも可能だ。
だが、同調は対立する事は許されない。

第三極と呼ばれている勢力の激しい動きを眺めながら、これが「協調」に基づくものであれば良いのだが、一方が一方に「同調」を求めるようなものだったら、なんだかなぁ・・・と思ってしまったのだった。

大量離党騒ぎだって、それが組織内で「同調」を求められてのものだったのか、「協調」を嫌ってのものだったのかとか、気になったりするんだよねぇ。


余談だが、これは彼らを見つめるメディアや世間の目においても同じ事だ。政党という組織を、政治家が同調する組織体と捉えるか、協調する組織体と捉えるか、特に小選挙区の立候補者に関しては、そうした視点が重要な気がする。

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2012年11月27日 (火)

演奏会終了

昨日は休みをとっていたので1日遅れとなりましたが、日曜日の府中市民交響楽団第66回定期演奏会は無事終了しました。来場くださった皆さん、ありがとうございました。


・・・とはいえ、「無事」というのは「とても良かった」と同意ではないため、反省点は諸々ある。もっとも、アマチュアの演奏会で反省がなかったら、それは単なる自己満足演奏会だろう、とは思っているのだが。

演奏面で感じた課題は、「地力のトレーニング不足」と「音楽に対する受け身の姿勢」だろうか。特に今回はそうした要素を強く感じた。

両者は全く違うように見えて、実は表裏一体だ。「地力」というのは、自分の出したい音をいかに自在に出すかという事だが、その「出したい音」というのは、受け身の姿勢では生まれてこない。出したい音があって地力を身につけるのか、地力があって出したい音が発想できるのか、やや卵と鶏のような関係だが、今回の演奏会ではその部分の不足をやたらと痛感した。

地力はトレーニングの領域だから、やや環境的に止むを得ない状況もある。しかし、受け身というのは何とかしたい部分だ。特にこの場合問題になるのは、個々のパートや楽器として「こうしたい」というのと、オケ全体として「こうしたい」というのは微妙に違っていて、不足しているのは後者の要素だろうという点だ。

「チェロというパートあるいは楽器をこう弾きたい」という気持ちは、自分にも多少はある。だけどそれは「チェロとして」であって、「オケとして」ではない。オケ全体としてこう奏でたいという意思があって、だからチェロはこうという発想はない。もう少し厳密にいうと、「オケとしてこうしたい」というのを指揮者やコンマスから指示されれば、チェロはこうだと「受身的に」意思を持つ事はあっても、オケとしてこうだという発想には及んでいない。

それは指揮者やコンマスの役割だと考える事もできるだろう。でもそう考えて受け身になったら、弾く楽しみや奏でる楽しみは得られても、音楽を「創る」楽しみは得られない。それでも良いという考えもあるが、今回求められていたのは、少なくとも「創る」意思だったのは間違いない。


運営面で感じた課題は、ほとんどいつも通りという気がするが、段取りが悪いのか、先手が打てていないのか・・・多分一番不足しているのは「任せる覚悟」なんだろうなと思う。今回は自分で手を出さなかった事も多いのだが、結局それは「投げ出していた」だけで、「任せていた」とは言えなかったように感じるのだ。うまく言えないのだが、何かをお願いする際に、出すべきコミットをきちんと提示できていない気がしてならない。そのコミットが何かはともかく・・・。

今回は演奏会後練習が1回休みとなるので、少し落ち着いて考える時間がある。少し経てば年末年始も挟む。この辺りでもう少し自分の立ち位置と役割を確認した方が良いのかもしれない・・・いつも言っている事ではあるが。

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2012年11月22日 (木)

政権公約やマニュフェストを読む

以前、新日本有限責任監査法人の大久保和孝氏が、企業のCSR担当者向けに書いた(かどうかは定かではないのだが)文章の中に、社会の課題に対して敏感であれといった趣旨のことが書かれていたのが印象に残っている。

もちろんそのメッセージだけで強く印象に残ったわけではない。セットで主張されていたのが、そのために政党の公約やマニュフェストを読みなさいというものだったので、ああなるほどと思ったのだ。

それは政治的な主張を読めという話ではない。市民が関心を持つと考えられる社会の課題がまとめられており、最低限(担当者として)の知識として把握しておくべき内容であるという話だ。つまり、企業として何に取り組むべきかのヒントがあるという事になる。

言ってみれば、ISO26000で掲げられているような課題が、より具体的かつ社会に密着した形で挙げられているという事だろうか。それは確かにそうかもしれないと、民主党のマニュフェストを(確か)実際に検索して開いてみた事を覚えている。

ただ・・・見ただけだった(笑)。当時はそこまでエネルギーがなかったというか、そもそも読み方も分からなかったというか、何より読んだ後のアクションが想像できなかったという事があるのかもしれない。

自民党の政権公約が発表されたとの事で、そんな事を思い出した。

今回はしっかり読んでみるか・・・と思いつつ、とりあえずダウンロードしてみたのだが、何やらISO26000より難物そうだし、ざっと目を通したところ、読みやすいダイジェスト版ではなく、詳細版を読まないと課題は分かりそうにないし(ダイジェスト版には「~します」とあるだけで背景となった課題設定の説明がない)、いきなり気持ちが萎えていく自分が・・・。

ただ、政治的な視点を意識的に省いて読み込み、さらに各党のものを比較・集約すれば、確かに今の社会が抱える課題がなんであるのかを、主観ではなく客観的に捉える事ができそうな気がする。自分の考えやメディアの主張ではない「データ」としての課題集という事だ。

NPOやコンサルタントの方は、こんな事は当たり前にやっているんだろうなぁと思いつつ、企業の担当者としてもがんばらなければ・・・なんて事を考えたのだった。

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2012年11月21日 (水)

民意という鎧

月曜日の東京新聞の一面はこんな見出しの記事だった。

脱原発票無駄にするな 3.11後の混沌 民意受信する回路を

衆院選にむけて、脱原発の意思をどう国会に届けるか・・・という趣旨の記事なのだが、脱原発への動きはさておき、記事中気になったのが、見出しにもある「民意」という言葉だ。

民意ってなんだろうか。

「自分の」意思が、政治に反映されていない。それは自分自身も感じている事だ。たいして意思を伝える努力もしていないので、それはそれで仕方ないのだが、それを「民衆の意思が反映されていない」とは思わない。自分の意思は自分のもので、民衆のものではない。

記事には多くの「民意」が並んでいる。


民意を無視した大飯原発(福井県)再稼働も強行された。

だからこそ求められるのは、民意を吸い上げ、生かす政治だが、実際は正反対のことが繰り返されている。

だが、民意を受信する回路が壊れた政府は既に方向性を失い、さまよい続けている。

党内調整が抗争に変わるうちに、民意は追いやられ、政策決定に生かされない。

「脱原発政党のような巨大な固まり」をつくることで、政治の政策決定と民意の回路をつなぐ。


「民意」として自分の意見を代弁してくれてありがとう・・・とは少なくとも自分は思わない。別に原発だからというわけではなく、それは消費税でもTPPでも同じだ。「自分の意見」を政治に伝えるのと「民意」を政治に伝えるのは別物だ。

ようするに、自分は「民意」という言葉が気に入らない。

何故かというとその意思には責任が伴わないからだ。

社会は多様な意思や利害の集合体である。政治というのは、そうした意思や利害を調整する役割を持つ。つまり、あえて民意という言葉を使うのであれば、政治の結果こそが民意だろう。今の混沌とした政治の状態こそが民意の姿であって、それが自分の意思と違うことを「民意ではない」というのは、問題のすり替えではないか。

先の「民意」に関する引用の多くは、民意が正しく、政治(政府)に問題があるというニュアンスが漂っている。そう考えているうちは、おそらく変えることはできない。変わるのは(自分たちではなく)政治と思っているからだ。


大飯原発(福井県)再稼働を阻止するだけの声を伝えられなかった。

求められるのは、自分たちの意思をより強く結集し政府に伝えていくことだが、実際は正反対のこと(意思の分散)が起こりかねない状況にある。

伝える意思が分散すれば、政府はさらに方向性を失い、さまよい続けるだけだ。

分散する意思が党内調整を経て抗争に変わり、政策決定が揺れる。

「脱原発政党のような巨大な固まり」をつくることで、政治の政策決定に自分たちの意思を反映させる。


大切なのは、最後のような意識を持つことではないかと思う。それが政治活動というものだし、市民の「公的な権利と責任」として求められるべきものだ。

民意という言葉で自分たちの意思を着飾っているうちは、変えられなくても「変わらないのは誰か(政治)の問題」になるだけで、実際の問題の解決にはつながっていかないのだ。

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2012年11月20日 (火)

意思のあるディミヌエンド

日曜日の練習の録音を聞きながら、つくづく思う事がある。

意思のある強弱を表現するにはどうしたら良いのか。

特に音を弱くしていくディミヌエンドは録音で聞くととても悲惨だ。もちろん音源としての荒さ(そもそもiPodのボイスメモで録音してそれを圧縮変換している)に起因している可能性もあるのだが、それにしても意思が感じられない。何というか「息を潜めていく」ような気配が感じられない。

管楽器の方がそうしたニュアンスの付け方は上手い傾向がある。楽器の特性なのか、府中のメンバーが上手なのかは不明だが、小さくしていく、あるいは大きくしていくという意思が音に込められている感じがある。

弦楽器は・・・強弱がない訳ではなく、自然と「そうなってしまった」という感じで、意思が感じられない。その意思のなさは、おそらくつける強弱の不足からきているものだ。最弱と最強の幅が狭いため、落差が不足しており、そのために「何となく大きくなったり小さくなったり」という印象から脱しきれていない。

おそらくこれは気持ちの問題というよりも、技術の問題だろう。弦楽器は人数が多いため、全員が同じようにしなければ、どんなに一部の人間ががんばっても曖昧な表情になる、ということもある。そういった意味ではパートの全員が同じようにできる必要がある。

ではそのためにはどのようなトレーニングをすれば良いだろうか。パート練習でやるようなものではなく、個人で身につけるものだろうが、はっきりとそのためのトレーニングが必要な気はする。

かくいう自分もそういったトレーニングを受けた事はない。だから、どのように練習したら良いかが分からない。楽器を弾く際の身体感覚として、音の強さをどのように感じ取りコントロールするかといった事はあまり考えた事がなく、「何となく」でしか処理していないのだ。

意思のある強弱ができるかは、気持ちの問題というよりは、技術の問題だ。気持ちを表現できるだけの技術(テクニックというよりも「使い分けている」という感覚)があって成り立つものだろう。

そう考えると、まずは客観的な音量と自分の感覚を一致させるという作業が必要になる。こう弾いた時はこの音量という感覚がきちんとチューニングされてくれば、求められる音量に対してどう弾くかという事が高い精度で調整できるように・・・なるかもしれない。

音量計みたいなものでモニタリングしながら弾いてみたりすると良いのだろうか。録音を聞くのではなく、リアルタイムに分からないとトレーニングにはならないだろうとは思うんだよね。

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2012年11月19日 (月)

指揮者は指導者か

怒涛の土日(・・・というほどでもないか)が終了。金曜の夜の個人練習に始まり、土曜の午後にアンサンブル、日曜は午前午後とオーケストラ。流石にこれだけ連続して楽器を鳴らしていると、日曜の午後あたりには調子良く響くようになり、鳴りすぎだから抑えろと言われてしまった。

アンサンブルの練習は何とかのりきったが、次回までにはもっと高いレベルになっていなければならない。当面の課題は他のパートを把握して、自分がどう解釈するかを明確に(するのは無理でも多少なりともクリアに)する事だろうか。オケのように指揮者がいる訳ではなく、解釈も含めて自分たちで考えていくのが、アンサンブルの醍醐味でもある。

と、そんな事を考えながら、昨日のオケの練習を振り返って、ああうちのオケはそうした「自分たちで考えてアンサンブルを作っていく」という意識が欠けている人が多いのかもしれない、と思ってしまった。

昨日の午後は、指揮者のスケジュールが合わずに、コンマスの指導による合奏となったのだが、その指示を聞きながら、こんな事を感じたのだ。

「うちのオケが指揮者に求めているのはこれ(指導)で、一方指揮者がうちのオケに求めているのはこの先の領域(指揮)なのかもしれない」

指揮者によっては、両者を一体化させて行う人もいるのだが、今回の指揮者はおそらくそうではない。だからなんとなくかみ合わない感じがあるような気がするのだ。

指揮者と指導者は必ずしも一緒ではない。学生オケであれば一緒である事が多いだろうし、市民オケでも指揮者が固定であればそうした関係にある程度なってしまうだろう。指揮者が「オケの音楽」を統括する立場になるからだ。

だが府中は必ずしもそうではない。指揮者を固定していないのは、その演奏会において指揮はお願いするけれども、オケの音楽を一定の方向性を持って高めていく指導的立場は必ずしも求めないという事でもある。むしろオケの側にどう成長し音楽集団を作っていくかという意思があって、それに合致した指揮者をその都度選ぶというスタイルに近い。

スタイルはそうなのだが、実態はそうではないのだろう。集団としては受け身にも関わらず、指揮者の選び方などはその逆という状態なのかもしれない。

一方で面白いと思うのは、昨日の午後のコンマスの指導の中心は「自らでアンサンブルを作り、指揮者がそれをドライブする」というもので、それはまさに今回の指揮者が求めている事と合致しているだろうという事だ。その点では一致しているのに、実際にはかみ合っていない。それは
おそらく、多くの団員がアンサンブルは指揮者に「指導して作ってもらうもの」と思ってしまっているからではないか。

昨日のコンマスによる練習は、指揮ではなく指導だ。指導として「互いに聴きあえ」と指示されれば、それをこなすだけの技量が府中にはある。でもそれは「指示されたから」であって、そうした指導をするのが指揮者の役割と捉えてしまっている節はないだろうか。

そうした指導に応えるのが喜びだから、そういうスタイルの指示をされると喜んで応え最大限の能力を発揮する。一方、そこまでは自分たちでやってくださいと投げ出されると、どうしたら良いか分からないから戸惑う。そんな状態にあるような気がする。

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2012年11月16日 (金)

育児休業は甘えか

個人的に育児休業というのは、労働者の権利ではなく子どもの権利の一環で企業と親の義務、みたいな受け止め方をしていて、企業としては少子化という社会課題への貢献という側面もあると思っているのだが、そうした話はさておき、なんとなく釈然としない。

子育て社員甘やかさず「制度使う以上仕事で貢献を」:日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXBZO48367160T11C12A1WZ8000/

電子版は購読していないので、本紙で内容を確認(14日夕刊)したのだが、企業側の姿勢としては正論だとは思いつつ、何だろうかこの違和感は・・・記事の取り上げ方の問題なのか、斬り込み方がしっくりこないのか。

まず一つ気になるのは「甘やかす」「甘やかさない」という文脈でこの問題を捉えている事だ。制度の利用が「甘え」で、企業はそれを「働く側の権利で妨げられない」と容認・・・みたいな捉え方は本当に企業との従業員との関係としてあるべき姿なのだろうか。

別のブログで日本企業の家族的経営(家族経営ではない)について、このように書いた。

(少々うがった見方をすると、「家族的」を「家父長的な体制」に置き換えれば、子どもに位置する労働者の権利がどれだけ正当なものかにもやや疑問が生じます。家族的というのは、一見良いイメージで語られますが、子どもは親の絶対的支配下にあり、反論など許されない関係、という捉え方も出来るわけです。)

甘えという表現も、この「企業=親、従業員=子」という文脈が背景にあるような気がしてならない。対等と捉えていれば、少なくともこのような表現は出てこないはずだ。当事者がそのように捉えてしまっているのはともかく、それを記事として客観的に描く際にその表現を当たり前に使ってしまうのはどうなのだろうか。


二つ目は、そもそも問題の捉え方が違うのではないかという疑問だ。育児休業が企業や現場の負担となるのは、それが長期化するためだ。長期化するのは何故かといえば、働きながらの子育てが難しい環境と風土にある。枠記事で指摘されているが、男性の家事分担が当たり前の文化としてある米国や(何かでも実態はそうではないという話も読んだ気がするが)、メイドを雇うアジアと違い、日本では女性の家事負担が大きい。

いやもう少し別の捉え方をした方が良いかもしれない。育児期の家事分業率が低く、専任にならざるを得ない社会的・文化的背景があるとでも言えば良いだろうか。その専業負担が働く女性だけに押し付けられているという事だ。その部分を変えるようなアプローチや、変えないのであれば、別の対策が必要なのではないか。

例えば父親に必要なのは、一時的な育児「休業」よりも、時短勤務やフレックスによる日常的な家事・育児への参加のしやすさかもしれない。そうした対策なら男女問わず平等に運用できるし、そもそも「甘やかす」という発想にはならないだろう。

あるいは扶養手当をどーんとあげて専業負担を支援するというアプローチもあるかもしれない。もちろんその場合は、育児期間中だけでなく、途切れてしまう相方のキャリアも補填できるだけの手厚さがなければならない。逆に男性も含めて扶養手当なんて「甘やかし」をそもそもやめてしまうといった発想もあるかもしれない(これはでも脱線だな・・・。)


三つ目は、企業にとってこうした制度は、本来優秀な従業員を「手放さない」ためのものであるはずなのに、従業員が「ぶら下がる」ためのもののような受け止め方になっている事への疑問だ。そこに対する踏み込みがない事への疑問と言ってもいい。

実態は「キャリアが途切れてしまう」以上に「雇用が途切れてしまう」事の問題が大きいような気がするのだ。


余談だが、長期の休業の場合に「同じ職場に戻る」という条件は意味がないし、そこは互いに割り切る必要があると考えている。そもそも働き続けていたって、2年後3年後に同じ仕事をしているとは限らないのだ。長期の休業というのは、そもそもそれ自体が異動という捉え方で、企業も労働者も臨めば、もう少し違ってくる(残った人員で業務分担なんて問題が「異動」で発生する訳がない)のではないだろうか。

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2012年11月15日 (木)

居酒屋作業

昨日はいわゆる居酒屋でグラスを傾けながら、ブログを書いたり、楽譜に手を入れるといった作業にチャレンジしてみた。バーで読書、ではないが、意外にやろうと思えばできるものだなと感じる。もっとも「これでやっていけるのか?」みたいに閑散とした店内だったのだが・・・。

なるほど、平河町ライブラリーやbeezとは違った形で、こうした場で「仕事」をする事も可能なわけだ。飲むか飲まないかは店のチョイス次第だが、お酒が出る店の場合、時間についてとやかく言われる可能性はまずないし、逆に飲み食いだけだとものすごいペースになってしまうのを抑える効果もある。(実際昨日は梅酒を2杯だけで、これは自分としてはかなり少ない。)

もちろん、抑え目といってもそれなりの単価にはなるので、いつでも使えるわけではないが、選択肢として持っておく事は可能という事だろう。特に遅い時間用と考えると良いかもしれない。決まった店ならボトルとかを入れておくと使いやすかったりして・・・。

平河町ライブラリーやbeezの場合、どうしても食事は別に済ませる事になる。時間次第ではそれがもったいないというか、はしごのような形になるのが面倒だったりする。一緒にできるというのは、それはそれで楽だ。

後はやはりファミレスなどがターゲットになるだろうか。というか、本来はそちらの方が「食べながら何かをする」には良いかもしれない。

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2012年11月14日 (水)

のんびり・・・

今日は自宅近隣の事業所に直行のため朝はのんびり。

いつもと時間の組み立てが異なるので、ブログを書く時間をうまく確保できないのが悩みの種だろうか。

まぁいいんだけどさ。

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2012年11月13日 (火)

運営委員長の役割

運営委員長の役割というのはどういうものだろうかと考えてみる。
もちろん、考え方はそれぞれで、前任者とは違うだろうし、後継者(今後できたらだが)にかくあれというものでもない。が、自分としての考えはどうなのかは整理しておいたほうが良いのだろう。

・・・今更?という気もするが。

今の時点で自分が考えている運営委員長の役割は大きく3つある。

一つ目は言わずもがなだが、オケの運営に関する委員の行動に対して責任をとることだ。もっとも、各委員には委員の責任がもちろんあるので、最終的に、という事ではある。この責任は、委員間で意見が分かれたり、判断に迷いが生じた時などに判断をする責任というのも含まれる。

これは別に意識的に考えるまでもなく、立場上逃れられないものだろう。だから普段特にこれを気にして行動するということはない。委員に迷いがあれば相談があるし、委員長として白黒つけなければならないほど意見が割れることはめったにない(というか、原則話し合いの解決が基本だから、委員長として強権発動するような事はほぼない)。

二つ目は演奏委員会に物申すことだ。もちろん、個別の要望は各委員から行われるが、もう少し全体的な話で、例えば演奏委員会のあり方といったものに、運営側から注文をつけていくのは、運営委員長の役割だろう。このあたりは正直まだ十分に出来ていない。自身が演奏委員でもあるので、正直やりづらいという事情もある。

本当はもっと割り切りが必要なのだろう。とはいえ、個人的には演奏委員会にはもっと出来る事があると考えているが、それが「運営委員長として」の意見なのか、「演奏委員会の一員として」の意見なのかはやや微妙だ。演奏委員会は今のままで、運営委員会側でその機能を担うといった選択肢も無いわけではないので、なおのことどこまで物申すかについては迷いがある。

三つ目は(委員長の)仕事をなくし、(委員の)仕事を創ることだ。こうした団体では、ともすれば委員長が雑事を一手に引き受けるといった事態に陥りやすいが、そうした「やるべき事」を、委員長や誰かがなんとなくやることではなく、委員の役割の一つとして落とし込んでいくことが必要になる。

委員長がやることは委員長でなければできないことでなければ意味がない。練習時の連絡と、運営委員会の開催、総会の開催はとりあえず委員長でしかできないことになるだろう(厳密には総会は代表の役割かもしれないが、機能として代行するのであればそれは運営委員長の役割になる)。他の仕事は、各委員の仕事として、原則委員が判断して遂行できるような環境を整えるのが委員長の役割になるだろうか。

ただ、この三つ目は委員に仕事のやり方の変更を求める場合もあるので、結構進めるのが難しい。逆に言えば、難しいから、隙間仕事は運営委員長に降ってくるとも言える。そう考えると、そうした隙間を何とかするのが運営委員長の役割だと捉えることもでき、自分でやってしまうというのも解決策の一つとして選択できるのだ。

とはいえ、一応自分のスタンスとしては、各委員の役割として明文化していく、というのが委員長としてのミッションということになる。この領域もまだまだ取り組みは不足だ。とりあえず委員長としてやっていた事の多くは、役割として委員に振ることが出来たが、各委員の中に不可視作業としてある仕事をきちんと役割として落としこむ事については、あまり出来ていないのが現状だろう。

先の話ではあるが、それをしっかりやらなければ、委員の代替わりが難しくなる。大学オケのように代替わりをしなければいけないわけではないが、どこかでそういった事も仕掛けていかなければならない訳で、来年はそのあたりに力を入れる必要があるのかもなぁ・・・などとちょっと早いが考えたりしたのだった。

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2012年11月12日 (月)

他のパートを気にするという事

いよいよ本番が間近に迫ってきた府中のドヴォルザークだが、昨日の指揮者からの指摘は非常に示唆的だった。個人的に反省させられたといって良いだろう。

おおよその趣旨としてはこんな感じだろうか。

「曲に慣れて一人ひとり音は出せるようになってきたけれども、それぞれが自分勝手にやっているように聴こえるので、慣れた分だけ他のパートを気にするようにしましょう」

最後の「気にする」というのは、実際にはもう少し言葉を重ねていたのだが、ああ自分にはそれができていないなと顕著に実感する事がある。

それは練習後に(練習中でも良いが)に、「あのパートって○○だったよね」という意見がほとんど出てこない事だ。良かった事でも、悪かった事でも良いのだが、他のパートに対する感想や要望が出せない。他のパートを気にするよりもまず自分の音をしっかり出す、というのは聞こえは良いかもしれないが、単なる言い訳にすぎない。

他のパートを批判するといった事ではなく、一定の音楽的意思を持ってオーケストラの中で演奏していれば、他のパートがどう聞こえているかというのは、自ずと気になって良いはずだろうという事だ。それを言う言わないはまた別の話で、むやみと口にすれば良いと言う訳ではないだろうが、意見がないというのは、全然次元が違う。

自分の場合、練習を振り返った時にそれがない。もっと踏み込むと、自分の出していた音にすらそうした事があまりない。一体全体「音楽として」何をやっていたのか、という気分になる事も少なくない。

一方で、より刹那的というか、瞬間瞬間を大切にしているのかもしれないと考える事もある。気が回らない時もあるが、基本的に自分のスタンスが、「事前に」こう弾きたいとか、「事後に」こう弾きたかった、ではなく、「今」こう弾く、にあるのは確かだ。その際には当然、他のパートとの関係がどうありたいという事も含まれてくる。

ただその場合問題なのは、周囲の音が「聞こえた場合」のみアンサンブルが発生するという極めて受動的姿勢である事だろう。事前にスコアを読み、後から振り返るのは、その時は(たまたま)聞こえないような領域にも意識を広げて、アンサンブルに広がりと深みをもたせるための行為だとも言える。

多分それが自分には決定的に欠けているのだ。

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2012年11月 9日 (金)

セミナーの感想をシェアする会

オープンなセミナー(定義はいい加減だが要するに誰でも参加できるセミナー)に出席したとする。

もちろん目的を持って参加しているわけだから、それなりに気づきは得る。いやまぁ得られない場合も(特に無料などの場合は)ない訳ではないのだが、何ら刺激が得られないという事はあまりないだろう。

それを持ち帰り、レポートを書き、仕事に生かす・・・のも良いのだが、昨日ふとそこにもう一つプロセスを挟み込める事に気づいた。

それは、そのセミナーの他の参加者との意見交換の場を持つ事だ。それもできれば直後に。
なぜ直後かといえば、時間をおいたら印象が薄れるし、そもそもスケジュールの調整が難しくなるからだ。セミナー後の1時間と、後日の1時間では、鮮度も密度も違うだろう。

例えば懇親会のような形で、主催者がそうした場を設けている場合もある。それはそれで悪くないし、それを通じて得られる刺激も多い。一方であくまで懇親会なので、仕組みとして感想をシェアするようには構成されていない。登壇者や主催者と更なる情報交換が図れるメリットは大きいが、逆に居たら話しにくい事も(失礼)あるかもしれない。

そもそも主催者の呼びかけを待つ必要はないんじゃないか?

セミナーだけでなく、展示会のようなイベントもそうだ。会社のある人間が複数で行った場合に感想をシェアする事は当然あるが、社外の同じような関心を持つ人たちとの対話というのも、あればとても面白い気がする。

これまではそもそもそうした呼びかけは難しかった。だが、今はFacebookのようなSNSでつながっている人たちがいる。同じような興味を持ち、同じようにセミナーやイベントに出かけているかもしれない人たちだ。

そうした人たちに、事前に呼びかけておく。テーマと集合場所を決めておき、集まった人達だけでも、そうした情報交換が行えれば、セミナーや展示会で得られた知見をさらに広げる事ができるかもしれない。

もしかしたらとっくにそうした事は行われているのかもしれないが、何だかそういうのをしかけてみても面白いかなぁと思ったのだった。

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2012年11月 8日 (木)

日々のデバイスに何を使うか

iPad miniはまだ実機を見ていないので、手にとれば評価が変わる可能性もあるのだが、今のところ特に興味が湧いていない。iPhoneにしてもiPadにしても、自分の使い方はかなり限定的なので、機器を増やすほどの必要性を感じていないのだ。

理想を言えば、iPhoneだけで何でもこなせるのが良い。厳密に言えばiPadだけでこなせても良いのだが、携帯電話としての機能はiPadには求められないので、自然「常時携帯用」のデバイスとしてはiPhoneが筆頭になる。

実際、iPhone + キーボードでおおよその事はこなせる。iPadかMacbook Airのどちらかをあわせて持ち歩くことが多いので、使いやすさでiPhone以外のどちらかを使うことが多いが、スマートフォン + キーボードでブログを更新していた時期もあるのだから、できないことではないのだ。もちろん、iPhoneのみで運用しようとすれば、キーボードは必帯にはなるが、iPadでもキーボードを持ち歩くことが多い事を考えれば、別に難しいことではない。
(とはいえ、iPhone単独でなんでもこなそうとすると、他にバッテリーも必要にはなるだろう。)

それでも2台目ということになると、今度は外付けのキーボード無しでも運用可能というのが大きなポイントになってくる。ようはiPhoneだけではやや不便な領域をカバーする必要があるということで、iPadの画面サイズや、いざというときに外付けのキーボードを使わなくてもかなりの速度でキータイプができるというのがメリットになってくるのだ。

そんな訳で、iPad miniに関しては、興味はありつつも使用場面を想定できていない。iPad mini + キーボードだったら、iPhone + キーボードか、iPad単独の方が便利だと感じてしまうからだ。


・・・もっとも、こんなエントリーを書くということは、それなりに物欲を感じている証拠ではある。
本当に欲しくないなら、別にグダグダ不要な理由を書き並べる必要なんて無いのだ。

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2012年11月 7日 (水)

ISO26000を読んで話す会:環境

昨日はISO26000を読む勉強会の第2弾。中核主題の一つである環境をテーマにする。

第1回と同じように事前に簡単なメモを作成したのだが、消費者課題に比べると課題のカテゴリーが少ない割に、それぞれが抱えている要素が多く、階層化がしづらい。

1.汚染の予防
2.持続可能な資源の利用
3.気候変動の緩和及び気候変動への適応
4.環境保護、生物多様性、及び自然生息地の回復

課題としては上記の4つなのだが、それぞれにさらに細分化されていて、クリア(を目的とするものではないが)するためのハードルが多い。

もっとも一方で、新たに気づかされる要素というのはあまりない。組織の環境への取り組みについては、それだけ標準化され、ある程度浸透しているという事だろう。あえていえば、最後の生物多様性の領域については、まだ指標化がされておらず、取り組む内容や目指すべき方向が分かりにくいという問題があるだろうか。

また、この主題においても「持続可能な消費の推進」や「教育・啓発」といった要素が出てくるのは興味深い。

前回の消費者課題でも感じた事だが、ISO26000には消費者を「主体性を持った意思決定集団」とは捉えていない印象がある。だから、組織の責任として消費者に働きかけ、変えていく責任があるといったニュアンスになっている。

この捉え方はシンプルなようで結構なパラダイムシフトを強いる。個人的な解釈ではあるが、一番のインパクトは「消費者の意思を代弁する」組織という位置づけはありえないというものだろうか。組織として意思を持って消費者に働きかけるという機能と役割はあっても、消費者の意思を代弁する機能はないという事だ。何しろ代弁すべき意思は(集団としての)消費者にはないというスタンスなのだから。

ただ、ここで重要なのは「個々の」消費者にはもちろんそれぞれに意思があるという事だ。だからそうした一人ひとりの意思を代弁するという機能はありうる。だが、それはきちんと顔の見える個人の意思を代弁する機能であり、大切なのは、消費者「全体の」意思などはなく、その代弁などできないという認識だろう。

環境も同様で、総体的に「環境」などとは言わず、個々の小さな課題にフォーカスしていく事が重要なのかもしれない。

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2012年11月 6日 (火)

コミュニティの定義

コミュニティの構築において重要な認識というのはどういうものだろうか。

コミュニティ
人々が共同体意識を持って共同生活を営む一定の地域、およびその人々の集団。地域社会。共同体。(大辞林)

社会学的には「共同社会」「利益社会」的な捉え方で比較をすると分かりやすいかもしれない。

共同社会(Gemeinschaft)
ドイツの社会学者テニエスが唱えた社会類型の一つ。血縁に基づく家族、地縁に基づく村落、友情に基づく都市などのように、人間に本来備わる本質意思によって結合した有機的統一体としての社会。ゲマインシャフト。共同体。協同体。(大辞林)

利益社会(Gesellschaft)
ドイツの社会学者テニエスが唱えた社会類型の一つ。人間がある目的達成のために作為的に形成した集団。基本的に合理的・機械的な性格をもち、近代の株式会社をその典型とする。近代社会は共同社会に対してこの利益社会が優越的であるところから、近代社会の性格を示す言葉としても使われる。ゲゼルシャフト。(大辞林)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト・・・懐かしい(笑)

なぜこんな事を考えたかというと、ソーシャルビジネス・プランナーの竹井善昭氏がダイヤモンドオンラインでこのような事を書いていたからだ。

「みんなの夢アワード3」でも明らかになったエコ・ブームの終焉。
環境問題から社会問題へシフトした若者たちの関心

http://diamond.jp/articles/-/27416

2ページ目に「コミュニティ構築で問題解決をめざす人が増加」とある。

「マイケル・サンデルも指摘するように、いまの世界で起こっているさまざまな社会問題の底流にはコミュニティの崩壊という問題がある」

これもそうなのかもしれない。というか、実感としても確かにそのような気もする。

では、社会課題の解決を目的として構築されるコミュニティとは、ゲマインシャフトだろうか、それともゲゼルシャフトだろうか。

あえていうならハイブリッド型というか、「ある目的達成のために作為的に形成」されながら「合理的・機械的な性格」ではなく「人間に本来備わる本質意思によって結合」された集団という定義になるのだろうか。

コミュニティというのは「何となく認識を共有している気になれる」便利な言葉だ。その実、あまり明確な定義というのがない。もともとが自然発生的に形成された多様な集団形態に対して、大雑把にそれを指す言葉として定義されているのだから仕方ないといえば仕方がない。

だからこそ、それを構築あるいは再生しようという場合には、より細分化し絞り込む必要がある。なぜならそれは「作為的に形成」される新しい集団形態だからだ。

みんなの夢アワード3にエントリーされた個別の夢についてはチェックしきれていないのだが、竹井氏の指摘する「コンセプトが不明確」というのは、そうした点にも起因するのではないかという気がする。


そういえば昔「コミュニティ」というキーワードをよく使っていたな~と思いながら、改めて振り返るとそこで実現したかった「コミュニティ」ってなんだったんだろうな・・・という話。

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2012年11月 5日 (月)

目の前の演奏会

府中の練習もいよいよ佳境。昨日は分奏だったのだが、個人練でも、パート練でも、分奏でも、「なんとなく分かった」ように感じられるのに、合奏ではまた別の世界になってしまうのが、今回の、特に7番の難しさだろうか。そういった意味では、合奏の時に今回の分奏の成果がどのように現れるかはまだ未知数なのだ。

だからという訳でもないが、今回はここしばらく作っていなかったパート向けの注意事項をまとめたメモを作成中。本当は毎回作成した方が良いし、もっと早く配布しなければならないのだが、なかなかメモとして整理する時間が確保できない。このあたりのパートのフォローは反省点が多い。

他のパートでは、毎練習後に注意事項を配信しているパートリーダーもいれば、全プルトのパート譜への書き込みを自身で行なっているパートリーダーもいる。そこまでの徹底はできなくても(そもそも自分が弾くので精一杯で楽譜への書き込みも相方任せだったりする)、最終的に注意を喚起するぐらいのことはしたいものだ。

少なくとも、来週予定しているパート練習では、そうした注意点の最終確認ぐらいはしたい。

もう一つ、これは来春に向けての課題になるだろうが、楽譜への書き込みを統一したいというのがある。ある指示に対する楽譜への書き込みを、全プルトで統一するというものだ。もちろん個別の書き込みがあっても良いのだが、少なくともパート全体で意思統一したい内容については、表記も揃えておきたい。
(例えばそれを全部パートリーダーでやってしまうのが、先述した全プルトのパート譜への書き込みなのだが、そこまではちょっと難しいので、せめて要所をおさえるようにしたいのだ。)

一方で昨日はホールとの打ち合わせやアンケートの印刷といった作業もあった。
本当はこのあたりの立ち上がりも早くしたいところだ。実施要綱などは今回も結構ギリギリになっている。今は自分で作成している訳ではないので、なおのことそれを前倒しで仕掛けていく工夫が必要になる(自分で作るのは単なる力技で済むが、他の人にお願いするのはそうもいかない)。

さらに定期演奏会ではない次の演奏会の事とか、定期は定期でも2年先の事とか、先倒し先倒しで考え、仕掛けていかなかればならないことはいくらでもある。会社に中期計画があるように、本当はオケにだってそうした計画が必要なのだ。府中の場合、なまじ毎週定期的に練習をしているせいもあって、そのあたりがややおろそかな感じがある、ほっといても回っていく安定感と安心感はあるが、気づけば運営委員長になって3年たっても、3年前と同じ事を繰り返しているだけのような感じがある。

そのあたり、メンバーに火をつけて変えていく方法というのはあるのだろうか。変えない方が良い場合もある訳で、方向性も含めてそのあたりはとても難しい。

とりあえずは目の前の演奏会・・・って、そこに落ち着くからいつまでも同じなんだよなぁ。

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2012年11月 2日 (金)

情報開示を評価する姿勢

申し訳ないがちょっと笑ってしまった。

2012年10月29日 奈良線 六地蔵駅の営業開始が遅延した事象について
http://www.westjr.co.jp/press/article/2012/10/page_2761.html

JR西日本のプレスリリースが話題になっていたのだが、ようは駅員が二度寝をしたために営業開始が遅れてしまいましたという内容のお詫びである。何というか、二度寝という表現が微笑ましい。

とはいえ、もちろん実際にこのトラブルに遭遇した人は笑ってはいられないだろう。いや笑ったかもしれないが、それでも怒って良いし、この説明に不服であればさらに問い詰めたって良い。当事者にはその権利がある。

だが、自分のような第三者にはこの説明をとやかく非難する権利はない。むしろ、そんな事はしない方が良い。無関係な第三者から批判が寄せられるようであれば、こうした情報開示はしない方が良いという結論に至りやすいからだ。それをけしからんというのは簡単だが、それはけしからんという人が満足するだけで、何ら社会に良い状況はもたらさない。

そもそも、このお詫びだけであれば、利用客に分かるように駅に掲示すれば十分という判断もできたはずなのだ。始発電車をたまたまその日だけ使ったという人がそうそういる訳がないし、それ以前に当事者にはすでにその場でお詫びをしているのが普通で、決着しているとさえ言える案件だからだ。

起こしてしまった問題に対する批判と、情報開示に関する反応は切り分けて考えた方が良い。「褒めて伸ばす」」ではないが、むしろこうした開示の姿勢は積極的に評価してこそ、なるべく開示をしていこうと考える事につながるだろう。

一番最悪なのは「リリースでこんな話を目にしたがけしからん」とか直接クレームをいれたりする行為になるだろうか。なんだかありそうで怖いのだが、頼むから義憤という個人的自己満足のためにそうした行為に走る事だけはやめて欲しいものだ。


ちなみに他のリリースを読むと「ご報告」というカテゴリーがこうしたトラブルに類する情報開示のようだ。今回のようにやや笑えるものだけではもちろんなく、オーバーランのような情報も報告されている。

起こした問題に対する批判はもちろん大切だ。だが、それは基本的に実際にトラブルにあった人に任せ、その情報を知っただけの第三者は、少なくとも黙って見守るか、むしろ開示された事を積極的に評価するぐらいの姿勢でいた方が良い。

直接関係ない第三者からの批判ほど、情報開示の意欲を萎えさせるものはないのだ。

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2012年11月 1日 (木)

積み上げ型タスク管理

昨日は休みをとったということで、ほぼ1日平河町ライブラリーで過ごす。主にオケ周りの事務処理などを諸々済ませたりしたのだが・・・

・・・何だか「やった感」がない。むしろ感覚としては「1日何やってたんだ?」「何もしてない?」という感じだろうか。

少し思い出してみる。

・ブログを書く
・本「世界を変える偉大なNPOの条件」を(1章だけ)読む
・オケ絡みの書類を整理する
・オケの会報の原稿を書く
・一昨日のセミナーのレポートを書く←仕事するな
・セミナーで知り合った人をFacebookで探して友達申請する
・定期演奏会の実施要綱の内容をチェックする
・本を読む(タイトル忘れた)←忘れるな
・業務の棚卸し表を確認する←仕事するな
・チェロパートの注意事項をまとめる(途中までだった・・・)

・・・まったく何もやっていないという事はなさそうだ。だが何だろうか、この「やった感」のなさは。特に昨日は、この後府中に寄って練習をして帰ったのだが、その帰り道で「ああ今日もダラダラ何もせずに過ごしてしまった。練習はしたけどね・・・」とか考えていたような気がする。何というか、達成感のようなものを感じていないのだ(達成していないけどね)。

そうやって考えると、自分の場合「やった事」が時間として記録されている事が達成感につながるのかもしれない。一時期、緊急的にGoogleカレンダーにタスクを予定として登録していたのだが、確かにあの時は、1日が終わると自分なりにやった感が漂っていた。

ちなみに昨日のGoogleカレンダーは、練習の予定以外は空っぽである。

あまり関心を払ってこなかったのだが、そう考えると自分のモチベーションは、予定を埋めておいた上で、終わった時にそれがやった事として残るようなタスク管理をした場合に高まる傾向がある可能性が高い。そしてそうだとすると、例えば今使っているToodledoのようなタスク管理ではイマイチ気分が盛り上がらない理由も浮かび上がってくる。

Toodledoに限らず、一般的なタスクリストは「消す」事で成り立っている。ずらっと並んだ「やる事」を一つひとつクリアし、それがなくなっていく事に達成感を感じる人たちに最適化されたやり方とも言えるだろう。

これはつまり自分の場合逆効果という事になる。「なくなっていく」事ではなく「積み上がっていく」事に達成感を感じる傾向があるという事だからだ。
(そういえば何となくズルズルとリスト上に残っているタスクが・・・。)

・・・これは盲点だったかもしれない・・・今更ながら。

そう考えると、タスク管理のやり方をガラリと変えた方が良いのかもしれない。
以前Googleカレンダーを一時的に使った時には、短期的には良いが、目先のやる事にとらわれて長期的なタスクが抜け落ちがちになるという反省を書いた。これをクリアする仕組みを何か考えた上で、スケジューラ上でタスクを管理し、それが時間枠と共に記録として残っていくやり方を考えた方が良さそうな気がする。

という訳で、今日の夜は平河町ライブラリーに行ってその辺りを考える事にしよう。そしてそれをきちんと予定タスクとしてGoogleカレンダーに書いておこう。

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