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2012年12月13日 (木)

CSRの「広さ」が生み出す陥穽

昨日はナレッジマネジメント学会の部会があった。ナレッジマネジメントとの付き合いはCSRよりずっと長いのだが、そろそろこうした会とのお付き合いも潮時かなと思いつつ、いまいち盛り上がりにかけた感のあったナレッジマネジメントについて考察してみた。


さて、今日はナレッジマネジメント学会について「なぜ衰退してしまったのか」について、酔っ払ってくだを巻いてしまったのだが、それなりに理屈は通っているのではないかとも思うので、可能な範囲で論じてみる。いや衰退したなんて言って申し訳ありません。
送信 12月12日 23:19 From HootSuite

ナレッジマネジメントは、元々野中先生が「製造現場における」智の創出について考察を行った事に端を発している。この時点で「ナレッジマネジメント」とは言葉のイメージとは裏腹に極めて狭い領域の話だったと考えて良い。
送信 12月12日 23:23 From HootSuite

もちろん理論としての普遍性を持たせる上では、それを幅広く捉えていく事も必要だったかもしれない。しかし結果としてそのアプローチは研究領域の分散を招いてしまった気がする。
送信 12月12日 23:25 From HootSuite

そもそも「研究」というのはあるテーマについて「狭く深く」突き詰めていくものだろう。その結果行きつけばそこを起点に広げていく事も可能かもしれないが、少なくとも研究の段階で広げるというのは、テーマの焦点がぼやけるリスクの方が高い。
送信 12月12日 23:27 From HootSuite

ナレッジマネジメントは、そのイメージの幅の広さの故に、その陥穽に陥ってしまったのではないかという気がする。あらゆる解釈が可能な故に、領域が拡散し、研究としての狭さと深さを獲得する事ができなかったのだ。
送信 12月12日 23:29 From HootSuite

むしろそこを踏みとどまって「製造現場の智」の領域で研究を深めるという選択肢もあったはずだ。野中先生の理論といえども完成されたものではないし、その領域だけでも深く深く掘り下げる事は可能だったに違いない。
送信 12月12日 23:32 From HootSuite

だが、ナレッジマネジメント「学会」は少なくともそうした選択をしなかった。それは一時的には関心を広める事につながったが、代わりに必要な深みを得る機会を失ってしまった可能性がある。
送信 12月12日 23:34 From HootSuite

ナレッジマネジメントとは何か。言葉のイメージはともかく、それを学会としてどれだけ明確に深く定義し、世の中に対して周知を図っているだろうか。
送信 12月12日 23:37 From HootSuite

そしてそんな事を考えると、同じようにアルファベットを重ねた概念である「CSR」を取り巻く現状が心配になってしまうのだ。
送信 12月12日 23:39 From HootSuite

広さは確かに必要かもしれない。しかしそれは本来深さに付随して語られるべきもので、それを飛び越して追求するものなのだろうか・・・そんな憂いを(上から目線だが)、今の「CSR」取り巻く現状に感じてしまうのは自分だけだろうか。
送信 12月12日 23:42 From HootSuite

というわけで到着いたしました。おやすみなさい。
送信 12月12日 23:43 From HootSuite


少し補足しておくと、ナレッジマネジメントの試みが失敗したとは思っていない。自社も含めてそこから導かれた取り組みは一定の成功を納めているものもある。ただ、それはあくまでも実学的な「取り組み」の話であって、研究としての「理論」の話ではない。
(実際、自社の取り組みはすでに「ナレッジマネジメント」という概念からは離れた所で運用されている。)

CSRは実践だから・・・というのは、一つの考え方だろう。実際、先進的な企業というのはむしろそうした考えに基づいて、理論としてのCSR、言葉としてのCSRから離れつつあるようにも感じる。そもそも企業の経営にとって「CSR」は目的ではなく手段にすぎない。

だが一方で、研究・理論としてのCSRが、どこまでそうした企業の動きに追随していっているのか、という気もする。実学は実学として、それをカバーできてこその理論だろう。そしてそうした実学の「幅」に対応しうるのは、逆説的だが「広さ」ではなく「深さ」ではないのか。

CSRが単なる経営手法であれば(単なるは言い過ぎ)広ければそれで構わないかもしれない。だが、経営哲学や、経営を超えた社会科学の領域に踏み込もうというのであれば、そこには相当な深さが必要になってくる。「深イイ話」のような気持ち的な深さではなく、理論としての深さだ。

それは必然性のようなものかもしれない。CSRの必然性は、どれだけ深く論じられているだろうか。その考えを揺るがしかねない不要論(それはより深みに到達するためにどうしても必要なものだ)はあるだろうか。そうした「理論を鍛える議論」は行われているだろうか。「必要だよね」という「感覚」で終えてしまっていないだろうか。和製漢語のような、その概念を示す新たな言葉を生み出せるほどの深い考察はなされているのだろうか。

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