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2012年12月28日 (金)

2012年の振り返り・・・?

昨日は寝坊をした・・・というのはどうでも良いことだが、そんな訳で今日は仕事納めのため、年内最後のブログの更新になるだろうか。投稿するためのツールは休日でも大体持ち歩いているため、更新しようと思えばできるのだが、なかなか休日はそういう気分にならないのだ。

会社のブログもそうだが、自分の場合何か「決まった時間」というスイッチが必要なのだろう。時間がくれば無理やりにでも書けるかわりに、時間がこなければ書きたいことも書けないような所がある。なんだか時間割で生きているようだが、日々のタスク管理もそうやって時間割を決めると(もちrん日替わりで良い)意外とスムーズにこなせたりする。


さて、今年最後ということで振り返る・・・といっても、年末に大事件を引き起こした去年と違って、今年はそれほど出来事が印象に残っていない。とはいえ、それは去年の方が特別であって、大体毎年こんな感じなのだ。ようするに「同じように過ごしている」という事だ。

その辺りを何とかしたい(いや去年のような事件はこりごりだが)という気持ちは持ちつつも、実際にはそうそう変わるものではない。人は「意を新たにする」ぐらいで変わるものではないからだ。少々宣言したぐらいで変わりっこないのは、図らずもこのブログで散々検証してきてしまっている。

過去10年ぐらい(もっとか)で、自分が最も変わり得たのは、このブログを書くようになったことだろう(前身となるブログも含めて)。日記には小学生の頃から時々チャレンジしているが、まともにモノになった事はない。この「ブログを書く」習慣だけは、ある意味「変わりえた」事な訳だが、それ以外については、まぁほとんど変われていないと言って良いだろう。

ま、ではそれがダメかって言えば、別にそれはそれでも良いじゃないかという気もする。そもそもブログを書くようになったのだって、そうなろうと(変わろうと)思ってのことではない。振り返ってみたらそうだったかなというだけの話で、それ以上でもそれ以下でもない。

そんな訳で、来年も「変わろう変わろう」と宣言だけはしつつ、その宣言のようにはいかないゆるゆるとした更新をしていくのだろうと身も蓋もない総括をして、今年のエントリーを終えることにする。(まだ日は残っているので気が向いたら書くけど。)

良い年を迎えられますように。

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2012年12月26日 (水)

年末年始のスキー

自分にしては珍しいことだが、年末年始の予定を決めた。

今年はスキーに行く。いや毎年大体行くのだが、ほとんどは前日に決めての日帰りだったのを泊まりにする。福島で4泊3日。宿泊よりも滑走日数が少ないのは、前後は移動日にする前提で組み立てたからだ。日帰りなら仕方ないが、泊まる場合は滑り出しや撤収は余裕があった方が良い。

30日に出発してその日は宿泊のみ。31日〜2日の3日間を滑って、もう1泊して3日に帰るというスケジュール。こういう宿泊スケジュールの場合、大抵30日は早朝出て滑り、3日も滑ってから帰るという強行スケジュールを組みがちだが、多分今の自分に5日間フルに滑るパワーはない。というか、経験上3日でもかなり怪しく、途中でダレる可能性がある。

それ以前に、30日に早朝出るというのがそもそも不可能だったりする。前日29日はオレイユのアンサンブル大会で、しかも準備の余裕はない。30日に実家に戻って道具を整え、そのまま向かうという感じになるから、距離を考えてもその日は移動だけと割り切った方が楽だ。

帰りも、翌日4日は出勤日なので、夕方まで滑ってから帰るなんて無茶すぎる。だったら2日は泊まらずに帰れば良いという発想もあるが、朝チェックアウトして滑ってスキー場から直接帰るというのは、実は結構しんどかったりする。雪でも降っていた日には目も当てられない。そんな強行軍は日帰りだけでたくさんだ。

そもそも、福島に行くというのは、少しでもお金を落とせればという発想もある。誰にでもそうしろという事は言えないが、自分にできるのであればそうした方が良いだろうとは考えている。まぁ距離もあるので移動だけにしておいた方が無難というのは確かで、自分にとってもお金をかけるだけのメリットはあるのだ。

もっとも一番大きな原因は中央道方面が笹子トンネルの事故で使いにくいという事は言えるだろう。いつもなら31日と2日あたりに日帰り、というスキーを組んだりするのだが、その日帰りがかなり厳しい感じがする。今シーズンのスキーは、その辺りのコースのチョイスが例年とは違ってきそうだ。

そんな訳で宿の予約まではしたのだが、昨日の時点前後の天気予報は・・・雨。いや雪になれとも言えないんだけどさ・・・。

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2012年12月25日 (火)

音楽に対するイメージ

このところ朝のプロントで店員さんにずっと話しかけているおじいさんがいて、相手をする店員さんも大変だな〜と思っていたのだが、考えてみたらそういうのを大変に感じる(自分のような)人間は最初からそうした仕事を選ぶことはないもので、案外店員さんもそれが楽しいと感じる人たちなのかもしれない。

そんな話はさておき、年内最後の練習が終了。楽器を弾くのは残すところ今週末のオレイユのアンサンブル大会のみとなった。それを過ぎたら多分年明けの府中の練習まで楽器には触らないだろう。この季節はその時間をスキーにあてたい季節ではある。(もっとも年末の予定はまだ立てていないが。)

土曜はオレイユのアンサンブル、日曜は府中の悲愴の練習だったのだが、つくづく感じるのは自分の音楽イメージのなさだ。目の前の曲に対して「こうだろう」「こうしたい」という解釈がない。いやもしかしたら何となくはあるのかもしれないが、それを他人に説明できるまで昇華させることができない。それはつまり自分の表現にも反映させきれないという事でもある。

例えば府中の練習を指導してくれたコンサートマスターはその辺りが明確に違う。楽想の変化、楽譜の指示に対して、音楽をこうしたいというイメージがあって、それを伝える事ができる。オレイユのアンサンブルのメンバーも、そうしたイメージがあり、各人毎のその違いを互いに嗅ぎ取る事ができる。

それが自分にはない。うまく弾きたいとか、言われたことをなるほどと感じてその通りに弾けるようになりたいとは思うが、それ以前のそもそも自分が固有に持つイメージというのがない。

それはある種の才能なのかもしれない。もちろん表現方法はトレーニングである程度何とかなるのだろうが、もっと根本的な部分で、音楽に対して能動的か受動的かというのは、大きな違いがあるような気がする。あるいは受けた教育によって引き出されたかどうかというのもあるだろう。

そして受動的であっても音楽はできる。別に聴くオンリーである必要はないからだ。
ただ思うに、そうした受動的な人間というのは、そうした能動的な指示がないと不安なため、特に指揮者やリーダーにそれを求める傾向があり、そうした指示を出さない指揮者に対しては、酷評をくだしたりするのではないか・・・なんて事を感じたりした。

まぁ指揮者の役割はそもそもそういうものだという事もできるだろう。ただ、本来音楽は一人ひとりがそれぞれのイメージを持ち寄って成り立つものだと考えれば、「自分は言われるままに演奏します」という姿勢や、「我々がどう演奏すればよいかを指示しない指揮者はおかしい」といった反応は、なんというか滑稽なものでしかない。

足りないのは、相手の指示ではなく、自分の意思だという自覚がないという事だからだ。

おそらく音楽に対して本当の意味で能動的な人間というのは決して多くない。
だから受動的であることを恥じる必要はないし、受動的な人も含めて音楽を成り立たせようとするのは決して間違いではない。

でも受動的な人間が、自分が受動的である事を自覚せずに、相手が能動的でないという批判をさも「自分が能動的である」という自己満足のために行うのは、何というか、何だかなぁという感じはする。

真に能動的な人間というのは、分からなければ「こうイメージしているのでこうする」と自分で決めてしまうものだ。一方真に受動的な人間というのは、「こうしろということだろうか」と常に考え、模索するだろう。

「分からない」「分かるようにするべき」というのは、どちらでもない中途半端な反応にすぎない気がしてならない。

・・・もちろん人間として中途半端というのではなく、音楽として中途半端という話。

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2012年12月21日 (金)

予算編成を考える

こういうささくれだった精神状態で何かを考えるのはあまり良くないことなのだが・・・。

来年の予算について、今年やってしまったような資金繰りのショートを起こさないためにはどのように組んでおけば良いかを考えておかなければならない。

年間の予算上足りていなかったわけではない。細かい精査は必要だが、ショートを起こしてしまった原因はおそらくこうだ。

予算上、上期の収入想定は繰越金+団費+チケット収入となっている。今年の場合はこれが約500万円。一方支出は2回のコンサートで約320万円。これだけを比較するなら、多少の増減はあっても十分足りていたはずだ。

問題は、チケット収入は入金がギリギリもしくは演奏会後になるという点だ。そしてこれが抜け落ちると、資金繰りとしてはほとんどギリギリになってしまう。多くの場合支出が多めに推移するため、タイミング的にキャッシュが底をつくリスクが高くなる。

チケット代の入金を早くすれば良い話かもしれないが、それでは綱渡りであることにかわりはない。ようするに理想は上期の収入を繰越金+団費と想定して、その枠内で余裕のある予算を組むことだろう。

そしてそのように考えると、下期は上期のチケット収入+団費で運営する事になる。今年の場合は、下期の支出想定は約200万円だったので、これはそこそこ余裕があったはずだ。ただし、そこでどれだけ繰越金を残せるかで、来年の春の演奏会の予算が決まってくるという考え方で使わなければならない。

今年の予算は、年間の大雑把な想定ではなく、演奏会単位で積み上げるやり方をとったのだが、正直ショートするリスクには気付いていなかった。結局は年間で帳尻があっている事に安心していたのだろう。もっともチケット代の扱いについて当初の想定のままであれば、演奏会単位で把握していても危なかった訳で、入金されるタイミングとそれが使われる期はどちらかという事をおさえておかなければならないということだ。


もう一つ、固定費的に先行発生する練習会場費についても、考え方を整理しておかなければならない。今年は演奏会ごとの収支にこだわった予算編成をしようとしたので、その部分のキャッシュの流れが見えにくくなっている。前期に支払い済みの金額を仮想的に演奏会の支出として算定してしまっているので、本当に上期分として必要な額が分かりにくいのだ。

こちらはおそらく今期に発生する分と、来期以降の分を別にした方が分かりやすいように感じている。ただしその場合、上期下期で必要な額を分けて考えておかないと、今年と同じようなショートのリスクを背負うことになる。一覧にした時にどのように表記すれば分かりやすいかは、実際に作ってみないと分からない。

そして予算編成上のもう一つのネックは、演奏会毎の変動が大きい謝礼や楽器レンタル関係だ。これはその演奏会のプログラムに影響されるため、実はあまり過去の実績が参考にならない。来期分の固定費にしても、謝礼やレンタルにしても、どれだけ使うかという想定から計算が可能なので、それをいかに精度高くやるかの問題だからだ。むしろ過去の実績を参考にする方が曖昧になる可能性が高い。


もちろん、今年の会計がどうだったかの総括は必要だ。特に今年は危なかっただけに、反省が必要だろう。だが、それと来期の予算は全く関係ないように感じているのだが、今年の実績が参考になる要素ってどこにあるのだろう。前年実績に基づいた想定ほど、リスクが高く、意思のない予算はなく、むしろ参考にしない方が精度が高まるように思えてならない。

ま、ちょっとその辺りをベースに考えていってみよう。うう、明日は練習ができそうにないなぁ・・・。

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2012年12月20日 (木)

反対は意思決定ではない

なるほど・・・と思ってしまった。

「未来の党」の自滅 問われるべき脱原発政党の中身: 農と島のありんくりん
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-9.html

原発云々の話はさておき、特にああと思ってしまったのはこの下り。

つまりは「未来の党」は、原発反対・消費税反対・TPP反対と「反対」ばかりをつなぎ合わせた無責任な党でしかなかったのです。

「未来の党」がどうという事でもない。ここで考えなければいけないのは「何かに反対するというのは意思決定とは呼べない」のではないかという事だ。「〜しない」というのは、ようするに問題の先送りであって、何かを決めたということではない。

「脱原発をする」と表現するといった言葉遊びのような話ではない。いや、ここで問題にしたいのは、原発云々の話ではなく、もっと普遍的な話ではあるが、何かを「しないことを決める」というのは、実は決めたと呼ぶには値しないのかもしれないという事を示唆しているようにも思える。

反対の気持ちを持つことと、それを意思決定として実現する事との間には大きな開きがある。そうした気持ちを持つなということではなく、ではその反対を実現させるためには「反対」というロジックで臨んではダメだという事なのだ。

やろうとすることの問題点を次々探して追求するのは比較的簡単である。
そうした問題点を一つひとつ潰して実現可能性を高めるのはずっと難しい。
だが、物事は後者でなければ進んでいかないだろう。

「原発反対・消費税反対・TPP反対」は、それぞれの問題を指摘すれば成り立つ。
例えばこれを「再生可能エネルギー推進・所得税増税・保護貿易推進」と置き換えていたら、その実現にあたっては多くの問題や反対が立ち塞がるだろう。

逆にいえば、反対意見が次々と発生してくるようなものこそ「意思決定」と呼べるのかもしれない。

自分がしようとしている事が単なる「反対」なのか、それとも何かの「意思決定」なのか・・・肝に命じておかなければいけないなと感じたのだった。

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2012年12月19日 (水)

上部消化管内視鏡検査

今日は休みをとって人間ドック。今回は胃カメラ(正式には「上部消化管内視鏡検査」というらしい)に挑戦(?)してみた。

経口か経鼻かを事前に聞かれ、嘔吐反応が不安だったので経鼻を選択。短所としては検査時間が少々長くなる事があるとのこと。まぁ初めてなのでそんなのは比較しようがない。

鼻に麻酔をして、棒のようなものを奥まで挿してしばし待機。麻酔と同時に鼻の穴(の奥)を広げる目的もあるらしい。会話も可能で、唾を飲み込んだりすると喉の奥に棒がある気配を感じて、ああやっぱり奥で繋がっているんだなということを実感する。

カメラは・・・おっとその棒よりも随分太いじゃないか。

左の鼻の穴からぐいっと差し込んでくる。先端に鼻水がついてしまったのか、一旦抜いて先端を拭い、改めてこうぐいっと・・・といってもよっこいしょといった感じではなく、鼻毛をかき分けながら(汚いイメージですみません)意外とスムーズに入っていく様子がカメラで見える。(経鼻の場合は会話もできる。)

経口ほど鮮明ではないような説明だったのだが、初めて見る体の内部は思った以上に鮮明で生々しい。先生は今このあたりと説明してくれるのだが、こちとら初めての体験でどちらかというと喉の奥を通る異物感に耐えるのが精一杯。唾を飲み込んではいけないと説明されたのだが、ついついゴクリとやってしまう。

そんなことをしている間にもカメラはずんずん奥へと進み、胃を抜けて十二指腸へ。「ここまでですからね」とそこからは逆戻り。

「空気を入れて胃を広げます」お腹が張ったようになるとの説明だったが、あまり感じ取る余裕はない。途中所々で止まって写真を撮っているのは分かるが、カメラが戻る時は、何というか食べたものが逆流してくるような感覚を(ちょっとだけ)感じる。

「会話してください」ってそんな余裕はないぞ〜。

「ここに小さなポリープがあります。バリウムでは映りませんが、良性ですので問題ありません。ひだも綺麗ですので大丈夫です。」

・・・という訳で、写真をもらって終了。ただ、説明を受けている間はやや放心状態というか、もらった写真には4箇所写っているのだが、それぞれがどの辺りかを聞くのを忘れてしまった。
(写真のアップはやめておく。)

検査の後1時間ほどは飲み食いはダメとうことで、いつものドックなら終了後ラウンジで朝食(無料)をとるのだが、今日はそのまま帰ってきてしまった。(帰ってきたといっても、午後は目黒で予定があるので、今は平河町ライブラリー。考えてみたら飲食がダメだとカフェにも入れない。)


さて、この後はこちらのミュージカルを観に行く予定。

CARE WAVE AID vol.5 被災地の子どもたちによる平和宣言3・11
http://peace-winds.org/musical.html

たまたまドックと重なったため、夜ではなく昼公演にしてみた。
夜に来られる方はどうぞ。いや全然関係ない話題につないですみません。

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2012年12月18日 (火)

個々の音が聴こえるという事

昨日は男性合唱を聴いてきた。

聴いていて感じたのは、綺麗にハモっている時には、個々人の声は聴こえないという事だ。逆にいえば、ああこの声はあの辺りのどなたかの声だな、というのが分かる時にはハーモニーが乱れている。

これはオケでも同じだろう。特に弦楽器はそうだ。

以前参加したアンサンブルで「綺麗にハモった時は自分の(互いの)音は聴こえない」(ハモった音だけが聴こえる)と言われてああなるほどと思ったことがあるのだが、要するに自分の音が聴こえるように弾いてはいけないのだ。

何故改めてそんな事を感じたかといえば、日曜日に府中の過去の定期演奏会の映像を見直したりしたからである。演奏として決して悪いわけではない。でも何というか「騒がしい」感じがある。特に音量を絞っている時はそうだ。

その原因は演奏者である我々が「自分の音を聴きながら」弾いてしまっている、つまり「綺麗にハモっていない」からではないか。もう少し正確に言うなら「自分の音が自分に聴こえるように」弾いてしまっているという事だ。

合奏の中で「自分の音が聴こえる」というのは、結局「あっていない」という事なのかもしれない。特に弦楽器は基本的に集団で弾いているから、その中で「自分の音」が聴こえてしまうというのは、音として浮いてしまっているという事でもある。

もちろんこれは「音を出さない=弾かない」という事ではない。しっかりと弾いた上で、その音が聴こえない状態を作るという事だ。これは相当難しい。それ以前に怖い。自分の音が聴こえない状態で音を出すというのは、ものすごく不安だ。

でもそれを安心できる状態に持っていってこそ、アンサンブルは成り立つのだろう。

そういえば、前回のドヴォルザークの練習中に、1回だけそれらしい状態になったのを思い出した。
交響曲第8番の第1楽章だったか第4楽章だったか、チェロの旋律の練習をした時に、チェロパートの音は聞こえるけれども、自分の音が聴こえなくなるという事があったのだ。

実際良かったとほめられたのだが、思えばあれがそうした状態だったのだろう。パート単独での事だったが、それをオケ全体でできるようになれば、アマチュア離れしたプロに近い音楽の領域に突入できるに違いない。

何かうまい練習方法でもないだろうか。自分の音を聴こえないようにする練習って難しいよなぁ・・・。

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2012年12月17日 (月)

選挙で投票するということ

投票率の低下というのは、政治に対する不信任ということでもあるのだが、一部の政治勢力にとってはその方が有利に働くという選挙制度は、仕組みとしては不完全なんだよなぁと思いつつ、とりあえず今回の選挙は果たして「変わった」のだろうか「変わらなかった」のだろうか。「どうせ変わらない」という理由で投票しなかった人の評価を聞いてみたいものである。

もっとも、選挙に限らず何かを「しない」理由というのは、多くの場合怠惰の言い訳にすぎない。ある理由を封じれば別の理由を持ち出してくるのがこの「怠惰」という奴で、これはもうある種生物の本能に根ざしたものなのだろう。野生の生物というのは、その必要がない時は何もしないものだ。本来何もしないけれども、生きるために行動を強いられる事こそが生物の本質と考えれば、そんな事をしなくても生きていける社会システムを創り出す事こそが人類の究極の目的かもしれない。
(なんて事を書いていたら、先日読んだ上田早夕里の「華竜の宮」に出てきた「袋人」を思い出してしまった。あれは社会システムではなく個体としての到達点だが。)

そんな訳で、選挙については結果以上に投票率の低下が気になってしまうのである。現在のシステムでは、政治家はこの結果を自らへの不信任とは受け取らないだろう。白票や非投票を一人の仮想候補者とするような仕組みがあれば、「当選できなかった」候補者もいるのではないかという気もするが、もちろんそんな仕組みにはなっていない。大体、そこまでして「投票させる」というのは、政治のあり方としてはどうなのかという気もする。

投票しなかった人は、次の選挙までの期間、所得税やら住民税やら諸々の税金を10%ほど引き上げるなんて案も考えてみたが、「投票しない権利」を金で買うようになってはおしまいである。(昔は「投票する権利」を金で買っていた訳だが・・・今でも一部ではあるか。むしろ投票したら10%ほど減税・・・したら財政が破綻しそうだからまぁやめた方が良さそうだ。)

それに最初に書いたように、固定票を持ち「変わらない」選挙結果を求めたい政治勢力にとっては、浮遊票が投票されない「投票率の低い」選挙の方が基本的に有利なのである。そういった意味では、「どうせ変わらない」と投票しなかった人たちはまさにその「投票しない」事によって「変わらない」事に加担をしたという事になる。それは投票していれば変わった可能性があったのを、人のせいならぬ自分の選択として放棄したということだ。「変わらない」から投票しなかったのではなく、「変わらない」ために投票しなかったと言っても良いだろう。

まぁ、そんな風に色々挑発しても投票しない人たちの行動は変わらないという事を示してしまった選挙とも言えるかもしれない。国民には様々な義務があると強く主張する某政治家の皆様も、「まず何よりも国民には選挙で投票する義務がある」とはきっと最後まで言わないだろう。

彼らにとって、それは国民が行使しなくても良い「権利」だろうから。

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2012年12月14日 (金)

複数を選ぶ選挙と一人を選ぶ選挙の違い

今日は諸事情により手短に済ませたいところ。

先日の選挙に関するエントリーに、Twitter上でちょっとしたコメントがついてああなるほどと思ってしまった。

町・市議会議員選挙だと得票数順位がそのまま発言力を持つ文化なのですけど、国会はそれがないのでつらい“@GoroSASAKI: 選挙に行くということ: それでも「選挙に行け」と言う。 僕は若者に「選挙に行け」とは言えない|津田大介 ... http://t.co/W65qiP66” 2012年12月12日 10:44:06 Twitter for iPhoneから

発言力を持つというよりも、そもそも町・市議会議員選挙の場合は、2番目3番目といった得票の議員も議論の場にいるので、基本的には自分の支持基盤を代弁していれば良いのだ。落選してしまった票には配慮が必要だが、スタンスとしては「全市民の代表」である必要はない。

複数の代表を選ぶ中選挙区制であれば、国会議員もそうしたスタンスが可能だっただろう。

だが、たった一人を選ぶ小選挙区制はそうではない。そんな事をしたら残りはすべて死票になってしまうからだ。3割の得票で当選したからと、その3割の声を代弁するだけの議員には選挙区の代表者としての価値がない。その辺りの「代表者選出」的な位置づけを、候補者も投票者も持ち得ていないという事はないだろうか。中選挙区の意識のままで地区の代表選たる小選挙区を戦っていないだろうか。

いやそうではない、支持者の代弁をしてこその議員だ!というのであれば、逆にこうすれば良いのかもしれない。

棄権や無効票、白票を候補者の一人として扱うのだ。

すると、現在の投票率で考えれば多くの選挙区で「棄権票候補」がトップ当選する可能性が高いのではないか。どういうことかって、それは「その選挙区から選出される議員は不要」が民意ということだ。一番の得票を優先し「その意見だけを代弁する」のが役割だったらそうした考えも成り立つ。「国会に議員を送り込まない」というのが最大多数意見になるからだ。

案外そうすればあっさり議員数を減らすことができるのではないだろうか(笑)

でもそうではなく、地区の意見を総意として背負うのが役割であれば、無効票も意見として背負った、誰か一人の代表者を選ぶのだという図式が成り立つ。

でもそのように考えている候補者ってどれぐらいいるんだろうか。都知事選挙にしても、自分が当選したらそれが全都民の意見と捉えてしまうのはあまりに乱暴な話で、あなたが治る東京都民の意識はこんな分布ですよ、ということを意識して都政を進めて欲しいものなのだが。

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2012年12月13日 (木)

CSRの「広さ」が生み出す陥穽

昨日はナレッジマネジメント学会の部会があった。ナレッジマネジメントとの付き合いはCSRよりずっと長いのだが、そろそろこうした会とのお付き合いも潮時かなと思いつつ、いまいち盛り上がりにかけた感のあったナレッジマネジメントについて考察してみた。


さて、今日はナレッジマネジメント学会について「なぜ衰退してしまったのか」について、酔っ払ってくだを巻いてしまったのだが、それなりに理屈は通っているのではないかとも思うので、可能な範囲で論じてみる。いや衰退したなんて言って申し訳ありません。
送信 12月12日 23:19 From HootSuite

ナレッジマネジメントは、元々野中先生が「製造現場における」智の創出について考察を行った事に端を発している。この時点で「ナレッジマネジメント」とは言葉のイメージとは裏腹に極めて狭い領域の話だったと考えて良い。
送信 12月12日 23:23 From HootSuite

もちろん理論としての普遍性を持たせる上では、それを幅広く捉えていく事も必要だったかもしれない。しかし結果としてそのアプローチは研究領域の分散を招いてしまった気がする。
送信 12月12日 23:25 From HootSuite

そもそも「研究」というのはあるテーマについて「狭く深く」突き詰めていくものだろう。その結果行きつけばそこを起点に広げていく事も可能かもしれないが、少なくとも研究の段階で広げるというのは、テーマの焦点がぼやけるリスクの方が高い。
送信 12月12日 23:27 From HootSuite

ナレッジマネジメントは、そのイメージの幅の広さの故に、その陥穽に陥ってしまったのではないかという気がする。あらゆる解釈が可能な故に、領域が拡散し、研究としての狭さと深さを獲得する事ができなかったのだ。
送信 12月12日 23:29 From HootSuite

むしろそこを踏みとどまって「製造現場の智」の領域で研究を深めるという選択肢もあったはずだ。野中先生の理論といえども完成されたものではないし、その領域だけでも深く深く掘り下げる事は可能だったに違いない。
送信 12月12日 23:32 From HootSuite

だが、ナレッジマネジメント「学会」は少なくともそうした選択をしなかった。それは一時的には関心を広める事につながったが、代わりに必要な深みを得る機会を失ってしまった可能性がある。
送信 12月12日 23:34 From HootSuite

ナレッジマネジメントとは何か。言葉のイメージはともかく、それを学会としてどれだけ明確に深く定義し、世の中に対して周知を図っているだろうか。
送信 12月12日 23:37 From HootSuite

そしてそんな事を考えると、同じようにアルファベットを重ねた概念である「CSR」を取り巻く現状が心配になってしまうのだ。
送信 12月12日 23:39 From HootSuite

広さは確かに必要かもしれない。しかしそれは本来深さに付随して語られるべきもので、それを飛び越して追求するものなのだろうか・・・そんな憂いを(上から目線だが)、今の「CSR」取り巻く現状に感じてしまうのは自分だけだろうか。
送信 12月12日 23:42 From HootSuite

というわけで到着いたしました。おやすみなさい。
送信 12月12日 23:43 From HootSuite


少し補足しておくと、ナレッジマネジメントの試みが失敗したとは思っていない。自社も含めてそこから導かれた取り組みは一定の成功を納めているものもある。ただ、それはあくまでも実学的な「取り組み」の話であって、研究としての「理論」の話ではない。
(実際、自社の取り組みはすでに「ナレッジマネジメント」という概念からは離れた所で運用されている。)

CSRは実践だから・・・というのは、一つの考え方だろう。実際、先進的な企業というのはむしろそうした考えに基づいて、理論としてのCSR、言葉としてのCSRから離れつつあるようにも感じる。そもそも企業の経営にとって「CSR」は目的ではなく手段にすぎない。

だが一方で、研究・理論としてのCSRが、どこまでそうした企業の動きに追随していっているのか、という気もする。実学は実学として、それをカバーできてこその理論だろう。そしてそうした実学の「幅」に対応しうるのは、逆説的だが「広さ」ではなく「深さ」ではないのか。

CSRが単なる経営手法であれば(単なるは言い過ぎ)広ければそれで構わないかもしれない。だが、経営哲学や、経営を超えた社会科学の領域に踏み込もうというのであれば、そこには相当な深さが必要になってくる。「深イイ話」のような気持ち的な深さではなく、理論としての深さだ。

それは必然性のようなものかもしれない。CSRの必然性は、どれだけ深く論じられているだろうか。その考えを揺るがしかねない不要論(それはより深みに到達するためにどうしても必要なものだ)はあるだろうか。そうした「理論を鍛える議論」は行われているだろうか。「必要だよね」という「感覚」で終えてしまっていないだろうか。和製漢語のような、その概念を示す新たな言葉を生み出せるほどの深い考察はなされているのだろうか。

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2012年12月12日 (水)

選挙に行くということ

それでも「選挙に行け」と言う。

僕は若者に「選挙に行け」とは言えない|津田大介 - WEBで政治を動かす!
http://yorikanekeiichi.com/tsuda-daisuke-483.html

選挙というのは正しいとか間違いとかいう話ではないと思うからだ。
もちろん、単純に「義務だから行け」「権利だから行け」というつもりもない。

選挙の目的が「政治家を選ぶ」事にあるのは確かだ。選ぶからには納得いく選択をしたい、というのも気持ちとしては分かる。でもテストじゃないんだから、この選択にはそもそも正解などない。「正しい」「間違い」という尺度は、その時点でずれている気がする。
(もっとも筆者も○×という意味で使っている訳ではないと思うが。)

個人的には選挙というのは、政治家に「自分という人間もいる」という事を誇示するためにあるというぐらいに捉えても良いと考えている。特にこれといった支持者がいないのであればなおさらだ。逆に支持する相手がいるというなら、投票だけでなく選挙運動を手伝うぐらいした方が良い。投票するだけで「選んだ」なんて、ある意味傲慢な話だ。

選挙というのは、投票する側にとっては「選ぶ場」かもしれないが、投票される側にとっては「選ばれる場」ではない。自分が政治家として代弁すべき人たちの姿を把握する場だ。

だからこそ、大切なのは「誰が選ばれたか」以上に「どれだけの投票があったか」だ。
得票率ではなく、投票率が大切なのだ。

例えば学級委員長を投票で決める時に、クラスの1/3の得票で委員長になった子がいるとする。
彼もしくは彼女は自分を支持してくれた1/3の顔を見て振る舞うかといえばそうではないだろう。実際には無記名投票だから誰というのはもちろん分からないのだが、むしろ残りの2/3の事を考えながら学級委員長として行動するのではないか。

それはもちろん自分を選んでくれた1/3をないがしろにするということではない。むしろその主張を通していく上で、残り2/3への配慮が必要になってくるという意味だ。なぜなら学級委員長は1/3の代表ではなく、クラス全体の代表だからだ。

もちろんこんなのはただの甘えで、そんなことは今の政治家には期待できない、という意見もあるかもしれない。(というか、自分でもそう思う。)
それでも、こればかりはそれを期待するしかないし、そうした状況に「追い込んでいく」事も必要になる。

だからそのためには白票ではダメなのだ。白票だって意思表示だという意見もあるだろうが、それは「選挙というシステム」に対する意思表示ではあるかもしれないが「政治家に対する」意思表示にはなり得ない。クラス投票で考えるのであれば、「隣のクラスの子の意見」のようなもので、選ばれる側にとってどう配慮したら良いか分からない意思表示だからだ。

学級委員長の選挙であれば、白票が多ければ多分再投票になるだろう。いわゆる選挙にはそれがない。だからこそ選ばれるのが誰であれ「あなたは何人の代表として国会へ行くんだよ」という事をきちんと示すことが大切な気がする。選挙区の頭数ではなく、どういう意見分布の集団の代表であるかを自覚させることが必要なのだ。

誰に投票する?自分の意見に合う人に投票するのだ。別に好き嫌いでも良い。乱暴なようだがその時の感覚でも良い。大切なのは、他者への投票も含めた総意として選ばれているという自覚を持たせることだ。3割の賛成票は残り7割の反対票でもあるということを突きつけることだ。

という訳で選挙には行きましょう。自分がそこに住んでいることを代表となる候補者に示すために。

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2012年12月11日 (火)

今日は特にネタがない

・・・そんな時でも、このブログは基本的に更新をする。ネタがないことをブログで公表しても読者には何の意味もない事は分かっているが、それでも物理的な時間がない時以外は(平日は)更新するのがこのブログのポリシーだ。

例えばもう一つのブログや、会社のブログはそうではない。ネタがあれば更新するし、なければ更新しない。その上で、常に更新ができるようにネタを探す。これはまぁ普通の考え方だろう。

このブログは、そうしたネタ探しをあまりしていない。その時思いついた事を書くだけだ。だから脈絡がない。テーマもなければメッセージもない。いやまぁ何らかのメッセージは込めているつもりだが、それはあくまでも刹那的なもので、「追いかけている」ようなものはない。

そういった意味では、「今日の精神状態」「今日の関心事」をモニターしているようなものなのかもしれない。公開されない日記は多分そういった要素が強いのだと思うが、それが単にオープンになっているだけだ。

さて、昨日は久しぶりに平河町ライブラリーに滞在した。表現が微妙だが、特に明確なやることがあった訳ではないので、そのあたりが妥当だろう。会費を考えると何とも無駄な使い方のような気もするが、それでも幾つかの事務的作業や連絡は行えたし、まぁタリーズとかでもできることではあるが(笑)

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2012年12月10日 (月)

ノイズキャンセリング

先週末にSONYのMDR-1RNCを買ってしまった・・・。

DENON以来のノイズキャンセリングヘッドフォンになる。実際にはカナル型は持っている(それも2台あったりする)のだが、やっぱりインナーイヤータイプよりも耳を覆うオーバーヘッドタイプの方が良い。特に冬場はイヤーウォーマーにもなるのでなおさらだ。(でも夏は暑いからやや敬遠気味・・・。)

音に関しては、Amazonのレビューを見たりすると色々書いてあるのだが、正直な話あまり強いこだわりがない。元々が圧縮音源だし、ほんとうに良い音で聴きたかったら「電車の中で聴く」なんて選択はしないほうが良いからだ。

とはいうものの、クラシックの場合、弱音が電車の騒音でかき消されてしまうことも多い。そんな場合に、ある程度は効果を発揮してくれるのがノイズキャンセリングの強みだ。結果として音量をそれほど上げずにも済む。

だったらインナーイヤータイプでも良いわけだが、感覚的にはインナーイヤータイプは耳の奥にダイレクトに音が届いてくる感じがいまいち気に入らなかったりする。何というか、耳の奥を叩かれているような感覚になるのだ。Podcastのように声などの場合はそれほど気にならないのだが、音楽の場合はもう少し「耳の外に音がある」感覚が欲しい。

そんな訳で今朝は久しぶりに騒音の少ない環境で音楽を聴きながらの通勤だった。うん、快適だ。ATH-ES10を購入後最初の通勤で「世の中はノイズに満ちている」と感じたことを思いだす。

もちろん欠点もある。何よりデカくてかさばる上に、重い。サイズはATH-ES10よりも大きくなり、重量も100g以上アップしている。まだ最初だからあまり気にならないが、徐々にこの重さが気になってくるだろう。冬場はコート含め重量物を結構身に着けているので多分それほど気にならないが、夏場になるとこのサイズと重さは鬱陶しくなるはずだ。まぁ、元々夏場は(汗もかくので)インナーイヤータイプを使うことが多いのだが。

とりあえず鞄にしまうのが少々難儀なため、これから会社でどうやって置いておくかが一つ悩みだったりする。まぁなんとかして鞄に入れておくしかないんだけどね・・・。

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2012年12月 7日 (金)

ストラディヴァリウス・カルテット

昨日は招待券をもらったのでストラディヴァリウス・カルテットのコンサートを聴きに行ってきた。何気に紀尾井ホールは初めてだったりする。

ストラディヴァリウス・カルテット
日時:2012年12月6日 19:00開演
場所:紀尾井ホール
出演者:ウォン・シャオミン(Vn)、ユン・ソヨン(Vn)、レヒ・アントニオ・ウジンスキー(Va)、マーヤ・ウェーバー(Vc)
プログラム
ハイドン:弦楽四重奏曲第74番ト短調作品74-3「騎士」
ヴィヴァルディ&ピアソラ:「四季」より
シューベルト:弦楽四重奏曲第14番ニ短調D.810「死と乙女」

すべてストラディヴァリウスで、4台で総額30億円といった話はどうでも良いことではあるのだが、個人的にオーケストラよりも室内楽の方がライブの迫力は上ではないかと思っている。そんな期待があったためか・・・やや「?」だっただろうか。

ハイドンの冒頭はやや音がこもったように感じられる。あるいはそういうものなのかもしれないが、イメージではもう少し張りのある音が聴けるかと思っていたため、期待とは違っていた。弱音がしっかり聴こえるのは良いのだが、強音に伸びが足りない。生音が聴きたいとは思わないが、それにしてもスクリーンがかかったような音なのが気になる。

2曲目は、ヴィヴァルディの四季とピアソラの四季を組み合わせたプログラム。

[春]ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」第1番ホ長調RV.269「春」より第1、第2楽章
[夏]ピアソラ:ブエノスアイレスの四季 ブエノスアイレスの夏
[秋]ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」第3番ヘ長調RV.293「秋」より第3楽章
[冬]ピアソラ:ブエノスアイレスの四季 ブエノスアイレスの冬

ヴィヴァルディはやっぱり本来の編成で聴きたい・・・とは思いつつ、秋のソロ(2ndVnが担当)は迫力があった。アンコールの時にも感じたのだが、2ndVnのユン・ソヨンは、ソロの場面では弾き方も含めて迫力があるのに、2ndVnとしてはきちんと裏に回って表に出てこない良い仕事をしている。なるほど2ndVnというのはこういうものなのかもしれない。

さておき、2曲目はやはりピアソラが面白かった。多分奏者もこちらの方が好きなのではないだろうか。ただ冬の方はやや音が荒いというか、無理に鳴らしているような感じがあって、これももしかしたら楽器の響きにはあまりあってないのかもしれないなどと感じた。

シューベルトは、一部の細かいパッセージが聞き取りにくかったり、所々アンサンブルが乱れていたような気がする。もっとかっちりハマればもう少し綺麗な響きになっていたような気もするが、全体としてみるとやはり強い音のパワーが足りないように感じられる。
もっとも、協奏曲でオケと張り合うような音を無意識に期待してしまっていただけで、本来の室内楽はこうあるべきかもしれない。

辛口の評価になってしまったのは、期待が高かったためだが、会場からの拍手は大きかったし、アンコールも3曲と大サービスで、コンサートそのものの満足度は高かった。自分にとっては「ストラディヴァリウスという事をありがたがることはないよなぁ」と感じてしまっただけの話で、そうしたフィルターなしで聴いた方が楽しめたかもしれない。

それと弦楽四重奏は、そうはいってもオケのような多彩な音色を楽しめる訳ではない(今回の場合ピアソラは特殊な奏法なども入っていて、ちょっとアクセントになっていたが)ので、その辺りはやや飽きが自分の場合はきてしまうなぁなどと贅沢な事を考えてしまったのだった。

でも室内楽もいいなぁ。ピアノトリオとか、少し弦楽器以外の楽器も加わるようなコンサートを探して聴きに行ってみようかなぁ・・・。

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2012年12月 6日 (木)

話を聞くこと話をすること行動すること

昨日はセミナーだったのだが、時々そうやって話を聞くだけでなく、話をしたいと思うことがある。もちろん登壇者としてということではなく、参加者として参加者同士でという意味だ。

話を聞いて自ら考えることは大切だ。その化学反応がアイデアになる。

一方、それぞれのそうしたアイデアを持ち寄れば、また違ったさらなる化学反応を生み出すことができるだろう。グループディスカッション、ワークショップ、ワールドカフェ・・・名前は何でも良いが、場に同席した者同士ならではの化学反応はとてもスリリングだ。

・・・スリリング、なのだが、それが行動に結びつくか、というと、そこにはまた別のハードルがある。一人で考えようが、大勢で考えようが、行動の段階で超えるべきハードルは変わらない事も多い。特に外部のセミナーの場合、会社に持ち帰って行動するのは結局自分だけだ。

であれば、一人で考えても良いのかもしれない。むしろ自分のようなタイプの場合、下手に話して発散したりすると、その後の行動へのエネルギーが萎んでしまうリスクすらある。こうしてブログで書いてしまう事自体、行動へのエネルギーの一部を消費することにつながっているかもしれない。

もちろん、逆に良い形での伝播・伝染を生み出す可能性もある。そもそもそうした思惑があるからこそワールドカフェなどは行われるのだ。発信は発散には違いないが、さらなる蓄積につながることもある。

さて、昨日得たヒントはどのように行動に移していけるだろうか。目下それこそが自分の課題と言っても過言ではなく、考えていたらアイデアをこれ以上得たって役に立たせようがない状況にあるかもしれないのだ。

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2012年12月 5日 (水)

防げたかもしれない事故の責任

笹子トンネルの事故は衝撃的だった。中央道は利用頻度が高く、特に冬場は毎週走ることも珍しくない。復旧には年明けまでかかるようだが、冬のスキーについては別方面も考える必要があるかもしれない。

そんなレジャーの話はさておき、こうした事故(検査が不十分だったといった「対策をしていれば防げたかもしれない」ような事故)の話を聞くたびに最近考えてしまうことがある。

「自分はそのサービスの受益者として応分のコストを負担していただろうか」

今回の事故では、点検が不足していたことが指摘されている。これを不手際と責めるのは簡単だが、何かをするにはコストがかかるとなれば、誰がそのコストを負担すべきだったかという問題になる。それは受益者以外にはあり得ない。

高速道路には通行料金がかかる。その通行料金の一部を使ってメンテナンスが行われる。業者はその限られた資金の中から検査のコストを捻り出す。よりコストをかけるべきだったという議論はあるだろうが、余裕があれば当然行われる可能性は増す。

それはつまり、間接的には事故の責任を自分も負っているかもしれないという事だ。サービスが不足する、安全管理が不足する、そういった不足には当たり前だがコストの問題がつきまとう。何に振り分けるかはサービス提供者の問題で、その意思決定には異論もあるだろうが、そもそも受益者側のコスト負担が不足していて、その限られた資源のやりくりを提供者に強いていたという可能性はないのか。

高速料金が安いと思ったことはないし、もちろん安いにこしたことはない。高かったとして、事故が防げるような検査が行われたかどうかは定かではない。だが、老朽化し、よりメンテナンスが必要になる中で、それを十分に行ってもらえるだけのコストを自分が負担していたか、と問われると自信がない。要求してもらえれば負担した、というのは簡単だが、無言のプレッシャーでその要求を封殺していたかもしれない。

別にNEXCO中日本を擁護する訳ではないし、彼らに責任がないというつもりもない。
社会の一員として、受益者の一人として、何か自分にも責任があるのだとしたらそういう事だろうなと思うだけだ。今後そのために利用料金があがっても、自分は必要ならば高速道路を使う事で、そのコストを負担する事を選択するだろう。

お亡くなりの皆様のご冥福をお祈りいたします。

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2012年12月 4日 (火)

来年の予算

年末の総会に向けて諸々の活動のまとめと来年の予算を考えなければならない時期がやってきた。

本来アマオケの予算というのは、演奏会ごとに収支のバランスが取れている事が原則だろう。その演奏会にしか参加しない人がいる可能性がある事を考えれば、その人からいただいた団費=参加費は、その演奏会で使い切る形で収支のバランスを取るのが望ましいのは間違いない。

とはいえ、府中の場合春と秋では演奏会の形式が異なるため、そうした独立収支構造を取るのは難しい。それでも年間の中でバランスを取るのが理想という事にはなる。

それが大原則ということにはなるのだが、団としての存続や例えば長期的に予算のかかる大曲に挑戦したいといった事を考えた場合は、そのためにお金を残していく(貯めていく)必要がある。団の存続だけを考えるのであれば、蓄財はそれほど大きいものである必要はないが、大曲をやるような場合はそれをめざしてどのように予算を組んでいくかが重要だろう。

そしてそのためにはいつ何をやるという明確な目標が必要になる。いつか大曲をやりたいので、という設定では、その時に団にいるか分からない団員の賛同を得るのは難しいからだ。もちろん3年5年後にどうなっているかは個人だって分からないのだが、それでもやるかやらないか分からないものに余計なお金を積み立てるという事はできない。

また、府中はあまり協奏曲をやらないのだが、これはやや収支的に苦しくなるからという事情がある。特に団のポリシーとしては新人よりも一流のベテランを呼んで自分たちも刺激を受けたいという考えがあるため、その部分で予算をケチりたくないという気持ちがあるからだ。

で、運営系としては費用を盾に協奏曲に反対せざるを得ないのだが、これも最初からそうするという考えがあれば、収入構造自体を見直すという事が可能だ。それがなく直近の選曲段階で突然要望されれば、その状況では「ない」としか答えようがない。

その辺りの長期計画性が必要なのだろうと思う。特に府中は大所帯のため、練習会場が限定され、これをベースに考えざるを得ない。1年半前には会場をおさえる必要があるため、理屈で考えればその時点で何を演奏会でやる予定で、どのような練習計画かというのが、ある程度できていなければいけないのだ。

実際にはそこまで見通すのは不可能だろうが、であれば今度は練習会場の予約状況にあわせて練習計画を考えるといった工夫の必要がある。半年以上前であればキャンセルに費用もかからないため、その段階で練習計画が確定しキャンセルできれば、それは会計上も助かる話だが、実態は直前に追加で場所を確保しなければならなくなったりする。

もちろん、そういった事も踏まえてなんとかするのが運営系の仕事だろうと言われればそれまでなのだが・・・。

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2012年12月 3日 (月)

オフ気分

この週末は府中の練習がなかったのだが、諸事情により予定をブロックして待機状態だったため、だいぶん前に買ったままだったヴォーン=ウィリアムズの交響曲全集をiTunesに取り込んだり、iPadのOSを6.01にあげたりしていた。

iOSのバージョンアップに関しては、しばらく様子見をしていて、iPhone4についてはまだ見送り状態なのだが、とりあえずiPadの方はそれほど問題ないだろうと判断したのだ。
しばらく、というほどまだ使っていないので、色々と見えてくるのはこれからだと思うのだが、今の所はそれほど変化は感じられない。色々と言われていたマップについても、iPhoneほど利用頻度が高いわけではないので、それほど気にはならなかった。

むしろ、ついでに見送っていたいくつかのアプリのバージョンアップによる変化の方が気になる。アプリに関してはiPhone4の方も同時にあげたのだが、いくつかは明らかに慣れない。自分の使い方からすれば、使いにくいと言っても良いだろう。

とはいえ、この辺りは使わせてもらっている立場ではあるので、あまり文句が言えるものでもない。自分の方からアジャストしていくしかないだろう。まぁもう少し慣れれば別の良さが見えてくるかもしれない。

さて、先週は結局楽器の練習はしなかったのだが、今週は次の曲の練習を始めなければ。
それにしても、府中の練習がないだけでずいぶんとのんびりした気がする。いやもちろん予定がブロックされていたということはあるのだが、それにしても府中の練習がないだけで、土曜日の感覚が「ああ今週は三連休の気分」になるって(三連休の時は、府中の練習日の他に2日間「休みがある」という感覚になる)どんだけ仕事感が強いんだか。

まぁもっとも、本番の時は「休みなし」という感覚(翌日は休んだが)になるのだから仕方ないか。

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