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2012年12月25日 (火)

音楽に対するイメージ

このところ朝のプロントで店員さんにずっと話しかけているおじいさんがいて、相手をする店員さんも大変だな〜と思っていたのだが、考えてみたらそういうのを大変に感じる(自分のような)人間は最初からそうした仕事を選ぶことはないもので、案外店員さんもそれが楽しいと感じる人たちなのかもしれない。

そんな話はさておき、年内最後の練習が終了。楽器を弾くのは残すところ今週末のオレイユのアンサンブル大会のみとなった。それを過ぎたら多分年明けの府中の練習まで楽器には触らないだろう。この季節はその時間をスキーにあてたい季節ではある。(もっとも年末の予定はまだ立てていないが。)

土曜はオレイユのアンサンブル、日曜は府中の悲愴の練習だったのだが、つくづく感じるのは自分の音楽イメージのなさだ。目の前の曲に対して「こうだろう」「こうしたい」という解釈がない。いやもしかしたら何となくはあるのかもしれないが、それを他人に説明できるまで昇華させることができない。それはつまり自分の表現にも反映させきれないという事でもある。

例えば府中の練習を指導してくれたコンサートマスターはその辺りが明確に違う。楽想の変化、楽譜の指示に対して、音楽をこうしたいというイメージがあって、それを伝える事ができる。オレイユのアンサンブルのメンバーも、そうしたイメージがあり、各人毎のその違いを互いに嗅ぎ取る事ができる。

それが自分にはない。うまく弾きたいとか、言われたことをなるほどと感じてその通りに弾けるようになりたいとは思うが、それ以前のそもそも自分が固有に持つイメージというのがない。

それはある種の才能なのかもしれない。もちろん表現方法はトレーニングである程度何とかなるのだろうが、もっと根本的な部分で、音楽に対して能動的か受動的かというのは、大きな違いがあるような気がする。あるいは受けた教育によって引き出されたかどうかというのもあるだろう。

そして受動的であっても音楽はできる。別に聴くオンリーである必要はないからだ。
ただ思うに、そうした受動的な人間というのは、そうした能動的な指示がないと不安なため、特に指揮者やリーダーにそれを求める傾向があり、そうした指示を出さない指揮者に対しては、酷評をくだしたりするのではないか・・・なんて事を感じたりした。

まぁ指揮者の役割はそもそもそういうものだという事もできるだろう。ただ、本来音楽は一人ひとりがそれぞれのイメージを持ち寄って成り立つものだと考えれば、「自分は言われるままに演奏します」という姿勢や、「我々がどう演奏すればよいかを指示しない指揮者はおかしい」といった反応は、なんというか滑稽なものでしかない。

足りないのは、相手の指示ではなく、自分の意思だという自覚がないという事だからだ。

おそらく音楽に対して本当の意味で能動的な人間というのは決して多くない。
だから受動的であることを恥じる必要はないし、受動的な人も含めて音楽を成り立たせようとするのは決して間違いではない。

でも受動的な人間が、自分が受動的である事を自覚せずに、相手が能動的でないという批判をさも「自分が能動的である」という自己満足のために行うのは、何というか、何だかなぁという感じはする。

真に能動的な人間というのは、分からなければ「こうイメージしているのでこうする」と自分で決めてしまうものだ。一方真に受動的な人間というのは、「こうしろということだろうか」と常に考え、模索するだろう。

「分からない」「分かるようにするべき」というのは、どちらでもない中途半端な反応にすぎない気がしてならない。

・・・もちろん人間として中途半端というのではなく、音楽として中途半端という話。

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