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2013年2月28日 (木)

議会の役割、役所の役割

少し前に、電車の車内吊りで東京都議会の広報(広告ではないよなきっと)を見た。
内容は、これから都議会がスタートします(もちろん来年度に向けた審議がスタートします、という話)というもの。どういった会議がどういった日程で行われますというお知らせだった。

多分これ↓
http://www.gikai.metro.tokyo.jp/poster/2013-1.html

その時にふと思ったのだ。議会で審議される法律や条例というのは、

そういえばこの間都議会の車内吊り広報を見かけて「法律って市民にこうしなさいというためじゃなく、行政がこうしますというためのものなんだよな」とちらっと考えたのをふと思い出した。 / “いじめ対策へ法整備・道徳教育を 教育再生会議  …” http://t.co/s5NhyyKxMP
2013年2月27日 8:07:43 Hatenaから

と捉えた方が良いのではないだろうか、と。

もう少し踏み込むなら、行政機関に対して「こうしなさい」「こうしてよろしい」というルールを提示するためのものということだ。

例えば、消費税。国民に「消費税を払いなさい」と命令するものではなく、行政に「消費税を徴収しなさい」と命令するものと考えたらどうだろうか。違反者に対してはこのように対処してよろしいといった罰則も考え方は同じだ。

なぜそのように考えるかといえば、そう捉えると「議員」というのは「市民を指導するリーダー」ではなく「市民を代表する代弁者」であることがはっきりするからだ。市民の代弁者である議会が、強力な執行力を持つ行政に対して「こうせよ」と基本方針を指示をするのが法律や条例の役割であり、行政の「今年はこうしたいと考えます」を審議・了承するのが、こうした議会での議論の目的だとすると、なんとなく(まぁなんとなくだが)スッキリする気がする。

あえていえば、自治体の場合は首長がリーダーということになるだろうか。そのリーダーに対して、一定の行動制限をかけ、独断をさせないための装置が、市民の代表による議会という訳だ。
(そういう意味では国の場合はまたちょっと事情が異なるかもしれない。)

で、実はそのように考えると、公務員というのは任期制でも良いような気がしてきた。毎年議会で翌年度の方針や予算が決定され、その範囲内で執行を行うのが公務員の役割だとすれば、その都度人が変わっても、あまり問題はないのではないか。特にキャリアと呼ばれるリーダークラスは、それでも良いような気がする。

そうすれば、常に民間との間で人の入れ替わりが発生して、組織の新陳代謝が行われることになるから、「天下り」みたいな問題も発生しない。実際には同じ人がループするような仕組みを作り上げてしまうのかもしれないが、それは考え方の問題というよりもシステムの問題だろう。

キャリアは高給で任期制、ノンキャリアは高給ではないが雇用保証、そんな切り分け方はできないだろうか。

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2013年2月27日 (水)

「削減」という付加価値

昨日こんなTweetをした。

生産においてコスト削減は付加価値を高めるものだけど、消費におけるコスト削減は実は付加価値を減じる行為ではないかとふと思ったり。論理的根拠はまだない。
2013年2月26日 18:26:10 HootSuiteから

そもそも「消費におけるコスト削減」の定義が定かではない。
2013年2月26日 18:27:30 HootSuiteから

90円のコストに10円の付加価値を上乗せして100円で売っているモノあるいはサービスがあるとする。コストを88円に削減して100円で売れば、付加価値は2円上昇する。だが、コストにあわせて98円に値下げしたら、付加価値は10円のままで変化がない。
2013年2月26日 19:20:01 HootSuiteから

一方消費あるいは購買という視点で考えると、90円のコストの100円のモノを98円で買うと、そのモノの付加価値を2円減じた事になる。浮いた2円を別の消費に投入する事はできるが、それ自体で付加価値を生み出せる訳ではない。
2013年2月26日 19:23:01 HootSuiteから

生産というのは「買って」「売る」間に付加価値を上乗せする行為だ。一方、消費というのは「買う」で完結してしまう。いや「使う」というのがあるな。では、その「買う」「使う」の間において付加価値を生み出す事は可能だろうか。
2013年2月26日 19:25:27 HootSuiteから

そのモノがもともと想定していた範囲内の使い方であれば、そこに付加価値が生まれたとは言えないだろう。だが新たな使途を工夫する事ができれば、付加価値を生み出したと言えるかもしれない。
2013年2月26日 19:27:14 HootSuiteから

とはいえ、もっとシンプルに考えるなら、消費において付加価値を上乗せする簡単な方法は、そのモノの価格に金額を上乗せして買う事だ。90円のコストで100円で売られているモノを102円で買えば、消費段階で付加価値が上乗せされ12円になる理屈だ。
2013年2月26日 19:31:48 HootSuiteから

理屈だけど釈然としないのは、生産における購買価格低下が付加価値向上につながるのと、消費における購買価格低下が付加価値減少につながるという対称性が、どうにもしっくりこないからだ。
2013年2月26日 19:34:27 HootSuiteから

家に着いてしまったのでTweetはここまでだったのだが、引き続き考えていたのは、そもそも「消費」という行為が特殊なのであって、「消費者」であっても、買ったモノを生産に供する事ができると考えれば、コスト削減と矛盾しないのではないかといった事を考えた。

例えば、食材を購入して調理して食べる。調理という行為は生産にあたるから、食材のコストを下げる(でも食事の質は下げない)事は、付加価値の拡大につながる、といった感じだろうか。もちろん、最終的に「食べる」という行為において付加価値を向上させるのは難しいが、そもそもその段階では「コストを下げる」という事も難しい。


・・・だが、今朝になって改めて考えたのは「そもそもコスト削減って付加価値?」という事だった。提供する側で得られるメリットが増えることと、社会全体に対する付加価値が向上することは、そもそも同じではない。「同じものをより少ないコストで提供できるようになる」事と、「同じコストでより良いものを提供できるようになる」は、同じようでいて、実はまったく違うものなのではないだろうか。

そういう前提に立つと、そもそも最初の、

生産においてコスト削減は付加価値を高めるものだけど、消費におけるコスト削減は実は付加価値を減じる行為ではないかとふと思ったり。論理的根拠はまだない。
2013年2月26日 18:26:10 HootSuiteから

自体が崩れてしまい、そもそも「コスト削減」というのは、すべからく付加価値を減じる行為なんだよということになってしまう。

しかし、書いてみるとこれも釈然としないな・・・。

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2013年2月25日 (月)

ミニクラシックコンサート2013終了

木曜日に体調の不良を感じ、金曜日は念のため休みをとったのだが、結局微熱状態のまま日曜日のミニクラシックコンサート本番を迎えてしまった・・・もっとも、演奏内容は体調とはほとんど関係なく、打ち上げでお酒が飲めないという影響の方が大きかったといえば大きかったのだが。

今回は6団体中3団体にエントリーするという無茶な状況になっていたため、運営関係は他の人に全面的にお任せして、弾くことだけに専念したのだが、やはりそれだけだと楽だという事を再認識する。できれば運営に関わらず、演奏だけしたいという気持ちは分からなくもない。

それでも、アマチュアの音楽団体というのは、そんな事は言っていられない。

とまぁそんな話はさておき、今回弾いたのは全4曲。

ヴィヴァルディ:調和の霊感より3−11
チャイコフスキー:アンダンテ・カンタービレ
ピアソラ:リベルタンゴ
ハイドン:ピアノ協奏曲ニ長調(第1第3楽章)

3−11は、2台のヴァイオリンとチェロのための協奏曲のため、チェロにもソロがある。これが結構難しい。本当はさらっと軽やかに弾きたいところなのだが、そんな余裕が無い。バロック的な指使い?なので、複雑な運指があるわけではなく、基礎練習のような確実性が要求される。

それがきちんと弾けないというのは、結局普段の地力不足ということだろう。スキーではないが、単純に基本が出来ていないということだ。こればかりは地道な反復の積み重ねでそれが可能な身体を作るしかない。楽譜をさらうと言うよりも、その前の段階の鍛錬不足が出たようなものだ。

アンダンテ・カンタービレとリベルタンゴは、どちらかと言えば表現力が要求される曲。リベルタンゴは、元の楽譜はリズムパートに近かったのだが、練習中にアレンジを変更してチェロにも旋律が回された。これを色気のある音で弾くのが難しい。アンダンテ・カンタービレもそうなのだが、雰囲気を醸すための音色の処理というのは、正直どうやって練習したら良いのか分からなかったりする。

ハイドンのピアノ協奏曲は・・・細かい事を言い出したらきりがないのだろうが、まぁ楽しく弾くことができた。正直な話、他の曲(特に3−11)のウェイトが高すぎて、この曲は「とりあえず乗りました」感が強い。別に手は抜いてないのだが、特に大きな見せ場があるわけではないし、ピアノが主役だから、個人としてヴィヴァルディほど高い基礎力を求められるわけではない。

もちろん、オケとしての地力は求められる曲だろう。そういった意味では練習不足感はあったが、それは短期決戦ではやむを得ない側面もある。

さて、これで2月の府中のミニクラシックコンサートが終了。次はすぐだが3月上旬に上野の森交響楽団の「巨人」。そして4月にステージアート協会のディベルティメント。5月に府中のチャイコフスキーと続く。

おお、こう書くと毎月演奏会がある事になるんだなぁ・・・意外と忙しいよ。

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2013年2月20日 (水)

CSRコミュニケーションと消費者

このところ、もう一つのブログ優先で、こちらへのエントリーは滞りがちなのだが、今日は少し思いつく事があって、帰る前にタリーズに寄ってみた。ネタ的にはもう一つのブログ向きなのだが、あちらは別のネタで進行中なので・・・。

少し前に「CSRコミュニケーションと消費者」というお題のイベント企画募集があった。
講演だとあまり興味がないのだが、個人的にその手のワークショップ企画は嫌いではない。なんというか、自分の考えを整理したり飛躍させたりするきっかけになるからだ。

募集は終了しているのだが、実は一度は企画を考えた。詳細を詰める前に飛散してしまったので、今から考えることがその時のアイデアと同じである確証はないが、多分にこんな感じのはずだ(大体考えることは変わらないと思うので・・・)。

「CSRコミュニケーション」で特に対象が消費者とくれば、まず思いつくのが「何をどうやって伝えるか」といった話ではないかと思うのだが、その辺りは正直あまり興味がない。どちらかといえば、企業側としては「何をどうやって聞くか」の方に興味がある。特にCSR関係というと、有識者の意見はよく聞けるのだが、生の消費者の声というのはなかなか聞こえてこないからだ。

そもそも「生の消費者の声」というものがあると仮定しての話だが。

そもそも「CSR」に関するチャネル自体が少ない。CSRと大上段に構えること自体、「聞く」という姿勢からかけ離れてしまうような気もするが、例えば、環境・社会報告書読者アンケートなどで、開示すべき項目の上位常連となっている「雇用関係」などについて、消費者向けの問い合わせ窓口があるといった話は耳にしたことがない。

さて、そんな中で数少ない「意見を聞く」ためのチャネルが、CSRレポートに付されるアンケートだ。実態からいえば、これによって得られる意見というのも惨憺たる状況ではあるのだが(と身も蓋もない事を書いてみたり)、それでも数少ない貴重な意見である。

が、これをどう生かすか、というのがまた難しい。そもそもそれが大勢の意見なのかも分からない。もちろん、多ければ良いという訳ではないが、オンリーワンでも説得力があるか、といえば、そうでもない。そもそも、アンケートというチャネルでは、より詳細に把握するのが難しいので、どう解釈するかが意外と問題になってしまうのだ。

一番簡単なのは、その意見を公開してさらに意見を聞くことだろう。だが、これまたリーチが難しい。そもそも一般的には、CSRに関心があるのはごく少数なのだ。それにフルオープンでやるのは流石にリスクが高いような気もする。
(なぜなら、そうやってさらに意見を聞きたい意見というのは、そもそもがセンシティブな話題であることが多いからだ。)

そこで、今回のようなイベントに参加するような「関心のある」人たちにご協力願う。
具体的には実際に寄せられている意見を開示し(全開示が理想だが、件数次第)、グループディスカッションなどの題材にしてもらう。一応クローズということで、他言しない事は約束していただく。

意見をピックアップして提示し、賛成反対で意見を戦わせてくれても良いし、多くの意見の中から気になった意見にさらに意見を述べるといったスタイルでも良い。

以前書いたが、個人的に企業の役割はコミュニケーションの主体というよりはハブにあると考えている。そのハブとしてのネタを提供し、消費者同士のコミュニケーションにつなげたいといった意図もある。


・・・とまぁこれだけだとステークホルダーダイアログをタダ乗りでやるみたいなので、理想はそこに複数社が相乗りしてしまうというやり方だろうか。そうすればより混沌としたコミュニケーションが生まれるだろう。個人的にはその「ゴールの想像ができない」状態に、何だかワクワクしてしまう。

乗ってくる企業があるかどうかは分からないけどね・・・。

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2013年2月19日 (火)

テンション低い

昨日は、朝、別のブログは書いたのだが、その後時間が取れず終わってしまった。

「朝に書く」というのは、意外なほど完了感があるものらしい。別のブログでも、とりあえず書いてしまうと、その後ネタが出てこない。特に今は興味関心の幅が狭まっているため、別の何かを考えるという事が少ない。

朝だとそれでも無理やりネタを引き出す事ができたりするのだが、昼や夜というのはどうもそこまでテンションが至らないようだ。


まぁそもそも昼休みとはいえ仕事の最中に別の事を考えるというのは限界があるのだが。

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2013年2月15日 (金)

しばらくもう一つのブログを軸に据えてみる

今朝はこちらのブログのエントリーをしなかったのだが、別のブログの方を書いていた。

そちらの内容を朝考えることで、頭をそういうモードに切り替える事が、しばらく必要なように感じたのだ。そもそもテーマを絞り込んでいるので、毎朝書こうと思ったら、常にそれなりのアンテナを広げ、頭の片隅で考え続けておく必要がある。

時々頭に浮かぶそれらを、とりあえずこちらのブログに書いてしまうよりは、その方が良さそうに感じたのだ。

という訳で、こちらは昼更新。さて、そうはいうものの、いつまで続けられるだろうか。

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2013年2月14日 (木)

マネージャーの視点

プレーヤーの視点ではなく、マネージャーの視点に立つのは難しい。
実際にその案件においてプレーヤーである場合は特にそうだ。(元々マネージャーの立場であれば、それほどでもないが、それでも難しい事はある。)

自分がどうするかを考えているうちは、プレーヤー視点を抜け出せない。
他人にどうしてもらうかと考えることで、マネージャー視点は生まれてくる。

プレーヤーは、自分がどうするかを考え、そのために自分はこうしますと宣言する。

これは考える方向性としてはそれほど難しくない。難しさはその先の実行の段階にある。

マネージャーは、他人にどうしてもらうかを考え、そのために自分はこうしますと宣言する。
もう少し厳密にいうなら、他人にどうしてもらうかを考え、そのために自分がどうするかを考え、他人にこうして欲しいというメッセージを包含させた上で、自分はこうしますと宣言する。

考えるステップの中に、他人と自分双方の視点が入ってくるのが、マネージャーがある案件においての自分の役割を考える上での特徴だろう。

そういった意味では、実行の難しさは難しさとして、マネージャーにとっては、その前の段階の「考えるステップ」にこそ大きな困難が待ち受けているということだ。

もっとも、マネージャーも役職の一つだから、そのポジションにおけるルーチンがある程度固まっていれば、その筋道に沿って考えていくことができる。ポジションがある程度定まっているということは、他人についてもある程度その類型の中で考えることが可能ということでもある。

その中で考えることは、「マネージャーというプレーヤー」の視点で良いということで、それほど困難ではないのかもしれない。

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2013年2月13日 (水)

今日は残業可能日です

世間的には水曜日というと「ノー残業デー」といった動きがあったりもするのだが、個人的に今日は残業可能日である。もちろん別にしたいわけではなく、あくまでも「可能である」というだけにすぎない。

厳密には時間管理をされているわけではないので(もっと厳密には労働時間としては管理される必要があるのだが、給与には連動しない)、何をもって「残業」とするかは微妙な問題ではあるのだが、まぁ「課せられた時間内にクリアできなかった課題を解決するための延長戦」とでも定義しようか。

当たり前だが、この「課せられた時間」というのは、「締切」という外部要因ではなく(締切に延長戦などない)、自ら課した時間設定である。「(自ら)課した時間内にクリアできなかった課題を解決するための延長戦」とした方が正確かもしれない。

この「自ら課した時間設定」がないと、意識上は「残業」は消失し、外部的なカウントとしての残業「時間」だけが残ることになる。制限時間を外部的な要因である締切だけに頼っていると、そこまでの時間はすべて使えることになるので、ギリギリまで使ってしまう事になり、意識としては「仕事」なのに、時間としては「残業」という状況が生まれてしまうのだ。

残業を「時間」ではなく「意識」として捉えるのは難しい。そもそも辛い。

なぜなら、意識としての残業というのは、敗者復活戦のようなものであり、それはつまり一旦敗北を認める事になるからだ。負けを認めた上で、それ以上の損害を回避するために行うのが「残業」だろう。

今日のような宣言は「これから負け戦に臨みます」と言っているようなものだ。実際したくはないと思っているが、個人的に覚悟はしている。設定時間内に終わらずあふれてしまい、外部制約である締切に間に合わせるために、敗戦処理をしなければならない可能性の高い業務があるからだ。

とはいえ、まだ何とかできる可能性がないわけではない。ようはそのためにどれだけ効率的に時間を使えるかだ。使える時間を増やすのは意味がない。我々は、限られた時間の中で、どれだけ価値を生み出せるかという勝負の中にいるのだから。

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2013年2月12日 (火)

三連休の過ごし方

今年2回目の三連休が終了。考えてみたら1月の連休で雪に閉じ込められてからもう1ヶ月が経ってしまっているのか・・・。

そんな話はさておき、この三連休は結構練習三昧だった。

土曜日は午後にミニクラシックコンサートに向けたアンサンブルの練習
日曜日は午前中が府中のオケの練習で、午後がやはりミニクラシックコンサートに向けた練習

そして月曜日は・・・
午前中にスキー、午後に演奏会を聴き、夕方から夜にかけて上野の森の練習

という、我ながら何やってるんだというスケジュールで動いてしまった。

そんな訳で連休明けのエントリーは、まずはスキーの振り返りから。


一本目は何も考えずに滑る。朝一の人の少ないバーンを大回りで滑るのはとてつもなく気持ちいい。
2013年2月11日 8:16:36 HootSuiteから

二本目はショートターン。緩斜面なので減速動作はしない。エッジがクッと雪面を斬る感じが楽しい。
2013年2月11日 8:22:33 HootSuiteから

三本目はミドルターン。多少内足荷重を意識してみたが、まぁウォーミングアップの遊びだねこれじゃ。
2013年2月11日 8:26:45 HootSuiteから

四本目は外足にはっきり荷重するプルークボーゲン。足に響く。そういえば内足荷重でプルークターンってできるのかな。
2013年2月11日 8:35:29 HootSuiteから

五本目。テールを外に押し出すプルークボーゲン。外足をずらすシュテムターンと原理的には同じはずだが、ボーゲンだと分かりにくい。
2013年2月11日 8:41:43 HootSuiteから

六本目。トップを落とし込むプルークターン。とはいえこのターンは外足をスライドしないのでスピードが落ちない。八の字開脚のパラレルターンみたいなものだ。
2013年2月11日 8:46:42 HootSuiteから

七本目。内足荷重のプルークターンに挑戦してみる。一ターンごとにブレーキをかける必要があるが、まぁ何とかトレーニングとしてできそうな感じ。
2013年2月11日 8:52:12 HootSuiteから

八本目。軽く流しながら上に登るためのリフトをめざす。並走するスノーボードとクロスしそうになって減速のタイミングが取れず少々焦った。下で止まっていた人たちの間を結構なスピードで抜いてしまったので驚かせてしまったかも。反省。
2013年2月11日 8:58:54 HootSuiteから

九本目。緩斜面から中斜面へシフト。こうなるとさすがにプルークターンは維持できない。
さて、ゴンドラで上にあがる事にする。
2013年2月11日 9:09:04 HootSuiteから

ゴンドラ一本目。雪面状態の確認も兼ねてノンストップで軽く流す。といっても距離があるので結構きつい。降りてくると意外と混雑していた。飛ばすのはしんどそうだ(とばすなよ)。
2013年2月11日 9:28:50 HootSuiteから

ゴンドラ二本目。雪が柔らかめで踏ん張りが効かず、スピードが抑えきれない。もう少し抑え気味に滑りたいところ。
2013年2月11日 9:47:15 HootSuiteから

ゴンドラ三本目。ショートターン主体で抑え気味に滑る。かなりしんどいし、汗ばむ。その割にトレーニングにならない。オケでいうと初見大会で楽しいけどあまり身になっていない感じだろうか。
2013年2月11日 10:10:44 HootSuiteから

ゴンドラ四本目。かなり人が増えて滑りづらい。降りてきても人が多いので萎えてきた。そして今から帰れば上野の森の練習の前にフランのコンサートに行けるような気がしてきた。
2013年2月11日 10:30:35 HootSuiteから

リフトの十本目を滑って今日は早々と終わる事にした。フランのコンサートに行けるといいな。
2013年2月11日 10:52:24 HootSuiteから


・・・ということで、お昼どころか11時前には終了し、帰路につくことに。ただ、往復の時間とかかる経費はさておき、こういうスキーのスタイルが自分にはあっているような気もする。イベント的にがっつり滑るというよりは、フラッと行ってちょっと滑るみたいな日常感がある方が楽だし、楽しい気がするのだ。(単に1日滑る体力がないとも言う・・・。)

もっとも、11時あがりというのは流石に早い。人が多くてうんざりしたという事もあるのだが、まぁ昼までというのが妥当な線だろう。ただ、11時にあがるのであれば、午後に予定を組むことも何とか可能である事も分かった。13時は無理だが、14時なら問題ない。昼まで滑れば次は15時以降になってしまうので、それでは午後の予定として組めないのだが、14時であれば多少は遅れるにしても、まぁ予定としては成り立つ。

・・・などと無茶な事を考えながら、まぁそんな予定は組まないであろう。昨日も元々アンサンブル・フランのコンサートは行く予定ではなかったし、予定として組んでしまうと縛られるので、何かあった時の影響が大きい。

さて、三連休の後は、いつもよりも1日少ない仕事の1週間が始まる。この「1日少ない」というのは意外に曲者で、思っていた事が終わらなかったりする。自分の場合、夜の予定が結構埋まっていて、残業でカバーする事が見込めないという条件もあったりするので、気合をいれて臨まなければ。

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2013年2月 8日 (金)

企業の社会貢献活動のあり方

「本業と結びついたCSR」という言葉がある。

言葉がある、という言い方をしたのは、個人的に概念としてはまだしっくりきていないからだが、ここでいうCSRの定義についての議論は別の機会にするとして、ざっくり「社会貢献」と捉えておこう。

(なぜ一般的な「社会的責任」としないかといえば、そうした場合に「本業と結びついた社会的責任」と対になるはずの「本業と結びつかない社会的責任」というのがどうしても思いつかないからだ。一方「本業に結びつかない社会貢献」であればいくらでも考えられる。そもそも、結びつかないものが多いから結びついたものをめざせというのが、冒頭の言葉の真意だろう。)

なぜ本業と結びついていなければいけないのだろうか。

よく言われるのが、本業に結びついていない(本業にメリットをもたらさない)社会貢献は、本業の不振の影響を受けやすく、持続的でないというものがある。

でもこれは実はちょっとおかしい。企業というのは、本業であっても不振であれば切り捨てる意思決定をするものだ。もちろん、そうならないための努力は最大限行われるが、程度の差はあれ、何らかの形で事業に結びついている事が、その活動の持続性を担保する訳ではない。むしろ、結びついているからこそ一蓮托生とも言える。

企業のガバナンスとして、利益に結びつかない活動は説明責任を果たせないという理屈もある。

しかし、単独で利益を生み出せれば、それは立派に一事業である。また、事業の中には単独でメリットは生み出せなくても、他の事業との組み合わせなどにより、企業トータルでメリットを出している場合もある。では、社会貢献活動はそうした「事業」の一つとして考える事はできないのだろうか。

そもそも「ガンガン稼いでその利益を社会貢献につぎ込みます」という意思決定はあり得ないのか、という気もする。会社の利益は、原理上は出資者のものだから、そこでは企業というよりも出資者(一般的には株主)の思惑が大きく影響するかもしれない。

身も蓋もない捉え方をするなら、株主に利益の一部を分けてもらうためにある口実が「本業と結びついた」にあるとも言える。本業にメリットをもたらす=出資者の利益を損ねない、という構図がなければ、その意思決定を受け入れてもらうのは難しいからだ。

でもそんな言い訳みたいな話で良いのだろうか。

「本業には結びついた社会貢献」という考え方にやや疑問を感じてしまうのは、その活動を企業が行うことに対する動機や理屈が「本業に結びつくこと」で良いのだろうか、と考えてしまうからだ。活動の社会的価値やその必要性が明確に誰にでもストンと落ちるものなら、そうはならないのではないか。逆にそこまで突き詰められていないから、「本業に結びついた」に逃げてしまっているのではないか。

「本業に結びつけばそれで良いのですか」そんな意地悪な事を考えてしまったりするのだ。

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2013年2月 7日 (木)

CSRコミュニケーションと消費者

「CSRコミュニケーション」というものがあるとするならば、そのあるべき姿というのは「企業とステークホルダーとのコミュニケーション」ではなく、企業をハブとした「ステークホルダー同士のコミュニケーション」だろうというのが個人的な持論だ。
SRにおけるCの役割は、その関係を生み出すことにこそあるのではないかとさえ考えている。

なぜなら「利害関係」は、企業とステークホルダーの間で生じる関係ではなく、企業というプラットフォーム上で異なるステークホルダー間に生じる関係だからだ。消費者と従業員しかり、株主と従業員しかり、時には株主同士、消費者同士でもそうした利害関係は発生し、その解決のためにこそコミュニケーションが必要になる。

特に消費者は、その構成の多様さから、もっとも内部での利害対立が生じやすいステークホルダーである。例えば「高くても環境配慮」を求める消費者と「そんなの良いからとにかく安さ」を求める消費者は、その要求において対立している。そう見えないのは、間に企業を挟んでいることにより、両者とも「企業と利害が対立している」と受けとめてしまっているからだろう。

もちろん企業にはその対立を解消していく新たな道を模索する役割と責任がある。そもそも企業はその中で自らの成長の糧を得てきたのだ。


・・・昨日の清掃活動が延期された結果、今朝は時間がないので、別のブログ用に途中まで書き連ねていた内容を、文体だけ変更して掲載。続きは夜に書けると良いなぁ・・・今日はカウントボランティアだけどね。

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2013年2月 6日 (水)

発信する必要性と隠したい理由

今朝は会社の清掃活動が予定されているのだが、当然の事ながら明日に延期になる。こればかりは仕方が無い。

昨日は久しぶりに会社のブログを書いた。身も蓋もない評価をすれば、特に明確な目的とか、伝えたい内容があった訳ではなく、割り切りで書くようなエントリーだ。

・・・が、そういえば、それで何が悪いのか、とも考えている。元々あのブログは「正しい情報」や「どうしても知って欲しい情報」を発信するためではなく、「日々の様子を雑談のごとく伝える」事を目的の一つにしていたはずだからだ。

なぜかというと、そうした雑多な情報の積み重ねが、親しみと信頼を形成するという想定をベースにしているからだ。メインストリームではない周辺情報の広さが信頼形成の基盤になるというモデルだと考えてもよい。

そういう意味では、手抜きであってはいけないが、意図をもって内容を厳選するような必要はない。昨日書いたようなプレッシャーは、発信する内容を選ぶということを無意識にするようになった事から生まれてきたのかもしれない。

「それって発信する必要あるの?」という質問は、情報発信の際に気をつける必要のある最大の障害だ。

確かに発信には意図が必要だが、それはその情報単独で見た場合の話で、個人や組織の発する情報の全体像から見た場合、実は本筋から外れた他愛のない発信が果たす役割は小さくない。それは特に個人同士のコミュニケーションを見ていれば分かる。

「おはようございます」それって発信する必要あるの?
「雪の様子はどうだった?」それって仕事に関係するの?
「お子さんは学校行けた?」だから何?

会社の事業に、従業員による清掃活動なんて関係ない。社内的な事情だから、外部の人には伝えても意味がない・・・それはつまり「相手とコミュニケーションするのに、自分自身の話は関係ない」というようなものだ。

「それって隠したい理由があるの?」

必要なのは、そういう質問なのかもしれない。隠したい情報は、もちろん個人同士のコミュニケーションにおいても「隠される」ものだ。

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2013年2月 5日 (火)

ブログのプレッシャー

ここしばらく会社のブログを書いていない。

忙しさにかまけて・・・というのは単なる言い訳だ。書くためのネタが思いつかず、書くためのネタを作り出せていないのだ。

そういうものだと自分を納得させてしまうのは、仕事を放棄するようなものだろう。

とはいえ、苦しいとは感じている。変な話だが、スランプと言っても良いだろう。そういう時に何とかできてこそ、仕事としてのクオリティが確保されている事になると思うのだが、それができないというのは、結局今までの積み重ねは何だったのかという事でもある。


正直にいえば、まったくネタがない訳ではない。
ただ、それを書くことはマンネリだと感じている。

実際には、大半の読み手にとってはそんな事はないだろう。毎年の事でも昨年の話をそうそう覚えている訳ではないし、仮に覚えていてもそれは「ああ今年もその時期がきたのね」となるだけだ。多分、書き手が感じるほどのマンネリ感はないだろうし、仮にあったとしてもそれが反発や嘲笑につながる訳ではない。
(実際、マンネリを逆手にとったようなエントリーをしていたこともある。)

しかし、それでも書き手としてはやや限界を感じている。プレッシャーと言っても良いかもしれない。自分としてはかなり珍しい感情だ。

案外ブログが続くかなくなる時ってこういうものなのかもしれないなぁ・・・。

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2013年2月 4日 (月)

休日の過ごし方

土曜日はいつものようにスキーに行くつもりだったのだが、天気予報と前日夜の天気で気持ちが萎えてしまい、準備をしなかったため、予定を切り替えて練習をした。弦を張り替えたので慣らす意味もある。
もっとも、スキーに行ったとしても練習はするので、その時間が多少伸びたという程度ではあるのだが。

それでも、一通りさらうつもりが時間が足りなくなってしまった。さらわなくても弾けるであろう曲までさらうので、無駄に時間をかけている面はあるのだが、かけられる時間を考えればやや抱える曲数がキャパオーバーという事はあるのだろう。まぁそれは仕方ない。
(などと書きつつ、さらに増えることが決まってしまった・・・。)

日曜日の府中の練習は前中プロの分奏。何とか弾けるようにはなるだろうという感触は得られつつあるが、まだ周囲を気にする余裕はない。分奏が助かるのは、そうした余裕を作ってくれることだ。他の弦楽器の音が聴きやすかったり、抜けている管打の音をイメージで補わなくてはならなかったりすることで、音楽の構造が少しずつ頭に入ってくるようになる。

午後はミニクラシックコンサートに向けたアンサンブルの練習。こちらは少し余裕があるので、色々考えたり、他のパートに注意を払ったりできるようになってきた。本番での難しさはまた別の話だが、こうなってくると練習も楽しくなってくる。願わくば定期演奏会の曲についても、早くそういう状態に持っていきたいものだ。

さて、今週末の土曜日はまたアンサンブルの練習がある。日曜日は府中の練習で、その翌日、休みの月曜日にスキーに・・・と言いたいところだが、やや微妙な状況になってきた。まぁそれはまた週末に考えよう。

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2013年2月 1日 (金)

起こさない事よりも起きた後の事を考える

体罰については最近エントリーしたばかりなのだが、まだまだ世間をにぎわしているようなので、もう少し考えてみる。

部活動での体罰にしても、女子柔道の体罰にしても、多くの場合に共通しているのは「する側にはそういう認識がなかった」という点だろう。

これはいじめやセクハラ、パワハラにも似ている。「する側はそう思っていない」という視点は、今後の再発を防ぐために重要な気がする。

いや、再発を防ぐというのは少し違うかもしれない。大切なのは「次に起きた時にどう対処するか」その手順を決めることなのではないだろうか。

人権侵害は「起こらないものとして起こさない方法を考える」のではなく(それはもちろん重要だが)、「起こりうるものとして起きた時の事を考えておく」事が重要だと聞いたことがある。

起こさない方法に力を注いで、起きてしまったら起きてから考える。

のではなく、

起きてしまう前提で、起きた後の手順を決めておく

では何が違うのか。

決定的に違うのは、主導権が「する側」から「される側」に移ることだ。

「起こさない」対策というのは、する側に委ねられている。「体罰はやめましょう」という掛け声が最たるものだ。でもこれはちょっと考えれば無意味以外の何物でもない。何しろする側にはそれが体罰であるなんて意識はないのだから。

する側には、それが何かを判断する能力なんてないのである。それが何かを判断することができるのは、される側だけだ。

だから、された側がどうすれば良いかを決めておく。もっというと、された側が何をすると何がどうなるという所まで決めておく。 もちろんされた側の保護がどのように行われるかという事も含めてだ。

と、このようにすると「思いきった指導ができなくなる」といった話が出てきたりするのだが、それは起きているかどうかの判断基準と、最終的に起きているとされた場合にどうなるかというのが事前に決まっていないからだ。「思いきった指導」というのは、指導側としてリスクをとるという事でもあるのだから、起きうることを頭にいれて実際にするかしないかを決めればよい。

それがないから「体罰と思っていなかった」という頓珍漢なずれが発生する。体罰とされるリスクを踏まえて踏み込むか踏み込まないかは、互いの信頼関係やその時の状況判断だろう。その時に受ける側にも対等の対抗手段がなければ不公平というものだ。

これは「救済」というよりは「仲裁」の考え方に近い。体罰を受ける側を弱者として救済するのではなく、双方の関係のこじれを修正していくための手段だ。そのためには、受ける側にも相応の力が必要になる。それが事前に定められた手順ということだ。

言い方は悪いが、殴られた時に、それが体罰と判断されれば(自動的に)別の手段で等しく殴り返せる仕組みを作るという事になるだろうか。する側からすれば、「殴った時に相手が体罰と感じたら自動的に殴り返される」仕組みと捉えても良い。

今はそれが自動的に(つまり事前に決まった手順として)行われないから、殴られた側が色々がんばらないと殴り返せないし、殴り返す強さもまちまちになってしまう。入試が中止になってしまったり、辞任騒動や国際的な話題になってしまったりもするのは、その辺りにも理由があるのではないか。


もっともこれはいわゆる「指導としての」体罰の話で、そうしたルールをくぐり抜けて行われる「いじめとしての」体罰については防げないかもしれない。その辺りは別に考える必要があるかもなぁ・・・。

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